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中道はわからないけれど / potanpotan
二者択一・・生かすかCENSORED
生きるか死ぬか

こういうあり方はすごく人間的だなと思います。
断片に同一するからですが・・

自然のありようを見ていると

両方生かす
全部生かす

生かすためにはどうするか

これが自然の創造性の基本のように思えます

あなたも生きる
私も生きる

自己犠牲でもなく
抑圧でもなく
支配でもなく
克服でもなく

「道を探す」

それが創造のしくみの原点なのだと思います

その全部を生かす「視点」が中道なのではないかなと
勝手に思いましたが・・どうかな。。。

中道にはきりがない

悟りきるということはない

現に自然自体・・

創造の営みをし続けている

生きるということはたぶん無数の対立経験をしてゆくことのように思えます。

自由を得たなら、不自由との葛藤
悟りを得たなら、凡人との葛藤
何もかもなくそうとしたなら、何もかもなくせないという葛藤
空想に生きるなら現実との葛藤・・
まあとにかくどこにどういっても
何をどう得ても、そこには葛藤が存在しているように思えます。

だからこそ、命だし、だからこそ、より生きるのだし、
だからこそ、営みなのだし、だからこそ、視点の上昇もあるのだし・・・

変調は・・葛藤関係の中の視点の上昇
あるいは、偏りのポジション移動
そんなことかもしれないです。

No.147 - 2008/01/18(Fri) 11:35:27

Re: 中道はわからないけれど / potanpotan
ふつうに生かしあえていれば・・
意識にも上らず・・自然ですからね。。

No.148 - 2008/01/18(Fri) 11:38:17

Re: 中道はわからないけれど / ubik0101
そうですね。世界はある、と言っても、ない、と言っても、どちらでもあり、どちらでもない、どう言っても間違いです。それでいて総てが活動し不思議に秩序があり自然です。

>変調は・・葛藤関係の中の視点の上昇
>あるいは、偏りのポジション移動
>そんなことかもしれないです。


そういうことを感じるって、凄く敏感だと思います。

>ふつうに生かしあえていれば・・
>意識にも上らず・・自然ですからね。。


たとえば、ありのままでいて、ありのままなんて言うの、奇妙です。そうでないから言える。なら、それは、既知の、ありのままでしょう。自然とか、素直とか、天真爛漫とかも。そうならば、その対概念が見えます。そうならば、ありのままという空想と気づいてない空想です。

そうでないなら、なんであれ言葉にならないことに、自然とか、現実とか、世界とか、素直とか、名前をつけただけです。名前をつけなくても、それです。それで名前をつけても、それです。

なんか中国の禅の六祖、恵能の言葉「善を思わない悪を思わない、まさにそのとき君自身はどうなんだ」。を思い出しました。

No.152 - 2008/01/18(Fri) 17:23:31
自然との対話 / potanpotan
以前こんなふうに空想したことがありました。

私(自然)を利用するものを私(自然)は利用する
私を愛するものを私は愛する
私を拒むものを私は拒む
私を制圧しようをするものを私は制圧する
私に与えるものに私は与える
私にすべてを捧げるものに私のすべてを捧げる
私を知ろうとするものに私は教える
私を見ようとするものに私は見せる



ubikさん調子はいかがですか
私はこのところ風邪で久しぶりに寝込んでいました。
変調する前、大抵病気をします。

No.133 - 2008/01/17(Thu) 23:31:27

Re: 自然との対話 / ubik0101
potanpotanさんの言葉、
なんか夜に昼の世界が見えるようです。

以前こんなふうに空想したことがありました。

私(君)が憎しむことは私(君)を愛すこと
私が怒ることは私を愛すこと
私が悲しむことは私を愛すこと
私が喜ぶことは私を愛すこと
私が妬むことは私を愛すこと
私が恨むことは私を愛すこと
私が葛藤することは私を愛すこと


私が愛すことは私を愛すこと

と、ところで。その変調のこと、
もっと話したいのじゃないでしょうか。

No.135 - 2008/01/18(Fri) 08:31:26

Re: 自然との対話 / potanpotan
ubikさんの言葉も見える気がします。
全てがそうなっている
どうあってもそうなっている

変調というと大げさでしたか・・
環境や流れや風向きや・・
そんな変化の前には自己調整するかのように
ぐーっと引き下げる自分の中をさら地にするとは言わないけれど・・ゼロにするというか・・
弾き始める前の調弦・・

昨日の夕方くらいがピークで今すこしずつ浮上しているところです。
エネルギーがよわーいpotanpotanです。

No.146 - 2008/01/18(Fri) 11:19:24
残響のような自我? / 大阪
うびさん、それにみなさん、今年もよろしくお願いします。

うびさん質問させて下さい。

あの体験での自分と日常の自分を較べて、何が違うんだろうって考えてたんですが。

「感じる為に生きてる」(為に、って変ですが)



「知る為に生きてる/知ってると知る為に生きてる」

というような違いがあると思いました。

もしかしてこれが自我でしょうか。

あの体験を理解しきってないから、そんな自我が発生してしまうのでしょうか。

No.70 - 2008/01/11(Fri) 19:13:15

Re: 残響のような自我? / ubik0101
たぶん意識は、なにかを知ることができると思うだけ、と思います。もしかして、かなり変な言い方と思うのですが、意識に、知るという機能は、もともとないのじゃないかと思います。あの体験でなくっても。ふつうの日常でも、感覚だけが機能してる「感じる為に生きてる」と呼べると思います。そうであれば思考も邪魔にならないと思います。

なにか空想したりして、人が心理的に今の現実にいなければ、また何かを比較したりするなら、知るという機能が働くようです。それは「知る為に生きてる/知ってると知る為に生きてる」とも表現できます。それは自我の機能。というより、それを自我の機能として、判断することができる、だと思います。知識や技術、それを使ってる最中は、とくに自我とは呼べません。

あの体験を感じようとして、残響のような自我が発生するのですが、ひとつにはやはり、あの愛や真理や自己を理解しようとするために、そうなるのだと思います。けど。それは意識の対象ではありません。そのことを了解すること。それは、そうしてる残響のような自我の機能を理解する、という意味もあります。また。あまりに当たり前なので、なかなか見るのが困難ですが、中道も正確に理解すべきことと思います。

そういえば散歩してると、中島川に、セキレイが飛んできて。その素早い動きに惹き付けられ、セキレイと「私」と不可分でした。世界もそうであり、「私」と不可分です。それは事実として完全な分離でも、完全な不分離でもありません。つまり完全関係・完全無関係なら、知覚・感覚できないと思います。

それで、その事実としての分離でも分離でもないを、ことさら心理的な働きとして、たとえば他人と仲良くしようとしたり反発しようとしたり、人のために働こうとしたり働かなくあろうと機能させると。つまり分離を分離として強調して意識させられると、おなじことですが解消しようとしたり融合しようとしたりすると、自我になりやすい、と思います。というよりそういう片寄って集中させる機能を、自我と呼ぶのだと思います。それはとくに否定すべきことではありません。

もし分離を排除しようとすると、つまり否定しようとすると、それも心理的な分離と思います。もちろん融合しようと、つまり肯定しようとしても心理的な分離です。 事実は中道であり、否定も肯定も、事実から離れています。それは多分、空想が働かなくては、ほとんど不可能と思います。たとえば今こことか、ありのままとか、そういうことも空想になりえます。

それで、というわけでもありません。とくに、なんもない日常生活をしています。善悪とか、素直とかも生起しない・・・それを素直と呼ぶのですが・・・そのなにもない、それゆえ、学ぼうとしたり、仲良くしようとしたりしても、人のために働こうとしても、それを否定することも肯定することも必要なく、無問題と思います。

No.72 - 2008/01/11(Fri) 21:01:57

Re: 残響のような自我? / 大阪
> たぶん意識は、なにかを知ることができると思うだけ、と思います。

そこの所をきっちり理解しきりたい、ということなのかな、と思ったんです。
未知を知りたいのかな、って思ったのです。

> あの体験を感じようとして、残響のような自我が発生するのですが、ひとつにはやはり、あの愛や真理や自己を理解しようとするために、そうなるのだと思います。けど。それは意識の対象ではありません。そのことを了解すること。

「意識の対象ではありません」難しいです。
意識で捉えられるものではなく、意識もそれらの一部、とか意識が対象とされている、ということでしょうか。

>また。あまりに当たり前なので、なかなか見るのが困難ですが、中道も正確に理解すべきことと思います。

中道、今は全く理解出来そうにない感じがしますが、良く考えてみます。

> そういえば散歩してると、

ここからは中道を理解してないことによっておきる苦痛の説明なのでしょうか。分離、は初めてです。別の考え方で接してはいたかもしれませんが。

> それで、というわけでもありません。とくに、なんもない日常生活をしています。

満たされた毎日なのでしょうか。よく、女の人の思考というか生き方が羨ましく思えます。自分の心を楽しんでいるように見えるからです。かと思えば、とても不幸な生き物に見えることもあって、難しいです。

No.78 - 2008/01/12(Sat) 15:19:37

Re: 残響のような自我? / ubik0101
> > たぶん意識は、なにかを知ることができると思うだけ、と思います。

> そこの所をきっちり理解しきりたい、ということなのかな、と思ったんです。
> 未知を知りたいのかな、って思ったのです。


それはもう、ただの事実です。たとえば無知(無明)による欲望とか自我が機能してることは・・・なんであれ対象や自分を知ってると見なしてることであり・・・そこには過不足があり・・・そうであって欲望や自我は機能するのではないでしょうか。説明としては。ありありと、過不足なく生きてる、それで、知らないです。

> > あの体験を感じようとして、残響のような自我が発生するのですが、ひとつにはやはり、あの愛や真理や自己を理解しようとするために、そうなるのだと思います。けど。それは意識の対象ではありません。そのことを了解すること。

> 「意識の対象ではありません」難しいです。
> 意識で捉えられるものではなく、意識もそれらの一部、とか意識が対象とされている、ということでしょうか。


もっと単純です。あの体験、あの愛や真理や自己を、思い出せない、再現できないと思います。つまり意識の対象にはなりません。それを微かに空想としてでも対象にしようとするから、苦痛であり、残響のような自我が機能せざるを得ないと思います。そこで、まったく意識されないのに、変容した自分。たとえば無明が転換した智恵。貪らないこと。などがあります。

> >また。あまりに当たり前なので、なかなか見るのが困難ですが、中道も正確に理解すべきことと思います。

> 中道、今は全く理解出来そうにない感じがしますが、良く考えてみます。

あの体験の状態、それは中道そのものです。

> > そういえば散歩してると、

> ここからは中道を理解してないことによっておきる苦痛の説明なのでしょうか。分離、は初めてです。別の考え方で接してはいたかもしれませんが。

たとえば自分と他人、自分と環境、自分と思考、それらは互いに分離(独立した個物)である、ない、どう言っても誤りです。なのに分離してると見なすなら、また不分離と見なすなら、それは 片寄りで、中道ではありません。それが自我として機能します。とりあえずはですが。なにかを否定しようとしたり肯定しようとしたりすることは片寄りとして機能しやすいのです。

> > それで、というわけでもありません。とくに、なんもない日常生活をしています。

> 満たされた毎日なのでしょうか。よく、女の人の思考というか生き方が羨ましく思えます。自分の心を楽しんでいるように見えるからです。かと思えば、とても不幸な生き物に見えることもあって、難しいです。

これも満たされてるとか満たされてないとか、どう言っても誤りです。過不足がないということです。知らない、ということです。ごく普通の日常の自分の状態を、そのまま見れば、実感すると思います。

No.79 - 2008/01/12(Sat) 17:56:30

Re: 残響のような自我? / 大阪
>ありありと、過不足なく生きてる、それで、知らないです。

確かにあの体験では、必要な物であり、またあると最高な物が既に手に入っている、と感じて、それまでの人生やこれからも過不足はない、と思いました。
だけど、そう頭では分かってても、何か求めてしまっているのです。
それを終わらせたいと思うのです。

> もっと単純です。あの体験、あの愛や真理や自己を、思い出せない、再現できないと思います。つまり意識の対象にはなりません。それを微かに空想としてでも対象にしようとするから、苦痛であり、残響のような自我が機能せざるを得ないと思います。そこで、まったく意識されないのに、変容した自分。たとえば無明が転換した智恵。貪らないこと。などがあります。
>
> あの体験の状態、それは中道そのものです。


あの体験で最初に起きたことが中道、でしょうか。
あの体験での愛を再現できなくとも、中道は理解することで再現できるのでしょうか。
確かあの時は、善悪を考えることよりも、自分は、自分たちは善だ、という感じだった。善悪を考えることは、どちらかと言うと悪だった。そんなことより善でいることを喜んでいた。気がする。
でも今は、善悪を気にしてるように思える。

> これも満たされてるとか満たされてないとか、どう言っても誤りです。過不足がないということです。知らない、ということです。ごく普通の日常の自分の状態を、そのまま見れば、実感すると思います。

うーん。ごく普通の日常をそのまま見れば。過不足がない、と、知ろう、とする自分がいるような気がします。

No.83 - 2008/01/12(Sat) 20:56:06

Re: 残響のような自我? / ubik0101
> だけど、そう頭では分かってても、何か求めてしまっているのです。
> それを終わらせたいと思うのです。


それはなにか苦痛だからでしょうか。なら、いつも言うことですが、あの体験で見たことを、架空の人に対してでもいいので、教えるつもりで、詳しく言葉にすること。書いて忘れるほうが簡単です。あの体験は、あっちから、のことですが、それを理解する修行は、こっちから、することです。両方必要です。

それは自分で理解できると思います。いや。ほかの誰もできません。いつでも、そのようである、そのままの、その自分の状態、思考を正直に言葉にしていけば、理解は自然に進んでいきます。徹底しないと、いつまでたっても苦痛です。

> あの体験で最初に起きたことが中道、でしょうか。
> あの体験での愛を再現できなくとも、中道は理解することで再現できるのでしょうか。


あの愛を感じない、その感じない自分を、そのまま認めれば、それだけですみます。感じても感じなくても、問題ありません。野山に咲く花、それを摘むことは欲望なのかもしれません。

中道は、再現と言うより、日常が中道でしかありません。この不思議な世界のほか求める必要はありません。それをどう理解するかは個人の問題だし、いろいろあるから人に学べるのです。

> 確かあの時は、善悪を考えることよりも、自分は、自分たちは善だ、という感じだった。善悪を考えることは、どちらかと言うと悪だった。そんなことより善でいることを喜んでいた。気がする。でも今は、善悪を気にしてるように思える。

どこにも概念としての善悪などありません。あると見なしてるだけです。そのときどきに、できる範囲で、実際に悪いことをせず、善いことをすればいいだけです。シャカリキになって奉仕活動をする必要もありません。

> うーん。ごく普通の日常をそのまま見れば。過不足がない、と、知ろう、とする自分がいるような気がします。

ほかの人、たとえばubik0101の言うこと、などを空想しなければ、そんな自分なんて最初から、いません。天上天下唯我独尊。こそ無我と言われます。

No.85 - 2008/01/13(Sun) 08:26:26

Re: 残響のような自我? / 大阪
> いつでも、そのようである、そのままの、その自分の状態、思考を正直に言葉にしていけば、理解は自然に進んでいきます。徹底しないと、いつまでたっても苦痛です。
>
> あの愛を感じない、その感じない自分を、そのまま認めれば、それだけですみます。感じても感じなくても、問題ありません。野山に咲く花、それを摘むことは欲望なのかもしれません。
>

こう言って頂いて、なんか、助けられました。
愚かなことに、苦しんでいないといけない、とか、苦しんでいる姿こそ正しい、というような意識があったようです。
自分を、自由を追いかけさせることで不自由にしていた、感じです。

> 中道は、再現と言うより、日常が中道でしかありません。この不思議な世界のほか求める必要はありません。それをどう理解するかは個人の問題だし、いろいろあるから人に学べるのです。
>

中道に関して質問です。

例えば、ある人が世界を眺めて美しい、と感じる。そこへ父親が疲労しきった姿で仕事から帰って来る。彼は、あぁ世界を幾ら眺めても、腹の足しにならないし、両親に恩返し出来ない。そういって世の中の辛さをなげき、自分の仕事に戻る。
コレは破滅の道でしょうか。蟻地獄に自分から飛び込むようなものでしょうか。

そうではなく。ある人が世界を眺めて美しい、と感じる。そこへ父親が疲労しきった姿で仕事から帰って来る。彼は、あぁやはり世界は幾ら眺めても、美しい。父の仕事を奪ってはならない、といってお風呂に湯をはった、または仕事に戻った、また何もしなかった。
コレは中道でしょうか。

> ほかの人、たとえばubik0101の言うこと、などを空想しなければ、そんな自分なんて最初から、いません。天上天下唯我独尊。こそ無我と言われます。

なるほど。

中道を歩む人を天上天下唯我独尊、と表現するのでしょうか。いや。天上天下唯我独尊、という状態でしかいられない自分を確認することが、あの体験を理解して捨てる修行なのでしょうか。

No.112 - 2008/01/15(Tue) 19:03:22

Re: 残響のような自我? / ubik0101
> 中道に関して質問です。

>例えば、ある人が世界を眺めて美しい、と感じる。そこへ父親が疲労しきった姿で仕事から帰って来る。彼は、あぁ世界を幾ら眺めても、腹の足しにならないし、両親に恩返し出来ない。そういって世の中の辛さをなげき、自分の仕事に戻る。

>コレは破滅の道でしょうか。蟻地獄に自分から飛び込むようなものでしょうか。

うーん。なにを質問してるか???なので、こっちから質問してみます。

恩返ししようとして経済問題しか思いつかない、優しい言葉とかを言えない自分が問題だ、という質問なのでしょうか。

たとえば「父親が疲労しきった姿で仕事から帰って来る」ということと「両親に恩返し出来ない」または「そういって世の中の辛さをなげき、自分の仕事に戻る。」ことを強く関係づける、理由づけるということが、欲望なのでは?という質問なのでしょうか。

「なげき」ということが問題?という質問なのでしょうか。

あるいは自分だけ美しい世界を眺めてるのではなく、たとえば疲労しきった「父親」にも、そうであって欲しいということなのでしょうか。

>そうではなく。ある人が世界を眺めて美しい、と感じる。そこへ父親が疲労しきった姿で仕事から帰って来る。彼は、あぁやはり世界は幾ら眺めても、美しい。父の仕事を奪ってはならない、といってお風呂に湯をはった、または仕事に戻った、また何もしなかった。
>コレは中道でしょうか。


これは、余計なことを考えずに、そのとき、その場で、できることをした。それが中道にあるということ?という質問なのでしょうか。

なんにしても、これが中道、これが中道でない、などと考えること、空想すること。そのことが問題のようです。中道という概念を求めることでは不可と思います。中道とは仏陀の言う縁起の理解にほかなりません。それは縁起という概念も認めません。また縁起、それは空の理解にほかなりません。

http://kukan.syudo.com/index2.html

>中道を歩む人を天上天下唯我独尊、と表現するのでしょうか。いや。天上天下唯我独尊、という状態でしかいられない自分を確認することが、あの体験を理解して捨てる修行なのでしょうか。

おなじように。これも空想しないこと。天上天下唯我独尊という言葉の意味も、空想しないこと。それだけではないでしょうか。

No.113 - 2008/01/15(Tue) 20:36:27

Re: 残響のような自我? / 大阪
> あるいは自分だけ美しい世界を眺めてるのではなく、たとえば疲労しきった「父親」にも、そうであって欲しいということなのでしょうか。
>

思いやりのない文章でスミマセン。

自分が幾ら世界を美しいと思ったところで、「父親」はそうじゃありません。苦しい世界しか見えないと思います。

だから、世界が美しく見えることを「腹の足しにならない」と言って、否定して「父親」や世間の苦しみを一緒に背負おうとする。

それで「父親」を何か経済的にでも楽に出来たとしても、そうすることは、僕には破滅の道に思えます。

そうじゃなくって、世界が美しく見えることを「父親」にもわかって貰うために、仕事に戻っても、お湯を張っても、何もしなくてもその「父親」の苦悩を一緒に背負わない。だから本当は「父親」の仕事は苦しいものではなくて、父親の喜び。

こんな風に捉えることが中道なのでは、と思っているのです。

この僕の捉えかたはあっているか、間違っているか、という質問でした。それをずるく、聞いたのです。

とても情けないことに、自分でも何が聞きたいのか不明でした。

> http://kukan.syudo.com/index2.html

むず。じっくり読んでいきます。

> おなじように。これも空想しないこと。天上天下唯我独尊という言葉の意味も、空想しないこと。それだけではないでしょうか。

どんなことも空想するな、ということでしょうか。
そんなこと出来るのでしょうか。

No.121 - 2008/01/16(Wed) 20:06:28
抑圧の件 / ルー
「ゲストブック」からの続きです。

「抑圧しようとして声をかける人」という読み方は、間違っています。
「自分で自分を抑制するのが当たり前になっている人」であり、そういう人の中には、そのやり方が良いと思い、他の人にも「自分で自分を抑制すること」を勧める人もいるのかな?という話です。

それは、疑問であり、「そういう人がいる」という話ではありません。

peerさんの実態については、私は知りません。

No.68 - 2008/01/11(Fri) 12:49:27

Re: 抑圧の件 / peer
はい。私も疑問の確認で、お尋ねしました。

「感情を表出している人を見かけると、黙っていられない」という表現に対して・・・ですが。

「感情を表出している人」が、ルーさんで
「見かけると、黙っていられない」が、私なのかな。と。
なんとなく、掲示板で「ぶつかった」私たちの状態を
ルーさんは、そのように感じている、、、のかな。と。
つまり、ルーさんを抑圧しようと、の行為である、と。

そうであるなら。
私の「勘違い」は、解消しましたから、ルーさんが、私をどう見ているのか、も意味のないことではない・・・
そこからも、いままでのスレチガイの原因を探れる。かもしれないと、考えています。

No.69 - 2008/01/11(Fri) 13:14:39

Re: 抑圧の件 / ルー
あちらの掲示板に書くと、ubikさんがアーカイブに入れるという作業をしなければならないので、私は、書きたいことがあれば、こちらに書きますね。

私は、スレチガイとは感じていないです。
どうして、書かれてあることをそのまま読んでもらえないのだろうかという疑問がありましたが、あちらの掲示板に書かれた最新のものを読んで、何となくわかりました。

人を試す必要は感じられませんし、理解への方向があるだけです。
感じたことを素直に表現しても(されても)、受け取り方がわからないのではないですか。
自分にはどうしようもないというか。
自分を振り返るということが、できないのではないですか。

No.87 - 2008/01/13(Sun) 09:55:52

Re: 抑圧の件 / ルー
書いてみて、何か、またピッタリしないものを感じました。

古い掲示板の方で、ずっと前にpeerさんが書いていたことですが、理不尽な怒りをぶつけられた時の対処方についてのことで、「相手の怒りの原因を知ろうとするのは、自分の時間を浪費することになるので、かなり選択しにくい」と、ありました。
何となく、私は、そのへんのことだと睨んでいます。

相手の事情には関心がないのではないかという疑問です。

自分の気持ちを表現することは、大事なことだと思います。
自分のためにも、相手のためにも。
不機嫌な態度をとったのは、「人を試すため」なのでしょうか?それは、peerさんが勝手にそう思っているだけかも知れませんよ。確かめたわけではないのでしょう?
私も、peerさんとのやりとりで、勝手に「試している」とか思われていたのなら、とても気持ち悪いです。

No.88 - 2008/01/13(Sun) 10:11:04

Re: 抑圧の件 / peer
あれは、思春期の少女の話し・・・です。
ルーさんを対象には、していません。よ。
そこの所、誤解のないように願いますね。

ルーさんは、不機嫌でもなく・怒ってもいない。
ということですから、別の話です。


で「ルーさんを抑圧しようと、の行為である、と。」
の方は、どうなんでしょう。
んんんー。それは「ない」ということで宜しいのでしょうか。

抑圧する。というのは、たしか、力関係がある。
と書いた記憶があります。
私たちの間には、力関係は、ありませんよね。
それこそ。対等な普通の人間と人間で。
力を使って、どちらかが、相手を従わせることなど
ありえないこと・・・ですからねぇ。

No.92 - 2008/01/14(Mon) 00:05:06

Re: 抑圧の件 / peer
こういうことは、して欲しくない。
と言われて「わかりました」と応えて。
それで、本来なら終わったモノでした。

そのうちに、なんだかコントロールの話が入り。
「コントロールしたいのか」
みたいなコトになって・・・。
「どこか、安全な場所で、自分の深い傷について話されたらどうでしょうか。」となり
「「私の中に問題が見えてしまう自分」というものと向き合えばいいと思います。」となって。
理論で防衛している・・・とか言われ。
どこが防衛なのかも、理解できず。

話がどんどんスレチガイになって行った。
と私は、感じているのです。
ルーさんが、スレチガッテイナイ。と言うなら。
徐々に私の勘違いが、膨れて行った。ということ
ですよね。
それで、いいなら、、問題ないです。

No.93 - 2008/01/14(Mon) 00:20:30

Re: 抑圧の件 / ルー
「ルーさんを抑圧しようと、の行為である」これは、全然違います。
peerさんは、peerさん自身を抑圧しようとしているのではないか?ということです。感情をです。
それから、防衛は、「傷つかないように防衛している」という意味です。
私が今まで書いたことは、掲示板に残っているので、その言葉のまま読んでみてください。他の意味はありません。
「どうしてほしい」とか気持ちを込めていたりもしません。
力関係のことは、peerさんがsuhoさんとの会話の中に書いていたことです。「力のある人は抑圧に回ります」とかいうログだったと思います。

No.94 - 2008/01/14(Mon) 00:38:33

Re: 抑圧の件 / ルー
「自分で自分を抑制する」というのが、わかりにくいですか。自分で自分を傷つけるというのはわかるんですのにね。
No.95 - 2008/01/14(Mon) 00:41:04

Re: 抑圧の件 / ルー
peerさんは、私がpeerさんを抑圧しようとしているとは感じませんでしたか?
No.96 - 2008/01/14(Mon) 00:42:35

Re: 抑圧の件 / ルー
> あれは、思春期の少女の話し・・・です。
> ルーさんを対象には、していません。よ。
> そこの所、誤解のないように願いますね。


そのような誤解は、していません。
しかし、私の書き込みについて、女同士の会話のウザったさは感じたわけでしょう?
そこから、この思春期の女の子達の話になったのでしょう。それは、peerさんの妄想が膨らむ原因になっていませんか?「愛を道具としてやりとりしようとしている」というのが、シナリオだと思ったのではありませんか?
それは、疑問です。そう言いたいのではなくて。返事がないとわからないことです。

> 抑圧する。というのは、たしか、力関係がある。
> と書いた記憶があります。
> 私たちの間には、力関係は、ありませんよね。
> それこそ。対等な普通の人間と人間で。
> 力を使って、どちらかが、相手を従わせることなど
> ありえないこと・・・ですからねぇ。


「力のある人は抑圧する方に回ります」と書いていたので、そのように思っていると解釈しました。

No.97 - 2008/01/14(Mon) 09:29:07

Re: 抑圧の件 / ルー
> こういうことは、して欲しくない。
> と言われて「わかりました」と応えて。
> それで、本来なら終わったモノでした。


その後のpeerさんとsuhoさんの会話を読んでいて、peerさんは、私を「傷ついた人」とレッテルを貼って終わらせた、と感じました。
そして、「傷つく人は、自分で傷つくのだ。私には関係がない。」と、そのように受け取りました。

> 「どこか、安全な場所で、自分の深い傷について話されたらどうでしょうか。」となり

それは、peerさんが「潜在意識にまで及ぶ深い傷」とおっしゃり、「その傷が癒されないとどうしようもない」と書いていたからです。それは、peerさんとは関係のない他人の話なのでしょうか。peerさんは、自分は傷つくことはない、ということは、どこか他の「傷つく人」の話ですよね。

> 「「私の中に問題が見えてしまう自分」というものと向き合えばいいと思います。」となって。

私の中に何か問題が見つかるので、声をかけるのではないのですか?

> 話がどんどんスレチガイになって行った。
> と私は、感じているのです。
> ルーさんが、スレチガッテイナイ。と言うなら。
> 徐々に私の勘違いが、膨れて行った。ということ
> ですよね。
> それで、いいなら、、問題ないです。


「それで、いいなら」がわかりません。
現実を確認しているだけです。

No.98 - 2008/01/14(Mon) 09:38:27

Re: 抑圧の件 / ルー
たくさん書いて、すみません。
返事は、いつでもいいです。

前に、peerさんとsuhoさんの会話の中で、「自他は同じであるが、傷ついた時に、自他を分ける」と書いてあったと思います。それは、誰の話なのでしょうか?どこから、それを知ったのでしょうか。自分のことでなくて、どうしてわかるのでしょうか?
しかし、「自分は、傷つくことはない」とおっしゃいます。
「人間は、みな繋がっているので、誰という特定の話はできない。人間というものについて書いている」のなら、自分も含まれる話ですよね。しかし、自分は、傷つくことはない。
ということは、「自分は傷つかないけれど、傷つく人は、このようである」と書いているのでしょうか。

peerさんは、私が、「怒っている、傷ついている」と思っていたでしょう。
そして、suhoさんとの会話で「傷つく人」について書いていたでしょう。
それで、私は、その時点で思うことを書いていました。
それだけです。

No.99 - 2008/01/14(Mon) 10:02:21

Re: 抑圧の件 / peer
人間関係における単純なトラブルの多くは
思い込み・勘違い。でしかないと私は感じています。

「私は貴方をこうだと思っている」
しかし、それを開示する機会がないと、それが
本当なのか勘違いなのか、修正できない。

「相手の怒りの原因を知ろうとするのは、自分の時間を浪費することになるので、かなり選択しにくい」は、ここにつながりますね。
思い込みだろうと、勘違いだろうと、結局は自分の問題ですから、それでイイなら、そのまま通過。それを修正しようとするかしないか、でトラブルが解消されるかどうか。なのですが。

今回の場合は、あの話とこの話が、すべて関連づけられてしまったために、起きて来たコト。ではないかと推察しています。
とりあえず、ひとつの疑問へ。
「自分は、傷つくことはない」というのは、ルーさんの言葉によって傷つくようなことは、ないし、なかったですよ。というような意味です。だから防衛する必要を感じていない。。と、ここに続いています。
んんー。分かりにくい・・・ですか?

No.103 - 2008/01/14(Mon) 10:45:00

それと・・・ / peer
「peerさんは、peerさん自身を抑圧しようとしているのではないか?」

については、エゴを見る。というのが正確な表現です。
抑圧すると、エゴは巧妙ですから、分からないように出て来ようとします。
エゴは、どんなに消そうとしても、消えないです。
それがあるからニンゲンじゃないの〜みたいな・・・。
ですから、監視しているしか、ない状態です。今の所。

じっさい・・・
これを書いているのが、エゴかも知れません。
そこが判断の難しいトコロ。ホントに難しいです。

No.104 - 2008/01/14(Mon) 10:54:52

Re: 抑圧の件 / peer
“peerさんは、私を「傷ついた人」とレッテルを貼って終わらせた、と感じました。”

「心の中に土足で入って来る」という感覚があったのでしょう。そういう場合「傷ついた」感覚じゃないかと思います。

“「傷つく人は、自分で傷つくのだ。私には関係がない。」”

関係はない、というのは、直接的にはという意味だったのです。もともとの傷があってそれに触れられると痛い。という構図があるのだと考えます。

その傷は、原形がある。生きていることの、痛み・せつなさ、のようなモノです。傷ついた時、痛みの原形の在り処が分かります。ただその場の「傷つき」を見ていては、気付きにくいのですが。

その原形の在り場所から「自他は同じであるが、傷ついた時に、自他を分ける」という、自他を分けた原因が見えて来ます。あのとき、世界から自分を分けた・・・自分を切り取った。のだと。

No.109 - 2008/01/15(Tue) 09:57:05

Re: 抑圧の件 / ルー
> “peerさんは、私を「傷ついた人」とレッテルを貼って終わらせた、と感じました。”

そうではないのですか?

> 「心の中に土足で入って来る」という感覚があったのでしょう。そういう場合「傷ついた」感覚じゃないかと思います。

いいえ、傷つくというほどの関係は、私とpeerさんの間にはないので、ただ「土足で踏み込まれた」という感じです。

> “「傷つく人は、自分で傷つくのだ。私には関係がない。」”
>
> 関係はない、というのは、直接的にはという意味だったのです。もともとの傷があってそれに触れられると痛い。という構図があるのだと考えます。


自分で自分を傷つける場合の話ですね。

No.110 - 2008/01/15(Tue) 14:40:39

Re: 抑圧の件 / peer
> “peerさんは、私を「傷ついた人」とレッテルを貼って終わらせた、と感じました。”
>そうではないのですか?


レッテルを貼ったというより〜適切な言葉としては
「地雷を踏んだ」という感じです。

No.114 - 2008/01/16(Wed) 01:18:48

Re: 抑圧の件 / peer
> 「「私の中に問題が見えてしまう自分」というものと向き合えばいいと思います。」となって。
> 私の中に何か問題が見つかるので、声をかけるのではないのですか?


「私の中に自分の問題が見えてしまう」という意味なら
そういうことは、ありません。
「ルーさんが問題をかかえているようなので声をかけた」
というトコロですが。
声をかけたことが「土足で踏み込まれた」と感じさせてしまったのは、申し訳なく思っています。
で、ルーさんが「こういうことは、しないで欲しい」とのことでしたが、どこまでが土足で踏み込むコトなのか、判断が出来にくい・・・。
そこが無神経と言われるトコロだったワケで〜。
人との心の距離というのは、難しいと、感じています。

No.115 - 2008/01/16(Wed) 01:32:59

Re: 抑圧の件 / ルー
> 「私の中に自分の問題が見えてしまう」という意味なら
> そういうことは、ありません。


そういう意味ではありません。

> 「ルーさんが問題をかかえているようなので声をかけた」
> というトコロですが。


そういうことです。

> 声をかけたことが「土足で踏み込まれた」と感じさせてしまったのは、申し訳なく思っています。

ただ声をかけたというより、「こういうふうに考えたら楽になりますよ」というふうに聞こえました。

> で、ルーさんが「こういうことは、しないで欲しい」とのことでしたが、どこまでが土足で踏み込むコトなのか、判断が出来にくい・・・。

どこまでという深さとか、範囲の問題ではないと思います。
わからなければ声をかけなければいいと思うし、「やめてほしい」と言われれば、その時にわかることだと思います。

> そこが無神経と言われるトコロだったワケで〜。
> 人との心の距離というのは、難しいと、感じています。


知らない相手に声をかけるのは、内容によっては難しいことだと思います。

No.116 - 2008/01/16(Wed) 08:46:46

Re: 抑圧の件 / ルー
> > “peerさんは、私を「傷ついた人」とレッテルを貼って終わらせた、と感じました。”
> >そうではないのですか?
>
> レッテルを貼ったというより〜適切な言葉としては
> 「地雷を踏んだ」という感じです。


peerさんは、「地雷を踏んだ」と感じ、私のことを「傷ついた人」として扱ったのではないですか。
そして、その後のsuhoさんとの会話で「傷つく人」について書かれたのではないですか。
ですが、私は、「土足で踏み込まれたような感じ」を感じた時も、その後のpeerさんとのやりとりでも、「ゴミ箱にされた」と言われた時も、「世界から自分を切り離した」と感じたことは一度もありません。

No.117 - 2008/01/16(Wed) 10:00:03
無限と限界 / potanpotan
無限を広大な自分だとして
限界を今、ここにある自分だとして

悟る障害とされるものがありますが・・
自我や執着や・・思考や・・意図や・・意思や欲望・・

どんなに何を実践し、学び、努力しても
一点、無限を・・あるいは自由という表現でもいいですが

そこに自分は捧げられていることを発掘する・・

それなくしては「無限」は永遠にやってこないのではないでしょうか。

照準が・・

悟っていようが、愛にあふれていようが
どんな自分であろうが
今の自分にあるとき

どんな言葉をどう理解し、実践しても
「無限」はない

のだと感じます。

すべての今が「無限」に捧げられている

「無限」に命がけになるとき

「現実」になるのではないでしょうか。

そのとき、
どんな執着も
欲望も
思考も

身については壊れ
壊れては沸き

広がってゆく営みになるのだと感じています

No.82 - 2008/01/12(Sat) 20:45:16

Re: 無限と限界 / ubik0101
ほんとーに。
potanpotanさんって、実際に、書かれてるままなんだろうなと感じます。
とても叙情的で、新鮮に響きます。
そこで質問です。

> 無限を広大な自分だとして
> 限界を今、ここにある自分だとして


これは、目標?として
まず 広大な自分をイメージ?するということなのでしょうか。
たとえば、

イントラ反転真空管アンプは
自分で組んで、
チューニングは苦労したけど楽しい作業でした。
コンサートには一度も行ったことはありません。
しかし、美しい音か、そうじゃないとかは
聞けば感じるからです。
そういう感じなのでしょうか。
というのも
なにか目標を持って
肯定的に接近することは
パターンに順応するだけと言う人もいますが
否定的に接近して達成したなら、
肯定的な接近を妨げる理由がないと感じるからです。

> すべての今が「無限」に捧げられている
> 「無限」に命がけになるとき
> 「現実」になるのではないでしょうか。
> そのとき、
> どんな執着も
> 欲望も
> 思考も
> 身については壊れ
> 壊れては沸き
> 広がってゆく営みになるのだと感じています。


こうであれば、欲望の仕組み
また。それが発生しなくなる理由は
理解できるのでしょうか。
それとも発生しては
滅するということなのでしょうか。

とても興味があるところです。

No.86 - 2008/01/13(Sun) 08:29:51

Re: 無限と限界 / potanpotan
> 広大な自分をイメージ?するということなのでしょうか。

ubikさん、

広大な自分とか小さな自分とか

私はぜんぜんわかっていないんだな。
イメージをしているだけなんだな。
ということをすごく感じる一日でした。

イメージしているだけで
ぜんぜんリアルじゃない
少しだけリアルの入り口の前に立っている
といえば、これも傲慢かな

でも、いずれにせよ

ぜんぜんわかっていないんです

ただ

心を開いていたいと思います
そして今、心が開いているかな・・と思います

心を開いていたい
今、閉ざしていることを見えているかな

自分を生かすために
「真実」を使用したくない
自分のために「真実」を使用しているのに
気がついているかな

傲慢になりたくない
今、傲慢になっている私に気が付けているかな

傲慢だというサイン
無知だというサイン
エゴだというサイン
バランスが崩れているというサイン
盲目だというサイン
逃避だというサイン
自己防衛だというサイン
独善的だというサイン

そういうものを絶対に受け止めたい
私は、受け止めているかな。

>美しい音

美ってなにかな
何を美しいと思うかな

バランスかな
嘘ではないものかな

まっすぐなことかな

命かな

調和かな
破壊かな
再生かな

全部全部美しい

本当かな

醜いものってなにかな

光の当たらないものかな

腐敗していくもの
排泄物
バランスの崩れた欲望

生きていないものかな

> 欲望

私はぜんぜんストイックではないので
欲望を滅することを挑戦したことはないです。

ただ欲望は重要なサインだと思います。
バランスや関係性や体の状態
心理状態・・を見るサイン。
欲望は嘘をつかないので・・
きれいごとをゆわないので・・
ゆがみはゆがみのまんまを映してくれる鏡でしょうか。

私は・・ありのままを言っているかな
言葉だけが流れてしまってないかな

potanpotanの開き(アジの開き)でありたい。

No.90 - 2008/01/13(Sun) 22:09:29

Re: 無限と限界 / ubik0101
>欲望

あるとき飲み屋で、
数人の青年起業家たちが、
目標について話しあっていました。
その1人が、腕を振り回しながら
店中に聞こえるような、大声で言いました。
ただ儲けたい、んじゃない、んだよー。
俺は。
そんなことは、どーでもいいんだよー。
俺は。
ずっと、ずっと、ずっと、
儲けて、儲けて、儲け続けたいいんだよー。
俺は。
それが目標だ。

あっちになにか富にしても車にしても彼女にしても、ある、ということで、それを求め続けようとする働きが必要かもしれません。そして、こっちに、それを知ってる自分が、いる、と感じてなくては、欲望は欲望として、機能しないと思います。 そして、自分が、いる、なら欲望を抑えようとすることも、欲望でしょう。そうなら自分が、いない、を考えるのも欲望でしょう。

これを過去や未来に囚われた意識の運動として見たら、今、を学ぶでしょう。これを所有が増えたり減ったりすることとして見たら、不増不減、を学ぶでしょう。これを自我として見たら、自己、を学ぶでしょう。これを知ってると見たら、知らない、を学ぶでしょう。これを過剰な接触として見たら、依存関係、を学ぶでしょう。これを倒錯として見たら、安息日の主、を学ぶでしょう。これを片寄りとして見たら、中道、を学ぶでしょう。これを無知として見たら、智恵、を学ぶでしょう。

しかし、
ひとつづつの段階はないでしょう。
欲望から、その対極ではない、
無欲に至る直接の道はないでしょう。
それは一瞬に
人の変化として起こらざるをえないでしょう。
そして富を得ても得ないでも、
車を得ても得ないでも、
彼女を得ても得ないでも、
まったく無問題でしょう。

No.100 - 2008/01/14(Mon) 10:02:49

Re: 無限と限界 / potanpotan
> >欲望
> まったく無問題でしょう。


欲望って望ましくないネガティブな意味だけでなくて
「〜したい」という思い全部をいうのですね。

そう考えると私は欲望だらけです。

ものすごいやりたいことが常に飽和状態にあります。
どうしてこんなに私は欲深いのか考えていて・・
それはイメージを持ちやすいからだと思いました。

イメージ・・

願望とか夢とか希望とか・・妄想とかそんなものもですが
もっと深い思想とか植えつけられている固定観念とか・・

イメージはその人の行動の選択の基準になりますし
振る舞いの源になりますし・・好みやいわゆる価値観・・
イメージが明日を作ると思います。

自然なイメージは自然ですよね
勝手に動くし勝手に沸いて

でも多くは「夢を達成」するには
肉体を鍛え、感情をコントロールし、頭のイメージを実現させるべく試練を克服することが美徳ですよね

それが出来てしまう人間て不思議です。

そうしてしまうからするんでなくて
そうしたくなくてもできる人が多い
そしてそうできることがすごいことなんですよね

No.106 - 2008/01/15(Tue) 00:23:18

Re: 無限と限界 / ubik0101
>欲望って望ましくないネガティブな意味だけでなくて
>「〜したい」という思い全部をいうのですね。


すこし散歩しながら、よく思い出そうとしてみました。その昔、自分に欲望が働いてるとしても、欲望が働いてると感じたことは、ほとんどなかったと思います。そして今は、そんなの、あってもなくても、どーでもいい、です。たしかに、世の中には、なにかの感情や意識の運動を欲望と名前つけて、肯定・否定しようという教え、傾向はあると思います。

そうだとして。そんな欲望は、
「〜したい」と思うことである、
とは言えないと思います。
というのは、
「〜したい」と思わなければ欲望してない、
とは言えからです。

欲望は人の状態ではないでしょうか。

その人の「〜したい」「〜したくない」思いに無関係です。

その人が無知で、倒錯し、片寄ってることを
欲望と呼ぶのであり、
そうでなくなって始めて気がつくのかもしれません。

そして人が
無知で、倒錯し、片寄ってなければ
「〜したい」「〜したくない」など、
どーでもいいと思いました。

「夢を達成」しながらも
なにかも知れない自分を探ることが、
大切なのかもしれません。

No.111 - 2008/01/15(Tue) 18:03:28
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