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それでは / ubik0101
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No.17 - 2008/01/01(Tue) 13:01:54

Re: それでは / potanpotan
ubik0101さんはじめまて書かせていただきます。
ubik0101さんのすごい力強い世界観に圧倒されつつ・・・
ちょっとどきどきしながらなんですが・・・

善と悪についてもう少し見つめられたらな・と思いましたので・・

バランスのことを話されているのかなと思いますが違うのかな・・。

私の中には善と悪という明確な感覚は薄くて・・

作用や現象はあります。
ただ・・一箇所にとどまって見ると悪や善はわかります。
これはある存在のある目的にとって望ましいか望ましくないかだったり、一時的に生かすかCENSOREDかだったり・・

でも、さまざまな関係性の中のさまざまな運動性と作用のなかで見ると、「サイオウガウマ」でしたか?中国のお話ではありませんが、わからない。

バランスがある方向に大きく傾いてうまく機能しないときやあるものが過多に、あるものが過少になってうまく循環できなかったり・・ある場の求めている形と自分の形がうまくかみ合わなかったり、そんな状態を悪といいますか?

エゴ・欲望・やさしくてあたたかなものを破壊したい衝動・
だけどやさしくてあたたかなものを乞う矛盾。

大好きなのだけどいじめてしまう。

とか・・

弓矢が飛ぶのが善で引くのが悪とか・・

世界の働き、心の働き、関係の働き・・いろいろな現象のいろいろな作用がありますが・・

どんなことかな。

No.41 - 2008/01/06(Sun) 06:25:35

Re: それでは / ubik0101
> どんなことかな。

potanpotanさん、はじめまして。おそらく善悪って、定義できないでしょう。できるようなら善悪でないかもしれません。なにかの条件によって変わるなら、善悪の判断も変わるでしょう。

善い動機でしたことが、善い結果になる。
善い動機でしたことが、悪い結果になる。
悪い動機でしたことが、悪い結果になる。
悪い動機でしたことが、善い結果になる。

この人の世では、これらの関係が絡み合って、いるのでしょう。これに注目してしまうと、「サイオウガウマ」で、善悪など分かりません。

でも。このことは、好き嫌い、損得が、善悪と呼ばれてることの隠れた前提になってる、かもしれません。つまり欲望が、善悪の皮を被ってるのかもしれません。

それがまず、悪と言えば悪。善と見えても悪。かもしれません。自分を善(正)と見なすから、悪(邪)も行えるのではないでしょうか。なかには自分を悪と見なして悪をする人もいるかもしれません。なんにしても片寄りでしょう。

でも。それで終わりではなさそうです。そういうこととして、定義できない善悪が、人の視界に入るのかもしれません。

一応ですが、公理のような、定義できない善悪。それは条件に関わらないと思います。悪は悪。善は善。 たとえば盗むことは、無条件に悪。嘘を言うことは、無条件に悪。盗まないことが善なら、無条件に善。ほとんど理想論かもしれません。

たった1人でも、この世界に、そうでない(狡い)人がいれば、これは無力なのも確かです。けど。その1人に、自分はなりたくはないのです。誰でもそうなのではないでしょうか。そう自覚してなくても誰もが努力してるのではないでしょうか。

No.45 - 2008/01/06(Sun) 09:56:33

Re: それでは / potanpotan
ご返答えありがとうございます。
やっぱり先がわからないです。

> 善い動機でしたことが、善い結果になる。
> 善い動機でしたことが、悪い結果になる。
> 悪い動機でしたことが、悪い結果になる。
> 悪い動機でしたことが、善い結果になる。
>
> この人の世では、これらの関係が絡み合って、いるのでしょう。


善い動機ってどんなことですか?
悪い動機ってどんなことですか?

また、結果とはどんなことですか?

結果って・・ある営みのある瞬間のある一面的な見方をしたときのある状態を言いますか?

たとえばコンクールで優勝する。
ある成果を出す。ということを目標を立てたならば
それに対する結果が生じます。

優勝しなかった。
それは結果が出なかったともいえるし
目指すことによって技術アップできたから
結果は出たともいえるし

そもそもコンクールという形態は果たして、音楽の全体かと疑問を持ったという成果を得たともいえるし

コンクールを意識したがために自分の演奏の個性をだいなしにしてしまったともいえるし・・

わからないです。


> でも。このことは、好き嫌い、損得が、善悪と呼ばれてることの隠れた前提になってる、かもしれません。つまり欲望が、善悪の皮を被ってるのかもしれません。
>


欲望についてubik1010さんはどのように感じてらっしゃいますか?


> それがまず、悪と言えば悪。善と見えても悪。かもしれません。自分を善(正)と見なすから、悪(邪)も行えるのではないでしょうか。なかには自分を悪と見なして悪をする人もいるかもしれません。なんにしても片寄りでしょう。

善悪という言葉が頭の中でぐるぐるします。


> でも。それで終わりではなさそうです。そういうこととして、定義できない善悪が、人の視界に入るのかもしれません。

サイコロのように善(偶数)と思ってふったら悪(奇数)が出てしまった・・
でも絶対に偶数だけ出すんだ。
ということでもないですよね・・・


> 一応ですが、公理のような、定義できない善悪。それは条件に関わらないと思います。悪は悪。善は善。 たとえば盗むことは、無条件に悪。嘘を言うことは、無条件に悪。盗まないことが善なら、無条件に善。ほとんど理想論かもしれません。
>
> たった1人でも、この世界に、そうでない(狡い)人がいれば、これは無力なのも確かです。けど。その1人に、自分はなりたくはないのです。誰でもそうなのではないでしょうか。そう自覚してなくても誰もが努力してるのではないでしょうか。


子供が嘘をつきました。
本当は自分がおもらししたのに
妹のせいにします。

でも子供のうそはすぐに見破られます。

「ズボンがぬれているのはおにいちゃんでしょ。」

親の私は
「妹のせいにしようとするのはいけない、妹がかわいそう。ずるいこと。いけないこと。この子は悪い魂がそうさせている。うそをつくことに怒りが沸きます。」

でもそもそも・・お兄ちゃんは、なぜ、嘘をつくのか。
怒るからだと思います。

おもらしをすることを「悪」とするために
「怒る」正義が生まれ「恐怖」が生じて「嘘」
が生まれるのではないでしょうか。

子供を見ていて思うのは
子供をしかるたびに感じるのは

子供の世界に「悪」がないこと

「悪」を見るのはいつも私だということ

だから、小さな子供は怒られるとき
まず「びっくり」するのがわかります。

No.47 - 2008/01/06(Sun) 11:42:04

Re: それでは / ubik0101
> 欲望についてubik1010さんはどのように感じてらっしゃいますか?

とくに何も。です。

> おもらしをすることを「悪」とするために
>「怒る」正義が生まれ「恐怖」が生じて「嘘」
>が生まれるのではないでしょうか。


まず、「悪」っていうより面倒さとか、無駄な出費とかが・・・それが損なので・・・おもらしを「悪」と見なさせるのかもしれません。でなければ、ただ後始末すればいいだけでしょう。

そして子供にとっても、親にとっても、善かれと思って・・・それが得なので・・・つまり動機があって、親が「怒る」。しかし「嘘」という、たぶんですが都合の悪い、結果「ある営みのある瞬間のある一面的な見方をしたときのある状態」が生まれるのかもしれません。

それで子供は、もっと上手に嘘をつけばいいとか、嘘をついてはいけないとか、ほかの家庭と較べるとか、自立したいとか、もちろん親が怒っても、嘘をつかない子供っています。また、いつも嘘をつくわけでもないでしょう。それで、そんな子供が学校に行き・・・コンサートに出場・・・ドラマが展開するのでしょう。

それで。達成とか、技術とか、個性とか、わからない。評価不可能。でもあるし、そのことは損得とか、善悪とか、意味とか、ありとあらゆる評価が可能ということでもあるでしょう。(その当事者ではないので、総べて空想ですけど)。それは、それで、無問題と感じます。

> 子供を見ていて思うのは
>子供をしかるたびに感じるのは
>子供の世界に「悪」がないこと
>「悪」を見るのはいつも私だということ
>だから、小さな子供は怒られるとき
>まず「びっくり」するのがわかります。


だとしても「悪」としなくてもいいように思います。

No.50 - 2008/01/06(Sun) 13:37:44

Re: それでは / potanpotan
> > 欲望についてubik1010さんはどのように感じてらっしゃいますか?
>
> とくに何も。です。
>
> > おもらしをすることを「悪」とするために
> >「怒る」正義が生まれ「恐怖」が生じて「嘘」
> >が生まれるのではないでしょうか。
>
> まず、「悪」っていうより面倒さとか、無駄な出費とかが・・・それが損なので・・・おもらしを「悪」と見なさせるのかもしれません。でなければ、ただ後始末すればいいだけでしょう。
>
> そして子供にとっても、親にとっても、善かれと思って・・・それが得なので・・・つまり動機があって、親が「怒る」。しかし「嘘」という、たぶんですが都合の悪い、結果「ある営みのある瞬間のある一面的な見方をしたときのある状態」が生まれるのかもしれません。
>
> それで子供は、もっと上手に嘘をつけばいいとか、嘘をついてはいけないとか、ほかの家庭と較べるとか、自立したいとか、もちろん親が怒っても、嘘をつかない子供っています。また、いつも嘘をつくわけでもないでしょう。それで、そんな子供が学校に行き・・・コンサートに出場・・・ドラマが展開するのでしょう。



ほお..すごい発展性ですね。^^

> それで。達成とか、技術とか、個性とか、わからない。評価不可能。でもあるし、そのことは損得とか、善悪とか、意味とか、ありとあらゆる評価が可能ということでもあるでしょう。(その当事者ではないので、総べて空想ですけど)。それは、それで、無問題と感じます。

さっき少しバイオリンをお稽古していて思ったのは・・
バロック音楽を演奏するとき・・
弦の調弦が狂っているのは悪だとおもいました。
音程がずれても悪だとおもいました。

きちんと調弦されたときの楽器の響きの広がりは宇宙的。
音程を正確に取れないと、音が広がらない。
自分の楽器の中の正確な音程と、他の楽器とのアンサンブル。
調和。

って。。すごい下手なんですけど、一音ちゃんと弾けただけで感動なんです。

まあ・・だけど、たとえば民族音楽なんかを演奏するときはきちんとした音程で弾くことが気持ち悪いときもあります。

本来 音は無限ですが・・
その音を正確に弾くこと・・
それは、絶対音感を持つことがいいとかいうことではなく
音の共鳴性は普遍。無限があります。

ただ、そのハーモニーに対する許容性は音楽の持つ世界の様々によって善と悪が存在しているように見ています。

> > 子供を見ていて思うのは
> >子供をしかるたびに感じるのは
> >子供の世界に「悪」がないこと
> >「悪」を見るのはいつも私だということ
> >だから、小さな子供は怒られるとき
> >まず「びっくり」するのがわかります。
>
> だとしても「悪」としなくてもいいように思います。


悪なんてないといっちゃっている割りに
どこかで勝手に子供のいたずらを「悪いこと」って思っている自分がいて(成分分析したら、おっしゃる通りめんどくさいとか、ほかの人が嫌がるだろうとか、これはうちで許されても、世間では許されないだろうとかなんですけど)
とりあえず怒る。そして・・
子供がまあるい目で「●●ちゃん悪い子?」と尋ねさせてしまうんですね。
悪くないよーーー
でもいろいろあるんだよーー
という感じです。

No.55 - 2008/01/06(Sun) 19:29:33
精神の運動 / suho
「テスト」の中でテーマが交錯してしまうので、こちらに移動しました。

>もしかして何であれ完全には理解できないのではないか、そうでなくては、ものごとは起こる必要はないのではないか。たとえば自分を自分で理解できないと言われたりすることは、そういうことが露になったのではないか。まず理解とはどういうことか理解できるだろうか。と、この頃は思います。
>また人が、たとえば嘘をつけること、盗むこと、そういうことができなくてもいいのに、できることが、とても不思議に思います。


ここのところの身近な出来事で「精神の運動」というものの儚さを痛感しています。
精神の中で起こる運動、正しい、誤り、心地よさ、嫌悪、ありとあらゆる運動。どうもこれらは、精神場の中で「綱引き」しかしていない。そんな実感を得ています。

そのようなことから、ウビさんの仰っていることは、その「運動の儚さ」を完全に「見る」ことができるように、起こっていると感じました。
「理解」というものが、どこか精神が安定する方向に作用する運動だとすれば、それも精神場内部での運動のある1つの断面?であり「完結する理解」にはなり得ない。
「完結した」と想うこと自体が空想であると感じました。

No.28 - 2008/01/04(Fri) 13:44:48

補足です / suho
上で使っている「精神」という表現は、意識、こころ、心理などとと同じ意味で使っています。
No.29 - 2008/01/04(Fri) 13:57:29

補足続きでスミマセン / suho
例えば「自我」と呼ばれている心理運動。エゴでもいいですが。私でもいいですが。
そのような心理運動も「精神場の運動そのもの」と感じます。

「自分中心ではいけない。他者に与えよ。皆仲良く。わかちあおう。」という一見エゴとは対極にある運動。これもエゴに依拠した運動でしょうし。例えば「エゴを見張る」「コントロールする」という運動も、やはりエゴに依拠した運動でしょうし。
両方の運動はエゴなしでは生じない運動。

ちょっと極端な表現になりますが
心理的な運動、精神場で生じる運動は、その内容がどうであれ、どれだけ高尚でも、どれだけお下劣でも「全てエゴ」。
そんな感覚を得ています。

しかしながら、この「精神場の運動」が、あまりに魅惑的なだけに、あららあららとからめとられてしまう日々…のようです。
僕は。

No.30 - 2008/01/04(Fri) 14:18:52

Re: 精神の運動 / ubik0101
もしかしたら、心理的なことは理解し切ることができないかもしれません。そうだからこそ機能するのかもしれません。また、現実、も知り得ないのではないか。そうだからこそ機能するのかもしれません。と、なんとなくなんですが思います。

でなければ、この世界は成り立たないのではないか。知るということがどういうことかは知らないにしても、知り得ないから、そうでなくってもいいかもしれないけど千変万化(これも空想的な表現だとしても)というか無常(これも空想的な表現だとしても)に思えます。

それは過去未来に絶望したり希望したりの執着が不要になると、気がついてしまうのかもしれません。 空想とか知識なら、知る知らないがあると思います。

それで、たとえば善いことをして悪いことをしないということは、心理的な運動として見たら理解し切ることのできない自我の機能かもしれません。しかし、現実が、知り得ないとしたら・・・とくに自我の機能だけが理解し切ることができないと見る必要もなく、・・・善いことをして悪いことをしないことも(いわゆる既知な思考も未知でしかなく)、なんの邪魔にならないと思います。それに善いことをするは、善い自分をつくる意味があるかもしれません。

> しかしながら、この「精神場の運動」が、あまりに魅惑的なだけに、あららあららとからめとられてしまう日々…のようです。
> 僕は。


たしかに。理解できなさのゆえに、解けないパズルのように、魅惑されるのかもしれません。そして解けないのでなければ、あるときは恋愛が、あるときは軋轢が、あるときは欲望が、人を学ばせる触媒として機能しえるだろうか、と思います。

No.31 - 2008/01/04(Fri) 19:38:12

Re: 精神の運動 / suho
> それで、たとえば善いことをして悪いことをしないということは、心理的な運動として見たら理解し切ることのできない自我の機能かもしれません。しかし、現実が、知り得ないとしたら・・・とくに自我の機能だけが理解し切ることができないと見る必要もなく、・・・善いことをして悪いことをしないことも(いわゆる既知な思考も未知でしかなく)、なんの邪魔にならないと思います。それに善いことをするは、善い自分をつくる意味があるかもしれません。

ウビさんのこれまでの記述を拝見すると、善をすること、悪をしないことは、とても重要なこととして表現されていると感じます。

実のところ、僕はこれまで「善悪」というものを明確に意識してきたことがありません。なのでウビさんの仰っている「善悪」というものがどのようなものなのかよくわかっていません。
(もちろん、これまで家庭や社会の中で身についてきた善悪観というものはありますが、ここで問題にしている「善悪」は、それらからあえて離れて、素直に実感できる「善悪」とは?という意味で、です。)

僕の中で「善悪」というものは、どういうことを言うのかなとあらためて感じてみると…
存在が、存在そのものあること(自他はともかく)を、そのままに認める想い・行為が「善」で、それを阻む想い・行為が「悪」なのかなと。

で、「善」はするべきで「悪」はしないようにする、というよりも、
人間が何も意図しない状態(何かの動機を達成するために目的化したり行為したりしない状態)つまり「自然が作用するがまま(例えば、風が吹くまま、雨がふるまま、日の照るまま…)」の状態が、全ての存在が存在そのものとして活きることなのではないかなと感じるのです。(なお、意図しないということは、人が行為をしないという意味ではありません。「意図なしの行為」というものがあると感じます。これはクリシュナムルティの影響が大きいかもしれませんし、僕の自己観察体験から、そう感じているのかもしれません)

なので「善」は、人が意図するところにはないような気がするのですが。ウビさんはどのようなことを「善悪」と表現しているのかお聞きしたいな、と思いました。

No.32 - 2008/01/05(Sat) 09:58:02

Re: 精神の運動 / suho
↑と書いてみたものの…
「自然のありよう」に学び、意図して調和的な行為をすることも「善」という感じもしていますが、正直言ってよくわかりません。うーん。。

No.33 - 2008/01/05(Sat) 10:15:08

Re: 精神の運動 / ubik0101
どのようにも善悪は定義できないと思います。まず絶対の善、絶対の悪という両極端がありません。なら程度の差もありません。おなじ出来事について逆の判断もできます。そういうことは、たとえば損得を隠し持って、これは善ではないか悪ではないかという判断が働くだけと思います。それは空想の善悪です。それは自我の機能です。

ところで、まず、そういう自我が働いてないなら、自己は自覚できず、倒錯し得ません。空想の善悪を行えません。しかし善悪がないということではないのです。もしかして、なるがまま、が善。なるがままを阻むことを、悪とするのは、違う価値観を持込んだ、また人の有り様に善悪という名前を付けた、のかもしれません。

どうであれ。空想の善悪という自我の働きから学んだことがあります。それを行いましょう。 愛です。それはどんなことでもないので、困難なこともあります。失敗もあるでしょう。でも、たとえ愛そうと意図して愛しても、問題とは思えません。

いや、それは問題だ。それは思考や信仰であり愛ではないと言う人もいるかもしれませんが、そう比較するなら愛と、そうでないことを分離してるのであり、それこそ自我の働きではないでしょうか。愛を知らないで愛そうとすることが問題ではないでしょうか。

No.35 - 2008/01/05(Sat) 15:26:16

Re: 精神の運動 / suho
ウビさんコメントありがとうございます。

> どのようにも善悪は定義できないと思います。まず絶対の善、絶対の悪という両極端がありません。なら程度の差もありません。おなじ出来事について逆の判断もできます。そういうことは、たとえば損得を隠し持って、これは善ではないか悪ではないかという判断が働くだけと思います。それは空想の善悪です。それは自我の機能です。

はい。そう思います。

> ところで、まず、そういう自我が働いてないなら、自己は自覚できず、倒錯し得ません。空想の善悪を行えません。しかし善悪がないということではないのです。

そうですか。
僕は自我が働いていない状態というものを、おそらく経験していないので、正直よくわかりません。。

>もしかして、なるがまま、が善。なるがままを阻むことを、悪とするのは、違う価値観を持込んだ、また人の有り様に善悪という名前を付けた、のかもしれません。

はい。そのようにして名づけているのだと思います。

> いや、それは問題だ。それは思考や信仰であり愛ではないと言う人もいるかもしれませんが、そう比較するなら愛と、そうでないことを分離してるのであり、それこそ自我の働きではないでしょうか。

あぁ、確かにそうですね。
そうか「あるがまま」と「あるがままでない」も分離ですね。
僕は「分節(区分)」ではなく「分離」で捉えていたのですね。
うーん。分離の問題は難しいです。。
「分離」と「非分離」も分離ですね。
分離であっても、分離でなくても、そのどちらでもあって、どちらでもない。ということになると、本当に不思議としか言いようがないです。思考の限界です…(笑

>愛を知らないで愛そうとすることが問題ではないでしょうか。

僕は、愛というものは「愛」という言葉さえ必要のないものと見ています。なので愛を知る知らないということが問題になるとは思えないのですが…。
うーん。よくわからなくなってきました。

No.36 - 2008/01/05(Sat) 18:22:30

Re: 精神の運動 / ubik0101
> あぁ、確かにそうですね。
> そうか「あるがまま」と「あるがままでない」も分離ですね。
> 僕は「分節(区分)」ではなく「分離」で捉えていたのですね。
> うーん。分離の問題は難しいです。。
> 「分離」と「非分離」も分離ですね。
> 分離であっても、分離でなくても、そのどちらでもあって、どちらでもない。ということになると、本当に不思議としか言いようがないです。思考の限界です…(笑


たしかに表現困難です。おそらくなんですが、愛と、そうでないことを、同一フィールド上で比較検討すると、分離に見えるのかもしれません。

> >愛を知らないで愛そうとすることが問題ではないでしょうか。

> 僕は、愛というものは「愛」という言葉さえ必要のないものと見ています。なので愛を知る知らないということが問題になるとは思えないのですが…。
> うーん。よくわからなくなってきました。


たしかに。「愛を知る知らない」と言うのは、(変な言い方)です。空想の愛で、愛そうとすることが問題ではないでしょうか。がよかったと思います。

ところで、「愛という言葉さえ必要のない」。そうだとしても、どうとも呼べないことを、名前を付けてるだけではないでしょうか。

たとえば。見たことない魚が釣れます。それで知人に見せます。ギギだよ、と教えてもらいます。そうか、ギギかぁ。それは知ったことではないのに、なぜか知ったことにしてしまう。名を付けることは、そんな馬鹿なこともあります。けど。そうであるだけではないと思います。

No.38 - 2008/01/05(Sat) 21:08:00

Re: 精神の運動 / suho
> たしかに表現困難です。おそらくなんですが、愛と、そうでないことを、同一フィールド上で比較検討すると、分離に見えるのかもしれません。

なるほど。
これはなんとなく腑に落ちます。

> たとえば。見たことない魚が釣れます。それで知人に見せます。ギギだよ、と教えてもらいます。そうか、ギギかぁ。それは知ったことではないのに、なぜか知ったことにしてしまう。名を付けることは、そんな馬鹿なこともあります。けど。そうであるだけではないと思います。

確かにそれはそう感じます。
個物には個物として分節されるような本質?があるから名づけが生じると思います。

そして「知る知らない」ですが、僕も以前、手がなぜこのような形をしているのか、人はなぜこのような身体を持っているのか、なぜ現象を感じられるのか、というふうに、なぜなぜなぜを繰り返してゆくと、実は根本的なことは何も知らないし、知りえないということに気づきました。
摩訶不思議です。

No.39 - 2008/01/05(Sat) 22:53:14

Re: 精神の運動 / ubik0101
> 個物には個物として分節されるような本質?があるから名づけが生じると思います。

そうなんです。けど、それも絶対じゃないように思えます。たとえば卵は、稚魚になって、海に下ります。そして大きくなって河に戻り、死んでしまいます。これは変化するけど、分節でしょう。

その魚を、熊が、食べます。魚と熊。また人と人。それぞれは分節でしょう。けど関係することができます。そこでも変化します。それは分節とも、分節でないとも、言えないようです。

逆に言って、たとえば分節、(分離)があるってことは、相手を認めて、変化しながらも関係できる可能性ができる。あるいは完全な無関係は不可能。まったく分離なく「ひとつ」「実在」なら、知る、知らないさえ、関係さえ不可能かもしれません。こんなことを思ったことがあります。

それで自然とか風景とか見てて。世界と自分。関係も、無関係も生じるような生じないような。時もあるような、ないような。自分は世界であるような、ないような。有るといっても、無いといっても・・・なんてことなんでしょう。

> そして「知る知らない」ですが、僕も以前、手がなぜこのような形をしているのか、人はなぜこのような身体を持っているのか、なぜ現象を感じられるのか、というふうに、なぜなぜなぜを繰り返してゆくと、実は根本的なことは何も知らないし、知りえないということに気づきました。
> 摩訶不思議です。


そうなんです。sufoさんて、それでいて、たとえば「僕は自我が働いていない状態というものを、おそらく経験していないので、正直よくわかりません。。」と言ったりすることとかが、あやしいというか、うーむ。なんです。暫悟?

No.43 - 2008/01/06(Sun) 08:09:04

Re: 精神の運動 / suho
> そうなんです。けど、それも絶対じゃないように思えます。たとえば卵は、稚魚になって、海に下ります。そして大きくなって河に戻り、死んでしまいます。これは変化するけど、分節でしょう。

はい。その「卵」にフォーカスするとそうだと感じます。

> その魚を、熊が、食べます。魚と熊。また人と人。それぞれは分節でしょう。けど関係することができます。そこでも変化します。それは分節とも、分節でないとも、言えないようです。

はい。関係する不思議です。
僕は「作用」とも表現します。

> 逆に言って、たとえば分節、(分離)があるってことは、相手を認めて、変化しながらも関係できる可能性ができる。あるいは完全な無関係は不可能。まったく分離なく「ひとつ」「実在」なら、知る、知らないさえ、関係さえ不可能かもしれません。こんなことを思ったことがあります。

はい。ここで僕は「場」という表現を使うのですが。
いろいろな「分節」が相互に作用し続ける「場」。
この「場」は「分節」の眼差しからみると1つです。
例えば、今こうしてPCに向かってキーボードを打っているわけですが、目の前に開けている現象は1つです。
PCのモニターがあって、その後ろに壁があって、下のほうには2本の長くて、やわらかそうな物体が椅子の上で重なっている。このようにそれぞれの「分節」が1つの場でしか作用していない。物質だけではなく、なんとなくワクワクするような目に見えない知覚が胸の辺りから生じているし、手の甲あたりで外気のひんやりとした感覚が生じている。
それらも全て目前の(と、とりあえず表現。)1つの「場」
で作用しています。運動しています。
それは、そうしようとしていなくても、そうなっています。
分節と場。「たくさん(分節)」でもあるし「1つ(場)」でもある。で、これは、その様子が刻々と変化していても、「たくさん」と「1つ」の関係性?は変わりません。
変化と不変の同時の顕現です。

> それで自然とか風景とか見てて。世界と自分。関係も、無関係も生じるような生じないような。時もあるような、ないような。自分は世界であるような、ないような。有るといっても、無いといっても・・・なんてことなんでしょう。

はい。今目前ので生じている分節同士の作用、それが生じている「1つの場」。目覚めているとき、そのような現象が、関係性が全く無くなるということがありません。なので「無い」が無いので「有る」と表現することさえ嘘だと思います。

> > 摩訶不思議です。
>
> そうなんです。sufoさんて、それでいて、たとえば「僕は自我が働いていない状態というものを、おそらく経験していないので、正直よくわかりません。。」と言ったりすることとかが、あやしいというか、うーむ。なんです。暫悟?


あやしいですか(笑)
何もあやしくないです。ここで使っている「自我」は、上に書いた「現象」「作用」「場」、意識でも、精神場でも何でもいいですが、あらゆる運動全てを指しています。
このような運動が、作用がない状態を経験したことがないのです。
そしてこのような運動がなぜ生じているのか全く不明。
摩訶不思議なのに、リアル。目前。
自然の美しさ静けさ、耐え難い心理運動、官能的な衝動・知覚、子を抱きしめたときの満ち足りた感覚、他者に沸く嫌悪・反発、それこそありとあらゆる作用が、知覚が、リアルに感じられるのに、それらの運動の作用の法則ではなく、その「作用自体の由来」が全く不明。
不明の中でなぜかリアルとして感じる摩訶不思議。

これらを「与えられている」として「感謝する」という見方をする人も多いでしょうが、僕にはそのような「言葉」でこの摩訶不思議を不思議でなくしてしまうことすら暴力的に感じます。

なので、その作用を、そのままに、邪魔せず、のびのびと、作用自体に作用させるとどうなるのか?
それが目下の関心事です。

No.49 - 2008/01/06(Sun) 13:02:38

Re: 精神の運動 / ubik0101
たしかに。この美しい世界。それでなんですが、なぜ、こうなんだろう?これは無理な疑問かもしれませんが、この世界にいて、この世界が理解できるわけはない、かもしれないのですが。それでもなお、探ってみようなんて。感じるのです。

ところで言葉が頭の中を流れるということを思考と呼ぶとして。どうも日常では、途切れ途切れのようです。そして。意図しても、思考は止ります。だからって、それだけのことのようです。

No.52 - 2008/01/06(Sun) 17:57:01

Re: 精神の運動 / suho
>それでもなお、探ってみようなんて。感じるのです。

そうですね。それは僕もそうです。

> ところで言葉が頭の中を流れるということを思考と呼ぶとして。どうも日常では、途切れ途切れのようです。そして。意図しても、思考は止ります。だからって、それだけのことのようです。

わははは。あ失礼しました。
「だからって、それだけのことのようです。」
の響きが、なんとも心地よくて、
つい笑ってしまいました。

毎度ありがとうございました。

No.53 - 2008/01/06(Sun) 18:38:12
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