No.6413 - 2018/02/08(Thu) 14:28:51
| ☆ Re: / ubik0101 | | | しかし私には属性がないのです。私は、真摯。私は、勤勉。私は、怠惰。私は、優しい。私は人。私は1人。私は男・・・それら属性と私は、関係も、無関係もなく・・・ひとつも、分離も、今もなく・・・素の私です。なにもない、この生まれて初めて見る世界の風光にいます。
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No.6414 - 2018/02/08(Thu) 18:17:52 |
| ☆ Re: / brahma | | | 1知識 物質 2自由 感情 3幸福 思考 4責任 直観 5楽しみ 意志 6愛 宇宙意識 7空 絶対無
知識の背後には幸福が、自由の背後には責任が、幸福の背後には楽しみが、責任の背後には愛が、楽しみの背後には、無がある。二つ上の意識がある意識の根底となる。
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No.6415 - 2018/02/08(Thu) 20:50:16 |
| ☆ Re: 梵我一如と感じられない、おいら / 勘太郎 | | | 「生まれて初めて見る世界の風光の中に居る」
目の前のゴムの木を眺めている今の様子は、それ以外の姿では有り得ず初めて見る景色です。記憶の中には昨日のゴムの木もありますが、それは遠くの微かな痕跡です。
ゴムの木とおいらの手や肩は一つの世界を構成していて、分かれているとも分かれていないともどちらとも表現・解釈できます。 しかしながら、眺めている自分はゴムの木と離れているのか?
おいらの胸の中に在る、点なのか、穴なのか、空間、身体に充満するものなのか、特定できない私が体の中に在ります。(何を書いているのか焦点不明になってしまいました)
今、疑問に思っている事「仏教は因果を重視する思想である」とは、どういうことなのだろう?
属性の無い私とは関係なく(関係するでもしないにも関係しない)世界は自動的に因果で動いている。つまり、自分は世界と関係することができないということなんだろうな。 これをラマナマハリシは、「列車に乗っているのだから、その中でモノを運ぶ必要はない」といったのでしょう。
介護の仕事の同僚である女性から素晴らしい言葉を聞きました。 「私は旦那に生命保険を掛けたことないの、だって命とお金を交換するって嫌な感じがする」 「旦那に「「私が死んだらあなた困るから生命保険かけたら」」と言ったら笑っていて、そのまま私にも保険掛かっていないの」
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No.6416 - 2018/02/10(Sat) 19:13:02 |
| ☆ Re: / ubik0101&hato | | | >「生まれて初めて見る世界の風光の中に居る」
>目の前のゴムの木を眺めている今の様子は、それ以外の姿では有り得ず初めて見る景色です。記憶の中には昨日のゴムの木もありますが、それは遠くの微かな痕跡です。
> ゴムの木とおいらの手や肩は一つの世界を構成していて、分かれているとも分かれていないともどちらとも表現・解釈できます。 > しかしながら、眺めている自分はゴムの木と離れているのか?
たぶん、いつか勘太郎さんが誰かから貰ったか、買ったかした、ゴムの木なのでしょう。水をやったり、日当りのいい所に置いたり配慮したのでしょう。そのゴムの木と、世界と自分、因果が壊滅してるのです。記憶の問題ではないです。この、いま、因果関係にないのです。それは、説明ですけど、
まったき因果にある、これ、が、これ。ほかのことではない、ということです。であれば、ああでもないこうでもない、ああでもあるこうでもある因果は壊滅しています。ここが、1人あること、世界が空気中に舞う塵のように軽いところです。
また。なんでもいいですが・・・私には妻子がある。私には友達がいない・・・その、妻子とか、友達とか、ほかのどんなこととも切り離された、ということもない・・・関係も無関係もない私、それは、なにものでもない、私。単極の私。これ。
そこで、知覚とは差の認識、です。この自分はこの自分を認識できない、そのゴムの木はそのゴムの木を、その猫はその猫を認識できない。なのに、どれもがそれなりに、それぞれの周囲、世界は認識できる。不思議というか、神秘というか、踊りというか、遊びというか、です。
>おいらの胸の中に在る、点なのか、穴なのか、空間、身体に充満するものなのか、特定できない私が体の中に在ります。(何を書いているのか焦点不明になってしまいました)
それはそれを認識できない、はずです。認識できるというのは、ほかのこととの関係にあってでしょう。たとえば常識とか、社会とか、習慣とか、ほかの人とかとの関係を前提にして背景にして・・・時間、空間という距離があって・・・私を感じるのでは?
それは自分を知らないから、知りたいという欲求かもしれません。この私を私が知らなければ、私は私を認識できないということが分からない・・・これは滅茶苦茶なんですけど、とても整合性があると思います。
また、世界を見てる視点、聞いてる中心が、ここ身体にあるということでしょうか。見える聞こえるという、そのことを再認識して、認識する中心を空想していませんか。事実より、事実の認識は遅れるようです。
> 今、疑問に思っている事「仏教は因果を重視する思想である」とは、どういうことなのだろう?
それは・・・私の因果にないことは度外視、という意味で何か私と因果のある、もの、こと、人とかを大切にするということでしたら変です。仏陀は、因果の成立(順観)と壊滅(逆観)を説いていると思います。
> 属性の無い私とは関係なく(関係するでもしないにも関係しない)世界は自動的に因果で動いている。つまり、自分は世界と関係することができないということなんだろうな。
>これをラマナマハリシは、「列車に乗っているのだから、その中でモノを運ぶ必要はない」といったのでしょう。
その列車の目的地の話をしてるのでしょうか?私は、というか人は、列車の運転手でもあり世界を運転してるのです。車掌でもあり、乗客でもあり、見物人でもあり、そいうことと関係なく、寝転んでる人・・・どこに行くのでしょう。
> 介護の仕事の同僚である女性から素晴らしい言葉を聞きました。 >「私は旦那に生命保険を掛けたことないの、だって命とお金を交換するって嫌な感じがする」 >「旦那に「「私が死んだらあなた困るから生命保険かけたら」」と言ったら笑っていて、そのまま私にも保険掛かっていないの」
ただ貧乏だというだけですが、また脳天気だというだけですが、こちらも保険かかってないです・・・誰かが死んだら生き返られることができるなら、生命保険て呼べるのでしょう。
ubik0101
若くても、年をとっていても、いつ死ぬとも限りません。この身体がどのように終わるか、それはわからない。身体があるときにしか、できないことがある。それはたぶん、いわゆる生活としての、身体的精神的経験でない大事なこと、が確実に、ある。
にも関らず、やっぱり若者は、まったくありもしない特権を得ているかのように、言うこと成すことが遊長なものです。わかものはばかもの、そういうものかも知れません。或は年をとっていても、やっぱり遊長で、世界をできるだけ旅行とか、見聞とか、できるだけ楽しんで残りを過ごそう、とか、そんなこともあるかも知れません。
でもこの時間は無限でないし、人に、見せたり聞かせたりするためのなにかより、大事なこと。が、確かにあるのでしょう。
hato
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No.6417 - 2018/02/11(Sun) 07:19:28 |
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