知り合いが44歳でガンで最期、息を引き取る場面で。 現実に大きく息を吸い込みました。医者は言いました「声は聞こえていますから、話しかけてやってください」
想像ですけれども、この時に聞いているのは、自我ではなくて、自己なのではないですかね
千と千尋の神隠しの歌詞の中に 「さよならの時の静かな胸 ゼロになるからだが耳を澄ませる。」
今日99歳の叔母を見舞った際、目を開かず、酸素吸入の息の元でも、家族が声を掛けて、「解かるかい」と聞くと、はっきりとうなづいていました。元気なときから「わちが死んだら、スバルをかけてくれ、そしてみんなでお祝いしてくれ」と言ってました。身体が重たいと言いながら、今年の春まで自分で買い物に行っていました。長生きは良いです。最期もお祝いになりますから。
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No.6294 - 2017/11/12(Sun) 20:58:48
| ☆ Re: 最期の時の、医者の説明 / ubik0101 | | | ほとんど死につつあるとき人は、ほかの知覚は消えても、聴覚は最後まで残るそうです。そして意識?は、非常に明晰。そこで、お経を唱える(枕経とか言うそうです)と、それを理解できて成仏する。そんな話を聞いたことがあります。
それで、自分?意識?が静まれば・・・たとえばですが、誰かのことを批判したり賛同してる、噂話、騒がしい判断が止めば・・・それは結局、そんな限りなく変化し続ける接着でき得ない対象に接着しようとすることでしかない、そのことに翻弄されることが止めば・・・死につつあるときではなくても、明晰であることができ得るだろう。と勘太郎さんの話で、思いました。
たとえば誰かを何かを、評価する。それはそれで仕方ないとしても・・・おおむね人は、そのようにして外を見ることから始め・・・なにか誰かを判断することが何も自分の正しさ優位とかを保証しないのに・・・そうしてる自分を感じられるような気がして・・・それは実際は自分から眼を逸らして対象を見てるので、
このようにしてる、この・・・この自分て何?その思考の出所を遡ることが有効だったのでしょう。たとえば、なにかを判断するって、どーいうこと?この疑問だけでカルマがないことを了解できたりするものです。師や知識に求めることより簡単なことです。
なにかを見て聞いてることで、自分で感じられるような気がする自分は、日常の自分で探れるようになってる。だからというわけでもないけれど、あの人は優れてて、この人は劣ってるとか、この宗教はよくて、あの宗教とかは悪いとか、そんなことに一切関係しない・・・自分はそんな経緯です。
また、聞いた話ですけど・・・陸橋の下を車で潜り抜けようとしたけど、その陸橋は思ったより低くて接触し、車の屋根は剥がれ運転者は、頭に大けがをした。それは外から見たら悲惨なんだけど、本人は気持ちがよかった。たしかに眠る時、気持ちよくなければ、眠るのが怖いかも、と思いました。
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No.6296 - 2017/11/13(Mon) 17:29:08 |
| ☆ Re: 最期の時の、医者の説明 / hato | | | 10年以上も前、90を越えた祖母が、亡くなる前の何か月かを病院で、殆ど眠ったままの状態で過ごしていました。
ある日病院に行き、祖母に、「伊勢神宮のお守りだよ、おじいちゃんも大事にしてた伊勢だよ」と呼びかけたら、ゆっくりと、うっすらと目を開けて、見えてるのかわからない目で、こちらを見ていました。周りも自分もびっくりしたけれど、明治生まれの祖母の心だったのでしょう。世界も人も、当たり前が不思議です。
出掛けた帰りの車から降りて、ふと庭を振り返ったら、秋の木漏れ日が白に茶に輝いて、夢のような美しさでした。
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No.6297 - 2017/11/13(Mon) 20:45:06 |
| ☆ Re: 鈴木大拙の「解からないと云う事は、解っていること」 / 勘太郎 | | | の意味。 言葉で「月」という言葉を聞いたら、月の事を解ったと感じてしまいます。本当のところは、名札を貼ったのであって、「月」の理解は進んでいません。 自分の事を解っていると感じるのは、名札を付ける事。「解らない」ということは、本物を解っていて、名札はそのものではないと解ること。
叔母の葬儀の御導師様が「今に生かされている自分を感じる機会を、仏になった叔母さんが皆さんに与えてくれているのです」と説教されていました。 今のことはオイラには解りませんが、みんなで叔母を見送ることができました。
お別れの時に、一般的には地味な人生だと思われる叔母も、他の人と同じく、深い辛い荷物を担ぎながら生きた一生だったのだなあと思われて、涙がこみ上げてきました。彼女25歳位の時に結核で最初の夫を亡くし、45歳の時に17歳年下の叔父と結婚したのです。最初の旦那さんの事は、私にも一言も漏らしませんでした。
ただ、戸だに作った横30センチ縦20センチのささやかな仏壇に、親戚中の無くなった人の写真を置いて(その中に旦那さんのものはありません)花を絶やさず、茶菓子をもって遊びに行くと必ず上げていました。 叔父も感じていたとはおもいますけれども、そのことには決して触れません。この頃は再婚というこだわりも消えて自分の妻として受け入れています。
叔母の胸の中に大事に包まれたまま、本日、最初の旦那様の思い出も彼岸に渡って行かれました。
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No.6301 - 2017/11/19(Sun) 22:37:24 |
| ☆ Re: 最期の時の、医者の説明 / ubik0101 | | | そんな話を聞くと、物悲しくなります。でも、なぜそうなるのだろうか。また、物悲しさは、なぜ、物悲しさなのだろうか。たとえば砂糖は、なぜ甘いのだろう。なぜ甘いは、甘い?うどんは、なぜ、うどんの味?なぜ、自分は透明?なぜ、これは、これ。これを知りません。
そして知ってると言うことも、知らないと言うことも、それが何か知らないです。
たとえば仏陀に聞けるとしたら、なぜ、十二縁起は、十二縁起?なぜ、名称と形態は、なぜ、名称と形態?たとえばイエス・キリストに聞けるとしたら、なぜ、神は神。地上は、なぜ、地上?誰か名前を忘れたけど、なんとかという禅者には、なぜ悪は悪?善は善?これに、なんと答えるでしょう。これを、誰か、知ってるでしょうか。
たとえば名称は、知覚認識できることを、知らないのに知ったとして判断したりする不整合がその人の経緯をつくるでしょう。そして形態も、知覚認識できないでも、そう、であることに捕われてる不整合が、その人の経緯をつくるでしょう。それがそのような仕組みだとしても、それが、なぜ、そうなのか?
たとえば、いまここ、総てはひとつ、非二元、空、自由意思があるでもないでも・・・それが、なぜ、それ?それを知る知らないもないのに知ってることと前提として、誰かの意見がそれと違うとか正しいとか、主張できたりするのだろうか。なにも知らないことは、知ってることだ。というのも、これは過剰ではないだろか。まったく知らない、
なのに、ちょっとだけ、なにかどこかに引っかかったり、偏ったり、破綻、歪み、不均衡、不整合をつくって、否定があれば肯定が。意味があれば無意味がある、とか。嘘が真実を生起させたり、とか。そのように何かと何かの関係をつくって自分の経緯を辿るだけ。生きてること、死ぬことも、それがなぜそれか、知らないのに、
たとえば悲しんだら哀れな自分を、怒ったら不満な自分をつくる。嘘をついたら猾い自分をつくる、なにか誰かを非難したら傲慢な自分をつくる。真摯なら素直な自分をつくる・・・それも、ちょっとした歪み、偏り、破綻、不均衡でしかなく・・・嬉しかったり、騒いだり、静かだったり
経緯があるのは仕方ないなら・・・それを上手く使えばいい・・・叔母や叔父、自分。いろんなことがあるけど・・・そんな破綻・・・その経緯・・・広島で生まれ、大分、長崎で育ち、東京、神奈川を経て静岡の片田舎・・・でも、いつも何も無いが始まりです。
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No.6302 - 2017/11/20(Mon) 17:42:37 |
| ☆ Re: 恥ずかしいって、なんなのか? / 勘太郎 | | | 先日健康診断に行きました。 おいらの肌着シャツに虫食いみたいな穴がぽつぽつ開いています。もう何年も着ていますから、穴も開きます。形はしっかりしているので、肌着の用は為しますので着ています。
いつもの健康診断では下着姿になるのは、心電図を取る時だけですので、穴あきも気にしないでいきました。今回は以前とは別の施設で、会場に行ったら入り口でシャツ1枚になったままで、目やら耳の検査をする場所でした。
虫食い穴の開いたシャツで皆さんの前をあっちこっちに移動しました。 ‘恥ずかしいッツ!!”と思いました。 で、「恥ずかしい」ってなんだろう?と思いました。 うびさんの「何も知らない」が浮かびました。順序から云うと、「何も知らない」この言葉があって、後に、おいらに疑問が生まれたのでしょうけれども。
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No.6307 - 2017/11/27(Mon) 07:36:19 |
| ☆ Re: 最期の時の、医者の説明 / hato | | | その恥は、なにを守ろうとするんだろう・・・社会性、他人の目に映る自分、世間と思う世間、社会のなかでの生きやすさ・・・
一方で、自己を表明できなかった、自己を十全に生きられなかったことを恥ずかしい、と思うこともできる、
恥の感覚とは、なにか自分として、信条や思いこみに照らして誤ってしまった・・・ことを示す信号のようでもありますね。どのように使うかは、人に任されているのかも知れません。
恥ずかしい、と思ってきれいな服で出掛けることもできるし、恥ずかしい、と思っている、その自分を探ることも、できるのかも知れません。
人は皆、感覚されること、することが大好きで、愛していて。それに振り回されることも愛していて。・・・いやよいやよもすき・・・・なので、そのこと自体が人にとってとくに問題でないとき、人生は、知られないことも知られず・・・知ってる、というところに沿って、生きていくものかもしれない・・・そんなことを思いました。
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No.6308 - 2017/11/27(Mon) 21:15:31 |
| ☆ Re: 最期の時の、医者の説明 / ubik0101 | | | それが何か知らないけれど、おおむね、恥ずかしい、というのは人間関係では弱さの表現なのでしょう。それと探求にあっては、自分の愚かな、卑怯な行動、発言、思考に対する、そうであってはいけない自戒のように働くと思います。
たとえば、ちょっとした自分の失敗を、嘘を、誰でもするものだ、として誤摩化してしまった。誰かについて勝手な判断をしてしまった。ああ恥ずかしい、と。そんな情けないことではいけない。失敗は認め、事実を受入れよう。
と、ある人は卑怯を克服して恥ずかしさは起こらない・・・そしてある人は嘘をついて誤摩化しても、判断しても恥ずかしさは起こらない・・・なにか人の姿勢で現れ現われない・・・そんなことが人の岐路になるかもしれません。
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No.6309 - 2017/11/27(Mon) 21:20:00 |
| ☆ Re: 最期の時の、医者の説明 / ubik0101&hato | | | さて、ミューが旅に出てはや、3カ月を過ぎました。
どこか車で走ってるとき、田圃のあぜ道を見るとき・・・、思い出されては、切なくなり。
ミュー!、生きてたら、必ず、帰っておいで。 死んでたら、別のになっておいで!
・・・なんて、どうしょうもない。
ちょいわる優しい、上品なツンデレミュー。
そんなこんなしていた、10日ほど前のある日、 ドアを開けたら、こんなのがいました。
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No.6310 - 2017/11/27(Mon) 21:57:40 |
| ☆ Re: 最期の時の、医者の説明 / ubik0101&hato | | | 魚を煮ていて、匂いに誘われたのでしょう。
ナナやミューがきたときほど小さくはないけれど、まだ子供で、痩せていました。母親や兄弟とはぐれたのか、人に捨てられたかも知れませ ん・・・ミャーミャー鳴きながら、必死に、まとわりついてアピールします。
ミューにそっくりです。色こそ違えど、模様の付き方、顔つき、声やしぐさ。あれふしぎ。一日たってもほかに行かないので、病院に連れていき、簡単な検査とワクチンをしてもらいました。生後4カ月♂、2.5キロ程度と判明。
かわいい、利発、あどけなくせわしない、子猫特有の様子です。ただ幸いなことは、殆ど野生だったミューに、とても似ているけど、人に懐くことができる、ギリギリの頃かも知れません。
今後のチャレンジは、いきなりやってきた子猫を、ナナが受け入れてくれるか、。なんとか、仲良くなってくれたら嬉しい。
互いに慣れるまでに、数カ月かかることもあるというので、時間をかけて様子をみて、本当に無理そうなら、知り合いをあたろうと話しています。
コタロウと名づけました。
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No.6311 - 2017/11/27(Mon) 22:33:11 |
| ☆ Re: 猫も犬も新参者は大変 / 勘太郎 | | | No.6312 - 2017/11/28(Tue) 07:55:49 |
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