| ふつうは、自分で自分を見てるということは不可能で、それができるとしたら自我の領域だと思います。たとえば、そうと気がついてなくても、自分が空想した世間、誰か、架空の視点を経由した・・・そのように時間、空間の距離をとって・・・自分が自分を見てるかもしれません。それは世界の中で自分が分裂してる状態です。
と説明されると思うのです。でも、それ全体では、完結してるから、分裂もない自分という構造なのでしょうか。それとも、まったく自分を正確に見つめるということで・・・その自分でない、あるいは自分そのことの視点から日常を見るということなのでしょうか。あるいは見ることそのことだけがあるということなのでしょうか。
どうであれ、自分の過去、あるいはこうありたい未来の行動、思考、感情を、暗い面も明るい面も、誰にも隠すことなく、隠れることなく・・・誤摩化さず見る・・・さらにその奥、原因を探る・・・というのも人は自分には嘘をつけないと言われたりすることもありますが、無意識、潜在意識にあって、どこか快不快、損得、好き嫌いに捕われてる。そんな自分がしてる思考の前提、行動の動機に気がつくことは、
もしかして困難なことのようです。これが出来れば、ここで言う探求の始まりです。それはつまり、この時この場この日常を真摯に注意深く生きるということにもなりますが・・・そこで自分では実感できなくても、素直さ強さ公平さ・・・など、そう意図しないでも良い特質が育つことになり、それは目標があるとして、達成への大事な要素だと思います。
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No.6305 - 2017/11/26(Sun) 18:04:02 |