涼しくなると発病すると書いてありました。確かに今時分に発生します。重曹水を噴霧していますが、予防効果はあるが、顕著な発病には効果がないそうです。気休めですが掛けています。 それでもかぼちゃは実っています。最初の1個早いけれどもたべたら、干してないので甘さはいまいちながら、ホクホク感はまるで栗です。だいぶ動物に齧られています。
小玉スイカは数も甘みもとても良くできました。川砂を肥料袋筒に詰めて、高床鞍とした効果なのかなあ?と思っています。完熟したら動物に食われてしまうので少し早いけど収穫です。おいしく食べました。
私以外に生き物はいないと感じます。鏡に写る自分も、よその叔父さんの様に見えます。天上天下唯我独尊ってこの感覚を云うのかなあ?と思ったり。思考に映る感覚ですから、おしゃか様のおっしゃった意味合いとは全く別です。 鏡を見ている自分と映ってる叔父さんが分かれているのですから、的外れであることは解ります。いつも同じ事しか言えません。同じ自分が言っているので、同じなのが自然です。
|
No.6178 - 2017/09/05(Tue) 21:31:59
| ☆ Re: うどん粉病がひどくなってきました / ubik0101 | | | うどんこ病・・・こちらでは夏の前に、よく発生します。でも、生ゴミ捨て場から発芽して雑草の中で育ってるカボチャは、罹ったことがありません。これはなにか理由があるのかもしれません。
そ、言えば、ふと思い出したことがあります・・・お菓子は50円くらいだし、利益を出す必要はないのだから、お祭りに来た子供達に只であげよう。と、誰か村の祭典委員が言います。
すると、それだと貰える子供、貰えない子供がいるかもしれない、それでは不公平だ。公平にするために、やはり50円で売ろう。と、祭典委員長が言いました。数年前のことです。
ん?たとえば作業員がうまくやって、いい工業製品、野菜とかができたら、雇い主は誉めるとします。失敗して売り物にならないものが出来たら、不満を現すとします。これは雇い主には正直で公平な評価なんでしょう。
なんかの作業、人間関係・・・その失敗、成功・・・その公平な評価。それは、きゅうり、カボチャ・・・収穫量、能力、金額・・・損得、快不快、好き嫌い・・・それが当然のこととして基準、前提になって、その上に公平さ、不公平さがあります。
つまり、そんなことを、基準、前提としなければ、公平も不公平も成立しないのです。ただそれだけです。みんな人は実際は、どんな基準、前提のない・・・公平さもない・・・優劣、正誤、迷悟、誰かとの比較、ひとつ、分離・・・どこにもイメージのないとこにいるはずです。
|
No.6179 - 2017/09/06(Wed) 07:21:40 |
| ☆ Re: うどん粉病がひどくなってきました / hato | | | ご無沙汰してます。すっかり涼しくなりました。夏の終わりから初秋、虫の音が美しく、いい季節です。
北海道の大地でできたかぼちゃ、ホクホク、ほんとに美味しいでしょうね。
裏庭の畑は、殆ど放っていたせいで、トマトも西瓜もいまひとつでしたが、いちじくは、休日は一緒にドーフィンを採りました。ドーフィンは酸味が爽やかで上品、ギリシャ産の「ブリジアソットグリース」は、濃厚でとても甘いです。
総てはひとつ・・・ふたつ・・・いまここ・・・そういうことを言い続けたり、ことさら感じようとすることは自分にむつかしい、といつも思います。
|
No.6180 - 2017/09/06(Wed) 08:35:50 |
| ☆ Re: やってはいけない、最大の障害 / 勘太郎 | | | が悟りゴッコと云う事は、聞いてはいて、そうかもしれないとはおもいますけれども、どうしても早く何とかしたいと、悟りゴッコに嵌まります。 ゴッコでない訓練とは、数息観であり無字です。これはやっていて面白くないのです。あっちの本こっちの書き込みを覗いては、うなづいたり、違うよなあ〜と感じたりの方が面白い。 仕方なく、なるべく自分の思考を観察することにしていますけれども、これまた方向が違っているようです。私同様その周りをきょろきょろうろうろしている方も多いように感じます。
|
No.6181 - 2017/09/06(Wed) 20:22:58 |
| ☆ Re: うどん粉病がひどくなってきました / hato | | | つまり、ここではそういう、総てはひとつ・・・いまだーここだー・・・と、なにか目標なる落ち着きどころを目指してるなら、それが、先ずはそのような自我・・・ということです。探求とはいえないでしょう。
強いては、確認ごと・・・、なにか評価・・・段階・・・知識と観念あーだーこーだー・・・そんなのはガラクタでしょう。つねに確認したい、位置を確認していたい、というのは、探求、とは無関係、自我の興味本位に過ぎないでしょう。
ガラクタ集めもときに気晴らしとして、ずーと嵌っているなら問題でしょう。
なにかをことさら感じる、感じられる、ことが大事なのではないです。感じることや、確認ごとが 大なり,なら、別の道です。それらは自分には、非常に、怪しい道です。
そして探求は、「なにか社会性、この社会をどうするか?!」などとも、無関係に、あることです。
|
No.6183 - 2017/09/07(Thu) 01:18:04 |
| ☆ Re: うどん粉病がひどくなってきました / ubik0101 | | | うーん、書を読んだりすること、また、なんかメソッドのある瞑想とか、修行、師につくこと・・・そんなことはしたことはありませんが・・・そいうことは、探求ではありませんでした。そして、この自分を、というのも変なのですが・・・探求するだけが人生の意味で喜びでした。
それは自分が生きて生活してるということ以外の、ほかのどんなことも要しません。たとえば映画を見ること、恋愛すること、友人をつくること、悩むこと・・・そいうことは、生きてなければできないというほどのことではなかった、のです。ただ徒手空拳で、自分の中心に向かう、これだけでした。
たとえば思考を見て、その、どんな基準も、前提も理解によって破壊する・・・自分のほかのどのようなことにも依存しない・・・説明としては、自分だけに依存するのですから、その自分は見えないのですから、自分にも依存できない・・・唯我独尊も成立しない・・・これが探求です。
もしかして人間関係、仕事、修行がうまくいかないと、なにか原因を求めませんか?意識が、なにか原因と思われることに接着してしまいませんか。あるいは逆にそこから離れませんか。そうなら、それが間違いかもしれません。自分という注意を、なにかそいう原因とか、ほかのことという対象に結びつけないでいられませんか。
|
No.6184 - 2017/09/07(Thu) 01:18:41 |
| ☆ Re: 見えない自分のイメージを創る作業をしてしまう / 勘太郎 | | | 様なかんじがします。
原因を見つけて解決しょうとしています。無字が良いのかな?どうすれば良いのかな?が常に渦巻いていいます。 見えないけれど、在ると賢者が口を揃えておっしゃるのだらから、胸の辺りに感じるうずきがそれなんではないかな?そのうずきを思考で解りたい・解るだろうともがいています。
なにかをことさら探しています。その通りです。探すのに夢中で楽しいと感じてしまいます。
どうすれば良いのか?と思考が言っています。 どうもしないこと。さて、どうもしないをどうやってする・・・・・
・・・・・・・・言葉を発することはしません。わからないまま中途半端・・・・・でいる。これまた外れます・・・・・
|
No.6190 - 2017/09/07(Thu) 19:55:52 |
| ☆ Re: うどん粉病がひどくなってきました / ubik0101 | | | ところで、真我とは、何でしょう?それは私です。ほかのことではないです。世界でも、神でも、空虚でも、そのよな、どこかに、あれこれ探せる、対象にできることではないです。
|
No.6191 - 2017/09/07(Thu) 20:09:46 |
| ☆ Re: うどん粉病がひどくなってきました / ubik0101&hato | | | なんでもいいですが、ほんとうの自分、真我、と聞くと、どこかに、ある、なにか、を探してしまうかもしれません。たとえば自分の胸の奥の空間に気を巡らせて探すかもしれません。たとえば世界の内外、あるいは実在だ、無だ・・・どうでしょう。すると、それを探してる、
あるいはそう思考してる自分は、どうやっても常に、それと違うことになってしまうかもしれません。それなら、そのように探してる自分は、いったい何でしょう。この普通の日常の自分、それだけを見ると、それは、いったい何でしょう。偽の自分でしょうか?そうだとしても、
それは意識、知覚、身体でしょうか?これは何々であると、特定できるでしょうか?そこで、探してる自分・・・もちろん探さなくても、ふつうの日常・・・これこそ真我だ。とします・・・ここで自然に変位します・・・たとえば、猫や鳥が見えてること、この部屋の空間、歩いてること、
スピーカーから流れてる音楽・・・これ・・・ここには見えてること聞こえてることのほかのことは何も無いのです。これまで、こっち側に、またどこかに、ある、ような気がしてた、なにかほんとうの自分、真我、ふつうの自分が、空っぽの家のように、ない、です。そして見えてる風景、ここに自分のほかには、
なにもないのです。なんでもかんでも自分です。たとえば、ここに展開してる風景が自分なので、そのほかに自分というなにか個別の特定のことはありません。自分は意識でも知覚でも身体でもありません。ここで・・・風景が見えてるそれは自分が見てると、再認識します。すると、見えてるものたとえば空の雲が自分です。世界が自分です。それだけです。
いろんな経緯はあるでしょうから、なんとも言えないですが、こいう、なにか風景とかにありきるというのは、悟りの扉になるかもしれません。それはそれとして、たとえば悟りを求めてる自分・・・これは何故、求める?なんであれ、自分の、行動、発言、思考を、正当化してるその見えない理由を探る。思考して思考して思考しつくすのです。
この普通の生活そのことが、それをするようにしか出来てないじゃないですか。この野郎、ああ儚い人生、子孫の平安、悟りたい、どんな気持ちであれ、その奥を、裏を探る。これだけです。それをネグって悟りを求めることは、服を着たまま風呂に入るよな変なことで、なかなか難しいかもしれません。
ubik0101
ねぐるって、ぐれるっ、みたいでおもしろいですね。 今日は一日、風がすずやかでした。 網戸の張り替え!デッキの掃除!一所懸命。ちょい、草取り・・・こんな休日も、いいです。
hato
|
No.6200 - 2017/09/11(Mon) 18:00:29 |
| ☆ Re:‘’ ねぐらない‘’でいることが理解できた / 勘太郎 | | | 様な気がしますが・・・書き込んでいる途中に、疑問が起こりました。
「私は在る」と感じようと、探ってしまうことがねぐる。ねぐらないとは、探る自分を見つめようとすること。(書き終って、ねぐらないは探らない、探りから離れる事かな?とおもいました) しかしこれでは、相対する2枚の鏡の間に自分を置く様な形で、探る自分を又探らなければならなくなります。 無限に続く自分探しを諦めて窓の外を眺めます。目は透明で目の後側は空っぽの空間の様に感じます。が、自分がこの空間です。厳然として雨雲は向こう側にあります。
奥さんが一泊で釧路の犬猫仲間に会いに行っています。それで私が有給休暇を取って、自宅の犬猫の世話をしています。散歩と猫のエサやり他を一人でやると、朝2時間夜2時間かかります。楽しい時間です、それも終わりました。
それで今日はゆっくりじっくり
〉自分の、行動、発言、思考を、正当化してるその見えない理由を探る。〈
ことをしてみます。幸い雨も今のとこと大した降りではありません。
|
No.6201 - 2017/09/12(Tue) 08:34:06 |
| ☆ Re: うどん粉病がひどくなってきました / ubik0101 | | | ネグることは、それがそのまま私はある、を感じようとすること。ネグらないこと、それがそのまま、自分の思考、発言、行動の成立原因を探ること。ではないです。
ネグるとネグらないは相関関係にないです。私はあるを感じようとすることと、自分の思考、発言、思考の奥を探ること、それを結びつけて考える必要はないです。
やったことがないので、おこがましいですが、むー、と叫んだり、呼吸にあわせて数えること、それはもしかして、そのことに、ありきるということなのでしょうか。
そだとしたら風景にありきる、も同様かもしれません。眼の奥の、空間、にではなく、見えてる、これ、風景、に自分の座?中心?居場所?が移るのです。自分のいる家を出るのです。
あるいは、眼の奥は何もない空間なら、そこに世界は浸透してるでしょうか。自分の中に風光が差し込んでる。なら、ひとつも分離も、悟りも迷いもなく、景色にも音にも思考にも感情にもそれは染まらないのでは?
|
No.6203 - 2017/09/12(Tue) 19:34:17 |
| ☆ Re: うどん粉病の巻で理解できたこと / 勘太郎 | | | おぼろげながら、解ったこと。自分探しをしているつもりでありながら、対象を探したり、見つめたりしていて、肝心の自分に注意が向いていない。対象と自分をくっつけたまま、対象に注意しているつもり、をやってしまっている様にかんじます。
やはり自分に注意を向けるのは難しいです。では、どうすれば自分に注意できるか?難解です。 私が今まで、ズレたことをやっている事はわかりました。いろいろやってみます。
覚醒体験には歓喜が伴うと聞いて、なんとかこの歓喜を味わいたいと願っています。 ふと想像したのは、歓喜は歓喜ではなく、自我という錘から解放された時に負荷無しの状態になるので、心は歓喜とかんじるのではないか? 自我を放り投げることで、両手両足と脳・心が元のゼロになる、こんなことではないのかなあ?って思いました。
|
No.6205 - 2017/09/13(Wed) 20:44:13 |
| ☆ Re: うどん粉病がひどくなってきました / ubik0101 | | | その歓喜は自我から解放されたからだ、というのも一つの解釈でしょう。あくまで説明ですが、生き物が生きたり死んだり、喜んだり苦しんだり、出会ったり分かれたり・・・見える、聞こえる、思考してる、好き嫌い、喜んでる、悲しんでる、
また意識、無意識、善、悪・・・ありとあらゆる世界の構成要素の総ての活動そのこと、世界、それが歓喜状態にあるのです。たとえですが、フルートやバイオリンや歌手というオーケストラの構成要素、それぞれ世界の構成要素が、全身全霊で活動しながら、
歓喜の歌を歌ってるのです。それは、どんな素晴らしい特定の個別の喜びとも取り替えることができず、どう説明しても、それは理由付け、意味付け、解釈になります。なにかが、世界が人の覚醒を喜んでる、とも言えるかもしれません。
その体験のその段?を緯(よこいと)とか、縁起とか・・・あらゆることが活動してるので、どの極端にも、その中間にも留まれないから・・・中道とも呼んでいます。(たていと)経は、その中で起こります。ただこれに依存したり捕われてしまうと、
かなりの苦痛です。その苦痛が、その体験を読み解く原動力です。その体験を捕まえても忘れるだけでも駄目で、その体験という圧縮された情報を解凍する必要があると思います。自分の、つまりそうとは気がつかないでも自我の
その行動、発言、思考の成立原因を探る・・・そのことで素直になり・・・読み解く知?も活性化していったのだと思います。自我は充分に役に立つのです。そして、自我は自らを完成して滅ぼすためにあります。
|
No.6209 - 2017/09/14(Thu) 07:07:04 |
|