ラマナ・マハルシの「汽車に乗っていながら、自分で動こうとするな」は同じ事を言っているのでしょう。
自我が「自分は外界を動かす事ができる」と誤解して奮闘してしまう事は、勘違いであることへの指摘。
自我(自分)は今晩何を食べるか?の選択はできるかもしれないが、世界のほとんどに何の影響を与えることもできない。今晩のご飯にしても、過去の影響下にあるのに・・・。
世界を今在る事を認める事しか行う事はできないのだけれども、おらはなんとか動かせると思ってしまいます。
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No.6771 - 2019/02/12(Tue) 16:39:44
| ☆ Re: キリスト教の神様にお任せと / ubik0101 | | | うーん、汽車て、因果のことでしょうか。そしてマハルシは、動いてない重い汽車を人が動かそうとするのは馬鹿げてるよね?と言ってるのでしょうか。すでに人は動いてる因果に乗ってるのだから、と言うより、すでに人とは・・・百億の昼と千億の夜・・・因果(ここの話では汽車)のことなのだから、それで何の疑問がある?
また汽車のレールはもう敷かれているのだから、レールのないところを走ろうとすると、脱線するよ。とか、あれこれ考えるのもいいかもしれませんが・・・みんな纏めて、ある程度は人は汽車を運転してるとか、できない亊があるとか、運命は決まってるとかないとか、自由意思はあるとかないとか・・・なんだかんだ言おうと言うまいと、そんなことは(空想で)欲の範疇だよね。と、事実から眺めてる風情でしょうか。
キリスト教では、神に任せるってことになってるかは知りませんが・・・神とか、仏とか、因果とか、そんなことを対象にしないで、つまり、何に何を任せるの・・・何に・・・がない任せる。それは・・・何を・・・のない任せる。結局、任せる相手も任せる主体もない(空想しない)任せる。あるいは任せるとか任せないとかのない日常。
たぶん事実との区別がない思考(空想)に迷ってて迷ってることに気がつかない人に・・・自分が世界、因果、社会、人間関係などを、動かしてるとか、動かされてるとか・・・ありもしないことを根拠に誰かを非難したり、自分を正当化したり、判断したり・・・そんな欲の中で生きてる人に効果を期待して、事実はこうだよと、ぶつけてる話かもしれません。
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No.6772 - 2019/02/12(Tue) 21:05:14 |
| ☆ Re: 前回の繰り返しの疑問になってしまいました / 勘太郎 | | | 繰り返してしまうのは、世界が自分と解からないおいらが情けないです。 それでも、繰り返しつつ、僅かではありますけれども、理解が深まっている様に思います。本当は、どかんと抜けないと何も始まらないのですけれども。理解も空想の中の出来事。 世界に飛び込んで何の不都合も無いのは解かっているつもりなんですけれども、空想から抜け出られないのです。 ここをおしゃか様は火宅の喩(火事が起こっている古い屋敷の中で遊んでいる子供が、煙や火を見ても逃げ出したがらない)にしているのでしょう。
空想は楽しい! いや、本当に楽しいのか?産まれてからづっと空想の中でしか生きて来なかったので、空想を手放すのがこわいのでしょう。 どんと背中を押されているのに、家の外にでるのを怖がるおいらがいます。
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No.6773 - 2019/02/13(Wed) 08:24:17 |
| ☆ Re: キリスト教の神様にお任せと / ubik0101 | | | おそらく欲と現実の境目、空想の因果と事実の因果の境目・・・ふと検索してみたのですが仏教で言う、欲界と色界・・・の間には障害があって、行く人を遮ってるかもしれません。
その障害とは・・・いわゆる心理的思考とか、葛藤とか、苦痛とか・・・それに巻き込まれてそれを観察しても、探っても、たとえそれで人間関係に悩まなくなった、平穏になった、としても、あんまり意味はないように思います。
そんなことで一生を過ごすことがその障害としての罠かもしれません。誰かがそいうことを話たとしても、欲界にいる人に、あえて色界からみて、欲の馬鹿馬鹿しさ、滑稽さ、を話してるだけで、それは悟りとかとは、関係ないです。
ファイナルファンタジー7あたり、どこかの雪山の中腹に最強の雑魚キャラが出現します。それはヒットポイントが無限で、戦っても絶対に勝てないで、こちらのパーティが全滅です。対処法は、ただ横を擦り抜ける。それだけです。
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No.6774 - 2019/02/14(Thu) 07:53:57 |
| ☆ Re: 横をする抜ける / 勘太郎 | | | 30分前は快晴した。1時間前には雪で100m先が見えない程でした。あれ、今、また明るくなってきました。目まぐるしく天気が変わります。薄暗く雪の時には、うっとうしくなります。晴れればウキウキします。
欲望・怒り・喜び、一喜一憂するおいらを、仙人の様に静かな私にしようと戦うよりも、その横を迂回して進んだら、仙人には成れないが一喜一憂も後ろの出来事。
坐禅も横をすり抜ける方法なのかもしれません。坐禅は欲望や怒りに対峙することではありませんから。ただ「ムー」と腹の底から声を出す、これが坐禅。簡単ではありませんけれども。
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No.6775 - 2019/02/14(Thu) 09:13:13 |
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