自我とは
「誰か」に見てもらうことで自己確認をし、安心しようとする存在のこと
「何か」(世間の目・他人の目・神のまなざし・愛、など)に、対象とされることに依存している存在のこと
なのです。
昨夜、痴呆症の義母と真剣に話をしました。 お金が無いと騒ぐので「娘たちがかんりしているから大丈夫だよ」と言っても収まらないので、 ばあちゃんの誕生日は何時なの?と聞くと「そんなことはどうでもよい、今はそんなことは話していない」と怒りだすのです。 大声で泣く・ガラス戸が割れる程の勢いで開け閉めする・他人が通る度に顔をだすなど、自分がここに居ると認めてくれ!と自我が叫んでいることがよく解ります。
他人に私の事を気づいて欲しい、から大声を出し、声を掛ける。年寄の行動はこの自我の働きが素直にそのまま表れる様に思います。
子供のいたずら、少年の悪さ、青年のバカ騒ぎ、中年の地位ひけらかし。
だれが認めなくても、私は此処に現れていることは誰にでもわかるのです。けれども他人・犬や・猫にも自分を解ってほしいし、もしかしたら畑の草・野菜にもそう感じているのかもしれません。
理性で自分を確認するだけでは、満足できないのでしょうか。自我の拡大欲望が覚醒の妨げらしいですけれども、なかなか手ごわい相手が自分の自我です。
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No.5994 - 2017/06/30(Fri) 21:47:59
| ☆ Re: 栄宗寺御住職様のおっしゃる通りの自我を見ます。 / ubik0101 | | | そのように、相手に自分を見てもらう、そしてその逆、自分を相手に認めさせる、そんな関係というのも自我なら自我でしょう。傲慢も、謙りも、自我なら自我でしょう。つまり、ないはずの自我が、ありとあらゆることを機に、
たとえば・・・傲慢、謙り、尊敬、信仰、不信仰、高い地位、低い地位、年齢性別、善悪、不満、満足、喜怒哀楽、思考、素粒子、挨拶、犬猫ネズミ、春夏秋冬、極端、迷悟、観察、中庸、素直ささえ、生死さえ・・・ありとあらゆるもの、こと、を機に、
それに乗って、そこを波立て騒がし・・・もともと自我ということでない、もの、こと・・・を自我の媒体として現れるのかもしれません。それで逆に自我のことは、それぞれ各自のことで、承認要求として認識されたりもするのでしょう。
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No.5995 - 2017/07/01(Sat) 07:48:30 |
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