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(No Subject) / brahma
愛は愛を愛してやむことはない
No.5985 - 2017/06/26(Mon) 15:31:30
(No Subject) / brahma
愛は愛を愛してる
No.5984 - 2017/06/26(Mon) 15:31:01
(No Subject) / brahma
愛は愛を愛してる。
No.5983 - 2017/06/26(Mon) 15:30:39
(No Subject) / ubik0101
ゆらぎさん

> 自我の完成とは、どうなることでしょう?
> 私も、探求のスタート時は、自我(魂、霊性)の完成だと思っていましたが・・


たとえばドラゴンクエストでも、碁でも将棋でも、それが決着するまでは、動きがあります。そのように未完な自我は、働きます。自我の完成とは、自己の了解、です。

たとえば怒りとか、悲しさとか、楽しさとか、地位とか名誉とか、金額とか、世界の構成要素それ自体が自我ではなく、それによってつくられる架空の構造が自我です。家とか車とか、知識とか、怒りとか、悲しさとか、楽しさとか構成要素が機能する、それ自体が自我ではないです。

ただ、どういうわけか子供の頃からも、悔しさとか、恨みとか、そいうのは感じたことがないです。受動的に知覚する周囲と自分の状況を、悔しさ恨みとして能動的に再構築しないのかもしれません。

> 自我は自分の属性の一部であり、ずーと幸せで問題ない状態もまた、自分です。

その自分とは何?です。ゆらぎさんの言うには、ない、でしたっけ?ない、に属性が、どのようにしてあり得るのでしょう。それとも属性だけがあって、その中心は、ない、でしょうか。その。ない、は、ほんとに、ただの、ない、でしょうか。

たとえば悲しくても辛くても、ふつうに仕事してても、幸せでも、自我と気がついてないでも、自分それは完全に自我でした。ときに自我、あるいは自我ではない、ときに無我、そんなことはありませんでした。ただ自我にあって自我に気がつきませんでした。

自我の完成、常套句としては自我の死。から見て、自我が完成してないことを自我、と呼ぶのです。でなくては自我という言葉を話しても、なにか誰かとか自分を観察して、なんとなく何かの人の状態を自我と呼んでるだけではないでしょうか。

> 自分で自分を感じたいのが自我というのは、私もそう思います。
> 自分て何?と探求を深めることが、自我の活動を活発にして、より自分(自我)を感じられるのだと思います。


それは決着がつきます。自我があることが問題ではなく、せっかく自我は機能してるのに決着しようとしないそのことが、自我が問題とされるなら問題です。その人のことは、その人のことなので。そうでないというなら、ほかの誰も関知できない、そんな問題です。

> スイッチは、ビッグバンとビッグクランチ、宇宙の始まりと終わりです。

> シュミレーション仮説ですが、私はシュミレーションが目的ではなく、3次元の映画だと思っています。
> 映画は、作者や映画監督、美術や音楽担当、俳優、観客など多くの人々が関わってきますが、その誰もが楽しめます。
> 仮想現実だと分かっていても、映画の中ではその仮想を現実だと認識していますから、本気で喜んだり悲しんだり出来ます。考えられないような不幸や凄惨な場面もありますが、仮想現実だと分かっているので、映画が終われば心理的な負担は残りません。


> この世、3次元の映画は俳優と観客の両方を楽しめますが、あまりにリアルすぎて仮想とは思えないため、葛藤が起こってそれに巻き込まれてしまいます。
> それも、ドラマの筋書きであり、誰もが本当は2次元の映画以上に楽しんでいるのですが・・・。


> どちらにしても、ドタバタ・ジタバタするわけで、それを一所懸命演技することが、生き甲斐なのだと思います。

ここで気になるのは、それと自分とか、それとこの世界とかの、その関係です。私はある、あるいは、それはある。どちらも、いわゆる、私と私の、それと私の分離では?そうでなければ3D映画説は成立しないのでは?

ではなくて、誰もが俳優と観客なら、世界という映画を見る誰かはいない、ということでしょうか。それなら映画を見てると感じてるそのことも仮想では。また映画が仮想のように、スイッチをON、OFする、それ、も仮想、想定されてるのでは?

すくなくともシュミレーションな世界に生きてるとして、世界はシュミレーション?と疑える?のですから、認識できる?のですから、この世界にあってこの世界を、知ろうと、自分で自分を知ろうとしてるでしょう。

ということも、シュミレーションな世界に組み込まれてるのでしょう?それなら、シュミレーション仮説そのことがなんだか意味を失うような気がします。ひとつの世界解釈としてでなければ、シュミレーション仮説は成立しないのでは?

ゆらぎさんにとっては、ubik0101も、あるいは映画俳優、あるいは観客とか、演出家とか、脚本家かもしれませんが・・・ubik0101にとっても、そうなのでしょうか?また、映画が終わったら、みんなどうするのですか?背伸びして映画館の外に歩きだしますか?

それと、自由意思がない、ということが、この世界が仮想現実であることの絶対条件でしょうか?そしてまた、なにもかも世界が仮想なら、映画なら、自由意思があるというのも、自由意思はないというのも、仮想では?

で最初に戻りますが・・・世界をON、OFする、それ、には自由意志がないのでしょうか。なら、それ、も仮想では?自由意志があるとするなら、それは自由意思がないという、ゆらぎさんと、それ、とは分離してませんか。その分離が仮想世界仮定を成立させてませんか?

それで、なにがなんだか解らない世界にあって・・・この世界は仮想だ、映画だとか、いやリアルだとか、探ることよりも・・・その、この自分は何?に、生活は、日常は、収束、帰着すると思います。これを問う,問わないは、自由、その人次第のようです。

No.5929 - 2017/06/05(Mon) 06:25:26

Re: / ubik0101
あるいは、私はある、また、それは、ある。ならどこに仮想現実が生じるでしょう?
No.5930 - 2017/06/05(Mon) 07:01:38

Re: 私は誰か?と問えば私は消える? / 勘太郎
スマホからです。
暑いを追いかけると、それが消え。寒いを追いかけると、寒いが消え。私を追いかけると、私が消える?
私を消すために、私はだれか?と問えとラマナマハリシは言うのでしょうか。何にも無いですかと師に言った雪担老師はそれを言うのでしょうか。
おいらはそうはなりませんけれども。

No.5934 - 2017/06/05(Mon) 16:08:01

Re: / ubik0101
マハリシのことも知りませんけど・・・いきなり意識と無意識が融合し、見えないとも思いもしないほど暗かった自分の奥が明るくなり・・・自分がないとも思ってもなかった、実はその自我の中心は、ない、だった。

その自我の仕組みが解かれる・・・開示される・・・と、これで探求は完成したという、深い安堵、を経て、人としての構成要素、知覚、感情、思考が総活動して、縁起・・・言い方はともかく、世界が一望に展開される・・・歓喜状態になった。

そこで神としか思えない、実在、それがそれの原因。からの眼差し、愛を受ける。その受けてるのは自己。これは、実在との関係で、ある、です。自我という、ない、が、自己という、ある、に転換されるとも説明できないことはないです。

しかしその、ある、も、あるにありきって、距離がなくなって、対象にならなくなって、ない、です。人から見ればこうなのですが、どうも実在から人への働きかけを、人としては逆から、このように体験するとも思えます。実は体験は終わりではなく、学ぶことの始まりです。

こんな、ないとかあるとか、自我とか自己とか、こんな話を誰かから聞いてもしょーもないでしょう。イメージが起きるだけかもしれません。つまり、誰も、自分で自分を実証できるから、誰かの言うことを信じたりする必要がないのだと思います。

No.5935 - 2017/06/05(Mon) 18:58:36

Re: / ubik0101
なにか、なくなるとしたら・・・自我という、もとから、ない、ことが、なくなるだけです。
No.5936 - 2017/06/06(Tue) 18:04:43

Re: / ubik0101
たとえば石や木材や瓦を使って家を建てます。これは、家の内部という空間、たとえですが、ない、を作ったのです。それは世界から小さく空間を囲って分離させたのです。その家は世界から素材を得ています。

そこで人は暮らし、いろんなことが起きるでしょう。そして子供が育ち、もう必要なくなったので家を壊します。その家の空間、ない、はもともと家が建ってなかったときのように、なくなります。そこは青空です。

No.5937 - 2017/06/06(Tue) 20:25:07

Re:元々ないが、元に戻って自我は無い / 勘太郎
 覚醒していない人が、自分を振り返って「自分は誰だ?」と問いかけたら何も無かったので、これを虚無と呼んだのでしょうか。
覚醒は無意識を意識できるように成るらしいです(方便での表現なのでしょうけれど)。
おいらが覚醒していることは知っています。何故ならば覚醒していないと思っているからです。覚醒を知らなければ覚醒していないと云う感情は起きないはずです。
 自分は玉ねぎで、いくら剥いても芯は現れません。
人体の皮を剥き筋肉を剥き、脳の中、心の中を剥いでも自分は解りません。
 自分の腕とテーブルの境目は眼で見れば分かりますけれども、眼を閉じたら、どこが境目なのか?分かりません。
 それでもおいらはこの身体です。

No.5938 - 2017/06/06(Tue) 22:08:51

Re: / ubik0101
もしかして、いつか身体は死ぬから、それに接着するということでしょうか?
No.5940 - 2017/06/08(Thu) 06:25:15

Re: / ゆらぎ
ご無沙汰です。

仕事が忙しくて、心身共に余裕がなく、返信が遅くなってしまいました。

> ゆらぎさん
>
> > 自我の完成とは、どうなることでしょう?
> > 私も、探求のスタート時は、自我(魂、霊性)の完成だと思っていましたが・・
>
> たとえばドラゴンクエストでも、碁でも将棋でも、それが決着するまでは、動きがあります。そのように未完な自我は、働きます。自我の完成とは、自己の了解、です。
>
> たとえば怒りとか、悲しさとか、楽しさとか、地位とか名誉とか、金額とか、世界の構成要素それ自体が自我ではなく、それによってつくられる架空の構造が自我です。家とか車とか、知識とか、怒りとか、悲しさとか、楽しさとか構成要素が機能する、それ自体が自我ではないです。
>
> ただ、どういうわけか子供の頃からも、悔しさとか、恨みとか、そいうのは感じたことがないです。受動的に知覚する周囲と自分の状況を、悔しさ恨みとして能動的に再構築しないのかもしれません。


架空の構造が自我であれば、自我の完成という概念そのものが成立しないと思いますが?

> > 自我は自分の属性の一部であり、ずーと幸せで問題ない状態もまた、自分です。
>
> その自分とは何?です。ゆらぎさんの言うには、ない、でしたっけ?ない、に属性が、どのようにしてあり得るのでしょう。それとも属性だけがあって、その中心は、ない、でしょうか。その。ない、は、ほんとに、ただの、ない、でしょうか。
>
> たとえば悲しくても辛くても、ふつうに仕事してても、幸せでも、自我と気がついてないでも、自分それは完全に自我でした。ときに自我、あるいは自我ではない、ときに無我、そんなことはありませんでした。ただ自我にあって自我に気がつきませんでした。
>
> 自我の完成、常套句としては自我の死。から見て、自我が完成してないことを自我、と呼ぶのです。でなくては自我という言葉を話しても、なにか誰かとか自分を観察して、なんとなく何かの人の状態を自我と呼んでるだけではないでしょうか。


ここで言う「自分」とは、自我というアプリケーションが、思考や感情やそれらの記憶を統合して自己同一化したものです。

> > 自分で自分を感じたいのが自我というのは、私もそう思います。
> > 自分て何?と探求を深めることが、自我の活動を活発にして、より自分(自我)を感じられるのだと思います。
>
> それは決着がつきます。自我があることが問題ではなく、せっかく自我は機能してるのに決着しようとしないそのことが、自我が問題とされるなら問題です。その人のことは、その人のことなので。そうでないというなら、ほかの誰も関知できない、そんな問題です。


そうです。自我は問題ではありません。
自我を問題とするから、問題になるだけのことです。

> > スイッチは、ビッグバンとビッグクランチ、宇宙の始まりと終わりです。
>
> > シュミレーション仮説ですが、私はシュミレーションが目的ではなく、3次元の映画だと思っています。
> > 映画は、作者や映画監督、美術や音楽担当、俳優、観客など多くの人々が関わってきますが、その誰もが楽しめます。
> > 仮想現実だと分かっていても、映画の中ではその仮想を現実だと認識していますから、本気で喜んだり悲しんだり出来ます。考えられないような不幸や凄惨な場面もありますが、仮想現実だと分かっているので、映画が終われば心理的な負担は残りません。
>
> > この世、3次元の映画は俳優と観客の両方を楽しめますが、あまりにリアルすぎて仮想とは思えないため、葛藤が起こってそれに巻き込まれてしまいます。
> > それも、ドラマの筋書きであり、誰もが本当は2次元の映画以上に楽しんでいるのですが・・・。
>
> > どちらにしても、ドタバタ・ジタバタするわけで、それを一所懸命演技することが、生き甲斐なのだと思います。
>
> ここで気になるのは、それと自分とか、それとこの世界とかの、その関係です。私はある、あるいは、それはある。どちらも、いわゆる、私と私の、それと私の分離では?そうでなければ3D映画説は成立しないのでは?


そうです。
分離するために、この相対的な世界はありますから。
分離が無ければ相対関係は起こらず、ドラマは始まりません。

> ではなくて、誰もが俳優と観客なら、世界という映画を見る誰かはいない、ということでしょうか。それなら映画を見てると感じてるそのことも仮想では。また映画が仮想のように、スイッチをON、OFする、それ、も仮想、想定されてるのでは?

全ては想定です。
形而上の事柄は、実証できません。

> すくなくともシュミレーションな世界に生きてるとして、世界はシュミレーション?と疑える?のですから、認識できる?のですから、この世界にあってこの世界を、知ろうと、自分で自分を知ろうとしてるでしょう。
>
> ということも、シュミレーションな世界に組み込まれてるのでしょう?それなら、シュミレーション仮説そのことがなんだか意味を失うような気がします。ひとつの世界解釈としてでなければ、シュミレーション仮説は成立しないのでは?


そもそも、ひとつの世界解釈にすぎないと思っておりますが?

> ゆらぎさんにとっては、ubik0101も、あるいは映画俳優、あるいは観客とか、演出家とか、脚本家かもしれませんが・・・ubik0101にとっても、そうなのでしょうか?また、映画が終わったら、みんなどうするのですか?背伸びして映画館の外に歩きだしますか?

ubik0101さんにとってどうなのかは、私には決められません。
映画が終わったら、全てが無くなるのか、また新たな映画が始まるのか、知る由もありません。

何もコントロール出来ないのですから・・。

> それと、自由意思がない、ということが、この世界が仮想現実であることの絶対条件でしょうか?そしてまた、なにもかも世界が仮想なら、映画なら、自由意思があるというのも、自由意思はないというのも、仮想では?

そうです。
自分を見つめた結果、自由意思はないという仮想にたどり着いたのです。
思考も感情も意思決定も、ただ反応として起こっていることです。

> で最初に戻りますが・・・世界をON、OFする、それ、には自由意志がないのでしょうか。なら、それ、も仮想では?自由意志があるとするなら、それは自由意思がないという、ゆらぎさんと、それ、とは分離してませんか。その分離が仮想世界仮定を成立させてませんか?

分離していますよ。
自由意思がないのは、この宇宙(量子コンピュータ)内の私の話であり、この宇宙(量子コンピュータ)をON、OFする存在とは別です。
私はその存在の意識かもしれませんが、知る由もありません。
ですから、「私は無い」が「それは在る」なのです。

> それで、なにがなんだか解らない世界にあって・・・この世界は仮想だ、映画だとか、いやリアルだとか、探ることよりも・・・その、この自分は何?に、生活は、日常は、収束、帰着すると思います。これを問う,問わないは、自由、その人次第のようです。

この自分は何?は、まさにマハルシの問でもありますし、私も実践してきた結果です。
ある思いが湧き起こる、それは何から起こったのか?
ある感情が湧き起こる、それは何から起こったのか?
その問いをずっと続けてきましたが、何も見出せませんでした。
つまり、自分というものをどこにも見出せなかったのです。
自分がいないのに、自由意思があるはずがありません。

また、自由に考えているようですが、浮かんできたものしか考えることが出来ないのです。浮かんできたものを、自分が考えたと自己同一化しているだけだということに気が付きました。
つまり、思考も感情も意思決定も、ただ反応として起こっていることです。

それに、自由意思があるなら、考えないということも出来るはずです。
しかし、1分も経たないうちに、「何か」を考えていることに気が付きます。
そして、その「何か」は、自分が自由に考えたものではなく、自分の意思とは無関係に浮かんできたものです。
どこにも、自由意思なんてありません。
コントロールできるものなんて、何もないのです。

No.5946 - 2017/06/11(Sun) 08:16:57

Re: / ubik0101
>架空の構造が自我であれば、自我の完成という概念そのものが成立しないと思いますが?

たとえば嬉しい、青空、素粒子、名誉、金額、数学とかの世界の構成要素で構築された、仮の主体が自我と呼ばれます。数学の難問の解決法などでも、誰が見つけたのか?で争うこともできるでしょう。

たとえば数学の難問の解決法・・・それが仮想だとしても・・・自我は、さらにそれで組まれた、架空の建築なので、解けます。あやとりで東京タワーをつくっても、その糸を解けばその東京タワーは消えます。

でなくて自我は・・・糸、嬉しい、悲しい、太陽、青空、夜、数学・・・世界の構成要素そのことなら・・・また総てが一律に仮想、または一律にリアルなら解けることは困難でしょう。

おそらく自我が消えて自己が現れるのではなく、自己が現われるので予め自我の構造が解けるのです。それを人からは、自我がなくなったら、真理とか、神とか、が現れる。と見えるのだと思います。

ところで自我の完成という言い方は・・・自我は人が未熟な状態で機能する、自転車の補助輪、花の苗の支柱、育ての親、マニアル、設計図のようなことで、それは人が生長するために機能します。その目的が完成したという意味です。

>そうです。自我は問題ではありません。
>自我を問題とするから、問題になるだけのことです。


ゴキブリが嫌だとして、キッチンで発見すると、どうしても嫌だけど、見てないとどこに逃げるか判らないことが嫌で、見ないではいられない、見るとますます嫌だけど、その場から離脱することもできない。

でも世界はよくしたもので自我を相手として見て攻撃するのではない手段を提供しています。それが、ふつうの日常です。ゴキブリを自分と違うものとして、対象として見て、退治しようとするのではなく、何かが好き、何かが嫌いという、

その何か対象が問題ではなく・・・泣いたり笑ったりゴキブリを嫌ったりのその自分の奥を、その前提を探るということです。自分の奥のゴキブリの正体を探す、ということです。自分の、私は何?はこいうことが始まりでした。ゴキブリと同居してもかまわないというのもありはするかもしれません。

>この自分は何?は、まさにマハルシの問でもありますし、私も実践してきた結果です。
>ある思いが湧き起こる、それは何から起こったのか?
>ある感情が湧き起こる、それは何から起こったのか?
>その問いをずっと続けてきましたが、何も見出せませんでした。
>つまり、自分というものをどこにも見出せなかったのです。
>自分がいないのに、自由意思があるはずがありません。


マハリシの方法をやってみました。この思考は、この感情は、どこから出たか?すると、その思考、感情だけが生起しています。その背景は、ない、です。その思考の原因はその思考です。いや、思考は因果関係にあると思考したら、その思考がその思考の原因です。

では世界を1人あって静かに見ます。たしかに3D動画です。それは背景が、ないです。とくにスクリーンとか、意識とかはないです。ただ・・・歩く猫、カレンダー、部屋の空間と・・・それがそのまま展開しています。この、ない、とは自分が自分、自己、が自己を認識できない、ということです。

いわゆる内に向かっても外に向かって見ても、この自分が自分を認識できえない、ない・・・自己は透明・・・説明としては自分、自己は自分に距離が、ない、ゆえに、世界、知覚、感情、思考が認識できるということです。完全無欠の、ある、だから自分は自分で認識できないと言っても同義です。

とても説明ですけど、自分が、ない、そして実在が、ない・・・乖離してない・・・つまり、泣いたり笑ったり、働いたり、疲れたりのことが、日常、この世界です。自分が自分の対象でないなら世界は対象になりません。

>また、自由に考えているようですが、浮かんできたものしか考えることが出来ないのです。浮かんできたものを、自分が考えたと自己同一化しているだけだということに気が付きました。
>つまり、思考も感情も意思決定も、ただ反応として起こっていることです。


>それに、自由意思があるなら、考えないということも出来るはずです。
>しかし、1分も経たないうちに、「何か」を考えていることに気が付きます。
>そして、その「何か」は、自分が自由に考えたものではなく、自分の意思とは無関係に浮かんできたものです。
>どこにも、自由意思なんてありません。
>コントロールできるものなんて、何もないのです。


まず、自由意思があるとして、それはどいうことなのでしょう。たとえば自分の年齢、性別を変えられる。過去の出来事を変えられる。物理法則を無視できる?そもそも自由意思は、ないから考えられもしない?

浮かんで来た思考しか見えないから自由意思はない・・・思考は止められないから自由意思はない・・・というのも思考でしょうし・・・それは自分には、なぜ問題ではないか探ってみました。窓の外に青空が見えます。鳥が聞こえます。知覚です。

その知覚に問題を見いだせないです。眼を開けてれば、見えます。思考も見えることです。知覚です。ここから世界が見えるから、思考が見えるから、世界が見えるのを止められないから、自由でない、という発想は起きたことがないです。知覚は受動の単機能です。それが自由意志がないということではないです。

かなり削除したのですが、それでも長文、失礼。とくに急ぐこともありませんし、返信いただくようでしたら、どこかの部分だけでも。また違う話題から始めても大丈夫です。

No.5947 - 2017/06/12(Mon) 18:01:02

Re: 自我と自己は違うとおもってしまう / 勘太郎
 自己はあらゆるモノ・コトから解放されていて、神様のように苦しみのない生き物であるように想像しています。そう成ることを希望して今、読んだり書いたり考えたりしています。

 苦しみの根源が自我なので、自我さえ無く成ればおいらは神様仏さまになって仙人のように生きることができるのになあと思っています。

 神様のような生き物である自己と、欲望の炎に焼かれ続けているおいらは別人なのかなあ・・・
おいらがおいらを探る時、探るおいらが透明な中に溶け込んでしまって解らなくなってしまう。探る主体のおいらもついでに透明に溶け込んでしまう。
聞こえるのは時計の音であり、見えるのは窓の風景です。

 以前お話した寝太郎さんが畑を始めています。その中で「収穫は期待していない、過程を見るのが楽しみだ、失敗も楽しい」と言っています。
 畑を人生に例えれば、どうして失敗しても楽しいと言えないのか?おいらの人生が大輪の咲かない惨めな人生であっても楽しいと言えるのではないか?と思うのは自己満足。
 ここらへんに真の事柄が含まれているのではないと思います。つまり満足・不満足はおいらの幻覚なのかなあと。物語の作成であって世界は物語つくりの種がばらまかれている庭なのではないか?

   これまた幻想。出勤時間なので中途です、後日整理して書きます。

No.5948 - 2017/06/13(Tue) 08:58:23

Re: / ゆらぎ
またまた、ご無沙汰です。

> >架空の構造が自我であれば、自我の完成という概念そのものが成立しないと思いますが?

> ところで自我の完成という言い方は・・・自我は人が未熟な状態で機能する、自転車の補助輪、花の苗の支柱、育ての親、マニアル、設計図のようなことで、それは人が生長するために機能します。その目的が完成したという意味です。

通常、完成とは機能の目的ではなく、機能する対象のことでは?

> >この自分は何?は、まさにマハルシの問でもありますし、私も実践してきた結果です。
> >ある思いが湧き起こる、それは何から起こったのか?
> >ある感情が湧き起こる、それは何から起こったのか?
> >その問いをずっと続けてきましたが、何も見出せませんでした。
> >つまり、自分というものをどこにも見出せなかったのです。
> >自分がいないのに、自由意思があるはずがありません。


> マハリシの方法をやってみました。この思考は、この感情は、どこから出たか?すると、その思考、感情だけが生起しています。その背景は、ない、です。その思考の原因はその思考です。いや、思考は因果関係にあると思考したら、その思考がその思考の原因です。

その通りです。

> では世界を1人あって静かに見ます。たしかに3D動画です。それは背景が、ないです。とくにスクリーンとか、意識とかはないです。ただ・・・歩く猫、カレンダー、部屋の空間と・・・それがそのまま展開しています。この、ない、とは自分が自分、自己、が自己を認識できない、ということです。

そうとも言えます。

> いわゆる内に向かっても外に向かって見ても、この自分が自分を認識できえない、ない・・・自己は透明・・・説明としては自分、自己は自分に距離が、ない、ゆえに、世界、知覚、感情、思考が認識できるということです。完全無欠の、ある、だから自分は自分で認識できないと言っても同義です。

目は対象を認識できるが、目自身を認識出来ないということですね。

> >また、自由に考えているようですが、浮かんできたものしか考えることが出来ないのです。浮かんできたものを、自分が考えたと自己同一化しているだけだということに気が付きました。
> >つまり、思考も感情も意思決定も、ただ反応として起こっていることです。
> >それに、自由意思があるなら、考えないということも出来るはずです。
> >しかし、1分も経たないうちに、「何か」を考えていることに気が付きます。
> >そして、その「何か」は、自分が自由に考えたものではなく、自分の意思とは無関係に浮かんできたものです。
> >どこにも、自由意思なんてありません。
> >コントロールできるものなんて、何もないのです。


> まず、自由意思があるとして、それはどいうことなのでしょう。たとえば自分の年齢、性別を変えられる。過去の出来事を変えられる。物理法則を無視できる?そもそも自由意思は、ないから考えられもしない?

それらは、自由意思とは関係ありません。

> 浮かんで来た思考しか見えないから自由意思はない・・・思考は止められないから自由意思はない・・・というのも思考でしょうし・・・それは自分には、なぜ問題ではないか探ってみました。窓の外に青空が見えます。鳥が聞こえます。知覚です。
>
> その知覚に問題を見いだせないです。眼を開けてれば、見えます。思考も見えることです。知覚です。ここから世界が見えるから、思考が見えるから、世界が見えるのを止められないから、自由でない、という発想は起きたことがないです。知覚は受動の単機能です。それが自由意志がないということではないです。


知覚と意思は別です。
知覚はセンサーであり、意思はセンサーからの入力に対して処理した結果であり、処理そのものが自由ではなく、単なる反応に過ぎないということです。

No.5981 - 2017/06/25(Sun) 07:27:12

Re: 世界は対象として現前収穫消えません。 / 勘太郎
> >架空の構造が自我であれば、自我の完成という概念そのものが成立しないと思いますが?
>
> たとえば嬉しい、青空、素粒子、名誉、金額、数学とかの世界の構成要素で構築された、仮の主体が自我と呼ばれます。数学の難問の解決法などでも、誰が見つけたのか?で争うこともできるでしょう。
>
> たとえば数学の難問の解決法・・・それが仮想だとしても・・・自我は、さらにそれで組まれた、架空の建築なので、解けます。あやとりで東京タワーをつくっても、その糸を解けばその東京タワーは消えます。
>
> でなくて自我は・・・糸、嬉しい、悲しい、太陽、青空、夜、数学・・・世界の構成要素そのことなら・・・また総てが一律に仮想、または一律にリアルなら解けることは困難でしょう。
>
> おそらく自我が消えて自己が現れるのではなく、自己が現われるので予め自我の構造が解けるのです。それを人からは、自我がなくなったら、真理とか、神とか、が現れる。と見えるのだと思います。
>
> ところで自我の完成という言い方は・・・自我は人が未熟な状態で機能する、自転車の補助輪、花の苗の支柱、育ての親、マニアル、設計図のようなことで、それは人が生長するために機能します。その目的が完成したという意味です。
>
> >そうです。自我は問題ではありません。
> >自我を問題とするから、問題になるだけのことです。
>
> ゴキブリが嫌だとして、キッチンで発見すると、どうしても嫌だけど、見てないとどこに逃げるか判らないことが嫌で、見ないではいられない、見るとますます嫌だけど、その場から離脱することもできない。
>
> でも世界はよくしたもので自我を相手として見て攻撃するのではない手段を提供しています。それが、ふつうの日常です。ゴキブリを自分と違うものとして、対象として見て、退治しようとするのではなく、何かが好き、何かが嫌いという、
>
> その何か対象が問題ではなく・・・泣いたり笑ったりゴキブリを嫌ったりのその自分の奥を、その前提を探るということです。自分の奥のゴキブリの正体を探す、ということです。自分の、私は何?はこいうことが始まりでした。ゴキブリと同居してもかまわないというのもありはするかもしれません。
>
> >この自分は何?は、まさにマハルシの問でもありますし、私も実践してきた結果です。
> >ある思いが湧き起こる、それは何から起こったのか?
> >ある感情が湧き起こる、それは何から起こったのか?
> >その問いをずっと続けてきましたが、何も見出せませんでした。
> >つまり、自分というものをどこにも見出せなかったのです。
> >自分がいないのに、自由意思があるはずがありません。
>
> マハリシの方法をやってみました。この思考は、この感情は、どこから出たか?すると、その思考、感情だけが生起しています。その背景は、ない、です。その思考の原因はその思考です。いや、思考は因果関係にあると思考したら、その思考がその思考の原因です。
>
> では世界を1人あって静かに見ます。たしかに3D動画です。それは背景が、ないです。とくにスクリーンとか、意識とかはないです。ただ・・・歩く猫、カレンダー、部屋の空間と・・・それがそのまま展開しています。この、ない、とは自分が自分、自己、が自己を認識できない、ということです。
>
> いわゆる内に向かっても外に向かって見ても、この自分が自分を認識できえない、ない・・・自己は透明・・・説明としては自分、自己は自分に距離が、ない、ゆえに、世界、知覚、感情、思考が認識できるということです。完全無欠の、ある、だから自分は自分で認識できないと言っても同義です。
>
> とても説明ですけど、自分が、ない、そして実在が、ない・・・乖離してない・・・つまり、泣いたり笑ったり、働いたり、疲れたりのことが、日常、この世界です。自分が自分の対象でないなら世界は対象になりません。


ここに違いが現れます。
「自分が自分の対象でないなら世界は対象にならない。」
自分が有りますので、どうしても世界が対象になってしまいます。前段はそのとおりに思えますが想像や読んだ本の影響でそう感じるように自我が学習した結果のその通りだとおもいます。

> >また、自由に考えているようですが、浮かんできたものしか考えることが出来ないのです。浮かんできたものを、自分が考えたと自己同一化しているだけだということに気が付きました。
> >つまり、思考も感情も意思決定も、ただ反応として起こっていることです。
>
> >それに、自由意思があるなら、考えないということも出来るはずです。
> >しかし、1分も経たないうちに、「何か」を考えていることに気が付きます。
> >そして、その「何か」は、自分が自由に考えたものではなく、自分の意思とは無関係に浮かんできたものです。
> >どこにも、自由意思なんてありません。
> >コントロールできるものなんて、何もないのです。
>
> まず、自由意思があるとして、それはどいうことなのでしょう。たとえば自分の年齢、性別を変えられる。過去の出来事を変えられる。物理法則を無視できる?そもそも自由意思は、ないから考えられもしない?
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> 浮かんで来た思考しか見えないから自由意思はない・・・思考は止められないから自由意思はない・・・というのも思考でしょうし・・・それは自分には、なぜ問題ではないか探ってみました。窓の外に青空が見えます。鳥が聞こえます。知覚です。
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> その知覚に問題を見いだせないです。眼を開けてれば、見えます。思考も見えることです。知覚です。ここから世界が見えるから、思考が見えるから、世界が見えるのを止められないから、自由でない、という発想は起きたことがないです。知覚は受動の単機能です。それが自由意志がないということではないです。
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> かなり削除したのですが、それでも長文、失礼。とくに急ぐこともありませんし、返信いただくようでしたら、どこかの部分だけでも。また違う話題から始めても大丈夫です。

No.5982 - 2017/06/25(Sun) 20:24:34
(No Subject) / brahma
みんな生きてなんてない。動物が生を生きてないように。
死というのは、生のコインの表裏だ。

人は、生命そのものだから不死なのだ。

No.5980 - 2017/06/24(Sat) 21:59:10
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