ゆらぎさん、こんにちは。長くなりましたので、スレッドを変えますね。
昨晩、庭では蛙の合唱で、わたしのすきな、ケロロ・・とかわいく鳴く、蛙の声を聴いていました。雨がすこし降った、しずかな朝です。
>何故なら、あるレベルでしか世界は認識されないからです。 >素粒子レベルになれば、この人間の世界は認識されません。 >素粒子の世界は不確定であり、エネルギーのひとつの形態に過ぎませんから、この世界は実体と呼べるものではありません。 >つまり、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。
そうですか、ゆらぎさんは、素粒子レベルになって観た、ということでよかったでしょうか。また、素粒子の世界が不確定、ということは、ゆらぎさんが素粒子になって、その不確定さを経験された、ということでしょうか。
自己は、不可知であり、として、素粒子として見えるその世界=自己、とはなり得ないでしょうね。
つまり、世界の探求から、或はその学問と知識によって、自己を説明することは困難、ではないでしょうか。また、意識上に見え隠れする、相対としてのあるない、は、相対した世界として語れること、と思います。
ひんやりとした、曇り空が心地いい日です。
|
No.5905 - 2017/05/25(Thu) 10:08:25
| ☆ Re: 続・ / ゆらぎ | | | おはようございます。 今日は久しぶりに本降りの雨です。
> ゆらぎさん、こんにちは。長くなりましたので、スレッドを変えますね。
はい、ありがとうございます。
> >何故なら、あるレベルでしか世界は認識されないからです。 > >素粒子レベルになれば、この人間の世界は認識されません。 > >素粒子の世界は不確定であり、エネルギーのひとつの形態に過ぎませんから、この世界は実体と呼べるものではありません。 > >つまり、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。
> そうですか、ゆらぎさんは、素粒子レベルになって観た、ということでよかったでしょうか。また、素粒子の世界が不確定、ということは、ゆらぎさんが素粒子になって、その不確定さを経験された、ということでしょうか。
ubik0101さんとの対話で述べたように、主旨は「人間も存在しているように思えますが、少し焦点をずらせば、たちまちその存在は消えます。臓器、細胞、分子、原子、素粒子、エネルギー・・・それぞれのレベルでは「そのもの」は認識できますが、人間は認識できません。拡大方向も同じで、家、町、国、地球、太陽系、銀河系、宇宙・・・。」 つまり、あるレベルを認識するためのセンサーとプロセッサーが与えられているだけで、レベルが変われば認識できなくなるのでえすから、この世における全てのものは「実体としてはない」ということです。 しかし、夢の中なら夢の世界は在ると感じるように、この世の中であれば、この世という世界はあると感じるのため、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。
> つまり、世界の探求から、或はその学問と知識によって、自己を説明することは困難、ではないでしょうか。また、意識上に見え隠れする、相対としてのあるない、は、相対した世界として語れること、と思います。
思考だけでなく、体験も同じです。 (思考も体験のひとつですが) 自分が認識したもの全ては、自己ではありません。
「ただ人は、自分自身であれということです。そして世界中を探しても、それは見つからない・・・その自分は、自分で掴めない・・・このように完璧にできています」とubik0101さんが書かれている通りです。 私は、何を思い、何を体験しようが「自分自身であることしか出来ない」と思っていますが。
「それがある」、ただそれだけです。
|
No.5907 - 2017/05/26(Fri) 07:16:12 |
| ☆ Re: 続・ / hato | | | こんばんは。
またもや、夜更かしなわたしで、すみません。長話しになってしまい、お疲れでないようにと思います。
>しかし、夢の中なら夢の世界は在ると感じるように、この世の中であれば、この世>という世界はあると感じるのため、あるとないの両方があり、どちらか一方という>ことがないのです。
ですので、意識上に於いての、ある、ない、ですね。
>思考だけでなく、体験も同じです。 >(思考も体験のひとつですが) >自分が認識したもの全ては、自己ではありませ>ん。
ゆらぎさん、ごめんなさい、 不愉快でしょうが、ここは同じと言えません。
強いてあの体験とは、言葉として、経験、というと適切でしたが、先に書いているように、それは意識ではなかった、と言うことができます。世界の範疇にある意識(と表現するとして、)はその後に、経験を学ぶ必要があった、ということなのです。
その経験の刹那、それまでの自分は文字通り、ないのですから、「自分が認識すること」はできませんでした。了解とは、不可‐思議です。
この場合の、「ない」と、一方でゆらぎさんが言われていた、世界はプログラミングされているようなもので、「自分を含め、すべては無自性であり、自由意思もないということが腑に落ちた、つまり自分がないということに疑問がなくなったということです。」の、ない、は違いますね。
>「ただ人は、自分自身であれということです。そして世界中を探しても、それは見つからない・・・その自分は、自分で掴めない・・・このように完璧にできていま>す」とubik0101さんが書かれている通りです。私は、何を思い、何を体験しようが「自分自身であることしか出来ない」と思っていますが。
自分は、この件についてはつねに、単刀直入です。
「自分で掴めない自分」、それは困難なことに、自我であっても、自己(ここでの表現を使います)であっても、そのようにあります。ではその違いはなんでしょう、もし、人がただ偏り(自我)から転換されていなかったら、どうすればいいのでしょう?
自我は多く、ものごとにすり替えが可能です。微妙に狡猾、それは特徴として、そうあらざるを得ませんが、
そのことに、ほんのすこしでも、気が付くことができたら、
先ず人は、自分自身に、ではなく、世界の事象に、でもなく、「不可思議という事実に」素直であること。それを正しく希求すること。だけです。
庭の畑のネギ坊主が、とてもお洒落でした。
![]() |
No.5908 - 2017/05/27(Sat) 00:56:25 |
| ☆ Re: 続・ / ゆらぎ | | | おはようございます。 爽やかな朝です。 最近、精神的に疲れることがなくなってきており、自分でも驚いております。 ので、ご安心を。(笑)
> >しかし、夢の中なら夢の世界は在ると感じるように、この世の中であれば、この世>という世界はあると感じるのため、あるとないの両方があり、どちらか一方という>ことがないのです。
> ですので、意識上に於いての、ある、ない、ですね。
そうです。 意識上以外の「ある・ない」とは何でしょうか?
> >思考だけでなく、体験も同じです。 > >(思考も体験のひとつですが) > >自分が認識したもの全ては、自己ではありませ>ん。
> ゆらぎさん、ごめんなさい、 > 不愉快でしょうが、ここは同じと言えません。
全然不愉快ではないですよ。 hatoさんがそう思われるなら、それはhatoさんにとっての真実ですから。
> 強いてあの体験とは、言葉として、経験、というと適切でしたが、先に書いているように、それは意識ではなかった、と言うことができます。世界の範疇にある意識(と表現するとして、)はその後に、経験を学ぶ必要があった、ということなのです。
自我がないという経験は、意識下の出来事ではなかったということでしょうか? そうであれば、なぜその経験を認識できたのでしょうか? 世界の範疇にある意識とは何でしょうか? 個の意識ですか?集合的無意識ですか? そして、なぜその意識は経験を学ぶ必要があったのでしょうか?
> その経験の刹那、それまでの自分は文字通り、ないのですから、「自分が認識すること」はできませんでした。了解とは、不可‐思議です。
自分が認識できないものを、何が認識したのでしょうか? そして、何かが認識したものを、なぜ自分が理解できたのでしょうか?
> この場合の、「ない」と、一方でゆらぎさんが言われていた、世界はプログラミングされているようなもので、「自分を含め、すべては無自性であり、自由意思もないということが腑に落ちた、つまり自分がないということに疑問がなくなったということです。」の、ない、は違いますね。
『この場合の、「ない」』とは、経験した「ない」であり、思考から導かれた「ない」とは違うということでしょうか? その違いに、どんな意味があるのでしょう? 経験した「ない」が、どのように優れているのでしょうか?
> >「ただ人は、自分自身であれということです。そして世界中を探しても、それは見つからない・・・その自分は、自分で掴めない・・・このように完璧にできていま>す」とubik0101さんが書かれている通りです。私は、何を思い、何を体験しようが「自分自身であることしか出来ない」と思っていますが。 > > 自分は、この件についてはつねに、単刀直入です。 > > 「自分で掴めない自分」、それは困難なことに、自我であっても、自己(ここでの表現を使います)であっても、そのようにあります。ではその違いはなんでしょう、もし、人がただ偏り(自我)から転換されていなかったら、どうすればいいのでしょう?
偏りとは、どのような基準に対して対して偏っているのでしょうか? そして、その基準が基準たる根拠は何でしょうか? また、それが転換されるとは、どうなることでしょうか?
> 自我は多く、ものごとにすり替えが可能です。微妙に狡猾、それは特徴として、そうあらざるを得ませんが、 > > そのことに、ほんのすこしでも、気が付くことができたら、
自我の目的は生き残ることであり、そのために自分自身に対する問題をつくることが仕事です。そのために狡猾さが必要ですが、自我とはそのようにプログラムされたアプリケーションソフトですから、そうあらざるを得ないのです。
> 先ず人は、自分自身に、ではなく、世界の事象に、でもなく、「不可思議という事実に」素直であること。それを正しく希求すること。だけです。
希求したら、素直と言えなくなりませんか? また、正しくと言った瞬間に、逸れていきませんか?
hatoさんは、自我のない経験をされる前と後では、何がどのように変わったのでしょうか?
質問だらけになってしまいましたが、hatoさんの仰られることを理解することが目的であり、困らせるつもりはありませんので、ご容赦下さい。
|
No.5909 - 2017/05/27(Sat) 07:15:24 |
| ☆ Re: 続・ / hato | | | ゆらぎさん、こんにちは。(^^)
返信を、ありがとうございます。
表現したいことを、きちんとお話しできるように、と思っています。こちら改めますね。
今朝はやくに、二人で仕事場に行くと、窓際に、中くらいの蛙が来ていました。アマガエルのすこし大きいの?と聞くと、あのケロロ・・と鳴く、シュレーゲルだよ、とのことです。うれしい!です。
![]() |
No.5910 - 2017/05/27(Sat) 10:10:44 |
| ☆ Re: 続・ / hato | | | こんばんは。数日朝晩仕事が立て込み、やっとこのページを見ています。東京から友人が来ており、田舎の春を味わい、明日帰ります。この春は我が家に、かつてちょっとない、お客様ラッシュな日々でした。
> >しかし、夢の中なら夢の世界は在ると感じるように、この世の中であれば、この世という世界はあると感じるのため、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。
> ですので、意識上に於いての、ある、ない、ですね。 > そうです。 > 意識上以外の「ある・ない」とは何でしょうか?
ある、または、ない、についての「事実」です。実在は知覚上、いずれにしても、ない。です。それは、世界が知覚されるされない、に依りません。
> 強いてあの体験とは、言葉として、経験、というと適切でしたが、先に書いているように、それは意識ではなかった、と言うことができます。世界の範疇にある意識(と表現するとして、)はその後に、経験を学ぶ必要があった、ということなのです。
>自我がないという経験は、意識下の出来事ではなかったということでしょうか? >そうであれば、なぜその経験を認識できたのでしょうか? >世界の範疇にある意識とは何でしょうか? >個の意識ですか?集合的無意識ですか? >そして、なぜその意識は経験を学ぶ必要があったのでしょうか?
意識とは、世界です。眼耳鼻舌身意が世界、です。意識された何某かを、自分と見做すことによって立ち現れていた自我、それまで有る、とされていた世界が、自分として消失した、その刹那は、意識下にありませんでした。起きたなら、経験を、人はあとから、学びます。
> その経験の刹那、それまでの自分は文字通り、ないのですから、「自分が認識すること」はできませんでした。了解とは、不可‐思議です。
>自分が認識できないものを、何が認識したのでしょうか? >そして、何かが認識したものを、なぜ自分が理解できたのでしょうか?
自己です。と表現します。なぜ自分として、理解できるのか?自己に通じる経験から学ぶからです。自己(これは単に呼び方ですが、)は、身体や意識にとって、圧縮データのかたまりで、漠然と、解凍する必要があるとの感じを長く、持っていました。
> この場合の、「ない」と、一方でゆらぎさんが言われていた、世界はプログラミングされているようなもので、「自分を含め、すべては無自性であり、自由意思もないということが腑に落ちた、つまり自分がないということに疑問がなくなったということです。」の、ない、は違いますね。
>『この場合の、「ない」』とは、経験した「ない」であり、思考から導かれた「ない」とは違うということでしょうか?その違いに、どんな意味があるのでしょう?経験した「ない」が、どのように優れているのでしょうか?
人がたとえば、いつかのスレッドでお話した、ある意味、一方通行の自我として生きる場合、知識と思考から導かれたことが、その人としての事実の「ない」に届くことは、おそらく、困難です。
その経験が事実なら・・・人はこの世界で、誰も知らない野原に咲いてる、一輪の花のようです。
> 「自分で掴めない自分」、それは困難なことに、自我であっても、自己(ここでの表現を使います)であっても、そのようにあります。ではその違いはなんでしょう、もし、人がただ偏り(自我)から転換されていなかったら、どうすればいいのでしょう?
> 偏りとは、どのような基準に対して対して偏っているのでしょうか? > そして、その基準が基準たる根拠は何でしょうか? > また、それが転換されるとは、どうなることでしょうか?
人が、真実の「ない」を経験しないとき、これはまったく喩えですが、その自分(自我)を、暗闇でなにも見えないところを歩いている人、としますと、一方は、見えない一縷の糸に繋がり、足元を照らす灯を携えた、と言えると思います。偏りについては、これまでお話していることで、ご理解頂けるのでは・・と思います。
> 自我は多く、ものごとにすり替えが可能です。微妙に狡猾、それは特徴として、そうあらざるを得ませんが、 そのことに、ほんのすこしでも、気が付くことができたら、
>自我の目的は生き残ることであり、そのために自分自身に対する問題をつくることが仕事です。そのために狡猾さが必要ですが、自我とはそのようにプログラムされたアプリケーションソフトですから、そうあらざるを得ないのです。
> 先ず人は、自分自身に、ではなく、世界の事象に、でもなく、「不可思議という事実に」素直であること。それを正しく希求すること。だけです。
>希求したら、素直と言えなくなりませんか?
希求。この場合、発心とも言います。糺したいと願う、とも言うことができます。正しいことは、ただ正しい、としてあること。反対がない、ということはシンプルです。いいわるい、でない善い、とも言うことができます。相対する何某かでない、それとしてあること、です。
>また、正しくと言った瞬間に、逸れていきませんか?
人や世界は言葉と接着しておらず、としてなにか無理に接着しょうとする必要なく、正しいは、ただ、正しい、です。
>hatoさんは、自我のない経験をされる前と後では、何がどのように変わったのでしょうか?
もし人が、そのことを経験したとして、眼耳鼻舌身意。持っているものは変わらないと思います。hatoちゃんも、まあまあ、hatoちゃんです。
そして尚、多く言い方があるとして、いいわるい、でない善い、ことを生きることができる、その可能性に拓かれることは、幸せかも知れない、と思います。
といってこの日常。とくにこうして書いていなければ、神も自己もない、とくに不思議も必要ない、ご存じの通り、とてもとても、ふつうです。
びっくりするほど、ふつうですすす。。。
|
No.5915 - 2017/05/30(Tue) 01:54:07 |
| ☆ Re: 続・ / ゆらぎ | | | おはようございます。
お客様ラッシュの中、超めんどくさい質問にお答え頂きまことに有難うございました。
残念ながら、私にはhatoさんの書き込まれた内容を理解する能力がありません。どこが私の質問に対するお答えなのかさえ、さっぱり分かりません。
まことに、hatoちゃん恐るべし!です・・
ということで、このあたりでお終いにさせて下さい。
|
No.5918 - 2017/05/31(Wed) 05:40:51 |
| ☆ Re: 続・ / hato | | | こちらこそお気遣いをさまざま、ありがとうございました。どうぞお元気でいてください。(ubik0101さんとお話してください)
先日、ubik0101さんと知人と、森林がとてもいい、小國神社に行きました。数十メートルはあるような杉の木立ちを見上げると、上のほうに、たくさんの花が咲いてる・・・桜のような・・・・風蘭でした。きれいに撮れませんでしたが、とても素敵でした。
それでは、また。
![]() |
No.5922 - 2017/06/01(Thu) 23:23:59 |
| ☆ Re: 続・ / ゆらぎ | | | > こちらこそお気遣いをさまざま、ありがとうございました。どうぞお元気でいてください。(ubik0101さんとお話してください)
有難うございます。 ubik0101さんへの返信に、「私はシュミレーションが目的ではなく、3次元の映画だと思っています。・・・どちらにしても、ドタバタ・ジタバタするわけで、それを一所懸命演技することが、生き甲斐なのだと思います」と書きました。 目を通して戴けると幸いです。
|
No.5927 - 2017/06/04(Sun) 08:31:21 |
|