愛するというのは意識と覚醒が必要だ。
他者に責任を持つ関係というのはテクニックじゃない。
テクニックは卑猥だ。
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No.5899 - 2017/05/23(Tue) 12:25:35
| ☆ Re: 無執着ではなくて、 / 勘太郎 | | | 「自分に執着して、自分以外のものに執着しない」だと思いました。
音を聞いたら、音の発生源を探るのではなく、音を受信している自分の胸の内を探る。 わからない!と頭の毛をかきむしる時に、指の皮膚と頭皮と髪の毛が醸し出す感覚を感じる。
執着する方向が覚醒とは逆だったのではないか?と人生に起こる事に執着して、自分に無関心なのではないか?と思います。
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No.5900 - 2017/05/23(Tue) 21:24:44 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | とても説明ですが・・・ただ自分でありきる・・・それは・・・自分は自分を対象にできません、知覚できません。透明です。簡単に言うと、ない、です。それは・・・執着する対象としての自分も、執着する主体としての自分も、ないということです。執着しようがないのです。それはそのまま、見えながら聞こえながら行動しながら、世界が対象でない、ということです。
こうでなくて、言い方は様々でしょうが・・・本来の自分、真我、ハイアーなんとか、自我・・・とかを掴むと、それが空想であれ、記憶であれ、事実であれ・・・対象されることであり、それは、そのことを対象にする主体がすでに生起してる・・・つまり自分が自分と分離してる、亀裂があるということです。これは執着と呼ばれます。
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No.5901 - 2017/05/24(Wed) 07:36:15 |
| ☆ Re: / brahma | | | No.5902 - 2017/05/24(Wed) 14:23:20 |
| ☆ Re: 取り付く島がない、と解かれば良いのですが。 / 勘太郎 | | | > とても説明ですが・・・ただ自分でありきる・・・それは・・・自分は自分を対象にできません、知覚できません。透明です。簡単に言うと、ない、です。それは・・・執着する対象としての自分も、執着する主体としての自分も、ないということです。執着しようがないのです。それはそのまま、見えながら聞こえながら行動しながら、世界が対象でない、ということです。 > > こうでなくて、言い方は様々でしょうが・・・本来の自分、真我、ハイアーなんとか、自我・・・とかを掴むと、それが空想であれ、記憶であれ、事実であれ・・・対象されることであり、それは、そのことを対象にする主体がすでに生起してる・・・つまり自分が自分と分離してる、亀裂があるということです。これは執着と呼ばれます。
自分は無い(わからない)であって、尚且つ「なにかはある」 「私は在る」であり、尚且つ「私は無い」
在る・無いと言ってしまったら、分離。さてどうしたものでしょう・・・
雪担御老師は「師が在るあるって言うから、探していたのに、無いではないですか」師は「最初から無い!無いって言ってんだけどなあ」と表現されています。
AはAであって、尚且つAはAでない、とか説明される問題なのでしょう。
対象が無いとすると言葉は通じません。主語+述語の基本形が成立しませんから。
鼻をつまんで、痛いと言ってみても、鼻は痛い 鼻は何にも繋がっていない様に思えますけれども、それがどうしたので終わってしまいます。何も困ったものです。
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No.5903 - 2017/05/24(Wed) 21:14:48 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | ただ人は、自分自身であれということです。そして世界中を探しても、それは見つからない・・・その自分は、自分で掴めない・・・このように完璧にできています。
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No.5904 - 2017/05/25(Thu) 07:43:26 |
| ☆ Re: 自分は解らない事を解かると勘違いしてしまいます。 / 勘太郎 | | | > ただ人は、自分自身であれということです。そして世界中を探しても、それは見つからない・・・その自分は、自分で掴めない・・・このように完璧にできています。
ハトさんの書き込みも参考にして、思う事です。 自我(偏り)で自我を探っている場合に、自己(真我)に接触しているかのように勘違いしてしまいます。おいらは自己にさわってるんではないか?と。 真実は全く接触していないで、自我が自我を見ているのです。 ラマナマハリシは「自我で自我をかき回しているうちに、火を木の棒でかき回しているように、自我が燃えて無くなる」と言っています、それこそ神の思し召しがあったなら。
自分の思考に「悟れないで残念だな」と浮かんだらそれを認める。シュレーゲル蛙って森青蛙ではないのかな?後で調べよう・今日の雨は良いお湿りだったな・ごみ箱がいっぱいだナ・眠くなってきたなと観察を続けることをする時間を増やす・段々増えているなあ。
自己に接触しようとしても無駄であるという理解が少し強まった気がします。 それでまたしばらく時間が経つと、自我が真我の演技をしていることを忘れて、もしかして真我に接触していうのか?と騙されます。
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No.5911 - 2017/05/27(Sat) 21:46:52 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | ★ (No Subject) / ubik0101
なかなかチャーミングなモノクロ顔写真が表紙の、マハリシという人の書を適当にめくって数ページ読んだことがあります。うろ覚えですが、この世界は自分ではない、この身体は自分ではない、感情は自分ではない、意識は自分ではない・・・とかいうことが書いてありました。
それだけじゃ駄目。と思って、もう続きを読まなかったので、その書の真意は分かりませんが、その逆が必要です。つまり、です。思考は自分です。感情は自分です。身体は自分です。世界は自分です。
が、必要です。そしてこの、それは自分ではない・・・それは自分だ。どちらもあり得そうですが、どちらかを採用するのでもなく、どちらも破棄するのではなく、どちらも誤り、です。と、いう認識が必要です。
これは意地悪に言えばですが、それは自分である。それは自分ではない。どちらもあり得ないのに、あり得ると空想して、表現してるにすぎません。大事は、そのどちらでもない、そこ、にあります。
ひとつには、それは自分、それは自分ではない、どちらも思考、解釈であり事実は、そうでないということ。ひとつには、どちらでもない、そのことが解脱を示すからです。
No.4638 - 2014/06/11(Wed) 07:41:59
と、投稿をしたことがあります。インド?には、Aは自分ではないBは自分ではないCは自分ではない・・・という伝統?があると聞いたような気がします。それはすでに、どんなことでもない、真我を前提にしています。そんな探求は真我を発見?するに決まっています。ところで、
とんでも話をしてみます。神、実在。第一原因・・・それは何でしょう?それは自分が自分の鏡になったもの、です。つまり、自分から分離して、自分を映す鏡。それが神です。自分が自分を知覚して、当然なのです。私は神です。
そして,私は世界です。何を見ても、自分を見てるのです。自分が自分を見る。でなきゃ、なにか見えるということがあるわけないじゃないですか?これも実感としてあります。この自分が自分を自覚でき得ない、というのも実感として事実です。
ところで・・・何であれ、神が何であれ、自分との距離が神の概念です。距離がなくなると、私は神だ、ではなく、その神が消えます。ほんとうに、実在と現象、神と世界、第一原因と因果、の区別がないのです。あれ、とか、これ、とか、それ、を失うのです。神秘も不思議も最初からないように失います。これ、面白いのです。
たぶん、いろいろあるでしょうけど、自然とか世界と一体とか、総てはひとつとか・・・そいうのは、外郭の表現なので、あんまり意味はないです。誰かの話は素直に聞いて・・・いつの間に忘れるに任せて・・・探求・・・なにも意図しなくても、自然に開示される意味を見ればいいだけです。
どうやら、ブドウの花のようです。
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No.5912 - 2017/05/28(Sun) 07:18:45 |
| ☆ Re: / ゆらぎ | | | > と、投稿をしたことがあります。インド?には、Aは自分ではないBは自分ではないCは自分ではない・・・という伝統?があると聞いたような気がします。それはすでに、どんなことでもない、真我を前提にしています。そんな探求は真我を発見?するに決まっています。ところで、
それは、サンスクリット語の「ネティ ネティ (これでもない、あれでもない)」という瞑想の一つであり、私も15年ほど前にマハリシの本を読んで知り、実践してきました。
ある思考が浮かんだ時、その思考は何から出たのか? ある感情が表出した時、その感情は何から出たのか? 出た元が自分だということですが、いくら探しても見つかりませんでした。 ですから、「自分はない」を実感しています。
マハリシは「自分とは何か?」と問いますが、いまだに分かりません。 それでも、物心がついてから今日まで、「自分は在る」という感覚がずっと続いています。 何も無ければ、こうして文字を入力することも起こりません。 何かはありますが、全く形容出来ません。 なので、「それは在る」と表現しています。
> とんでも話をしてみます。神、実在。第一原因・・・それは何でしょう?それは自分が自分の鏡になったもの、です。つまり、自分から分離して、自分を映す鏡。それが神です。自分が自分を知覚して、当然なのです。私は神です。 > > そして,私は世界です。何を見ても、自分を見てるのです。自分が自分を見る。でなきゃ、なにか見えるということがあるわけないじゃないですか?これも実感としてあります。この自分が自分を自覚でき得ない、というのも実感として事実です。 > > ところで・・・何であれ、神が何であれ、自分との距離が神の概念です。距離がなくなると、私は神だ、ではなく、その神が消えます。ほんとうに、実在と現象、神と世界、第一原因と因果、の区別がないのです。あれ、とか、これ、とか、それ、を失うのです。神秘も不思議も最初からないように失います。これ、面白いのです。 > > たぶん、いろいろあるでしょうけど、自然とか世界と一体とか、総てはひとつとか・・・そいうのは、外郭の表現なので、あんまり意味はないです。誰かの話は素直に聞いて・・・いつの間に忘れるに任せて・・・探求・・・なにも意図しなくても、自然に開示される意味を見ればいいだけです。
とんでもではないですよ。 私も全く同じ思いです。
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No.5913 - 2017/05/28(Sun) 08:13:31 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | ずーと、ずーと昔、叔母の1人が、言いました。自分と言う感じは、若いときは、年をとると変わると思ってたけど、年をとっても変わらないね!それを聞いた、ほかの叔母が、うん、うん、と嬉しそうに笑顔で頷きました。
それを聞いてて、なんだか風光明媚な風景が見えるような感じがしました。でもおおむね、その自分と言う感じは、自我の感じです。それがあるというのは誤解で、それが虚構だということ、
その中心は、ない、ということです。探しても、どこにもない、ということは・・・どこから思考や感情が出たか?と探してる自分がいるということが見えないということ、かもしれません。いつか勘太郎さんが言ったような気がしますが・・・自分を探すと、
その探してる自分が生じる・・・そして探してなくてもあるのに気がつかないということもあるかもしれません。自分が、ない、とは、探しても(探さなくても)、どこにもないということではなく、その探してる自分そのことが明らかに、ない、ということです。でなくて、ない、は言い切れないです。
この自分があると感じてるこの自分が虚構で実に、ない、です。なので、・・・自分と言う感じ、あるいは自分がある、という感じは・・・とくに自分は操り人形というわけでもないですが・・・ありようがないです。そしてとくに、ことさら自分が、ない、という感じもないです。
まとめますと、自分があるという感じは虚構でその中心は、ない、だった。そのように仕組みが開示されるつまり自我が役目を終え完成して消える・・・そこは神との関係・・・真我。つまり、自分はあるという感じは、それがそれの原因、実在、神という、ある・・・が虚構、予告編、前兆、として現れてた。
そのままだとまだ神との距離がある。自己に偏る傾向です。この神を疑うことは難しいのですが、疑うと、神は鏡です。ということで、そうすると世界は私とか展開したりしますが、いろいろ経緯して・・・最初からそうなのかどうかは判りませんが、この日常、これは因果とも呼べないです。
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No.5916 - 2017/05/30(Tue) 20:06:41 |
| ☆ Re: / ゆらぎ | | | > ずーと、ずーと昔、叔母の1人が、言いました。自分と言う感じは、若いときは、年をとると変わると思ってたけど、年をとっても変わらないね!それを聞いた、ほかの叔母が、うん、うん、と嬉しそうに笑顔で頷きました。
私も、うん、うん、と嬉しそうに笑顔で頷きますね!(笑)
> それを聞いてて、なんだか風光明媚な風景が見えるような感じがしました。でもおおむね、その自分と言う感じは、自我の感じです。それがあるというのは誤解で、それが虚構だということ、
「自分は在る」という感覚は、自我ではありません。 自我は、ひとつのアプリケーションソフトであるが故、目的と機能を持ちます。 目的とは、自我を存続させること、そのための機能として勝手にわきおこる思考や感情を自己同一化し、様々な問題をつくりあげます。 一つの悩みが収束しても、すぐに別の悩みをつくり上げ、様々に変化しながらも自我の存在を主張し続けます。
それに対し、「自分は在る」という感覚は、目的も機能も持ちません。 また、変化もありません。 物心がついてから何十年経とうが、立場や環境が変わろうが、いつも同じようにそこにあり、全ての人が持っているようです。
自我がひとつのアプリケーションソフトであるとすると、「自分は在る」という感覚は、何でしょう? 背後で作動しているOSでしょうか? それとも、普通は認識されないメモリーでしょうか? そうではなく、パソコンに流れる電流とか電圧のようなものだと思います。 それが実体だとか、本当の自分だと言うつもりは全くありません。 スイッチを切れば、電流も電圧もなくなってしまいます。
そうだとしても、電流を流した何か、スイッチを切った何かが在るわけであり、そのことを、「それは在る」と表現しています。
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No.5919 - 2017/05/31(Wed) 06:02:11 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | それ自らを持続させるのが自我の目的ではなくて・・・自我は育ち・・・その間は自分を守る必要がありますが、でないと目的が雲散霧消する恐れがあります・・・自我は完成して、よく見る言い方では、死ぬためにあります。
そうでなくて、ただ自我は、自らを守って、いろんな問題をつくりあげて、悩んで、自分を主張するだけなら、それが何のためになるでしょう。それがアプリケーションソフトだとしても、
それは自分で自分を感じようとする目的があるのでは?私は話す、私は買う、私は怒る。悩む私。苦しい私。と自分で自分を感じたいけど、そんなことでは感じきれないから持続するのでは?
もしかして、ゆらぎさんは問題のない静かな日常、悩んだり、怒ったりしてないなら、それは自我ではない、ずーと幸せで問題ないなら、自我はない、と見ていますか?
しかし騒がしくない、静かな自我は、自分はある、と感じるのではないでしょうか。自分で自分を感じたいのが自我で、自己が明確なら、自分があるという感じは必要ないです。自分はあるという感覚は、この自分て何?を誘ってる機能でないでしょうか。自分はこのような経緯でした。
シュミレーション仮説が必要とされる原因、要因は・・・自分にその経緯がないので空想するしかないですが、空想は常に外れますが・・・自由意思がなければ、責任がなく楽という面もあるかもしれません。人は世界の運行を変えていますし、責任の苦痛は、まったく引き受ければいいので、
シュミレーション仮説は自分には無縁だったかもしれません。たとえば、PCやOSの制作者がその外にいるようには・・・神、実在、第一原因は、世界の外にあるようには思えません。スイッチは、生死の喩えでしょうか。それはそれで向かい合えばいいように思います。
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No.5920 - 2017/05/31(Wed) 23:45:37 |
| ☆ Re: / ゆらぎ | | | > それ自らを持続させるのが自我の目的ではなくて・・・自我は育ち・・・その間は自分を守る必要がありますが、でないと目的が雲散霧消する恐れがあります・・・自我は完成して、よく見る言い方では、死ぬためにあります。
自我の完成とは、どうなることでしょう? 私も、探求のスタート時は、自我(魂、霊性)の完成だと思っていましたが・・
> そうでなくて、ただ自我は、自らを守って、いろんな問題をつくりあげて、悩んで、自分を主張するだけなら、それが何のためになるでしょう。それがアプリケーションソフトだとしても、
自我を存続させるためです。 いろんな問題をつくりあげて、悩むことにより、自我はエネルギーを得ているのだと思います。
> それは自分で自分を感じようとする目的があるのでは?私は話す、私は買う、私は怒る。悩む私。苦しい私。と自分で自分を感じたいけど、そんなことでは感じきれないから持続するのでは? > > もしかして、ゆらぎさんは問題のない静かな日常、悩んだり、怒ったりしてないなら、それは自我ではない、ずーと幸せで問題ないなら、自我はない、と見ていますか?
自我は自分の属性の一部であり、ずーと幸せで問題ない状態もまた、自分です。
> しかし騒がしくない、静かな自我は、自分はある、と感じるのではないでしょうか。自分で自分を感じたいのが自我で、自己が明確なら、自分があるという感じは必要ないです。自分はあるという感覚は、この自分て何?を誘ってる機能でないでしょうか。自分はこのような経緯でした。
自分で自分を感じたいのが自我というのは、私もそう思います。 自分て何?と探求を深めることが、自我の活動を活発にして、より自分(自我)を感じられるのだと思います。
> シュミレーション仮説が必要とされる原因、要因は・・・自分にその経緯がないので空想するしかないですが、空想は常に外れますが・・・自由意思がなければ、責任がなく楽という面もあるかもしれません。人は世界の運行を変えていますし、責任の苦痛は、まったく引き受ければいいので、 > > シュミレーション仮説は自分には無縁だったかもしれません。たとえば、PCやOSの制作者がその外にいるようには・・・神、実在、第一原因は、世界の外にあるようには思えません。スイッチは、生死の喩えでしょうか。それはそれで向かい合えばいいように思います。
スイッチは、ビッグバンとビッグクランチ、宇宙の始まりと終わりです。
シュミレーション仮説ですが、私はシュミレーションが目的ではなく、3次元の映画だと思っています。 映画は、作者や映画監督、美術や音楽担当、俳優、観客など多くの人々が関わってきますが、その誰もが楽しめます。 仮想現実だと分かっていても、映画の中ではその仮想を現実だと認識していますから、本気で喜んだり悲しんだり出来ます。考えられないような不幸や凄惨な場面もありますが、仮想現実だと分かっているので、映画が終われば心理的な負担は残りません。
この世、3次元の映画は俳優と観客の両方を楽しめますが、あまりにリアルすぎて仮想とは思えないため、葛藤が起こってそれに巻き込まれてしまいます。 それも、ドラマの筋書きであり、誰もが本当は2次元の映画以上に楽しんでいるのですが・・・。
どちらにしても、ドタバタ・ジタバタするわけで、それを一所懸命演技することが、生き甲斐なのだと思います。
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No.5926 - 2017/06/04(Sun) 08:24:56 |
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