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(No Subject) / brahma
生きることは決して遊びではない。最高の遊びだ。

真実はこの上なく厳格なものだ。

No.5932 - 2017/06/05(Mon) 15:21:57
(No Subject) / brahma
女の正体

カーリー


貪るもの

破壊者

むげn

No.5928 - 2017/06/04(Sun) 16:03:26
続・ / hato

ゆらぎさん、こんにちは。長くなりましたので、スレッドを変えますね。

昨晩、庭では蛙の合唱で、わたしのすきな、ケロロ・・とかわいく鳴く、蛙の声を聴いていました。雨がすこし降った、しずかな朝です。


>何故なら、あるレベルでしか世界は認識されないからです。
>素粒子レベルになれば、この人間の世界は認識されません。
>素粒子の世界は不確定であり、エネルギーのひとつの形態に過ぎませんから、この世界は実体と呼べるものではありません。
>つまり、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。



そうですか、ゆらぎさんは、素粒子レベルになって観た、ということでよかったでしょうか。また、素粒子の世界が不確定、ということは、ゆらぎさんが素粒子になって、その不確定さを経験された、ということでしょうか。

自己は、不可知であり、として、素粒子として見えるその世界=自己、とはなり得ないでしょうね。

つまり、世界の探求から、或はその学問と知識によって、自己を説明することは困難、ではないでしょうか。また、意識上に見え隠れする、相対としてのあるない、は、相対した世界として語れること、と思います。

ひんやりとした、曇り空が心地いい日です。

No.5905 - 2017/05/25(Thu) 10:08:25

Re: 続・ / ゆらぎ
おはようございます。
今日は久しぶりに本降りの雨です。

> ゆらぎさん、こんにちは。長くなりましたので、スレッドを変えますね。

はい、ありがとうございます。

> >何故なら、あるレベルでしか世界は認識されないからです。
> >素粒子レベルになれば、この人間の世界は認識されません。
> >素粒子の世界は不確定であり、エネルギーのひとつの形態に過ぎませんから、この世界は実体と呼べるものではありません。
> >つまり、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。


> そうですか、ゆらぎさんは、素粒子レベルになって観た、ということでよかったでしょうか。また、素粒子の世界が不確定、ということは、ゆらぎさんが素粒子になって、その不確定さを経験された、ということでしょうか。

ubik0101さんとの対話で述べたように、主旨は「人間も存在しているように思えますが、少し焦点をずらせば、たちまちその存在は消えます。臓器、細胞、分子、原子、素粒子、エネルギー・・・それぞれのレベルでは「そのもの」は認識できますが、人間は認識できません。拡大方向も同じで、家、町、国、地球、太陽系、銀河系、宇宙・・・。」
つまり、あるレベルを認識するためのセンサーとプロセッサーが与えられているだけで、レベルが変われば認識できなくなるのでえすから、この世における全てのものは「実体としてはない」ということです。
しかし、夢の中なら夢の世界は在ると感じるように、この世の中であれば、この世という世界はあると感じるのため、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。

> つまり、世界の探求から、或はその学問と知識によって、自己を説明することは困難、ではないでしょうか。また、意識上に見え隠れする、相対としてのあるない、は、相対した世界として語れること、と思います。

思考だけでなく、体験も同じです。
(思考も体験のひとつですが)
自分が認識したもの全ては、自己ではありません。

「ただ人は、自分自身であれということです。そして世界中を探しても、それは見つからない・・・その自分は、自分で掴めない・・・このように完璧にできています」とubik0101さんが書かれている通りです。
私は、何を思い、何を体験しようが「自分自身であることしか出来ない」と思っていますが。

「それがある」、ただそれだけです。

No.5907 - 2017/05/26(Fri) 07:16:12

Re: 続・ / hato

こんばんは。

またもや、夜更かしなわたしで、すみません。長話しになってしまい、お疲れでないようにと思います。


>しかし、夢の中なら夢の世界は在ると感じるように、この世の中であれば、この世>という世界はあると感じるのため、あるとないの両方があり、どちらか一方という>ことがないのです。


ですので、意識上に於いての、ある、ない、ですね。


>思考だけでなく、体験も同じです。
>(思考も体験のひとつですが)
>自分が認識したもの全ては、自己ではありませ>ん。



ゆらぎさん、ごめんなさい、
不愉快でしょうが、ここは同じと言えません。

強いてあの体験とは、言葉として、経験、というと適切でしたが、先に書いているように、それは意識ではなかった、と言うことができます。世界の範疇にある意識(と表現するとして、)はその後に、経験を学ぶ必要があった、ということなのです。

その経験の刹那、それまでの自分は文字通り、ないのですから、「自分が認識すること」はできませんでした。了解とは、不可‐思議です。

この場合の、「ない」と、一方でゆらぎさんが言われていた、世界はプログラミングされているようなもので、「自分を含め、すべては無自性であり、自由意思もないということが腑に落ちた、つまり自分がないということに疑問がなくなったということです。」の、ない、は違いますね。


>「ただ人は、自分自身であれということです。そして世界中を探しても、それは見つからない・・・その自分は、自分で掴めない・・・このように完璧にできていま>す」とubik0101さんが書かれている通りです。私は、何を思い、何を体験しようが「自分自身であることしか出来ない」と思っていますが。


自分は、この件についてはつねに、単刀直入です。

「自分で掴めない自分」、それは困難なことに、自我であっても、自己(ここでの表現を使います)であっても、そのようにあります。ではその違いはなんでしょう、もし、人がただ偏り(自我)から転換されていなかったら、どうすればいいのでしょう?

自我は多く、ものごとにすり替えが可能です。微妙に狡猾、それは特徴として、そうあらざるを得ませんが、

そのことに、ほんのすこしでも、気が付くことができたら、

先ず人は、自分自身に、ではなく、世界の事象に、でもなく、「不可思議という事実に」素直であること。それを正しく希求すること。だけです。

庭の畑のネギ坊主が、とてもお洒落でした。

No.5908 - 2017/05/27(Sat) 00:56:25

Re: 続・ / ゆらぎ
おはようございます。
爽やかな朝です。
最近、精神的に疲れることがなくなってきており、自分でも驚いております。
ので、ご安心を。(笑)

> >しかし、夢の中なら夢の世界は在ると感じるように、この世の中であれば、この世>という世界はあると感じるのため、あるとないの両方があり、どちらか一方という>ことがないのです。

> ですので、意識上に於いての、ある、ない、ですね。

そうです。
意識上以外の「ある・ない」とは何でしょうか?

> >思考だけでなく、体験も同じです。
> >(思考も体験のひとつですが)
> >自分が認識したもの全ては、自己ではありませ>ん。


> ゆらぎさん、ごめんなさい、
> 不愉快でしょうが、ここは同じと言えません。


全然不愉快ではないですよ。
hatoさんがそう思われるなら、それはhatoさんにとっての真実ですから。

> 強いてあの体験とは、言葉として、経験、というと適切でしたが、先に書いているように、それは意識ではなかった、と言うことができます。世界の範疇にある意識(と表現するとして、)はその後に、経験を学ぶ必要があった、ということなのです。

自我がないという経験は、意識下の出来事ではなかったということでしょうか?
そうであれば、なぜその経験を認識できたのでしょうか?
世界の範疇にある意識とは何でしょうか?
個の意識ですか?集合的無意識ですか?
そして、なぜその意識は経験を学ぶ必要があったのでしょうか?

> その経験の刹那、それまでの自分は文字通り、ないのですから、「自分が認識すること」はできませんでした。了解とは、不可‐思議です。

自分が認識できないものを、何が認識したのでしょうか?
そして、何かが認識したものを、なぜ自分が理解できたのでしょうか?

> この場合の、「ない」と、一方でゆらぎさんが言われていた、世界はプログラミングされているようなもので、「自分を含め、すべては無自性であり、自由意思もないということが腑に落ちた、つまり自分がないということに疑問がなくなったということです。」の、ない、は違いますね。

『この場合の、「ない」』とは、経験した「ない」であり、思考から導かれた「ない」とは違うということでしょうか?
その違いに、どんな意味があるのでしょう?
経験した「ない」が、どのように優れているのでしょうか?

> >「ただ人は、自分自身であれということです。そして世界中を探しても、それは見つからない・・・その自分は、自分で掴めない・・・このように完璧にできていま>す」とubik0101さんが書かれている通りです。私は、何を思い、何を体験しようが「自分自身であることしか出来ない」と思っていますが。
>
> 自分は、この件についてはつねに、単刀直入です。
>
> 「自分で掴めない自分」、それは困難なことに、自我であっても、自己(ここでの表現を使います)であっても、そのようにあります。ではその違いはなんでしょう、もし、人がただ偏り(自我)から転換されていなかったら、どうすればいいのでしょう?


偏りとは、どのような基準に対して対して偏っているのでしょうか?
そして、その基準が基準たる根拠は何でしょうか?
また、それが転換されるとは、どうなることでしょうか?

> 自我は多く、ものごとにすり替えが可能です。微妙に狡猾、それは特徴として、そうあらざるを得ませんが、
>
> そのことに、ほんのすこしでも、気が付くことができたら、


自我の目的は生き残ることであり、そのために自分自身に対する問題をつくることが仕事です。そのために狡猾さが必要ですが、自我とはそのようにプログラムされたアプリケーションソフトですから、そうあらざるを得ないのです。

> 先ず人は、自分自身に、ではなく、世界の事象に、でもなく、「不可思議という事実に」素直であること。それを正しく希求すること。だけです。

希求したら、素直と言えなくなりませんか?
また、正しくと言った瞬間に、逸れていきませんか?

hatoさんは、自我のない経験をされる前と後では、何がどのように変わったのでしょうか?

質問だらけになってしまいましたが、hatoさんの仰られることを理解することが目的であり、困らせるつもりはありませんので、ご容赦下さい。

No.5909 - 2017/05/27(Sat) 07:15:24

Re: 続・ / hato
ゆらぎさん、こんにちは。(^^)

返信を、ありがとうございます。

表現したいことを、きちんとお話しできるように、と思っています。こちら改めますね。

今朝はやくに、二人で仕事場に行くと、窓際に、中くらいの蛙が来ていました。アマガエルのすこし大きいの?と聞くと、あのケロロ・・と鳴く、シュレーゲルだよ、とのことです。うれしい!です。

No.5910 - 2017/05/27(Sat) 10:10:44

Re: 続・ / hato

こんばんは。数日朝晩仕事が立て込み、やっとこのページを見ています。東京から友人が来ており、田舎の春を味わい、明日帰ります。この春は我が家に、かつてちょっとない、お客様ラッシュな日々でした。


> >しかし、夢の中なら夢の世界は在ると感じるように、この世の中であれば、この世という世界はあると感じるのため、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。

> ですので、意識上に於いての、ある、ない、ですね。
> そうです。
> 意識上以外の「ある・ない」とは何でしょうか?



ある、または、ない、についての「事実」です。実在は知覚上、いずれにしても、ない。です。それは、世界が知覚されるされない、に依りません。


> 強いてあの体験とは、言葉として、経験、というと適切でしたが、先に書いているように、それは意識ではなかった、と言うことができます。世界の範疇にある意識(と表現するとして、)はその後に、経験を学ぶ必要があった、ということなのです。

>自我がないという経験は、意識下の出来事ではなかったということでしょうか?
>そうであれば、なぜその経験を認識できたのでしょうか?
>世界の範疇にある意識とは何でしょうか?
>個の意識ですか?集合的無意識ですか?
>そして、なぜその意識は経験を学ぶ必要があったのでしょうか?



意識とは、世界です。眼耳鼻舌身意が世界、です。意識された何某かを、自分と見做すことによって立ち現れていた自我、それまで有る、とされていた世界が、自分として消失した、その刹那は、意識下にありませんでした。起きたなら、経験を、人はあとから、学びます。


> その経験の刹那、それまでの自分は文字通り、ないのですから、「自分が認識すること」はできませんでした。了解とは、不可‐思議です。

>自分が認識できないものを、何が認識したのでしょうか?
>そして、何かが認識したものを、なぜ自分が理解できたのでしょうか?



自己です。と表現します。なぜ自分として、理解できるのか?自己に通じる経験から学ぶからです。自己(これは単に呼び方ですが、)は、身体や意識にとって、圧縮データのかたまりで、漠然と、解凍する必要があるとの感じを長く、持っていました。


> この場合の、「ない」と、一方でゆらぎさんが言われていた、世界はプログラミングされているようなもので、「自分を含め、すべては無自性であり、自由意思もないということが腑に落ちた、つまり自分がないということに疑問がなくなったということです。」の、ない、は違いますね。

>『この場合の、「ない」』とは、経験した「ない」であり、思考から導かれた「ない」とは違うということでしょうか?その違いに、どんな意味があるのでしょう?経験した「ない」が、どのように優れているのでしょうか?


人がたとえば、いつかのスレッドでお話した、ある意味、一方通行の自我として生きる場合、知識と思考から導かれたことが、その人としての事実の「ない」に届くことは、おそらく、困難です。

その経験が事実なら・・・人はこの世界で、誰も知らない野原に咲いてる、一輪の花のようです。


> 「自分で掴めない自分」、それは困難なことに、自我であっても、自己(ここでの表現を使います)であっても、そのようにあります。ではその違いはなんでしょう、もし、人がただ偏り(自我)から転換されていなかったら、どうすればいいのでしょう?

> 偏りとは、どのような基準に対して対して偏っているのでしょうか?
> そして、その基準が基準たる根拠は何でしょうか?
> また、それが転換されるとは、どうなることでしょうか?



人が、真実の「ない」を経験しないとき、これはまったく喩えですが、その自分(自我)を、暗闇でなにも見えないところを歩いている人、としますと、一方は、見えない一縷の糸に繋がり、足元を照らす灯を携えた、と言えると思います。偏りについては、これまでお話していることで、ご理解頂けるのでは・・と思います。


> 自我は多く、ものごとにすり替えが可能です。微妙に狡猾、それは特徴として、そうあらざるを得ませんが、 そのことに、ほんのすこしでも、気が付くことができたら、

>自我の目的は生き残ることであり、そのために自分自身に対する問題をつくることが仕事です。そのために狡猾さが必要ですが、自我とはそのようにプログラムされたアプリケーションソフトですから、そうあらざるを得ないのです。

> 先ず人は、自分自身に、ではなく、世界の事象に、でもなく、「不可思議という事実に」素直であること。それを正しく希求すること。だけです。

>希求したら、素直と言えなくなりませんか?



希求。この場合、発心とも言います。糺したいと願う、とも言うことができます。正しいことは、ただ正しい、としてあること。反対がない、ということはシンプルです。いいわるい、でない善い、とも言うことができます。相対する何某かでない、それとしてあること、です。


>また、正しくと言った瞬間に、逸れていきませんか?


人や世界は言葉と接着しておらず、としてなにか無理に接着しょうとする必要なく、正しいは、ただ、正しい、です。


>hatoさんは、自我のない経験をされる前と後では、何がどのように変わったのでしょうか?


もし人が、そのことを経験したとして、眼耳鼻舌身意。持っているものは変わらないと思います。hatoちゃんも、まあまあ、hatoちゃんです。

そして尚、多く言い方があるとして、いいわるい、でない善い、ことを生きることができる、その可能性に拓かれることは、幸せかも知れない、と思います。

といってこの日常。とくにこうして書いていなければ、神も自己もない、とくに不思議も必要ない、ご存じの通り、とてもとても、ふつうです。

びっくりするほど、ふつうですすす。。。

No.5915 - 2017/05/30(Tue) 01:54:07

Re: 続・ / ゆらぎ
おはようございます。

お客様ラッシュの中、超めんどくさい質問にお答え頂きまことに有難うございました。

残念ながら、私にはhatoさんの書き込まれた内容を理解する能力がありません。どこが私の質問に対するお答えなのかさえ、さっぱり分かりません。

まことに、hatoちゃん恐るべし!です・・

ということで、このあたりでお終いにさせて下さい。

No.5918 - 2017/05/31(Wed) 05:40:51

Re: 続・ / hato

こちらこそお気遣いをさまざま、ありがとうございました。どうぞお元気でいてください。(ubik0101さんとお話してください)

先日、ubik0101さんと知人と、森林がとてもいい、小國神社に行きました。数十メートルはあるような杉の木立ちを見上げると、上のほうに、たくさんの花が咲いてる・・・桜のような・・・・風蘭でした。きれいに撮れませんでしたが、とても素敵でした。

それでは、また。

No.5922 - 2017/06/01(Thu) 23:23:59

Re: 続・ / ゆらぎ
> こちらこそお気遣いをさまざま、ありがとうございました。どうぞお元気でいてください。(ubik0101さんとお話してください)

有難うございます。
ubik0101さんへの返信に、「私はシュミレーションが目的ではなく、3次元の映画だと思っています。・・・どちらにしても、ドタバタ・ジタバタするわけで、それを一所懸命演技することが、生き甲斐なのだと思います」と書きました。
目を通して戴けると幸いです。

No.5927 - 2017/06/04(Sun) 08:31:21
(No Subject) / brahma
愛するというのは意識と覚醒が必要だ。

他者に責任を持つ関係というのはテクニックじゃない。

テクニックは卑猥だ。

No.5899 - 2017/05/23(Tue) 12:25:35

Re: 無執着ではなくて、 / 勘太郎
 「自分に執着して、自分以外のものに執着しない」だと思いました。

 音を聞いたら、音の発生源を探るのではなく、音を受信している自分の胸の内を探る。
 わからない!と頭の毛をかきむしる時に、指の皮膚と頭皮と髪の毛が醸し出す感覚を感じる。

 執着する方向が覚醒とは逆だったのではないか?と人生に起こる事に執着して、自分に無関心なのではないか?と思います。

No.5900 - 2017/05/23(Tue) 21:24:44

Re: / ubik0101
とても説明ですが・・・ただ自分でありきる・・・それは・・・自分は自分を対象にできません、知覚できません。透明です。簡単に言うと、ない、です。それは・・・執着する対象としての自分も、執着する主体としての自分も、ないということです。執着しようがないのです。それはそのまま、見えながら聞こえながら行動しながら、世界が対象でない、ということです。

こうでなくて、言い方は様々でしょうが・・・本来の自分、真我、ハイアーなんとか、自我・・・とかを掴むと、それが空想であれ、記憶であれ、事実であれ・・・対象されることであり、それは、そのことを対象にする主体がすでに生起してる・・・つまり自分が自分と分離してる、亀裂があるということです。これは執着と呼ばれます。

No.5901 - 2017/05/24(Wed) 07:36:15

Re: / brahma
そうですね。自己からの逃避になりますね。
No.5902 - 2017/05/24(Wed) 14:23:20

Re: 取り付く島がない、と解かれば良いのですが。 / 勘太郎
> とても説明ですが・・・ただ自分でありきる・・・それは・・・自分は自分を対象にできません、知覚できません。透明です。簡単に言うと、ない、です。それは・・・執着する対象としての自分も、執着する主体としての自分も、ないということです。執着しようがないのです。それはそのまま、見えながら聞こえながら行動しながら、世界が対象でない、ということです。
>
> こうでなくて、言い方は様々でしょうが・・・本来の自分、真我、ハイアーなんとか、自我・・・とかを掴むと、それが空想であれ、記憶であれ、事実であれ・・・対象されることであり、それは、そのことを対象にする主体がすでに生起してる・・・つまり自分が自分と分離してる、亀裂があるということです。これは執着と呼ばれます。


 
自分は無い(わからない)であって、尚且つ「なにかはある」
「私は在る」であり、尚且つ「私は無い」

 在る・無いと言ってしまったら、分離。さてどうしたものでしょう・・・

 雪担御老師は「師が在るあるって言うから、探していたのに、無いではないですか」師は「最初から無い!無いって言ってんだけどなあ」と表現されています。

AはAであって、尚且つAはAでない、とか説明される問題なのでしょう。

 対象が無いとすると言葉は通じません。主語+述語の基本形が成立しませんから。

 鼻をつまんで、痛いと言ってみても、鼻は痛い
鼻は何にも繋がっていない様に思えますけれども、それがどうしたので終わってしまいます。何も困ったものです。

No.5903 - 2017/05/24(Wed) 21:14:48

Re: / ubik0101
ただ人は、自分自身であれということです。そして世界中を探しても、それは見つからない・・・その自分は、自分で掴めない・・・このように完璧にできています。
No.5904 - 2017/05/25(Thu) 07:43:26

Re: 自分は解らない事を解かると勘違いしてしまいます。 / 勘太郎
> ただ人は、自分自身であれということです。そして世界中を探しても、それは見つからない・・・その自分は、自分で掴めない・・・このように完璧にできています。

 ハトさんの書き込みも参考にして、思う事です。
自我(偏り)で自我を探っている場合に、自己(真我)に接触しているかのように勘違いしてしまいます。おいらは自己にさわってるんではないか?と。
 真実は全く接触していないで、自我が自我を見ているのです。
 ラマナマハリシは「自我で自我をかき回しているうちに、火を木の棒でかき回しているように、自我が燃えて無くなる」と言っています、それこそ神の思し召しがあったなら。

 自分の思考に「悟れないで残念だな」と浮かんだらそれを認める。シュレーゲル蛙って森青蛙ではないのかな?後で調べよう・今日の雨は良いお湿りだったな・ごみ箱がいっぱいだナ・眠くなってきたなと観察を続けることをする時間を増やす・段々増えているなあ。

 自己に接触しようとしても無駄であるという理解が少し強まった気がします。
 それでまたしばらく時間が経つと、自我が真我の演技をしていることを忘れて、もしかして真我に接触していうのか?と騙されます。

No.5911 - 2017/05/27(Sat) 21:46:52

Re: / ubik0101
★ (No Subject) / ubik0101

なかなかチャーミングなモノクロ顔写真が表紙の、マハリシという人の書を適当にめくって数ページ読んだことがあります。うろ覚えですが、この世界は自分ではない、この身体は自分ではない、感情は自分ではない、意識は自分ではない・・・とかいうことが書いてありました。

それだけじゃ駄目。と思って、もう続きを読まなかったので、その書の真意は分かりませんが、その逆が必要です。つまり、です。思考は自分です。感情は自分です。身体は自分です。世界は自分です。

が、必要です。そしてこの、それは自分ではない・・・それは自分だ。どちらもあり得そうですが、どちらかを採用するのでもなく、どちらも破棄するのではなく、どちらも誤り、です。と、いう認識が必要です。

これは意地悪に言えばですが、それは自分である。それは自分ではない。どちらもあり得ないのに、あり得ると空想して、表現してるにすぎません。大事は、そのどちらでもない、そこ、にあります。

ひとつには、それは自分、それは自分ではない、どちらも思考、解釈であり事実は、そうでないということ。ひとつには、どちらでもない、そのことが解脱を示すからです。

No.4638 - 2014/06/11(Wed) 07:41:59

と、投稿をしたことがあります。インド?には、Aは自分ではないBは自分ではないCは自分ではない・・・という伝統?があると聞いたような気がします。それはすでに、どんなことでもない、真我を前提にしています。そんな探求は真我を発見?するに決まっています。ところで、

とんでも話をしてみます。神、実在。第一原因・・・それは何でしょう?それは自分が自分の鏡になったもの、です。つまり、自分から分離して、自分を映す鏡。それが神です。自分が自分を知覚して、当然なのです。私は神です。

そして,私は世界です。何を見ても、自分を見てるのです。自分が自分を見る。でなきゃ、なにか見えるということがあるわけないじゃないですか?これも実感としてあります。この自分が自分を自覚でき得ない、というのも実感として事実です。

ところで・・・何であれ、神が何であれ、自分との距離が神の概念です。距離がなくなると、私は神だ、ではなく、その神が消えます。ほんとうに、実在と現象、神と世界、第一原因と因果、の区別がないのです。あれ、とか、これ、とか、それ、を失うのです。神秘も不思議も最初からないように失います。これ、面白いのです。

たぶん、いろいろあるでしょうけど、自然とか世界と一体とか、総てはひとつとか・・・そいうのは、外郭の表現なので、あんまり意味はないです。誰かの話は素直に聞いて・・・いつの間に忘れるに任せて・・・探求・・・なにも意図しなくても、自然に開示される意味を見ればいいだけです。

どうやら、ブドウの花のようです。

No.5912 - 2017/05/28(Sun) 07:18:45

Re: / ゆらぎ
> と、投稿をしたことがあります。インド?には、Aは自分ではないBは自分ではないCは自分ではない・・・という伝統?があると聞いたような気がします。それはすでに、どんなことでもない、真我を前提にしています。そんな探求は真我を発見?するに決まっています。ところで、

それは、サンスクリット語の「ネティ ネティ (これでもない、あれでもない)」という瞑想の一つであり、私も15年ほど前にマハリシの本を読んで知り、実践してきました。

ある思考が浮かんだ時、その思考は何から出たのか?
ある感情が表出した時、その感情は何から出たのか?
出た元が自分だということですが、いくら探しても見つかりませんでした。
ですから、「自分はない」を実感しています。

マハリシは「自分とは何か?」と問いますが、いまだに分かりません。
それでも、物心がついてから今日まで、「自分は在る」という感覚がずっと続いています。
何も無ければ、こうして文字を入力することも起こりません。
何かはありますが、全く形容出来ません。
なので、「それは在る」と表現しています。

> とんでも話をしてみます。神、実在。第一原因・・・それは何でしょう?それは自分が自分の鏡になったもの、です。つまり、自分から分離して、自分を映す鏡。それが神です。自分が自分を知覚して、当然なのです。私は神です。
>
> そして,私は世界です。何を見ても、自分を見てるのです。自分が自分を見る。でなきゃ、なにか見えるということがあるわけないじゃないですか?これも実感としてあります。この自分が自分を自覚でき得ない、というのも実感として事実です。
>
> ところで・・・何であれ、神が何であれ、自分との距離が神の概念です。距離がなくなると、私は神だ、ではなく、その神が消えます。ほんとうに、実在と現象、神と世界、第一原因と因果、の区別がないのです。あれ、とか、これ、とか、それ、を失うのです。神秘も不思議も最初からないように失います。これ、面白いのです。
>
> たぶん、いろいろあるでしょうけど、自然とか世界と一体とか、総てはひとつとか・・・そいうのは、外郭の表現なので、あんまり意味はないです。誰かの話は素直に聞いて・・・いつの間に忘れるに任せて・・・探求・・・なにも意図しなくても、自然に開示される意味を見ればいいだけです。


とんでもではないですよ。
私も全く同じ思いです。

No.5913 - 2017/05/28(Sun) 08:13:31

Re: / ubik0101
ずーと、ずーと昔、叔母の1人が、言いました。自分と言う感じは、若いときは、年をとると変わると思ってたけど、年をとっても変わらないね!それを聞いた、ほかの叔母が、うん、うん、と嬉しそうに笑顔で頷きました。

それを聞いてて、なんだか風光明媚な風景が見えるような感じがしました。でもおおむね、その自分と言う感じは、自我の感じです。それがあるというのは誤解で、それが虚構だということ、

その中心は、ない、ということです。探しても、どこにもない、ということは・・・どこから思考や感情が出たか?と探してる自分がいるということが見えないということ、かもしれません。いつか勘太郎さんが言ったような気がしますが・・・自分を探すと、

その探してる自分が生じる・・・そして探してなくてもあるのに気がつかないということもあるかもしれません。自分が、ない、とは、探しても(探さなくても)、どこにもないということではなく、その探してる自分そのことが明らかに、ない、ということです。でなくて、ない、は言い切れないです。

この自分があると感じてるこの自分が虚構で実に、ない、です。なので、・・・自分と言う感じ、あるいは自分がある、という感じは・・・とくに自分は操り人形というわけでもないですが・・・ありようがないです。そしてとくに、ことさら自分が、ない、という感じもないです。

まとめますと、自分があるという感じは虚構でその中心は、ない、だった。そのように仕組みが開示されるつまり自我が役目を終え完成して消える・・・そこは神との関係・・・真我。つまり、自分はあるという感じは、それがそれの原因、実在、神という、ある・・・が虚構、予告編、前兆、として現れてた。

そのままだとまだ神との距離がある。自己に偏る傾向です。この神を疑うことは難しいのですが、疑うと、神は鏡です。ということで、そうすると世界は私とか展開したりしますが、いろいろ経緯して・・・最初からそうなのかどうかは判りませんが、この日常、これは因果とも呼べないです。

No.5916 - 2017/05/30(Tue) 20:06:41

Re: / ゆらぎ
> ずーと、ずーと昔、叔母の1人が、言いました。自分と言う感じは、若いときは、年をとると変わると思ってたけど、年をとっても変わらないね!それを聞いた、ほかの叔母が、うん、うん、と嬉しそうに笑顔で頷きました。

私も、うん、うん、と嬉しそうに笑顔で頷きますね!(笑)

> それを聞いてて、なんだか風光明媚な風景が見えるような感じがしました。でもおおむね、その自分と言う感じは、自我の感じです。それがあるというのは誤解で、それが虚構だということ、

「自分は在る」という感覚は、自我ではありません。
自我は、ひとつのアプリケーションソフトであるが故、目的と機能を持ちます。
目的とは、自我を存続させること、そのための機能として勝手にわきおこる思考や感情を自己同一化し、様々な問題をつくりあげます。
一つの悩みが収束しても、すぐに別の悩みをつくり上げ、様々に変化しながらも自我の存在を主張し続けます。

それに対し、「自分は在る」という感覚は、目的も機能も持ちません。
また、変化もありません。
物心がついてから何十年経とうが、立場や環境が変わろうが、いつも同じようにそこにあり、全ての人が持っているようです。

自我がひとつのアプリケーションソフトであるとすると、「自分は在る」という感覚は、何でしょう?
背後で作動しているOSでしょうか?
それとも、普通は認識されないメモリーでしょうか?
そうではなく、パソコンに流れる電流とか電圧のようなものだと思います。
それが実体だとか、本当の自分だと言うつもりは全くありません。
スイッチを切れば、電流も電圧もなくなってしまいます。

そうだとしても、電流を流した何か、スイッチを切った何かが在るわけであり、そのことを、「それは在る」と表現しています。

No.5919 - 2017/05/31(Wed) 06:02:11

Re: / ubik0101
それ自らを持続させるのが自我の目的ではなくて・・・自我は育ち・・・その間は自分を守る必要がありますが、でないと目的が雲散霧消する恐れがあります・・・自我は完成して、よく見る言い方では、死ぬためにあります。

そうでなくて、ただ自我は、自らを守って、いろんな問題をつくりあげて、悩んで、自分を主張するだけなら、それが何のためになるでしょう。それがアプリケーションソフトだとしても、

それは自分で自分を感じようとする目的があるのでは?私は話す、私は買う、私は怒る。悩む私。苦しい私。と自分で自分を感じたいけど、そんなことでは感じきれないから持続するのでは?

もしかして、ゆらぎさんは問題のない静かな日常、悩んだり、怒ったりしてないなら、それは自我ではない、ずーと幸せで問題ないなら、自我はない、と見ていますか?

しかし騒がしくない、静かな自我は、自分はある、と感じるのではないでしょうか。自分で自分を感じたいのが自我で、自己が明確なら、自分があるという感じは必要ないです。自分はあるという感覚は、この自分て何?を誘ってる機能でないでしょうか。自分はこのような経緯でした。

シュミレーション仮説が必要とされる原因、要因は・・・自分にその経緯がないので空想するしかないですが、空想は常に外れますが・・・自由意思がなければ、責任がなく楽という面もあるかもしれません。人は世界の運行を変えていますし、責任の苦痛は、まったく引き受ければいいので、

シュミレーション仮説は自分には無縁だったかもしれません。たとえば、PCやOSの制作者がその外にいるようには・・・神、実在、第一原因は、世界の外にあるようには思えません。スイッチは、生死の喩えでしょうか。それはそれで向かい合えばいいように思います。

No.5920 - 2017/05/31(Wed) 23:45:37

Re: / ゆらぎ
> それ自らを持続させるのが自我の目的ではなくて・・・自我は育ち・・・その間は自分を守る必要がありますが、でないと目的が雲散霧消する恐れがあります・・・自我は完成して、よく見る言い方では、死ぬためにあります。

自我の完成とは、どうなることでしょう?
私も、探求のスタート時は、自我(魂、霊性)の完成だと思っていましたが・・

> そうでなくて、ただ自我は、自らを守って、いろんな問題をつくりあげて、悩んで、自分を主張するだけなら、それが何のためになるでしょう。それがアプリケーションソフトだとしても、

自我を存続させるためです。
いろんな問題をつくりあげて、悩むことにより、自我はエネルギーを得ているのだと思います。

> それは自分で自分を感じようとする目的があるのでは?私は話す、私は買う、私は怒る。悩む私。苦しい私。と自分で自分を感じたいけど、そんなことでは感じきれないから持続するのでは?
>
> もしかして、ゆらぎさんは問題のない静かな日常、悩んだり、怒ったりしてないなら、それは自我ではない、ずーと幸せで問題ないなら、自我はない、と見ていますか?


自我は自分の属性の一部であり、ずーと幸せで問題ない状態もまた、自分です。

> しかし騒がしくない、静かな自我は、自分はある、と感じるのではないでしょうか。自分で自分を感じたいのが自我で、自己が明確なら、自分があるという感じは必要ないです。自分はあるという感覚は、この自分て何?を誘ってる機能でないでしょうか。自分はこのような経緯でした。

自分で自分を感じたいのが自我というのは、私もそう思います。
自分て何?と探求を深めることが、自我の活動を活発にして、より自分(自我)を感じられるのだと思います。

> シュミレーション仮説が必要とされる原因、要因は・・・自分にその経緯がないので空想するしかないですが、空想は常に外れますが・・・自由意思がなければ、責任がなく楽という面もあるかもしれません。人は世界の運行を変えていますし、責任の苦痛は、まったく引き受ければいいので、
>
> シュミレーション仮説は自分には無縁だったかもしれません。たとえば、PCやOSの制作者がその外にいるようには・・・神、実在、第一原因は、世界の外にあるようには思えません。スイッチは、生死の喩えでしょうか。それはそれで向かい合えばいいように思います。


スイッチは、ビッグバンとビッグクランチ、宇宙の始まりと終わりです。

シュミレーション仮説ですが、私はシュミレーションが目的ではなく、3次元の映画だと思っています。
映画は、作者や映画監督、美術や音楽担当、俳優、観客など多くの人々が関わってきますが、その誰もが楽しめます。
仮想現実だと分かっていても、映画の中ではその仮想を現実だと認識していますから、本気で喜んだり悲しんだり出来ます。考えられないような不幸や凄惨な場面もありますが、仮想現実だと分かっているので、映画が終われば心理的な負担は残りません。

この世、3次元の映画は俳優と観客の両方を楽しめますが、あまりにリアルすぎて仮想とは思えないため、葛藤が起こってそれに巻き込まれてしまいます。
それも、ドラマの筋書きであり、誰もが本当は2次元の映画以上に楽しんでいるのですが・・・。

どちらにしても、ドタバタ・ジタバタするわけで、それを一所懸命演技することが、生き甲斐なのだと思います。

No.5926 - 2017/06/04(Sun) 08:24:56
(No Subject) / brahma
上帝の精神の御中の光明なる点より
光明をして人民の精神へ流入せしめんことを
光明をして大地に降臨せしめよ。

上帝の心臓の御中の仁愛なる点より
仁愛をして人民の心臓に流入せしめんことを
キリストよ大地に再臨せんことを

上帝の御意志覚知されし御所より
大目的をして人民の小意志を引導せしめんことを
大師等が覚知されそがために奉仕されん大目的よ

我等が人類と呼称せん場所より
仁愛と光明の大計画を発動せしめよ
而してそれが悪の住居の扉を封ぜんことを

光明と仁愛と御力とをもて大地に大計画を復興せしめんことを。

No.5925 - 2017/06/03(Sat) 00:22:36
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