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(No Subject) / brahma


ああ、かえろう

無限の母性よ

母なるリアリティと至福のヴァイブレーション

No.5906 - 2017/05/25(Thu) 22:01:24
日常 / ubik0101
もしかしてですが、おおく人は、この世界の訳の判らなさに困ってる・・・弱肉強食、優劣、性別、生死・・・納得できない、それで世界とか自分とかを理解したいのかもしれません。そうですね、しかし、

この訳の判らなさ・・・それゆえ、人は解脱します。なにか、完全なアプリケーションのような・・・完全無欠の構築された世界なら・・・それでは悟りは起こりえない、と睨んでいます。

まあ、自分は、この訳の判らない世界で、その訳の判らないまま、それからはみだすこともままならず、それ以外のことを何もかも顧みず・・・けれどそれで1人あって静かで幸せで・・・探求を続けていました。

こんなことを話してると、いろんなことを思い出します。FMラジオで聞く朝のテレマン、小さな木造アパートの一室・・・通り過ぎてから互いに振り返った名前も知らない

誰かのこと・・・徹夜仕事・・・社員旅行・・・失恋・・・知人の死・・・こんなこと、あんなこと、どいうことなんでしょう。なんなんでしょう。でも、辛いということは、たしかに、

そのまま辛いということ。悲しいということは、そのまま悲しいということ。嬉しいということは。そのまま嬉しいということ・・・これは、なんなんでしょう。そして探求は、その結果、

No.5885 - 2017/05/19(Fri) 19:42:32

Re: 日常 / ubik0101
なにか体験が起きるとかさえ知りもしなかった。この自分を探求するんだ、というテーマで探求したわけでもなく、努力も、怠惰も、楽しいことも、仕事も、結果、どんなことでも、自分は何?でしかなかった。これだけなのです。

とくに世界とか自分とかの不整合を暴くとか、整合性を求めるとかしなくていいのじゃないのかな・・・たとえば社会や、弱肉強食が嫌なら・・・完全にお勧めできませんが・・・この世界から去ることもできる世界だし、

ここで生きるのだから、問題は、そいうことにあるのだろうか。なんだかの主義、思想のこと、政治、貧富、性別・・・そんなことがほんとに問題なのだろうか?

なんでもない・・・日常・・・そこから始められないだろうか?たとえば国籍年齢性別名前意識無意識知覚、それがなぜそうなのか?誰が知ってるでしょう。

この何も知らないところから始めて、なにもない自分から始めて・・・たとえば問題がなければいいとか、苦がなければいいとか目標を持たず、コンパスも地図も持たない探求を始められないだろうか?

ことさら・・・なぜ、なぜ、なぜ・・・を捕まえることもなく、ただ・・・こう、である自分を、こう、と認識する、この最も簡単な、これだけで充分な、自然の道を歩かないのだろうか?

No.5886 - 2017/05/19(Fri) 19:43:04

Re: 世界に対して自分は責任を果たさなければならない。 / 勘太郎
> なにか体験が起きるとかさえ知りもしなかった。この自分を探求するんだ、というテーマで探求したわけでもなく、努力も、怠惰も、楽しいことも、仕事も、結果、どんなことでも、自分は何?でしかなかった。これだけなのです。
>
> とくに世界とか自分とかの不整合を暴くとか、整合性を求めるとかしなくていいのじゃないのかな・・・たとえば社会や、弱肉強食が嫌なら・・・完全にお勧めできませんが・・・この世界から去ることもできる世界だし、
>
> ここで生きるのだから、問題は、そいうことにあるのだろうか。なんだかの主義、思想のこと、政治、貧富、性別・・・そんなことがほんとに問題なのだろうか?
>
> なんでもない・・・日常・・・そこから始められないだろうか?たとえば国籍年齢性別名前意識無意識知覚、それがなぜそうなのか?誰が知ってるでしょう。
>
> この何も知らないところから始めて、なにもない自分から始めて・・・たとえば問題がなければいいとか、苦がなければいいとか目標を持たず、コンパスも地図も持たない探求を始められないだろうか?
>
> ことさら・・・なぜ、なぜ、なぜ・・・を捕まえることもなく、ただ・・・こう、である自分を、こう、と認識する、この最も簡単な、これだけで充分な、自然の道を歩かないのだろうか?


 と感じてしまうのです。営業利益目標を私の営業努力で達成しなければならないとか。町内会役員の仕事をやらなければならない。夫・父親・親にたいして子供として行うべき行いをしないとならない。束縛とも云う、この責任を放棄するようなきがしてしまうのです。理性ではそんな能力はおいらには無いとも思うけれども、できる限りの恰好をつけなければならないと感じてしまうのです。

 これが自然の道に従えないおいらの気分の様な気がします。在るがままとか言いますが難しいです。爺になってこの責任が少なくなったので、自然の道を歩き易くなっていると感じます。そこではおいらの欲が責任の代わりとなって束縛します。

No.5892 - 2017/05/22(Mon) 20:43:18

Re: よく考えてみたら、他人からどう見えるか? / 勘太郎
 これを生きる指針としているように思います。
責任も欲もすべての基準ものさしは他人の目。

 この他人からどう見らるかという視点から生きていて、ただ今をそのまま認識していることが難しいようなきがします。

No.5893 - 2017/05/22(Mon) 21:08:34

Re: 日常 / ubik0101
なんであれ・・・政治、道徳、仕事、誰かの眼、世界の仕組み、戦争、平和、弱肉強食、好き嫌い、書・・・それは自分から眼を逸らすこと。としても機能します。

その自分から眼をそらすことは、楽しく苦しい、娯楽なのかもしれません。

そんなこと、人は最初から組み込まれているというわけではないです。自分から眼を背けて自分を疎かにするのは、その自分しかできないです。

ずーと昔。はるかに昔、このように考えました。

たとえば社会とか、道徳とか、それは何?そーだ、それは、ここに実際にあるのではなくて、どこかにあると仮定されてるだけだ。

みんながそれを仮定してそれに束縛されてるだけだ。と思ったものです。社会とか、道徳とかは、実態がない、空想だ。実際、母さんや父さんや、隣りの山田さんは、社会ではない、

じゃ、どうするんだ。たとえば社会に反抗するのも、ひとつのスタイルでしかない。そんなことできれば、なんか自分の姿勢があって、それは楽ではあるだろう。

でも、なんでもないんだ。自分・・・どうとかこうとかいうものではない。どんなことも出来ない。この、

この、なんでもない、自分、を守るのは、とても根性が必要でした。ある日、学校に行ってみると、校門にバリケードが張ってあった。これはなに?と誰かに聞いたら、なんか誇らしそうにロックアウトだと言った。それは何?学生運動が激しかった頃。

そんなことに無関心というわけでさえない、ない、を守るのは、とても困難でした。ほんとうに、馬鹿です。でも、そのように生きた。そんな生活でした。

もいっかいこれをやれといわれても出来ない・・・でも、こんな滅茶苦茶は必要ない・・・ただ、なんでもない自分・・・そこから始めればいい、

たとえ妻子があってもなくても、地位や役目や車や家があってもなくても・・・自分は自分にあって、なんでもない・・・これだけなのです。この何もなさから逃げない、

たとえば何か思考して、それを心理的な優劣とか、これまでの人間関係の経緯とか、あれこれで思考を変調するとそれは自分から眼を逸らし逃げ続ける連続・・・

そうでなく実際、なにを、どうするか?だけを思考する。

なんの社会的な、あるいは人類の一員としての役目なんてなくていい。こんな些細なことのような気がします。

繰り返しますが・・・たとえば1人で山で畑を整備してて、そこには、とくに何もないでしょう。煩わしい人間関係から離れた対比の気分とかもないでしょう。そのなにもなさ・・・それは会社にいても家族といても、違うとか違わないとかでもなく、なにもなさ、そこから逃げない。それを受け止める、そんなことのよな気がします。

No.5896 - 2017/05/23(Tue) 07:21:58

Re: 日常 / brahma
普通のひとはそこまで無執着になれないんだなぁ。

解脱した阿羅漢のみが無執着を達成する。

No.5898 - 2017/05/23(Tue) 12:05:53
(No Subject) / brahma


愛は愛を愛してる

No.5897 - 2017/05/23(Tue) 12:04:39
Re.思考 / ubik0101
ゆらぎさん


>ある・ないは一度定義しておいた方が良いかもしれません。
>今、パソコンのモニターに掲示板が映っています。目というセンサーがあり、脳というプロセッサーで認識が起こっているので、「ある」と感じます。しかし、モニターのスイッチをOFFにすれば、掲示板は消えてしまいます。
>つまり、感覚器官で捉えられるものは、「感覚的にはある」が「実体としてはない」ということだと思います。
>夢も同じですが、この現実そのものも同じではないでしょうか?


この世界、あるいは世界の構成要素は、夢もそうですが、それがそれ事態の原因・・・実在・・・ではない、ということですね。そうだとしても、この世界と実在の関係の認識は、その構成が自我の姿ということもあって、ちょっと困る場合がありはします。

ここで思考は、その人の状態を現さない、単なる思考なら、たとえば《「感覚的にはある」が「実体としてはない」》とかも単なる思考なので、問題にする意味を失います。また思考は事実、状態を現すなら、そうならそうなんだ、ということで、これも問題にする必要はないようです。思考することの効果を話してみます。

>月の喩えは全て解釈にすぎませんが、「実体としてはない」ということです。
>人間も存在しているように思えますが、少し焦点をずらせば、たちまちその存在は消えます。
>臓器、細胞、分子、原子、素粒子、エネルギー・・・それぞれのレベルでは「そのもの」は認識できますが、人間は認識できません。
>拡大方向も同じで、家、町、国、地球、太陽系、銀河系、宇宙・・・。


>「知覚されるからと言って、知覚されないないからと言って・・・それは、あるとかないとかとも言えない」というよりは、あるレベルを認識するためのセンサーとプロセッサーが与えられているだけで、「実体としてはない」ということだと思います。

ふつう日常で、ある、とは、それが機能してて知覚される、という意味です。たとえば時計が、ある、です。素粒子がある。宇宙がある。これは簡単です。そして使い古されて電気を発生しなくなった電池は、ない(なんか説明しようとしたら、あるけどない)とか呼ばれます。

ない、は複雑です。使えない電池のように、機能してなくて知覚されること。どこか行方不明になった携帯電話のように・・・機能してて知覚されないこと。機能してなくて知覚されないこと。とかあります。ここにはないけど銀行にある貯金、見えない電波などは全体が知覚されないけど、あるとも呼べるようです。

またひとつには、ある、とは・・・それがそれ自身の原因であることをそう呼びます。それは一般的に、神、実在、第一原因、とか呼ばれます。そして、この、機能してるのだけど、その自分を自分を自覚でき得ない自分を、ない、と呼びます。

それはなんであれ、それ、でも、これ、でも、自分でも、それがそれと差がなくて知覚され、ない、ということです。知覚とは差の認識です。それがそれにありきっても、あるがあるにありきっても、ないがないでないきっても・・・ない・・・です。ところで、

「それは在る」、そして知覚されることは、実態としてはない・・・そう聞くと、あくまで勝手な印象ですが・・・それ、と知覚されること世界、が離れてる気がします。自分とは経緯が違うので何とも言えないですが、そんな構造が自我を構成することもありそうなので・・・

というのは、悟り体験後、真我や、それ、を対象にしてしまうと、その構造として自我が再起動してしまうことがあるので・・・だからって何?と言えば言えるのですが・・・極端を言えば、それ、こそ自我の根源・・・ということもあります。

>一般的にはそうだということは理解しているのですが、自我も主体ではなくそういう機能を持ったアプリケーションであり、認識される対象だと思っています。自我を認識している何らかの主体があるわけですが、それを自分としてしまうと違います。自分とは既に意味づけされていますが、その範疇に入らない可能性が高いので、「それ」と言っています。
>ですから、「自分は在る」ではなく「それは在る」なのです。


その自我が知覚されるなら、それは悟り体験です。それは自我の完成でもあり・・・自我は虚構であり、ない・・・と認識されることでもあります。それを知覚するのは、ここでは自己と呼びますが、真我です。これは、ある、の直系です。

この、あるもないも、それでありきって、ない、です。認識され得ない、ということです。そこの関係から、認識できない自分を、認識できる気がしてる自我の状態を自分があるとも、呼ぶようです。

それ、は認識されないのに、ある、と呼ぶなら、それは何故。と自分なら探査します。そこは、自分、ではなく、それ、という言い方をしてるとするのかもしれませんが、

その背景にこちらの勝手ですけど、そうであって欲しいというような信念のようなことを感じて気になります。たとえば世界と実在の、迷いと悟りの、自我と無我と真我の区別を失った。と言ってもこちらの勝手で、それぞれの人はそれぞれに任されているので、なんとも言えないところはあります。

かなり大雑把ですが、あるとかないとか、ということも思考し尽くすと・・・あるとかないとかも、いつでも使えるようにはなりますが・・・消えてしまいます。なにもない、普通の日常です。ここが世界の、探求の、始まりです。

No.5895 - 2017/05/23(Tue) 06:26:53
それは在る / ゆらぎ
hatoさん

> > > こちらは、いってみれば、単極です。
> >
> > >単極だと「それは在る」、シュミレーション仮説は、「それも幻想」となりませんか?
> >
> >
> >
> > 「それがそれとしてある、」というとき、このことは、なにか事象を見比べて、その差を読み解くことではないと言うことができます。なぜなら、うまく言い得ているかわかりませんが、それは、知覚で判断されることでは、ないからです。
> >
> > この世界で、知覚とは差の認識、であることを学びますが、それがそれとして在る、ということを、なにか差の認識をもって理解することは、できないと言えます。


> > すなわち、これは完全に別のこととしてあるので、知覚の理解としての比較を用いることは、厳密には、できないのです。こうしたことは大変微妙で、繊細なところですが、「そうなのです。」としか言いようがないところです。

申し訳ありません。
私の「それは在る」の「それ」は、「真の自分」という意味ですが、hatoさんの「それがそれとしてある、」の「それ」は、神羅万象全てを指していますね。
例えば、「月は月としてある」「桜は桜としてある」という具合に。
確かに、桜を見て認識したとしても、薄いピンクの色や形を認識しているだけで、桜そのものを認識したことにはなりません。
「桜は桜としてある」、それ以上どうにも手が付けられないです。


勘太郎さん(ですよね?)

> > この書き込みが「言語道断」である事の説明で一番(すでに比較で表現してしまっています)ぴったり納得できました。思考を停止することはできる様になりましたけれども、その後の知覚できないが知覚できません。ニサルガダッタ・マハラジは「人ができるところはそこまでだ」と言っているとおもいます。ここら辺も想像で全くの勘違いかもしれません。皆既日食の様にコロナは見えるけれども、太陽は見えません。見えない太陽はいつも地球を照らしています。

ニサルガダッタの「私は在る」を「それは在る」と言い換えました。
何故なら、「私」は認識できないからです。
認識とは、主体と対象があって初めて成り立ちます。
「私」とは主体であり、自分の中に浮かんで来る思考や感情、そして肉体は認識できますので対象です。

つまり、思考や感情や肉体は、「私」ではないということです。
突き詰めれば、認識できるものは全て「私」ではない、つまり、この現象界では、「私」を認識することは出来ないということになります。
これが私だ!と認識できたとしても、それを認識している別の自分がいることになりますので、際限がありません。

しかし、現に認識は起こっていますので、認識する主体が「在る」ことは否定出来ません。
この現象界に「私」がいないということは、別の次元にいるとしか考えられません。
「とんでも」の世界ですが。(笑)

No.5836 - 2017/05/01(Mon) 07:33:36

Re: それは在る / hato

こんばんは。日々、さまざま進行していくとは、おもしろいものですね。人生、一体考えさせられますね。なんだか、いろいろあって学ぶことができる、ちょっとハードな遊園地にいるような感じでしょうか。


>私の「それは在る」の「それ」は、「真の自分」という意味ですが、hatoさんの「それがそれとしてある、」の「それ」は、神羅万象全てを指していますね。


いいえ。その部分において、森羅万象は、意識されていませんでした。


>例えば、「月は月としてある」「桜は桜としてある」という具合に。
>確かに、桜を見て認識したとしても、薄いピンクの色や形を認識しているだけで桜そのものを認識したことにはなりません。「桜は桜としてある」、それ以上どうにも手が付けられないです。



というより、もしかしますとそのあたりは、世界の内容として存在してる、という理解で十分な気がします。

「それはそれとして在る、」ということは、そうした事象、知覚、というところから、逸脱せざるを得ない、ある意味飛躍せざるを得ないこと、と思います。


>しかし、現に認識は起こっていますので、認識する主体が「在る」ことは否定出来ません。
>この現象界に「私」がいないということは、別の次元にいるとしか考えられません。
>「とんでも」の世界ですが。(笑)



とんでも、かどうかは、行ってみなっくちゃ!??

たとえばここで、人に本当の「意志」はあるのでしょうか?という疑問があります。ゆらぎさんは、厳密な意味で、人に自由意志は、ない、と言います。宇宙のなすかがままに・・・自分というものはないので、世界の流れに沿う・・・ということでしょうか。

ですがここは、この自分は、こう言います。「世界のなかで、人に自由意志は、ある・・・ない・・・そのどちらとも言えない・・・際、ギリギリの・・・」というところがたとえば、未知ながらの道、とはこれの表現ですが、真に偏りを脱する、場所ともいえない場所、です。

世界の自動運転という表現は、こうなったら、概ね人は怒る・・・とか、嬉しい・・・とか、人として、自然に発生するあたりのことで、それで、でも、もし誰かが、総ては神、世界のなせるがまま・・・というなら、それは無我に偏った自我、といえるかも知れません。

なぜなら本来は、どちらともいえないところ、といえるからです。

そして、この我、ということに真に偏りがないとき、たとえばなにかを主張すること自体を嫌悪、あるいは、問題になることはないでしょう。主張=自我、にならないですみます。

ツタバウンランです。先のマツバウンランにも感動しましたが、このウンランは、土にぴったり張り付く感じで、本当にかわいらしい花です。薄紫が可憐で、春に見つけると、嬉しくなってしまいます。

No.5840 - 2017/05/02(Tue) 00:51:55

Re: それは在る / ゆらぎ
余談です。(笑)

> >私の「それは在る」の「それ」は、「真の自分」という意味ですが、hatoさんの「それがそれとしてある、」の「それ」は、神羅万象全てを指していますね。
>
>
> いいえ。その部分において、森羅万象は、意識されていませんでした。


神羅万象ではなく森羅万象でしたね。
変換したときに、一瞬あれっ?と思ったのですが、こんな決まりきった語句での誤変換は無いだろうと思い、スルーしてしまいました。

で、なぜ神羅万象が日本語入力の辞書に登録されていたのだろうと思い検索したところ、見つかりました。

神羅万象とは、バンダイより発売されているウェハースチョコ付きトレーディングカードとのことでした。
あまりに意外だったので、カードの写真も貼り付けてみました。(笑)

No.5841 - 2017/05/02(Tue) 07:11:24

Re: それは在る / ゆらぎ
> こんばんは。日々、さまざま進行していくとは、おもしろいものですね。人生、一体考えさせられますね。なんだか、いろいろあって学ぶことができる、ちょっとハードな遊園地にいるような感じでしょうか。

そうですね。
私はスリル満点のジェットコースター的なものが好きです。(笑)

> たとえばここで、人に本当の「意志」はあるのでしょうか?という疑問があります。ゆらぎさんは、厳密な意味で、人に自由意志は、ない、と言います。宇宙のなすかがままに・・・自分というものはないので、世界の流れに沿う・・・ということでしょうか。

やりたいことをやる!ですね。
世界の流れも認識できないので。

自由意思が無ければ、自分に責任が無いことになります。
(もっとも、自分がいないのですから、そもそも責任などないのですが)
で、これまで、あーだこーだと自己防衛本能の機能に振り回されて、躊躇だらけの人生だったのが、タガが外れて、自由になりました。
自由意思が無いことが腑に落ちて、自由を回復するとはこれいかにって感じですが。
と言っても、悲しい?ことに欲望の赴くがままにとはならないのです。(笑)

> ですがここは、この自分は、こう言います。「世界のなかで、人に自由意志は、ある・・・ない・・・そのどちらとも言えない・・・際、ギリギリの・・・」というところがたとえば、未知ながらの道、とはこれの表現ですが、真に偏りを脱する、場所ともいえない場所、です。
>
> 世界の自動運転という表現は、こうなったら、概ね人は怒る・・・とか、嬉しい・・・とか、人として、自然に発生するあたりのことで、それで、でも、もし誰かが、総ては神、世界のなせるがまま・・・というなら、それは無我に偏った自我、といえるかも知れません。
>
> なぜなら本来は、どちらともいえないところ、といえるからです。
>
> そして、この我、ということに真に偏りがないとき、たとえばなにかを主張すること自体を嫌悪、あるいは、問題になることはないでしょう。主張=自我、にならないですみます。


私には難しすぎて、理解が追いつきません。
私は自我そのものは、全て偏っていると思いますし、それを矯正(コントロール)することは出来ないとも思っています。
自然にわき起こる思考や感情や意思を単に自我と名付けているだけであり、自己同一化しているため、自我を自分と混同しているのだと思っています。

No.5847 - 2017/05/03(Wed) 08:11:27

Re: それは在る / hato

とてもこんばんは。の時間ですが、ゆらぎさんにはもうすぐ、朝ですね。(^^)

5月の連休て、やっぱりいいですね。陽気もいいし、見かける人たちも軽やかです。私たちは、ちょっと仕事。うちには、母に次いで父も駆けつけ、庭作業を手伝ってくれたり、田舎を満喫しています。懐かしい友人に会えたり、ちょっとだけ、春華やいだ気配です。

>私は自我そのものは、全て偏っていると思います>し、それを矯正(コントロールすることは出来な>いとも思っています。
>自然にわき起こる思考や感>情や意思を単に自我と名付けているだけであり、自己同一化しているため、自我を自分と混同しているのだと思っています。



そうですね、もともと在る、わけでもない、自我を矯正することは、できないと思います。また、ある・・ない・・・これは、意識にとっての難題と、いえるのではないでしょうか。

思考や感情や意志が、自我・・・というわけではないでしょうね。

ここでいう自我とは、そのように自然発生する思考、感情、感覚に、執着し、それを盲目的に自分として生きようとする、その様相ですが、人は通常、子供から大人になる間に、多かれ少なかれ、概ね、自分(自我)、という中心を設定し、生きているのではないでしょうか。

その自我、といわれる、仮の主体が予め設定されており、それがなにか意識することによって、ものごとが発生していく・・・・

或はその逆に、中心のないところで、見る、意識される、ことが起きたために、仮の主体が出来上がる・・・・という順逆双方向の働きが起こること。

これが変化が人に起こす、人としての大きな転換です。

自我とは、自己を探求する、ツールと言えます。この自我の働きが偏っている、ということは、先ず人が、偏っている、ということかも知れません。

人、というとき、それはすでに不可思議ですが、人の状態が正されるとき、それまでの、たとえばある・・・ない・・・について、偏りの状態で見ていた、とある切片、とある極端でない、中道を、得るとも言えます。

No.5853 - 2017/05/05(Fri) 00:27:20

Re: それは在る / ゆらぎ
> とてもこんばんは。の時間ですが、ゆらぎさんにはもうすぐ、朝ですね。(^^)

今日もいい朝です。(^^)

> 5月の連休て、やっぱりいいですね。陽気もいいし、見かける人たちも軽やかです。私たちは、ちょっと仕事。うちには、母に次いで父も駆けつけ、庭作業を手伝ってくれたり、田舎を満喫しています。懐かしい友人に会えたり、ちょっとだけ、春華やいだ気配です。

hatoさんのご両親は、まだお若いのですね!
健康が一番です。
私の友人に膵臓がんが見つかり、暫く落ち込んでいました・・・。

> 思考や感情や意志が、自我・・・というわけではないでしょうね。
>
> ここでいう自我とは、そのように自然発生する思考、感情、感覚に、執着し、それを盲目的に自分として生きようとする、その様相ですが、人は通常、子供から大人になる間に、多かれ少なかれ、概ね、自分(自我)、という中心を設定し、生きているのではないでしょうか。


私とhatoさんは、自分及び自我の定義が異なるのでしょうね。
私は、認識する主体を自分(真我)、認識作用を自我(偽我)と定義しています。

> 自我とは、自己を探求する、ツールと言えます。この自我の働きが偏っている、ということは、先ず人が、偏っている、ということかも知れません。

自我というのは、パソコンで言えばアプリケーションのようなものであり、自己を探求するツールとしてプログラムされているのだと思います。
人それぞれ、所有している自我(アプリケーション)が違いますので、全てが偏っています。しかし、全てが偏っていれば、偏りが無いのと同じとも言えます。

自我(アプリケーション)は一所懸命動いて、自分(真我)とは何かを探りますが、所詮はパソコンの中だけの探索であり、自分(真我)とはそのパソコンを見ている存在だとすれば、自分(真我)を永遠に認識することは出来ません。

No.5871 - 2017/05/14(Sun) 07:09:04

Re: それは在る / hato

ゆらぎさん、お久しぶりでした。春は継続中、いい陽気ですね。こちらも、慌ただしく過ぎています。


>hatoさんのご両親は、まだお若いのですね!
>健康が一番です。
>私の友人に膵臓がんが見つかり、暫く落ち込んでいました・・・。



両親はなかなかいい年ですが、なんとか、元気にしてくれています。先日無事に帰途につき、しずかな庭に戻り、今日は久しぶりに、2人で海に行きました。

共通の知人が、同じ病で闘病しています。こうしたことは、辛いです。


>私は、認識する主体を自分(真我)、認識作用を自我(偽我)と定義しています。
>私の「自分」の定義は、「認識する主体」です。
>認識するという活動が起こっているのですから、「自分は在る」となりますが、思考や感情や意思などの総体である自我を自分とすると、「自分は無い」となります。
>自我というのは、パソコンで言えばアプリケーションのようなものであり、自己を探求するツールとしてプログラムされているのだと思います。
>人それぞれ、所有している自我(アプリケーション)が違いますので、全てが偏っています。しかし、全てが偏っていれば、偏りが無いのと同じとも言えます。



たとえば、人類の自我がそれぞれ偏っているので、総体で偏りがない・・・とはおそらく、人類もしくはすべては、ひとつ、を前提にしていなければなりません。

自己を探求するとは、その前提を見ていくことから、始まると言えます。本気でいきますと、たえばこの、意識、場、とあるフィールドという概念や前提を、鵜呑みにすることができないでしょう。

人になにか、覚醒体験が必要か、不要かといえば、個人として生きるとき、とくに必要ではないかも知れません。それがなくても、人として十分に美しく、豊かで、徳と滋養に満ちて生きることができるのでしょう。その総て、を味わうことができるのではないでしょうか。

しかし、もし本気で自己を探求するとなれば、やはりこのことは、なにか多く知識を俯瞰して、自分に照らし合わせて推察、理解することでは収まらない、なにかです。ここは自ずから、不可思議な一貫性が生じる・・・或は、誰にとってもそのようであることを、正にそのようであることとして、不可思議を友として、歩いていくこと、と言えると思います。


>自我(アプリケーション)は一所懸命動いて、自分(真我)とは何かを探りますが、所詮はパソコンの中だけの探索であり、自分(真我)とはそのパソコンを見ている存在だとすれば、自分(真我)を永遠に認識することは出来ません。


素敵な隣人が、うちで栽培したという芍薬をくれました。はじめて見る花でした。

No.5879 - 2017/05/16(Tue) 23:51:12

Re: それは在る / ゆらぎ
> 両親はなかなかいい年ですが、なんとか、元気にしてくれています。先日無事に帰途につき、しずかな庭に戻り、今日は久しぶりに、2人で海に行きました。

そうでしたか。
私は10年前に両親を呼び寄せました。
二人とも90歳に手が届く年齢になりましたので、庭作業もあまり出来なくなっています。

> たとえば、人類の自我がそれぞれ偏っているので、総体で偏りがない・・・とはおそらく、人類もしくはすべては、ひとつ、を前提にしていなければなりません。

説明が拙くて申し訳ありませんが、総体で偏りがないということではありません。
人類の自我がそれぞれ偏っているということは、それは偏りではなくて個性だということです。
勿論、平均的な自我も想定できますが、それは偏っていないのではなく、平均的であるという個性だと考えます。

偏るということは、偏ってない自我との比較になりますが、それも想像の範疇に過ぎず、偏ってない自我という実体も無い訳ですから、偏るという概念が私の中では存在していないのです。

> 人になにか、覚醒体験が必要か、不要かといえば、個人として生きるとき、とくに必要ではないかも知れません。それがなくても、人として十分に美しく、豊かで、徳と滋養に満ちて生きることができるのでしょう。その総て、を味わうことができるのではないでしょうか。

hatoさんは覚醒体験をされたのでしょうか?

No.5880 - 2017/05/17(Wed) 06:22:01

Re: それは在る / hato

こんにちは。今日は、仕事がはやく済みました。慣れてきたこともあるでしょうか、こんなこと、あんなこと、きびきびできたらいいなと思います。健康でいきましょう!と思います。いつもご丁寧に返信を頂き、ありがとうございます。


>偏るということは、偏ってない自我との比較になりますが、それも想像の範疇に過ぎず、偏ってない自我という実体も無い訳ですから、偏るという概念が私の中では存在していないのです。


偏る、ということはこの場合、人が、世界のある・・ない・・どちらか一方に偏っている、ということです。これは想像の域の件ではない、人が実際に、そのようであること、と言えるでしょう。この場合、ここを個性、というわけにはいきません。それは状態としての偏りであり、それが解消された「ここ」は本来、人が自ら成長を、希求して止まない場所とも、言うことができます。なぜなら、ここで人は初めて、相対でないところに於いての平和を表現するからです。

ここは、知識や推察で理解することが困難でしょう。実際すでに、そのような事柄です。人が、なにか見逃せない偏りを、自らに未だ強いているとき、このことは、容易に理解され得ないでしょう。どうしても人に、とある経験上の飛躍的変化、その間に起きる状態の変化、その上で、「理解されること」によって起きてくる「意味」が、必要です。

そして尚、この世界とこの人生。誰も、他人に強制することができません。100にひとつの可能性として、出来る状況にあるときに、自身で臨むしかないこと、と言えるのではないでしょうか。


>hatoさんは覚醒体験をされたのでしょうか?


偏りとしての自我、これが意識的に瞬時に消失された経験は、少なくとも、自身にそのような状態および状況を、作り出さざるを得なかったでしょう。自分の条件下では、理解することは、非常に困難でしたが、それを理解すること、そして尚進むこと、以外の道は、自分になかったとしか、今の時点では言うことができません。

この心身を道具として、どこまでいけるのか。
楽しみ歩むなら、幸いです。

すこし前に、庭のさくらんぼを採りました。

No.5882 - 2017/05/17(Wed) 18:36:56

Re: それは在る / ゆらぎ
おはようございます。
真夏のような朝です。

> >偏るということは、偏ってない自我との比較になりますが、それも想像の範疇に過ぎず、偏ってない自我という実体も無い訳ですから、偏るという概念が私の中では存在していないのです。
>
>
> 偏る、ということはこの場合、人が、世界のある・・ない・・どちらか一方に偏っている、ということです。これは想像の域の件ではない、人が実際に、そのようであること、と言えるでしょう。この場合、ここを個性、というわけにはいきません。それは状態としての偏りであり、それが解消された「ここ」は本来、人が自ら成長を、希求して止まない場所とも、言うことができます。なぜなら、ここで人は初めて、相対でないところに於いての平和を表現するからです。


私の場合は、偏りようがないのです。
夢と同じで、夢の中なら夢の世界は在る(と感じる)。しかしそれは現実ではない。
この世も、この世の中であれば、この世という世界はある(と感じる)。しかしそれは実体ではない。
何故なら、あるレベルでしか世界は認識されないからです。
素粒子レベルになれば、この人間の世界は認識されません。
素粒子の世界は不確定であり、エネルギーのひとつの形態に過ぎませんから、この世界は実体と呼べるものではありません。

つまり、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。

> >hatoさんは覚醒体験をされたのでしょうか?
>
> 偏りとしての自我、これが意識的に瞬時に消失された経験は、少なくとも、自身にそのような状態および状況を、作り出さざるを得なかったでしょう。自分の条件下では、理解することは、非常に困難でしたが、それを理解すること、そして尚進むこと、以外の道は、自分になかったとしか、今の時点では言うことができません。


そうでした、自我の消失の体験をされていたのでしたね。
それで私は、バーナデット・ロバーツを紹介したのでした。
最近は、物忘れが良くなりすぎて、困ります。(笑)

> この心身を道具として、どこまでいけるのか。
> 楽しみ歩むなら、幸いです。


この世は、自分を生きるということは、ホントに楽しいですよね!

No.5894 - 2017/05/23(Tue) 06:08:41
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