> >月は、見るまでは存在してないのかも・・です。 > > たしかに、そ、です。そして・・・誰も見てなくても月はあります。この、どちらも偏りです。この両極は経緯され自然に打ち消し合います。と、いうのもまず、なんだかの偏りが、月は見るまではない、 > > また何だかの偏りが、月は見てなくてもある、という思考を起こすからです。実にどちらも実感ですが、どちらも空想です。そのどちらもない、なんでもない花鳥風月。ここからしか働くことも探求も始まったことがないです。 > > >私も思考に整合性はないと思います。 > >思考はそこら中に満ち溢れていますが、自分に合う波長のものしか受信できません。受信したものを統合して整理し、自分の思考と名付けていると思っています。 > > まず人が、ゆらぎます。ほんの微かに幽かに偏ります。その偏りのエネルギーを得・・・思考が発生します。そこでその思考はその人のその偏りを正確に現します。 > > たとえば思考は問題だ。という思考は、その人が・・・そうと気がついてなくても、たとえば素直でない、開けっぴろげではない・・・そんな状態で、その人のその状態を、思考は問題だ。という思考が正確に現します。 > > というのも、思考は問題だ、というのも思考です。すると、思考は問題だ、というのは正当性がないはずです。けどその人が素直でなければ、これを避けて通り、思考は問題だ。という思考の裏に隠れて、その自分の偏りを守ることになりやすいです。 > > ここで思考は知覚です。たとえば見えるという機能、その対象の太陽や花、赤黄緑、そこに問題があると感じるなら、その人には自覚してなくても、問題があるということです。 > > これは、思考は無問題、人は問題、という見方です。人と思考、この組み合わせとして見ると、人は無問題、思考は問題、どちらも問題、どちらも無問題。また思考に使われる、使う、それぞれの理解があるでしょう。 > > >結局、自分の認識できる世界は、知覚したものを自分の脳内で処理した結果の世界にすぎませんので、実在しているとは言い切れないのです。 > > なにかを判断するということは、そのようでしょう。その思考は、空想で、その現実と、乖離してるでしょう。これは問題でもありますが・・・しかし空想の翼をひろげる思考は、探求や研究そのことであったりします。 > > ここで、たとえば心理的思考と、技術的思考を区別するのは・・・また未知と既知を区別するのは・・・ビカミングを問題とするのは・・・やはり偏りです。ともかく、そんな思考も・・・予め破綻して現われた。 > > その破綻に切り込むことで、つまり思考はその思考の偏りを露にすることが出来ます。そしてその人の気がつかなかった偏りを解します。そして思考は思考の有り様を実況中継できるのですから、思考は、そのままメタ思考です。
私はhatoさんと真逆で、ubik0101さんの仰られることが、よく理解できません。 ここでは、思考は偏りであるとか予め破綻していると仰られているようですが、思考はそれぞれが独立していますので偏りも破綻もなくてただ起こるだけであり、偏りや破綻は、個々の思考を選択して統合する自我の問題だと思われます。
また、思考の種類は多くないため、それぞれの意味するところは違います。 ただ、それは他と違っているだけであり、偏りでも破綻でもないと思います。 例えば、月を例に挙げると、 1.月は実体であり、見ていなくても存在している 2.月は、見た時だけ実体として存在する 3.月は実体ではなく、見た時だけ映像として処理され(波動状態)、 月面着陸して観察される時には実体化(粒子状態)される
普通の人の感覚は1であり、シュミレーション仮説だと3になりますが、どれが正しいかは分かりませんので、どれを選択しても偏ってもなければ、破綻もしていないと思います。
思考は空想であり現実と乖離しているとのことですが、現実が夢ではないという証明も出来ませんので、現実は現実として存在しているという感覚自体が空想に過ぎないかもしれません。
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No.5827 - 2017/04/29(Sat) 08:06:21
| ☆ Re: 思考 / ubik0101 | | | もしかして、ゆらぎさんは月を喩えにした、1、2、3その他とかは、単なる思考で、とくにその人の状態を現すわけではないとか、その人の世界観ではない、と言ってるのでしょうか。
それで、そのどれもが偏ってない破綻してないとしたら・・・どうして、そのどれかを選択できるのでしょう。なにか、それぞれの理由があって選択するのでは?またさらに、その理由も偏ってない。と言うことでしょうか。なら、ふつうの日常、
たとえば、ご飯を食べたり、花の苗を買ったりしてて実際、1、2、3その他も。なにも選択してない・・・これは夢とか現実とかシュミレーションとか・・・思いもしてないのではないでしょうか。なにも選択しない、を選択してるわけでもなく。たとえば自分が、
あるともないとも日常では思考してないと思うのですが・・・そこで自分は、あると思考しても、ないと思考しても、またそう実感するとしても・・・たとえば人にとっては透明な太陽光線をプリズムを通して赤が見えた、
また・・・青が見えた・・・自我だ・・・無我だ・・・まずは総てではなく、偏りによって偏りが現われた。それは全体を俯瞰すれば、偏りではない、と言っても同じですが・・・ではないでしょうか。そしてそんなことも総て忘れ、自我無我も消えた・・・探求するも、
もう探求が終わったも消えた。思考が問題も、問題でないも消えた。透明も消えた。でも・・・失われることはなにもない・・・ひとリあれば、ほんわり幸せ・・・探求とは、この日常のゆらぎを見ること・・・何の努力もなく、そではないでしょうか。
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No.5837 - 2017/05/01(Mon) 07:38:36 |
| ☆ Re: 思考 / ゆらぎ | | | > もしかして、ゆらぎさんは月を喩えにした、1、2、3その他とかは、単なる思考で、とくにその人の状態を現すわけではないとか、その人の世界観ではない、と言ってるのでしょうか。
そうです。
> それで、そのどれもが偏ってない破綻してないとしたら・・・どうして、そのどれかを選択できるのでしょう。なにか、それぞれの理由があって選択するのでは?またさらに、その理由も偏ってない。と言うことでしょうか。なら、ふつうの日常、
それは、受動的な選択が起きただけであり、選択しているわけではありません。 自分はいないし、自由意思も無いので、つまり選択する主体がないので、能動的な選択は出来ないのです。
> たとえば、ご飯を食べたり、花の苗を買ったりしてて実際、1、2、3その他も。なにも選択してない・・・これは夢とか現実とかシュミレーションとか・・・思いもしてないのではないでしょうか。なにも選択しない、を選択してるわけでもなく。たとえば自分が、 > > あるともないとも日常では思考してないと思うのですが・・・そこで自分は、あると思考しても、ないと思考しても、またそう実感するとしても・・・たとえば人にとっては透明な太陽光線をプリズムを通して赤が見えた、 > > また・・・青が見えた・・・自我だ・・・無我だ・・・まずは総てではなく、偏りによって偏りが現われた。それは全体を俯瞰すれば、偏りではない、と言っても同じですが・・・ではないでしょうか。そしてそんなことも総て忘れ、自我無我も消えた・・・探求するも、 > > もう探求が終わったも消えた。思考が問題も、問題でないも消えた。透明も消えた。でも・・・失われることはなにもない・・・ひとリあれば、ほんわり幸せ・・・探求とは、この日常のゆらぎを見ること・・・何の努力もなく、そではないでしょうか。
そういうことです。 水が流れるごとく、雲が行くごとく、です。 朝起きれば舞台は既に準備されており、登場人物も台詞も決まっております。 ただ、自分にはそれらが知らされていませんが、淡々と自分を演じるだけです。 何の努力も必要はありません。 ストーリの進展に合わせて、いろんな思考や感情がわいてきて、十二分に楽しませてくれますので、飽きることもありません。
何も望まなくても、充分すぎるほど足りています。
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No.5838 - 2017/05/01(Mon) 14:02:07 |
| ☆ Re: 思考 / ubik0101 | | | なんだか、うなされてしまいそうな説明です。どして予め、登場人物も台詞も決まってると、認識できたのでしょう。たとえばレコードの溝には、総ての音楽が刻まれてるけど、そこをダイヤモンドとかの針が通るときだけ、そのところの音が聞こえる、て感じでしょうか。
それは物事が起きた後から、つまり記憶として想起すると、それはそのようだ。あるいは森羅万象を客観的に見たらそう言える?ところで音とか映像とか記録できるのは、とても不思議でした。それは、世界の全部ではなくて、その部分だけだから可能なのかな?とか思ったのですが、どうも納得できませんでした。
たぶん世界は、また世界の背景は、まったく空気のように透明で中性であるから、世界の中に音や映像が起きて、またそれを記録できるのかもしれません。これはエーテルのように認識できないですが、なにか因果とか理由が生じるということは、そでなくてはできない・・・と、ふと感じることがあります。
その中性には、なにも書き込まれていないようです。ところでまた、この瞬間しかなければ、なぜ音楽が聞こえる?という疑問があります。ずーと今しかなければ、音の変化は起こらないはずです。この瞬間しかなければ、どうして見る聞く、歩く、笑う、思考するが、でき得る?
それは予め決まってるから、ということでしょうか。自分としては、世界はこの瞬間に過去を含めて開闢した、です。こちらも、とんでも、です。うなされる、といえば、この歌、どうやったら、今が通り過ぎることが可能なんだろう?と、眠っていても、うんうん言ってたのでした。
ところで、ゆらぎさんは、ヨガではアナハタとか呼ばれてるらしいところが活動してるのでしょうか?自分の場合は、太陽神経叢あたりは・・・激しい活動。胸のあたりは愛、幸せ、静かさ・・・ほんわり微細に活動しています。
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No.5842 - 2017/05/02(Tue) 08:56:20 |
| ☆ Re: 思考 / brahma | | | アナハタは、ニ段階以降、優勢になる。
アナハタが完全に開いたら、キリストになる。(笑)
未発達な人 ムーラーダーラ 凡人 スヴァディシュターナ 創造的な人 太陽神経叢
第一段階以降 喉 第二段階以降 ハート 第三段階以降 眉間(徐々にサハスラーラ)
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No.5843 - 2017/05/02(Tue) 10:23:19 |
| ☆ Re: 思考 / brahma | | | 眉間ー喉ー生殖器の組み合わせは、知の道 真
ハートー鳩尾の組み合わせは、愛の道 美
脊髄基底ー頭頂の組み合わせは、意志の道 善
ギャーナヨーガ 思考から空
バクティヨーガ 感情からエクスタシー
カルマヨーガ 行動からリラックス
逆説的だが、鳩尾の感情が多いタイプほど、ハートのエクスタシーもまた開発されやすい。
思考が過多な人は逆に、空にはいりやすい。
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No.5844 - 2017/05/02(Tue) 10:29:44 |
| ☆ Re: 思考 / ゆらぎ | | | > なんだか、うなされてしまいそうな説明です。どして予め、登場人物も台詞も決まってると、認識できたのでしょう。たとえばレコードの溝には、総ての音楽が刻まれてるけど、そこをダイヤモンドとかの針が通るときだけ、そのところの音が聞こえる、て感じでしょうか。
私のたわごとと聞き流して下さい。 認識出来ないから、仮説なんです。
レコードとは、随分アナログな感覚ですが、その通りです。 今だと、DVDとかブルーレイに刻まれた凹凸をレーザーが照射するとき、RPGの物語が動き始めるといった感じでしょうか・・。
> それは物事が起きた後から、つまり記憶として想起すると、それはそのようだ。あるいは森羅万象を客観的に見たらそう言える?ところで音とか映像とか記録できるのは、とても不思議でした。それは、世界の全部ではなくて、その部分だけだから可能なのかな?とか思ったのですが、どうも納得できませんでした。
二次元の映像が記録できるなら、三次元が記録できても不思議ではありません。
> たぶん世界は、また世界の背景は、まったく空気のように透明で中性であるから、世界の中に音や映像が起きて、またそれを記録できるのかもしれません。これはエーテルのように認識できないですが、なにか因果とか理由が生じるということは、そでなくてはできない・・・と、ふと感じることがあります。
そうだと思います。
> その中性には、なにも書き込まれていないようです。ところでまた、この瞬間しかなければ、なぜ音楽が聞こえる?という疑問があります。ずーと今しかなければ、音の変化は起こらないはずです。この瞬間しかなければ、どうして見る聞く、歩く、笑う、思考するが、でき得る?
1枚のDVDには、初めから終わりまでが収められています。 そして、RPGで遊んでいるとき、アクセスしているところが今です。 しかし、そのDVDには、過去や未来も一緒に収められています。 今という瞬間しかなくても、記憶が連続性をもたらすのだと思います。
そして、RPGですから、選択することによって物語は違った方向に進んで行きます。 登場人物も台詞も決まっていますが、それが幾通りも(無限に?)収められているのかもしれません。 物理学における多元宇宙仮説は、真面目に語られています。
> それは予め決まってるから、ということでしょうか。自分としては、世界はこの瞬間に過去を含めて開闢した、です。こちらも、とんでも、です。うなされる、といえば、この歌、どうやったら、今が通り過ぎることが可能なんだろう?と、眠っていても、うんうん言ってたのでした。
RPGをスタートさせれば、昨日の続きから始まります。 そして、スタートさせることにより、今だけでなく過去も未来も同時に開闢し、今・今・今と開闢が引き継がれます。
懐かしいです ケンメリのスカイライン。愛のスカイラインの次期型車でした。 この歌も、好きでしたね。
この世(RPGの中)の自分にとっては、今が通り過ぎることは不可能でしょう。 でも、RPGをやっている自分から見れば、DVDの中の今は何度でも通り過ぎるでしょう。
> ところで、ゆらぎさんは、ヨガではアナハタとか呼ばれてるらしいところが活動してるのでしょうか?自分の場合は、太陽神経叢あたりは・・・激しい活動。胸のあたりは愛、幸せ、静かさ・・・ほんわり微細に活動しています。
私はその方面にはとても疎くて、さっぱり何も感じることが出来ません。 きっと、ubik0101さんとは次元が違いすぎるのでしょう。(涙)
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No.5845 - 2017/05/02(Tue) 13:19:37 |
| ☆ Re: 思考 / ubik0101 | | | ドラゴンクエストだったか・・・お姫様を抱えたまま竜王を倒しに行ったものです。ファイナルファンタジー7は、素敵だった印象が残っています。物理はまったく門外漢ですが、
シュレンガーの猫は、観察されるまで生死が決定されないということは、箱の扉を開けると、ほかの世界に飛び移るのかな、と思いました。なにかすることで人は世界を変えてるのかもしれません。
これは、たとえば誰かと挨拶するだけで、なにか思考するしないだけで世界が変わってしまう・・・そんな日常の感覚に、これだけで説明できる感じではないですが、あってる気もします。
ところで自分が、ない、というのは、いくつかの経緯がありました。ひとつに、世界を見てる自分の背後にはなにもない・・・自分がないという知覚です。
そのない自分が見る世界は新鮮で明るく霧が晴れたように明確です。眼は単なる風穴で世界と素通しの感覚です。またひとつには、自我は虚構、ということです。
それは超意識状態で、自我の仕組みが開示され、自我が光に溶けてしまいここで、神との関係で自己、真我が知覚され・・・とても変でもそうで・・・自分は、ある、です。
この自分はあるを、対象にすると、自分が、たとえば次元の違う自分を対象にすることになり、これは残響のような自我と呼んでいましたが、かなりの苦痛です。紆余曲折ありますが、
あるは、あるに、ありきって、差の認識がなく・・・ない・・・つまり自分は自覚され得ないこの世界に埋没しきって、見る聞く働く思考するに依存しきって・・・で安定します。
たぶん逆説的ですが、自分はある、その確認を経緯しないと、自分はない、の確定は困難に思います。また自分は、あるでもないでもない、というのが、言い方としていいように思います。
そもそも、あるとかないとかの定義も不明確です。たとえば自分はない、ある、としても、そのない、あるは、定義されてないです。大雑把な話ですが、このような経緯を生きることが、楽しいことでした。
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No.5850 - 2017/05/04(Thu) 20:27:34 |
| ☆ Re: 思考 / ゆらぎ | | | いろいろあって、10日ぶりです。
> シュレンガーの猫は、観察されるまで生死が決定されないということは、箱の扉を開けると、ほかの世界に飛び移るのかな、と思いました。なにかすることで人は世界を変えてるのかもしれません。
「シュレーディンガーの猫」は量子力学の確率解釈の問題点を分かりやすくした思考実験、つまり「量子は観測されていないとき、様々な状態が『重なり合った状態』で存在しうる。この『重なり合った状態』は、観測機器によって観測される事でいずれかの状態に収束する」ということを、マクロな領域で批判しようとしたものであり、それが正しければ、生きている猫と死んでいる猫が重なり合った状態で存在していなければならいないが、それは変でしょ?ということです。
しかし、マクロな領域では、例えば原子がそれを取り囲むすべての物質によって常に測定されるため、古典的な粒子のようにしかふるまうことが出来ないのかもしれません。 > この自分はあるを、対象にすると、自分が、たとえば次元の違う自分を対象にすることになり、これは残響のような自我と呼んでいましたが、かなりの苦痛です。紆余曲折ありますが、 > > あるは、あるに、ありきって、差の認識がなく・・・ない・・・つまり自分は自覚され得ないこの世界に埋没しきって、見る聞く働く思考するに依存しきって・・・で安定します。 > > たぶん逆説的ですが、自分はある、その確認を経緯しないと、自分はない、の確定は困難に思います。また自分は、あるでもないでもない、というのが、言い方としていいように思います。 > > そもそも、あるとかないとかの定義も不明確です。たとえば自分はない、ある、としても、そのない、あるは、定義されてないです。大雑把な話ですが、このような経緯を生きることが、楽しいことでした。
私の「自分」の定義は、「認識する主体」です。 認識するという活動が起こっているのですから、「自分は在る」となりますが、思考や感情や意思などの総体である自我を自分とすると、「自分は無い」となります。 思考や感情や意思などは、意識のフィールドに起きている現象であり、自我も認識される対象です。
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No.5868 - 2017/05/13(Sat) 09:22:00 |
| ☆ Re: 思考 / ubik0101 | | | >シュレーディンガーの猫」は量子力学の確率解釈の問題点を分かりやすくした思考実験、つまり「量子は観測されていないとき、様々な状態が『重なり合った状態』で存在しうる。この『重なり合った状態』は、観測機器によって観測される事でいずれかの状態に収束する」ということを、マクロな領域で批判しようとしたものであり、それが正しければ、生きている猫と死んでいる猫が重なり合った状態で存在していなければならいないが、それは変でしょ?ということです。
そうなんだ。それは変でしょ?ではなくて、なんであれ、観察されるまでは不確定。観察されて確定する。ということだと思っていました。観察されないと、その、あるないも不明。観察ということが世界を発生させる?自分がなければ、
この世界はないかもしれない?観察する自分て何、の不思議を感じていました。ともかく。たとえば人は咳をするだけでも生死するだけでも、世界その運行を変えています。それで世界の中にあっての、がんじがらめの自由意思のあるないは、あんまり問題にはならないです。
>しかし、マクロな領域では、例えば原子がそれを取り囲むすべての物質によって常に測定されるため、古典的な粒子のようにしかふるまうことが出来ないのかもしれません。
それは面白いです。でもなぜミクロ領域では観察されない?ということが起きる?そうでなくて、マクロ領域でも、たとえば森、家、自動車、世界とかは、それが観察されない・・・たとえば、
この観察する自分がいなければ、世界は、そのあるないさえ不明。なので、ミクロでもマクロでも事態は違わない感覚です。また感情、思考、意思、世界、
とかも知覚されるけど、知覚されるからと言って、知覚されないないからと言って・・・それは、あるとかないとかとも言えない、てことでしょうか?月の喩えの1、2、3、、、どれも解釈でしかないかもしれません。
たぶん、経験則として・・・ほかの誰かが死んでも、世界はある。だから自分が死んでも世界はある、というのは、ミスディレクションかもしれません。このよなこともまた、あるない、が定義されない領域にあって話せることです。
とりあえず鉢植えの、ぶどう、ピオーネです。これは花になるのか、このまま実になるのか・・・今年の冬前に、庭植えを考えています。
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No.5872 - 2017/05/15(Mon) 20:26:13 |
| ☆ Re: 思考 / ubik0101 | | | >私の「自分」の定義は、「認識する主体」です。 >認識するという活動が起こっているのですから、「自分は在る」となりますが、思考や感情や意思などの総体である自我を自分とすると、「自分は無い」となります。
ゆらぎさんの文章は、ちょい判りにくいですが・・・感情や思考や意思で構成された何かを自分と見なしてるそれは、自我、でそれは、ない、という意味でしょうか?
そしてそのよなこと、また森や家や車を認識する主体は、自分、それは、ある、という意味でしょうか。すると、感情や思考や意思そのことを自我と呼んでるだけではなく、
たとえば感情や思考や意思で構成された、仕組み、構造が自我ということだと思いますけど?なにか認識することで発生する主体を、こちらでは自我と呼ぶことがほとんどです。
まず自分があって何かを認識するのではなく、何かを認識するから認識する主体が仮定される・・・それを人は自分だと勘違いする・・・虚構・・・世界が人を育ててる状態が自我だ、ということです。それは自我が自我の仕組みを開示します。
この開示がないことにあって、いわゆる自我が機能します。こいうことを探るのは面白くも面倒でもあるのですが・・・認識する主体は認識できるのです。自分もアプリケーションソフトがOSを認識するようなことと思ってましたが、人はその機能そのことで、
この自分が自分を認識する、それが私が私が私が・・・という、自我の機能の目指すことでもあり、その結果が悟り体験とも説明でき・・・そして・・・迷い悟り、自我無我真我の区別を失ったところが、自分を自分で感じる必要がなくなった、ない、でもあります。
>思考や感情や意思などは、意識のフィールドに起きている現象であり、自我も認識される対象です。
なんだか自分に意識があるようには思えないです。思考があればその思考。感情があればその感情。それはそれ。が直接、生起する。それらが起こるフィールドは、
なにか想定されたことで実際には、あるようには思えないです。ここで、これは何故かと探ればですけど・・・世界の裏打ちは、ない、とか。世界の裏打ちは、自分とか、世界は虚空に浮いてる・・・そんな感覚です。
ところで《自我も認識される対象です》。ということは、ない、自我が認識される?てことでしょうか。ない、を認識することは、かなり困難なことではないでしょうか。
そではなく、単に感情や思考や意思を自我と呼ぶなら・・・(そう呼ぶその必要は、ないように思えますけど)・・・それは認識というか知覚できる、ということでしょうか。
または、お金がない、職業の適性がない、のように、なにか個別のことが欠けてるという意味での、ない、もしかして主体が欠けてるから、感情や思考や意思の主体は、ない、てこと?つまり、あるとない、が相対。
または自我=無我。どちらも世界の機能であり、どちらも、認識される外側ではなく、その中心は知覚されず、ない、のですから・・・ここも紆余曲折ありますが、そんな経緯はあります。
もう誰も住んでない古屋の北側のブロックとか割れた瓶とかの瓦礫地帯に、誰かが植えたのか、バラがありました。直射日光もあたらないのに毎年、1つ2つ一重の花を咲かせていました。
それを、2人で掘り起こして、大きな桜の木の樹冠の縁の下に植えました。すると、見る見る生長して、これまでより花弁が多い、たくさんの花が咲くようになりました。
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No.5873 - 2017/05/15(Mon) 20:27:58 |
| ☆ Re: 思考 / ゆらぎ | | | > この観察する自分がいなければ、世界は、そのあるないさえ不明。なので、ミクロでもマクロでも事態は違わない感覚です。また感情、思考、意思、世界、 > > とかも知覚されるけど、知覚されるからと言って、知覚されないないからと言って・・・それは、あるとかないとかとも言えない、てことでしょうか?月の喩えの1、2、3、、、どれも解釈でしかないかもしれません。
> たぶん、経験則として・・・ほかの誰かが死んでも、世界はある。だから自分が死んでも世界はある、というのは、ミスディレクションかもしれません。このよなこともまた、あるない、が定義されない領域にあって話せることです。
ある・ないは一度定義しておいた方が良いかもしれません。 今、パソコンのモニターに掲示板が映っています。目というセンサーがあり、脳というプロセッサーで認識が起こっているので、「ある」と感じます。しかし、モニターのスイッチをOFFにすれば、掲示板は消えてしまいます。 つまり、感覚器官で捉えられるものは、「感覚的にはある」が「実体としてはない」ということだと思います。 夢も同じですが、この現実そのものも同じではないでしょうか?
月の喩えは全て解釈にすぎませんが、「実体としてはない」ということです。 人間も存在しているように思えますが、少し焦点をずらせば、たちまちその存在は消えます。 臓器、細胞、分子、原子、素粒子、エネルギー・・・それぞれのレベルでは「そのもの」は認識できますが、人間は認識できません。 拡大方向も同じで、家、町、国、地球、太陽系、銀河系、宇宙・・・。
「知覚されるからと言って、知覚されないないからと言って・・・それは、あるとかないとかとも言えない」というよりは、あるレベルを認識するためのセンサーとプロセッサーが与えられているだけで、「実体としてはない」ということだと思います。
> ゆらぎさんの文章は、ちょい判りにくいですが・・・感情や思考や意思で構成された何かを自分と見なしてるそれは、自我、でそれは、ない、という意味でしょうか?
私も、ubik0101さんの文章は分かりにくいのです。(笑) 前述したように、感覚としてはあるが、実体としてはないということです。
> そしてそのよなこと、また森や家や車を認識する主体は、自分、それは、ある、という意味でしょうか。すると、感情や思考や意思そのことを自我と呼んでるだけではなく、 > > たとえば感情や思考や意思で構成された、仕組み、構造が自我ということだと思いますけど?なにか認識することで発生する主体を、こちらでは自我と呼ぶことがほとんどです。
一般的にはそうだということは理解しているのですが、自我も主体ではなくそういう機能を持ったアプリケーションであり、認識される対象だと思っています。自我を認識している何らかの主体があるわけですが、それを自分としてしまうと違います。自分とは既に意味づけされていますが、その範疇に入らない可能性が高いので、「それ」と言っています。 ですから、「自分は在る」ではなく「それは在る」なのです。
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No.5889 - 2017/05/21(Sun) 07:58:56 |
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