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それは在る / ゆらぎ
hatoさん

> > > こちらは、いってみれば、単極です。
> >
> > >単極だと「それは在る」、シュミレーション仮説は、「それも幻想」となりませんか?
> >
> >
> >
> > 「それがそれとしてある、」というとき、このことは、なにか事象を見比べて、その差を読み解くことではないと言うことができます。なぜなら、うまく言い得ているかわかりませんが、それは、知覚で判断されることでは、ないからです。
> >
> > この世界で、知覚とは差の認識、であることを学びますが、それがそれとして在る、ということを、なにか差の認識をもって理解することは、できないと言えます。


> > すなわち、これは完全に別のこととしてあるので、知覚の理解としての比較を用いることは、厳密には、できないのです。こうしたことは大変微妙で、繊細なところですが、「そうなのです。」としか言いようがないところです。

申し訳ありません。
私の「それは在る」の「それ」は、「真の自分」という意味ですが、hatoさんの「それがそれとしてある、」の「それ」は、神羅万象全てを指していますね。
例えば、「月は月としてある」「桜は桜としてある」という具合に。
確かに、桜を見て認識したとしても、薄いピンクの色や形を認識しているだけで、桜そのものを認識したことにはなりません。
「桜は桜としてある」、それ以上どうにも手が付けられないです。


勘太郎さん(ですよね?)

> > この書き込みが「言語道断」である事の説明で一番(すでに比較で表現してしまっています)ぴったり納得できました。思考を停止することはできる様になりましたけれども、その後の知覚できないが知覚できません。ニサルガダッタ・マハラジは「人ができるところはそこまでだ」と言っているとおもいます。ここら辺も想像で全くの勘違いかもしれません。皆既日食の様にコロナは見えるけれども、太陽は見えません。見えない太陽はいつも地球を照らしています。

ニサルガダッタの「私は在る」を「それは在る」と言い換えました。
何故なら、「私」は認識できないからです。
認識とは、主体と対象があって初めて成り立ちます。
「私」とは主体であり、自分の中に浮かんで来る思考や感情、そして肉体は認識できますので対象です。

つまり、思考や感情や肉体は、「私」ではないということです。
突き詰めれば、認識できるものは全て「私」ではない、つまり、この現象界では、「私」を認識することは出来ないということになります。
これが私だ!と認識できたとしても、それを認識している別の自分がいることになりますので、際限がありません。

しかし、現に認識は起こっていますので、認識する主体が「在る」ことは否定出来ません。
この現象界に「私」がいないということは、別の次元にいるとしか考えられません。
「とんでも」の世界ですが。(笑)

No.5836 - 2017/05/01(Mon) 07:33:36

Re: それは在る / hato

こんばんは。日々、さまざま進行していくとは、おもしろいものですね。人生、一体考えさせられますね。なんだか、いろいろあって学ぶことができる、ちょっとハードな遊園地にいるような感じでしょうか。


>私の「それは在る」の「それ」は、「真の自分」という意味ですが、hatoさんの「それがそれとしてある、」の「それ」は、神羅万象全てを指していますね。


いいえ。その部分において、森羅万象は、意識されていませんでした。


>例えば、「月は月としてある」「桜は桜としてある」という具合に。
>確かに、桜を見て認識したとしても、薄いピンクの色や形を認識しているだけで桜そのものを認識したことにはなりません。「桜は桜としてある」、それ以上どうにも手が付けられないです。



というより、もしかしますとそのあたりは、世界の内容として存在してる、という理解で十分な気がします。

「それはそれとして在る、」ということは、そうした事象、知覚、というところから、逸脱せざるを得ない、ある意味飛躍せざるを得ないこと、と思います。


>しかし、現に認識は起こっていますので、認識する主体が「在る」ことは否定出来ません。
>この現象界に「私」がいないということは、別の次元にいるとしか考えられません。
>「とんでも」の世界ですが。(笑)



とんでも、かどうかは、行ってみなっくちゃ!??

たとえばここで、人に本当の「意志」はあるのでしょうか?という疑問があります。ゆらぎさんは、厳密な意味で、人に自由意志は、ない、と言います。宇宙のなすかがままに・・・自分というものはないので、世界の流れに沿う・・・ということでしょうか。

ですがここは、この自分は、こう言います。「世界のなかで、人に自由意志は、ある・・・ない・・・そのどちらとも言えない・・・際、ギリギリの・・・」というところがたとえば、未知ながらの道、とはこれの表現ですが、真に偏りを脱する、場所ともいえない場所、です。

世界の自動運転という表現は、こうなったら、概ね人は怒る・・・とか、嬉しい・・・とか、人として、自然に発生するあたりのことで、それで、でも、もし誰かが、総ては神、世界のなせるがまま・・・というなら、それは無我に偏った自我、といえるかも知れません。

なぜなら本来は、どちらともいえないところ、といえるからです。

そして、この我、ということに真に偏りがないとき、たとえばなにかを主張すること自体を嫌悪、あるいは、問題になることはないでしょう。主張=自我、にならないですみます。

ツタバウンランです。先のマツバウンランにも感動しましたが、このウンランは、土にぴったり張り付く感じで、本当にかわいらしい花です。薄紫が可憐で、春に見つけると、嬉しくなってしまいます。

No.5840 - 2017/05/02(Tue) 00:51:55

Re: それは在る / ゆらぎ
余談です。(笑)

> >私の「それは在る」の「それ」は、「真の自分」という意味ですが、hatoさんの「それがそれとしてある、」の「それ」は、神羅万象全てを指していますね。
>
>
> いいえ。その部分において、森羅万象は、意識されていませんでした。


神羅万象ではなく森羅万象でしたね。
変換したときに、一瞬あれっ?と思ったのですが、こんな決まりきった語句での誤変換は無いだろうと思い、スルーしてしまいました。

で、なぜ神羅万象が日本語入力の辞書に登録されていたのだろうと思い検索したところ、見つかりました。

神羅万象とは、バンダイより発売されているウェハースチョコ付きトレーディングカードとのことでした。
あまりに意外だったので、カードの写真も貼り付けてみました。(笑)

No.5841 - 2017/05/02(Tue) 07:11:24

Re: それは在る / ゆらぎ
> こんばんは。日々、さまざま進行していくとは、おもしろいものですね。人生、一体考えさせられますね。なんだか、いろいろあって学ぶことができる、ちょっとハードな遊園地にいるような感じでしょうか。

そうですね。
私はスリル満点のジェットコースター的なものが好きです。(笑)

> たとえばここで、人に本当の「意志」はあるのでしょうか?という疑問があります。ゆらぎさんは、厳密な意味で、人に自由意志は、ない、と言います。宇宙のなすかがままに・・・自分というものはないので、世界の流れに沿う・・・ということでしょうか。

やりたいことをやる!ですね。
世界の流れも認識できないので。

自由意思が無ければ、自分に責任が無いことになります。
(もっとも、自分がいないのですから、そもそも責任などないのですが)
で、これまで、あーだこーだと自己防衛本能の機能に振り回されて、躊躇だらけの人生だったのが、タガが外れて、自由になりました。
自由意思が無いことが腑に落ちて、自由を回復するとはこれいかにって感じですが。
と言っても、悲しい?ことに欲望の赴くがままにとはならないのです。(笑)

> ですがここは、この自分は、こう言います。「世界のなかで、人に自由意志は、ある・・・ない・・・そのどちらとも言えない・・・際、ギリギリの・・・」というところがたとえば、未知ながらの道、とはこれの表現ですが、真に偏りを脱する、場所ともいえない場所、です。
>
> 世界の自動運転という表現は、こうなったら、概ね人は怒る・・・とか、嬉しい・・・とか、人として、自然に発生するあたりのことで、それで、でも、もし誰かが、総ては神、世界のなせるがまま・・・というなら、それは無我に偏った自我、といえるかも知れません。
>
> なぜなら本来は、どちらともいえないところ、といえるからです。
>
> そして、この我、ということに真に偏りがないとき、たとえばなにかを主張すること自体を嫌悪、あるいは、問題になることはないでしょう。主張=自我、にならないですみます。


私には難しすぎて、理解が追いつきません。
私は自我そのものは、全て偏っていると思いますし、それを矯正(コントロール)することは出来ないとも思っています。
自然にわき起こる思考や感情や意思を単に自我と名付けているだけであり、自己同一化しているため、自我を自分と混同しているのだと思っています。

No.5847 - 2017/05/03(Wed) 08:11:27

Re: それは在る / hato

とてもこんばんは。の時間ですが、ゆらぎさんにはもうすぐ、朝ですね。(^^)

5月の連休て、やっぱりいいですね。陽気もいいし、見かける人たちも軽やかです。私たちは、ちょっと仕事。うちには、母に次いで父も駆けつけ、庭作業を手伝ってくれたり、田舎を満喫しています。懐かしい友人に会えたり、ちょっとだけ、春華やいだ気配です。

>私は自我そのものは、全て偏っていると思います>し、それを矯正(コントロールすることは出来な>いとも思っています。
>自然にわき起こる思考や感>情や意思を単に自我と名付けているだけであり、自己同一化しているため、自我を自分と混同しているのだと思っています。



そうですね、もともと在る、わけでもない、自我を矯正することは、できないと思います。また、ある・・ない・・・これは、意識にとっての難題と、いえるのではないでしょうか。

思考や感情や意志が、自我・・・というわけではないでしょうね。

ここでいう自我とは、そのように自然発生する思考、感情、感覚に、執着し、それを盲目的に自分として生きようとする、その様相ですが、人は通常、子供から大人になる間に、多かれ少なかれ、概ね、自分(自我)、という中心を設定し、生きているのではないでしょうか。

その自我、といわれる、仮の主体が予め設定されており、それがなにか意識することによって、ものごとが発生していく・・・・

或はその逆に、中心のないところで、見る、意識される、ことが起きたために、仮の主体が出来上がる・・・・という順逆双方向の働きが起こること。

これが変化が人に起こす、人としての大きな転換です。

自我とは、自己を探求する、ツールと言えます。この自我の働きが偏っている、ということは、先ず人が、偏っている、ということかも知れません。

人、というとき、それはすでに不可思議ですが、人の状態が正されるとき、それまでの、たとえばある・・・ない・・・について、偏りの状態で見ていた、とある切片、とある極端でない、中道を、得るとも言えます。

No.5853 - 2017/05/05(Fri) 00:27:20

Re: それは在る / ゆらぎ
> とてもこんばんは。の時間ですが、ゆらぎさんにはもうすぐ、朝ですね。(^^)

今日もいい朝です。(^^)

> 5月の連休て、やっぱりいいですね。陽気もいいし、見かける人たちも軽やかです。私たちは、ちょっと仕事。うちには、母に次いで父も駆けつけ、庭作業を手伝ってくれたり、田舎を満喫しています。懐かしい友人に会えたり、ちょっとだけ、春華やいだ気配です。

hatoさんのご両親は、まだお若いのですね!
健康が一番です。
私の友人に膵臓がんが見つかり、暫く落ち込んでいました・・・。

> 思考や感情や意志が、自我・・・というわけではないでしょうね。
>
> ここでいう自我とは、そのように自然発生する思考、感情、感覚に、執着し、それを盲目的に自分として生きようとする、その様相ですが、人は通常、子供から大人になる間に、多かれ少なかれ、概ね、自分(自我)、という中心を設定し、生きているのではないでしょうか。


私とhatoさんは、自分及び自我の定義が異なるのでしょうね。
私は、認識する主体を自分(真我)、認識作用を自我(偽我)と定義しています。

> 自我とは、自己を探求する、ツールと言えます。この自我の働きが偏っている、ということは、先ず人が、偏っている、ということかも知れません。

自我というのは、パソコンで言えばアプリケーションのようなものであり、自己を探求するツールとしてプログラムされているのだと思います。
人それぞれ、所有している自我(アプリケーション)が違いますので、全てが偏っています。しかし、全てが偏っていれば、偏りが無いのと同じとも言えます。

自我(アプリケーション)は一所懸命動いて、自分(真我)とは何かを探りますが、所詮はパソコンの中だけの探索であり、自分(真我)とはそのパソコンを見ている存在だとすれば、自分(真我)を永遠に認識することは出来ません。

No.5871 - 2017/05/14(Sun) 07:09:04

Re: それは在る / hato

ゆらぎさん、お久しぶりでした。春は継続中、いい陽気ですね。こちらも、慌ただしく過ぎています。


>hatoさんのご両親は、まだお若いのですね!
>健康が一番です。
>私の友人に膵臓がんが見つかり、暫く落ち込んでいました・・・。



両親はなかなかいい年ですが、なんとか、元気にしてくれています。先日無事に帰途につき、しずかな庭に戻り、今日は久しぶりに、2人で海に行きました。

共通の知人が、同じ病で闘病しています。こうしたことは、辛いです。


>私は、認識する主体を自分(真我)、認識作用を自我(偽我)と定義しています。
>私の「自分」の定義は、「認識する主体」です。
>認識するという活動が起こっているのですから、「自分は在る」となりますが、思考や感情や意思などの総体である自我を自分とすると、「自分は無い」となります。
>自我というのは、パソコンで言えばアプリケーションのようなものであり、自己を探求するツールとしてプログラムされているのだと思います。
>人それぞれ、所有している自我(アプリケーション)が違いますので、全てが偏っています。しかし、全てが偏っていれば、偏りが無いのと同じとも言えます。



たとえば、人類の自我がそれぞれ偏っているので、総体で偏りがない・・・とはおそらく、人類もしくはすべては、ひとつ、を前提にしていなければなりません。

自己を探求するとは、その前提を見ていくことから、始まると言えます。本気でいきますと、たえばこの、意識、場、とあるフィールドという概念や前提を、鵜呑みにすることができないでしょう。

人になにか、覚醒体験が必要か、不要かといえば、個人として生きるとき、とくに必要ではないかも知れません。それがなくても、人として十分に美しく、豊かで、徳と滋養に満ちて生きることができるのでしょう。その総て、を味わうことができるのではないでしょうか。

しかし、もし本気で自己を探求するとなれば、やはりこのことは、なにか多く知識を俯瞰して、自分に照らし合わせて推察、理解することでは収まらない、なにかです。ここは自ずから、不可思議な一貫性が生じる・・・或は、誰にとってもそのようであることを、正にそのようであることとして、不可思議を友として、歩いていくこと、と言えると思います。


>自我(アプリケーション)は一所懸命動いて、自分(真我)とは何かを探りますが、所詮はパソコンの中だけの探索であり、自分(真我)とはそのパソコンを見ている存在だとすれば、自分(真我)を永遠に認識することは出来ません。


素敵な隣人が、うちで栽培したという芍薬をくれました。はじめて見る花でした。

No.5879 - 2017/05/16(Tue) 23:51:12

Re: それは在る / ゆらぎ
> 両親はなかなかいい年ですが、なんとか、元気にしてくれています。先日無事に帰途につき、しずかな庭に戻り、今日は久しぶりに、2人で海に行きました。

そうでしたか。
私は10年前に両親を呼び寄せました。
二人とも90歳に手が届く年齢になりましたので、庭作業もあまり出来なくなっています。

> たとえば、人類の自我がそれぞれ偏っているので、総体で偏りがない・・・とはおそらく、人類もしくはすべては、ひとつ、を前提にしていなければなりません。

説明が拙くて申し訳ありませんが、総体で偏りがないということではありません。
人類の自我がそれぞれ偏っているということは、それは偏りではなくて個性だということです。
勿論、平均的な自我も想定できますが、それは偏っていないのではなく、平均的であるという個性だと考えます。

偏るということは、偏ってない自我との比較になりますが、それも想像の範疇に過ぎず、偏ってない自我という実体も無い訳ですから、偏るという概念が私の中では存在していないのです。

> 人になにか、覚醒体験が必要か、不要かといえば、個人として生きるとき、とくに必要ではないかも知れません。それがなくても、人として十分に美しく、豊かで、徳と滋養に満ちて生きることができるのでしょう。その総て、を味わうことができるのではないでしょうか。

hatoさんは覚醒体験をされたのでしょうか?

No.5880 - 2017/05/17(Wed) 06:22:01

Re: それは在る / hato

こんにちは。今日は、仕事がはやく済みました。慣れてきたこともあるでしょうか、こんなこと、あんなこと、きびきびできたらいいなと思います。健康でいきましょう!と思います。いつもご丁寧に返信を頂き、ありがとうございます。


>偏るということは、偏ってない自我との比較になりますが、それも想像の範疇に過ぎず、偏ってない自我という実体も無い訳ですから、偏るという概念が私の中では存在していないのです。


偏る、ということはこの場合、人が、世界のある・・ない・・どちらか一方に偏っている、ということです。これは想像の域の件ではない、人が実際に、そのようであること、と言えるでしょう。この場合、ここを個性、というわけにはいきません。それは状態としての偏りであり、それが解消された「ここ」は本来、人が自ら成長を、希求して止まない場所とも、言うことができます。なぜなら、ここで人は初めて、相対でないところに於いての平和を表現するからです。

ここは、知識や推察で理解することが困難でしょう。実際すでに、そのような事柄です。人が、なにか見逃せない偏りを、自らに未だ強いているとき、このことは、容易に理解され得ないでしょう。どうしても人に、とある経験上の飛躍的変化、その間に起きる状態の変化、その上で、「理解されること」によって起きてくる「意味」が、必要です。

そして尚、この世界とこの人生。誰も、他人に強制することができません。100にひとつの可能性として、出来る状況にあるときに、自身で臨むしかないこと、と言えるのではないでしょうか。


>hatoさんは覚醒体験をされたのでしょうか?


偏りとしての自我、これが意識的に瞬時に消失された経験は、少なくとも、自身にそのような状態および状況を、作り出さざるを得なかったでしょう。自分の条件下では、理解することは、非常に困難でしたが、それを理解すること、そして尚進むこと、以外の道は、自分になかったとしか、今の時点では言うことができません。

この心身を道具として、どこまでいけるのか。
楽しみ歩むなら、幸いです。

すこし前に、庭のさくらんぼを採りました。

No.5882 - 2017/05/17(Wed) 18:36:56

Re: それは在る / ゆらぎ
おはようございます。
真夏のような朝です。

> >偏るということは、偏ってない自我との比較になりますが、それも想像の範疇に過ぎず、偏ってない自我という実体も無い訳ですから、偏るという概念が私の中では存在していないのです。
>
>
> 偏る、ということはこの場合、人が、世界のある・・ない・・どちらか一方に偏っている、ということです。これは想像の域の件ではない、人が実際に、そのようであること、と言えるでしょう。この場合、ここを個性、というわけにはいきません。それは状態としての偏りであり、それが解消された「ここ」は本来、人が自ら成長を、希求して止まない場所とも、言うことができます。なぜなら、ここで人は初めて、相対でないところに於いての平和を表現するからです。


私の場合は、偏りようがないのです。
夢と同じで、夢の中なら夢の世界は在る(と感じる)。しかしそれは現実ではない。
この世も、この世の中であれば、この世という世界はある(と感じる)。しかしそれは実体ではない。
何故なら、あるレベルでしか世界は認識されないからです。
素粒子レベルになれば、この人間の世界は認識されません。
素粒子の世界は不確定であり、エネルギーのひとつの形態に過ぎませんから、この世界は実体と呼べるものではありません。

つまり、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。

> >hatoさんは覚醒体験をされたのでしょうか?
>
> 偏りとしての自我、これが意識的に瞬時に消失された経験は、少なくとも、自身にそのような状態および状況を、作り出さざるを得なかったでしょう。自分の条件下では、理解することは、非常に困難でしたが、それを理解すること、そして尚進むこと、以外の道は、自分になかったとしか、今の時点では言うことができません。


そうでした、自我の消失の体験をされていたのでしたね。
それで私は、バーナデット・ロバーツを紹介したのでした。
最近は、物忘れが良くなりすぎて、困ります。(笑)

> この心身を道具として、どこまでいけるのか。
> 楽しみ歩むなら、幸いです。


この世は、自分を生きるということは、ホントに楽しいですよね!

No.5894 - 2017/05/23(Tue) 06:08:41
(No Subject) / brahma
https://soundcloud.com/taishi-ohira-745737342/siddhaarthah please listen

すべての名と姿はまさに至高なる御方の顕現である
この御方はまさに、絶対実在・英知・至福であり
サッティヤム・シヴァム・スンダラム〔真理・吉兆/善・美〕の化身である

No.5891 - 2017/05/21(Sun) 19:17:37
(No Subject) / brahma
彼女と3時半まで話した。

彼女の駆け引きに4時間くらい付き合った。

No.5887 - 2017/05/21(Sun) 03:32:21

Re: / brahma
芹沢さんのことを昔、好きだったといって、芹沢さんのホームページ彼女に見せたら、自信なくしたとかいって、悲しそうにしだした。
No.5888 - 2017/05/21(Sun) 04:07:49

Re: / brahma
彼女と電話しながらリクエストに答えてオナニーして射精した。
すでに朝から3時間くらい話している。

No.5890 - 2017/05/21(Sun) 15:02:34
思考 / ゆらぎ
> >月は、見るまでは存在してないのかも・・です。
>
> たしかに、そ、です。そして・・・誰も見てなくても月はあります。この、どちらも偏りです。この両極は経緯され自然に打ち消し合います。と、いうのもまず、なんだかの偏りが、月は見るまではない、
>
> また何だかの偏りが、月は見てなくてもある、という思考を起こすからです。実にどちらも実感ですが、どちらも空想です。そのどちらもない、なんでもない花鳥風月。ここからしか働くことも探求も始まったことがないです。
>
> >私も思考に整合性はないと思います。
> >思考はそこら中に満ち溢れていますが、自分に合う波長のものしか受信できません。受信したものを統合して整理し、自分の思考と名付けていると思っています。
>
> まず人が、ゆらぎます。ほんの微かに幽かに偏ります。その偏りのエネルギーを得・・・思考が発生します。そこでその思考はその人のその偏りを正確に現します。
>
> たとえば思考は問題だ。という思考は、その人が・・・そうと気がついてなくても、たとえば素直でない、開けっぴろげではない・・・そんな状態で、その人のその状態を、思考は問題だ。という思考が正確に現します。
>
> というのも、思考は問題だ、というのも思考です。すると、思考は問題だ、というのは正当性がないはずです。けどその人が素直でなければ、これを避けて通り、思考は問題だ。という思考の裏に隠れて、その自分の偏りを守ることになりやすいです。
>
> ここで思考は知覚です。たとえば見えるという機能、その対象の太陽や花、赤黄緑、そこに問題があると感じるなら、その人には自覚してなくても、問題があるということです。
>
> これは、思考は無問題、人は問題、という見方です。人と思考、この組み合わせとして見ると、人は無問題、思考は問題、どちらも問題、どちらも無問題。また思考に使われる、使う、それぞれの理解があるでしょう。
>
> >結局、自分の認識できる世界は、知覚したものを自分の脳内で処理した結果の世界にすぎませんので、実在しているとは言い切れないのです。
>
> なにかを判断するということは、そのようでしょう。その思考は、空想で、その現実と、乖離してるでしょう。これは問題でもありますが・・・しかし空想の翼をひろげる思考は、探求や研究そのことであったりします。
>
> ここで、たとえば心理的思考と、技術的思考を区別するのは・・・また未知と既知を区別するのは・・・ビカミングを問題とするのは・・・やはり偏りです。ともかく、そんな思考も・・・予め破綻して現われた。
>
> その破綻に切り込むことで、つまり思考はその思考の偏りを露にすることが出来ます。そしてその人の気がつかなかった偏りを解します。そして思考は思考の有り様を実況中継できるのですから、思考は、そのままメタ思考です。


私はhatoさんと真逆で、ubik0101さんの仰られることが、よく理解できません。
ここでは、思考は偏りであるとか予め破綻していると仰られているようですが、思考はそれぞれが独立していますので偏りも破綻もなくてただ起こるだけであり、偏りや破綻は、個々の思考を選択して統合する自我の問題だと思われます。

また、思考の種類は多くないため、それぞれの意味するところは違います。
ただ、それは他と違っているだけであり、偏りでも破綻でもないと思います。
例えば、月を例に挙げると、
 1.月は実体であり、見ていなくても存在している
 2.月は、見た時だけ実体として存在する
 3.月は実体ではなく、見た時だけ映像として処理され(波動状態)、
   月面着陸して観察される時には実体化(粒子状態)される

普通の人の感覚は1であり、シュミレーション仮説だと3になりますが、どれが正しいかは分かりませんので、どれを選択しても偏ってもなければ、破綻もしていないと思います。

思考は空想であり現実と乖離しているとのことですが、現実が夢ではないという証明も出来ませんので、現実は現実として存在しているという感覚自体が空想に過ぎないかもしれません。

No.5827 - 2017/04/29(Sat) 08:06:21

Re: 思考 / ubik0101
もしかして、ゆらぎさんは月を喩えにした、1、2、3その他とかは、単なる思考で、とくにその人の状態を現すわけではないとか、その人の世界観ではない、と言ってるのでしょうか。

それで、そのどれもが偏ってない破綻してないとしたら・・・どうして、そのどれかを選択できるのでしょう。なにか、それぞれの理由があって選択するのでは?またさらに、その理由も偏ってない。と言うことでしょうか。なら、ふつうの日常、

たとえば、ご飯を食べたり、花の苗を買ったりしてて実際、1、2、3その他も。なにも選択してない・・・これは夢とか現実とかシュミレーションとか・・・思いもしてないのではないでしょうか。なにも選択しない、を選択してるわけでもなく。たとえば自分が、

あるともないとも日常では思考してないと思うのですが・・・そこで自分は、あると思考しても、ないと思考しても、またそう実感するとしても・・・たとえば人にとっては透明な太陽光線をプリズムを通して赤が見えた、

また・・・青が見えた・・・自我だ・・・無我だ・・・まずは総てではなく、偏りによって偏りが現われた。それは全体を俯瞰すれば、偏りではない、と言っても同じですが・・・ではないでしょうか。そしてそんなことも総て忘れ、自我無我も消えた・・・探求するも、

もう探求が終わったも消えた。思考が問題も、問題でないも消えた。透明も消えた。でも・・・失われることはなにもない・・・ひとリあれば、ほんわり幸せ・・・探求とは、この日常のゆらぎを見ること・・・何の努力もなく、そではないでしょうか。

No.5837 - 2017/05/01(Mon) 07:38:36

Re: 思考 / ゆらぎ
> もしかして、ゆらぎさんは月を喩えにした、1、2、3その他とかは、単なる思考で、とくにその人の状態を現すわけではないとか、その人の世界観ではない、と言ってるのでしょうか。

そうです。

> それで、そのどれもが偏ってない破綻してないとしたら・・・どうして、そのどれかを選択できるのでしょう。なにか、それぞれの理由があって選択するのでは?またさらに、その理由も偏ってない。と言うことでしょうか。なら、ふつうの日常、

それは、受動的な選択が起きただけであり、選択しているわけではありません。
自分はいないし、自由意思も無いので、つまり選択する主体がないので、能動的な選択は出来ないのです。

> たとえば、ご飯を食べたり、花の苗を買ったりしてて実際、1、2、3その他も。なにも選択してない・・・これは夢とか現実とかシュミレーションとか・・・思いもしてないのではないでしょうか。なにも選択しない、を選択してるわけでもなく。たとえば自分が、
>
> あるともないとも日常では思考してないと思うのですが・・・そこで自分は、あると思考しても、ないと思考しても、またそう実感するとしても・・・たとえば人にとっては透明な太陽光線をプリズムを通して赤が見えた、
>
> また・・・青が見えた・・・自我だ・・・無我だ・・・まずは総てではなく、偏りによって偏りが現われた。それは全体を俯瞰すれば、偏りではない、と言っても同じですが・・・ではないでしょうか。そしてそんなことも総て忘れ、自我無我も消えた・・・探求するも、
>
> もう探求が終わったも消えた。思考が問題も、問題でないも消えた。透明も消えた。でも・・・失われることはなにもない・・・ひとリあれば、ほんわり幸せ・・・探求とは、この日常のゆらぎを見ること・・・何の努力もなく、そではないでしょうか。


そういうことです。
水が流れるごとく、雲が行くごとく、です。
朝起きれば舞台は既に準備されており、登場人物も台詞も決まっております。
ただ、自分にはそれらが知らされていませんが、淡々と自分を演じるだけです。
何の努力も必要はありません。
ストーリの進展に合わせて、いろんな思考や感情がわいてきて、十二分に楽しませてくれますので、飽きることもありません。

何も望まなくても、充分すぎるほど足りています。

No.5838 - 2017/05/01(Mon) 14:02:07

Re: 思考 / ubik0101
なんだか、うなされてしまいそうな説明です。どして予め、登場人物も台詞も決まってると、認識できたのでしょう。たとえばレコードの溝には、総ての音楽が刻まれてるけど、そこをダイヤモンドとかの針が通るときだけ、そのところの音が聞こえる、て感じでしょうか。

それは物事が起きた後から、つまり記憶として想起すると、それはそのようだ。あるいは森羅万象を客観的に見たらそう言える?ところで音とか映像とか記録できるのは、とても不思議でした。それは、世界の全部ではなくて、その部分だけだから可能なのかな?とか思ったのですが、どうも納得できませんでした。

たぶん世界は、また世界の背景は、まったく空気のように透明で中性であるから、世界の中に音や映像が起きて、またそれを記録できるのかもしれません。これはエーテルのように認識できないですが、なにか因果とか理由が生じるということは、そでなくてはできない・・・と、ふと感じることがあります。

その中性には、なにも書き込まれていないようです。ところでまた、この瞬間しかなければ、なぜ音楽が聞こえる?という疑問があります。ずーと今しかなければ、音の変化は起こらないはずです。この瞬間しかなければ、どうして見る聞く、歩く、笑う、思考するが、でき得る?

それは予め決まってるから、ということでしょうか。自分としては、世界はこの瞬間に過去を含めて開闢した、です。こちらも、とんでも、です。うなされる、といえば、この歌、どうやったら、今が通り過ぎることが可能なんだろう?と、眠っていても、うんうん言ってたのでした。



ところで、ゆらぎさんは、ヨガではアナハタとか呼ばれてるらしいところが活動してるのでしょうか?自分の場合は、太陽神経叢あたりは・・・激しい活動。胸のあたりは愛、幸せ、静かさ・・・ほんわり微細に活動しています。

No.5842 - 2017/05/02(Tue) 08:56:20

Re: 思考 / brahma
アナハタは、ニ段階以降、優勢になる。

アナハタが完全に開いたら、キリストになる。(笑)

未発達な人 ムーラーダーラ
凡人 スヴァディシュターナ
創造的な人 太陽神経叢

第一段階以降 喉
第二段階以降 ハート
第三段階以降 眉間(徐々にサハスラーラ)

No.5843 - 2017/05/02(Tue) 10:23:19

Re: 思考 / brahma
眉間ー喉ー生殖器の組み合わせは、知の道 真


ハートー鳩尾の組み合わせは、愛の道 美

脊髄基底ー頭頂の組み合わせは、意志の道 善


ギャーナヨーガ 思考から空 

バクティヨーガ 感情からエクスタシー

カルマヨーガ 行動からリラックス


逆説的だが、鳩尾の感情が多いタイプほど、ハートのエクスタシーもまた開発されやすい。

思考が過多な人は逆に、空にはいりやすい。

No.5844 - 2017/05/02(Tue) 10:29:44

Re: 思考 / ゆらぎ
> なんだか、うなされてしまいそうな説明です。どして予め、登場人物も台詞も決まってると、認識できたのでしょう。たとえばレコードの溝には、総ての音楽が刻まれてるけど、そこをダイヤモンドとかの針が通るときだけ、そのところの音が聞こえる、て感じでしょうか。

私のたわごとと聞き流して下さい。
認識出来ないから、仮説なんです。

レコードとは、随分アナログな感覚ですが、その通りです。
今だと、DVDとかブルーレイに刻まれた凹凸をレーザーが照射するとき、RPGの物語が動き始めるといった感じでしょうか・・。

> それは物事が起きた後から、つまり記憶として想起すると、それはそのようだ。あるいは森羅万象を客観的に見たらそう言える?ところで音とか映像とか記録できるのは、とても不思議でした。それは、世界の全部ではなくて、その部分だけだから可能なのかな?とか思ったのですが、どうも納得できませんでした。

二次元の映像が記録できるなら、三次元が記録できても不思議ではありません。

> たぶん世界は、また世界の背景は、まったく空気のように透明で中性であるから、世界の中に音や映像が起きて、またそれを記録できるのかもしれません。これはエーテルのように認識できないですが、なにか因果とか理由が生じるということは、そでなくてはできない・・・と、ふと感じることがあります。

そうだと思います。

> その中性には、なにも書き込まれていないようです。ところでまた、この瞬間しかなければ、なぜ音楽が聞こえる?という疑問があります。ずーと今しかなければ、音の変化は起こらないはずです。この瞬間しかなければ、どうして見る聞く、歩く、笑う、思考するが、でき得る?

1枚のDVDには、初めから終わりまでが収められています。
そして、RPGで遊んでいるとき、アクセスしているところが今です。
しかし、そのDVDには、過去や未来も一緒に収められています。
今という瞬間しかなくても、記憶が連続性をもたらすのだと思います。

そして、RPGですから、選択することによって物語は違った方向に進んで行きます。
登場人物も台詞も決まっていますが、それが幾通りも(無限に?)収められているのかもしれません。
物理学における多元宇宙仮説は、真面目に語られています。

> それは予め決まってるから、ということでしょうか。自分としては、世界はこの瞬間に過去を含めて開闢した、です。こちらも、とんでも、です。うなされる、といえば、この歌、どうやったら、今が通り過ぎることが可能なんだろう?と、眠っていても、うんうん言ってたのでした。

RPGをスタートさせれば、昨日の続きから始まります。
そして、スタートさせることにより、今だけでなく過去も未来も同時に開闢し、今・今・今と開闢が引き継がれます。

懐かしいです
ケンメリのスカイライン。愛のスカイラインの次期型車でした。
この歌も、好きでしたね。

この世(RPGの中)の自分にとっては、今が通り過ぎることは不可能でしょう。
でも、RPGをやっている自分から見れば、DVDの中の今は何度でも通り過ぎるでしょう。

> ところで、ゆらぎさんは、ヨガではアナハタとか呼ばれてるらしいところが活動してるのでしょうか?自分の場合は、太陽神経叢あたりは・・・激しい活動。胸のあたりは愛、幸せ、静かさ・・・ほんわり微細に活動しています。

私はその方面にはとても疎くて、さっぱり何も感じることが出来ません。
きっと、ubik0101さんとは次元が違いすぎるのでしょう。(涙)

No.5845 - 2017/05/02(Tue) 13:19:37

Re: 思考 / ubik0101
ドラゴンクエストだったか・・・お姫様を抱えたまま竜王を倒しに行ったものです。ファイナルファンタジー7は、素敵だった印象が残っています。物理はまったく門外漢ですが、

シュレンガーの猫は、観察されるまで生死が決定されないということは、箱の扉を開けると、ほかの世界に飛び移るのかな、と思いました。なにかすることで人は世界を変えてるのかもしれません。

これは、たとえば誰かと挨拶するだけで、なにか思考するしないだけで世界が変わってしまう・・・そんな日常の感覚に、これだけで説明できる感じではないですが、あってる気もします。

ところで自分が、ない、というのは、いくつかの経緯がありました。ひとつに、世界を見てる自分の背後にはなにもない・・・自分がないという知覚です。

そのない自分が見る世界は新鮮で明るく霧が晴れたように明確です。眼は単なる風穴で世界と素通しの感覚です。またひとつには、自我は虚構、ということです。

それは超意識状態で、自我の仕組みが開示され、自我が光に溶けてしまいここで、神との関係で自己、真我が知覚され・・・とても変でもそうで・・・自分は、ある、です。

この自分はあるを、対象にすると、自分が、たとえば次元の違う自分を対象にすることになり、これは残響のような自我と呼んでいましたが、かなりの苦痛です。紆余曲折ありますが、

あるは、あるに、ありきって、差の認識がなく・・・ない・・・つまり自分は自覚され得ないこの世界に埋没しきって、見る聞く働く思考するに依存しきって・・・で安定します。

たぶん逆説的ですが、自分はある、その確認を経緯しないと、自分はない、の確定は困難に思います。また自分は、あるでもないでもない、というのが、言い方としていいように思います。

そもそも、あるとかないとかの定義も不明確です。たとえば自分はない、ある、としても、そのない、あるは、定義されてないです。大雑把な話ですが、このような経緯を生きることが、楽しいことでした。

No.5850 - 2017/05/04(Thu) 20:27:34

Re: 思考 / ゆらぎ
いろいろあって、10日ぶりです。

> シュレンガーの猫は、観察されるまで生死が決定されないということは、箱の扉を開けると、ほかの世界に飛び移るのかな、と思いました。なにかすることで人は世界を変えてるのかもしれません。

「シュレーディンガーの猫」は量子力学の確率解釈の問題点を分かりやすくした思考実験、つまり「量子は観測されていないとき、様々な状態が『重なり合った状態』で存在しうる。この『重なり合った状態』は、観測機器によって観測される事でいずれかの状態に収束する」ということを、マクロな領域で批判しようとしたものであり、それが正しければ、生きている猫と死んでいる猫が重なり合った状態で存在していなければならいないが、それは変でしょ?ということです。

しかし、マクロな領域では、例えば原子がそれを取り囲むすべての物質によって常に測定されるため、古典的な粒子のようにしかふるまうことが出来ないのかもしれません。

> この自分はあるを、対象にすると、自分が、たとえば次元の違う自分を対象にすることになり、これは残響のような自我と呼んでいましたが、かなりの苦痛です。紆余曲折ありますが、
>
> あるは、あるに、ありきって、差の認識がなく・・・ない・・・つまり自分は自覚され得ないこの世界に埋没しきって、見る聞く働く思考するに依存しきって・・・で安定します。
>
> たぶん逆説的ですが、自分はある、その確認を経緯しないと、自分はない、の確定は困難に思います。また自分は、あるでもないでもない、というのが、言い方としていいように思います。
>
> そもそも、あるとかないとかの定義も不明確です。たとえば自分はない、ある、としても、そのない、あるは、定義されてないです。大雑把な話ですが、このような経緯を生きることが、楽しいことでした。


私の「自分」の定義は、「認識する主体」です。
認識するという活動が起こっているのですから、「自分は在る」となりますが、思考や感情や意思などの総体である自我を自分とすると、「自分は無い」となります。
思考や感情や意思などは、意識のフィールドに起きている現象であり、自我も認識される対象です。

No.5868 - 2017/05/13(Sat) 09:22:00

Re: 思考 / ubik0101
>シュレーディンガーの猫」は量子力学の確率解釈の問題点を分かりやすくした思考実験、つまり「量子は観測されていないとき、様々な状態が『重なり合った状態』で存在しうる。この『重なり合った状態』は、観測機器によって観測される事でいずれかの状態に収束する」ということを、マクロな領域で批判しようとしたものであり、それが正しければ、生きている猫と死んでいる猫が重なり合った状態で存在していなければならいないが、それは変でしょ?ということです。

そうなんだ。それは変でしょ?ではなくて、なんであれ、観察されるまでは不確定。観察されて確定する。ということだと思っていました。観察されないと、その、あるないも不明。観察ということが世界を発生させる?自分がなければ、

この世界はないかもしれない?観察する自分て何、の不思議を感じていました。ともかく。たとえば人は咳をするだけでも生死するだけでも、世界その運行を変えています。それで世界の中にあっての、がんじがらめの自由意思のあるないは、あんまり問題にはならないです。

>しかし、マクロな領域では、例えば原子がそれを取り囲むすべての物質によって常に測定されるため、古典的な粒子のようにしかふるまうことが出来ないのかもしれません。

それは面白いです。でもなぜミクロ領域では観察されない?ということが起きる?そうでなくて、マクロ領域でも、たとえば森、家、自動車、世界とかは、それが観察されない・・・たとえば、

この観察する自分がいなければ、世界は、そのあるないさえ不明。なので、ミクロでもマクロでも事態は違わない感覚です。また感情、思考、意思、世界、

とかも知覚されるけど、知覚されるからと言って、知覚されないないからと言って・・・それは、あるとかないとかとも言えない、てことでしょうか?月の喩えの1、2、3、、、どれも解釈でしかないかもしれません。

たぶん、経験則として・・・ほかの誰かが死んでも、世界はある。だから自分が死んでも世界はある、というのは、ミスディレクションかもしれません。このよなこともまた、あるない、が定義されない領域にあって話せることです。

とりあえず鉢植えの、ぶどう、ピオーネです。これは花になるのか、このまま実になるのか・・・今年の冬前に、庭植えを考えています。

No.5872 - 2017/05/15(Mon) 20:26:13

Re: 思考 / ubik0101
>私の「自分」の定義は、「認識する主体」です。
>認識するという活動が起こっているのですから、「自分は在る」となりますが、思考や感情や意思などの総体である自我を自分とすると、「自分は無い」となります。


ゆらぎさんの文章は、ちょい判りにくいですが・・・感情や思考や意思で構成された何かを自分と見なしてるそれは、自我、でそれは、ない、という意味でしょうか?

そしてそのよなこと、また森や家や車を認識する主体は、自分、それは、ある、という意味でしょうか。すると、感情や思考や意思そのことを自我と呼んでるだけではなく、

たとえば感情や思考や意思で構成された、仕組み、構造が自我ということだと思いますけど?なにか認識することで発生する主体を、こちらでは自我と呼ぶことがほとんどです。

まず自分があって何かを認識するのではなく、何かを認識するから認識する主体が仮定される・・・それを人は自分だと勘違いする・・・虚構・・・世界が人を育ててる状態が自我だ、ということです。それは自我が自我の仕組みを開示します。

この開示がないことにあって、いわゆる自我が機能します。こいうことを探るのは面白くも面倒でもあるのですが・・・認識する主体は認識できるのです。自分もアプリケーションソフトがOSを認識するようなことと思ってましたが、人はその機能そのことで、

この自分が自分を認識する、それが私が私が私が・・・という、自我の機能の目指すことでもあり、その結果が悟り体験とも説明でき・・・そして・・・迷い悟り、自我無我真我の区別を失ったところが、自分を自分で感じる必要がなくなった、ない、でもあります。

>思考や感情や意思などは、意識のフィールドに起きている現象であり、自我も認識される対象です。

なんだか自分に意識があるようには思えないです。思考があればその思考。感情があればその感情。それはそれ。が直接、生起する。それらが起こるフィールドは、

なにか想定されたことで実際には、あるようには思えないです。ここで、これは何故かと探ればですけど・・・世界の裏打ちは、ない、とか。世界の裏打ちは、自分とか、世界は虚空に浮いてる・・・そんな感覚です。


ところで《自我も認識される対象です》。ということは、ない、自我が認識される?てことでしょうか。ない、を認識することは、かなり困難なことではないでしょうか。

そではなく、単に感情や思考や意思を自我と呼ぶなら・・・(そう呼ぶその必要は、ないように思えますけど)・・・それは認識というか知覚できる、ということでしょうか。

または、お金がない、職業の適性がない、のように、なにか個別のことが欠けてるという意味での、ない、もしかして主体が欠けてるから、感情や思考や意思の主体は、ない、てこと?つまり、あるとない、が相対。

または自我=無我。どちらも世界の機能であり、どちらも、認識される外側ではなく、その中心は知覚されず、ない、のですから・・・ここも紆余曲折ありますが、そんな経緯はあります。

もう誰も住んでない古屋の北側のブロックとか割れた瓶とかの瓦礫地帯に、誰かが植えたのか、バラがありました。直射日光もあたらないのに毎年、1つ2つ一重の花を咲かせていました。

それを、2人で掘り起こして、大きな桜の木の樹冠の縁の下に植えました。すると、見る見る生長して、これまでより花弁が多い、たくさんの花が咲くようになりました。

No.5873 - 2017/05/15(Mon) 20:27:58

Re: 思考 / ゆらぎ
> この観察する自分がいなければ、世界は、そのあるないさえ不明。なので、ミクロでもマクロでも事態は違わない感覚です。また感情、思考、意思、世界、
>
> とかも知覚されるけど、知覚されるからと言って、知覚されないないからと言って・・・それは、あるとかないとかとも言えない、てことでしょうか?月の喩えの1、2、3、、、どれも解釈でしかないかもしれません。


> たぶん、経験則として・・・ほかの誰かが死んでも、世界はある。だから自分が死んでも世界はある、というのは、ミスディレクションかもしれません。このよなこともまた、あるない、が定義されない領域にあって話せることです。


ある・ないは一度定義しておいた方が良いかもしれません。
今、パソコンのモニターに掲示板が映っています。目というセンサーがあり、脳というプロセッサーで認識が起こっているので、「ある」と感じます。しかし、モニターのスイッチをOFFにすれば、掲示板は消えてしまいます。
つまり、感覚器官で捉えられるものは、「感覚的にはある」が「実体としてはない」ということだと思います。
夢も同じですが、この現実そのものも同じではないでしょうか?

月の喩えは全て解釈にすぎませんが、「実体としてはない」ということです。
人間も存在しているように思えますが、少し焦点をずらせば、たちまちその存在は消えます。
臓器、細胞、分子、原子、素粒子、エネルギー・・・それぞれのレベルでは「そのもの」は認識できますが、人間は認識できません。
拡大方向も同じで、家、町、国、地球、太陽系、銀河系、宇宙・・・。

「知覚されるからと言って、知覚されないないからと言って・・・それは、あるとかないとかとも言えない」というよりは、あるレベルを認識するためのセンサーとプロセッサーが与えられているだけで、「実体としてはない」ということだと思います。

> ゆらぎさんの文章は、ちょい判りにくいですが・・・感情や思考や意思で構成された何かを自分と見なしてるそれは、自我、でそれは、ない、という意味でしょうか?

私も、ubik0101さんの文章は分かりにくいのです。(笑)
前述したように、感覚としてはあるが、実体としてはないということです。

> そしてそのよなこと、また森や家や車を認識する主体は、自分、それは、ある、という意味でしょうか。すると、感情や思考や意思そのことを自我と呼んでるだけではなく、
>
> たとえば感情や思考や意思で構成された、仕組み、構造が自我ということだと思いますけど?なにか認識することで発生する主体を、こちらでは自我と呼ぶことがほとんどです。


一般的にはそうだということは理解しているのですが、自我も主体ではなくそういう機能を持ったアプリケーションであり、認識される対象だと思っています。自我を認識している何らかの主体があるわけですが、それを自分としてしまうと違います。自分とは既に意味づけされていますが、その範疇に入らない可能性が高いので、「それ」と言っています。
ですから、「自分は在る」ではなく「それは在る」なのです。

No.5889 - 2017/05/21(Sun) 07:58:56
(No Subject) / brahma
射精した私を見て、かわいいと彼女がいったのを聞いて何か魔的な悪を感じた。
No.5884 - 2017/05/18(Thu) 23:39:11
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