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(No Subject) / brahma
人を裁かず、自分を裁く。

自然、大宇宙の法にのっとたいき方をする

生きることは命がけであり、限りない絶望と悲哀、無限の慈愛が、そこにはある。

No.5746 - 2017/04/05(Wed) 14:42:30
鏡の思考実験が自我の思考である / 勘太郎
 がよく解りました。

コウモリが音を出してその反射をりようする様に、自分から光を発している様に感じる。 これも再確認しました。子供のころ何光年も離れた星をなぜ見たらすぐにみえるのかなあ?と感じました。

 ダグラス・ハーディングは「そして鏡と自分と距離がない、つまり自分が鏡の場合」を強調します。何も映らない(見えない)という事実は、自分がないからだと書いています。
 「あなたが自分だと感じているモノは、あなたから数十センチ離れた鏡の向う側に出現します。つまり、あなたの中心には何もなくて、少し離れたあなたの周囲にあなたは現れます」

「流れる川の水は、自由運動」でしょう。応所無住に生其心とはこのこと。自我があっても良しというところが面白いです。おいらはまずは自分の自我を支配下に置きたいと願っています。

No.5743 - 2017/04/04(Tue) 20:26:22

Re: 鏡の思考実験が自我の思考である / ubik0101
たしかに鏡との距離がないと自分は映らない・・・映るってことは距離があるってこと。ほかの人が認めることで自分を確認したい・・・承認要求・・・そいうことも鏡の反射で自分を確認したいということなんだろうと思いました。1人あることに、そいう問題そのものが起こりません。

おおむね人は自我から探求を始めるので、その自我はない、というのが一般的な経緯とは思います。そこで自我も無我も、真我にとっては、どうでもいい・・・そこで真我も忘れて、どこにも固着せず、自分は自分で見えないがOKとなりやすいように思います。

ところで、自我を支配下に置くってことはしたことがありませんし・・・具体的にどうするかわかりませんが自我と仲良くするって手もあるのかな、と勝手に思いますが・・・自我を支配するのは真我かもしれませんし、それを試してみるのも、そいう自分を実況中継、もいいかもしれません。

No.5744 - 2017/04/05(Wed) 08:58:30
ダグラス・ハーディングの鏡の思考実験 / 勘太郎
彼の言い方は下記とは違うのですけれども、 

 手鏡に自分を映すと、私が手鏡の向うに居ます。鏡を動かせば、あらゆるところに私が居いることができます。

 空間は,なにおも,存在させることができる不思議な入れ物です。空間においらが仮想の鏡を置くとき、おいらは世界に遍満していると夢想できます。

No.5740 - 2017/04/03(Mon) 22:00:22

Re: ダグラス・ハーディングの鏡の思考実験 / ubik0101
どうも小さい鏡だと具合が悪い・・・無限の大きさの鏡・・・球形の鏡・・・ぐにゃぐにゃの鏡・・・そして鏡と自分と距離がない、つまり自分が鏡の場合・・・とか、やってみました。

そこで・・・コウモリが超音波を発信してその反射で対象を見るように。ふつう人はなにか眼から何か見えない光のようなものを発信してその反射を見てる、

そのように自分の眼の力で世界を見てる気がしてる・・・それは世界の中心に自分がいることになる・・・自分を中心に言動する・・・ふつうそれだけだと自我の特性・・・と、思ったことを思い出しました。

その逆の見方をして・・・両極を補完する・・・そいう中心を打ち消す、そんな実験かもしれません。自分の何かが反射して世界が見える。すると・・・カーテンは柔らかい鏡、ノンノン、チュリルは飛ぶ鏡です。

そして空間はそれを反射できないから、空間は見えない(ここはまた他にありそうですけど)。もの、ことだけが見えます。もしかしてこの感覚は、見るという受動の知覚を、再認識することで、能動、と感じてるのかもしれません。

これは、自分で自分を認識できる気がする・・・思考を、もの、ことを見てる自分がいるのが嬉しいとかの、自我の機能も説明のひとつになるかもしれません。

たとえば悟りあり・・・悟りがないなら迷いもない・・・自我も無我もあれば、ことさらそれは、ない・・・いろんな経緯があれば、それも失い・・・どこかに固着せず、ということかもしれません。

No.5742 - 2017/04/04(Tue) 10:07:24
(No Subject) / brahma
女性にとっては全面的な愛情が全てであり、それによって自ずから男性とのSEXがエクスタシーそのものを開示する。

だが男性にとっては、ただ愛情があるというだけではダメなのである。
そこには、さめた知性が必要なのだ。

愛情があればSEXにおいて女性は努力を全く必要としない。
だが男性はある種の努力が必要なのである。

この由に男性の至福への道は、死をかけた何物かを必要とするのである。

男性は一人の女性に対して全面的愛情を感じたとしても、それは一切の問題の解決とはなりえないであろう。


それ故、男性は自己の生命を捨ててもいいという風に生きなければ悟り、至福、エクスタシーに目覚めることはないのだ。

純粋なる坐禅冥想は勿論、全面的な死への道であり、全面的な至福への道であるが、それはごく限られた人々のものでしかない。


そこで男性は、職業、家庭、友情、使命などに生命をかけねばならないのである。

それらが自己満足としてあるのではなく、自己放棄としてあらねばならない。

つまり、自己満足の虚しさと恐怖の構造を理解して、自己満足ではない、純粋に正しい行為を生きつづけるのだ。

たとえ、その行為の結果が完全に失敗に終わっても、である、

自己を豊かにしてはならない。
自己満足を目標にしてはならない。
エゴの肥大こそが虚しさと鈍感さと不安と恐怖の原因であることに気づきなさい。

女性は本当の愛情を自覚した時が、人間的悟り、成熟といってよい。
そしてそこから、そのエクスタシーから、その成熟から、健全な未来の子供達を出産するのである。
愛情のあるSEXからの出産は単に産みの苦しみといった様なものではない。
それは苦しみであると同時にエクスタシーからのエクスタシーなのだ。

愛情あるSEXは女情(誤字??)を自ずから成る性的エクスタシーへ導きそこに女性としての大いなる成熟があるのだ。
これだけで現代女性のかかえている全問題は解決したといってよい。



死んでもいいと言う程の生き方、それこそ現代人は自覚しているといないとにかかわらず、求めているものである。


一般に女性にとってそれは一人の男性との性愛であり、男性にとっては天職とか家庭ということになるのだが、

現状では、そうは問屋がおろさなくなっている。


というのは現代人一般があまりにも快楽、権力、金の奴隷になっているからである。

従って今や天命としての職業なぞありはしないのだ。



警告する!
快楽と自己満足の為に生きるのをやめなさい。
女は女でなく、男は男でなく、人間は人間でなく、家庭は家庭でなく、社会は社会でなく、自然は自然でなくなっているのだから。

本当に正直に答えて欲しい。
あなたはむなしくありませんか?

現代の女性は本当の恋愛を知らない。
現代の男性は本当の天職を知らない。
現代の人間はその天命を知らないのだ。

性的快楽のみを求める女性に、むなしさから逃げるために満足を求める女性に、どうして本物の恋愛が起こるであろうか。


金、権力、地位、名声、快楽を求める男性にどうして本当の天職が発見できるであろうか。

そこで現代人一般は享楽的なSEX、ほんのささやかな趣味娯楽、或いは美容、健康、SEXの様々なテクニックに自閉的な満足を求めているという次第である。



現代文明にとって最も必要なことは、出産、性愛、死という人間としての根本的基盤に目覚めることなのだ。

神秘を知性的に分析して解明するのではなく、神秘を神秘として目覚めるのだ。

この目覚めが実現しなければ、この西洋商工業都市文明は今世紀一杯で自滅するであろう。

No.5739 - 2017/04/03(Mon) 01:52:06
覚醒を読み返すと自分の進歩を感じます / 勘太郎
 ここで云う進歩とは、読んで共感できる気持ちが増えることです。
 エックハルト・トールは言ってます。「自然に段々と自分の内側を見る時間が増えます」

覚醒、この日常の観察の抄で云うところの「それは自分でそうしているのだから自分で理解できます。そうして初めて自分を直視できるようになります。」に近づく事。
 キーボードを打ちながら、ふと手を止めて、掃除機のブー〜という音に聞き入る。そして又画面を眺める。そして網膜の後ろ、耳の奥を眺める。耳の奥は掃除機の音は終わって、ストーブの送風機の音に繋がっています。
 
 耳が音源に繋がっていると感じ易いのですが、見るものが見る対象に繋がっていると感じにくいです。


 昨日は春初めての山でした。60センチの積雪で融雪剤(黒色鶏糞)を撒いてきました。足の疲れが心地良いです。夕べはぐっすり寝ました。
 柳です。ちょっと見たら、木に花が咲いている様です。
 

No.5735 - 2017/04/02(Sun) 09:13:57

Re: 覚醒を読み返すと自分の進歩を感じます / brahma
エックハルトは、四段階か、それに近い、イニシエートだと思います。
No.5736 - 2017/04/02(Sun) 12:03:53

Re: 覚醒を読み返すと自分の進歩を感じます / ubik0101
>  耳が音源に繋がっていると感じ易いのですが、見るものが見る対象に繋がっていると感じにくいです。

たとえばヘッドホンで音楽を聞くと頭の中に音源があるようです。そのように、どうも聞くってことは・・・野鳥とか猫の鳴き声とか音楽とか・・・頭の中で聞こえるのが普通です。

それを、たとえば猫がストーブの近く、あそこにいる、と視覚認識するのであそこにいる猫が鳴いてる、と。聴覚を視覚が辻褄合わせして、自分の外から聞こえるように。チャイムの音がしたら誰かが玄関にいてボタンを押してると空想して、自分の外から聞こえるように。捉え直してるのかもしれません。

そして、たとえば自分の眼と、猫をくっつけたら、猫も部屋も世界も見えなくなりますから、ずっと遠くの対象は小さく見えたり霞んだりしますから。視覚は対象との距離が0でも無限でもない、その間の距離が必要で。そんな距離を優先というか、前提にしてる知覚かも知れません。

ところで、いわゆる自意識がクリアになったら、音は頭の中です。静かな夜の時計の音。虫の声。音楽・・・などは、それを実感しやすいように思います。そして頭の中と言っても・・・実感としては自分という沈黙で・・・音を聞くのは沈黙です。

また視覚から距離をなくすのは、見てる中心が、あるでもないでもない、対象でない・・・自分が世界の、人間関係、過去未来などの因果関係の、中心でない・・・そいうことなのかもしれません。

ここで猫や鳥や部屋が見えながら、また何かを見ながら・・・いわゆる受動にも能動的にも偏ることなく・・・そいうことが満遍なく機能するので囚われず・・・世界は対象でない、と実感しやすいと思います。

No.5738 - 2017/04/02(Sun) 21:28:14
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