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千の利休と秀吉の朝顔の例 / 勘太郎
 秀吉が朝顔の美しさを褒めたら、次に秀吉が利休亭を訪ねたときは、朝顔の花一輪を残して、葉も花も切り取った姿で秀吉を迎えた。

 これは利休の示した、全体と部分の関係なのだろうと思いました。

 朝顔垣に葉も花も無く、1輪の花だけが在ったら恐ろしい景色。これをもって、全体と部分の説明になっています。

 

No.5717 - 2017/03/28(Tue) 07:10:29

Re: 千の利休と秀吉の朝顔の例 / hato

利休の話、はじめて聞きました。

年輪模様が素晴らしかったので撮っていたのですが、何度見ても、凄いです。いいテーブルができてよかった、て思います。

今朝は早くから、庭でウグイスが声出ししていました。喉や調子が整っていなくて、あちこち飛んでは練習の様子。

もうもう、可愛いです。

No.5718 - 2017/03/28(Tue) 09:21:55

Re: 千の利休と秀吉の朝顔の例 / ubik0101
この、花、だけっていうのは、自己、そのことを表現してるのかもしれません。また、部分と全体、そいうことが表現できる、この世界は、まったくニュートラル、静寂、ってことでしょうか。

hatoさんはこの世界的に、通常は天才バカボンの弟で、ときどきバカボンです。かわいいです。

No.5719 - 2017/03/28(Tue) 09:36:35
珈琲の載ってるテーブル例の欅ですか / 勘太郎
 コースター・テーブル・つくし、ステキです。
不思議なことに、1枚の写真に多くの事が写ってしまうような気がします。コリアンダー一鉢から、周りを含んで写ってしまうように感じます。
 短く言うと「清潔で暖かい春が写ってる」

 部分だけ取り出して写すこともできるのでしょうけれども、多く場合は部分だけを取ることは難しい。

 

No.5712 - 2017/03/27(Mon) 21:50:13

Re: 珈琲の載ってるテーブル例の欅ですか / hato

勘太郎さんこんばんは。もうすぐ、春ですね。

そうなんですよ、いつぞやの欅の一枚テーブルです。パパのおかげで、とても素敵に仕上がりまして。いい感じです。

隣人たちが、とても喜んでお茶や食事をしてくれるので、嬉しくなります。

No.5714 - 2017/03/27(Mon) 22:08:53
スサノオとヤマタノオロチ 神と悪魔のファっキング / brahma
夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志から八俣遠呂智という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまう。今年も八俣遠呂智の来る時期が近付いたため、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いていた。
須佐之男命は、櫛名田比売との結婚を条件に八俣遠呂智退治を請け負った。まず、須佐之男命は神通力で櫛名田比売の形を変えて、歯の多い櫛にして自分の髪に挿した。そして、足名椎命と手名椎命に、7回絞った強い酒(八塩折之酒)を醸し、8つの門を作り、それぞれに酒を満たした酒桶を置くようにいった。準備をして待っていると八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。八俣遠呂智が酔って寝てしまうと、須佐之男命は十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀を天照御大神に献上した。これが「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」である

No.5709 - 2017/03/27(Mon) 13:53:30

Re: スサノオとヤマタノオロチ 神と悪魔のファっキング / brahma
これを心理学的に解釈すると、女に酒を飲ませて、ぐでんぐでんに酔っ払ったところを、昇天するくらい突きまくってオーガズムを与える。
そして、かけた刀とは、射精後、小さくなった陰茎の象徴で、草薙の剣とは、男としての自信をもった事後の男性器の象徴だ。

オカルト的に解釈すると、直観界に上昇することで、肉体人間を麻痺させ、無力化し、倒す。ということである。草薙の剣は、
十拳剣=魂の知覚にとって変わった、真我の知覚である。

占星術的に解釈すると、8人の娘とは、太陽と七つの聖惑星とかんけいがある宇宙的イヴェントの象徴なのかもしれない。

No.5710 - 2017/03/27(Mon) 14:06:17

Re: スサノオとヤマタノオロチ 神と悪魔のファっキング / brahma
ヤマタノオロチを、十拳剣で八つ裂きにしたら、歯が欠けて、草薙の剣が出てきたらしい。
心理学的解釈。
ヤマタノオロチ=女
スサノオ=男
八つ裂き=逝かせまくる 失神
かける=射精
草薙の剣=事後の自信あるペニス
勝利=女はエクスタシーで自我が消えて優しくなる

神と悪魔のファッキング
スサノオとヤマタノオロチの神話は、神=男が悪魔=女に酒を飲ませて無力化したところをファックした話。

No.5713 - 2017/03/27(Mon) 22:05:26
この言葉への、 自我からの疑問です / 勘太郎
まったく知覚に依存し切って、感情に依存し切って、思考に依存し切って・・・そうと気がつけば、ただ老病生死に従い・・・この底知れない不安に安住。

 人の人生に意味など何もない。
 道端の草と同じだという意識で生きてよろしいのですよねえ・・・。

 勉強しろ!と親に言われて、いい大学へ行って、大企業勤務。それなりに一生懸命働いて、箱根の別荘で週末ゴルフ三昧。
 零細企業勤務で遠いアパートで通勤往復4時間三昧。50歳でガンで子供がまだ高校生と中学生、奥さんの体は弱い。

 悩み・望みは尽きないのだから、あたふたあたふたわけも解らずいきてゆくこれしかできません。

 もしかして、その中で覚者はあたふたしている自分を見ているのではないですか?

手前の7本青い種が空豆の芽です。寒さに強いらしいので、雪が融けたら移植予定です。

No.5701 - 2017/03/26(Sun) 08:13:03

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / ubik0101
たとえば見たり聞いたり笑ったり怒ったり思考したりでき得ること・・・もの、こと、意味無意味、よろしい、よろしくない、迷悟、この世あの世・・・

と、知覚感情思考でき得ない知覚感情思考してる自分、

・・・つまり知覚感情思考でき得ること、でき得ないこと・・・どこにも依拠でき得ない・・・それが底知れない不安。です。

この世界は6頭の巨ゾウの上に乗ってる・・・その巨ゾウは大亀の上に乗ってる・・・その大亀の下には・・・なにも、ない、のだ。なにもない恐怖と紙一重の世界。

こちら出窓のコリアンダー、けっこう生長してきました。

No.5702 - 2017/03/26(Sun) 09:53:52

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / ubik0101

ほかの説明では、依存して、依存しきって、その主体が、あるない、にも依存しきって、、、どのようなことにも無差別依存。ただそれだけで、なにか特定の個別のことに依存しようがない、です。

No.5703 - 2017/03/26(Sun) 14:39:54

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / 勘太郎
>
> ほかの説明では、依存して、依存しきって、その主体が、あるない、にも依存しきって、、、どのようなことにも無差別依存。ただそれだけで、なにか特定の個別のことに依存しようがない、です。


エックハルト・トールという方が「私も私の話すのを聞いているのですが・・・」と言ってましたので、覚者も自分をみているのかなあ?との疑問で諮問しました。
 自分を見ている感覚は自我の1形態だそうです(ニサルガダッタマハラジ)自分が二人いたらおかしいです。だけれども、自分で自分を観察できる様に感じてしまいます。

No.5704 - 2017/03/26(Sun) 21:36:08

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / ubik0101
そんな状態を、もう憶えてませんが・・・自分と時間、空間という距離を取ってそこから・・・ほかの人とか社会とか過去とか未来という仮の空想の焦点、視点をつくって・・・つまり自分が分裂してそこから・・・見た自分ということで自分を観察できる気がするのかもしれません。

「私も私の話すのを聞いているのですが・・・」というのは、この文章だけ見ると・・・ただ、自分の話してる声がそのまま聞こえる・・・鳴いてる猫がそのまま見える・・・感情、思考など・・・起こったことは、そのまま知覚される・・・素通し・・・ということを言ってるのかもしれません。

また、自分の話を聞いてる自分がいる・・・これは自我の機能ですが・・・それも世界の機能であって、自我の機能は、個人の自我とは言えない・・・という意味で言ってるのかもしれません。その自我の機能を使って、仔細に見る、ということをする、そんな時期、経緯もあります。

No.5705 - 2017/03/26(Sun) 23:16:58

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / brahma
直接の知覚
No.5706 - 2017/03/27(Mon) 00:44:34

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / ubik0101
これを言っちゃあ、お終いよ。なのですが、あくまでそんな程度の説明ですけど・・・神・・・第一原因・・・実在・・・が分裂して、というより拡散して、人、もの、こと、つまり世界として現れています。

つまり世界は神の自我です。つまり、神が神を自覚しようとしています。それが私たちの日常です。ここで人も、その神の機能としての自我が機能します。自分で自分を観察しようとします。

あっちこっち焦点、視点を拡散させて、あれこれの、もの、こと、人に、接着して、その関係から自分を知ろうとします。でも結局。それはこの自分を蔑ろにすること。中心を見てない、見れないです。自分から外れることです。それは神の振りをする傲慢です。

そのような悪魔のような傲慢な自分であることが、自分が、自分が、自分が、こうしたああしたの、自分が自分で感じられる気がする判断の中心にいることが、迷ってることが、葛藤が、嬉しいのです。けど、その知ろうとする自分は虚構で。ガランとした伽藍です。

そこで、なんとかして、ある意味で自分に気がつくからですが・・・自分そのことは自分そのことを自覚できないことに気がつく・・・自我から解脱する。その日常は、神も悪魔も、ひとつも分離も、真理も虚偽も、自我無我真我も、あるないも壊滅です。

No.5707 - 2017/03/27(Mon) 08:12:08

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / hato

母が作ったコースターに、菜の花とつくしで春の装いです。

なにかといそがしい春、頑張りましょう。

フレンチプレスで、キリマンジャロをいただきました。

No.5708 - 2017/03/27(Mon) 12:50:40

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / hato

それで、パクチー。コリアンダーの花が咲きました。ニラの花に、似ているでしょうか。

香菜の花は可憐で、とてもチャーミングです。2人ともに、香り、味ともに大好物。

No.5711 - 2017/03/27(Mon) 19:33:01
(No Subject) / brahma
笑いとは、何か足りない部分への悲しみです。

先生は、第ニ段階以上で、アートマ界の複雑な感情に接していたのかもしれません。
霊的意志は、第二段階の前後で、はじめて初歩的に接触できます。
アートマ界では、言葉は消えます。
あまりにも複雑な感情の界だからです。
アストラル界は、アートマ界の影です。
欲望は意志の弱められた幻影です。

モナド界は、想像力が通用しなくなります。
愛は作られるものではないからです。
あらゆる想像力は浅はかです。
モナド界は、法則が潜在しています。
花は太陽に向かって咲く。
等の普遍的法則が、宇宙のイデアが潜在しているのです。
メンタル界の論理は、モナド界の映しです。

人は、全力で他者を愛するとき、それは圧倒的体験です。
ブッディ界にふれるからです。
ブッディ界は、三界の限界を超越した界です。
ブッディ界は、アディ界につなっがています。
時空を超越した全能の界です。
あらゆる意味性を剥奪します。
ブラヴァツキーは、主観的客観性の火(プラズマ)の海といいました。
時空のドラマを超えそれを包含する、絶対意識。
わたしは、神である、愛である。アディ界では、そういう普通の人が聞いたら妄想と思うような意識が、絶対なのです。世界のほうが物語にすぎないのです。
そして、キャンバスの上の絵が、紙であるように、
世界も、神なのです。笑

No.5697 - 2017/03/24(Fri) 15:02:48

Re: / ubik0101
たとえば、私がいなくても世界はある。私がいないと世界はない・・・とかありますが、あんまり言いたくはないけど・・・世界が壊滅しても、私はある、

これが、私はある、の感覚です。それは表現としては、いわゆる自我の言いそうなことですが、それでもたしかに《世界のほうが物語》なんでしょう。

だけど・・・あるは、あるに、ありきって、ルーツを失い、ない・・・これはどこまで有効なのか解らないけど・・・この日常に、この世界に埋没して、

まったく知覚に依存し切って、感情に依存し切って、思考に依存し切って・・・そうと気がつけば、ただ老病生死に従い・・・この底知れない不安に安住。

No.5698 - 2017/03/25(Sat) 08:17:30

Re: / brahma
ブッディ界では、エゴが無くなる。自意識、自我が消える。ただ、存在する、という感覚が残る。

7つの身体におけるプラーナの顕現

●第一身体:肉体・・・呼吸・・・出息と入息、誕生と死

●第二身体:アストラル体・・・感化・・・クンダリーニ、チャクラが属する  好感と反感、愛と憎しみ、好きと嫌い

●第三身体:メンタル体・・・磁力(磁性)  力強さと無力、希望と失望、自信と自信喪失

●第四身体:コーザル体・・・想念  入ってくる想念と、出てゆく想念

●第五身体:ブッディ体・・・生命  生 と 死 (不安、暗黒)

●第六身体:アートマ体・・・自我(エゴ)が落ちる  創造と破壊、ブラフマーとシヴァ
       個人的体験ではなく宇宙的体験となる。  死んでゆくあらゆるものを自分自身の死としてみる。
       ブラフマー神は第六身体の人格化  ヴィシュヌ神は、ブラフマー神とシヴァ神の、その両極性を超えたところにいる。
       ヴィシュヌ神は第六身体における実体

●第七身体:モナド体・・・真理、絶対  存在と非在、顕在と非顕在
       非在(出息、否定) = 仏陀の見地 「何ひとつ残らない」
       存在(入息、肯定) = シャンカラの見地 「すべてが残る」

No.5699 - 2017/03/25(Sat) 17:32:53

Re: / brahma
老子は、年取っても、おどおどした不安で、無垢な人だったらしい。
No.5700 - 2017/03/25(Sat) 17:34:06
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