では、私達は 一体の状態になったり、一体の状態から外れたりしているのかと言ったら、そうではありません。
私達は常にあらゆるものと一体の状態から外れたことはありません。
「ああ、私はまだ一体の状態を知らない」 と思えているということは その思いと一体の状態にある ということです。
私達はただ 「ああ、私は今、一体の状態にある!」 という思いと一体になったり 「ああ、私はまだ一体の状態を知らない」 という思いと一体になったりしているだけなのです。 どちらの思いとも一体になっていることに変わりはありません。
あらゆる思いと一体になりながら、そのことが分からないのは 一体になっていることが分からないくらい、そのものと一体になっている、ということです。
一体かどうかではなくて、一体かどうかの「思い」と一緒になっている。 理屈で考えたら、私の血液の鉄は超新星爆発でできたものが、私の血液の鉄で酸素を運んでいる。私と宇宙がどこで分かれるか?解るはずがないのに、おいらは宇宙とは別のものだと感じてしまう。
思いが浮かんでしまったら、無智に落ち込んでしまいます。思いに落ち込まない様に、思考を停止して今に留まると・・・・。やっぱり今に留まっても、おいらと猫は分離して感じてしまいます。ごみ箱に愛を感じて抱きしめたいとは感じることができません。 見るものと見られる対象とおいらの胸の奥からただ、黙って見ている3者に分かれています。
追伸 死を直前にした方が、とうに死んだ母親と話をして、安心して死んでいった。という新聞記事を読みました。これは典型的な魔境です。 おいらも接心の時に、美濃笠を被った母親がおいらの後ろにただ黙って立っていました。顔は見えないし、白装束で誰だか判るはずもないのですが、母親であるとわかりました。記事の方とおいらがなんで同じような魔境をかんじるのかなあ??不思議です。
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No.5643 - 2017/03/06(Mon) 21:34:36
| ☆ Re: 空の色は何色から。おいらの思いとおいらが一体である / hato | | | 一体・・・。考えてみましたが、言霊を唱えて一体となる、とか、ムー、と一体になるとか、意図的にそうしょう、と思わなければ、自分には、思いと一体、ということ自体に、拘る気にならないようです。
そのようにして、見る者、見られる者、第三者・・・それは、自ら設定したときにそのように作られるもの、ではないでしょうか。
なぜなら、そこには時間があり、空間であり、本来の面目は、そのように逡巡されて構築されるものではない、と思います。
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No.5644 - 2017/03/07(Tue) 00:01:09 |
| ☆ Re: 空の色は何色から。おいらの思いとおいらが一体である / ubik0101 | | | なぜ一体でなくてはならないのでしょう?一体でありたいのでしょうか?たしか、クレオパトラの呼吸した空気の分子を、現代の人も、何分子かは吸ってる、という記事を雑誌で読んだことがあります。
たしかに水とか、炭素とか、カルシウムとか、微量元素とか、生き物は、ほかの生き物と取り替え可能でしょう。それは、単に材料が同じ、というだけかもしれません。いつか話したような気がしますが、
ひとつの24色の絵の具の箱、世界を材料に、絵の具の箱にない美を醸し出してる、それぞれの絵。勘太郎さんが、勘太郎さんであって、そうであって一体も、一体ではない、もないです。
そいう分離がない一体とかが、それだけが真理とか、目標ではなくて・・・世界は対象でない・・・ということは、その人が、その人。ということを示してるのです。
ここには、一体も、分離も、まったく問題にならないです。それをまあ、世界と分離してる、なにか自分があるような気がしてた。それは実に、私が私ではないという表現だけのことであった。
そんな分離に対応して、一体とか言ってるだけではないでしょうか。ubik0101、勘太郎さん、住職さん・・・同じとか、違うということさえない。そのまま、この日常。
あそこに猫が見えます。ということは、見るものと見られるものは違います。違わなければ見えないです。あるいは距離がなければ見えないです。それは当然で、そのことは、その人がその人、ということには何の関係も影響もないです。
この自分が自分であることなんですから、理由がないのですから・・・理由があって自分であるなら、理由が変わると変わるという奇妙なことになるかもしれません。
・・・空気って、見えますか?空間そのことが見えるでしょうか?たとえば部屋の壁に囲まれた空間、それ自体が見えますか?それは勘太郎さんと、分離してますか?空間に、一体、分離・・・ありますか?
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No.5646 - 2017/03/07(Tue) 00:04:19 |
| ☆ とくに言う必要がないことだけれど、 / ubik0101 | | | たとえば、怒ることもあるでしょう。それを押さえようとすることもあるでしょう。そこで自分は世界と、自分と分離して感じられることもあるでしょう。笑うこともあるでしょう。車を運転することもあるでしょう。
それで、どうして、自分が自分であることから外れ得ます?一体でありたい、ということは・・・つまり、分離してる・・・それも自分がそうして・・・自作自演の自縛・・・なのではないでしょうか。
一体でありたいから自分で一体ではなくして一体でありたい。そうでないなら、一体も、一体でないもないです。もし、一体、を感じれば、その閉じこもってるところから、すこし広いところに出で、閉じこもりが消えた。
でも、どうであれ、自分は自分。私は、ある、でも、私は、ない、でも、そんなことに左右されない、いや、自在に条件に左右される空気のように、水のように、自在に左右され、あるときは夫であり、あるときは父であり、
あるときは怒ったり、あるときは笑ったり、あるときは、おいらと思考と一体である・・・自分が自分だから、ではないでしょうか。自覚でき得ない自分、大袈裟な説明では、この無限の絶対の自分、ほかの何がそう、でき得るでしょう。
ところで、猫とか、ゴミ箱とか、見るものとか、見られるものとか、胸の奥の自分とか、物や思考や状態を対象にするのではなく・・・空間・・・それを見る。どう見えるか。実際にやってみるのもいいと思います。
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No.5647 - 2017/03/07(Tue) 08:02:17 |
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