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(No Subject) / brahma
たとえば、黄色いマグカップから、黄色だけを取り出すとする。

黄色には、たくさんの属性がある、明度 彩度、混じっている色・・・


そういう物が現象として知覚されるのが、集合無意識だ。

主客の対立もあり、時間や空間などに影響される。


ところが、宇宙意識では、物が物自体として、知覚される。

宇宙意識から生じた直感知は、形而上的客体を対象としていても、それを概念でとしてではなく、具体物として直感される。

たとえば、愛、歓喜、自由こういったものを直覚する。

さまざまな思想なども生きた具体物として直覚する。


宇宙意識の直感知から生じるイメージは、他のイメージの発現を妨げる働きがある。


たとえば、愛する人が、最愛の人を思うとき、そのほかすべての思いが心から出て行くように。

次々と、愛から生じてくる思いが、人を世俗的なことから解放するように。

No.5585 - 2017/02/24(Fri) 17:47:14

Re: / hato

シェークスピア! brahmaさんは、大変詩的ですね。

>宇宙意識は絶対愛じゃないかな。
>
>事情が変われば己も変わるような愛、相手が心を>移せば己も心を移そうとする愛、そんな愛は愛で>はない。



ここは自分は、そも、愛とはいわないと思います。すべてが愛、という表現はあるレベルで・・・たとえば総てがあることで成立する成長、などとの意味で理解しますが、愛でないものは、愛とはいいません。


> そういう物が現象として知覚されるのが、集合無意識だ。
> 主客の対立もあり、時間や空間などに影響される。
> ところが、宇宙意識では、物が物自体として、知覚される。
>
> 宇宙意識から生じた直感知は、形而上的客体を対象としていても、それを概念でとしてではなく、具体物として直感される。
>
> たとえば、愛、歓喜、自由こういったものを直覚する。
>
> さまざまな思想なども生きた具体物として直覚する。
> 宇宙意識の直感知から生じるイメージは、他のイメージの発現を妨げる働きがある。
>
> たとえば、愛する人が、最愛の人を思うとき、そのほかすべての思いが心から出て行くように。



おもしろいですね、こうした分類はしないですが、なるほど、と学ぶこともあります。

実際は、人は、分類通りにいくとは限らないので、さまざま混在しており、端から他人を判断することはむつかしいでしょう。その意味でも、自分で自分を学ぶ、ことしか意味がないんでしょう。

人からいくら、幸せそうだ、凄そうだ・・・と羨望されていたとしても、自分が本当にそうでなければ、意味がないでしょうね。


愛、というとき、自分は基本的に、どこか無機質な・・・というと誤解されそうですが、ほんわかした和みの感覚は、ありませんでした。どちらかといえば、人知を超える圧を感じたものです。この意味で、絶対的というのは理解します。でも愛は、ことさら 感じる 必要はありません。と思います。

知覚。感じること、はもちろん大事ですが、すこし自ら思い起こせば、愛は、感じること・・に寄る必要がないことを、理解できると思います。

No.5586 - 2017/02/24(Fri) 19:41:32

Re: / brahma
潜在的にすべては愛だ。

そしてすべては自己だ。

すべてが自己であるから、愛があるのだ。


どんなに憎しみに満ちていても、その人の深いレヴェルでの意識は愛なのだ。

No.5588 - 2017/02/25(Sat) 00:43:12

Re: / brahma
イエスもクリシュナムルティもブラヴァツキーもヘルメスも詩的だ。
No.5589 - 2017/02/25(Sat) 00:56:06

Re: / hato

愛が、こんなにも世界を満たしているのに、人は争いますね。ここで話している愛は、博愛、慈愛、情愛・・・のことではありません。

ただ、愛。

愛する人、家族や国や主義、人の為、と思ってなにかすることがあります。

それはすべて愛、でしょうか。否。必ずしも、そうではないから、人は争えるかも知れません。

もし人が、善悪に拘らずの、善。いいわるいではない善いを、生きよう、とするなら、愛は導いてくれます。人は愛に、沿うことができます。

愛は、愛。ということ。

No.5592 - 2017/02/25(Sat) 15:01:20

Re: / brahma
愛は愛を愛してる。
No.5594 - 2017/02/25(Sat) 22:47:05
(No Subject) / brahma
普遍無意識 ニルヴァーナ 万象と真我は一体である。ayam atman brahman
宇宙意識 マハーニルヴァーナ 万象。それは、汝である。tat tvam ashi
絶対意識 マハ−パッリニルヴァーナ 私は万象である。aham brahmasimi

No.5568 - 2017/02/23(Thu) 00:35:00

Re: / ubik0101
> 絶対意識 マハ−パッリニルヴァーナ 私は万象である。aham brahmasimi

それで、見たり聞いたり思考したりが、出来ますか?
また、見たり聞いたり思考したりは、どのようにして可能?

No.5569 - 2017/02/23(Thu) 08:23:01

Re: / hato
> 普遍無意識 ニルヴァーナ 万象と真我は一体である。ayam atman brahman
> 宇宙意識 マハーニルヴァーナ 万象。それは、汝である。tat tvam ashi
> 絶対意識 マハ−パッリニルヴァーナ 私は万象である。aham brahmasimi


そもそも、それは本当に、意識、と呼べるでしょうか?

No.5570 - 2017/02/23(Thu) 11:01:26

Re: / brahma
普遍無意識 神の知性 ブラフマー 聖霊
宇宙意識 神の愛 ヴィシュヌ 子
絶対意識 神の意志 シヴァ 父



7つの界の最上の3つの界。

わたしは、普遍無意識はわかる。
宇宙意識はちょっとわかる。
絶対意識はまだよくわからない。

実感として。


たとえば、雨が降る。その雨は、どこかで誰かが死んだ徴かもしれない。
集合無意識は全体と部分がつながっている。
仏教のアラヤ識のこと。


宇宙意識は、愛、調和。

本当は、宇宙の万象は、適した状態であれば、調和するようにできている。誰かが、心を閉ざしたり、
自然に反することをすると調和が崩れる。

No.5571 - 2017/02/23(Thu) 18:52:11

Re: / brahma
集合無意識は2〜3段階の間に、
宇宙意識は3〜4段階の間に、
絶対意識は4〜5段階の間に明かになる。

宇宙意識は、絶対なる愛、力、知識、自由、歓喜、安心。
ヨーガでは、実在、歓喜、智恵といわれる。

諸行無常も諸法無我も、涅槃寂静もない。

非実在性、非心理性。

宇宙意識は意識ではない。

宇宙意識にはいるとき、人間と宇宙は全面的に否定消滅されている。

No.5572 - 2017/02/23(Thu) 18:59:29

Re: / brahma
宇宙意識とは、無限であり、現象宇宙のことではない。
No.5573 - 2017/02/23(Thu) 20:26:39

Re: / 勘太郎
> > 絶対意識 マハ−パッリニルヴァーナ 私は万象である。aham brahmasimi
>
> それで、見たり聞いたり思考したりが、出来ますか?
> また、見たり聞いたり思考したりは、どのようにして可能?


意識(私)は、私が意識を向けた対象を、私に取り入れて私を対象の姿声考えに染める作業をおこなう
 私は、相手を受け入れることしかできない。私が行為・働きかけをすることは無い(できない)
 働きかけたり、感化しようとするのは自我なのではないですか?
 自我同士のやりとりをただ見ているのが私なのではないですか?

 本からよんだ知識ではそのように書いてあるように思えます。

No.5574 - 2017/02/23(Thu) 20:34:06

Re: / brahma
君が、宇宙意識とふれ合う時、君は自己憐憫(れんびん)やセンチメンタルとは無縁の透明な涙を知るだろう。また嘲笑や自虐性や滑稽さからのそれでない大いなる笑いやおおらかな微笑があふれだすだろう。
そして君は知る、完全な沈黙や深く安らかな静寂が何であったのかを。

No.5575 - 2017/02/23(Thu) 21:29:31

Re: / ubik0101
どうもbrahmaさんの言う普遍無意識、宇宙意識、絶対意識は、こちらで言う経(たていと)のようです。ただ愛としか呼べない愛は、神からの真我の承認の証です。

その神・・・実在・・・第一原因・・・人としてはそこが限界。けど、♪どこまでも行こう、道は果てなくても、口笛を吹きながら、歩いて行こう。です。

No.5576 - 2017/02/23(Thu) 21:37:01

Re: / ubik0101

> 意識(私)は、私が意識を向けた対象を、私に取り入れて私を対象の姿声考えに染める作業をおこなう
>  私は、相手を受け入れることしかできない。私が行為・働きかけをすることは無い(できない)
>  働きかけたり、感化しようとするのは自我なのではないですか?
>  自我同士のやりとりをただ見ているのが私なのではないですか?
>
>  本からよんだ知識ではそのように書いてあるように思えます。


ここでは、見るということ、聞くということ、それが、絶対意識には可能でしょうか?可能なら、どのようにして可能ですか?という質問です。

No.5577 - 2017/02/23(Thu) 21:38:43

Re: / brahma
愛とか安らぎとかは、観照者である真我は、宇宙意識のレヴェルですね。
流れている。

絶対意識は、絶対無といわれていて止まってる。

ヨーガで言う無種子三昧


有種子三昧

有尋三昧 顕在意識
無尋三昧 個人的無意識
有伺三昧 集合無意識
無伺三昧 宇宙意識


無種子三昧 絶対意識

No.5578 - 2017/02/23(Thu) 21:47:36

Re: / brahma
有尋三昧:三昧のなかで、語とその示す客体とそれに関する知とを区別する分別知が混じっているものは有尋と呼ばれる。

 無尋三昧:三昧が深まると、記憶が消えてしまって、まるで意識自体がなくなってしまったかのようで、客体だけがひとり輝き現ずる。これが無尋と呼ばれる三昧である。 

No.5579 - 2017/02/23(Thu) 22:08:17

Re: / brahma
前記の二つの三昧に準じて、それよりも微妙な対象に関する有伺三昧と無伺三昧は説明される。

 微妙な対象というのは、万物の根源である自性に至るまでの形而上学的な諸原理を総括した表現である。

No.5580 - 2017/02/23(Thu) 22:11:15

Re: / brahma
瞑想状態は、集中し観察する対象が粗雑なものからより微細なものへ深化することで、心身相関する有種子三昧(サビージャ・サマーディ)と、心身相関を超えた無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ)に分けられる。有種子三昧は、粗雑な対象を分別している有尋定(サヴィタルカ・サマーパッティ)、微細な対象を分別している有伺定(サヴィチャーラ・サマーパッティ)、記憶の連鎖による分別がなくなり対象だけになっている無尋定(ミルヴィタルカ・サマーパッティ)、無尋定においてより微細な対象だけになっている無伺定(ニルヴィチャーラ・サマーパッティ)の四つに分けられる(『ヨーガ・スートラ』第一章「サマーディ」四一〜五一)。これらは心身相関の瞑想状態で、微細であっても対象をもつ有種子三昧である。そして、この有種子三昧がサンヤマによって深化すると心身相関を超えた対象のない無種子三昧が誘導されるという。
No.5581 - 2017/02/23(Thu) 22:20:51

Re: / brahma
集合的無意識

宇宙無意識

神意識


最低の集合無意識だけでも、実体験でわかったらたいしたもん。

まして、宇宙意識以上は、相当ハイレヴェル。

No.5582 - 2017/02/24(Fri) 00:12:26

見る聞くのイメージを文字にすると / 勘太郎
>
> > 意識(私)は、私が意識を向けた対象を、私に取り入れて私を対象の姿声考えに染める作業をおこなう
> >  私は、相手を受け入れることしかできない。私が行為・働きかけをすることは無い(できない)
> >  働きかけたり、感化しようとするのは自我なのではないですか?
> >  自我同士のやりとりをただ見ているのが私なのではないですか?
> >
> >  本からよんだ知識ではそのように書いてあるように思えます。
>
> ここでは、見るということ、聞くということ、それが、絶対意識には可能でしょうか?可能なら、どのようにして可能ですか?という質問です。


おいらの、気づき(意識と同じ意味なのかどうか?解りませんけれども)から、言うと。

 まず、おいらの気づきに注目します。気づきの状態に意識を持ってゆきます。そうすると、気づきもおいらと分離不能になって、ボイラーの燃える音を聞いています。音を聞こうと音に注目すると気づきが消えてしまうのかもしれません?・・いややっぱり、おいらと気づきの境目が無くなって音を聞いてます。

     イメージとしてはこのようになります。

No.5587 - 2017/02/24(Fri) 20:29:50

Re: / ubik0101
うまく説明になるか解りませんが・・・こう、である自分を、こう、と認識する・・・瞑想も、宗教も、いかなる技法も自分には無縁でしたが・・・それだけで、探求が探求を導いた。

ここでは、そんな地図を持たない探求者に起こったことを話しています。意識と無意識が繫がり、ふだんは暗くて見えないとも気がついてない自分の奥が明るく・・・自我の仕組みが開示され、

どこか隠れる影を探す自我がその明るさに溶けてしまい、気がつくと、この世界が明るく・・・世界の総活動・・・罪(カルマ)が燃焼・・・歓喜状態・・・これまでは濃霧の中で

生きていたことを了解・・・人として完成され・・・はじめて経験したのに愛としか呼べない愛、その源の神から承認される。大雑把にいうとこんな感じですが、

これは、ほとんど一瞬に一気に起こります。その神と人との関係の話です。これを体験したということが問題になってしまったりしますが・・・その体験を読み解いて理解して失う・・・ここ、

No.5590 - 2017/02/25(Sat) 08:12:48

Re: / ubik0101
それが普通の、この日常です。まったく努力することなく、ただ自分は。こう、であることを、こう、と認めるだけで・・・経緯の交点、この日常こそ天の国、総ての光を重ねると透明、人には意識がない、

まったく何も知らない・・・さまざまな理解、風景を経緯します。とくに個別のことはないので、気づきとか、そうでないとか、自我とか無我とか真我とか、ひとつとか、分離とか、希望とか欲望とか、迷悟とか、

まったく問題にならないのです。ここで注意からは外れようがない、それはそうで歩く笑う歌う働くこの日常からは外れようがない・・・これは原則なにかの体験の有無には関らないと思います。

たとえば勘太郎さんは勘太郎さんの、こう、であることを、こう・・・たとえば気づき・・・その認識。これが簡単な自然の道・・・と思います。

No.5591 - 2017/02/25(Sat) 08:19:42
みどりの庭から / hato

それはたしかに、意識、ではありませんでした。それまでの個と世界が消えた、それをどう表現するかは。たゆまず行こう。たゆまず、進もう。

昨晩遅くに、街ともいえない町に繰り出し、いちごパフェを食べました。

No.5583 - 2017/02/24(Fri) 10:55:25

Re: みどりの庭から / brahma
宇宙意識は絶対愛じゃないかな。

事情が変われば己も変わるような愛、相手が心を移せば己も心を移そうとする愛、そんな愛は愛ではない。
byシェークスピア

No.5584 - 2017/02/24(Fri) 15:12:41
(No Subject) / brahma
自分を、いろんなガラクタで防御しないとき、町を歩く、利己的なビジネスマン、世の中のさまざまな残酷さ、そういったものから目を背けないとき、そこに果てしない絶望と悲哀があり、同時に愛があるのでしょうか。
No.5563 - 2017/02/22(Wed) 11:07:37

Re: / ubik0101
ただ、愛、と呼べることは、《あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛せよ》という聖書の命令に現されているように。人が起源ではないです。そでなくて、

あなたは、あなたを、どのようにして愛することができ得るでしょうか?苦のない生活、豊かな家庭、希望の実現・・・それらは愛と呼べるでしょうか。

それは人が知覚する知覚しないに関らず、つまり知覚に依存せず・・・世界に溢れてるけど・・・これは自分でそれを受けねばなりません。また慈悲、

それは湧き上がってきます。その衝動を言葉に翻訳したら・・・人のためになりたい、誰もが愛を、神を、真我を、体験できるように力を尽くしたい・・・それをしないことは苦痛なほどです。

No.5564 - 2017/02/22(Wed) 12:17:55

Re: / brahma


野心はあるがままの自己からの逃避であり、野心がある限り愛もない。

愛とは、何者でもないことである。

道端の石ころのように。

そこに、果てしない悲哀と絶望を感じる心が生まれる。

No.5565 - 2017/02/22(Wed) 12:34:50

Re: / hato

愛は、目を向ける・・向けない・・という、或はなにか人の、特定の状況についての忍耐ではなく、親子、恋人、人の気遣いではなく、世界の内容に関わりなく、愛。愛は、愛。

No.5566 - 2017/02/22(Wed) 12:50:56

Re: / brahma
言ってしまえば、すべてが愛なんだな。

それを感じられるかどうかなんだ。

それを感じられなくてもやはり、愛であることは、潜在的にそうなんだな。

No.5567 - 2017/02/22(Wed) 13:49:29
(No Subject) / brahma
気づきの象徴である稲妻
No.5562 - 2017/02/22(Wed) 00:40:14
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