自分を、いろんなガラクタで防御しないとき、町を歩く、利己的なビジネスマン、世の中のさまざまな残酷さ、そういったものから目を背けないとき、そこに果てしない絶望と悲哀があり、同時に愛があるのでしょうか。
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No.5563 - 2017/02/22(Wed) 11:07:37
| ☆ Re: / ubik0101 | | | ただ、愛、と呼べることは、《あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛せよ》という聖書の命令に現されているように。人が起源ではないです。そでなくて、
あなたは、あなたを、どのようにして愛することができ得るでしょうか?苦のない生活、豊かな家庭、希望の実現・・・それらは愛と呼べるでしょうか。
それは人が知覚する知覚しないに関らず、つまり知覚に依存せず・・・世界に溢れてるけど・・・これは自分でそれを受けねばなりません。また慈悲、
それは湧き上がってきます。その衝動を言葉に翻訳したら・・・人のためになりたい、誰もが愛を、神を、真我を、体験できるように力を尽くしたい・・・それをしないことは苦痛なほどです。
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No.5564 - 2017/02/22(Wed) 12:17:55 |
| ☆ Re: / brahma | | |
野心はあるがままの自己からの逃避であり、野心がある限り愛もない。
愛とは、何者でもないことである。
道端の石ころのように。
そこに、果てしない悲哀と絶望を感じる心が生まれる。
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No.5565 - 2017/02/22(Wed) 12:34:50 |
| ☆ Re: / hato | | | 愛は、目を向ける・・向けない・・という、或はなにか人の、特定の状況についての忍耐ではなく、親子、恋人、人の気遣いではなく、世界の内容に関わりなく、愛。愛は、愛。
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No.5566 - 2017/02/22(Wed) 12:50:56 |
| ☆ Re: / brahma | | | 言ってしまえば、すべてが愛なんだな。
それを感じられるかどうかなんだ。
それを感じられなくてもやはり、愛であることは、潜在的にそうなんだな。
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No.5567 - 2017/02/22(Wed) 13:49:29 |
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