普遍無意識 ニルヴァーナ 万象と真我は一体である。ayam atman brahman 宇宙意識 マハーニルヴァーナ 万象。それは、汝である。tat tvam ashi 絶対意識 マハ−パッリニルヴァーナ 私は万象である。aham brahmasimi
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No.5568 - 2017/02/23(Thu) 00:35:00
| ☆ Re: / ubik0101 | | | > 絶対意識 マハ−パッリニルヴァーナ 私は万象である。aham brahmasimi
それで、見たり聞いたり思考したりが、出来ますか? また、見たり聞いたり思考したりは、どのようにして可能?
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No.5569 - 2017/02/23(Thu) 08:23:01 |
| ☆ Re: / hato | | | > 普遍無意識 ニルヴァーナ 万象と真我は一体である。ayam atman brahman > 宇宙意識 マハーニルヴァーナ 万象。それは、汝である。tat tvam ashi > 絶対意識 マハ−パッリニルヴァーナ 私は万象である。aham brahmasimi
そもそも、それは本当に、意識、と呼べるでしょうか?
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No.5570 - 2017/02/23(Thu) 11:01:26 |
| ☆ Re: / brahma | | | 普遍無意識 神の知性 ブラフマー 聖霊 宇宙意識 神の愛 ヴィシュヌ 子 絶対意識 神の意志 シヴァ 父
7つの界の最上の3つの界。
わたしは、普遍無意識はわかる。 宇宙意識はちょっとわかる。 絶対意識はまだよくわからない。
実感として。
たとえば、雨が降る。その雨は、どこかで誰かが死んだ徴かもしれない。 集合無意識は全体と部分がつながっている。 仏教のアラヤ識のこと。
宇宙意識は、愛、調和。
本当は、宇宙の万象は、適した状態であれば、調和するようにできている。誰かが、心を閉ざしたり、 自然に反することをすると調和が崩れる。
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No.5571 - 2017/02/23(Thu) 18:52:11 |
| ☆ Re: / brahma | | | 集合無意識は2〜3段階の間に、 宇宙意識は3〜4段階の間に、 絶対意識は4〜5段階の間に明かになる。
宇宙意識は、絶対なる愛、力、知識、自由、歓喜、安心。 ヨーガでは、実在、歓喜、智恵といわれる。
諸行無常も諸法無我も、涅槃寂静もない。
非実在性、非心理性。
宇宙意識は意識ではない。
宇宙意識にはいるとき、人間と宇宙は全面的に否定消滅されている。
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No.5572 - 2017/02/23(Thu) 18:59:29 |
| ☆ Re: / brahma | | | 宇宙意識とは、無限であり、現象宇宙のことではない。
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No.5573 - 2017/02/23(Thu) 20:26:39 |
| ☆ Re: / 勘太郎 | | | > > 絶対意識 マハ−パッリニルヴァーナ 私は万象である。aham brahmasimi > > それで、見たり聞いたり思考したりが、出来ますか? > また、見たり聞いたり思考したりは、どのようにして可能? 意識(私)は、私が意識を向けた対象を、私に取り入れて私を対象の姿声考えに染める作業をおこなう 私は、相手を受け入れることしかできない。私が行為・働きかけをすることは無い(できない) 働きかけたり、感化しようとするのは自我なのではないですか? 自我同士のやりとりをただ見ているのが私なのではないですか?
本からよんだ知識ではそのように書いてあるように思えます。
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No.5574 - 2017/02/23(Thu) 20:34:06 |
| ☆ Re: / brahma | | | 君が、宇宙意識とふれ合う時、君は自己憐憫(れんびん)やセンチメンタルとは無縁の透明な涙を知るだろう。また嘲笑や自虐性や滑稽さからのそれでない大いなる笑いやおおらかな微笑があふれだすだろう。 そして君は知る、完全な沈黙や深く安らかな静寂が何であったのかを。
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No.5575 - 2017/02/23(Thu) 21:29:31 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | どうもbrahmaさんの言う普遍無意識、宇宙意識、絶対意識は、こちらで言う経(たていと)のようです。ただ愛としか呼べない愛は、神からの真我の承認の証です。
その神・・・実在・・・第一原因・・・人としてはそこが限界。けど、♪どこまでも行こう、道は果てなくても、口笛を吹きながら、歩いて行こう。です。
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No.5576 - 2017/02/23(Thu) 21:37:01 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | > 意識(私)は、私が意識を向けた対象を、私に取り入れて私を対象の姿声考えに染める作業をおこなう > 私は、相手を受け入れることしかできない。私が行為・働きかけをすることは無い(できない) > 働きかけたり、感化しようとするのは自我なのではないですか? > 自我同士のやりとりをただ見ているのが私なのではないですか? > > 本からよんだ知識ではそのように書いてあるように思えます。
ここでは、見るということ、聞くということ、それが、絶対意識には可能でしょうか?可能なら、どのようにして可能ですか?という質問です。
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No.5577 - 2017/02/23(Thu) 21:38:43 |
| ☆ Re: / brahma | | | 愛とか安らぎとかは、観照者である真我は、宇宙意識のレヴェルですね。 流れている。
絶対意識は、絶対無といわれていて止まってる。
ヨーガで言う無種子三昧
有種子三昧
有尋三昧 顕在意識 無尋三昧 個人的無意識 有伺三昧 集合無意識 無伺三昧 宇宙意識
無種子三昧 絶対意識
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No.5578 - 2017/02/23(Thu) 21:47:36 |
| ☆ Re: / brahma | | | 有尋三昧:三昧のなかで、語とその示す客体とそれに関する知とを区別する分別知が混じっているものは有尋と呼ばれる。
無尋三昧:三昧が深まると、記憶が消えてしまって、まるで意識自体がなくなってしまったかのようで、客体だけがひとり輝き現ずる。これが無尋と呼ばれる三昧である。
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No.5579 - 2017/02/23(Thu) 22:08:17 |
| ☆ Re: / brahma | | | 前記の二つの三昧に準じて、それよりも微妙な対象に関する有伺三昧と無伺三昧は説明される。
微妙な対象というのは、万物の根源である自性に至るまでの形而上学的な諸原理を総括した表現である。
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No.5580 - 2017/02/23(Thu) 22:11:15 |
| ☆ Re: / brahma | | | 瞑想状態は、集中し観察する対象が粗雑なものからより微細なものへ深化することで、心身相関する有種子三昧(サビージャ・サマーディ)と、心身相関を超えた無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ)に分けられる。有種子三昧は、粗雑な対象を分別している有尋定(サヴィタルカ・サマーパッティ)、微細な対象を分別している有伺定(サヴィチャーラ・サマーパッティ)、記憶の連鎖による分別がなくなり対象だけになっている無尋定(ミルヴィタルカ・サマーパッティ)、無尋定においてより微細な対象だけになっている無伺定(ニルヴィチャーラ・サマーパッティ)の四つに分けられる(『ヨーガ・スートラ』第一章「サマーディ」四一〜五一)。これらは心身相関の瞑想状態で、微細であっても対象をもつ有種子三昧である。そして、この有種子三昧がサンヤマによって深化すると心身相関を超えた対象のない無種子三昧が誘導されるという。
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No.5581 - 2017/02/23(Thu) 22:20:51 |
| ☆ Re: / brahma | | | 集合的無意識
宇宙無意識
神意識
最低の集合無意識だけでも、実体験でわかったらたいしたもん。
まして、宇宙意識以上は、相当ハイレヴェル。
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No.5582 - 2017/02/24(Fri) 00:12:26 |
| ☆ 見る聞くのイメージを文字にすると / 勘太郎 | | | > > > 意識(私)は、私が意識を向けた対象を、私に取り入れて私を対象の姿声考えに染める作業をおこなう > > 私は、相手を受け入れることしかできない。私が行為・働きかけをすることは無い(できない) > > 働きかけたり、感化しようとするのは自我なのではないですか? > > 自我同士のやりとりをただ見ているのが私なのではないですか? > > > > 本からよんだ知識ではそのように書いてあるように思えます。 > > ここでは、見るということ、聞くということ、それが、絶対意識には可能でしょうか?可能なら、どのようにして可能ですか?という質問です。
おいらの、気づき(意識と同じ意味なのかどうか?解りませんけれども)から、言うと。
まず、おいらの気づきに注目します。気づきの状態に意識を持ってゆきます。そうすると、気づきもおいらと分離不能になって、ボイラーの燃える音を聞いています。音を聞こうと音に注目すると気づきが消えてしまうのかもしれません?・・いややっぱり、おいらと気づきの境目が無くなって音を聞いてます。
イメージとしてはこのようになります。
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No.5587 - 2017/02/24(Fri) 20:29:50 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | うまく説明になるか解りませんが・・・こう、である自分を、こう、と認識する・・・瞑想も、宗教も、いかなる技法も自分には無縁でしたが・・・それだけで、探求が探求を導いた。
ここでは、そんな地図を持たない探求者に起こったことを話しています。意識と無意識が繫がり、ふだんは暗くて見えないとも気がついてない自分の奥が明るく・・・自我の仕組みが開示され、
どこか隠れる影を探す自我がその明るさに溶けてしまい、気がつくと、この世界が明るく・・・世界の総活動・・・罪(カルマ)が燃焼・・・歓喜状態・・・これまでは濃霧の中で
生きていたことを了解・・・人として完成され・・・はじめて経験したのに愛としか呼べない愛、その源の神から承認される。大雑把にいうとこんな感じですが、
これは、ほとんど一瞬に一気に起こります。その神と人との関係の話です。これを体験したということが問題になってしまったりしますが・・・その体験を読み解いて理解して失う・・・ここ、
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No.5590 - 2017/02/25(Sat) 08:12:48 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | それが普通の、この日常です。まったく努力することなく、ただ自分は。こう、であることを、こう、と認めるだけで・・・経緯の交点、この日常こそ天の国、総ての光を重ねると透明、人には意識がない、
まったく何も知らない・・・さまざまな理解、風景を経緯します。とくに個別のことはないので、気づきとか、そうでないとか、自我とか無我とか真我とか、ひとつとか、分離とか、希望とか欲望とか、迷悟とか、
まったく問題にならないのです。ここで注意からは外れようがない、それはそうで歩く笑う歌う働くこの日常からは外れようがない・・・これは原則なにかの体験の有無には関らないと思います。
たとえば勘太郎さんは勘太郎さんの、こう、であることを、こう・・・たとえば気づき・・・その認識。これが簡単な自然の道・・・と思います。
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No.5591 - 2017/02/25(Sat) 08:19:42 |
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