〉寝太郎ブログ、見つけました。その《つまり、一人称で書くぞ、自分のことを書くぞ、文句あるか、と宣言しているわけである。》その、自分です。その自分の裏打ちです。それを見るのです。〈
裏打ちを見る、とはなんだ。
私とは。 書くぞ!文句あるか、という宣言を聞いている者の様におもってしまうのです。 どうもこれでは、ずれてしまうらしい。
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No.5531 - 2017/02/17(Fri) 08:51:56
| ☆ Re: 公案に参じております / brahma | | | 自我の一人称と、真我や絶対意識の一人称は、月とすっぽんである。
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No.5532 - 2017/02/17(Fri) 14:22:40 |
| ☆ Re: 公案に参じております / ubik0101 | | | その、宣言を聞いてる私、でもいいです。その、宣言を聞いてる私、というのをイメージしてる、空想してる、対象にしてる、その私、でも同じです。
その私は、たとえばスクリーンです。スクリーンには、スクリーンは、映りません。そのスクリーンは無色でなければ、スクリーン、ではないです。と、考えてるその私は、対象になりません。
あるとして、その思考が見えてるだけです。その思考の主体はその思考です。それを見てる自分は自分に映りません・・・実はスクリーンはない・・・知的理解ではなく、ただそれだけのことです。
その対象にならない私。それは、ない、でも、ある、でも。あるでもないでもない、どー言っても誤り、と言っても、富士山の稜線、草の波、と言ってもいいですけど。たとえばこの映像、
その見えない風・・・が草の波である・・・その動画を見てるとしてもその見てる自分は見えない・・・とか。その自分を探してるそのことがその自分・・・とか。音を聞くのが沈黙・・・とか。
また、甘い辛いを見る舌は無味・・・とか。人には意識がない・・・とか。自我無我真我、迷悟その区別を失った・・・とか。これを読んでるその、それ。それは世界の裏打ちです。
ない、から知覚できないのか、知覚できないことを。ない。と言ってるのか?とか。いろいろ疑問はあるでしょうけど。まずは、ふつうの見える聞こえる思考する、それは何がしてる?ということです。
その探るツールは、日常の感情、思考、行動、それがそうなのです。それを、いわゆる奥に向かって、内に向かって、探るだけです。
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No.5533 - 2017/02/17(Fri) 18:50:12 |
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