臨済録(入矢義高訳、岩波文庫)より拾い読みとして松崎が提示している部分です。僕と友の対話形式で書いています。
〉僕―「このごろの修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにあるのか。病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象について回り、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま仏祖と同じである。君たち、その仏祖に逢いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聞いている君こそがそれだ。君たちはをこれを信じきれないために、外に向かって求める」と言っています。 また「君たちは生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たち五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。ではいったい何が説法聴法できるのか。今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ」と言っています。
友―まさにそのとおりにはちがいないですね。「肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの」というのは、いいかえますと空的主体といっていいですね。
僕―いいでしょう。〈
臨済録の拾い読みの最後の部分は「臨済録の中にも具体的なこれといった方法はないのですね」という僕の言葉で終わっています。
おいらの読書中途感想を書きました。読書感想しか書け無いのが残念です。
松崎義雄はサルトルとハイデッカーについて「空」を判らなかった人だと言っています。判っていない哲学者と悟った禅者の違いは、自分という対象を見て分析する人と、分析する理解することを諦めた人なのかなあと想像しました。
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No.5450 - 2017/02/09(Thu) 22:12:12
| ☆ Re: 松崎義雄の続きです。 / ubik0101 | | | ちょい関係ない話ですが・・・思考が問題だ・・・という意見があります。でも思考は知覚です。たとえば、赤い色が問題だ、青空が問題だ、歯ブラシが問題だ。この見てる眼が問題だ。と、言ってるようなことです。
これは変でしょう。どこから見ても思考に問題があるとしたら、その人そのことに、問題があるってことです。それを思考は正確に示してるだけです。それに思考は問題だ、というのは思考です。
あるいは思考は知覚で、中心ではなく外のことだ、ということかもしれません。1人あって、素直で、隠し事せず、真摯であれば、思考が問題、ということは起こりようがないです。
けど、世界の様子を追い回し、誰かが言ったことを追い回すなら、たしかに、思考が問題。それは自分で自分の邪魔をしてる。でなくて、この自分が自分を探る、これ以上に簡単な道はないのですが・・・迷子になるのが楽しいのかもしれません。
けど、ほんとに実際に迷子になって、ほんとに右も左も知らない・・・《見知らぬ惑星に、ただ1人》・・・それは、いままさにすでにそうですが・・・生は、探求は、寛ぎは、幸せは、自己は・・・これだけです。
仏陀に会ったら、仏陀をCENSORED。臨済に会ったら臨済をCENSORED。松崎義雄に会ったら、松崎義雄をCENSORED。そして必ず、自分に会ったら自分をCENSORED。《仏教を捨てる、禅を捨てる》と言っても・・・誰も始めから持ってないです。
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No.5452 - 2017/02/10(Fri) 09:28:49 |
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