[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

追伸、禅の体験 / 勘太郎
 体験しない限りは、そうぞうでしかありませんけれども。

 「世界がひっくり返るほど」なんでしょう。
これを後悔したという、言葉を見聞きしたことはありません。

 体験せずに、「必要ないとか、大きな意味はない」とかを見聞きするとその方の言葉は力を失う様においらは感じます。

No.5451 - 2017/02/09(Thu) 22:20:06
梅の花はまだですが、春は此処にもきています。 / 勘太郎
 アスファルト道路に射す陽の光に、春を感じます。
夕方5時でも明るくなりました。雪まつりが終わると、春になります。
 当地では梅と桜が同時に咲きます(品種の組み合わせにもよるでしょうけれども)
 
 雪まつりで外国人がいっぱい来ています。確かに、今までになく、どこに行っても外国人がいます。JRを利用して札幌から函館に商用で乗る人が「この頃はJRの中はがいじんばっかりだよ」って言ってました。
 おいらも「ソーリー〜」と道を聞かれたので、中学生英語の単語の羅列で道案内をしました。

 無事禅を軽蔑するような気分でづっと来たのです(本物の禅を理解も判りもしていないのに)。本物の人の云う事を信じて、無事禅の真似するのも方法の一つだなのか?とも思います。(無事禅がどんなものかも解りませけれども)

 愚さんの板で話題になった「松崎義雄」さんの「禅の現代化」という本を借りてきて読みました。
この中で一つ面白いのが、覚醒は瞬時と云うよりも、時間をかけて脳を変性させてゆくものだ、という見方です。碧巌録などを引き合いにして説いています。

No.5447 - 2017/02/08(Wed) 22:10:46

Re: 梅の花はまだですが、春は此処にもきています。 / ubik0101
たしかに体験としては、ほとんど瞬間です。そこで、転換します。それで、たとえば1/100だけ変化するということは、不可能であろう。世界がひっくり返るほどのことなので、

一気に完全に起こらなければならない急激な成長と、思っていました。実感としてはそうです。それと、人は始めから、それ、だ。といういう意見もあります。けど、どちらも変です。

たとえば青虫が蝶になるのだとして、問題は、その中心です。羽が生え飛べるようになり蜜を吸う。というのは、見えること、思考など知覚の対象になり得ること、外のことです。たとえば脳が変わるというのも、そのよなことに思えます。また、

たとえば誰かが絵を描いてて、あるとき急にだろうと、長い時間がかかって、凄い絵を描けるようになったとしても、問題は、その絵じゃないです。絵の具の使い方が上手になったとか、線に迷いがなくなったとか、

No.5448 - 2017/02/09(Thu) 08:16:28

Re: 梅の花はまだですが、春は此処にもきています。 / ubik0101
そいうのは、見えることです。中心のことではないです。そして、しかし、その中心は、変わるとか変わらないとか、たとえば分離も、ひとつ、もなく、自我とか無我とか、優劣とか、そんなことで計れません。あるとき瞬間に変わる、

なにも変わらない、時間がかかる。脳の変化・・・そんなのは、見える聞こえる思考し得る・・・知覚でき得る・・・外のことです。どれかに特定しようとしても、どれも間尺があいません。体験は瞬間でもその理解には時間がかかる、ということはあります。

また、人の喜怒哀楽は、喜怒哀楽で、変わると変です。畑を耕すは、耕すで、変わると変です。ただその現われ方は変わるかもしれません。なんか世界が変わって欲しい、という願いがあるのでしょうか。また、

その中心は、たとえば、苦痛の有無で計れるようなことではないです。この外と中心という言い方も変ですが・・・なにか見えることで特定する意見は、なにか見えることで特定したい人の意見と睨んでいます。

No.5449 - 2017/02/09(Thu) 08:22:05
みどりの庭から / hato

梅が咲いたよ

ひとつ、ふたつ、みっつ

淡い地に、うすい朱が

ほんのり、やわらかい


立春を過ぎて、一番冷え込むこの時期に、小さな白い、梅の花が咲きますね。

No.5444 - 2017/02/07(Tue) 22:03:08

Re: みどりの庭から / hato

寒い日。正月から満開だった水仙が、ちらほら残るくらいになる頃

庭の数本の梅の木に、小さな白い花が咲きはじめると、朝な夕な、メジロや小鳥たちが、チチチと囀りながら、花の蜜をついばみます。

No.5445 - 2017/02/07(Tue) 22:15:37

Re: みどりの庭から / hato

古家の脇の、かつて小さな池が配されていたあたりの古い梅の木にも、雪の結晶のような、小さな真っ白い花が咲きます。

毎冬、この時期に見て思い出す、この景色です。

No.5446 - 2017/02/07(Tue) 22:25:11
たしかに、緑の輪郭線が見えてきます。 / 勘太郎
 欲望と苦痛は飴と鞭、つまり赤と緑。赤を見れば緑が目に映る。
全体の中の、ある特定なものと関係したいと感じるのが欲望であり。
尚且つ、自分は全体と切り離し不可能な境目なしの構成部分。

 明暗、明るい所に憧れていると、暗い部分(緑)が輝きだして、おいらを幻惑する。おいらは、世界は暗いと感じてしまう。

 赤と緑の書き込みの最後の2文が強くおいらを揺さぶります。
おいいらの感想を表せない。ではどうする?と疑問が産まれない。そのままを書きます。


たとえば悲しさ、惨めさ、苦悩、思考などをさけようとしてきた、避けてきたことを避けない。露わにする。受け入れる。・・それだけで、うまくいけば機能する。ここは単純、無極だ。

 そうでなくても、特別な事でなくても、折に触れ、まあ滑ったり転んだりの縁起だけれども、それはニュートラルで明るい、透明な日常、これが世界の機能だ。

No.5443 - 2017/02/01(Wed) 08:58:14
赤と緑。 / ubik0101
つまり、苦痛から逃げるということが苦痛、あるいは逃げることで苦痛が持続されるのは、そこに、良い人と見られたい、穏やかでありたい、優れてありたいとかの背景があって、あることです。

その全体ではないそこに、希望とか絶望とか諦めとか願いとか呼ばれることが生起する。それは、偏っていたい、閉じこもっていたい、ということです。光を求めながら自分を影に閉じ込めてるのです。赤が緑を求めてるのです。

No.5439 - 2017/01/31(Tue) 08:07:55

Re: 赤と緑。 / ubik0101
これは、雛人形の背景の赤い布です。じっと焦点を合わせないで凝視します。すると透明に輝く緑が赤の縁に現われるでしょう。
No.5440 - 2017/01/31(Tue) 08:08:28

Re: 赤と緑。 / ubik0101
たぶん赤を見るために、見えない緑を必要にしているのかもしれません。(そしてこの緑の背景は、とくにないでしょう)。これは思考でも同じで、ひとつ、を見るためには、背後には、分離、を要するかもしれません。

つまり、赤を見ていながら、緑、なのです。希望しながら絶望なのです。これは生き物としての機能かもしれませんが、それは他の誰でもなくその人がそうしてるのですが、この対になってることに捕われやすいのです。善と悪。優に劣。既知と未知、自我と無我、迷悟、公平と不公平、

そこで、苦痛とか、愚かさとか、失敗とか、悲しみとか、思考とか、避けるべきこととして実際に、避けて来たことを、自分にも人にも隠してきたことを、隠そうとしてきたことを、

No.5441 - 2017/01/31(Tue) 08:10:17

Re: 赤と緑。 / ubik0101
・・・そんな偏りから、良い人で、優れた人でありたい、葛藤を克服した人でありたいという力を引き出して来たけど・・・この透明な世界から外れ得ない世界から外れて来たけど・・・

たとえば悲しさ、惨めさ、苦悩、思考、など避けようとして来たことを、避けて来たことを避けない。露にする、受入れる・・・それだけで、うまくいけば、全体、は機能します。ここは単極、無極です。

そでなくても、特別なことでなくても、折りに触れ、まあ滑ったり転んだりの縁起ということですが、それはニュートラルで、明るい、透明な日常、これが世界の機能です。

No.5442 - 2017/01/31(Tue) 08:17:55
全1069件 [ ページ : << 1 ... 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 ... 214 >> ]