アスファルト道路に射す陽の光に、春を感じます。 夕方5時でも明るくなりました。雪まつりが終わると、春になります。 当地では梅と桜が同時に咲きます(品種の組み合わせにもよるでしょうけれども) 雪まつりで外国人がいっぱい来ています。確かに、今までになく、どこに行っても外国人がいます。JRを利用して札幌から函館に商用で乗る人が「この頃はJRの中はがいじんばっかりだよ」って言ってました。 おいらも「ソーリー〜」と道を聞かれたので、中学生英語の単語の羅列で道案内をしました。
無事禅を軽蔑するような気分でづっと来たのです(本物の禅を理解も判りもしていないのに)。本物の人の云う事を信じて、無事禅の真似するのも方法の一つだなのか?とも思います。(無事禅がどんなものかも解りませけれども)
愚さんの板で話題になった「松崎義雄」さんの「禅の現代化」という本を借りてきて読みました。 この中で一つ面白いのが、覚醒は瞬時と云うよりも、時間をかけて脳を変性させてゆくものだ、という見方です。碧巌録などを引き合いにして説いています。
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No.5447 - 2017/02/08(Wed) 22:10:46
| ☆ Re: 梅の花はまだですが、春は此処にもきています。 / ubik0101 | | | たしかに体験としては、ほとんど瞬間です。そこで、転換します。それで、たとえば1/100だけ変化するということは、不可能であろう。世界がひっくり返るほどのことなので、
一気に完全に起こらなければならない急激な成長と、思っていました。実感としてはそうです。それと、人は始めから、それ、だ。といういう意見もあります。けど、どちらも変です。
たとえば青虫が蝶になるのだとして、問題は、その中心です。羽が生え飛べるようになり蜜を吸う。というのは、見えること、思考など知覚の対象になり得ること、外のことです。たとえば脳が変わるというのも、そのよなことに思えます。また、
たとえば誰かが絵を描いてて、あるとき急にだろうと、長い時間がかかって、凄い絵を描けるようになったとしても、問題は、その絵じゃないです。絵の具の使い方が上手になったとか、線に迷いがなくなったとか、
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No.5448 - 2017/02/09(Thu) 08:16:28 |
| ☆ Re: 梅の花はまだですが、春は此処にもきています。 / ubik0101 | | | そいうのは、見えることです。中心のことではないです。そして、しかし、その中心は、変わるとか変わらないとか、たとえば分離も、ひとつ、もなく、自我とか無我とか、優劣とか、そんなことで計れません。あるとき瞬間に変わる、
なにも変わらない、時間がかかる。脳の変化・・・そんなのは、見える聞こえる思考し得る・・・知覚でき得る・・・外のことです。どれかに特定しようとしても、どれも間尺があいません。体験は瞬間でもその理解には時間がかかる、ということはあります。
また、人の喜怒哀楽は、喜怒哀楽で、変わると変です。畑を耕すは、耕すで、変わると変です。ただその現われ方は変わるかもしれません。なんか世界が変わって欲しい、という願いがあるのでしょうか。また、
その中心は、たとえば、苦痛の有無で計れるようなことではないです。この外と中心という言い方も変ですが・・・なにか見えることで特定する意見は、なにか見えることで特定したい人の意見と睨んでいます。
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No.5449 - 2017/02/09(Thu) 08:22:05 |
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