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(No Subject) / brahma
自分のための幸福を求めるのにつかれた人は隣人への義務を果たすことに幸福を覚える。
No.5454 - 2017/02/11(Sat) 20:14:48
(No Subject) / brahma
新しい芽氏のホームページが消えたみたいだ。誰かバックアップしてないだろうか。
No.5453 - 2017/02/11(Sat) 20:13:55
松崎義雄の続きです。 / 勘太郎
 臨済録(入矢義高訳、岩波文庫)より拾い読みとして松崎が提示している部分です。僕と友の対話形式で書いています。

〉僕―「このごろの修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにあるのか。病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象について回り、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま仏祖と同じである。君たち、その仏祖に逢いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聞いている君こそがそれだ。君たちはをこれを信じきれないために、外に向かって求める」と言っています。
 また「君たちは生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たち五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。ではいったい何が説法聴法できるのか。今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ」と言っています。

 友―まさにそのとおりにはちがいないですね。「肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの」というのは、いいかえますと空的主体といっていいですね。

 僕―いいでしょう。〈

 臨済録の拾い読みの最後の部分は「臨済録の中にも具体的なこれといった方法はないのですね」という僕の言葉で終わっています。

 おいらの読書中途感想を書きました。読書感想しか書け無いのが残念です。

松崎義雄はサルトルとハイデッカーについて「空」を判らなかった人だと言っています。判っていない哲学者と悟った禅者の違いは、自分という対象を見て分析する人と、分析する理解することを諦めた人なのかなあと想像しました。




 

No.5450 - 2017/02/09(Thu) 22:12:12

Re: 松崎義雄の続きです。 / ubik0101
ちょい関係ない話ですが・・・思考が問題だ・・・という意見があります。でも思考は知覚です。たとえば、赤い色が問題だ、青空が問題だ、歯ブラシが問題だ。この見てる眼が問題だ。と、言ってるようなことです。

これは変でしょう。どこから見ても思考に問題があるとしたら、その人そのことに、問題があるってことです。それを思考は正確に示してるだけです。それに思考は問題だ、というのは思考です。

あるいは思考は知覚で、中心ではなく外のことだ、ということかもしれません。1人あって、素直で、隠し事せず、真摯であれば、思考が問題、ということは起こりようがないです。

けど、世界の様子を追い回し、誰かが言ったことを追い回すなら、たしかに、思考が問題。それは自分で自分の邪魔をしてる。でなくて、この自分が自分を探る、これ以上に簡単な道はないのですが・・・迷子になるのが楽しいのかもしれません。

けど、ほんとに実際に迷子になって、ほんとに右も左も知らない・・・《見知らぬ惑星に、ただ1人》・・・それは、いままさにすでにそうですが・・・生は、探求は、寛ぎは、幸せは、自己は・・・これだけです。

仏陀に会ったら、仏陀をCENSORED。臨済に会ったら臨済をCENSORED。松崎義雄に会ったら、松崎義雄をCENSORED。そして必ず、自分に会ったら自分をCENSORED。《仏教を捨てる、禅を捨てる》と言っても・・・誰も始めから持ってないです。

No.5452 - 2017/02/10(Fri) 09:28:49
追伸、禅の体験 / 勘太郎
 体験しない限りは、そうぞうでしかありませんけれども。

 「世界がひっくり返るほど」なんでしょう。
これを後悔したという、言葉を見聞きしたことはありません。

 体験せずに、「必要ないとか、大きな意味はない」とかを見聞きするとその方の言葉は力を失う様においらは感じます。

No.5451 - 2017/02/09(Thu) 22:20:06
梅の花はまだですが、春は此処にもきています。 / 勘太郎
 アスファルト道路に射す陽の光に、春を感じます。
夕方5時でも明るくなりました。雪まつりが終わると、春になります。
 当地では梅と桜が同時に咲きます(品種の組み合わせにもよるでしょうけれども)
 
 雪まつりで外国人がいっぱい来ています。確かに、今までになく、どこに行っても外国人がいます。JRを利用して札幌から函館に商用で乗る人が「この頃はJRの中はがいじんばっかりだよ」って言ってました。
 おいらも「ソーリー〜」と道を聞かれたので、中学生英語の単語の羅列で道案内をしました。

 無事禅を軽蔑するような気分でづっと来たのです(本物の禅を理解も判りもしていないのに)。本物の人の云う事を信じて、無事禅の真似するのも方法の一つだなのか?とも思います。(無事禅がどんなものかも解りませけれども)

 愚さんの板で話題になった「松崎義雄」さんの「禅の現代化」という本を借りてきて読みました。
この中で一つ面白いのが、覚醒は瞬時と云うよりも、時間をかけて脳を変性させてゆくものだ、という見方です。碧巌録などを引き合いにして説いています。

No.5447 - 2017/02/08(Wed) 22:10:46

Re: 梅の花はまだですが、春は此処にもきています。 / ubik0101
たしかに体験としては、ほとんど瞬間です。そこで、転換します。それで、たとえば1/100だけ変化するということは、不可能であろう。世界がひっくり返るほどのことなので、

一気に完全に起こらなければならない急激な成長と、思っていました。実感としてはそうです。それと、人は始めから、それ、だ。といういう意見もあります。けど、どちらも変です。

たとえば青虫が蝶になるのだとして、問題は、その中心です。羽が生え飛べるようになり蜜を吸う。というのは、見えること、思考など知覚の対象になり得ること、外のことです。たとえば脳が変わるというのも、そのよなことに思えます。また、

たとえば誰かが絵を描いてて、あるとき急にだろうと、長い時間がかかって、凄い絵を描けるようになったとしても、問題は、その絵じゃないです。絵の具の使い方が上手になったとか、線に迷いがなくなったとか、

No.5448 - 2017/02/09(Thu) 08:16:28

Re: 梅の花はまだですが、春は此処にもきています。 / ubik0101
そいうのは、見えることです。中心のことではないです。そして、しかし、その中心は、変わるとか変わらないとか、たとえば分離も、ひとつ、もなく、自我とか無我とか、優劣とか、そんなことで計れません。あるとき瞬間に変わる、

なにも変わらない、時間がかかる。脳の変化・・・そんなのは、見える聞こえる思考し得る・・・知覚でき得る・・・外のことです。どれかに特定しようとしても、どれも間尺があいません。体験は瞬間でもその理解には時間がかかる、ということはあります。

また、人の喜怒哀楽は、喜怒哀楽で、変わると変です。畑を耕すは、耕すで、変わると変です。ただその現われ方は変わるかもしれません。なんか世界が変わって欲しい、という願いがあるのでしょうか。また、

その中心は、たとえば、苦痛の有無で計れるようなことではないです。この外と中心という言い方も変ですが・・・なにか見えることで特定する意見は、なにか見えることで特定したい人の意見と睨んでいます。

No.5449 - 2017/02/09(Thu) 08:22:05
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