石炭手当も頂けましたしね。昔の職場で家族持ちは月2万円だったでしょうかね?半年間付いて12万円(大金でした)いまの職場は年俸契約だったので石炭手当はありませんでした。只今雇用延長中のアルバイターです。
何回雪の冬を過ごしても、雪をきれいだなあと思います。2月の中旬には、春の気配。
苦しみが喜びの踏み台である様に、寒さは快適の座布団です。(背伸びした表現です・・・が)
〉たとえば卵は青虫になると失われます。 青虫はサナギになると失われます。 サナギは蝶になると失われます。 そして完全に機能するのです。<
これが、住職様のおっしゃる「あなた」を捨てる理由だとおいらは思います。 おいらが、青虫を捨てて、蝶々になるということができない理由は、青虫を捨てないと蝶々になれないことを確信できないことにある様に思います。
栄宗寺住職さまのお話 「今ここに留まるにおいて「あなた」にできることは何もありません。 なぜなら 「あなた」が今ここに留まることを始めたからではないからです。 逆です。 今ここの中に「あなた」は現象として生じたのです。
今ここが先です。 「あなた」が後です。 「あなた」より先に存在するものを、「あなた」がどうこうすることはできません。
なによりも 「あなた」は今までも、これからも、今ここから離れたことはありません。 「私は今ここから離れている」 「私は今ここに留まらねばなない」 そんな思いも「今ここ」において現象しています。 今ここを離れて、何も現象することはできません。
「あなた」が何かをするよりも以前に、 「あなた」は今ここにあり続けています。 今ここに対して「あなた」の出番はありません。 今ここに働きかける上で「あなた」の居場所はありません。
「あなた」が今ここに対してできる唯一の事は、 今ここに働きかけようとする「あなた」の解消です。
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☆ 平成29年 1月の坐禅会 ☆
「日曜早朝坐禅会」
1月22日、29日の朝 6:45〜7:30
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No.5418 - 2017/01/18(Wed) 20:44:44
| ☆ Re: 寒さも雪も、住めば都です / ubik0101 | | | もしかして・・・とネットで検索してみたら・・・失うことが得ることだ、と言いたかったのかもしれませんが・・・このHPの文章でした。まったく忘れてました。そんなものです。誰かの言うことは、楽しめばいいです。この自分が、こう、であることを、こう、と認める。探求は、それだけです。
なにか確信がないなら、その確信がない、その自分・・・なんか秘密があるとして、いつも言いますが、自分が行動したことは自分でわかる。話したことは自分で聞こえる。自分で思考したことは自分でわかる。このこと事態が不思議ですけど、これだけです。
とくに勘太郎さんのことを言ってるのではないですが、たとえば自分の真意は人には解らないと空想して、自分の行動発言思考を、自分にも解らなくする。空想の人と人の間に生きる。人からも自分からも、隠れて生きる。そんなことをしなければいいだけです。
ほかの人から見た自分、自分から見た人、その関係にあると・・・そこに優劣、善悪、非難と正当化、不均等、などが、忍び込み、結局、自分で自分を愚かにして、その自分が自分の邪魔をする。そんな必要はないです。こうであって、こうであることに気がつかないでも、
そこはもう誰も十分に学び、経緯してるのだから、そこから離れて、なにもないところから探求は始まります。というより自分を捨てるその前に、普段、過去も未来も今も、善悪も、優劣も、自分の年齢、性別、職歴・・・なにもない、それだけのことです。
大根おろしを一杯つくって、雪見鍋にしてみました。 柔らかく上品な味と思います。
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No.5419 - 2017/01/18(Wed) 23:25:48 |
| ☆ Re: 寒さも雪も、住めば都です / ubik0101 | | | ところで、自我、って何でしょう?それは強い欲望でしょうか。怒りでしょうか。思考でしょうか。あるいは、そいうことの集積。あるいはそいう苦痛を自我と呼んでるだけでしょうか。あるいは世界と自分、
あるいは自分との分離、それが自我でしょうか。あるいはたとえば希望や絶望のような空想の因果でしょうか。たとえば、あの人は欲が強い、あの人は自我が強い、と言ってる人は自我ではないのでしょうか?真剣に、厳密に、自我を、定義、してみましょう。
・・・・・・・・・・・・ここでPCを消して、探りましょう。
そうです。自我、は定義不可能です。なぜって、自我の正体は、ない、のです。ありもしないことをなんだかのことを理由にして説明しようとしても、不可能なのです。つまり、こいうことです。
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No.5420 - 2017/01/20(Fri) 07:24:32 |
| ☆ Re: 寒さも雪も、住めば都です / ubik0101 | | | つまり・・・自我は、たとえば強い欲望ではなく、その強い欲望の、その裏に隠れるもの、怒りの裏に隠れるもの、思考の裏に隠れるもの、空想の因果の・・・人と人の関係の・・・判断の・・・なんだかを理由にしてその裏に隠れる。そでなければ、その、ない、はあり得ることができなのです。簡単なのです。
なので、というわけではないですが・・・隠し事しなければいいのです。ありとあらゆることが露であること。見えたまま、見るまま。聞こえたまま、聞くまま。自分の行動は、発言は、思考は、自分で分かる。自我は成立しないのです。理由なく生きる。嘘を言わないこと。
また嘘を言った自分を自分に隠さないこと。自分を守らないこと。なんだかの苦痛の恐れがあっても、それから逃げないこと。正面から裸で受けること。たとえば世界と自分、誰かと自分、自分と自分、神と自分。真我と自我と無我。その分離がなければ、隠し事が成立しない、ということです。
たとえば顕在意識と、潜在意識、これが違わないなら、自我は隠れる所を探しても見つからず、光に溶けてしまいます。それは何か、気配、のようなものでした。またほかの道では自他の区別がなければ、世界との境界がなければ。ありのまま。自我は、ない、のですから、ない、に溶けるのです。
つまりこの普通の日常・・・ご飯を食べて、歩いて、笑って、寒い・・・畑作業をして・・・思考して・・・なにも隠すことなく隠れることなく・・・ただそれだけのことです。たとえば強い欲望その他などは、ない、自我が隠れる影を探して作ってる。と、説明できます。
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No.5421 - 2017/01/20(Fri) 07:46:57 |
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