それが問題だった頃は、欲望は、なんだかの関係だとは感じましたが、やはりそれを明確に定義できなかったです。でもなぜか知りませんが、それは嫌悪すべきことでした。そのようにして、なにか解らないけど、 お金や性の話は今から40年前は、パーティーの席では口にしないのが約束と聞いたことがあります。欲望は危険だという認識が、いま政府が行おうとしている、公営賭博法に反対する人が多いということなのでしょう。
それを撲滅することへの、なんだかの志向が働いたのでしょう。そうですね。怒りが何か?欲望が何か?解らなくて、実は勝手な意味付けがあるのでしょう。それを思考するなら思考し尽くして思考のフィールドが広がる、
その破綻を見る・・・その自分は自分で知覚不能・・・そこで一般的に知覚できそうなことは・・・たとえば怒りとか、欲望とか、思考とか・・・それに接触しても接着できない・・・ある意味、対象とその主体の分離・・・そこで、それは人を覚醒させる触媒として機能する・・・と思います。
これは意識で自由意志によって、行えることなので、もしこれが覚醒の触媒となることがあるならば。馬に水を飲ませることはできませんが、川に連れて行く行為であるならば。後はお任せすれば良いので、楽しい意識の保ち方です。 結果を期待しない行為が本来である、結果を求めることは不自然であると、ニサルガダッタ。マハラジは言っています。結果を求めなければ、どの行為も楽しいだろうと想像します。
いただいた、本日の書き込みを何度もこれからもづっと読んで行きます。怒りを見つめるだけでなく、その中身の分析もしてみます。分析というよりも頭の先から足の爪の先まで、怒りに突き進んでみる、という表現が良い、しかしながら勇気が要ります。できるでしょうか?挑戦してみます。
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No.5404 - 2017/01/05(Thu) 21:42:48
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