覚醒・空の色は何色・ニサルガダッタマハラジを読むと、私は私と書いてある様に感じられます。おいらの肉体に宿る者が私なのか?は不明ながら。空を眺め・ストーブのモーターの音を聞いている者(者はおいらで私ではない、音が在ると言う方が本当らしい)は私なんだろうか?と思っています。ここはわからないので今後も考えます。
「悲しみ」についてに質問 思考の世界においては、私はにはすべての可能性があります。宝くじで10億円当たるから総理大臣・美空ひばり・ミックジャガー。現実にはそれらからの一つを生きる事しかできません。この無限マイナス1が悲しみの原因なんでしょうか?
進歩なのか?堂々巡りなのか?円を描きながらトンビの様に上昇しているのか?覚者の書いた文字を読むと毎回新たなところに気が付きます(見過ごしていた文字が意味を放ち始めます)ここでは時間は有効に働きます。
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No.5387 - 2016/12/18(Sun) 09:11:06
| ☆ Re: ここ数日、私は、今私なんだろうかなあ?と調べています。 / ubik0101 | | | > 「悲しみ」についてに質問 > 思考の世界においては、私はにはすべての可能性があります。宝くじで10億円当たるから総理大臣・美空ひばり・ミックジャガー。現実にはそれらからの一つを生きる事しかできません。この無限マイナス1が悲しみの原因なんでしょうか?
そうかもしれません。美空ひばりも、総理大臣も、 そのように悲しみを抱えてるかもしれません。
また、勘太郎さんが、無限マイナス1の事態や思考を、悲しみ、で変調して知覚してるのかもしれません。広い駐車場も番号がついてると、車の位置を忘れないように。お経も節をつけると記憶しやすいように。
なにかと、なにかをくっつけることで・・・記憶術のように・・・勘太郎さんが、勘太郎さんの状態を、認識しやすいように・・・その認識の拠り所・・・に、してるのかもしれません。無限マイナス1は特別感にもなり得ます。
たとえば人間関係でも、誰かから蔑ろにされた、誉められた、無視された・・・悔しい、嬉しい、悲しい、恥ずかしい・・・固定されてなく・・・いろいろ変調して認識されますが、大事は、どう認識するか?しないか?ではないです。その自己です。
ちょうど、欲とは何だろう?と、探ってたところです。
それは何かに、くっついて自分以外のことに、拠り所を持とうとすることのようです。でも、それは不可能にできています。ありとあらゆるもの、こと、ひと、知覚、感情、思考に拠り所を持とうとしても、それを知ろうとしても、できないのです。
ただ自分が自分の根拠である・・・つまり実感としては、まったく自分以外のことにも、自分にも根拠がないこと・・・どこかで見た言葉ですが・・・《自分が自分に落ち着く》・・・その落ち着きどころの自己は知覚不能・・・どこにも落ち着かず、です。
これは、無欲、無我とは呼ばないけど事態として、そう、です。
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No.5388 - 2016/12/19(Mon) 08:48:38 |
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