[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

★ 雀がたくさん来ています / 勘太郎
 異なった群れが巡回して食べにくるのか?同じ雀たちが食べては別の場所で遊んで又食べにくるのか?餌台に雀がいる時間は短いです。ちいちい騒がしいので来たことが解かります。

 勉強はやれば進度を自覚します。覚醒は進度が見えません。進度というものがないのかもしれません。そうとは思いつつも、此処と今はどこに行っても、いつでも、「此処と今」だなあ〜と確信ができると、理解も悪くないもんだと思います。「ここと今」だもの、何しても、宝くじが当たっても、「今と変わらないよなあ〜」と思います。覚醒後の「今と此処」とは違うんでしょうけれども。

この掲示板に書き込む下書きを書いている時に、理解が進むってことが多々あります。それで書く必要が無くなって、消して寝る。

 これから雪捨てをします。庭が狭いので少し離れた公園に運びます。平日帰宅後「ジョンバ」(軽いプラスチックスコップ)で庭の片側に雪を除ける場所つくり。
除雪(雪投げ)も楽しい作業です。

No.5377 - 2016/12/11(Sun) 08:50:32

☆ Re: 雀がたくさん来ています / ubik0101
あの掲示版に、思考の主体は何?という問題提起がありました。それによると、思考の主体は、ない、あるいは、世界、だということです。うーん、とくに異議を唱えるつもりはありません。

けど、思考の主体は、その思考。だと感じます。ここで、その思考の主体は、その思考の主体です、と、その思考が思考してるのです。

と、このように見るとします。すると、思考の主体は何?と言う疑問はすでに。思考ということと主体ということを自分の眼の前に並べて見てるように見えます。

また、なにか思考して、その主体を探すということは、すでに思考とその主体を探すこととの時間差があるかもしれません。と、感じられてしまいます。

これは、もちろん、ほかの人の意見を見ると、そのように感じられてしまう、ということでもあります。そすると、問題が余計に複雑になります。

No.5379 - 2016/12/11(Sun) 14:14:49

☆ Re: 雀がたくさん来ています / ubik0101
で、その時間差なしに普通の自分がする思考。それは・・・なんでもいいですが、どこからでもいいですが・・・その思考があるだけ・・・です。

たとえば、思考の主体は、ない、あるいは、世界、です。というのは、その思考が、そう思考した、ということではないでしょうか。その思考の主体は、その思考、です。

では、感情の主体はなんでしょう?その喜びの、その怒りの、その恥ずかしさの、主体は何でしょう?もちろん、その喜びは、その喜び、なのです。

そして、行動は?もちろん、その行動の主体は、その行動です。見えるの主体は、見える、です。沈黙の主体は、沈黙です。ない、の主体は、ない。世界の主体は世界です。

No.5380 - 2016/12/11(Sun) 14:16:39

☆ Re: 雀がたくさん来ています / ubik0101
つまり、それ、だけです。と、思考が思考したとして、その思考がそう思考したがそう思考したがそう思考した・・・

これは無限退行にはならないのです。まず実際には、永遠にそう思考し続けることが出来ません、無限に思考でき得るとしても、それは、その思考しかない、それ、だけ、ということです。

その思考は、その思考。見えるは、見える。行動は、行動。喜びは、喜び。甘いは、甘い。沈黙は、沈黙・・・なんであれ、それ、は、ただ、それ。空想の因果の壊滅。ふつうの日常です。

たくさんのひび割れを木工パテで埋めて、hatoさんと交代しながら、サンダーで磨きました。これは結構、時間がかかりました。一緒に、なかなか、多忙な師走です。

No.5381 - 2016/12/11(Sun) 14:19:34
★ 雀の写真 / 勘太郎
確認しないで送ってしまいました。
No.5378 - 2016/12/11(Sun) 08:52:34
★ (No Subject) / ubik0101

これは、乾燥過程で反ってしまった、大きくて重いケヤキの一枚板。サンダーをかけるとクスミが取れて、けっこう綺麗になりました。

これに木工パテで、小さな沢山のひび割れを埋め、脚をつけて、オイル仕上げにして、テーブルにしようという目論見です。

No.5376 - 2016/12/11(Sun) 08:41:40
★  自己であると感じたらじぶんではないと思います。 / 勘太郎
〉その背後の自己って、自我の根源なのです。自己と認識できるということは実は、そうじゃないんだ。これに気がついても、そんな自己を諦めるには、思い切りを要したような気がします。大丈夫。そんなものなくても生きて行けます。〈

 おいらが自己であることは、明々白々であります。自我って、普通の人には見破れない「演技者」です。いくら探しても本物が動いているとしか思えない。私を演じるニセモノの私。鏡に映る「私」と表現されるのもおいらに他ならないのだけれども、私の全部ではない。

・・・・そうではなくて、
 おいらが、もっとあると思ってる程、私は大きくは無くて、このみじめな自我が私の全てなんでしょう。


咆哮さんは、ubik0101さんを詩人と表現されました。おいらの印象は「取り付く島がない」です。取り付く島があったら、だれでもとりつけるのであって、「取り付く島がない」から、挨拶しかできないのです。

No.5366 - 2016/11/30(Wed) 20:49:30

☆ Re:  自己であると感じたらじぶんではないと思います。 / hato

パパは、ちょい変わってるけど、美味しくて安価な酸化防止剤無添加赤ワインと、チョコレートが取りつく島です。

我が家の100円サンタさんたち。なんでも100円ショップてすごいのね。とてもキュートです。ここ数年、毎年少しずつ買い足して。

お店が、開けるかも知れません。。

No.5367 - 2016/11/30(Wed) 23:01:14

☆ Re:  自己であると感じたらじぶんではないと思います。 / ubik0101
ほかの誰かのことを、理解するとか、しないとか・・・それに意味がないとは言えませんが・・・自分の大事から眼を逸らすことになっては困るし・・・ただ、この、この自分の探求が基本でしょう。

hatoさんが、砂利に生えたトネリコを見つけました。土をまいて、猫が掘り返さないように、植木鉢スタンドで囲ってみました。

No.5368 - 2016/12/01(Thu) 09:20:50

☆ Re:  自己であると感じたらじぶんではないと思います。 / 咆哮
今晩は勘太郎さん始めまして。ubik0101さんの生き方が詩人と言ったのは生ゴミと一緒に種を蒔く所に慈悲を感じたからです。腐敗と言う言葉が輝きます。
サンタクロース 救恤と希望の使者?何か犠牲を払ってるはずサンタ熱い奴だ。

No.5371 - 2016/12/03(Sat) 21:20:01

☆ Re:  自己であると感じたらじぶんではないと思います。 / ubik0101
たとえば、糸の切れた凧。たとえば、地図を持たない探検者。たとえば、ぽっと世界は虚空に浮かんでる。この日常。これは、なぜ、こうなのか?

この、自分の根拠が、どんな、もの、ことにも根拠がないそのことは、実は、自分が自分に根拠。と、いうことのようです。

この自分は自分で自覚できません。なので、自分が自分に根拠があるということは、知覚として、認識として、自分の根拠が、自分にも、ない、ということ・・・とても微妙な機微があります。

つまり、自分が自分に根拠が、ある、と、根拠が、ない、が日常にあって、同じです。とんでもないです。たとえば、世界に生きながら世界に依存しない。なにも知らない。透明な自分、

この自分の背後の、自己、が消えて、残るのは自我ではなく。迷悟が、真理が、基底が、実在が、自分が、消えて・・・それが自分が自分である・・・その、そのことです。

おそらく、どこか日常が心細かったり、ここに急にシフトすると恐怖する人も稀にはいるらしいのです。自分、なにものにも拠り所がない、自分。と、そう自覚さえできないで、完璧。

No.5373 - 2016/12/05(Mon) 11:43:01

☆ Re:  自己であると感じたらじぶんではないと思います。 / 咆哮
荒野突入して恐怖です
すべてあって美しいのです。

No.5374 - 2016/12/06(Tue) 18:48:04

☆ Re:  自己であると感じたらじぶんではないと思います。 / ubik0101
どの扉を開けたか?ってことかもしれません。あんまり見かけませんが・・・ネットで、そいうタイプの人と、ちょっとだけ話したことはあります。

どうも何か神秘体験AでもBでも、正確に表現できる人は少ないので、役には立たないかもしれませんが・・・やはり体験は自分で読み解くことを、お勧めします。

http://www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site1/index.htm

No.5375 - 2016/12/06(Tue) 20:58:03
★ 詩人と云う呼び方について / 勘太郎
 宮沢賢治は詩人と呼ばれます。彼の詩をよんで理解できる方が何割いるのでしょう。おいらはなにも解らず、むしろ不安と悲しみを搔き立てられます。
 一般的には、解らない文章を詩と呼ぶ場合もあるかもしれません。

 覚者は想像するに(ババジのユーチューブそのままですが)。
師と弟子が旅の途中、川の傍で一休みした。師が弟子に「喉が渇いたので、水を汲んできてくれ」と言った。
弟子は容器を川に浸した、その時に美しい娘が水を汲んでいるのを見た。惚れて紆余曲折を経て結婚し3子をもうけた。資産財産も増えた。結婚後20年が過ぎた。村が洪水に襲われて、弟子の妻子・田畑を失って途方にくれていた。
 その時、師が弟子に容器を水かあげろ」と言った。弟子に師は「夢をみていたのだ」と告げた。

 時間というものは、人により、場合によりでんでんばらばらに動くものなのかもしれません。
 仕事でも畑の作業でも、暗くなるまでに作業を終えたり。無停電装置用充電器故障原因が半日も解らないまま、脂汗をながしてたGSユアサの技術員が16時半に故障原因を突き止め16時55分に修理完了したのは、その場だけ時間が伸びたのだとおもってしまいます。(とっても厳しい所長さんでしたので、全員ピリピリしていた)
 山の畑に着いたら雨があがるのも時間の伸びちじみかもしれないと妄想することがあります。

 ババジの話に戻ると。
時間のない今、風船が膨らむように、時間みたいなものが膨らんで世界を創り出している、そんな感じがします。

 それこそ詩のようなものです。

No.5372 - 2016/12/04(Sun) 08:36:55
全1081件 [ ページ : << 1 ... 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 ... 217 >> ]