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スーパーの野菜売り場の地物野菜コーナー / 勘太郎
 今年は、まるで、家庭菜園からの持ち込み品かな?と思うほど情けない野菜が多いです。
天候が悪かったので、巻きの悪い白菜・子供の腕ほどしかない大根・握りこぶしほどのキャベツ。定番の商品は値段が高く少し貧弱かなと思う程度。例年ならハネ品に落ちてしまう商品が並んでいます。

 今日の買い物のメインは鳥の餌(すずめ)1日100ccくらいエサ台に入れます。米ぬかはタダで手に入ります。残念ながら米ぬかは食べてくれません。それで今年は実取燕麦を播いたのですが、少ししか生えなかったのと収穫時期が判らぬうちにみんな実って落ちてしまいました。雑穀は難しいです。ライ麦は実りました。たぶんネズミが喜んでいると思います。収穫しないで放ってありますから。


 昔の中国の禅寺の説教の時、小鳥がお堂に来てさえずりだした。禅師は説教しないで黙っていた。鳥が飛び去ったら、「これで説教終わり」と禅師も席を立った。無門関???違いますね。どなたかの本に載っていました。

 鳥や犬や猫であったなら、仏性は感じないながら仏性そのものでありましょうから、うらやましくも感じます。

No.5348 - 2016/11/23(Wed) 13:54:28

Re: スーパーの野菜売り場の地物野菜コーナー /     ubik0101&hato

もう、かれこれ8年ほども前。hatoさんと、禅の坊さんと、3人で、喫茶店に行ったことがあります。すると坊さんは、コツ、コツ、コツ、拳でテーブルを打ちます。そして、これがわかればいいんです。と、hatoさんに言います。

家に帰って、hatoさんが、聞きます。あれは何だったの?うん、黙って聞いてるか、テーブルを拳で打てばいいんだ。それとも、そんなもんない、とテーブルを蹴り飛ばしてもいい・・・そうするかも知れないと僕は、身構えてた。

そいう頓知みたいの、答えられない。いや、解ってれば、なに答えてもいいけど。でなければ、何答えてもつまらない。

鳥や犬や猫の仏性はともかく・・・と、いうよりそこに飛びつかない・・・ただ聞いて、見て・・・その、ここ・・・勘太郎さんの。

これは現実どう言動するとか、工夫するとかではなく対境のことではなく・・・とても説明ですけど・・・この見えない自分が過不足ない、ということです。

こちらも大量に蜜柑とか貰ったりすると、2つに切って枝に刺しておきます。ほとんどは、ヒヨドリが、ほかの鳥を追い散らして食べてしまいます。神奈川にいた時は、ベランダに砂糖水とか、バードケーキを置いておくと、メジロ、シジュウガラ、コゲラ(これは食べ物が違いますが)が3種混合で来ました。

ubik0101

禅と聞くと、よく言われる、「いまとここ、」が思い出されます。ところで、現在の自分の仕事は、自分の能力一杯、ギリギリ一杯でしなければなりません。そんななかで、厳しい場面に遭遇したとき・・なにか手に負えなさそうなことが起きたとき・・・誰かやり取りで胸がざわついたり、非難や正当化が騒ぎ始めるとき・・・散漫なとき・・・瞬時にただ 、状態としての 素 にいることに留意すると、それだけで、その状況に、ただいること が起こります。そのことが、いまここに、対峙する力です。この日常、知らずのうちに、鍛錬しています。

ふしぎ、とは不可−思議。表現しようもない、そのことです。

昨日はいい夫婦の日。本日は、勤労感謝の日だって。ゆっくり休んで、ユニクロに、ubik0101さん大、大、気に入りの、ヒートテックシャツを買いに行きました。

もう11月も終盤で、ショッピングモールは、すっかりクリスマスの気配です。

hato

No.5349 - 2016/11/23(Wed) 20:38:18
隔靴掻痒 / 勘太郎
 ニサルガダッタ・マハラジは言います。
「あなたは欲しい欲しいと言う。私がそれを差し出しても受け取らない」と

 将においらです。
>あるいはまた、そんな自分の邪魔をする人は・・・非難と正当化、不公平、正邪、愚鈍・・・奇妙な矛盾した言動をするのが普通です。

 探求への欲望は消える事がない、と聞いています。接心で鉄城御老師が最後の説教で皆にいわれました「悟りは遅ければ遅いほど良いと言われておる」と
 
 実割れで畑に捨てたトマトから芽が出ていました。家に持ち帰って植木鉢に植えて窓際においているのです。どうなるんでしょうか?
 春に播けば、素人育苗でも遅ればせながら育って立派に実ります。
 

No.5345 - 2016/11/22(Tue) 22:46:16

Re: 隔靴掻痒 / ubik0101
> ニサルガダッタ・マハラジは言います。
>「あなたは欲しい欲しいと言う。私がそれを差し出しても受け取らない」と


それはそうです。誰も自分で自分の世話ができるから、ほかの人から受け取る必要がないからです。

> 探求への欲望は消える事がない、と聞いています。接心で鉄城御老師が最後の説教で皆にいわれました「悟りは遅ければ遅いほど良いと言われておる」と

それもそうです。その悟り体験で、それまでの経緯(蓄積)が、とても大事になるからです。

こちらでも、生ゴミと一緒に捨てた、カボチャの種が発芽して、けっこう大きく育って、花も咲いています。

トマトやナスは、温室で育てると大きな木になって、何年も、実がなり続けると、メロン農家の人が言っていました。

ネットで調べたら、黒い大豆は、正月に頂く、黒豆のことだそうです。今晩のオジヤに入れてみました。

No.5346 - 2016/11/22(Tue) 23:28:20

Re: 隔靴掻痒 / hato

寒くなると、おなかにやさしい、熱々おじやが嬉しいですね。

丹波の黒豆が有名ですが、パパの黒豆、柔らかくて美味しい。

みどり色の枝豆が、黒い大豆に、なるだって。

No.5347 - 2016/11/23(Wed) 00:11:18
自答 / 勘太郎
そして普段私たちは

この「貪」「瞋」「痴」の三大煩悩を、架空の「私」に帰属させています。

「貪」「瞋」「痴」の所有者を勝手にでっち上げ

「”私”が三大煩悩を所有している」というふうに思い込んでいます。

「貪」「瞋」「痴」を所有することで「煩悩所有者としての”私”」を実感しようとします。

苦しむことで「苦しむ”私”を実感しよう」としているのです。


 これを読んで、今、おいらは実感しました。

自ら 苦しみをつくりだしています。何もない無色の感情に楽しいうれしいを感じたくて、お金を欲しがります。透明な感情でいたら喜びもありませんが悲しみ・憎しみ・後悔・期待も感じません。親が死んでも子供が死んでも悲しみはありません。心は何も感じないだろうと思います。

覚醒とはどんなかんじなんでしょう。思考で感じることは、「感情は自分で創造しているのだなあ」です。

No.5342 - 2016/11/21(Mon) 22:12:47

Re: 自答 / ubik0101
ここで、楽しい、嬉しい、などの、いわゆるプラスの感情と・・・いわゆるマイナスの感情、悲しい、欲しい、苦しい、を区別、分類しないで、感情が問題なら一律、問題として考えてもいいです。そして、そいうことを感じたとして、自分を感じることになるのでしょうか?

それは、その自分は常に嬉しい、悲しいの裏に隠れてある架空のこととして設定されてるので、自分を感じることにならないでしょう。でも、自分を知った気分だけは味わいたい、代償行為、それが・・・実は絶対に犯人が見つからない推理小説・・・その世界を自分で創造してる気分になるので、あるいは拗ねて楽しいのかもしれません。

そいうことは、自分で悟りの邪魔をしてて、人生を消費する楽しみを・・・肴も食べず酒だけ飲み続ける人が《命を肴に飲むことは最高に美味》と言いましたが・・・その補償行為で誰彼なく愛されることを望んでいましたが・・・そんな自分で自分を卑しめることをしてるのかもしれません。

あるいはまた、そんな自分の邪魔をする人は・・・非難と正当化、不公平、正邪、愚鈍・・・奇妙な矛盾した言動をするのが普通です。こんな変な私を見て!こんな狂った私を誰か助けて!ということかもしれません。どう考えても誰かのことは空想ですが、でも、最も簡単な自分で自分を助ける道があるので、そいう複雑なことは完全に不要。初めから論外です。神は、自らを助ける者を助ける、です。

この探求の基本は、空想の奴隷にならないということです。自分で自分に切り込むだけです。透明な感情だと表現できるとしても、それは悲しみ・憎しみ・後悔・期待・悲しみ、を感じることの反対、ただ感じないということではありません。それなら何かの病気です。

すこし莢を剥いてみました。丸くて黒い大豆です。

No.5344 - 2016/11/22(Tue) 14:08:33
自問自答 / 勘太郎
 ティクナットハン師より「こころの対象は心にほかならない。 物理的、生理的心理的領域にあるものはすべて、心の対象でありながら心と分離していません。身体・感覚・心、心の対象の全ては心の対象です。対象と心は一つですから、心が何かを観察するとき、本質的に心が心を観察しているという意味でつかわれています」

 おいらはこの言葉を読んで理解もできないでいました。
 ニサルガダッタマハラジの言葉
 質問者 マハラジは、私がいなくなれば世界はなく、また世界と世界に関する私の知識は同一のものだと主張しています。

 マハラジ 物質とマインドは分離したものではない。一つのエネルギーの二つの相なのだ。マインドを物質の機能として見てみなさい。そうすればあなたは科学を手にする。物質をマインドの産物として見てみなさい。そうすればあなたは宗教を手にするだろう。

 質問者 しかし、何が真実なのでしょうか?マインドと物質、どちらが先に現れるのでしょうか?

 マハラジ どちらも先に現れはしなし、どちらか一方が現れるのでもない。物質は形であり、マインドは名前なのだ。それらは共に世界を作る。浸透し超越するのが実在、純粋な存在ー意識ー至福、あなたの本質そのものなのだ。

 おいらには最後の文を理解することはできませんが。世界の片面が物質であり、裏面が意識であるのを朧気ながら想像することができます。

 紹介いただいた「栄宗寺住職」さんのページをパソコンを開く度に見ています。

No.5341 - 2016/11/21(Mon) 20:23:25

Re: 自問自答 / ubik0101
> ティクナットハン師より「こころの対象は心にほかならない。 物理的、生理的心理的領域にあるものはすべて、心の対象でありながら心と分離していません。身体・感覚・心、心の対象の全ては心の対象です。対象と心は一つですから、心が何かを観察するとき、本質的に心が心を観察しているという意味でつかわれています」

ティクナットハン師も、知らないので、この文章だけを見ての印象を話します。

なんであれ、知覚されるのだから、認識するのだから・・・心であれ、生理的心理的領域にあることであれ、物質であれ・・・差の認識でありそれは・・・対象することと、対象されることと、さまざまな対象も・・・完全に違うことでも、完全に同じことでもないです。

そして、なにかを観察すれば、それを対象にすることが対象にしてるのだから、極端に言えば、対象を観察することを観察することにしかならないのだ。あらゆることは投影。見るものは見られるもの。心が心を観察している、ということでしょうか。たとえば世界はひとつ、という眼で見たら、ほんとうに、そう幻のように世界は見えてしまう・・・です。

なんにしても、その分離がない、という側から見るのは、みんな関係あるよ。あるいは無我、ということを強調したいのでしょうか。それは緯(よこいと)系の特質です。けど自分は、世界は、どんな、もの、ことも、完全な分離も、完全な同一もない、と睨んでいます。つまり分離も同一も認めるゆえに世界は、どちらでもない、です。

ほかの言い方では、この世界は、実在でも虚無でもない、です。語弊あるかもしれませんが、世界は半実在。あるいは糸の切れた凧。それで縁起、無常が成り立つのでしょう。実在も虚無も、縁起が一応はですが成り立たないと見なせます。この縁起が完全に機能して縁起を超えるのが、ここで言う解脱です。

> おいらはこの言葉を読んで理解もできないでいました。
> ニサルガダッタマハラジの言葉
> 質問者 マハラジは、私がいなくなれば世界はなく、また世界と世界に関する私の知識は同一のものだと主張しています。


おそらく、私がいなくなれば、世界はないです。知覚としては、そう思います。ただ質問者は、私がいないということがありますか?と質問してもよかったかもしれません。

> マハラジ 物質とマインドは分離したものではない。一つのエネルギーの二つの相なのだ。マインドを物質の機能として見てみなさい。そうすればあなたは科学を手にする。物質をマインドの産物として見てみなさい。そうすればあなたは宗教を手にするだろう。

> 質問者 しかし、何が真実なのでしょうか?マインドと物質、どちらが先に現れるのでしょうか?

> マハラジ どちらも先に現れはしなし、どちらか一方が現れるのでもない。物質は形であり、マインドは名前なのだ。それらは共に世界を作る。浸透し超越するのが実在、純粋な存在ー意識ー至福、あなたの本質そのものなのだ。

これはアートマン、真我、自己を前提にした、名称と形態の説明です。名称と形態からの自己への道・・・その道はないのですが・・・このように説明するのでしょう。力?足りなく解脱に至らなければ、総てはひとつ、となると睨んでいます。

> おいらには最後の文を理解することはできませんが。世界の片面が物質であり、裏面が意識であるのを朧気ながら想像することができます。

> 紹介いただいた「栄宗寺住職」さんのページをパソコンを開く度に見ています。

エダマメが枯れたので、収穫してみました。デッキでしばらく乾かそうと思います。

No.5343 - 2016/11/22(Tue) 14:04:23
13日(日)にお答えをいただいています。 / 勘太郎
 ただ 黙って生きる。です。
「ふしぎ」という疑問が起こる前というか、ふしぎが無くなる、ふしぎが起こらないところに留まる工夫をして、在りなさい。でしょうか?

 づっと身体の中に自分がある(体を風景として眺める自分を感じていたのですが。ここ数日その眺めてる自分が頭に移動しました。網膜の透明感が濁りました。

No.5337 - 2016/11/17(Thu) 07:33:29

Re: 13日(日)にお答えをいただいています。 / ubik0101
>ただ 黙って生きる。です。
>「ふしぎ」という疑問が起こる前というか、ふしぎが無くなる、ふしぎが起こらないところに留まる工夫をして、在りなさい。でしょうか?


ただ、自分は、このようだよ。と言ってるだけです。たしかに不思議も、神秘も、なにも知らないも、黙って生きるも・・・壊滅した・・・なんの工夫もない・・・なにも生じてない・・・ふつうの日常。そこからしか何も始まったことがないです。

> づっと身体の中に自分がある(体を風景として眺める自分を感じていたのですが。ここ数日その眺めてる自分が頭に移動しました。網膜の透明感が濁りました。

もしかして、それは自意識の位置かもしれません。それは、ふつうそうとは気がつかないけど世界が薄暗いです。胸は愛で、そのすこし下が、静寂で、胃のあたりに行動の中心があるような感じがします。

身体を風景として眺めるて、そんなことは聞いたこともないですが、その自分て、ほんとに身体の中?気が巡ってるのでしょうか。

《食べたカレーは無味で、聞いた音は消えます》。これを逆から、見るだけです。わたしが無味だから、カレーが味わえます。わたしが沈黙だから、音が聞こえます。わたしが透明だから、世界が見えます。

No.5339 - 2016/11/17(Thu) 08:41:02

Re: 13日(日)にお答えをいただいています。 / ubik0101
もしかしてですけど勘太郎さんは、仙道に縁があるのかもしれません。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/index.html

http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/gallery/gallery.htm

《内經圖》は、身体が風景で、その機能の意味があるようです。

No.5340 - 2016/11/17(Thu) 09:05:51
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