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自答 / 勘太郎
そして普段私たちは

この「貪」「瞋」「痴」の三大煩悩を、架空の「私」に帰属させています。

「貪」「瞋」「痴」の所有者を勝手にでっち上げ

「”私”が三大煩悩を所有している」というふうに思い込んでいます。

「貪」「瞋」「痴」を所有することで「煩悩所有者としての”私”」を実感しようとします。

苦しむことで「苦しむ”私”を実感しよう」としているのです。


 これを読んで、今、おいらは実感しました。

自ら 苦しみをつくりだしています。何もない無色の感情に楽しいうれしいを感じたくて、お金を欲しがります。透明な感情でいたら喜びもありませんが悲しみ・憎しみ・後悔・期待も感じません。親が死んでも子供が死んでも悲しみはありません。心は何も感じないだろうと思います。

覚醒とはどんなかんじなんでしょう。思考で感じることは、「感情は自分で創造しているのだなあ」です。

No.5342 - 2016/11/21(Mon) 22:12:47

Re: 自答 / ubik0101
ここで、楽しい、嬉しい、などの、いわゆるプラスの感情と・・・いわゆるマイナスの感情、悲しい、欲しい、苦しい、を区別、分類しないで、感情が問題なら一律、問題として考えてもいいです。そして、そいうことを感じたとして、自分を感じることになるのでしょうか?

それは、その自分は常に嬉しい、悲しいの裏に隠れてある架空のこととして設定されてるので、自分を感じることにならないでしょう。でも、自分を知った気分だけは味わいたい、代償行為、それが・・・実は絶対に犯人が見つからない推理小説・・・その世界を自分で創造してる気分になるので、あるいは拗ねて楽しいのかもしれません。

そいうことは、自分で悟りの邪魔をしてて、人生を消費する楽しみを・・・肴も食べず酒だけ飲み続ける人が《命を肴に飲むことは最高に美味》と言いましたが・・・その補償行為で誰彼なく愛されることを望んでいましたが・・・そんな自分で自分を卑しめることをしてるのかもしれません。

あるいはまた、そんな自分の邪魔をする人は・・・非難と正当化、不公平、正邪、愚鈍・・・奇妙な矛盾した言動をするのが普通です。こんな変な私を見て!こんな狂った私を誰か助けて!ということかもしれません。どう考えても誰かのことは空想ですが、でも、最も簡単な自分で自分を助ける道があるので、そいう複雑なことは完全に不要。初めから論外です。神は、自らを助ける者を助ける、です。

この探求の基本は、空想の奴隷にならないということです。自分で自分に切り込むだけです。透明な感情だと表現できるとしても、それは悲しみ・憎しみ・後悔・期待・悲しみ、を感じることの反対、ただ感じないということではありません。それなら何かの病気です。

すこし莢を剥いてみました。丸くて黒い大豆です。

No.5344 - 2016/11/22(Tue) 14:08:33
自問自答 / 勘太郎
 ティクナットハン師より「こころの対象は心にほかならない。 物理的、生理的心理的領域にあるものはすべて、心の対象でありながら心と分離していません。身体・感覚・心、心の対象の全ては心の対象です。対象と心は一つですから、心が何かを観察するとき、本質的に心が心を観察しているという意味でつかわれています」

 おいらはこの言葉を読んで理解もできないでいました。
 ニサルガダッタマハラジの言葉
 質問者 マハラジは、私がいなくなれば世界はなく、また世界と世界に関する私の知識は同一のものだと主張しています。

 マハラジ 物質とマインドは分離したものではない。一つのエネルギーの二つの相なのだ。マインドを物質の機能として見てみなさい。そうすればあなたは科学を手にする。物質をマインドの産物として見てみなさい。そうすればあなたは宗教を手にするだろう。

 質問者 しかし、何が真実なのでしょうか?マインドと物質、どちらが先に現れるのでしょうか?

 マハラジ どちらも先に現れはしなし、どちらか一方が現れるのでもない。物質は形であり、マインドは名前なのだ。それらは共に世界を作る。浸透し超越するのが実在、純粋な存在ー意識ー至福、あなたの本質そのものなのだ。

 おいらには最後の文を理解することはできませんが。世界の片面が物質であり、裏面が意識であるのを朧気ながら想像することができます。

 紹介いただいた「栄宗寺住職」さんのページをパソコンを開く度に見ています。

No.5341 - 2016/11/21(Mon) 20:23:25

Re: 自問自答 / ubik0101
> ティクナットハン師より「こころの対象は心にほかならない。 物理的、生理的心理的領域にあるものはすべて、心の対象でありながら心と分離していません。身体・感覚・心、心の対象の全ては心の対象です。対象と心は一つですから、心が何かを観察するとき、本質的に心が心を観察しているという意味でつかわれています」

ティクナットハン師も、知らないので、この文章だけを見ての印象を話します。

なんであれ、知覚されるのだから、認識するのだから・・・心であれ、生理的心理的領域にあることであれ、物質であれ・・・差の認識でありそれは・・・対象することと、対象されることと、さまざまな対象も・・・完全に違うことでも、完全に同じことでもないです。

そして、なにかを観察すれば、それを対象にすることが対象にしてるのだから、極端に言えば、対象を観察することを観察することにしかならないのだ。あらゆることは投影。見るものは見られるもの。心が心を観察している、ということでしょうか。たとえば世界はひとつ、という眼で見たら、ほんとうに、そう幻のように世界は見えてしまう・・・です。

なんにしても、その分離がない、という側から見るのは、みんな関係あるよ。あるいは無我、ということを強調したいのでしょうか。それは緯(よこいと)系の特質です。けど自分は、世界は、どんな、もの、ことも、完全な分離も、完全な同一もない、と睨んでいます。つまり分離も同一も認めるゆえに世界は、どちらでもない、です。

ほかの言い方では、この世界は、実在でも虚無でもない、です。語弊あるかもしれませんが、世界は半実在。あるいは糸の切れた凧。それで縁起、無常が成り立つのでしょう。実在も虚無も、縁起が一応はですが成り立たないと見なせます。この縁起が完全に機能して縁起を超えるのが、ここで言う解脱です。

> おいらはこの言葉を読んで理解もできないでいました。
> ニサルガダッタマハラジの言葉
> 質問者 マハラジは、私がいなくなれば世界はなく、また世界と世界に関する私の知識は同一のものだと主張しています。


おそらく、私がいなくなれば、世界はないです。知覚としては、そう思います。ただ質問者は、私がいないということがありますか?と質問してもよかったかもしれません。

> マハラジ 物質とマインドは分離したものではない。一つのエネルギーの二つの相なのだ。マインドを物質の機能として見てみなさい。そうすればあなたは科学を手にする。物質をマインドの産物として見てみなさい。そうすればあなたは宗教を手にするだろう。

> 質問者 しかし、何が真実なのでしょうか?マインドと物質、どちらが先に現れるのでしょうか?

> マハラジ どちらも先に現れはしなし、どちらか一方が現れるのでもない。物質は形であり、マインドは名前なのだ。それらは共に世界を作る。浸透し超越するのが実在、純粋な存在ー意識ー至福、あなたの本質そのものなのだ。

これはアートマン、真我、自己を前提にした、名称と形態の説明です。名称と形態からの自己への道・・・その道はないのですが・・・このように説明するのでしょう。力?足りなく解脱に至らなければ、総てはひとつ、となると睨んでいます。

> おいらには最後の文を理解することはできませんが。世界の片面が物質であり、裏面が意識であるのを朧気ながら想像することができます。

> 紹介いただいた「栄宗寺住職」さんのページをパソコンを開く度に見ています。

エダマメが枯れたので、収穫してみました。デッキでしばらく乾かそうと思います。

No.5343 - 2016/11/22(Tue) 14:04:23
13日(日)にお答えをいただいています。 / 勘太郎
 ただ 黙って生きる。です。
「ふしぎ」という疑問が起こる前というか、ふしぎが無くなる、ふしぎが起こらないところに留まる工夫をして、在りなさい。でしょうか?

 づっと身体の中に自分がある(体を風景として眺める自分を感じていたのですが。ここ数日その眺めてる自分が頭に移動しました。網膜の透明感が濁りました。

No.5337 - 2016/11/17(Thu) 07:33:29

Re: 13日(日)にお答えをいただいています。 / ubik0101
>ただ 黙って生きる。です。
>「ふしぎ」という疑問が起こる前というか、ふしぎが無くなる、ふしぎが起こらないところに留まる工夫をして、在りなさい。でしょうか?


ただ、自分は、このようだよ。と言ってるだけです。たしかに不思議も、神秘も、なにも知らないも、黙って生きるも・・・壊滅した・・・なんの工夫もない・・・なにも生じてない・・・ふつうの日常。そこからしか何も始まったことがないです。

> づっと身体の中に自分がある(体を風景として眺める自分を感じていたのですが。ここ数日その眺めてる自分が頭に移動しました。網膜の透明感が濁りました。

もしかして、それは自意識の位置かもしれません。それは、ふつうそうとは気がつかないけど世界が薄暗いです。胸は愛で、そのすこし下が、静寂で、胃のあたりに行動の中心があるような感じがします。

身体を風景として眺めるて、そんなことは聞いたこともないですが、その自分て、ほんとに身体の中?気が巡ってるのでしょうか。

《食べたカレーは無味で、聞いた音は消えます》。これを逆から、見るだけです。わたしが無味だから、カレーが味わえます。わたしが沈黙だから、音が聞こえます。わたしが透明だから、世界が見えます。

No.5339 - 2016/11/17(Thu) 08:41:02

Re: 13日(日)にお答えをいただいています。 / ubik0101
もしかしてですけど勘太郎さんは、仙道に縁があるのかもしれません。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/index.html

http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/gallery/gallery.htm

《内經圖》は、身体が風景で、その機能の意味があるようです。

No.5340 - 2016/11/17(Thu) 09:05:51
スピーカーもそうだし、壁も重厚です。 / 勘太郎
 ぼろ屋では、壁が落ち、ガラス戸が割れてしまうのではないでしょうか・・・
壁に、そして多分、主さんたちにも、時間が作用してこの色になっているのでしょう。

 昔から不思議に感じているのです。なんで世界中で共通の音楽が好まれるのか?アフリカの太鼓・南米のチチカカ湖の音楽がなんで世界中でこれを好きになる人がいるのか?
 そもそもなんで、世界中に音を出して楽しむ習慣があるのか?鳥の鳴き声にもなんで私は快感を感じるのか?
 
 もっと言うと、世の中はなんでこんなに好都合に動いてゆくのか?経済で云う「見えざる手」が多くの事象に起こるのはなんで?
 蒸気機関車の仕組みが発見されて、船がエンジンで動いて、世界中に物が運搬できるようになると人口が増える。富が高い方から低い方へ流れて世界中の人たちが豊かになっていく(時間を短くみると不公平に見えるけれども、最終的には最短時間で公平に豊かになっている様に思えます。何しろ人類が誕生してまだ30万年しか経っていないのにこれだけの公平さなのですから)

 宇宙の中身が一つでできているからそうなるのか?なんて漫画的空想をしてしまいます。

No.5336 - 2016/11/16(Wed) 20:44:02

Re: スピーカーもそうだし、壁も重厚です。 / ubik0101
なんか凄い展開。壮大な予定調和?です。そーいえば、あの体験を、オアシスというノート型のワープロを使って7年くらいかけて、2度目の読み解きをしました。そのワープロが故障。

もうその頃はワープロも製造中止で、なにを書いたかも忘れて、数年間、自分で読みたくても読めませんでした。あるとき、ふと、壁際に立てかけて放置してた、オアシスのスイッチをONすると、当然のようにLEDが点きました。

それでDOSだったか、それに変換してフロッピーに記憶し終わると、また当然のようにワープロは故障。2度と復活しませんでした。そのフロッピーが、Macで読めた。

それで、ひょんなことから、その文章を元に、HPを作ることになったのです。ワープロが、復活しなければ、勘太郎さんとも掲示版で話すことも、いろんな人と会うこともなかったでしょう。

この静岡にいることなど、なかった。生きてるのも不思議です。そんな、あんなことで、たぶん人生というか運命は変わってしまったのでしょう。こうでなくてもいいのでしょうけど、でも、なんであれ、こうでしかない、です。

そいえば人生ゲームの広告制作の打ち合わせで、依頼主に・・・ゲームって、知らないからやれるんです・・・と言うと考え込み・・・人生て、それ以外のことでは表現できないです・・・と、言うと大きく頷いていました。

なんであれ、怒りや喜びであれ、思考や行動であれ、運命であれ・・・真理であれ・・・それが・・・こう、でなくてもいいのに、こう・・・というのは、空気中に舞う埃のように世界が軽いのです。

また、たとえばの話、庭作業にしても、自分がそうしたいわけではないし、誰のためというわけでもないけど、綺麗にしたい・・・真善美・・・素であること、真摯であること、どうも世界がそうしたがってるように思います。

それまで音楽に興味なかったのですが、高校生のとき友人の家で聞いて、根底を揺さぶられました。

Albert Ayler - Spiritual Unity (full abum) (HD 1080p)


No.5338 - 2016/11/17(Thu) 08:24:35
猫の恩返しでネズミをプレゼント!は素敵です。 / 勘太郎
 昨日は暖かかったのでストーブも点けず、お日様の光線で暖かでした。
テレビの上、帽子の後ろにも黒猫が1匹寝てます。手前のカメラを見ているのはメスあとは男。
 おいらにはなつきません。妻はエサとおやつをやるので、めくらの猫までもがニャオニャオと鳴いて甘えます(餌をねだります)猫、籠(半坪程)にいるめくらねこを含めて全部で9匹!犬は外が2匹で内が1匹。完全な多頭飼い。

 愚さんが「それは、自分とぴったりくっついているから分からないんだ」と言ったことを理解できるような気がします。それの直接の現れではなく、思考からの推測なので歓喜も全体感もありません。「思考が作り上げた新しい形」とニサルガダッタマハラジが言っています。

No.5331 - 2016/11/14(Mon) 19:48:45

Re: 猫の恩返しでネズミをプレゼント!は素敵です。 / hato

ひゃーっ♡!!!たくさんいるのですね!
いいなあ!

うちのなかにたくさんの猫。ちょっと羨ましいです。うちは小人さんが2人いるので、あまり率先しては入れてやれません。ナナは寒くなると、入って寝ていきますが、ミューは警戒して、入りたいのに入れないんですよ。本当に人に慣れるまでにはもう数年かかるかな,というところです。

猫が家にいる風景、ゆったりしていて、とてもいいな、て思います。

No.5332 - 2016/11/15(Tue) 00:13:40

Re: 猫の恩返しでネズミをプレゼント!は素敵です。 / ubik0101

たとえばテーブルの上の携帯電話、天井の蛍光灯、窓の外の雲・・・それらアイテムに、見る焦点を定めることができます。これから、あれへと、焦点を移動させることができます。

そこで、部屋の空気そのものに、空間そのことに、見る焦点を合わせてみます。しかし、どうしても焦点が結べない、焦点の移動もできない・・・対象にならない、その空間を感じます。

その対象にならない空間は、ただの節穴である眼を通じて、自分の胸に及び、世界と素通しです。その空間は静かであり、もの、こと、思考とかにも、接触しても、接着しないです。

人に意識があるというのは疑わしいですが・・・あるとして、それは見て聞いて・・・その鳥や猫などのアイテムに接触して・・・意識は、アイテムとしての思考に・・・接着する癖、その欲が、あるのでしょう。

しかし思考は、思想とか習慣とか概念とかを構築するためでなく、壊滅するために機能します。たとえば人は仕事をすると、その仕事を失います。なにか丹精こめた書類を、橋を、道路を、作ることで仕事を失います。

ほかの人からは、都市を、思想を、人格を、構築してるように見えるかもしれません。が、違います。そうと気がつかなくても、失うことで力がつきます。見ること、探求です。食べたカレーは無味で、聞いた音は消えます。

アバンギャルドの約2000万円のスピーカー、アキュフェーズの数百万円のアンプなど・・・hatoさんと、浜松のジャズ喫茶に行きました。たしかに賛否両論の音。3姉妹で経営してるようです。

No.5333 - 2016/11/15(Tue) 12:26:05

Re: 猫の恩返しでネズミをプレゼント!は素敵です。 / ubik0101

もう一枚。

No.5334 - 2016/11/16(Wed) 00:10:26

Re: 猫の恩返しでネズミをプレゼント!は素敵です。 / hato

珈琲を飲みました。

No.5335 - 2016/11/16(Wed) 00:12:00
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