探求・・・それは意図しないでも、その人に必要なことは巡ることになるし・・・欲望、夢を実現しようとすることより、遥かに面白いです。
おいらの全てを見張ってる自分が居るような気分があります。 自分はおいらを見張ってますが、二つは断絶しています。自分はおいらの体の中に留まり、そこを少しもはみ出しません。 自分に焦点を当てている時、おいらは何もしていません、指1本動かせず、なにひとつ考えることもできません。
エックハルト・トールなどはこの「自分の時間」を増やせと言っている様に思いますが、エックハルトの言うものと、おいらが感じている「自分の時間」が同じものかどうかは解りません。
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No.5273 - 2016/10/18(Tue) 08:37:02
| ☆ Re: なにもかもが、おいらの計らいなしに動くのでしょう。 / ubik0101 | | | >なにもかもが、おいらの計らいなしに動くのでしょう。
と、いうことは・・・どこから来た言葉なんでしょう?ほんとにそうなのか?なぜそうなのか?そこに・・・突っ込んで、打ち壊すつもりで、その理由を探り見ると、いいように思います。
ところで、まずubik0101の経緯を話します。まったく見張ってる自分を感じることはないです。私が私を見る意識がない、自意識はないです。その自意識ですけど、たとえば善悪が完全に機能せず、その代用品の善悪の観念があれば、人は自分を見張る傾向にあります。
でないと自分を制御できないかもしれないと空想して自分を守ろうとしたり、世間と牽制しあったり、自分なりの道徳観に拘ったり・・・人と人の間で生きるのでしょう。こいうことは、そうでなくてもいいのですが、優劣とか、傲慢、卑下とか、とても苦痛かもしれません。
それは空想の、ここにない・・・人の目とか、神仏、倫理を・・・ここにあるとして現実と混同して・・・それから見た自分、そして自分はそれと関係してる。自分で自分を確認したい、自我の機能の現れだと思います。ubik0101は、探求の初めに、それを捨ててしまいました。
>おいらの全てを見張ってる自分が居るような気分があります。 >自分はおいらを見張ってますが、二つは断絶しています。自分はおいらの体の中に留まり、そこを少しもはみ出しません。
おいらを見張ってる身体の中の自分というのは、かなり独特かもしれません。もしかして、そこに自我のいる位置を定めたのでしょうか。あるいは知覚の中心と意識の中心が分離した?ちょっと自問する感じで、自答してみるのもいいかもしれません。たとえば、
自分がおいらの総てを見張ってる・・・その自分は、何のために見張っていますか?その自分を、じっーと凝視してもそのまま、そこにいる?その、おいらと自分、厳密に明確に同時に、いますか?そして、おいらと自分、統合できますか?どちらも、なくすことは?と、こんなことを探ってるのは何?
>自分に焦点を当てている時、おいらは何もしていません、指1本動かせず、なにひとつ考えることもできません。
自分に焦点を当てようとして、当てるのでしょうか。そこで、なぜ指一本動かせず、思考もできないでしょうか?逆に、なにもしてないと自分に焦点を当てることが出来る?その、自分の正体は何?
おいらの正体は何?そこから、どのようにして、普通の日常になりますか?その日常に、自分、おいら、いますか?いないとすると、探らなければ、それらは、ない、てこと?
なんか疑問、質問ばかりになりました。いろんなことを探って、探り尽くすのも、ありかもしれないです。
> エックハルト・トールなどはこの「自分の時間」を増やせと言っている様に思いますが、エックハルトの言うものと、おいらが感じている「自分の時間」が同じものかどうかは解りません。
ユーチューブで少し見ました。どうも見る根性が持続できないです。「自分の時間」を増やせと言っている動画、どこかにあって、それを教えてくれれば見てみます。
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No.5274 - 2016/10/19(Wed) 08:29:35 |
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