150828
“掲示板”
この世界は人を覚醒させるための触媒です。
★
自我そして真我
/ ubik0101
引用
おおむねですが、自由意思がある、ないというのは・・・私が、創造者であるか、被造物、つまり自我か・・・ということに帰着するようです。
とても説明ですが、私が万軍の主、創造者なら、自由意思があると言うのではないでしょうか。そして簡単に言うと、自由意思がないというのは、創るのではなく、創られた自我の感覚です。
ところで、私が話す、私が考える、私が行為するというのではなく、話す、考える、行為することによって、私が予めあるかのよに時間を遡って設定される。このことの意味は、その虚構である自我が、世界に創ってもらってるということです。
それなのにまず自分が予めあって、自分が話す、自分が考える自分が行為する。と見なすのは、普通に言う自我の特性です。仮の、贋の主体が自らを主体と見なしたいということです。
このように自我は世界の子ですし、時間の子で、虚構ですが、そんなことによって自らをあらしめようとしてるのではないでしょうか。
そんな自我は、たとえばその話したこと、考えたこと、行為したことの子ですから、その親である、話したこと考えたこと行為したことを守らねばなりません。
どんなことでも、事実に反することでも、自我は正しくなくてはならない、育たなくてはならない、守らなくてはならない、ほかの意見を非難し、自分の意見を正当化したりする必要があるのでしょう。
これは日常に観察されますが、なにか自分があって、なにかするのではなく、なにかすることでその中心が予め時間を遡って設定される、その虚構である自我の仕組みは。自我の完成、おなじことですが自我の壊滅と、真我の発現の関係にあって開示されることで、日常で観察されることではないです。
そんなことが開示された人が誰であれ、自由意思がある、ないは、問題にされえません。自我と真我の対比が成立しないからです。
とても説明ですが、ひとつの説明ですが、自我の中心は、ない、ですが、真我も、あるにありきって、ない、です。
とくに、自我はそれを守ろうとしますが、自我を壊滅するために苦痛や苦悩は役に立つことはあっても、とくにそうでなくてはならないということはないです。
No.7164 - 2020/01/20(Mon) 23:43:49
☆
Re: 自我そして真我
/ hato
引用
正月もすっかり20日を過ぎました。静岡もやっと冬らしい冷え感です。住んでいた東京は寒かったので、冬はこれくらいでいいのですが、今週はまた暖かくなるのだそうです。
まだまだスマホには慣れません。すこし前までまともに電話にも出られず、着信があると、こちら慌てふためいてます。
写真もガラ携帯が簡単でいいのですが、練習で撮影。くっきりきれいですが、ファイルが大〜きすぎてびっくり。技術の進歩は凄い。すこし小さくして載せました。
No.7165 - 2020/01/21(Tue) 01:08:39
☆
Re: 3月31日からの接心に参加が決まりました。
/ 勘太郎
引用
今度で5回目です。
自我を振り落とす事は、できにくいので、ムーと大きな声で考える事を抑えるのをテクニックとして確立した方法が接心だと思います。(成功の確率はひくいのですけれども、かなり有効)
いくら自我で自我の無い人に成ろうとしてもできないそうだんです。
何か考えていて、振り返ってみれば、これは自我の行為と解かります。自我と全く別に真我があるとも思えませんので、さて真我はどこに居らっしゃる、と探してしまいます。
自由意志と問われれば、自由意志(自由そのもの)はどこにもない。すべてが向こうから運ばれてきて、味噌汁を先に飲むか、ご飯から食べ始めるか程の選択権しかないと思っています。
そうは思っても、おいらが世界を背負っている様に感じて、電気を節約してみたり、道路のごみを拾ってみたりしています。(矛盾しています)
自我を出すまいと、ムーと叫べば自我の行為であるし、「腹の底からムーだ」と御老師がおっしゃるのも自我無しに無字を唱える方法なんだろうとおもいます。
長い睡眠を摂るなというのも、自我を抑える為と思います。成るかどうかは、向こう様の勝手しだいですから、やれるだけの無字をやります。
いくら犬でも老犬になったので、外は寒いのか?夜鳴きするので、家の中に入れました。2日目ですが、抱きかかえて外に連れ出し散歩します。まだ、部屋の中の籠から出ようとはしません。家の中が快適であるという事は解ってきたようです。これから夜の散歩に出かけます。抱いたり・引っ張ったり大騒ぎです。犬も人も大変です。
犬の写真が送れません。JPEGで撮られていないようです。おいらのセキュリティーソフトが邪魔しているようです。残念です
No.7166 - 2020/01/21(Tue) 17:45:03
☆
Re: やり直して写真が送れました
/ 勘太郎
引用
さて、ほんとに散歩に出かけます。
No.7167 - 2020/01/21(Tue) 17:47:28
☆
Re: 自我そして真我
/ hato
引用
なんて可愛い丸いベッド!毛布も暖かそうです。お洒落ですね。犬さん、大事にしてもらって、元気出るといいです。
No.7168 - 2020/01/21(Tue) 22:24:23
☆
Re: 自我そして真我
/ ubik0101
引用
むー、と叫んだことはないので、それとは違うかもしれませんが・・・自然に起きる、思考、行動、発言に作られたのではない自分の発現は、
あるいは思考がないことに気がつくことによって、思考があることによって時間を遡って予めつくられているかのようでない、ない、自分に気がつく・・・これは世界が静かで明るいです。
あるいは眼で見ることによって作られているのではない、自分に気がつく・・・これは空間が快晴・・・眼は単なる風穴・・・人の内部と世界が素通しです。
また聞くことによって作られてるのではない。自分に気がつく・・・耳で聞いてるのではなく、聞いているのは沈黙です。
また、思考してるその裏は誰もいないことに気がつく・・・自分はない、見えてるものが眼にも鮮やかです。
ここで自分、自分と、何回も言いましたが、自分ということでもない、あるとかないとかでもない、無相、無味、とかいう感じに近いです。
これらは、いずれも軽い体験ですが明確です。なんであれ、一度起きれば、必要なだけ起きるのではないかと思います。ところで、
この日常、そこはかとなくなんですが、世界は、自分で自分を感じられない人が自分を感じるためのものか、という感じです。
その感じてる自分を、わざわざ感じる必要はない、感じてないけど・・・人は考えたことがそのまま知覚できる。話したことがそのまま聞こえる。行動したことが、なにをしたか、そのままわかる・・・これは不思議なんですが、そうなんです。これだけで、神秘の真ん中です。ということを失ってもなんでもなく、
スクリーンとか、基底とか、意識とか、なにも必要ないです。
ただ素直なこと、真摯なこと、ふつうのこと。公平なこと。世界はそういうことなんです。
それでも接心、頑張る!ただ、力一杯、むー、なんだと思います。
No.7169 - 2020/01/22(Wed) 07:08:02
☆
Re: 自我そして真我
/ ubik0101
引用
そして、見えることにあって、見えることによってつくられてるわけではない自分に。聞こえることにあって、思考することにあって、そのことによって、つくられてあるのではない自分が発現するのです。ところで、
いろんな経緯があるのでしょうが、自我が傷つくことで、自我を壊滅させるというより・・・自我は世界に作ってもらってるのですから、良い特質を育てるのが有効です。
たとえば素直さ、真摯さ、公平さ・・・こんなことは世界の中で自分でできることです。
たとえば嘘をつく、ということは。自分を有利にしようということかもしれません。それは不公平をつくろうとしてることではないでしょうか。
もっと簡単に、有名になりたい、金持ちになりたい、地位が名誉が欲しい・・・こんなことは自分を有利にしたい、不公平をつくろうとしてるのではないでしょうか。
また不注意である、真摯でない、事実をそのまま認めない・・・それも誰かに注意や真摯を任せて、自分はその責任逃れをしたい、不公平をつくろうとしてるのではないでしょうか。
たとえ自分に不利でも、嘘をつかない・・・過去の損得などどうでもよく、未来のことなど無関係に、自由意思があろうとなかろうと、出来るのではないでしょうか。
とくに公平であろうと頑張るのではなく、その都度、その都度、真っ直ぐであること、当たり前のこと、注意であること、
このようにして良い自分をつくるのですから、ちょっとの勇気は必要かもしれないけど、自我を守らない、それだけで良い特質が育つので、自分を誤魔化したり、いつもいつも違う自分を追いかけてるより、よっぽどいいのではないでしょうか。こんな簡単なことが絶対なのです。世界って、こうなんです。
No.7170 - 2020/01/22(Wed) 19:58:16
☆
Re: 自我そして真我
/ hato
引用
もう一本、松です。さまざまな風情があるものです。
No.7171 - 2020/01/22(Wed) 22:51:37
☆
Re: 自分に正直であれ! 耳が痛いです。
/ 勘太郎
引用
将にこれの反対の姿を夢見て、悪戦苦闘しています。
良い事を行うのは単純です。行為するだけです。
自分を高くしようとすると策略とか作為、工作とかが行為に伴い、複雑な働きが、必要になるように感じます。
幸いな事に、自分を高める必要は終了している(ノルマのある会社ではなく、居れば給料の出る職場に今は所属している)のに、自分を目立たせようとしてしまうのです。
跡の残らない良い行為は、大きなオナラをした時の様にすっきり爽やかです。
頑張ります。
No.7172 - 2020/01/23(Thu) 20:09:54
☆
Re: 心に穴が開く
/ 勘太郎
引用
昨日の朝、犬の散歩で首輪が抜けてしまい、犬が居なくなってしまいました。犬の性質として帰巣本能が弱い犬なんだと思います。帰ってきません。この犬が逃げるのは2回目で前回は1月ほど経ってから帰ってきました。首が太く頭が小さいので首輪が抜けやすいのです。抜けない程首輪をきつくすると、息が苦しそうになってしまう。逃げるという懸念はいつもありながら、散歩していました。
それで、朝の散歩がないので、朝早く書いています。
よく、心に穴が開く」と言います。寂しいでも困ったでも哀しいでもない、胸に穴が開いているような感覚があります。
それの所為もあってか?昨晩は眠りが浅い夜を過ごしました。眠りながら?自由意志について考えました。(考えているのは今ですが)自由意志が無くても束縛はありません。おいらは何も困ることはありません。犬が居なくなっても悲しみはありません。自分の胸に入り込む様に考えても何もでてきません。探ろうという考えがあるだけです。(当たり前のことで、探ろうとする考え以外はありません。一つの事しか考える事しかできません)
今年を書き込みを印刷して、職場でじっくり読みます。どんなに読んでも消化できませんけれども、時間はたっぷりあります。
急がないで、あっちこっち目をやらずに、読みます。では行ってまいります。
No.7173 - 2020/01/24(Fri) 06:38:37
☆
Re: 自我そして真我
/ ubik0101
引用
そうですね。こちらも高校を卒業したとき、一緒にキャンプしたりした級友が自衛隊に行って、胸に穴が開いた感覚でした。ところで、
たとえば偽善、嫉妬、恨み、悔しさ、卑下、傲慢、欲望、嘲り、反抗・・・こいうのは自我の感覚で、不公平に起因します。
その人が、心根、公平であることによって・・・それを素直とか、真摯とか、注意とかとも言えますが・・・その偽善や嫉妬そのほか自我の感覚・・・は、その構造を大まかに一瞥することによって、解消されます。
もちろん公平であろうとすること、それが不公平に起因することもあります。それは公平を誰かや社会や物事の有り様として対象にして、自分の心根を度外視してることに起因するかもしれません。つまり、
勘太郎さんの言うように素直さ、真摯、公平さとかは認識できないのです。それは言わばですが魂に刻まれたことで、自分の対象になりがたいのです。思考できないのです。もし思考できるようなことなら、その反対のこと、類似のこと無関係なことが生じるかもしれません。
ただ周囲とか自分の、これまでの、これからの有り様との軋轢とかで、ちらちらと感じられるような。あるいはそれは認識できないと認識できるようなことです。この素直さ、公平は、注意は、見えないけど大事です。
たとえば誰かが私を小馬鹿にした、噂話をしてる、妬んでる、社会的な弱者だ・・・こんなことに悩むなら、その原因も見え難いけど実は、その私の不公平に、素直でないことに、真摯でないことに、不注意なことに、起因するのではないでしょうか。
No.7174 - 2020/01/24(Fri) 07:28:35
☆
Re: 自我そして真我
/ hato
引用
こちらも仕事、張り切って行ってまいります。
No.7175 - 2020/01/24(Fri) 08:07:05
☆
Re: 犬を捕まえてきました
/ 勘太郎
引用
近所の空き家の植え込みの下に居たところを捕まえました。安心しました。
お仕事、お励みなすってください。
週明け頃にまた書きます。
No.7176 - 2020/01/25(Sat) 08:31:36
★
謹賀新年
/ ubik0101&hato
引用
明けましておめでとうございます。
旧年中は誠にありがとうございました。
皆様にご多幸ありますように。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
No.7161 - 2020/01/01(Wed) 22:35:31
☆
Re: 今年もよろしくお願い申し上げます
/ 勘太郎
引用
楽しい書き物や写真をお願い致します。
私のしっぽを掴んだ様に思うのですけれども、私を捕まえることができないでいます。
私を捕まえようとすると、今此処に戻ります。錨に繋がれているようです。良いのか?悪いのか?判りませんけれども、錨に掴まってみようと思います。
No.7162 - 2020/01/02(Thu) 18:09:45
☆
Re: 謹賀新年
/ ubik0101&hato
引用
携帯のレンズに傷がついて写らなくなってから、写真を撮る習慣がなくなってたのですが、スマホに変えたので慣れたら、そのうち投稿するかもしれません。
ubik0101
まだ使いこなせず、奮闘してます。正月はここ2日、ゆっくり過ごせました。
hato
No.7163 - 2020/01/02(Thu) 23:05:01
★
質問です
/ 勘太郎
引用
この世に何も起きていない、という事について
人が死ぬと、産まれる前と同じく何もなくなります。地上において、何もない土地に家を建て、時間が過ぎて、取り壊して、元の更地に戻ります。地表になんの変化もありません。
鐘がぼお〜んと鳴ります。音はあるけれども、音を伝える空気は圧力の変化を伝えて、圧力の変化が均一化して元の空気に戻る。
つまり、命にも、地表にも、空気にも何も起きていない。
人の心についても、過去のうれしかったり哀しかったりした気分は、きれいに消し去られて、今の気分があります。今の気分もすぐに消え去ります。
概念での理解は上記です。お二人の云う「何も起きていない」は直接的にそう感じるのでしょうけれども、思考では理屈で考えてしまいます。
No.7156 - 2019/12/21(Sat) 07:36:19
☆
この上の勘太郎さんの投稿を読むと、
/ ubik0101
引用
なんであれ見える世界、それを見てる見えない勘太郎さん・・・見える思考、それを見てる見えない勘太郎さん・・・という2重構造になってる、そこに、
生まれる前と死んだ後は変わらないとか・・・音が消えていく、気分が変わる、でも・・・なにも起こってない・・・静か・・・という、世界の意味を見出してるように思えます。それはそれでありですし、
そんなこととして平穏を認識するのもいいでしょう。でも、2重構造が問題というわけではありませんが、2重構造がなければ、勘太郎さんの思考が成立するのかな。と思います。たとえば、
生まれる前と死んだ後で変わらない、ただ気分は起きては消えていくだけとか・・・絶対に、そうであるかないか解らないのに、勘太郎さんの言うように、思考が、そう判断してるのかもしれません。
いつのことだったか、私はない、という体験をした女性と、メールだけですが、話をしたことがあります。生まれる前のこととか覚えてないから、前世とかはない、とか言ってましたが、
どうなのでしょう?たとえば過去、まったく違う生き物で、物理とかの法則も違う世界にいたら、この世界に生まれて、思い出す、よすが(縁)、がないでしょう。また、
たとえば、真摯であること、素直であること、そんな良い特質を獲得して、それは魂に刻まれたようなことで大事ですが、認識の対象にならないので、その経緯の認識は必要はない、
ということもあるでしょう。人が解脱したら、その経緯も、物語としての記憶も問題ではない、その事実だけでいいのではないでしょうか。なんか宝とか真理とか得たら、どうやって得たかは、とても蛇足です。ところで、
こちらは、この世に何も起きていない、と言ったことがあるとは思えないです。なにか話したことは、話したこと、ただそれだけで、そのほかに違う含みや意味はないです。たとえば、
この世界は人を覚醒させる触媒です。と、言ったら、このこと、それだけです。その意味は、話せるでしょうし、説明できるでしょうけど、それは演繹になりそうです。
また形式としては、その思考が私だから、また私があるでもないでもないからとか、分離が、つまり2重構造がないから、と話せはしても、説明でしかないです。
No.7157 - 2019/12/21(Sat) 22:29:26
☆
Re: 質問です
/ hato
引用
自分はどこかで、「この世になにも起きていない」と言ったのか・・と思うのですが、・・書かれていたことを、勘太郎さんが解釈されたということでよかったでしょうか。
>鐘がぼお〜んと鳴ります。
これは勘太郎さんという存在を、丸ごとひっくるめ懸けられるような、命懸けの問い、だったでしょうか?
自己究明は、他人を基軸にして自分を知る、という横向きの、差から得る探求でない・・それもないことはないでしょうが、やはり、自分│自己│ ・・という縦軸の向きの究明が不可欠と思います。その自分で自己を得る、ならば、その自分の経緯を見る、進む、です。でなければ、個別である必要があるでしょうか。
たとえば、この世界に何も起きていない・・・それは、起きた、起きない、いずれにしても等価、・・とか人からいわれたとして、どうなのでしょう。
命懸けの問いは、それが生まれ出るまで自分でその自己に問う(垂直)、問い続ける、必要がある、と思います。
No.7158 - 2019/12/21(Sat) 22:34:25
☆
Re: 前回の接心でどやされました
/ 勘太郎
引用
「他人から、どうにかしてもらおうなんて、スケベ根性を持つな!」と2回、注意をうけました。
今回の書き込みで
「よそ見をしないで、自分の胸の内を探りなさい」「真剣さが足りないぞ!」と叩かれました。
私の性格。つよい人・私の欲しいモノを持っている人に対して、こびへつらってもおすそ分けをいただこうという行動様式・思考傾向で覚醒を求めても道は険しい。「自分で獲りなさい」との指導。
頑張ります。
No.7159 - 2019/12/22(Sun) 07:40:34
★
この自分(自我)も透明なので、困ります。
/ 勘太郎
引用
>たとえばジャンケンした、その時間を遡って、ジャンケンをする前から、ジャンケンをする主体が仮に設定される。自分がジャンケンをしたのだ。という虚構・・・仮の主体、自我、の仕組みは、たったこれだけです。<
この自分を捜しても、素通りして何も掴めるものがないので困ります。いつも、困ってばかりいる自分なのですけれども、捜すと見つかりません。思いつく度に、ここら辺を探ってみるつもりです。
昨晩の帰りの地下鉄は、遅い時間なので、いつもは座席が空いているのに。会社の忘年会帰り、若者のデートの帰りらしい人で混んでいました。
今年も残り三週間になりました。石油ストーブが細々燃える音を聴きながら過ごす夜も、しんみり良い気分です。
No.7145 - 2019/12/07(Sat) 18:22:23
☆
Re: この自分(自我)も透明なので、困ります。
/ ubik0101
引用
ずっと昔・・・達磨に、心を探しても見つかりませんと言った、弟子の話を読んで・・・自分にも心がないな、と思った。それでいつのことだったか・・・体験の前ですが・・・僕には心がないと、仕事仲間に話したことがあります。
どいうこと?と聞かれ・・・たとえば誰かと一緒にいて嫌だなとか、その場から離れたいって気持ちは心だろ?、と答えたことがあります。ここでいう心とか、自我って、時間を遡って仮定される構造で、そんな時間の綾がないと成立しないのです。自我は時間の子なのです。
現実に即して即今であれば無心で、誰だって、未来や過去を思考しようと、無心でない時なんかないのです。そこで自分が見つからない日常であれば、日常が探求です。でも、自分で自分を感じられないからといって、それが自我ではないということではないのです。
自我は感じられないから、自我はない、そんなことでいいなら探求すべきことは何もないです。たとえばヤカンが熱っ!これは知覚で、自我ではないだろ?と言われたりすることもあるようなのですが、違います。そんなの馬鹿げています。
それでも自分を忘れ、たとえば血と汗と涙の赤貧であっても四面楚歌、であっても、裕福であっても平穏で、いわゆる心理的思考、葛藤、人間関係に、関わらない、離れる、それだけでも、果報なんです。
どうしても人は苦しい楽しい人間関係に注意が向くのですが、それに関わらないだけでも、力がつくのです。説明ですが、無駄なエネルギーを使わない、わざわざ自分を探すこともない、平穏これだけで効果あるのです。
私は透明というのは、見えないということではなく、たとえば暗闇で黒が見えない、赤が見えない、白が見えない、探してる鍵が見えない、ということではなく、あきらかに、透明ということです。
No.7146 - 2019/12/07(Sat) 20:17:51
☆
Re: おいらの透明は隠れているのでとりあえずみえないです
/ 勘太郎
引用
自分でも、奥に黒い塊を感じます。
最近やっと、「覚醒を夢見て、体験を捜している事は最悪だ」という言葉を理解できます。
捜しているのは自分(自我)でありながら、自分でないモノ(状態)を捜しているのです。
この自分を振り捨てるのではないかと思います。しかしながら、自我は自分の姿を隠す術を会得してしまって、より捨てにくく、している様に思えます。
No.7147 - 2019/12/08(Sun) 19:35:37
☆
Re: この自分(自我)も透明なので、困ります。
/ ubik0101
引用
なにか探してるということは、人が、その探してる何かではないということかもしれません。幸福になりたい人は幸福でない人、幸福を求める人は、求めれば求めるほど、不幸な自分を作り出すのかもしれません。
しかもその人なりの勝手な価値観、判断による幸福を求めて自ら幸福を妨げてるのかもしれません。幸福な人は幸福を探さないのでは?けど、幸福を求めないなら幸福とは限らない?求めないと得られない?でも幸福にしても悟りにしても、それは得るというようなことなのだろうか?
こちらは、その日に考えたことを・・・発見したことを・・・ほとんど毎日、夜中に起きて数時間・・・総て日記に書いてましたが・・・読み返したこともなく・・・それを20年ほど続けただけです。悟りとか考えたことは、小学生の時一度だけです。もしかして、これは自我?と疑った自分の言動も一度しかないです。
勘太郎さんが読むような、なにか体験した人が、自我とか無我とかの話をするとしても、それは結果論でしょう。いろいろ経緯はあるのでしょうが、自分を探って結果だけを求めようとしても難しいです。過程が大事というわけでもないです。
自分を知りたい、と思ったら、そのことは、その初動だけでいいのではないでしょうか。いつまでも、自分を知りたい、悟りたいなら、いつまでも出発点から離れないかもしれません。走り始めたら、スタート地点は後にして走るのではないでしょうか。
どこか、あそこにゴールの横断幕が、見えないと走れない?その目的地は、もしかして、自分の思ったこと、判断と全然、違ってるかもしれないのに?どこかのサイトで・・・真っ暗闇をまっしぐら・・という言葉を見たような気もします。悟りたいという思いが起きたら、もう忘れる。次の風景。
幸福を求める人は幸福ではないと見たら、もう忘れる。次の風景。奥に黒い塊があると見たら、それは自分が勝手につくってるのかもしれないし、もう忘れる。次の風景。もちろん、なにも変哲もない自分を見たら、それも過ぎ去ります。始まったら探求は、探求を導き、ほとんど自動です。その場に足踏みしてもいいのかも知れませんが、それも結果論。
いろんな風景を見ることは、学ぶことは、探ることは、それを得ることではなく、失うことに似ています。机に山積みの仕事があって、それをこなすということは、仕事を失うということです。けど、なくなることは、何もないです。人を覚醒させる世界の機能を信じなくてもいいから、不安を感じて、同じ所に留まる必要はないです。
まずは自分がないということさえ体験できれば、と思うのですが・・・この自分とか、あの自分とかを振り捨てるということではないです。取捨選択できるような、するようなことではないです。なにか守れるようなことはありません。ない、ということは完全に自分というのが、ないということです。
No.7148 - 2019/12/09(Mon) 18:41:18
☆
Re: 寝太郎さんの書き込みです。
/ 勘太郎
引用
・人生の内部の問題、外部の問題
人生の幸福や快を如何にして増やし、不幸や不快を如何にして避け、如何にして善く生きることができるか。これは人生の内部の問題です。私自身はこの問題に関して全く不得手であり、実際にうまくいっていませんし、うまくいく方法も皆目見当がつきません。
人生の内部の問題に回収することのできない問題が二つあります。一つは真理の問題です。人間とは何か。宇宙とは何か。何が原理で何が表層か。何が究極的に存在すると言えるのか。物質なのか、生命なのか、意識なのか、数理や神なのか。複数の存在物があるとすれば、それらは互いにどう関係しているのか。どこまでが私の認識というフィルターを通した世界で、フィルターを通さない世界はどうなっているのか。これらは私の人生の善し悪しとは関係がありません。つまり、人生の外部の問題です。
いま一つは死の問題です。私の人生の内容が如何なるものであっても、善いものであっても悪いものであっても、それがやがて終わってしまうという問題です。人生の外部に視点を置き、人生の全体を眺望するところからこの問題が生じます。これも端的に、人生の外部の問題です。
この書き込みは、面白かったです。「私は何か?」「死とは何か?」は、内部の問題とかんじているけれども、完全に外部の問題だと言っています。(他人の人生は経験できないので、私の人生の内部の問題とおらには読めました)
私も死も、私とは断絶していると書いています。寝太郎さんもおらも頭では断絶していると理解しながら、感情では私と同一化しているとしか感じる事ができない。
外部によって、創られた「私と死」を私が解決しようと試みるのは、金魚鉢から出ようと試みる金魚。
>ない、ということは完全に自分というのが、ないということです。<
おらは、理解はできているけれども、納得できと思っていますけれども、本当は理解もできていないのでしょう。
No.7149 - 2019/12/12(Thu) 16:19:47
☆
Re: 寝太郎さんの書き込みを理解したは、おらの誤解
/ 勘太郎
引用
さっと読んで、「解かった」と感じましたけれども、よく読んでみると、おらは誤解(自分流に翻訳して読んだ)しています。
No.7150 - 2019/12/12(Thu) 20:43:40
☆
Re: この自分(自我)も透明なので、困ります。
/ hato
引用
ヘラクレイトスという古代の哲人が、「自分を精査するだけでよかった、」と言ったそうです。でもヘラクレイトスは、世界を精査されたでしょうか。
ふと気になりubik0101さんに、宮沢賢治がそうな文章があるか聞きくと「貝の火」。ネット検索の青空文庫で読むことができます。
渋柿を頂きました。あんぽ柿、美味しくできるかな。
No.7151 - 2019/12/12(Thu) 23:57:55
☆
Re: 貝の火を読みました
/ 勘太郎
引用
感想が、ubik0101さんの、今月9日のNo7148の投稿と重なりました。読書感想という気持ちが浮かばない。おらの思考を清掃用のコロコロで剥がしとって綺麗になった。でしょうか。
「私は文章を読めていない」昨日読んだ7148の文と貝の火を読んだ後で読む投稿とでは違います。
>私が感じるものその人なりの勝手な価値観、判断による幸福を求めて自ら幸福を妨げてる<
ubik010さんの言葉を、おらの勝手な価値観、判断で理解を完了したような気分になってしまっています。読み手により、文章の伝える事は多様に変化するようです。文を読むという事は、何十回と読んでやっと入り口かもしれません。新聞の天気予報の欄は目を通せば完了ですけれども。知らない事・解らない事についての言葉は、読み流したのでは、結局何も拾い上げることが出来ないかもしれません。
汲めども尽きぬ泉とも云えましょうけれども。
No.7152 - 2019/12/13(Fri) 08:42:01
☆
Re: この自分(自我)も透明なので、困ります。
/ hato
引用
>読書感想という気持ちが浮かばない。
そのときは、ほかのことを書かず、沈黙でいいと思います。無理に掲示板になにか書かないといけないことはありません。
>知らない事・解らない事についての言葉は、読み流したのでは、結局何も拾い上げることが出来ないかもしれません。
ここで書かれることについてなら、新たに書かれることなど、なにもないです。今までの交換のなかに、総て、入っていると思います。
自己を見ることに、誰かが20年かかった、と言うとして、だからほかの人はもっとかかる、とは限りません。けれど、自己探求とはあくまでも、自分でしなければならないことです。道を歩む仲間がいる、・・でも誰もが、その自分でしか進めません。ほかの人に聞いてもらう必要もないです。書を読んだり、人と対話などして、星の数ほどもある他人の言葉を理解しようとしてる間に、その自分が終わってしまいます。
>汲めども尽きぬ泉とも云えましょうけれども。
こうしたことも、不要です。本気なら、御託は不要です。
No.7153 - 2019/12/15(Sun) 00:28:30
☆
Re: 水を飲むのは私です
/ 勘太郎
引用
「良い気持ちで坐っていても、何にもならないぞ」と接心で叩かれました。
よそ見しない様にやって行きます。
No.7154 - 2019/12/18(Wed) 18:43:33
☆
Re: この自分(自我)も透明なので、困ります。
/ hato
引用
こちら2人、よい知らせを楽しみにしてます。
No.7155 - 2019/12/18(Wed) 21:19:42
★
Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬
/ hato
引用
こんばんは。
こちらひんやり爽やかな気が、いい季節です。
>チャクラとかよく知りませんが「気」の通り道がある」とか読んだことがあるような記憶があります。
チャクラとか、精神世界のあれこれが、巷に流行っていたことがありました。主として精神と肉体を扱う方面だったようですが、自分にはあまり身になりませんでした。
>真我をいくら探しても真我は現れない。感覚の対象とはならない真我を感覚と云うレーダーで探っても、真我はステルスです。
尚、自己に問う。それは知覚の範疇を超えているので、応えが意識されるまでにはある種、力を蓄える、力を要する、つまり時間が要る、ものかも知れません。問えば応えは即座にここにあり、準備が出来たら、それ自身として、見出される・・かも知れません。
或いは、なにか発する問いについての答えは、さまざまな道のりでやってきているのでしょう。自己という、対象、存在を感じる、・・ことでない、そこは大要未知として置いておき、「これはなんだ?」。と問う、やはり大事と思います。
イエスが死の間際、神に訴えた言葉があったそうです。「神よ、なぜわたしを見捨てたのか」。自身の現状か、人々のことか、いずれにしても言語を絶する艱難辛苦だった、その辛苦が表れたのでしょう。
痛いときは痛い、辛いことは辛いです。嬉しいことも、素晴らしいことも、同様でしょう。感じる、という知覚に問題はないでしょう。人が変容しても、道具は変わらないでしょう。
それでも、変容。人が変わる。それは神と自己、世界の有無についての理解が、(体験)経験として起きること、と思います。神(節理でも虚空でも)があまりに嬉しく祝福するので、歓喜が起こるのでしょう。
生ある限り、智慧の灯として生きる、生きようと努力する、それは幸せで大切なこと、と思っています。
No.7129 - 2019/11/18(Mon) 18:36:26
☆
Re: いやおうなく、人は善に向かっている
/ 勘太郎
引用
ように 思います。
その一人がおいらです。
短期でみると逆戻りもあります。ながあああいいいい〜〜〜、今までの歴史を振り返ると、なんだか楽しい・うれしい社会になってきていると思います。
地球全体も協力してくれている様に感じます。温暖化が悪の現れの様に言われますけれども、温暖化により食料が増産されて、飢えを防いでるように思います。
漁網にイルカが挟まり、この写真が人々に環境の尊さを訴える。
微力ながら、生きとし生けるものの幸福を願います(天皇陛下のお言葉みたいですけれども、上目線では、ないつもりでいます。)
公園で銀杏を拾ってきました。たくさん。ぎんなんの匂いは手に着いたら洗剤で洗ってもなかなか落ちません。油の感じがします。
今年は豊作で公園が臭いです。ぎんなんご飯にするつもりです。
No.7130 - 2019/11/19(Tue) 16:07:47
☆
Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬
/ hato
引用
ぎんなんご飯、きっと美味しそう!ですね。🍚こちらは、ひと口お酒、のつまみに時々、ぎんなんを固い殻ごとレンジで数十秒かチン!して、熱々を歯で噛み割って、塩を振って、ホクホクを頂きます。なんともいえぬ好きな味です。そう、銀杏の木はこの時期、美しいけど、臭いますね。
桜の木も葉がすっかり落ちて、冬の日差しが嬉しい日中です。メジロ天使が舞い、ジョウビタキの声が聴こえるようになりました。(もしかして、百舌鳥の仕業か・・?も知れないですが・・)
No.7131 - 2019/11/21(Thu) 22:36:55
☆
Re: 雪担御老師に傑作の仏像は足跡だけ
/ 勘太郎
引用
という説法があります。身体を持たず、真我だけ。身体は仏にあらず」という事
庭に準備している白い椅子を見て思い出しました。
身体はテレビ受像機で「仏」は電波に例えられるのではないかと想像しています。テレビのカメラがおいらの目玉。
親鸞聖人が「私は師匠の法然の云う事を信じます。騙されても後悔しません」と言ったと聞いたことがあります・
おらも最近は、親鸞の気持ちになってきました。仏(真我)というものが世界を取り仕切っているらしい。これにすべてを委ねて、おらは大船に乗っている気分で生きて死んで行きましょう。
22日に猫が1匹死にました。4日くらいから食わなくなって、それから病院に行ったら、腎臓と肺炎で厳しいとの話。入院3日目に死にました。なつかない猫で、生きている時に触わることはできませんでした。それで捕まえられなくて獣医に行くのが遅れました。8年程前に。拙宅の庭に仕掛けた捕獲器に入り、我が家の住人となりました。
名前をごえもんと言います。人には懐かないけれども、猫には神様仏様の様に接していました。猫同士が喧嘩すると間に割って入ってなだめます。ゴエと合わない猫はゼロで、どの猫とも寄り添って寝てました。孤独な猫もいるのですが、ゴエとは争いは起きませんでした。
そんな不思議な猫でした。
今日は午前中、ゴエの荼毘です。
キジトラ(黒と灰色の縞模様)のごえが、この白い椅子で陽向ぼっこしている姿を想像します。
No.7132 - 2019/11/24(Sun) 07:50:22
☆
Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬
/ ubik0101
引用
そいえば・・・ずっと初期の仏陀を表す印は足跡だけ、とかいうテレビの旅行番組を見たことがあるような気がします。仏陀は透明、てことでもあるのかもしれません。
そいえば般若心経・・・まともに読んだことないですが・・・も、そのようです。違うかも知れませんが、シャーリプトラに向って、観自在菩薩が、深い瞑想にあって、つまりこの日常にあって、一切は空と見た。
と話してる仏陀は、その物語の話し手で、その物語には登場してきません。透明なんです。この構成だけでも、凄いです。ついでに、日常では自己は透明です。
たぶんですが、仏教ではこれは人空、と呼ばれてることと符合するかもしれません。そして世界は透明です。これは法空、かな?と勝手に思ったりします。人にそんな経緯があります。
ネットで検索してみると・・・人間をはじめすべての心をもつ存在は、因縁によって生じたものであって、永続する自体性をもたないということ・・・とかなっていますが、それは説明概念で、そのまま直接の感じではないです。
ところで自己、真我を探してみます。勘太郎さんの言うとおり、見えません。それでいいのですが、なお探るとして、その探そうとしてる自分は何でしょう?これを探ります。
なにか時空の離れた別の視点から、探してるそのことを見るのではなく、こう、あることを、こう、と見ていきます。この探してる、これ、には、名前があるでしょうか?年齢があるでしょうか?
性別があるでしょうか?それは自我でしょうか?無我でしょうか?真我でしょうか?意識でしょうか?総て、いいえ、です。なんでもない、どんなことでもない、迷いでも悟りでもない、ただ探してるという事象です。
真我を探していようが、いなかろうが、働いていようが、猫に餌をやっていようと、総てでもない、分離でもない、無相でも、有相でもあるでもないでもない・・・ただそれだけです。ここは何も解決も問題もないです。
たしかに身体は生命維持装置という感じはするのですが・・・それは生死を考えるという前提があってのことです。なにが、理由で、
>身体はテレビ受像機で「仏」は電波に例えられるのではないかと想像しています。テレビのカメラがおいらの目玉。
と、このように考えるのでしょう。このように考えてることを正当化する、整合性を与えてるのは、どういう前提でしょう。
こんなことを探ることが、こちらの探求でした。これはいつまで続ければいいのだろう、終わりはあるのか?と思われるかもしれませんが、それは杞憂です。
>おらも最近は、親鸞の気持ちになってきました。仏(真我)というものが世界を取り仕切っているらしい。これにすべてを委ねて、おらは大船に乗っている気分で生きて死んで行きましょう。
No.7133 - 2019/11/25(Mon) 07:28:10
☆
Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬
/ 勘太郎
引用
> ところで自己、真我を探してみます。勘太郎さんの言うとおり、見えません。それでいいのですが、なお探るとして、その探そうとしてる自分は何でしょう?これを探ります。
自画自賛ながら、この捜そうとしている自分の黒い影を見る事ができるようになった気分がします。だからどうなの?なのですけれども、切り倒す本体はこれなのではないか?と想像しています。
総て、いいえ、です。なんでもない、どんなことでもない、迷いでも悟りでもない、ただ探してるという事象です。
ここで、おらの目が点になりました。
よく言われる「落とした指輪を、落とした場所でなく、たまたま近くに点灯する街灯の下で捜している」この事かあ???と
お言葉通りに受け取ると、(おいらが想像していた)仏は自分の精神が変性したもので、心や天の声では無くて、物理的な行動(動くという事実・動き・働き・運動)???。以前からその様な言葉は読み・聞きしているけれども・・・・うんん〜・・・です。
そうしたら、仏も私も覚醒も何も無いじゃん!
おらは、何していたんだ!となります。行動だけがあるというならば??
狐に騙されているのかなあ???おらはどうなる?どこに行ってしまうんだろう??
おいらは確かに透明でつかみどころがないもの似思えますけれども、。精神とか意思とか思考とか呼ぶものがあると感じてしまいます。
う〜んと唸って言葉がでません。もしそうならば・・・
神も仏も悪魔も無い! とっても信じられません。
ただそれだけです。ここは何も解決も問題もないです。
> こんなことを探ることが、こちらの探求でした。これはいつまで続ければいいのだろう、終わりはあるのか?と思われるかもしれませんが、それは杞憂です。
希望が湧きます。
No.7134 - 2019/11/25(Mon) 19:31:40
☆
Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬
/ ubik0101
引用
こうであること、こうでありきること、働くなら働く、笑うなら笑う、怒るなら怒る。でなくてどうして、世界と一体とか、どうして天上天下唯我独尊とか、私はあるとか、ないとかで、あり得るでしょう。
そして私は神であり悪魔であり仏陀であり、どれか個別のことでない、でなくてなんでしょう。
もしかして指輪を夜に探すから落としたのではないでしょうか。探しものをするなら昼間にするのです。そすれば、落としたことなどないことに気がつくでしょう。
No.7135 - 2019/11/25(Mon) 23:48:20
☆
Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬
/ hato
引用
>おらは、何していたんだ!となります。行動だけがあるというならば??狐に騙されているのかなあ???おらはどうなる?どこに行ってしまうんだろう??
もちろん行動だけでない、感情、思考、も伴うなにか、です。その、おら(わたし)は、環境やあらゆる状態によって出来てる空っぽの渦の中心・・・として、自己探求は、神や仏と思うなにかを空想して探す・・でない、いまその通りの「わたし」を見て探ること、と言えます。勘太郎さんというタマネギの皮を剥く、それが、自己に問う、の意味合いです。
思考、感情や意志は、そのようにある勘太郎さんに沸き起こってくるので、そこを問う、(見る)、剥いて剥いて、「ありのままをあからさまに知る、」ことに、意味があると思います。探求は、書き出すだけで進むことがあります。
本来ある、でも、ない、でもない、という・・名状し難いその「わたし」。探っていくと、なにか思考、感情に寄って、そのように「わたし」と感じられているだけ・・かも知れません。
ゴエ。まったき猫を生きたのですね。2年前までいた、ミューを思い出しました。ミューも気高く人に触れさせなかったけど、白い小さな彼女ねこもできたり、・・一等最初にナナに声をかけたのも、ミューだった。猫に優しい奴でした。大きくて執念深い怖い黒猫に、庭から追い出されました。当時、すでに身体も傷んでいたので、思うと、胸が締め付けられます。ゴエは勘太郎さん一家にみてもらって、本当によかった。
デッキにキリギリスがいました。まだ若いでしょう。少し前に見たのも、こんな感じの子でした。
No.7136 - 2019/11/26(Tue) 00:10:12
☆
Re: 捜す場所をみつけたのかもしれません。
/ 勘太郎
引用
出かける前に、手にクリーム(馬油)をつけて手をもむ、その手で顔を撫でて、クリームを広げる。
免疫が落ちて、鼻の中にできものが良くできるようなった、顔を撫でるとできものに外側から押すことになるので痛い。
ここに自分は出て来ない様に感じます。おらの身体と外界との境界はあいまいになってきています。
出来事は、あります。そこに自分は無くても、なんの支障もないようにも、感じます(確信はありません、学習の結果)
探求の入り口に到着したかもしれません。
>そして私は神であり悪魔であり仏陀であり、どれか個別のことでない、でなくてなんでしょう。
もしかして指輪を夜に探すから落としたのではないでしょうか。探しものをするなら昼間にするのです。そすれば、落としたことなどないことに気がつくでしょう。<
ここらへんは、解らないです。
No.7137 - 2019/11/26(Tue) 07:17:46
☆
Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬
/ hato
引用
>そして私は神であり悪魔であり仏陀であり、どれか個別のことでない、でなくてなんでしょう。
総ての光線が揃っていなくて、・・言い換えれば、すべての質でなくて、どうして透明でしょう。偏りもないその総ては、すでに意識され得ない、なにかです。
>もしかして指輪を夜に探すから落としたのではないでしょうか。探しものをするなら昼間にするのです。そすれば、落としたことなどないことに気がつくでしょう。
もう入り口に着いたので、問題ないでしょう。
あとは Go ahead!、と思います。
No.7138 - 2019/11/26(Tue) 20:21:25
☆
Re: 東招寺接心4日目の無字、の様に感じます
/ 勘太郎
引用
接心4日目と最後の5日目の昼間。参禅者全員で力の限り「ムー」と叫びます。坐禅堂が震えます。
たぶん古参の参禅者が新参者を見性させる為に、全力を振り絞り、背中を押す作業なのではないかと思っています。
新参者は力尽きて、力なく「ムー」となる人もいます。(力尽きて、覚醒する人もいます)
力も湧くし、頭が音でしびれます。無字でいっぱいにさせてしまう、とい働きかもしれません。
背中を無字の叫び声に押されて、背筋がのびます。つられて私も大声で無字を叫びます。
今、そんな気分です。
No.7139 - 2019/11/27(Wed) 19:58:30
☆
Re: 今日はのんびり雨の休日
/ 勘太郎
引用
しばらく忙しい日々が続きました。今日はのんびり、お昼は、お好み焼き。パリッとできませんでしたが、それなりに美味しくたべました。
昨年は職場でそりの合わない人との軋轢で心安らかでいる事ができなかった。
振り返えって考えると、どうしても私は不当に扱われている、私は正当で、そりの合わない人は性格がゆがんだ人だと感じてしまっていました。
どこにでもある人間関係だから、そういう人間関係バージョンだと諦めて、過ごせばよかったなあ〜と思います。自分を無限関係バージョンの中の特定状況を自分でズームインしていたように思います。
こんどそういう職場になった時は無限バージョンの一つと思えるかなあ? それとも、やっぱり自分を不幸の典型とかんじてしまうかなあ?そんなことをおもいました。
自我の拡大について、トラックの運転手は大型トラックの前端から後端までが自分、これを拡大解釈すると自分は地球。との書いてあるのを読んで納得しました。
親猫が明日養子に行きます。乳離れもほぼ済んで、先ほど獣医さんで駆虫薬とワクチン投与してきました。別の人に行く、子猫は風邪ひいたので来年までずれ込みそうです。まだ、目ヤニがひどいです。
No.7140 - 2019/12/02(Mon) 13:31:34
☆
Re: 職場で人に悩んでいた頃の投稿捜して
/ 勘太郎
引用
過去を読み返すとその時理解できなかった事が理解できる、様な気がします。自己解釈・勝手解釈なのですけれども。
そうして、暇な時間をなんだか得した様な気分で過ごします。損得の言葉が、私の心の状態(欲望でいっぱいの)を現わしているのが自分でも面白いです。
No.7141 - 2019/12/02(Mon) 17:11:17
☆
Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬
/ ubik0101
引用
ギクシャクした人間関係を改善したいから悩むのでしょうか?それが改善したとして、なにか良いことがありますか?
もしかして気分が良い、楽しい・・・そのことと、勘太郎さんの望みが悟りだとして、なんか関係があるのでしょうか。
人間関係に悩むことで悟った、という実例があるのかないのか知りませんが、人間関係について考えるのは、無駄な努力をしてるような気もします。
好きな人は好き、嫌いな人は嫌い、どっちというわけではないなら、それはそれ・・・次の職場ではどうするこうするではなく、その場その場で力を尽くそうで充分・・・と言ったら言い過ぎですか?
もちろん好きでも嫌いでも公平に対応しよう。不公平でありたい気持ちに負けないようにしよう。とか考えたり行動することはありでしょう。
こちらは会社の人間関係なら、好いも悪いも、会社の玄関を一歩でたら、総て忘れる、そんな感じでした。
たとえば銀座にあった広告代理店でそれまで4〜5人でやってた制作部を1人で回したけど、給料は悲惨だった、ずるい人がたくさんいたんでしょう。
無字について考えるとは、趙州が、無、と答えたその意味を探れ、ということなのでしょうか?人間関係に悩むことは、無字を考えるほど命がけの重要なことでしょうか。
No.7142 - 2019/12/02(Mon) 19:32:41
☆
Re: その場、その場で全力を尽くす
/ 勘太郎
引用
よく、読むと深い言葉です。世間にありふれた言葉ですけれども、前後の思惑無く、今できる事を行う。
昨日は死ぬ事について考えました。
わからないながら、どうも、私の本質はおいらの心には無いらしい、出来事に関わるらしい。
おいらという気持ちは、出来事の後(付属して)に意識に現れるものらしい。とすると、じゃんけんをして負けたと云うできごとがある。その後で悔しい気持ちが起こり、それに付随して自分がくやしがるという主語が起こる。
死ぬという出来事が起こっていない今は、死に付随する私がまだ起こっていない。死ぬ主体である私が居ない時に、その私の死を考える。
ボイラー室でひとり、豚のすき焼き(昨日の残り)を温めてたべている自分が起こる。その起こった自分が主体となって、起きていない「死ぬ」という出来事の主体を想像して死んだらどうなる?と考える。
こんな事を「死んだらどうなる?と考える前に、自分はなにものであるか?知っているのか」とのニサルガダッタマハラジの言葉になるのかなと思いました。
No.7143 - 2019/12/05(Thu) 07:36:41
☆
Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬
/ ubik0101
引用
そうです。なんであれ、思うことによって、話すことによって、行動することによって、そうしてる仮の自分が成立します。とくに思考だけが問題だ、というわけではありません。
ある時、横浜あたりでしたか、知人と歩いてて、道で子共を大声で怒ってる主婦がいました。そこで・・・あの主婦は自分が怒ってると思ってるのだろうけど、怒ってることで、その自分が作られてるんだ・・・と話しました。
たとえばジャンケンした、その時間を遡って、ジャンケンをする前から、ジャンケンをする主体が仮に設定される。自分がジャンケンをしたのだ。という虚構・・・仮の主体、自我、の仕組みは、たったこれだけです。
No.7144 - 2019/12/05(Thu) 20:27:12
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