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“掲示板”

この世界は人を覚醒させるための触媒です。

(No Subject) / hato

沢山書いて下さり、ありがとうございます。スレッド繋げるの忘れました。読みづらくてすみません、こちら続きの件です。下方にはじめの部分を載せています。


> これも全く違います。自我とは、肉体と自然に起こる思考や感情を自己同一化しようとするアプリケーションです。そして、考えるより前に決断するということが起こるようになってからは、衝動もわいて来なくなりましたので、やりすごす必要もなくなりました。見守ることなどせず、どんどん進んで行きます。ですから、hatoさんの言われる問題は起こりようがありません。


ええと、ひとつ前のスレッドでは、
下記のように書いてらしたので、そういう見解になったわけですが、

>自我を守るというのは、自我がそうプログラムされているからです。自我は幻想であり、「本来の自己」とは異なります。私はそれに気が付いたので、自我に何が起きるか、見守っている状態です。ですから、感情は動きますが、悩まなくなったのです。


ゆらぎさんが先に書いてらした、「考えると利己的になる、自我」・・というところが問題であって、「だから、考えなければよい、」と自分はなかなかなりませんが、「自我はそういういうもんだから、関わらなければよい、」というのは面白いですね。処し方はいろいろであって、いいのか?👀 も知れません。


>自我の状態がどう変わると自己になるのでしょうか?

状態については、先に書いた通りですが、下記にもすこし書いてます。


>意識の向きとは何でしょうか?
>閾値とは、何の閾値でしょうか?



意識の向きとは、この場合、知覚される・・意識される・・向きです。自分、という塊があるとして、そこから世界を見るか・・・眼耳鼻舌身意を以て世界が知覚される、ことによって、自己が意識されるのか、・・あるいはまた、それが双方向に働き、・・そうとも言い難い超意識を経験されることによる状態、・・(これが自己)・・があるということです。といって、人が通常、超意識であるということではありません。

ここでの閾値とは、人が受ける刺激の最小値との感じです。この言葉が適切な感じです。その体験では、瞬時に膨大な情報?を人は受け取ります。精妙か厖大か、・・そのことを受け取るのです。それを、解体していくその感じは、前に書いたかも知れませんが、圧縮ファイルの解凍、が似ています。思い当たらなければ、やり過ごしてください。

以下説明が重複されることは省略します。


> 意識上に於いての、ある、ないの対象は何でしょうか?

ここでは自我についての話しですので、先ずは自分が、ある。自分が、ない。として、どちらか一方に、多くは物事の認識が偏るということです。知覚、思考、感情、肉体を以て確たる自我を自分として生きる、或いは、世界が起きており自我はないと決めてる、それも自我に変わりはないと思いますが、自分が、ない。に偏る人も多いようです。おそらく本来的には、自分は、ある、でも、ない、でも、どうとも言い難い、・・不可知なもの、・・です。なので、意識の上で、・・ある、ない、いずれかに偏るなら、ある意味不健全といえるのかも知れません。(※わかりづらかったのでラスト3行を修正しました。)


> なぜ、偏るのでしょうか?

なぜ偏るか?状態が偏っているからです!。ですが或いは、・・人が自我を先ずは確立し、世界との関わりのなかで変容していく、という、それはひとつの形式とも、いえるかもしれません。


> 意識が未知に根差すとは、具体的にどういうことでしょうか?


人は知らない、ということを存在として、知ること。と思います。でも、理解することはあります。その未知は、なんというか、変なことを言いますが、・・・・完璧でありたい、あろう、ということでは、・・ないのです。

ゆらぎさんのお話しからは、ときどき、なにか精神世界上、とても完璧であろう!とされる、意志のようなものを感じます。自分はすでに、完璧でなければならない、と。そんな風に感じただけかも知れませんが。。


>真実を理解する意志を持って進んでも、何が真実か分からないと思いますが?


そこに、意志を持って進む、それが結果と同様に大事であることを、その過程で知るとの感じではないでしょうか。それはすでに真実でしょう。探求することに、ただ結果を求めるでもない・・・

というより、悩まないとか、直観で物事をする、、て凄いことだけど、・・・純真な熱意が大事、て思います。


>健全に生きるということは、どう生きることでしょうか?
>私は冒険という言葉を使います。
>毎朝、目が覚めれば冒険の始まりです。

No.7036 - 2019/10/11(Fri) 02:11:46

Re: / ゆらぎ
何とか、被害も停電も無く、台風が過ぎました。
氾濫によって助けを待っておられる方が、一時も早く救出されることを願ってやみません。

hatoさん
> > これも全く違います。自我とは、肉体と自然に起こる思考や感情を自己同一化しようとするアプリケーションです。そして、考えるより前に決断するということが起こるようになってからは、衝動もわいて来なくなりましたので、やりすごす必要もなくなりました。見守ることなどせず、どんどん進んで行きます。ですから、hatoさんの言われる問題は起こりようがありません。

> ええと、ひとつ前のスレッドでは、
> 下記のように書いてらしたので、そういう見解になったわけですが、


> >自我を守るというのは、自我がそうプログラムされているからです。自我は幻想であり、「本来の自己」とは異なります。私はそれに気が付いたので、自我に何が起きるか、見守っている状態です。ですから、感情は動きますが、悩まなくなったのです。

たいへん失礼しました。
確かに「見守る」という言葉を使っていますが、私とhatoさんでは、「見守る」の意味が違います。hatoさんの「見守る」は、「見張る」に近い意味であり、私の「見守る」には恣意的なものは一切ありません。見守るということは、何もしないことなのです。

> ゆらぎさんが先に書いてらした、「考えると利己的になる、自我」・・というところが問題であって、「だから、考えなければよい、」と自分はなかなかなりませんが、「自我はそういういうもんだから、関わらなければよい、」というのは面白いですね。処し方はいろいろであって、いいのか?👀 も知れません。

これも全く違うのです。
「だから、考えなければよい」と思っても、努力逆転の法則で却って考えてしまいます。コントロールは出来ません。「考えると利己的になる」のは以前の私であり、自由意志が無いことが腑に落ちてからは、考えるより先にこうしようという意志が起こるようになりました。なので、感情は動きますが、悩まなくなったのです。

以下、読ませて戴きましたが、私は体験していないので、全く理解できません。
せっかく書いて戴いたのですが、理解しないままの論議は不毛ですので、暫くこのままにさせて下さい。お互いの書き込みを読むことを続けていれば、少しずつでも理解は進むと思います。

No.7039 - 2019/10/13(Sun) 18:32:06

Re: / ゆらぎ
ubik0101さん
亀レスで申し訳ありません。

> そこで、シミュレーション仮説で、その設定者は不在、ない、としたら、不整合でしょうか?これはこれで、どこにも拠り所がなく、面白いように感じます。

設定者は、現象界には不在だと思います。

> たとえば挨拶するだけで・・・とは、形而上なことではなく、具体的なことに思います。それで人間関係が変化し、不仲になり、また誰かの捨てたタバコの火で山火事になったりします。これも、ただ起きてると言えば、起きてることなのでしょう。人が起こしてると言えば、そうなのでしょう。どうして同じことが解釈が分かれるのでしょう。責任の所在でしょうか?

自我をあるとすれば、人が起こしており、ないとすればただ起きているということになると思います。私は自我は幻想だと思いますので、起こす主体は無いということになり、ただ起きているという立場です。

> また繰り返しますが・・・なにか起こった事実を二度見してるように思えます。そして、ああこれは、そう決定されていたから起きたのだ。と判断してるのではないでしょうか。これも繰り返しますが・・・そして、その思考も起きるように起きてるだけ・・・ということは思考を二度見してませんか?・・こちらは、その意識がなくて、思考したり働いたりしています。

二度見することもあれば、しないこともありますが、日常生活ではしない方が圧倒的に多いです。反省などは、二度見の代表的なものかもしれません。

> ところで、素粒子の振る舞いは、観察されるまで分からない・・・観察されるされないで、変わるとします。この場合、観察者は観察されるのでしょうか?観察者とは何?それが問題にされないと、なんか研究のような気がしないのです。これは物理学?ではどう考えられてるか、知っ
ていますか?

「科学における観察者効果とは、観察するという行為が観察される現象に与える変化」ですので、観察されるまで分からないということではないと思います。「観察者は観察されるのか?」という命題は、観察される対象が思考や感情であり、科学の分野ではなく哲学や思想の分野だと思います。科学の場合の対象は、物理的な現象です。

> いろんな定義がありでしょうが、自我には自性がないのに、自性があると見なすのが、独我論とも言えると思います。

私は自我に自性は無いという立場ですので、独我論ではないと思っています。

No.7042 - 2019/10/13(Sun) 19:45:36

Re: / ubik0101
>自我をあるとすれば、人が起こしており、ないとすればただ起きているということになると思います。私は自我は幻想だと思いますので、起こす主体は無いということになり、ただ起きているという立場です。

その主体がないとは・・・ゆらぎさんそのものが、ない、という意味なんでしょうか。だとしたら、それ、どのようにして、解りましたか?

そして、主体がない、がなぜ何か特定の、ただ物事は起きてるという、立場にあれるのでしょうか?

説明します。この返信としては、私がいなくても世界は勝手に動いてるでしょ。(死んでしまっても、そうかどうかは不明ですけど)。ということになるかもしれません。そのまた返信としては、世界は勝手に動いてる、そんな自我もありでしょう?あるいは、主体がないそれこそ、起こすのです。と、なるかもしれません。しかし、ここでの質問は、こんなことではなく、なんであれ、ない、が何かの特定の立場にあり得るのか?という質問です。

そして、なぜ、幻想である自我は、物事を起こせるのでしょう?

なんだかの判断ではなく、実際どうなのか?という話が有意義と思います。

その、ゆらぎさんの言う、主体がない、は自性でしょうか?無自性でしょうか?

自我は幻想(a)、ということと、起こす主体はない(b)、と言われます。この、(a)と(b)どう違いますか?同じことですか?とか・・・疑問は渦巻きます。

こちらも急ぎませんので、気が向いたらの返信で大丈夫です。

No.7047 - 2019/10/15(Tue) 06:17:12

Re: / ゆらぎ
> >自我をあるとすれば、人が起こしており、ないとすればただ起きているということになると思います。私は自我は幻想だと思いますので、起こす主体は無いということになり、ただ起きているという立場です。
> その主体がないとは・・・ゆらぎさんそのものが、ない、という意味なんでしょうか。だとしたら、それ、どのようにして、解りましたか?


ゆらぎという自我は幻想であり、実体は無いという意味です。
前にも書いたと思いますが、自分が思考を起こしているなら、思考を起こさないことも出来る筈です。しかし、どんなに思考すまいと頑張っても、30秒も持ちません、何らかの思考が必ず起こります。そしてその場合の思考の内容は自分が決めたものではありませんし、予測も出来ません。自分は思考すまいと頑張っていたのですから。

このように、思考は自分と関係なく勝手に起こってくる。感情も同じです。自分と関係なく起こるのですから、自分という主体はありません。ただ、思考や感情を起こしている自分という主体があると勘違いしているだけです。これが、自我の機能です。

> そして、主体がない、がなぜ何か特定の、ただ物事は起きてるという、立場にあれるのでしょうか?

上述した通りです。

> 説明します。この返信としては、私がいなくても世界は勝手に動いてるでしょ。(死んでしまっても、そうかどうかは不明ですけど)。ということになるかもしれません。そのまた返信としては、世界は勝手に動いてる、そんな自我もありでしょう?あるいは、主体がないそれこそ、起こすのです。と、なるかもしれません。しかし、ここでの質問は、こんなことではなく、なんであれ、ない、が何かの特定の立場にあり得るのか?という質問です。

「ない」のですから、立場にあり得ることもないと思いますが?

> そして、なぜ、幻想である自我は、物事を起こせるのでしょう?

自我は起こせません。起こしていると勘違いしているだけです。

> なんだかの判断ではなく、実際どうなのか?という話が有意義と思います。

上述した思考の話は、実際の話だと思いますが?

> その、ゆらぎさんの言う、主体がない、は自性でしょうか?無自性でしょうか?

無自性です。

> 自我は幻想(a)、ということと、起こす主体はない(b)、と言われます。この、(a)と(b)どう違いますか?同じことですか?とか・・・疑問は渦巻きます。

同じです。

> こちらも急ぎませんので、気が向いたらの返信で大丈夫です。

いつもは、この時間に出勤しますが、今日は少し時間があります。

No.7048 - 2019/10/15(Tue) 06:40:16

Re: / ubik0101
> ゆらぎという自我は幻想であり、実体は無いという意味です。
> 前にも書いたと思いますが、自分が思考を起こしているなら、思考を起こさないことも出来る筈です。しかし、どんなに思考すまいと頑張っても、30秒も持ちません、何らかの思考が必ず起こります。そしてその場合の思考の内容は自分が決めたものではありませんし、予測も出来ません。自分は思考すまいと頑張っていたのですから。


> このように、思考は自分と関係なく勝手に起こってくる。感情も同じです。自分と関係なく起こるのですから、自分という主体はありません。ただ、思考や感情を起こしている自分という主体があると勘違いしているだけです。これが、自我の機能です。

そして、世界は、眼を開けてれば見えるでしょう。知覚です。こちらは、それを・・・自分と関係なく勝手に起こってる・・・と、思考で判断することはないです。

>> その、ゆらぎさんの言う、主体がない、は自性でしょうか?無自性でしょうか?

>無自性です。

>>自我は幻想(a)、ということと、起こす主体はない(b)、と言われます。この、(a)と(b)どう違いますか?同じことですか?とか・・・疑問は渦巻きます。

>同じです。

では、真我も無自性ということでしょうか?

No.7050 - 2019/10/15(Tue) 07:02:41

Re: / ゆらぎ
> そして、世界は、眼を開けてれば見えるでしょう。知覚です。こちらは、それを・・・自分と関係なく勝手に起こってる・・・と、思考で判断することはないです。

目を開けていれば、見ようとしなくても見えます。
つまり、見ているのではなく、見ることが起こっているということです。
思考で判断してもしなくても、それが現実だと思います。

> >> その、ゆらぎさんの言う、主体がない、は自性でしょうか?無自性でしょうか?
>
> >無自性です。
>
> >>自我は幻想(a)、ということと、起こす主体はない(b)、と言われます。この、(a)と(b)どう違いますか?同じことですか?とか・・・疑問は渦巻きます。
>
> >同じです。
>
> では、真我も無自性ということでしょうか?


それは、真我の定義によるでしょう。
ubik0101さんは、真我をどのように定義しているのでしょうか?

無自性とは、空ということです。
一切皆空、現象界の一切は無自性ということです。
真我が現象界に属するなら、無自性です。
そうでないなら、定義によります。

No.7052 - 2019/10/15(Tue) 20:20:39

Re: / ubik0101
>目を開けていれば、見ようとしなくても見えます。
>つまり、見ているのではなく、見ることが起こっているということです。
>思考で判断してもしなくても、それが現実だと思います。


それは。二度見して、判断しています。見ることという知覚を意識によって、捉え直しています。でなければ、見えるは、ただ見える、です。

もしかして、時間の流れ・・・時間はないとかの議論はさておいて・・・をどう感じていますか。過去から現在そして未来ですか。

>それは、真我の定義によるでしょう。
>ubik0101さんは、真我をどのように定義しているのでしょうか?


自性とは・・・それ、の原因が、それ・・・つまり実在と同義です。真我とは、その直系です。

これだと始めに戻りますが、剛体の件で話したように、この世界が現象界だということは、実在を感知するからです。知識、あるいは空想としても、実在を設定して、ここを現象界、と言ってるのではないでしょうか。あるいはここが現象界だから、なにか実在を空想するということでも同じです。無自性は無自性だけで成立しますか?現象界は、対概念の片側です。でなければ、実在、現象界ということもないです。

この世界は、実在なんですか?虚無なんですか?空は、完全な虚無でもなく、実在でもないということでは?半分、という意味ではないですが、世界は半実在では?

No.7053 - 2019/10/15(Tue) 22:12:09

Re: / ゆらぎ
> >目を開けていれば、見ようとしなくても見えます。
> >つまり、見ているのではなく、見ることが起こっているということです。
> >思考で判断してもしなくても、それが現実だと思います。
>
> それは。二度見して、判断しています。見ることという知覚を意識によって、捉え直しています。でなければ、見えるは、ただ見える、です。


「二度見して判断する」ことが、問題でしょうか?
私の表現だと、「現象を解釈する」となりますが。

> もしかして、時間の流れ・・・時間はないとかの議論はさておいて・・・をどう感じていますか。過去から現在そして未来ですか。

時間もまた幻想です。
RPGはスタートからエンドまで時間の流れがあります。しかし、それは1枚のディスクであり、過去・現在・未来の流れはありません。時間とは、そんなもんだと思います。

> >それは、真我の定義によるでしょう。
> >ubik0101さんは、真我をどのように定義しているのでしょうか?


> 自性とは・・・それ、の原因が、それ・・・つまり実在と同義です。真我とは、その直系です。

真我が実在によってあるならば、無自性です。
実在とは無関係で独立しているならば、自性です。

> これだと始めに戻りますが、剛体の件で話したように、この世界が現象界だということは、実在を感知するからです。知識、あるいは空想としても、実在を設定して、ここを現象界、と言ってるのではないでしょうか。あるいはここが現象界だから、なにか実在を空想するということでも同じです。無自性は無自性だけで成立しますか?現象界は、対概念の片側です。でなければ、実在、現象界ということもないです。

ヒンドゥでは実在を設定していますが、仏教は設定していません。
この世は無自性ですから現象界です。現象界は、つくられた世界です。しかし、つくったものが、自性なのか無自性なのかは知る由もありません。実在を設定しようがすまいが、実在は認識できませんから、意味を持たないと思います。

> この世界は、実在なんですか?虚無なんですか?空は、完全な虚無でもなく、実在でもないということでは?半分、という意味ではないですが、世界は半実在では?

実在でも虚無でもなく幻想です。現象界では、幻想であっても「ある」と認識出来ます。

空は、そんな中途半端な定義ではないと思いますよ。
ウィキによると「仏教における空(くう、梵: śūnya [シューニャ]または梵: śūnyatā [シューニャター]、巴: suññatā [スンニャター][1])とは、一切法は因縁によって生じたものだから我体・本体・実体と称すべきものがなく空しい(むなしい)こと」、つまり無自性です。

半実在という中途半端なものとは考えにくいです。
半剛体は剛体ではないため非剛体であり、半実在は非実在、無自性だと思います。

No.7054 - 2019/10/16(Wed) 06:18:13

Re: / ubik0101
なんか煩雑になるので、質問の仕方を変えます。ゆらぎさんの投稿No.7054で、こちらの答えを望むことがあるなら、答えます。面倒でしょうが、指摘ください。

自我、と、私はない。は同じということでした。では、生まれてこの方不変の気づいてる意識は、それと同じでしょうか?違うでしょうか?

そして。生まれてこの方不変の気づいてる意識は、なにが感じるのでしょう。自我ですか?生まれてこの方不変の気づいてる意識が、それ自身を感じるのでしょうか?

No.7055 - 2019/10/16(Wed) 06:31:51

Re: / ゆらぎ
> なんか煩雑になるので、質問の仕方を変えます。ゆらぎさんの投稿No.7054で、こちらの答えを望むことがあるなら、答えます。面倒でしょうが、指摘ください。

答えを望むことはありません。
私の書き込みに対して、反論があればお願いします。無ければ結構です。

> 自我、と、私はない。は同じということでした。では、生まれてこの方不変の気づいてる意識は、それと同じでしょうか?違うでしょうか?

違います。
自我の気づきには対象が必要ですが、気づいている意識は、単に「在る」ということに気づいているのであり、何がとか、どんな形でとか、どのようにとかとは無縁です。

> そして。生まれてこの方不変の気づいてる意識は、なにが感じるのでしょう。自我ですか?生まれてこの方不変の気づいてる意識が、それ自身を感じるのでしょうか?

上述したように、「何が」とは無縁なので分かりません。
気づいているのは自我ではないと思いますが、自我は「気づいている意識が在る」と解釈していると思います。

No.7056 - 2019/10/16(Wed) 20:20:46

Re: / ubik0101
では、質問です。気づいてる意識は、真我でしょうか?違うのでしょうか?真我も設定されていますか?

ところで、反論を望むのなら、それはシミュレーション仮説が正しいかどうかを検証したいということでしょう。すでに反論してると思うのですが、そこはゆらぎさんからは反応がないのです。

たとえば・・・二度見しないと、シミュレーション仮説が成立しなのです。シミュレーション仮説は、ゆらぎさんが言ってるように、現象の解釈でしょう?現象そのことではないということでしょう。そう気がつくなら、それは自身で検証できることではないかと思います。

それで、こちらの話をしますので、ゆらぎさんと、どう違うか探ってみるといいかもしれません。もちろんどんな宗教とかの関係もないので、用語の違いとかありかもしれませんし、とくに体験主義でもありませんし、単に私はこうだよ。という話です。けっこう省きますが、長文になります。

あるとき突然、意識と無意識が融合し、超意識状態になりました。自我の仕組みが開示され、明るい世界が発現・・・そこにあってそこは・・・喜びも悲しみも、努力も怠惰も、善も悪も、美も醜も、生も死も、ありとあり得ること、ありとありえないこと、森羅万象が完全に活動してる、それが体験としての因果です。

ここでは世界の総活動とも呼んでいます。総てが活動してるのですから、たとえば善と悪の両極端ではなく、その中庸でもなく、どこにも留まれない、それでこれを中道とも呼びます。

縁起は、空っぽ、無自性という意味ではありません。因縁、因果、縁起に拠って、事象が生じてるのではありません。ウィキペディア、そのほかの言うことは間違っています。物質、知覚、感情、意識・・・事象の活動が、因果なのです。

その体験は、こちらの場合は歓喜を伴いました。何が喜んでるのかって、ありとあらゆること、ありとありえないこと、たとえば善と悪、生と死・・森羅万象の活動・・・世界は歓喜状態にあるのです。

とてつもない活動ですが、理想エンジンが音を出さないで高速回転するように、静かなのです。知覚が完全に機能して知覚の領域を超えます。

そこから愛またその因果の第一原因である、神、実在の体験に続くのです。神、実在は、あきらかに自性、それがそれの原因です。自己はその直系です。

人はこの世界で、泣いたり笑ったり滑ったり転んだり、自分を自分で創ってるのですから、自性でもありますが、無自性でもなければ、そんなことはできないでしょう。

その体験は激流ですが、日常は、緩やかな大河の流れです。これを説明しようと、因果から物事の起こり続けるさまを抽出して、自性がないと説明してるのが、空の概念と思います。無自性そのことは、ありようがないのです。ふつう、縁起と言えば・・・ものことの何かと何かの関係、それは相依性、空と言ってるでしょう。空だけではありえないということです。

ただ人の体験としては、自分は空っぽ、というのがあるので、そこから縁起に入ることもあるのです。そこからまたその原因である、神、実在の体験に続くこともあるでしょう。

そこで世界は、実在でもない、虚無でもない空だ。と言います。もし知的な理解ができるとしたらですが、空は、そこへの扉、とも言えます。

これをまとめますと、自我は虚構、ない、それから、私は、ある。という一連の体験です。文章の行き違いということもあるかもしれませんが、ゆらぎさんのいう、気づいてる意識は、こちらの経緯では自我だったのです。自己は意識ではないです。話し合いは無駄ではないですが、誰もが自身で見ることです。

ほとんど宗教とか哲学の経験、知識がなくても自己観察だけで、それが出来るのです。素直であること、誠実であること、これだけでいいのです。

No.7057 - 2019/10/16(Wed) 22:24:33

Re: / ゆらぎ
> では、質問です。気づいてる意識は、真我でしょうか?違うのでしょうか?真我も設定されていますか?

前にも述べましたが、自我をアプリケーションだとすると、気づいている意識はOSのようなものだと思っています。それを真我と呼ぶのか、OSまで含めて自我と呼ぶのか、それによって違ってくるでしょう。
真我も設定されていますか?という意味がよく分からないのですが?

> ところで、反論を望むのなら、それはシミュレーション仮説が正しいかどうかを検証したいということでしょう。すでに反論してると思うのですが、そこはゆらぎさんからは反応がないのです。

私が反応しないのは、反論だと認識できていないからだと思います。
具体的に指摘して戴けますか?

> たとえば・・・二度見しないと、シミュレーション仮説が成立しなのです。シミュレーション仮説は、ゆらぎさんが言ってるように、現象の解釈でしょう?現象そのことではないということでしょう。そう気がつくなら、それは自身で検証できることではないかと思います。

これも、反論だと認識できていません。
繰り返しになりますが、二度見の何が問題なのでしょうか?
そして、何を検証するのでしょうか?

> それで、こちらの話をしますので、ゆらぎさんと、どう違うか探ってみるといいかもしれません。もちろんどんな宗教とかの関係もないので、用語の違いとかありかもしれませんし、とくに体験主義でもありませんし、単に私はこうだよ。という話です。けっこう省きますが、長文になります。

有難うございました。
私は体験していないので、申し訳ありませんが、全く理解できません。
そこで、質問させて下さい。
どう違うか探ってみるというのは、何を探るのでしょうか?
この体験の何が重要なのでしょうか?
体験したことにより、ご自身の何がどのように変わったのでしょうか?
そして、ubik1010さんは、何を目指しているのでしょうか?

No.7058 - 2019/10/17(Thu) 05:00:10

Re: / ubik0101
>前にも述べましたが、自我をアプリケーションだとすると、気づいている意識はOSのようなものだと思っています。それを真我と呼ぶのか、OSまで含めて自我と呼ぶのか、それによって違ってくるでしょう。

アプリケーションとかOSとか、たとえ話では、どれが自我とか真我とか、こちらでは、特定できないです。

たとえばですが、一休の美しい詩があります。

本来の面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ

真我は真我だ。と了解できるのです。

ゆらぎさん自身が、気づいてる意識を、真我と見なしていますか?見なしていないのですか?という質問です。

あるいは、喩え話ではなく、この世界が、ほんとうにどこかの電算機につくられてる世界だとしたら、なにもかも、事象も知覚も自我も真我も神、実在も、ないもあるも空も・・・森羅万象が、プログラムだということで・・・そして、どこかの電算機も、また、ほかの電算機のプログラムとか・・・それが仮説ではなく、証明できる事実なら、誰も反論できないのです。

>真我も設定されていますか?という意味がよく分からないのですが?

真我も、シミュレーション、プログラムされていますか?されてないですか?真我はシミュレーション世界の埒外にありますか?特例ですか?という意味です。これも証明できますか?という話になります。

>これも、反論だと認識できていません。
>繰り返しになりますが、二度見の何が問題なのでしょうか?
>そして、何を検証するのでしょうか?


シミュレーション仮説は、現象そのことでなく、思考による解釈であることが疑問。ということです。解釈では単なる世界観でしょう?その解釈の真偽は、解釈してる、ゆらぎさんが自分で判断できるのでは?と、提案しています。

そこで、なにもかも完全にシミュレートされてるか?森羅万象を調べる。理論物理学?量子力学?がシミュレーション仮説の根拠なら、こちらは知りませんが、それが絶対に正しい理論か?とか。

あるいは、シミュレーション仮説を、ゆらぎさん自身に適応してみる。ゆらぎさん自身もプログラムなんだろうか、これが検証の手段になるかも、という提案です。真我を、シミュレーションの埒外とするのであれば、シミュレーション仮説は、悪夢のような仮説と感じるのです。

>どう違うか探ってみるというのは、何を探るのでしょうか?

ゆらぎさんも、因果とか空とかの話をしてるので、こちらの見たことと、ゆらぎさんの思うことが、どう違うか、こちらの話が参考にできるのでは、という意味で話しました。まったく理解できないなら、ペンディングが適当と思います。

No.7059 - 2019/10/17(Thu) 07:26:51

Re: この超意識がOS / 勘太郎
理解できない事ながら、具体的です。

ゆらぎさんとの対話のなかから、だんだんと核心への道が拓かれて行きます。
最後の橋は、私が渡るしかないのですけれども。

おらの段階でできるのは、二度見しないで生活する事。だと思っています。

二度見しているな、と3度見すると1度見が消えて見ているおらだけが残ります。これを真我と勘違いしていた時もありました。ここは真我の入り口になると思っています。

真我との違いは、自分の身体に留まるか、或はこの静寂が空間と精神に無限に広がり時間方向へも無限となり、世界が一つになるのではないか?と想像しています。

No.7060 - 2019/10/17(Thu) 07:30:04

Re: / ubik0101
>二度見しているな、と3度見すると1度見が消えて見ているおらだけが残ります。これを真我と勘違いしていた時もありました。ここは真我の入り口になると思っています。

勘太郎さんも、とても独特と思います。こちら三度見、できないです。見てるおらだけが残るということは、部屋、猫などの対象が消えて、意識だけが残る、ということなのでしょうか。参考になるかもしれません。どこかに投稿した覚えがある、体験談です。

そ、いえば。小学2年生、片田舎の木造教室です。音楽室みたいなところで女先生がオルガンを弾いて、オクラホマミキサーを踊る練習をしました。あんまり運動神経はよくないけど、なんか凄ーい、踊りを覚えられるんだ。と自分に驚きながら、練習していました。

とくに女の子の手をとって上に挙げて、どうやってその子を、くるっと回転させたらいいんだろう?が不安だったのですが、いざとなると、なぜか女の子は自然に魔法のように回転するんです。(もちろん女の子が自分で回転してるのですが、そいうことに意識がなかったです。)ああ、これもなんか凄い、そんな感覚でした。

それで練習が終わり、初めて隣のクラスと一緒に踊ることになりました。すると、同級の男の子たちが、きゃーきゃー言って逃げるのです。なぜ?って聞いたら、隣のクラスの女の子の一人が、凄く可愛いのだそうです。その女の子から、逃げてるのです。

ふーん。そんなの、なんだ?と思いました。というわけで、オクラホマミキサーが始まりました。あと3人でその女の子・・・緊張する自分が判りました・・・と、その女の子との視線が空中で2、3度ほど交差して・・・早くこちらを見ろともどかしい気持・・・それから初めて、ぴったり視線が合ったのです。

その瞬間、ズームのように、その女の子の顔が急激に拡大して、自分という視線の始まる面を突き抜けて(SF映画のワープのように拡散して)その女の子が見えなくなったのです。その瞬間に初恋でした。

それで、その女の子、愛ちゃんという名前でしたが、消えたんです。世界もホワイトアウトしたのです。それでも踊ったのでしょう。ほとんど感覚のない自分の足が動いてる感じが、わずかにわかりました。でも、どうしたんだろう、という気持です。

それで自分の手を上に挙げたとき、 愛ちゃんのいる辺りを、じっと眼を凝らして見たのですが、やはり見えません。ただ視線の上辺に、幽かに木造教室の天井あたりにある窓の風景が見える気がしただけです。

で、その風景は自分で幻想してるんだろうか?と思いました。と、今度はブラックアウトしてしまいました。まったく意識なしです。その後、いきなり普通の知覚できる世界が開けたのです。

ホワイトアウトは、意識はあったので、 たぶんですが、意識はアナログTVの放送終了後の砂嵐・・・液晶画面のバックライト・・・のようなこと、それがないとなにも映らないけど、そのことはただ明るさ・・・それもないと時間の感覚もない・・・ようです。

No.7061 - 2019/10/17(Thu) 20:02:52

Re: / ゆらぎ
> >前にも述べましたが、自我をアプリケーションだとすると、気づいている意識はOSのようなものだと思っています。それを真我と呼ぶのか、OSまで含めて自我と呼ぶのか、それによって違ってくるでしょう。

> アプリケーションとかOSとか、たとえ話では、どれが自我とか真我とか、こちらでは、特定できないです。

そうですか。私には一番ピンとくる例えなのですが・・。

> たとえばですが、一休の美しい詩があります。
> 本来の面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ
> 真我は真我だ。と了解できるのです。


本来の面目坊に出会ってないので、分かりません。

> ゆらぎさん自身が、気づいてる意識を、真我と見なしていますか?見なしていないのですか?という質問です。

ですから、「形而上の事は分からない」です。
真我が何かも分からないのに、見なすも見なさないもありません。
自我とは異なると思っており、その理由も説明しています。

> あるいは、喩え話ではなく、この世界が、ほんとうにどこかの電算機につくられてる世界だとしたら、なにもかも、事象も知覚も自我も真我も神、実在も、ないもあるも空も・・・森羅万象が、プログラムだということで・・・そして、どこかの電算機も、また、ほかの電算機のプログラムとか・・・それが仮説ではなく、証明できる事実なら、誰も反論できないのです。

まず、つくられている世界は、事象・知覚・自我までです。それ以降は、不明です。
証明ではありませんが、裏付ける根拠はあります。

> >真我も設定されていますか?という意味がよく分からないのですが?
> 真我も、シミュレーション、プログラムされていますか?されてないですか?真我はシミュレーション世界の埒外にありますか?特例ですか?という意味です。これも証明できますか?という話になります。


真我の定義によりますが、自性だとすればシミュレーション外です。

> >これも、反論だと認識できていません。
> >繰り返しになりますが、二度見の何が問題なのでしょうか?
> >そして、何を検証するのでしょうか?
> シミュレーション仮説は、現象そのことでなく、思考による解釈であることが疑問。ということです。解釈では単なる世界観でしょう?その解釈の真偽は、解釈してる、ゆらぎさんが自分で判断できるのでは?と、提案しています。


二度見とどんな関係があるのでしょう?
前述しましたが、根拠はあります。
https://matome.naver.jp/odai/2147223466919216601?&page=1

> そこで、なにもかも完全にシミュレートされてるか?森羅万象を調べる。理論物理学?量子力学?がシミュレーション仮説の根拠なら、こちらは知りませんが、それが絶対に正しい理論か?とか。

絶対に正しいかどうかは、分かりません。

> あるいは、シミュレーション仮説を、ゆらぎさん自身に適応してみる。ゆらぎさん自身もプログラムなんだろうか、これが検証の手段になるかも、という提案です。真我を、シミュレーションの埒外とするのであれば、シミュレーション仮説は、悪夢のような仮説と感じるのです。

どこが悪夢なのでしょうか?

> >どう違うか探ってみるというのは、何を探るのでしょうか?
> ゆらぎさんも、因果とか空とかの話をしてるので、こちらの見たことと、ゆらぎさんの思うことが、どう違うか、こちらの話が参考にできるのでは、という意味で話しました。まったく理解できないなら、ペンディングが適当と思います。


ペンディングにするしかないですね。
それより、以下の質問に答えて戴けると嬉しいです。
この体験の何が重要なのでしょうか?
体験したことにより、ご自身の何がどのように変わったのでしょうか?
そして、ubik1010さんは、何を目指しているのでしょうか?

こちらの切り口であれば、ubik1010さんとの接点が見いだせると思います。

No.7062 - 2019/10/17(Thu) 20:16:43

Re: / ubik0101
>ですから、「形而上の事は分からない」です。

シミュレーション仮説では、この世界はリアルではなく、幻なんでしょう?形而上のことは分からないもなにも、ないと思います。シミュレーション仮説では、却って形而上のことが幻ではなく、リアルかもしれません。体験は形而上のことではなく、出来事です。

>二度見とどんな関係があるのでしょう?

なにか起きます。そしてこれはプログラムされてるから起きたのだ。と思考で判断して、その起きたことを二度見してませんか?あるいはそこから、その起きたことを証拠にしてシミュレーション仮説を正当化してませんか?ということです。二度見しなければ、どんな世界観も起きません。

このように主体と思考が分かれてるということが、プログラムとその製作者という、シミュレーション仮説として投影されて思考されてるのかもしれません。つまりシミュレーション仮説は、その人が分離していることを示している、ケースの一例では?

>前述しましたが、根拠はあります。

まず最初にシミュレーション仮説という結論を立てて、論じて、しかも実証されてないので、根拠でもないと思います。たとえば二重スリット実験は、必ずシミュレーション仮説でないと説明できないというわけではないようです。

>どこが悪夢なのでしょうか?

ゆらぎさんという真我(自性)は、シミュレーション世界(無自性)の外にいるユーザー、あるいは創造者なのですか?ゆらぎさんが、この世界を操作、あるいは創ってるのですか?私や、hatoさん、勘太郎さん、トランプ大統領は、ゆらぎさん操作、製作の、プログラムだとしたら、悪夢では?

>この体験の何が重要なのでしょうか?

重要というより、起こったことを言ってるだけです。体験が起こらなかったら、生まれて・・・損した得した恋をした・・・死ぬだけの人生だった、と思います。それが起こらなければ知りもしなかった人たちに会うこともなく・・・こうして掲示板で話をしたりしています。

>体験したことにより、ご自身の何がどのように変わったのでしょうか?

それまで自我と気付かず自我として生きていました。体験は、真我の発現です。自我は死んで消えてしまうでしょう。世界の構成要素、物質、知覚、感情、意識は使いまわされ、輪廻するでしょう。ない、もなくならないと言えますが、ある、もなくならないです。私がそんな人だというだけです。

>そして、ubik1010さんは、何を目指しているのでしょうか?

ここがシミュレーション世界でも、因果世界でも、現象界でも、ここに帰らないつもりです。そんなことを聞かれなければ考えませんが・・・行き先は、どいうわけかわかりませんが、実在に還る、そしてその向こう、です。♫口笛を吹きながら、歩いて行こう。ほかの誰かのことは知りません。

No.7063 - 2019/10/18(Fri) 06:58:17
おらがよく見る寝太郎さんの書き込みです。 / 勘太郎
他人と孤独について

私は、他人にも意識があると信じています。自分の意識の内部に留まらざるを得ない以上、他人に意識があることを確認することはできません。しかし、私にとって重要なのは、私が物心ついたときに既に素朴に「他人に意識がある」と信じていたという事実です。この事実は、この世界に複数の意識があるということよりも、ずっと不思議です。なんとなれば、生まれて此の方、私は私自身の意識しか直接的に観察(内観)したことはないのに、また、学校の教科書に「他人にも意識があります」と書いてあったわけではないのに、他人にも意識があると自然に考えるに至ったからです。そして、私の見聞によれば、誰もが同様に、他人に意識があると素朴に信じているようです。そういう意味で、私自身も含め、本当の意味での独我論者(この世界には自分の意識しか存在しないと信じている人)はいません。

これを読んで、おらが感じたのは「世界は私が創り出したものだ」です。

おいらは、他人に意識があるかどうかは?解り得ない。ubik0101さんもハトさんも、おらの意識にすくいあげられた現象(文字から浮かび上がったおいらの中の思考)です。おらの意識の一部です。 
月も金星もおらの意識が見る景色で、おらの意識の中にあります。

独我論でしょうけれども・・・・。おらの意識の中にしか世界は展開できない様に感じます。

寝太郎さんの文を何回も読むと、おいらの気持ちの更に奥に進んでいる様にも感じます。

No.7026 - 2019/10/09(Wed) 19:35:25

Re: おらがよく見る寝太郎さんの書き込みです。 / ubik0101
あー、そうですね。他人に意識があるとかないとか考えたこともないです。それは他人に意識があると信じ切ってるから、疑ったこともないのかもしれません。考えてみると、そうですね、他人は、そいうなにか反応で、自分しかないという解もありそうです。そこで自分に意識があるのでしょうか?そして意識って何?てことになると思うのです。意識は意識されないと意識ではないかもしれません。勘太郎さんに、意識はありますか?
No.7027 - 2019/10/09(Wed) 20:13:54

おらの意識の中にしか世界は展開できない / 勘太郎
と自分で書きました。

意識って何?と質問された時。
意識って、なんだ?と胸の奥を探ると・・何も出てきません。

いつもながらですけれども、意識って何?という問うと いくら力んでもドン詰まりに突き当たり、思考停止になります。
いま 絨毯を眺めながら、意識って何?と考えが無くなって時計の音を聞くことにすり替わってしまいます。

No.7028 - 2019/10/09(Wed) 21:24:24

Re:意識は解らないはずですから / 勘太郎
歯を磨く口の中の感覚として現れる。例えますと、意識が空気で、音を伝えるには空気が必要で、歯ブラシの感覚が意識の・・・・本で読んだ推測になってしまいます。

これが意識だと出せなければなりません。

No.7029 - 2019/10/09(Wed) 21:43:44

Re: おらがよく見る方の書き込みです。 / 勘太郎
思想、観念、言語は、水中の気泡のようなもの。おもしろいね、これ。

全身、水自体なのに、思考だけ気泡みたいになって、水に浸かってない。思考だけね。

他は全部水自体。ワンネス。


そう言われれば、そうかなあ??なんて思います。
時間が現在から過去に向かって流れると書いた方です。

No.7031 - 2019/10/10(Thu) 07:28:47

Re: おらがよく見る寝太郎さんの書き込みです。 / ubik0101
なに言ってるか解りませんが・・・単純に、思考は、メタ現実、メタ世界です。

そいえば・・・おらの意識の中にしか世界は展開できない、と何が言ってるのでしょう。これは、ずーと長い間、疑問でした。何かと、それを見てる何か、あるとして、2重しかないのです。3重を探してみたのですが、あわせ鏡も、見つからない・・・なぜ、なんだろう。でした。

もしかして・・・おらの意識の中にしか世界は展開できない、と言ってるのは、おらの意識の中にしか世界は展開できない、かもしれません。これは、A=Aです。意識はありません。そこで二度見しながら、二度見に気がついてないので、2重に思えるのかもしれません。

あるいは自分とは言葉なのだとか・・・も、ないことはないです。思考の性質とか、知覚のありさまとか、展開できると思いますが・・・なんであれ、なにかを思考したら、それをよく見ること。ありとあらゆることにその思考を適応してみる。その自分に適応してみる。それが探求でした。

No.7032 - 2019/10/10(Thu) 08:28:04

んー、 / ubik0101
なんだか今日は、ずーと、歩いたり魚を焼いたり運転したりしましたが、言葉といえば言葉ですが、思考が自分でした。これはこれで特に問題無いです。これまで、ずっとそうだったのかな?と思うと、そのようです。とくに思考してる主体とかなくてもいいようです。
No.7034 - 2019/10/10(Thu) 19:26:09

探ってみました。 / ubik0101
なにか見ます。思考します。これを何が見てるのだろう?と探ります。すると、見てる主体だろう。というわけで、見られてる思考が見てる主体を探る・・・主体が思考に乗り移って、その生まれ故郷である主体をさぐる・・・二重しかないと思うのです。

これは見る主体を探ってるので、二度見です。見る主体と見られることが二重なので、分離してると言えます。二度見してない、ふつうの日常では、見られる思考、つまり知覚しかないです。見る主体はないです。でもこれ以前では?

単に、見る聞く思考する、が機能してるだけです・・・不思善、不思悪、正与もの時、那箇か是れ明上座が本来の面目・・・あえて言うと、ないのです。ない、が本来の面目です。それは、私は私を自覚できない・・・です。そしてその奥。です。

数年前、どこかの掲示板で紹介されてた・・・物事はただ起こってるだけ、私はない・・・というビデオがありました。これは、物事と私のあるないを結びつける必要は、因果は、まったくないですが、結び付けてるだけです。私はないなら、私はない、だけです。

そいうことを結びつけるのは、どっかで聞いたこと教えられたことを言ってるだけかもしれません。またそんなことを認識したら、その認識は変化します。一、奪人不奪境 二、奪境不奪人 三、人境俱奪 四、人境俱不奪、です。人と、事象、世界、との関係は無関係なので、こう関係します。

私はない、は、たとえば現実が10万画素のデスプレイから何百万画素になったような鮮明な実感が伴ないますが、物事は勝手に起きてても、私が起こしていても、私はない、です。私は私が知覚できない、私はないは、私は私、ということです。

No.7037 - 2019/10/13(Sun) 06:56:11

Re: 小乗と大乗との区別は解らないのですが / 勘太郎
 ゆらぎさんは小乗的かな??と
こちら側から自分を観る。

大乗は どかんとジャンプして彼岸に渡って、こっちの側を眺める。

これから小乗と大乗を調べます。順序が逆ですけれども。


 以前おいらが合わせ鏡の中に多重に映る自分を見ると書きました。ubik0101さんが3重以上は無いとおっしゃるのを見て、よくよくみると本当に2度見までて、3度見は無いように思います。
 時間的に3度見はできない? 

おお!!、大発見です!! 大袈裟です
3度見しようとすると、何を見ようとしてしたのかな?心に何も浮かばなくなるのです。無思考になり、短い空白の後、時計の音が聞こえ始めます。

 時計の音を聞いているな→2度見
その前は何していたのか?と探ろうとしても時計の音を聞いている自分しかいません。胸の中にぽっかり大きな空洞ができます。
3度見はできないです。

ディスプレー10万画素が何百万画素に瞬間で変わる。具体的な表現です。面白いです。

《私は無いは、私は私、ということです。》はおいらの段階ではどうしても、見えない何かが見ているのだから、主体を私とすれば私は私。しかしながらおらの身体ではない、と想像になってしまいます。実感がありません。困ったものです。

No.7045 - 2019/10/14(Mon) 18:48:52

Re: おらがよく見る寝太郎さんの書き込みです。 / ゆらぎ
> 単に、見る聞く思考する、が機能してるだけです・・・不思善、不思悪、正与もの時、那箇か是れ明上座が本来の面目・・・あえて言うと、ないのです。ない、が本来の面目です。それは、私は私を自覚できない・・・です。そしてその奥。です。

「機能しているだけ」を換言すると「起こっている」ということになります。

> 数年前、どこかの掲示板で紹介されてた・・・物事はただ起こってるだけ、私はない・・・というビデオがありました。これは、物事と私のあるないを結びつける必要は、因果は、まったくないですが、結び付けてるだけです。私はないなら、私はない、だけです。

愚さんのところで私が紹介した大和田菜穂さんのビデオかもしれないですね。
その結びつける機能が自我だと思います。
単なる機能なので、「私(自我)はない」です。
しかし、「私(正体不明)はあると気付いている意識」はあります。

No.7046 - 2019/10/15(Tue) 05:52:58

Re: おらがよく見る寝太郎さんの書き込みです。 / ubik0101
> 《私は無いは、私は私、ということです。》はおいらの段階ではどうしても、見えない何かが見ているのだから、主体を私とすれば私は私。しかしながらおらの身体ではない、と想像になってしまいます。実感がありません。困ったものです。

私はない・・・私が私を見るのですから、私はない、の。ほかにないです。説明になりますが・・・なにか私が、いかなる私のほかのもの、たとえば犬とか、赤とか、青とか、嬉しいとか悲しい、思考・・・知覚認識思考出来ること、出来る可能性があること・・・でありようがないということです。端的には、私は透明です。

それでも、ときに向こうから歩いてくる知らない誰かが、風景が、私だったりします。これはとても微妙ですが、なんか独特の感覚があります。たぶん、見られてる思考が見てるのではなく、見てる自分が見てるのです。主体が見てるのです。もしかして普段は二度見されてる自分が世界を見て、そのことに気づいてないかもしれません。

またときに思考が止まります。というより、雲散霧消、掻き消えます。また逆に。あっ、思考がなかった、ということに気がつきます。これは思考の雲が晴れ、とても鮮やかな高精細な世界が発現します。起こってる物事、因果は静止します。時間は静かに止まります。私は、ない、の実感です。見てる、こちら側、主体がないのです。

No.7049 - 2019/10/15(Tue) 06:49:36

Re:揚げ足をとるのではありません。 / 勘太郎
 機能するとは、主体があって、それが働く。主体は」「私」
起こっている、は起きていいる事と自分が分れている様に感じます。

 覚者の感覚では、世界は私が「起こしている」という感覚があると読んだことがあります。

この感覚について。おらはいままで、「世界が私である」と聞くとおらの足がおらの物という感覚と同じ感覚なのだろうと思ってきましたが・・・この感覚の種類がどうも違うようです。

大乗と小乗はゆらぎさんのシュミレーション理論と関係なかったです。小乗は自分が治まってから他を治める。大乗は自他同時覚醒。日本仏教は全部大乗だそうです。

No.7051 - 2019/10/15(Tue) 07:25:52
落ち着になりましたら、短いふみを書き込んでください / 勘太郎
ゆっくりのたよりで結構です。
No.7038 - 2019/10/13(Sun) 18:03:23

Re: 落ち着になりましたら、短いふみを書き込んでください / ubik0101
台風のことでしたら、とくに問題なしです。2,3下のスレッドに、続きの投稿しています。

新しい投稿があったら、そのスレッドが一番上になる、トップソート機能をオンにします。

No.7040 - 2019/10/13(Sun) 18:36:48

Re: 落ち着になりましたら、短いふみを書き込んでください / hato

昨日は一日、時折強い雨が降る程度、この辺りは幸い風もそれほどでもありませんでした。明けて、各地の被災に驚いています。今日は近隣どこも秋祭り、笛太鼓、電飾屋台がそこここで練り歩いています。

No.7041 - 2019/10/13(Sun) 18:57:39

Re: 落ち着になりましたら、短いふみを書き込んでください / hato

勘太郎さん、ご心配頂いてすみません、お気遣いをありがとうございました。☺

猫散歩中に、コタロウがなにかじっと見ているので、なにかと思ったら、・・オケラでした。今年は2度目です。

No.7043 - 2019/10/13(Sun) 22:45:21

Re: 落ち着になりましたら、短いふみを書き込んでください / hato

空は透き通った青でした。柿が日に日に、色付いてきます。

No.7044 - 2019/10/13(Sun) 22:48:32
(No Subject) / hato

ゆらぎさんへ

お忙しそうですね。いい季節ですが、また台風だって。家には4連の窓があるのですが、雨戸がないんです。💦
スレッドが長くなりすぎるので、こちらにしますね、わかりにくかったらごめんなさい。


>理論物理学など、最近は観測できないものが主流だと思います。

数学を主とした分野ですね。数学は不思議に通じる・・感じがありますね。数式。世界を紐解く感があります。けど、ことに人、その自己については、理解の飛躍が不可欠ではないかと思いますね。


>> 人、という不可思議については、自我・真我、どちらでも。人は人。でいいと思います。
>自我と真我は全く違うのですが?
>自我は認識出来ますが、真我は認識できません。



個別にそのことを指して話す必要があるときは、自我、真我、でいいではないですか?。どちらに於いても、人の不可思議に差異はないと自分は思います。なので、人は人、と言ってます。


> 「自由意志が無い」ということは信じていますよ。自分で認識出来ますから。


自分は、自由意志、無いとも言えるし、有るとも言えます。


>何が不可逆なのでしょうか?
>どうして、破綻が明らかなのでしょうか?


世界の現象の側から、物理科学的な観点から、との意味ですが、自己(真我でも構いませんが、)の不可思議について、網羅との意味で得る、ことは不可能です。これが、ここでの不可逆です。自己は認識できない、とはゆらぎさんもお話しでしたね。既に世界でないことを、現象の様式で網羅することは不可能でしょう。ここにはどうしても、飛躍があると思います。念のため、自我であっても、自己であっても、本来、人、その不可思議は認識できません。ですが、知覚や想念、肉体に重点が置かれると、それ自体を、塊としての自分と感じるのかも知れない・・と思います。

ただ、現象世界についてならば、数学はそこに導かれる感じがします。人には言葉があり、・・世界には数式がある、?・・と思います。まあ、わかりませんが。


>不可思議であるならば、そもそも得ることなど出来ないのでは?


得る、というのは表現ですが、科学によって、知る、との意味で言いました。ここでは自己を指して言ってます。上に書いたとおり、現象世界についてならば、ある程度可能なことかも知れない、と思います。

また、得る、(表現上ですが、)ことができるとしたら、何度もすみませんが、「人が、不可思議であり、その成長。」と思います。成長でも変容でも変化でも、いいのです。

ここは、人が見る表現により、なにも起きてない、とか、総て起きた・・とか、どちらでもないけど、・・・とかさまざま言い方があるようです。ただこの意味で、どこか一方に留めることはむつかしいです。どうでもない。けど、こうである、とても、不思議です。


>なぜ、意義がないのでしょうか?


本来、人が追求する向きは、その内側です。人という、不可思議に入っていく、起きてる自体が事態を見る、という、自己探求の話です。言葉が杖であり、方法です。この探求では、なにか自分、が考えてる・・という辺りを逸脱していくのです。

ここではとりあえず、世界という膨大無辺な現象をいつまでも調べてても・・くらいなことかと思います。

No.7035 - 2019/10/11(Fri) 01:25:27
(No Subject) / hato

ゆらぎさん、こんにちは。テレビなど見ていて大した夜中ですが、こんにちは。の感じです。👀


>不確定性原理をもって決定されていないとする人もいますが、観測されている時には、粒子性を示すということが確定しているのです。それが、シミュレーション仮説の根拠にもなっています。


難しいことはわかりませんが、誰であれ、人が観測して物理学は成立しているのですね。人の意図が影響しているかも知れない結果を根拠にできるのでしょうか?とりあえず、物理あたりですと、そうせざるを得ないわけですね。自分はその辺り、脳がついていかないお陰で、とり憑かれずに済んでいる状況です。


>私は、「人」を自我と定義しています。
>ここが違っていると論議にならないのですが、hatoさんの「人」の定義は何でしょうか?



人というのは、この、不可思議です。自分はこの場合、人間とはいいません。


> 絶対だと位置づけることにより、保護膜となって真実を隠してしまいます。ですから、仮説としているのです。


というよりは、たとえ仮説であれ、人がそれを信用していればそのようになりやすいとして、どちらかといえばこの場合は、仮説が真実を隠していると言えるでしょうね。


>決まっているなら、あれこれ考える必要もありません。考えると、自分の利益に目が行き、自分のやりたかったことと違う方向に行ってしまいます。


いずれにしろ、ここでゆらぎさんが言われる状態が、「考えると自分の利益に目が行くような・・」、そのために、「やりたいこととの葛藤が起きる・・」自我、であるとするなら、成長(変容)は、自然な成り行きでしょう。と思いますね。ふつうはそうです。

真偽不明な仮説を用いてまで、その自我を守ろうとされてる、それはいったいなんでしょう。ということですね。


>「何をやってもいい」と言っても、自由にできることはありません。自分の信念に従って選択することしか出来ないのですから、悩む必要が無くなりました。選択に悩む必要が無くなったので、逆に自由になったのです。

とはいえ、ゆらぎさんは、強い信念に従ってご自身を律して、お仕事やその日常を、精一杯努められていられるのでは、と思います。伝わります。ゆらぎさんのお仕事で、助けられる方が多くいらっしゃるのでしょう。

No.7013 - 2019/10/07(Mon) 01:01:40

Re: / ゆらぎ
ubik0101
> もしかして自由意志がないということは、自分の意志は自分で決められない、変えられない、という意味でしょうか?それなら、因果のままにというより、因果として生きる私。ということでしょうか?それなら、誰かと挨拶する、しないだけでも、人は世界の運行を変えています。

自由意志がないということは、そういうことです。
誰かと挨拶する、しない、確かに選択肢はいろいろありますが、選べるのはひとつだけです。
変えているのか、そうなっていたのかは、区別がつきません。

> また、この世界では、自由は不自由として現れる、です。こいうこと、あいうこと個別のことは不自由でしかない、それは、自由の現れだ、不自由が自由の証明だ。ということです。笑うこと、泣くこと、それはそれでしかないので、不自由だ、なんですが、そのことが自由の証明。ということです。

ですから、私は自由意志が無いことが腑に落ちて、自由になったと何度も申し上げています。

> ここは世界は、この瞬間に開闢したということが自性のあるないということではなく、世界と違う要素。その世界を見てる、その世界と分離した自分との関係がないと・・・その世界観に、リアリティがないという意味です。

全ては関係しており、無関係ということはないと思いますが?

> たとえ運命が決まってても、決まってなくても悩まないというのは、誰かのことを話してるのではなく、私はこうだよ。ということです。おそらく赤ちゃんは悩まないでしょう。でも悩む可能性があった・・・

それは承知していますし、私も悩まなくなりました。
一般論として、人が悩むのは、それが自我の特性だからということを言いたかったのです。

> なんにしても誰であれ、その人がいないと、変化するだろうと変化しないだろうと、そんなことは起きないでしょう。人と世界の共同作業ということです。分離と全体の共同作業とも言えます。変わる変わらないでもないその人は知覚され得ない、です。

全ては、その人の中で起きているのかもしれません。

hatoさん
> 難しいことはわかりませんが、誰であれ、人が観測して物理学は成立しているのですね。人の意図が影響しているかも知れない結果を根拠にできるのでしょうか?

人が観測して物理学が成立しているのでなく、観察効果という現象を発見したということです。RPGと同じで、人が見ている場面しかリアルに描かれていないかもしれないということです。もしかすると、触感があるところだけ粒子化されていて、見ているところは波動、つまり色だけで成り立っているのかもしれません。

> >私は、「人」を自我と定義しています。
> >ここが違っていると論議にならないのですが、hatoさんの「人」の定義は何でしょうか?
> 人というのは、この、不可思議です。自分はこの場合、人間とはいいません。


つまり、「本来の自己」ということですね。
そうなると、範囲が広すぎて話が噛み合わなくなるのも理解出来ました。

> > 絶対だと位置づけることにより、保護膜となって真実を隠してしまいます。ですから、仮説としているのです。
> というよりは、たとえ仮説であれ、人がそれを信用していればそのようになりやすいとして、どちらかといえばこの場合は、仮説が真実を隠していると言えるでしょうね。


信用していればそうでしょうが、信用なんかしていませんよ。
基本スタンスは、「形而上的なことは分からない」です。
シミュレーション仮説は、どんな哲学や宗教よりも私にとって合理的なので、そうかもしれないと思っているだけです。このように論議していて、破綻が明らかになれば、いつでも捨てます。

> いずれにしろ、ここでゆらぎさんが言われる状態が、「考えると自分の利益に目が行くような・・」、そのために、「やりたいこととの葛藤が起きる・・」自我、であるとするなら、成長(変容)は、自然な成り行きでしょう。と思いますね。ふつうはそうです。

自我は変容すると思いますよ。

> 真偽不明な仮説を用いてまで、その自我を守ろうとされてる、それはいったいなんでしょう。ということですね。

自我を守るというのは、自我がそうプログラムされているからです。
自我は幻想であり、「本来の自己」とは異なります。
私はそれに気が付いたので、自我に何が起きるか、見守っている状態です。
ですから、感情は動きますが、悩まなくなったのです。

> とはいえ、ゆらぎさんは、強い信念に従ってご自身を律して、お仕事やその日常を、精一杯努められていられるのでは、と思います。伝わります。ゆらぎさんのお仕事で、助けられる方が多くいらっしゃるのでしょう。

律するというより、家庭でも会社でも、その人がやりたいことを出来る限りサポートしようと思っています。そういうことが起こっているということです。

No.7014 - 2019/10/07(Mon) 07:22:09

Re: / ubik0101
>変えているのか、そうなっていたのかは、区別がつきません。

なら、どちらかに断定することはできないのでしょう?これまでの主張は、どうなりました?

>ですから、私は自由意志が無いことが腑に落ちて、自由になったと何度も申し上げています。

それは何も説明なしでしょう?こちらが言ってことは、こちらが、こう、であることを、こうと、そこで言い得ることは隠さず言っています。

>全ては関係しており、無関係ということはないと思いますが?

これまでのことを説明しますと・・・生まれてこの方変わらない意識があるということが、そのシミュレーション世界観との分離ではないか?特例ではないか?と言ってるのです。

つまり・・・ゆらぎさん自身が・・・総てが関係してる、無関係でないとするなら・・・世界と意識も、おなじ成り立ちでなくては、変かな?と思うのです。

つまりプログラムされて幻のように起こってる事象、それに気づいてるプログラムされてない意識。これは分離であり、これの主張はできないのでは?

一般的に、全ては関係しており、無関係ということはない。ということは言えますが、ここで話してることと違うテーマで話されて、意味のすり替えが起きてるような気がします。

>全ては、その人の中で起きているのかもしれません。

これも説明しますと・・・これは、世界が勝手に起きてるだけ、という意見に対して、人と世界の共同作業だよ、と言ったのですが、今度は、総てがその人の中で起きてるのかもしれないとなったので。

おそらく全体の印象ですが・・・ゆらぎさんは、シミュレーション仮説というより、独我論に近いのでは?

No.7015 - 2019/10/07(Mon) 08:36:16

Re: / ゆらぎ
ubik0101さん
> >変えているのか、そうなっていたのかは、区別がつきません。
> なら、どちらかに断定することはできないのでしょう?これまでの主張は、どうなりました?


ubik0101さんが「誰かと挨拶する、しないだけでも、人は世界の運行を変えています」と言われたので、何故そのように断定できるのですか?という意味で書きました。
勿論、私は変えているのではなく起こっていると思っていますが、これも断定することは出来ません。いちいち「思っています」を付けるのが面倒なので、省いているだけです。
「形而上のことは分からない」が私のスタンスです。

> >ですから、私は自由意志が無いことが腑に落ちて、自由になったと何度も申し上げています。
> それは何も説明なしでしょう?こちらが言ってことは、こちらが、こう、であることを、こうと、そこで言い得ることは隠さず言っています。


9/30にも以下の通り説明しています。
何年か前にお邪魔したときも、説明したと思うのですが・・。
「何をやってもいい」と言っても、自由にできることはありません。自分の信念に従って選択することしか出来ないのですから、悩む必要が無くなりました。選択に悩む必要が無くなったので、逆に自由になったのです。

> >全ては関係しており、無関係ということはないと思いますが?
> これまでのことを説明しますと・・・生まれてこの方変わらない意識があるということが、そのシミュレーション世界観との分離ではないか?特例ではないか?と言ってるのです。


シミュレーション世界というのはこの現象界であり、現象界は変化する世界ですから、生まれてこの方変わらない意識と分離しています。

> つまり・・・ゆらぎさん自身が・・・総てが関係してる、無関係でないとするなら・・・世界と意識も、おなじ成り立ちでなくては、変かな?と思うのです。

なぜ変なのかが分かりません。

> つまりプログラムされて幻のように起こってる事象、それに気づいてるプログラムされてない意識。これは分離であり、これの主張はできないのでは?

分離していても無関係ということは無いと思いますが?
起こっていることに気づいているということは、関係しているということです。

> 一般的に、全ては関係しており、無関係ということはない。ということは言えますが、ここで話してることと違うテーマで話されて、意味のすり替えが起きてるような気がします。

具体的にどのようなすり替えが起きているのでしょうか?

> >全ては、その人の中で起きているのかもしれません。
> これも説明しますと・・・これは、世界が勝手に起きてるだけ、という意見に対して、人と世界の共同作業だよ、と言ったのですが、今度は、総てがその人の中で起きてるのかもしれないとなったので。


人と世界と双方に自由意志があれば、共同作業と呼べるでしょう。
私は、どちらにも自由意志が無いと思っていますので、起きているという立場を取ります。人というのは自我というアプリケーションと考えており、自我である自分は世界の中に存在しているとプログラムされていますが、実は世界が自分である自我というアプリケーションの一部かもしれないということです。

> おそらく全体の印象ですが・・・ゆらぎさんは、シミュレーション仮説というより、独我論に近いのでは?

「真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎない」とする立場を独我論とするならば、違うと思います。
自我は実在ではなく幻想だと思っていますから。
しかし、現象界において、自我は恐らくそのように(独我論に似たシステムに)プログラムされているかもしれません。

No.7016 - 2019/10/07(Mon) 21:26:10

Re: / hato

秋の夜長。休みも2日目となると、夜更かしは、早起きのようなものです。ubik0101さんも、新しく買った、高枝切鋏みの袋をしょって、「これ、長い釣り竿入れに使えるな、」と喜んだりしています。

>人が観測して物理学が成立しているのでなく、観察効果という現象を発見したということです。RPGと同じで、人が見ている場面しかリアルに描かれていないかもしれないということです。もしかすると、触感があるところだけ粒子化されていて、見ているところは波動、つまり色だけで成り立っているのかもしれません。

人が観測して、物理学 は成立していますよ。いずれにしても、世界を見ることですら、人は世界に関与しています。ゆらぎさんのお話しだけでも、十分にそれがわかります。

>つまり、「本来の自己」ということですね。
>そうなると、範囲が広すぎて話が噛み合わなくなるのも理解出来ました。


人、という不可思議については、自我・真我、どちらでも。人は人。でいいと思います。

>信用していればそうでしょうが、信用なんかしていませんよ。基本スタンスは、「形而上的なことは分からない」です。シミュレーション仮説は、どんな哲学や宗教よりも私にとって合理的なので、そうかもしれないと思っているだけです。

合理的と思えるほど、信用されていたのでしょう。それを以て、自由意志がない、と腑に落ちられたのですからね。それはおいておくとして、

>このように論議していて、破綻が明らかになれば、いつでも捨てます。

いつか響くといいと思うのですが、ここは不可逆です。破たんは明らかです。人、その不可思議ということを、現象的、物理的観測の見地から、網羅するとの意味で、得ることは、不可能です。というより、そこに意義がないだけです。もちろんこれは、自己探求の上での話です。よく自己を見据えていれば、わかると思います。

>自我を守るというのは、自我がそうプログラムされているからです。自我は幻想であり、「本来の自己」とは異なります。私はそれに気が付いたので、自我に何が起きるか、見守っている状態です。ですから、感情は動きますが、悩まなくなったのです。


ゆらぎさんはおそらく、なにか利己的に働こうとする作用を、自我としてみていらっしゃるということですね。そうした衝動を、行動に起こさずやり過ごす、ということですね。として、じつはその、見守ってる状態のほうが、問題。ではないでしょうか?

まず自我は、ちょっとある、・・一部ある、・・というものではなく、その自我ならば、人が、自我です。ここで言うところの、変容の可能性を秘めてる、自我です。

その、いずれ変容するであろう自我は、現象として、と敢えて言ってみますが、変容を経て、状態が変わります。自己になるとここでは言っています。はじめの頃、書いたかも知れませんが、

人が生まれて自我が芽生えますと、通常は、「自分があって世界がある・・」という向きを主とした有り方を生きます。そこから変化を経て、「世界が起きて自分が有り、」・・また、「その双方向での有り方、」・・と、何を言ってるか不明かも知れませんが、自我の変容とは、実際はこのような、人としての意識の向きと閾値の変化を言います。とても微妙なところです。

意識のされ方が上記の、一方通行の場合(自我の場合)、意識上に於いての、ある、ない、どちらかに偏ります。これはまだ、不可知に対峙してないからと言えます。この場合はどうしても、理解の内容に、そのことが表れてきます。意識が捉えられない、未知に根差していないことが表れるのです。

また、或いは。認識されず、変容を(程度は別にしても)経験されていることがあります。これはすこし困難です。意識がそのことを学んでいないために、おかしな状態、理解になってしまう、妙な信仰に入ってしまう、人がいます。そうであれば、ここは一歩一歩、真実を理解する意志を持って進む、必要があると思います。でないととても、混乱した人生になります。

意識は、そのことを理解するまでに時間がかかります。なにか別のことに意識が捕らわれることも、多くあるかも知れません。大変に微妙で、困難なところでもあると思います。

人の状態はさまざまにあるようで、一概には言えません。それでも、もし人が、「正しい悪いはない・・・」との理解で済ませてしまうなら、もしかしたら、チャレンジしてみるのは、いいかも知れません。善悪どちらか・・・でない、善い。こんな表現もできます。そのことを経験されていても、理解されていなければ、健全に生きるのは困難です。なので、経験の有無、いずれにしても、口笛を吹いてさあ、進もう!という・・

これはチャレンジ、と思います。

No.7017 - 2019/10/08(Tue) 03:37:41

Re: / ubik0101
なんであれ、起こってる事象も、自我も、真我も、神も、ない、ということも、だだ気づいてる意識が自分、ということも、そう設定されてるのだ。ということなら、その世界観に破綻はないと思うのです。気づいてる意識も、それを自分で変えるという意味では自由にはならないのでしょう?

そこで、シミュレーション仮説で、その設定者は不在、ない、としたら、不整合でしょうか?これはこれで、どこにも拠り所がなく、面白いように感じます。また、その設定者は、実在、ある、というより、その解き解れ・・・もちろん説明概念です・・・わりと世界の現状に近いように思います。

ずーと、ずーと昔。黒幕がいて政治家を操ってるかもしれないと思い勝手に憤慨しました。でも、なんだ、そうじゃなくて・・・ただ人が愚か(失礼)なだけなんだ。それがこの混迷の現状なんだ。そう気がついて、スッキリし、思想とか主義、そんなことに興味を失いました。

たとえば挨拶するだけで・・・とは、形而上なことではなく、具体的なことに思います。それで人間関係が変化し、不仲になり、また誰かの捨てたタバコの火で山火事になったりします。これも、ただ起きてると言えば、起きてることなのでしょう。人が起こしてると言えば、そうなのでしょう。どうして同じことが解釈が分かれるのでしょう。責任の所在でしょうか?

また繰り返しますが・・・なにか起こった事実を二度見してるように思えます。そして、ああこれは、そう決定されていたから起きたのだ。と判断してるのではないでしょうか。これも繰り返しますが・・・そして、その思考も起きるように起きてるだけ・・・ということは思考を二度見してませんか?・・こちらは、その意識がなくて、思考したり働いたりしています。

というのも、二度見しないと、いかなる世界観も起きないです。この世界は現象界とします。すると、自由意志はあるでもないでもない、というのが普通と思います。プログラムされても、されてないでもない・・・なんでもありなんですが、それでもある程度の秩序はある。見える聞こえる思考できる・・・不思議です。

そいえばユーチューブで、私は悟った。だから仏陀だ。世界は1つしかない。ほかのこととの比較ができない。だから世界は空だ。とか言ってるのがありました。自性を空だ、と言ってるようにも思えますが・・・いくたの世界観があり得るというのは、なんか世界の透明性を感じます。いかなる個別の世界観がないというのが、自分にとっては簡単で美しいのです。

ところで、素粒子の振る舞いは、観察されるまで分からない・・・観察されるされないで、変わるとします。この場合、観察者は観察されるのでしょうか?観察者とは何?それが問題にされないと、なんか研究のような気がしないのです。これは物理学?ではどう考えられてるか、知っていますか?

全ては関係しており、無関係ということはない・・・と言っても、ただ気づいてる意識は、シミュレーションされてない・・・とかのテーマで話してたのですから・・・シミュレーション仮説でなくても、ふつうに事象に気づいてる意識は全ては関係しており、無関係ではない、でしょうから、シミュレーション仮説とは関係ない話を持ちだした?と感じました。

いろんな定義がありでしょうが、自我には自性がないのに、自性があると見なすのが、独我論とも言えると思います。

No.7018 - 2019/10/08(Tue) 06:30:23

Re: 二度見と / 勘太郎
思考も起きるように起きてるだけ・・・ということは思考を二度見してませんか?・・こちらは、その意識がなくて、思考したり働いたりしています。

> というのも、二度見しないと、いかなる世界観も起きないです。
二度見とは、自分の心を振り返って眺めることでしょうか。
ふむふむ・・・。おらの日常です。
これをしないで、おくと無思考になりますと書いたけれども、この無思考になると解ることは、すでに二度見しています。  ああ、さてどうしたものか・・・・。です。

無思考を探るっているのが、おら。2枚向き合った鏡の中心で鏡を眺める自分。自分の鼻先に結んだ人参を追いかける馬。


> いろんな定義がありでしょうが、自我には自性がないのに、自性があると見なすのが、独我論とも言えると思います。

自性がない=シュミレーションとも感じられます・・・
自性がないから、自由意志で動き成り行き任せ。出たとこ勝負。シュミレーションではなく、でたらめーしよん、とも思えます。

カボチャの出来が悪かったです。100個以上採れる計画が20個くらいでしょうか?それでもほくほくして美味しいです。トウモロコシは、昔の品種で8列キビ。馬に食べさせたので馬キビとも言います。いまのところ害獣にも捕られずなんとか収穫できています。それだけ美味しくないということなんでしょう。粒を剥がして煮て昔の人の生活をしのんでみたいと思っています。本来は粉にしてたべるのでしょう。

No.7019 - 2019/10/08(Tue) 15:37:21

Re: / ubik0101
そうです。二度見しなければ即今もないです。即今も説明概念です。無思考もないです。あたりまえの日常です。これが神秘です。その神秘もなくて、万歳です。どうしても合わせ鏡にはならないのですが、なるとすれば、自分の根拠が自分ではないからかもしれません。自分が自分に距離があるかもしれません。

おなじことですが、自分が自分の根拠、背景なら、自分は自分で知覚されないので、私はない、です。私がないということは、私が私であるということです。この世界の背景、基底は私です。その基底がない、です。世界が、森羅万象が虚空に浮いてる感覚です。もちろん、これもなくても、万歳。見てる聞いてる話してる普通の日常がそうです。

こんな細いトウモロコシは初めて見ます。かぼちゃ、適当な大きさに切って、鍋に重ならないように皮を下にして並べ、かぼちゃの高さの半分くらいになるように煮汁を加えて蓋をします。着火。ぐつぐつ沸騰を始めたら5分で消火・・・予熱で火を通します。冷めてる間に味がしみます。まったく煮崩れせず、ホクホク感ありです。

No.7020 - 2019/10/08(Tue) 17:53:21

Re: 私は無いで、私は私である。 / 勘太郎
「私は在る」ですかね。

これもなくても、万歳。実ってる聞いてる話してる普通の日常がそうです。・・・これから逆算すると。

 二度見していないで生きて行く、でしょうか。

そうなんです。おいらでも、起きている時間の多くを二度見しないで、過ごしています。あれどうだったと過去を振り返れば、過去は記憶に在りません。情景の記憶はありますけれども、その時の自分の記憶はありません。 後から情景を想像しているだけです。
 自分が無いまま、安心して、暮らして行きます。

 先ほど、禅のページに時間は未来から過去に流れるという方が適正なのではないか」とありました。
過去は未来(現在)により上書きされるから、未来から過去に移動する。理性においてもなっとくできます。毎度おなじみの喩です。今ある人を好きになれば過去未来全て好きになり。気移りして嫌いになれば、全時間共に嫌いになる。

カボチャ今蒸らしています。楽しみ・・・うふふ

No.7021 - 2019/10/08(Tue) 19:48:52

Re: うふふ ・・・美味しく煮えました。 / 勘太郎
 明日のお弁当兼おやつ。

苦しみが無くっなったら、苦しみは無くってないです。忘れてるだけです。二度見しない限り、苦しみは無いと云えないですから。ここには分離がありますから、鈴がなります。

さて、苦しみを無くすには・・・どうしたものか・・・。
眠ったら、無いのですけれども。目が覚めたらまた苦しみます。

              おやすみなさい。

眠るのは楽しみです。

No.7022 - 2019/10/08(Tue) 20:49:03

Re: / ubik0101
こちらも時間は前から後ろです。過去から未来というのは思ったことさえありません。たしか歴史の教科書などでは、古代、近代、現代だったような気がします。それは積み重ねとか、進化、変化、因果の順を説明するためなのでしょうか?そんなことより、これから事実として、どうするか?だけが大事と思います。

そいえば・・・スーフィーでは、たとえば今日、昨日、一昨日、一ヶ月前、一年前、十年前・・・というように現在から順に過去に向って記憶を点検する訓練があると聞いたことがあります。

悩まないのは簡単です。愚かでなくあればいいだけです。というのも、自分が愚かだったから、悩みになるような言動をしてきたのだから、悩んでるのではないでしょうか?その原因がなくなれば、オールクリアです。悟りとか呼ばれる体験が、劇的に効果あります。過去を振り返らない強さも求められるかもしれません。

No.7023 - 2019/10/08(Tue) 23:03:44

Re: / hato

うちの2描です。

No.7024 - 2019/10/08(Tue) 23:23:34

Re: / hato

裏の小さな丘に咲くノアサガオです。夕方にはピンク色に変わります。

No.7025 - 2019/10/08(Tue) 23:25:37

Re: / ゆらぎ
hatoさん
> >人が観測して物理学が成立しているのでなく、観察効果という現象を発見したということです。RPGと同じで、人が見ている場面しかリアルに描かれていないかもしれないということです。もしかすると、触感があるところだけ粒子化されていて、見ているところは波動、つまり色だけで成り立っているのかもしれません。
> 人が観測して、物理学 は成立していますよ。いずれにしても、世界を見ることですら、人は世界に関与しています。ゆらぎさんのお話しだけでも、十分にそれがわかります。


失礼しました。「観測されている時には、粒子性を示す」という話のレスだったので、hatoさんの言われる観測とは観察効果のことだと勘違いしました。物理学が観測により確証を得てきたのは間違いないと思いますが、理論物理学など、最近は観測できないものが主流だと思います。

> 人、という不可思議については、自我・真我、どちらでも。人は人。でいいと思います。

自我と真我は全く違うのですが?
自我は認識出来ますが、真我は認識できません。

> 合理的と思えるほど、信用されていたのでしょう。それを以て、自由意志がない、と腑に落ちられたのですからね。それはおいておくとして、

申し訳ありませんが、全く信用していません。形而上の問題は、「分からない」です。そして、それを以って自由意志が無いことが腑に落ちたのではありません。自由意志が無いことが腑に落ちたのが先です。私の日常からは、問題はあっても苦しみはなくなりましたが、シミュレーション仮説に出会った時には、既にそうなっていました。「自由意志が無い」ということは信じていますよ。自分で認識出来ますから。

> >このように論議していて、破綻が明らかになれば、いつでも捨てます。
> いつか響くといいと思うのですが、ここは不可逆です。破たんは明らかです。人、その不可思議ということを、現象的、物理的観測の見地から、網羅するとの意味で、得ることは、不可能です。というより、そこに意義がないだけです。もちろんこれは、自己探求の上での話です。よく自己を見据えていれば、わかると思います。


何が不可逆なのでしょうか?
どうして、破綻が明らかなのでしょうか?
不可思議であるならば、そもそも得ることなど出来ないのでは?
なぜ、意義がないのでしょうか?
申し訳ありませんが、説明して戴かないと全く分かりません。

時間が無いので、続きは別途とさせて下さい。

No.7030 - 2019/10/10(Thu) 05:59:13

Re: / ゆらぎ
hatoさん

続きです。

> ゆらぎさんはおそらく、なにか利己的に働こうとする作用を、自我としてみていらっしゃるということですね。そうした衝動を、行動に起こさずやり過ごす、ということですね。として、じつはその、見守ってる状態のほうが、問題。ではないでしょうか?

これも全く違います。自我とは、肉体と自然に起こる思考や感情を自己同一化しようとするアプリケーションです。そして、考えるより前に決断するということが起こるようになってからは、衝動もわいて来なくなりましたので、やりすごす必要もなくなりました。見守ることなどせず、どんどん進んで行きます。ですから、hatoさんの言われる問題は起こりようがありません。

> その、いずれ変容するであろう自我は、現象として、と敢えて言ってみますが、変容を経て、状態が変わります。自己になるとここでは言っています。

自我の状態がどう変わると自己になるのでしょうか?


> 人が生まれて自我が芽生えますと、通常は、「自分があって世界がある・・」という向きを主とした有り方を生きます。そこから変化を経て、「世界が起きて自分が有り、」・・また、「その双方向での有り方、」・・と、何を言ってるか不明かも知れませんが、自我の変容とは、実際はこのような、人としての意識の向きと閾値の変化を言います。とても微妙なところです。

意識の向きとは何でしょうか?
閾値とは、何の閾値でしょうか?

> 意識のされ方が上記の、一方通行の場合(自我の場合)、意識上に於いての、ある、ない、どちらかに偏ります。これはまだ、不可知に対峙してないからと言えます。この場合はどうしても、理解の内容に、そのことが表れてきます。意識が捉えられない、未知に根差していないことが表れるのです。

上記の一方通行とは、何を指しているのでしょう?
意識上に於いての、ある、ないの対象は何でしょうか?
なぜ、偏るのでしょうか?
意識が未知に根差すとは、具体的にどういうことでしょうか?

> また、或いは。認識されず、変容を(程度は別にしても)経験されていることがあります。これはすこし困難です。意識がそのことを学んでいないために、おかしな状態、理解になってしまう、妙な信仰に入ってしまう、人がいます。そうであれば、ここは一歩一歩、真実を理解する意志を持って進む、必要があると思います。でないととても、混乱した人生になります。

意識がそのことを学んでいないの、そのこととは何でしょうか?
おかしな状態や理解とは、どんな状態や理解でしょうか?
妙な信仰とは、具体的にどのような信仰でしょうか?
真実を理解する意志を持って進んでも、何が真実か分からないと思いますが?

> 人の状態はさまざまにあるようで、一概には言えません。それでも、もし人が、「正しい悪いはない・・・」との理解で済ませてしまうなら、もしかしたら、チャレンジしてみるのは、いいかも知れません。善悪どちらか・・・でない、善い。こんな表現もできます。そのことを経験されていても、理解されていなければ、健全に生きるのは困難です。なので、経験の有無、いずれにしても、口笛を吹いてさあ、進もう!という・・
> これはチャレンジ、と思います。


健全に生きるということは、どう生きることでしょうか?
私は冒険という言葉を使います。
毎朝、目が覚めれば冒険の始まりです。

質問ばかりで申し訳ありませんが、私はhatoさんの言われることを理解したいのです。以前も書きましたが、今のままでは、全くのお手上げです。

No.7033 - 2019/10/10(Thu) 18:35:27
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