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“掲示板”

この世界は人を覚醒させるための触媒です。

口笛を吹きながら / ゆらぎ
>いわゆる眼が覚めていれば気絶してないという意味で意識があるという意味での意識。これは自我とは思えないのが普通かもしれません。こいう私も、その意識がある私が自我とは気がついてもいませんでした。

そうなんです。
「気づいている意識」に気づいているのも自我です。
そして、それは脳の一つの機能であり、そのようにプログラミングされているのかもしれません。

>この世界からの解脱・・・♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう。この日常に総てあります。

考え方や表現は違いますが、この日常を肯定し、全てを受け入れて、目の前の起こったことに対して真摯に一所懸命に取り組み、結果はさほど気にしないという点において、ubik0101さん、hatoさん、勘太郎さんと共通していると思います。

そして、それが「♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう」ということだと思うのです。


hatoさん
> 頭が大きくて、頭内がゆったりしており、神経にさし障ることがないとか、・・でしょうか。頭痛がないて、なんと羨ましいの☺。うちは、頭の大き目なubik0101さんも、小さめな自分も、頭痛はしょっちゅうで、この手の薬もしょっちゅう、使います。🙏

確かに、私の頭は大きいです。(笑)
家内は小さいのですが、二人とも頭痛がないのです。

>ドンマイ!三歩進んで二歩下がる。気を取り直してさあ進もう!未知なる道を、どんどん行こう!と思います。

私も全く同じ思いです。

> ubik0101さんが、「どこま〜でも、行こう〜、みちは〜・・」と嬉しそうに歌ってます。ときどき、庭でじょうろに水を汲みながら、一所懸命歌ってる・・ことが、あります。👀 👀 👀

私もギターを弾きながら、時々歌います。(笑)

No.6995 - 2019/09/29(Sun) 07:43:06

Re: 口笛を吹きながら / ubik0101
たぶん・・・意識のありさまは自我ではなく、世界の構成要素であり、問題なくて・・・その人が実は自我そのことで・・・たとえば、意識のありさまが自我だとしていうことにして了解し・・・自我が完成される。のかもしれません。
No.6996 - 2019/09/29(Sun) 08:54:32

Re: 口笛を吹きながら / hato

虫の声がちょっといい夜です。秋、いい時期ですね。

>考え方や表現は違いますが、この日常を肯定し、全てを受け入れて、目の前の起こったことに対して真摯に一所懸命に取り組み、結果はさほど気にしないという点において、ubik0101さん、hatoさん、勘太郎さんと共通していると思います。
>そして、それが「♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう」ということだと思うのです。



ゆらぎさんは既に、世界は決定されたもの、と観念されていますね。お話しを通して、そこは頑なに死守されているように感じます。そこから世界を確認して、心の安定が生まれてる・・感じがします。

なにか人が安心できる、精神性。宗教でも、信条でも、船を漕ぐオールは、あってもいい。・・けれど、掴んだら手放し、いったん掴んで、手放し、大きく放って・・・どこまでも、行こう。果てしなくとも、・・・それが、探求の有り様です。決定されたなにかに、安堵しない・・できない・・・道はけわしくとも、口笛を吹きながら・・歩いていこう。です。

>変容が起こったということは、そうプログラムされていたということです。

人は、自分から発心、努力します。世界は起こるとして、人も、起こしていく、です。ですので、正しい発心、はとても大切です。世界に意志を発信する、そんなことです。人から閉ざしてしまったら、・・・というよりは、自己を探求しようとした人ならとしか言えませんが、残念なことではないでしょうか。そうでないなら、・・とくに。問題ないのでしょう。

蛙が鳴いてます。すこし、雨が降るのでしょう。

No.6998 - 2019/09/30(Mon) 00:46:49

Re: 口笛を吹きながら / ゆらぎ
ubik0101さん
> たぶん・・・意識のありさまは自我ではなく、世界の構成要素であり、問題なくて・・・その人が実は自我そのことで・・・たとえば、意識のありさまが自我だとしていうことにして了解し・・・自我が完成される。のかもしれません。

自我は、どうなれば完成されたと言えるのでしょうか?


hatoさん
> ゆらぎさんは既に、世界は決定されたもの、と観念されていますね。お話しを通して、そこは頑なに死守されているように感じます。そこから世界を確認して、心の安定が生まれてる・・感じがします。

「ある時点において特定の原子の位置と速度がわかれば、情報を分析することでその原子の未来の運動を予測することができる」、つまり世界が数学的に記述できるということは、ビッグバンの時から世界は決定していることです。決定論を私が肯定し、hatoさんが否定することが起こることが決まっていたということです。
それに、私は「すべきものは何もない」という立場であり、死守するものもなければ、死守する必要もないのです。
そういう類の重荷が、なくなって楽になったのです。

心の安定が生まれているのは、その通りです。
小説にしても映画にしても、そしてRPGにしても、決まっていないものはなにひとつありません。それらが面白く、ワクワクするのは、どう決まっているかを知らないからです。RPGの同じキャラクターを私とhatoさんが操作すると、必ず違うストーリーになるように、決まってはいても多様性はあります。

決まっているなら、あれこれ考える必要もありません。考えると、自分の利益に目が行き、自分のやりたかったことと違う方向に行ってしまいます。
「何をやってもいい」と言っても、自由にできることはありません。自分の信念に従って選択することしか出来ないのですから、悩む必要が無くなりました。選択に悩む必要が無くなったので、逆に自由になったのです。

> なにか人が安心できる、精神性。宗教でも、信条でも、船を漕ぐオールは、あってもいい。・・けれど、掴んだら手放し、いったん掴んで、手放し、大きく放って・・・どこまでも、行こう。果てしなくとも、・・・それが、探求の有り様です。決定されたなにかに、安堵しない・・できない・・・道はけわしくとも、口笛を吹きながら・・歩いていこう。です。

私には、hatoさんの方が「成長したい」「成長しなければならない」という重荷を手放していないように見えます。

> 人は、自分から発心、努力します。世界は起こるとして、人も、起こしていく、です。ですので、正しい発心、はとても大切です。

発心も自分が起こしているのではなく、起こっています。
全てのものを比較検討し、決めたのではありません。
自分の心に浮かんで来たものしか、選択出来ません。
そして、それは自分という自我の特性から選択が起こっているのであり、正しいも間違いもないのです。

No.6999 - 2019/09/30(Mon) 06:14:28

Re: 口笛を吹きながら / ubik0101
自我は虚構です。世界の構成要素、物質、知覚、感情、意識によって作られる、仮の自己です。その中心は、ない、です。ない、が、どうなる、こうなる。というのではないです。

そこで、たとえば。初めから、ない、のだから、そのままでいいいんだよ。という意見も成立します。それはそれで、そう言い得ることができるのですし、そうありえることができるのですから、そんな世界なので、そのことに何の問題も見いだせません。もっと簡単に言うと、いろんな人がいるね、です。

こちらも、いろんな人のひとりです。たとえばですが・・・学ぶことはない、そのままでいい、悟りはない・・・それは、自己の言うことではなく、世界の構成要素の言うことであり、自我の言うことです。と、言います。

どんな世界観、意見だって、それに突っ込むことはできるでしょうし、また逆、それが間違ってないという、理由も説明も、そうできなくても、ただ言い張ることもできるのではないでしょうか。誰と誰であれ、意見の違いで対立しても、しかたないでしょう。

ここで探ろうとしてることがあります。なにか体験が起こります。瞬間的な、突然の成長、変化に思えます。そして一方、なにも変わらない、ということも言えるかもしれません。

どっちでもない、です。どっちでも、間尺に合わない、整合性がないのです。この掲示板の表題ですが・・・世界は触媒、です。まあ、このことを上手く言えたらいい・・・ぼつぼつ探っているのです。

No.7000 - 2019/09/30(Mon) 07:08:47

Re: 口笛を吹きながら / ubik0101
うまく言えるかどうか、説明してみます。

あくまで喩えですが、交通事故を起こした。それは車の性能、交通状況、いろいろあるでしょう。でも一般的には、運転者が、問題です。私は車を運転しない、私の乗ってるのは自動運転だから、私には問題ない、でもいいのですが・・・順列組み合わせで、車が問題、人が問題、ともに問題。ともに完璧・・・ともに完璧、なら事故は起きないかもしれません。それ以外は事故になる可能性があるでしょう。

実際には事故が起きても心理的な問題にする必要は無いです。病気、不愉快な出来事、できるだけのことをやればいいだけです。そうなのですが、完璧な人が、この世界に生まれるでしょうか?人が自我でなくて、この世界に生まれるでしょうか?また逆に世界が不完全でないなら、なにか人が暮らす必要があるでしょうか?人/世界、ともに完璧なら、それはある意味シュミレーション世界かもしれません。

解脱とは喩えではないです。この世界から解かれて、この世界を解いて、脱することです。それには世界の総ての活動が必要、ということです。病気も健康も、貧乏も、善悪も、怠惰も努力も、総てが活動してるから、総ての光の色が重なると透明なように、世界は透明。そんな構成要素の活動で、それ事態は変わらない、けど、あれかこれかどれかではなく、総活動で・・・違うかもしれませんが、仏教では、無字、隻手と言われてることかもしれませんが・・・世界は人を覚醒させる触媒です。

No.7001 - 2019/09/30(Mon) 18:36:26

Re: 僭越ではありますが、触媒をてこ / 勘太郎
バネ・不満の圧縮・鍵の無い金庫と言い換えてみました。
、鼻先にぶら下がった人参を追いかける馬が走り廻る馬場・絵が描かれていない透明の字で書かれているレシピ本の図書館。(「「@:又猫が足で打ちました)

 昨日はにんにくを植えました。食べるのはそんなにすきではありませんけれども、ニンニクを縛って干してある風景が好きです。
 砂糖漬けにしたニンニクがそろそろ食べられるかもしれません。

No.7002 - 2019/09/30(Mon) 20:49:03

Re: 口笛を吹きながら / ubik0101
こちら、にんにくは不可欠です。とくにパスタ・・・フライパンを使って、サラダオイルで刻みニンニクを軽く焦がして、そこに固めに茹でたパスタを投入します。さらに、おたま一杯(二人分なら、おたま二杯)の茹で汁を加えて、昆布茶(コンソメなどでも可)、サラダオイルまたはオリーブオイルを回し掛け加熱しながら・・・菜箸などで素早く掻き混ぜ、とろとろに乳化させます。これだけで美味。アラビアータ、イカスミソース、トマトレモンソースなどで供します。

ニンニクは水に浸けると皮が剥きやすいことを発見しました。ニンニクの砂糖漬け、それは初めて聞きました。

No.7003 - 2019/09/30(Mon) 22:20:30

Re: 口笛を吹きながら / hato

さあ!相容れないことがあるとしても、なぜかここで出会って分かち合う、それがいい、て思います。

変化、変容、成長、は自分には、既に必然で害もない、・・どちらかといえば、世界でそれを生きるための、ある種体力作りのような、人生そのものが負荷であり、ちょっと楽しみ、との感じです。

自分は、世界は起こり、・・人は起こす、・・という、その未知を生きる、です。

涼しい秋の夜長。仕事をしたり、お茶を飲み、2人ともゆっくり過ごしてます。こちら、うちの2描です。

No.7004 - 2019/10/01(Tue) 01:21:44

Re: 口笛を吹きながら / 勘太郎
おいらの段階でも、心探しは、どんどん進むように感じられます。加速度的に深まっている様に感じます。ベルトコンベアの上で走っている様なもので進んでいないのかもしれません。
 ではあっても、どこまでも行こうです。

 ニンニクの砂糖漬け
本当ははちみつ漬けです。はちみつと称して売っている水飴に浸けて66666666666666みました。はじめ浮かんでいたニンニクが沈んできましたので、そろそろ食べてみます。

No.7005 - 2019/10/01(Tue) 15:19:06

Re: 口笛を吹きながら / hato

66666666666666・・・も猫っちの仕業なのでしょうか。勘太郎さんのそばにいるのが、嬉しいんでしょうね。

ニンニクの蜂蜜漬け、贅沢な漬物ですね、とっても美味しそうです。ニンニク、なかなかいい値段ですが、よく使います。黒ニンニクを、使わなくなった炊飯器で(一カ月くらい保温するらしいですね、、)、見た目も臭いも凄いけど、美味しくて身体にいいといって、この辺りの人たちは自分で作るという話をよく聞きます。

爽やかな季節に入って、庭に曼珠沙華が咲き乱れてます。スズメバチがまだ多く、猫の庭散歩は注意してます。

No.7006 - 2019/10/01(Tue) 21:01:33

Re: ゆらぎさんの感じ方は運命決定論 / 勘太郎
 の様におもえるのです。違いはありますか?

 猫に子供が産まれました。
2匹。あづかりねこ、獣医さんで保護後の健康診断で妊娠が疑われたので、経過観察の結果。お腹が膨らみ。ご懐妊!!!!

 おとつい2匹産まれて、最初は親猫があまり授乳行為をしなかったので、おいらが、昨日乳首に子猫の口をあてがい、親猫が動かない様に撫で続けた結果授乳の仕方が解かったようで、落ち着いて子育てしているという感じです。

子猫の1匹の貰い手は決まっています。クリスマスころまで家で育てて、引き渡し。
今は猫がぶーむですから、貰い手はすぐに見つかるでしょう。

No.7007 - 2019/10/04(Fri) 13:22:41

ほかの誰かのことを考えても空想ですが、 / ubik0101
ああでもないこうでもない、あああればいいこうあればいいという、いわゆる心理的思考は、空想の因果関係ではないでしょうか。

そこで、運命が決まってるなら、ほかの道筋はないのですから、もともと悩みようがないでしょう。

シミュレーション仮説を方便として、空想の因果関係を打ち消した、脱した。ということかもしれません。

たとえば・・・塩の味がなぜ塩の味なのか?そもそも味がなぜ味なのか?見えるということは、考えるということは?それはなぜそれ?感情が、意識が、素粒子が、重力が、自我が、自己が、神が、なぜそれなのか?・・・知らない・・・答えは簡単、そう設定されてるからだ。あるいは、世界はこの瞬間に開闢した。とかも、それだけなら、なにも破綻はないと思います。でも、それだけだとリアリティがないかもしれません。

しかし。気づいてる意識、自分は、設定されてないと特例にすると、その世界観が分裂し真実味を帯びるけど、複雑になるようです。

ところで。運命が決まってなければ悩む?と言えば、まったく悩まないです。決まってても、悩む必要がないです。たとえば人間関係と、なにか不快なことと、悩みが、因果関係にある必然はないのです。たぶん因果には、物事が決まってるも、決まってないも、共に問題外でしょう。

ところで貧乏、病気、過去の出来事、未来の出来事とか・・・状況は変わらなくてもその同じことに悩んだり悩まなくなることもあるでしょう。ということは問題は、状況、出来事、世界にあるのではなく、その人の変化・・・それは透明で見えないけど・・・ということも考えられます。

しかし、ここで、自分が変わった、変わらない、どちらを掴むのも、NGと思います。悩まないことに理由は不要です。

No.7008 - 2019/10/05(Sat) 18:53:26

Re: 口笛を吹きながら / hato

運命決定論、初めて少しだけ調べました。自然科学者の間でも、論議が分かれているのですね。

そうとして、既に仮である仮説を以て、空想の因果を脱する?、・・・ことが、本来的に可能かはわからないと思います。起きてくる、思考や想念、感覚、現象、それをその人、足ることにしているその「人」がいての世界として、その世界(感覚、思考、・・現象・・)も、その人がそうある故にそのような世界とも言えるかも知れません。

また、そうでない、そもそも「人」などない、・・にただ偏向、であれば、なにか脱する必要もないでしょうが、実際人は、そのようなものではないと思います。

なにか絶対的な安心を与える信念、この意味での科学、宗教、信条・・・は、なにか保護膜のような・・感じになるのかな・・と思いました。

ご懐妊で2描増えてる!?可愛いでしょうが、大変ですね。勘太郎さんご家族の情の深さに、脱帽です。

No.7009 - 2019/10/05(Sat) 21:53:34

Re: 口笛を吹きながら / ゆらぎ
仕事が忙しくて、暫くお休みしておりました。

勘太郎さん
> ゆらぎさんの感じ方は運命決定論の様におもえるのです。違いはありますか?

運命論と決定論は定義に若干の違いはありますが、同じようなものですね。
シミュレーション仮説もシミュレーションされているのですから、決定論と同じでしょう。
しかし、決定論も非決定論も、どちらも、未来を知ることが出来ないのですから、生きることにおいては同じです。決まっているなんて面白くないと思っても、予測不能ですから、日々はドキドキ・ワクワクの冒険の連続であり、結構面白いです。
また、決まっているということは自由意志が無いということだから、自分に責任はない。だったら、悪いことでも何でもやってやる!と息巻いてみても、悲しいかなそんな思いは浮かんできません。これまでのように、真面目に生きるだけです。(笑)

ubik0101さん
> シミュレーション仮説を方便として、空想の因果関係を打ち消した、脱した。ということかもしれません。

確かにそうですね。あーだ、こーだ考えなくなりました。
今は、直感に従って素直に行動するだけです。
私の場合は、シミュレーション仮説を方便としてというより、自由意志が無いことが腑に落ちたから考えなくなったということです。

> 答えは簡単、そう設定されてるからだ。あるいは、世界はこの瞬間に開闢した。とかも、それだけなら、なにも破綻はないと思います。でも、それだけだとリアリティがないかもしれません。

自性が無いとした時点で、リアリティはありません。

> ところで。運命が決まってなければ悩む?と言えば、まったく悩まないです。決まってても、悩む必要がないです。

自分の意志で運命が決まるのであれば、悩む人もいるでしょう。
逆に、決定論を支持する人でも、悩む人はいるでしょう。

> ところで貧乏、病気、過去の出来事、未来の出来事とか・・・状況は変わらなくてもその同じことに悩んだり悩まなくなることもあるでしょう。ということは問題は、状況、出来事、世界にあるのではなく、その人の変化・・・それは透明で見えないけど・・・ということも考えられます。

その人の変化は、その人に何かがインプットされて内部処理が行われ、変化したのだと思います。そして、そのインプットは、状況、出来事によってもたらされたのだと思います。

hatoさん
> 運命決定論、初めて少しだけ調べました。自然科学者の間でも、論議が分かれているのですね。

不確定性原理をもって決定されていないとする人もいますが、観測されている時には、粒子性を示すということが確定しているのです。それが、シミュレーション仮説の根拠にもなっています。

> また、そうでない、そもそも「人」などない、・・にただ偏向、であれば、なにか脱する必要もないでしょうが、実際人は、そのようなものではないと思います。

それは、偏向ではないです。
自我は仮想であるとしていますが、真我を否定している訳ではありません。
私は、「人」を自我と定義しています。
ここが違っていると論議にならないのですが、hatoさんの「人」の定義は何でしょうか?

> なにか絶対的な安心を与える信念、この意味での科学、宗教、信条・・・は、なにか保護膜のような・・感じになるのかな・・と思いました。

絶対だと位置づけることにより、保護膜となって真実を隠してしまいます。
ですから、仮説としているのです。

No.7010 - 2019/10/06(Sun) 06:23:09

Re: 口笛を吹きながら / 勘太郎
スマホから初めての投稿です。
自由意志とは、今のありように載って、不満が無いこと。
自由意志があると言っても、無いと言っても同じ結果
時間が無いと、そうなるのでしょうが、おらには解りません。

世界は、べた.のっぺらぼうで、同時にすべての体験がある。その中をブラウン運動、花粉が電子に押し飛ばされて勝手に動く、のように自由に動いているのかなあ?

No.7011 - 2019/10/06(Sun) 18:54:27

Re: 口笛を吹きながら / ubik0101
>確かにそうですね。あーだ、こーだ考えなくなりました。
>今は、直感に従って素直に行動するだけです。
>私の場合は、シミュレーション仮説を方便としてというより、自由意志が無いことが>腑に落ちたから考えなくなったということです。


もしかして自由意志がないということは、自分の意志は自分で決められない、変えられない、という意味でしょうか?それなら、因果のままにというより、因果として生きる私。ということでしょうか?それなら、誰かと挨拶する、しないだけでも、人は世界の運行を変えています。

また、この世界では、自由は不自由として現れる、です。こいうこと、あいうこと個別のことは不自由でしかない、それは、自由の現れだ、不自由が自由の証明だ。ということです。笑うこと、泣くこと、それはそれでしかないので、不自由だ、なんですが、そのことが自由の証明。ということです。

>自性が無いとした時点で、リアリティはありません。

ここは世界は、この瞬間に開闢したということが自性のあるないということではなく、世界と違う要素。その世界を見てる、その世界と分離した自分との関係がないと・・・その世界観に、リアリティがないという意味です。

> 自分の意志で運命が決まるのであれば、悩む人もいるでしょう。
> 逆に、決定論を支持する人でも、悩む人はいるでしょう。


たとえ運命が決まってても、決まってなくても悩まないというのは、誰かのことを話してるのではなく、私はこうだよ。ということです。おそらく赤ちゃんは悩まないでしょう。でも悩む可能性があった・・・

・・・そして悩まなくなった。悩む可能性もなくなった。架空の因果関係は、架空の人間関係です。その人が1人あれば、そもそも葛藤になる思考とかは知覚されないです。人が変わったと言っては違うし、変わらないとしても違うでしょう。

> その人の変化は、その人に何かがインプットされて内部処理が行われ、変化したのだと思います。そして、そのインプットは、状況、出来事によってもたらされたのだと思います。

なんにしても誰であれ、その人がいないと、変化するだろうと変化しないだろうと、そんなことは起きないでしょう。人と世界の共同作業ということです。分離と全体の共同作業とも言えます。変わる変わらないでもないその人は知覚され得ない、です。

No.7012 - 2019/10/06(Sun) 20:45:40
(No Subject) / hato

ゆらぎさん、こんばんは。待望の休日が終わるって、はやいです。

>「成長した人」になろうとしているのではないですか?hatoさんご自身が、「成長していない今の自分」はわるいと思っているからではないですか?


体験は、数十年前です。変化については既に書きました。意識は、そのことをあとから学びます。人は人生ある限り学び、理解が整備される、深まることができる、というのはなかなかよくできてる、て思います。自分にとって、頑張って生きるというのは、この意味です。出来る限り、ここを深めたいのです。人からどう思われようが、これにとっては一大事です。

さまざまな喧騒のなかにも、日常ひとりあって静かに、しあわせです。生ある限り、喧騒も混乱も、世界と人との難も喜びも、頑張って生きると決めています。

人は、生まれたそのままでは未熟、というのは自然なことでしょう。それは、この段では、わるい、という範疇にないでしょう。また実際、このことが分離、という範疇にもありません。ただ人がもし、なるべくする変化を拒むとしたら、・・わるいのかも知れません。または、なるべくしない人も、・・あるかも知れません。


>そうでないならば、なぜ成長する必要があるのですか?
そして、成長とはどうなることですか?
終わりがあるのですか?


ひとつには、人は、そうでなければ、迷う可能性、を秘めているからです。

世界は膨大無尽蔵の様相、なんでもありです。なんでもあり、の様相を生きる必要がなくなる、ためです。ゆらぎさんは、もしこれからの人生に組まれてるプログラムに、ゆらぎさんが思うところの、悪、を為す展開が訪れたとして、喜んで行うのでしょうか?たとえば、自分を守るために嘘をつく、とか、・・そんなことです。プログラムは選べないのでしたね。人は、そこに従うだけ、というのがゆらぎさんのこれまでの言説です。


念のため、このスレッドで、ゆらぎさんは、

> 人はプログラムされておりません。プログラムされているのは、思考や感情や本能や感覚であり、それは人ではありません。プログラムされているから、起こすのではなく起きるのです。そして、勝手に起こって消えていくのです。


とお話しですが、すこし前のお話しで、ゆらぎさんは、

> このように話が展開されるというのは、初めからプログラムされてたのでしょうか?

との問いに、

> このようにしか展開できなかった、ほかの展開が選択できなかったということは、初めからプログラムされていたのでしょう。プログラムされていないことは、起こらないと思います。


こうして、人の対話の展開にまで、プログラムが関与している、とお話しです。人はプログラムされてないと言われますが、人はプログラムを生きるのですね。なら、プログラムされてないという、人に、なぜ変化、変容が不可能なのでしょうか?決まって起きてくる本能や感情や思考を生きるためだけの人なら、プログラムされているのと同じことです。ある意味、動物がそうではありませんか。この場合、人ならば、この意味での成長が必要では、と考えるのは自然なことです。

いま一度、今回の対話の、初めから、こちらで書いてることも含めて、じっくり、再読してみて頂くといいと思います。ゆらぎさんのお話しは、以前もすこし感じたかも知れませんが、微妙に、少しずつ、すり替わっていくところがありますよ。一貫性というのは、成長の果実です。


死んでなくなるのに努力してどうなんだ、という、生きてもいないところの結果が欲しいでしょうか?自分はとくに、気になりません。

  そしてどうなるのか?

それは自身で生きてみないといけません。そうではありませんか。

No.6979 - 2019/09/25(Wed) 23:33:53

Re: / ubik0101
> > ムージは、思考の領域ではなく、知覚の領域にあれ。と話してるのでしょうか。

> 違うと思います。思考も知覚も幻想であり、勝手に起こって消えていくとしています。自分というのは、それらに気づいている意識であるとしか言っていないのでは?

>> ムージは、自我も世界もある。と言ってるようにも聞こえます。

> それらは幻想であると言っているのでは?

そのように言ってるようには聞こえませんが、そのように言ってるのだとして、もしかして気づいてる意識は、幻想ではない、ということですか?

ところで、思考や知覚だけではなく、人の行動、も勝手に起こって消えていくのでしょうか?

ゆらぎさんは、この世界は、出来そこないの神のつくったプログラムで、それに気が付かないのは、バカみたいに騙されてるのは、問題だ。と言ってるのでしょうか?

No.6981 - 2019/09/25(Wed) 23:42:18

Re: / ゆらぎ
hatoさん
> 人は、生まれたそのままでは未熟、というのは自然なことでしょう。それは、この段では、わるい、という範疇にないでしょう。また実際、このことが分離、という範疇にもありません。ただ人がもし、なるべくする変化を拒むとしたら、・・わるいのかも知れません。または、なるべくしない人も、・・あるかも知れません。

生まれる、つまり思考や感情を自己同一化し、他と分けることが分離です。
しかし、何度も言うように、分離は悪いことではありません。

> >そうでないならば、なぜ成長する必要があるのですか?
> >そして、成長とはどうなることですか?
> >終わりがあるのですか?
> ひとつには、人は、そうでなければ、迷う可能性、を秘めているからです。


迷うべくして迷うのであり、悪いこととは思えませんが?

> 世界は膨大無尽蔵の様相、なんでもありです。なんでもあり、の様相を生きる必要がなくなる、ためです。ゆらぎさんは、もしこれからの人生に組まれてるプログラムに、ゆらぎさんが思うところの、悪、を為す展開が訪れたとして、喜んで行うのでしょうか?たとえば、自分を守るために嘘をつく、とか、・・そんなことです。プログラムは選べないのでしたね。人は、そこに従うだけ、というのがゆらぎさんのこれまでの言説です。

思考や感情や行動は起こることであって、行うことではないと言ってるのですが?

> > 人はプログラムされておりません。プログラムされているのは、思考や感情や本能や感覚であり、それは人ではありません。プログラムされているから、起こすのではなく起きるのです。そして、勝手に起こって消えていくのです。
> とお話しですが、すこし前のお話しで、ゆらぎさんは、
>
> > このように話が展開されるというのは、初めからプログラムされてたのでしょうか?
> との問いに、


> > このようにしか展開できなかった、ほかの展開が選択できなかったということは、初めからプログラムされていたのでしょう。プログラムされていないことは、起こらないと思います。

> こうして、人の対話の展開にまで、プログラムが関与している、とお話しです。人はプログラムされてないと言われますが、人はプログラムを生きるのですね。なら、プログラムされてないという、人に、なぜ変化、変容が不可能なのでしょうか?決まって起きてくる本能や感情や思考を生きるためだけの人なら、プログラムされているのと同じことです。ある意味、動物がそうではありませんか。この場合、人ならば、この意味での成長が必要では、と考えるのは自然なことです。

変容が起こることが不可能とは言っていないと思いますが?
変容が起こったということは、そうプログラムされていたということです。
それに、「プログラムされているのは、思考や感情や本能や感覚であり、それは人ではありません」と書いています。
hatoさんが言われている成長が、変容のことであれば、理解できます。
しかし、変容するのは自分ではありません。
「人」の定義を使い分けてしまった私が悪いのですが、このスレッドの「人」とは自分のことであり、起こることは変容しても自分は変容しません。

> いま一度、今回の対話の、初めから、こちらで書いてることも含めて、じっくり、再読してみて頂くといいと思います。ゆらぎさんのお話しは、以前もすこし感じたかも知れませんが、微妙に、少しずつ、すり替わっていくところがありますよ。一貫性というのは、成長の果実です。

上記の通り一貫していると思いますが?
言葉というのは、いろんな意味を持つと共に、人によって言葉から受けるイメージが異なるため、丁寧な説明が必要だったと思います。
そこのところは、申し訳ございません。

> 死んでなくなるのに努力してどうなんだ、という、生きてもいないところの結果が欲しいでしょうか?自分はとくに、気になりません。
>   そしてどうなるのか?
> それは自身で生きてみないといけません。そうではありませんか。


別に結果が欲しいとは思いません。
hatoさんは結局どうなりたいのかな?と思った次第です。


ubik0101さん
>そのように言ってるようには聞こえませんが、そのように言ってるのだとして、もしかして気づいてる意識は、幻想ではない、ということですか?
> ところで、思考や知覚だけではなく、人の行動、も勝手に起こって消えていくのでしょうか?

そうです。
思考や知覚だけではなく、人の行動、も勝手に起こって消えていきますが、気づいてる意識は、生まれてこのかた不変です。

> ゆらぎさんは、この世界は、出来そこないの神のつくったプログラムで、それに気が付かないのは、バカみたいに騙されてるのは、問題だ。と言ってるのでしょうか?

問題だとは言っていません。
どんな悲惨な内容の小説でも、だれも問題だとは言はないでしょう。
何故なら、フィクションだからです。

No.6982 - 2019/09/26(Thu) 06:28:11

Re: おいらの書くことは、皆でたらめです / 勘太郎
 おいらは何にでもくっ付いてしまいますから、なんの信頼もできません。自分でも信頼していません。

 世間が右と云えば、やや左、左と云えばやや右のへそ曲がり。
 お金が一番だと言われたら、欲しいけれど、本当はお金というモノは存在していないよ。

 14歳の少女が国連で気候変動の演説をすれば、本心は気候変動反対キャンペーンに大賛成なのに、豪華ヨットで移動したら、その実飛行機よりもエネルギー使うんでないの?という風ですこしばかりのへそ曲がりで、何にでもくっ付いてしまいますので、おいらの何ものも信頼できません。


 <<ムージが言ってるのは、「自分とは気づいている意識である」たったこれだけです。その他のものは、みんな幻想である。勝手に起こって消えていく。禅の無字の解説よりもシンプルです。>>

気づいている意識は意識なので、おいらの延長です。独参において意識を出しては、鈴がなります。
この意識は広大で、何ものにも接着しません。死の恐怖にも、肉体・精神の痛みにも不感症です。

繰り返しです。これは覚醒への道であって覚醒ではありません。ただの思考の不在。そんな風に思っています

No.6983 - 2019/09/26(Thu) 07:17:24

Re: おくじょうからの風景です。 / 勘太郎
 向うの山はスキー場のある手稲山。おらの山のはたけは、山の向うの山の向うの向うで自宅から片道65kmです。

 今朝も快晴。

No.6984 - 2019/09/26(Thu) 07:21:20

Re: 出勤にまだ早いので、完璧について / 勘太郎
 精神・肉体障害者は自分に産まれてきたくなかったと感じないと想像しています。彼らは不具で良かったとはおもわないでしょうけれども、自分であることで良いと思っていると想像します。

 作家の三浦綾子は「私は神にひいきされている」と言っています。難病に苦しみながら。

 100歳で老衰で死んでも、0歳で間引きで殺されても死ぬ事になんの違いもありませんと感じます。

 ゆらぎさん書き込みから私(おいら)の思考が明確になって行くように感じます。

No.6985 - 2019/09/26(Thu) 07:41:51

Re: / ubik0101
気づいてる意識は生まれてこのかた不変・・・それは自我だと、こちらは言います。これに反論すると、それは自我だという思考も幻想で、気づいてる意識は、ただ気づいてる意識だということになるかもしれません。

それで、気づいてる意識は生まれてこのかた不変というのが、気づいてる意識は生まれてこのかた不変に気がついたということなのでしょう。そう気が付かなくても気づいてる意識は生まれてこのかた不変なのでしょうか?そう気づこうとしてそう気づいてるのでは?

No.6986 - 2019/09/26(Thu) 08:36:48

Re: / ubik0101
> > ゆらぎさんは、この世界は、出来そこないの神のつくったプログラムで、それに気が付かないのは、バカみたいに騙されてるのは、問題だ。と言ってるのでしょうか?

> 問題だとは言っていません。
> どんな悲惨な内容の小説でも、だれも問題だとは言はないでしょう。
> 何故なら、フィクションだからです。


フィクションの内容ではなく、その仕組に騙されてる。ということを話したのです。

No.6987 - 2019/09/26(Thu) 08:45:31

Re: / hato

お仕事や家内作業、きっとさまざまおありかと思います。時間を割いて頂いて、ありがとうございます。昨日は朝から、頭の左の表面がよくある片頭痛で、薬を沢山飲んで、帰ってきてから転がってたので、今頃、目が冴えてしまっててて。👀 どうしょう。というところです。


>生まれる、つまり思考や感情を自己同一化し、他と分けることが分離です。
>しかし、何度も言うように、分離は悪いことではありません。



そうなのでしょう。ただ、生まれて、その仕組みを生きることは、とくに分離ということではないと思います。お話しは、とてもわかりました。


>迷うべくして迷うのであり、悪いこととは思えませんが?


そうかな?

ゆらぎさんは、世界の不具合のことを、熱心に非難していらっしゃいました。人という位置から見るなら、多くの悲劇は、これは言い方ですが、迷う意識が、迷う行動を起こして成るとも言えます。迷う人の意識です。それのどこが、わるくないのでしょう?。プログラムされてるから、人がそれに則り行動する。なら、わるくない、世界は起きてるから、・・・という、総てをあるがままに見る見方
があるとして、

そもそも、人が行う(起こす)、世界は起こる、それはどちらも言える、と思います。

物事を認識する、見方は、見る位置、或いは閾値に依るとして、人が世界で生きている、水平線上の見方を一方的に逸脱してしまうと、ちょっと変です。

神がいるならそうかも、・・・と人が想像できるような、意識の位置に偏るということです。実際そこは、想像、できません。ここはただ意識、とはいえないようです。表現上ですが、人の意識の縦(神)横(人の生)、の交差点、そこは、未知です。そこは意識上の、あるない、一方に、偏ることができません。そんな言い方もできると思います。

人はこの意味で、変化、変容、成長できます。と言えます。人がしても、いいです。自分がする、といって無問題です。自ずと分かれた自分でしょう。変容して、その過程は消える・・・起きてもない・・・という不可思議、て思います。

ゆらぎさんの今の意識の座は、本当に平和で安らぐ場だから、・・それが一番いいことだから・・そうであろう。と考えられたのかな、と想像します。ゆらぎさんは、とても優しい人、と思います。

No.6988 - 2019/09/27(Fri) 01:15:41

Re: / ゆらぎ
勘太郎さん
> 気づいている意識は意識なので、おいらの延長です。独参において意識を出しては、鈴がなります。
> この意識は広大で、何ものにも接着しません。死の恐怖にも、肉体・精神の痛みにも不感症です。


勘太郎さんが言われている延長は、自我ではないでしょうか?
何ものにも接着しない意識を丸出しにすれば、鈴は鳴らないと想像します。

>  100歳で老衰で死んでも、0歳で間引きで殺されても死ぬ事になんの違いもありませんと感じます。

私も同じ思いです。


ubik0101さん
> 気づいてる意識は生まれてこのかた不変・・・それは自我だと、こちらは言います。これに反論すると、それは自我だという思考も幻想で、気づいてる意識は、ただ気づいてる意識だということになるかもしれません。

そうです。気づいてる意識は、ただ「自分がある」ことに気づいている意識です。

> それで、気づいてる意識は生まれてこのかた不変というのが、気づいてる意識は生まれてこのかた不変に気がついたということなのでしょう。そう気が付かなくても気づいてる意識は生まれてこのかた不変なのでしょうか?そう気づこうとしてそう気づいてるのでは?

「気づいてる意識は生まれてこのかた不変に気がついた」のは、自我です。
そう気が付かなくても気づいてる意識は生まれてこのかた不変だと思います。
ただ「自分がある」ことに気づいている意識ですから。

> > > ゆらぎさんは、この世界は、出来そこないの神のつくったプログラムで、それに気が付かないのは、バカみたいに騙されてるのは、問題だ。と言ってるのでしょうか?
> > 問題だとは言っていません。
> > どんな悲惨な内容の小説でも、だれも問題だとは言はないでしょう。
> > 何故なら、フィクションだからです。
> フィクションの内容ではなく、その仕組に騙されてる。ということを話したのです。


この世界はフィクション(仮想現実)という仕組みであり、自我はそれに気が付いていないので、騙されているとも言えるでしょう。しかし、それは問題ではありません。そういう仕組みなのですから。

hatoさん
> お仕事や家内作業、きっとさまざまおありかと思います。時間を割いて頂いて、ありがとうございます。昨日は朝から、頭の左の表面がよくある片頭痛で、薬を沢山飲んで、帰ってきてから転がってたので、今頃、目が冴えてしまっててて。👀 どうしょう。というところです。

hatoさんの素敵な前書きをいつも楽しみにしています。
私は、その時間的な余裕がなく、申し訳ありません。
文才も感性も無いことの言い訳ですが。(笑)
片頭痛、早く治まるといいですね。

> そうなのでしょう。ただ、生まれて、その仕組みを生きることは、とくに分離ということではないと思います。お話しは、とてもわかりました。

生まれて生きるこの世界が、分離の世界であることは、必然だと思うのです。
hatoさんと私が分離しているので対話が生まれる、あそことここが分離しているので、空間的広がりが生まれる、現在と過去や未来が分離しているので時間的な広がりが生まれる。
それらは幻想だとは思いますが・・。

> ゆらぎさんは、世界の不具合のことを、熱心に非難していらっしゃいました。人という位置から見るなら、多くの悲劇は、これは言い方ですが、迷う意識が、迷う行動を起こして成るとも言えます。迷う人の意識です。それのどこが、わるくないのでしょう?

言われている通り、まさに、プログラムされていることが、起こるべくして起こっているからです。

> そもそも、人が行う(起こす)、世界は起こる、それはどちらも言える、と思います。

起こすと起こるは全く違うと思います。
主体があるか、無いかです。
何かを起こす自分という主体は、私には見つけられませんでした。

> 物事を認識する、見方は、見る位置、或いは閾値に依るとして、人が世界で生きている、水平線上の見方を一方的に逸脱してしまうと、ちょっと変です。
> 神がいるならそうかも、・・・(以下略)


申し訳ないのですが、ここのところは、全く理解できませんでした。

> ゆらぎさんの今の意識の座は、本当に平和で安らぐ場だから、・・それが一番いいことだから・・そうであろう。と考えられたのかな、と想像します。ゆらぎさんは、とても優しい人、と思います。

平和で安らぐ場であることは間違いなにのですが、気が付いたらそうなっていたということです。
優しくないことは自覚していますが、しょうがないと思っています。(笑)

No.6989 - 2019/09/27(Fri) 06:02:25

Re: / ubik0101
シュミレーション仮説は、なぜだか悪夢のような世界観に感じるのです。いまいち、その仕組みが解らないからかもしれません。復習を兼ねて、探ってみます。

その、たとえば錯視とか病気とか苦痛とかで、リアリティを演出、この世界がシュミレーション世界であることに気が付かないように操作してるとして、

その不完全な神は、それでも気づいてる意識の創造主なのでしょうか?あるいは贋の神で、真の神が創ったこの世界への侵入者?あるいはその変な神は、気づいてる意識と、同一?気づいてる意識は、その神と無関係?

あるいは気づいてる意識が、真の実在?基底?スクリーン?だとすると、世界はシュミレーションでも、なくてもなんでもいいけど、世界によって自分を確認できる、それが仕組み?世界がなくても、自分はある、とかは不問?

あるいは、虚構である自我・・・気づいてる意識・・・が世界に自分を投影して、世界はシュミレーション、知覚も思考も行動も、起きては消える幻だ?自分も世界も総て虚構という見方も成立する?

あるいは、対象化できることは総て幻想で、対象化できないことは幻想ではない?気づいてる意識は、言葉では対象化できるけど、実際には対象にできない、それはある。たったこれだけ、ということ?

あるいは、シュミレーションであれ、リアル?であれ、夢であれ、なんであれ、知覚、思考、感情、行動を見て、常に常に、その背後に回りこんで、気づいてる意識に、気づく。という見方は成立する?

それで・・・あるないの話は面倒ですが・・・こちらは、気づいてる意識は、それに気づいても、気づかなくても、ありようがない、ない、透明です。

No.6990 - 2019/09/27(Fri) 08:01:06

Re: / hato
片頭痛は、イブを2錠ずつ3回飲んで効かず、今朝やっと、ロキソニンを一錠飲んでみたら、半日かかって痛みはなくなりました。痛いって、なにもまともにできなくなって、困るです。


> そうなのでしょう。ただ、生まれて、その仕組みを生きることは、とくに分離ということではないと思います。お話しは、とてもわかりました。

>生まれて生きるこの世界が、分離の世界であることは、必然だと思うのです。


これはよく言われる、総てはひとつ、から推察されるのでしょうが、・・科学的にも皮膚から外と境目がないと、疑似的な現象を見ることができるといいますが、なので一応、わかるのですが、自分としては、世界は分離・・、合一・・・、どちらとも、言えません。


> そもそも、人が行う(起こす)、世界は起こる、それはどちらも言える、と思います。

> 起こすと起こるは全く違うと思います。
> 主体があるか、無いかです。
> 何かを起こす自分という主体は、私には見つけられませんでした。


起こす主体は、確認できません。それは、自我であっても、自己(真我)であっても。ですが、知覚できない自我(変容する可能性を秘めた状態の我)と、自己(真我)であるが故の無。ただ違います。変容し、その過程は消失し、なにも起きてはいない・・・と思います。

なのでこの意味でも実に、起こす、・・とも、起こる、・・とも、言えるのです。

総てが起こり、起きていないその空(くう)は、世界の側からそのことを確認しょうとすると、さまざまな仮説、似た現象として見てしまえることがあると思います。シミュレーション仮説も、そのようなことではないでしょうか。

造られた世界の側から、確認することは不可能です。不可逆です。想像されると現象として表れることもある、・・・もちろんそれだけでもなさそうな・・この世界は、膨大無尽蔵、なんでもありの様相で・・・人は愉しみながら、迷路に嵌ってしまうことがある・・・ではないでしょうか。

真実を求めた人にとっては、それは哀しい、
でも、人ゆえに、迷路に嵌ることもある。
生きてるゆえに、別の選択もできます。

だから、世界って困難ながら、ちょっと素敵。って思うのです。

勘太郎さんの、畑。片道65キロ。車をすっとばして、1時間くらい?でしょうか。おらの山の畑、山の向うの山の向うの向う・・かっこいいです。☺

No.6991 - 2019/09/28(Sat) 00:05:28

Re: / ゆらぎ
ubik0101さん
> シュミレーション仮説は、なぜだか悪夢のような世界観に感じるのです。

分かります。ですので、感情的に受け入れられないかもしれませんと書いたのです。

> その不完全な神は、それでも気づいてる意識の創造主なのでしょうか?あるいは贋の神で、真の神が創ったこの世界への侵入者?あるいはその変な神は、気づいてる意識と、同一?気づいてる意識は、その神と無関係?

何が真かは分かりません。
どう説明しても、眉唾っぽくなるのは理解していますが、挑戦してみます。
シミュレーション仮説とすると、この世はパソコンで創造されています。
自我はひとつのアプリケーションであり、人の数だけあります。メモリーは様々なことが起こる場であり、ハードディスクには、ストーリーや思考、感情、感覚、本能などが蓄えられています。自我は、ストーリーの中で様々な環境や他の自我と出会い、その刺激に応じてハードディスクにアクセスし、思考、感情、感覚から相応しいものを選択し、それに応じた行動を起こします。そして自分(自我)は、肉体とそれらを自己同一化し、自分というアイデンティティをつくり上げます。

これらは、自我というアプリケーションが起こしているように見えますが、プログラムによって起こっているだけです。そして、「気づいている意識」というのは、OSのようなものかもしれません。自我というアプリケーションの動きやメモリーの中で起こっていることに気が付いており、OS自体は最初から変化しません。
気づいている意識は、操作している人に繋がっていると想像することも可能ですが・・。

> それで・・・あるないの話は面倒ですが・・・こちらは、気づいてる意識は、それに気づいても、気づかなくても、ありようがない、ない、透明です。

OSは透明だと思います。


hatoさん 
> 片頭痛は、イブを2錠ずつ3回飲んで効かず、今朝やっと、ロキソニンを一錠飲んでみたら、半日かかって痛みはなくなりました。痛いって、なにもまともにできなくなって、困るです。

ロキソニン、私は解熱剤として数年に一度服用します。
頭痛の経験が無く、辛さを分かっていないのですが、痛みがなくなって良かったです。

> なのでこの意味でも実に、起こす、・・とも、起こる、・・とも、言えるのです。

Ubik0101さんへの返信に書いたように、私の理解は「自我というアプリケーションが起こしているように見えますが、プログラムによって起こっているだけ」ということです。
それぞれの理解があっていいと思いますし、それぞれが、自分(自我)にとっての真実です。
しかし、経験や学びによって理解は変わっていきます。それが、変容であり成長と名付けたものなのでしょう。

> 真実を求めた人にとっては、それは哀しい、
> でも、人ゆえに、迷路に嵌ることもある。
> 生きてるゆえに、別の選択もできます。


私も長い間迷路を彷徨いましたが、視界は開けてきました。
それが真なのかどうかは確かめるすべがありませんが・・。

> だから、世界って困難ながら、ちょっと素敵。って思うのです。

私もそう思います。
生きるって、素晴らしいことだと、やっと実感できるようになりました。

No.6992 - 2019/09/28(Sat) 06:43:09

百億の昼と千億の夜 / ubik0101
およそ、見る聞く触ることがあるということは、その対象/主体、が機能してるということです。もし完全に対象がなければ,たとえば死んでしまえば、世界が消えれば、それを見てる何かが、あるとかないとかもないでしょう。その主体と対象という関係は世界が総力を挙げてつくります。なんであれ、青い空が、飛ぶ鳥が、犬の糞が、見てる主体をつくってるでしょう。あるいはそれは世界と人が協力しているのです。いわゆる眼が覚めていれば気絶してないという意味で意識があるという意味での意識。これは自我とは思えないのが普通かもしれません。こいう私も、その意識がある私が自我とは気がついてもいませんでした。世界は美しく透明で、貧乏だった。困ったことはあるけど、心配したことはない、幸せであったのですが、社会的には、底辺に生き、人生を棒に振っても、探求が楽しくてしかたなかったのです。そんな東京の片隅で一人あって、私の師は・・・言葉・・・でした。とくに誰かの言ったこと書いたことではなく、言葉から学びました。もし思考をネグってしまえば、そいう経緯も失うかもしれません。なので人は、思考の領域、たとえそれが悩みであっても、それを大事にするのかもしれません。そしてもう思考は見尽くしてなくなってしまった。これからは無意識を探ろう。世界になんの特質もなくなってしまった、意味を失ってしまった木造アパートの一室で、そう思いました。誰から学んだこともないので、なんか修行をするとかは考えることもなく、こいうことしかできることがなかったのです。探求。それは、言葉で見ること・・・思考です。ずっとずっと子供のころは、死んでもなくならない、自分の中心を求めようと思ったのです。けど、それも忘れて、すでに何かを求めていたのではありません。なにかが起こるということも知りませんでした。精神の探検。ただそんな日常でも、世界と素通しになる体験、思考の裏の自分は、ない、クンダリニーの上昇、が起こったりしました。それを努力と呼ぶとして、その努力に関係なく、関係なくもなく、体験、それが起こったのです。その普通の意識、それが自我だったのです。世界は人の探求に報いてくれるのです。そして去っていくのです。この世界からの解脱・・・♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう。この日常に総てあります。
No.6993 - 2019/09/28(Sat) 08:28:23

Re: / hato

> 頭痛の経験が無く、辛さを分かっていないのですが、痛みがなくなって良かったです。

頭が大きくて、頭内がゆったりしており、神経にさし障ることがないとか、・・でしょうか。頭痛がないて、なんと羨ましいの☺。うちは、頭の大き目なubik0101さんも、小さめな自分も、頭痛はしょっちゅうで、この手の薬もしょっちゅう、使います。🙏

> しかし、経験や学びによって理解は変わっていきます。それが、変容であり成長と名付けたものなのでしょう。
> 私も長い間迷路を彷徨いましたが、視界は開けてきました。
>それが真なのかどうかは確かめるすべがありませんが・・。



視界が開ける・・て、いいですね!

体験としての経験は、人とその意識の座を、空、中道、・・未知、に据えることが起きます。それは了解であり、必ず、わかります。世界が自動的に起こしていた、(ここで言われるところの、プログラムされてる)人に、空、中道、・・未知とその理解が訪れます。理解は、圧縮された膨大なデータが、解凍される感じに似ているようです。

不可知から外れ、意識されることに偏重すると、人は頑なになり、理解することが困難になるかも知れません。けど、ドンマイ!三歩進んで二歩下がる。気を取り直してさあ進もう!未知なる道を、どんどん行こう!と思います。


>私もそう思います。
>生きるって、素晴らしいことだと、やっと実感できるようになりました。


ubik0101さんが、「どこま〜でも、行こう〜、みちは〜・・」と嬉しそうに歌ってます。ときどき、庭でじょうろに水を汲みながら、一所懸命歌ってる・・ことが、あります。👀 👀 👀

No.6994 - 2019/09/28(Sat) 23:57:43
自分とは気づいている意識 / ゆらぎ

話の方向を変えましょう。

シミュレーション仮説という言葉の先入観が、障壁になっているようです。

全ては起こっているのであり、自ら何かになろう、何かをしようとすることが、分離を生み出していると思うのです。

以下は、ムージの動画ですが、全く同じ思いです。(字幕も出ます)



No.6969 - 2019/09/24(Tue) 06:41:01

Re: 自分とは気づいている意識 / hato

ゆらぎさん、勘太郎さんこんにちは。心地いい風が吹いて、空が高くなり、トンボが百も飛び交っています。


>シミュレーション仮説という言葉の先入観が、障壁になっているようです。


ううん、言葉や先入観ではなくて、その内容。・・というより、ゆらぎさんがそれら仮説を手放さない感じ・・・が、障壁、て思います。


>全ては起こっているのであり、自ら何かになろう、何かをしようとすることが、分離を生み出していると思うのです。


この掲示板やHPでは、よく取り上げられることですが、(ここは大事)総てはひとつ・・でも、ふたつ・・でもないです。もっと言えば、総てはひとつ、が善で、分離が悪・・というのは幻想です。なにか世界に照らし合わせて見たときに、不注意から理解の齟齬、誤解があり、そのように考えられるのかと思います。ひとつ、というと、なにか完全な気がすることもあるでしょうが、実際、世界はそのような意味で凝り固まっていません。それでは成立しかねます。

なので、自身が持っている前提として、ひとつ、分離への過剰な思い入れ、「当然それがいいに違いない、」としている観念を探る、ことは役立ちます。ひとつ、ということに過剰な希望、憐憫を投入してしまっている、・・てことも、あるものかも知れません。

その道筋は、成長の糧です。仮説に依存せざるを得ない、それはまだ、無意識に持っている観念が理解されていないからといえます。ある意味、こうしたことは、理解されていく過程で、経験せざるを得ないこと、とも言えるのです。

人が成長していくことを、なにか人を傷める、人の卑しさを掻き立てるような競合と見過っているかも知れません。傷つけたり、傷めたり、余計なことをしないよう静かにしており、それが無、と見誤られていることも多くあると思います。生来思いやりが深い、優しい人たちが、そのように考えてしまうこともあるのでは、と思います。

けれどubik0101さんが言ったように、本来の、無、ない、に至るためには、とことん「有り切って、無い。」です。それがここで言うところの、成長の過程です。もし人が、本当に世界をよくしたい、と思うなら、自分の偏りから、さらっていかなければなりません。もちろん、世界に携わりながら、できることです。

総ては起きてる・・・その通り、と思います。
そしてまた、人は、自己を起こしてもいくのです。

No.6971 - 2019/09/24(Tue) 10:39:09

Re: 嗚呼、哀しい。妻にイチゴの苗を2本捨てられてしまいました。 / 勘太郎
妻は緑など無くても良い派。
自宅の猫の額の車置き場の隅に、会社敷地に雑草と一緒にあった古〜いイチゴの苗を持ち帰って、鉢植えしたら、青々と繁ってきました。
 妻はそれが邪魔だとゴミ箱に捨ててしまいました。イチゴの古い苗は実を着けない様です。それでも狭いアスファルトの車置き場に緑が有ると嬉しい気分がします。

つまと私は殿さまと奴隷ですから、捨てられても逆らえません。

No.6972 - 2019/09/24(Tue) 19:42:14

Re: 自分とは気づいている意識 / ゆらぎ
hatoさん
> >シミュレーション仮説という言葉の先入観が、障壁になっているようです。
> ううん、言葉や先入観ではなくて、その内容。・・というより、ゆらぎさんがそれら仮説を手放さない感じ・・・が、障壁、て思います。


それが先入観です。
シミュレーション仮説というのは、単なる言葉に過ぎません。
ましてや、依存するものでもありません。

> >全ては起こっているのであり、自ら何かになろう、何かをしようとすることが、分離を生み出していると思うのです。
> この掲示板やHPでは、よく取り上げられることですが、(ここは大事)総てはひとつ・・でも、ふたつ・・でもないです。もっと言えば、総てはひとつ、が善で、分離が悪・・というのは幻想です。


「分離に意味がある」とか「分離を感じることが奇跡」と書いたように、私は分離を悪とは見なしていません。
むしろ、分離を問題にされているのは、hatoさんの方だと思いますよ。
「今の自分」と「成長後の自分」を分離されています。「成長後の自分」になろう、そのために成長しようとされています。

自分とは気づいている意識です。そこには、成長という概念の入り込む余地は、ありません。
座って目を閉じれば、春の陽射しに包まれているような、あたたかな感じに包まれます。思わず微笑んでしまいます。何も必要としないし、何になる必要もありません。
自己を起こしていく必要もありません。既に「ある」のですから。

勘太郎さん
>  ムージーさんが禅師から許されるのか?疑問に思っています。

ムージーさんより禅師が上と思っておられるようですが、その理由を教えて下さい。

No.6973 - 2019/09/25(Wed) 05:29:44

Re: ムージーさんは今でもよく見ます / 勘太郎
 おお! 今始めて気が付きました。ムージーさんは無字からとった名前なのですかねえ。それとも現地の本名、面白く感じました。

 ムージーさんの画面に、女性が抱きつくものがありました。数分間。個人崇拝なのか?無視して話を続けていました。現地人でしたからかの地の習慣なのか? まあこれは余計なことです。

 おいらの印象だけで判断しています、なんの理由もありません。
 おらは、あまり説明しすぎる話は、眉唾と感じてしまうのです。

 さて、本日も快晴です。ボイラーマンですから職場は地下室。1時間に1回巡回で屋上から回ります。屋上で5分ほど陽を浴びます。気持ちが良いです。60坪の6階建てのとても小さいビルです。古いので私たちが手動で暖めたり冷やしたり、風をいれたりします。

No.6974 - 2019/09/25(Wed) 06:42:46

Re: 自分とは気づいている意識 / hato

母が、パソコンを買い替えなくちゃ、とか、家では、庭作業に電動チェーンソーいる、とか、2メートルくらいの脚立もいるんじゃない、とか、ゴミ捨てに行ったら、隣のお母さんが係で、うちのゴミのプラスティックパックのシールを剥がしてた・・とか、ああ、さまざま騒がしい世の中です。


>今の自分」と「成長後の自分」を分離されています。「成長後の自分」になろう、そのために成長しようとされています。

そうだとしたら、それでいいのではないですか?その分離の、なにがわるいのですか?

分離、その過程を見ることがあっても構わないと思います。これについての話なら、なにかになろう、としていません。

成長する、この意味での変化する、とはある線では、確実に、変化前と後は、違うのです。そして尚、変容する、とは確実に、成長している過程が消え去るのです。どちらも当然です。どちらか一方だけの理解をとると、奇妙です。なので成長があっても、努力しても、構いません。

頑張っていこう!

この生を生きる上では、自分は、これです。

人がプログラムされてる、ことに偏重しているとしたら、自分ならつまらない、という話でしたね。
「もう決まってるから。」に固執することはできない、とのことです。何度も言ってますが、ゆらぎさんはそれが楽しいとのことで、いいのでしょうね。

分離、ひとつ、のことについては、書いた内容でとくに問題ないと思います。

ボイラーマンかっこいい〜です。私たちの今日は、なにしょうかねマンです。爽やかな朝、ちょっと喜び、・・ちょっとなんでもない、・・ちょっと苦痛なゴミ出しと買い出し・・・等等が、いつもの、ちょっと、幸せです。

No.6975 - 2019/09/25(Wed) 10:10:09

Re: 自分とは気づいている意識 / ubik0101
ビデオの印象。

ムージは、思考の領域ではなく、知覚の領域にあれ。と話してるのでしょうか。見えないものが見えたらどうしよう、見えるものが見えなければどうしよう、なんて眼や耳や手は思考しないし、悩んだりしないでしょう。知覚の領域は、学ぶことも、悟ることもないでしょう。見える聞こえる思考する、その場を意識と読んでるだけではないでしょうか。知覚の領域にあって、安らいで静かで幸せで、そこからが探求なのですが、人それぞれなので、

それと、どこかの掲示板で見ましたが、臨済の四料揀の・・・四、人境俱不奪・・・真我も世界もある・・・という提唱があります。ムージは、自我も世界もある。と言ってるようにも聞こえます。だとしても、自我と真我、とくに区別の必要もないので、人それぞれなので、

No.6976 - 2019/09/25(Wed) 11:21:54

Re: 自分とは気づいている意識 / ubik0101
ついでに、庭前拍樹

ひとりの僧、趙州に問う「如何なるかな是れ祖師西来意」

《仏教の真意は何?》

州曰く、「庭前の柏樹子」

《私はいない》

僧曰く、「境をもって人に示すことなかれ」

州曰く、「吾、境をもって人に示さず」

僧曰く、「如何なるかな是れ祖師西来意」

州曰く、「庭前の柏樹子」

《柏樹子は私だ》

趙州は実感を話してて、この通り、の話です。世界と一体ということでもなく、山でも川でも、犬の糞でもいいという話でもありません。そうするならそれは、いわゆる思考の領域です。

No.6977 - 2019/09/25(Wed) 11:23:15

Re: 自分とは気づいている意識 / ゆらぎ
勘太郎さん
> おらは、あまり説明しすぎる話は、眉唾と感じてしまうのです。

ムージが言ってるのは、「自分とは気づいている意識である」たったこれだけです。その他のものは、みんな幻想である。勝手に起こって消えていく。禅の無字の解説よりもシンプルです。


hatoさん
> >今の自分」と「成長後の自分」を分離されています。「成長後の自分」になろう、そのために成長しようとされています。
> そうだとしたら、それでいいのではないですか?その分離の、なにがわるいのですか?


「私は分離を悪とは見なしていません」と書いておりますが?

> 分離、その過程を見ることがあっても構わないと思います。これについての話なら、なにかになろう、としていません。

「成長した人」になろうとしているのではないですか?
hatoさんご自身が、「成長していない今の自分」はわるいと思っているからではないですか?
そうでないならば、なぜ成長する必要があるのですか?
そして、成長とはどうなることですか?
終わりがあるのですか?

> 頑張っていこう!
> この生を生きる上では、自分は、これです。


それは、私も同じです。
目の前のことを一所懸命やる!
ただ、これだけです。

> 人がプログラムされてる、ことに偏重しているとしたら、自分ならつまらない、という話でしたね。

偏重も先入観から来ていませんか?
人はプログラムされておりません。プログラムされているのは、思考や感情や本能や感覚であり、それは人ではありません。プログラムされているから、起こすのではなく起きるのです。
そして、勝手に起こって消えていくのです。


ubik0101さん
> ムージは、思考の領域ではなく、知覚の領域にあれ。と話してるのでしょうか。

違うと思います。思考も知覚も幻想であり、勝手に起こって消えていくとしています。自分というのは、それらに気づいている意識であるとしか言っていないのでは?

>ムージは、自我も世界もある。と言ってるようにも聞こえます。

それらは幻想であると言っているのでは?

No.6978 - 2019/09/25(Wed) 19:48:11
(No Subject) / ゆらぎ
勘太郎さん
>  どこが分岐点(線・面)かは。分りません。ubik0101さんとも話しましたけれども。私と外とがどこで分かれているかは感じ取ることができないのです。
>  (座布団に座ってどこがお尻の皮でどこが布か?解らないのです。みなさん解っていると勘違いしているだけです。)


触覚があるということは、そこが自分と環境との境界だと感じているということだと思います。

> プログラムとはどういう意味ですかね。自分を分離して感じるという仕組みになるようにインプットされているということでしょうか。

そういうことです。

> むじゅんしますけれども、自分の脳が自在に動かせる範囲が自分でそこに境目があるのではないですか?境を感じる方が自然なような気がします。

境を感じる方が自然なようにインプットされているということです。

> ?A弱肉強食はバクではなく、完璧な仕組みでしょう。戦争・不足・見かけの不公平・正義、かたわで産まれる子供・公害・病気・隕石の衝突。考えれば考えるほど完璧なシステムに感じます。

そうです。弱肉強食は仕組みでありプログラムです。
9/14に書き込んでいますが、バグというのは各種の発達障害とか神経症、性同一性障害とか統合失調症などだと思います。

発達障害、社会に適応出来なくて、どうして完璧なのでしょうか?
性同一性障害、身体と心の性別が異なって、どうして完璧なのでしょうか?

>  ゆらぎさんの考えに対立しする思考・感覚がおいらに産まれて、ぶつける。ゆらぎさんがそれに意見を書き込ぬ。弁証法でしったけ?対立して動いて行く。他人の意見のパグを見つけて、正しい見方ができるようになる。素晴らしいシステムに感じます。

正しい見方とは、どういう見方でしょうか?
どこが素晴らしいシステムなのでしょうか?
発達障害や性同一性障害の方々は、健常者が正しい見方が出来るようになるための、教材なのでしょうか?

>  個々には不公平や問題が山積していますけれども、目を全体に広げると、戦争や原発事故も世界を進歩させる道具だと感じるのです。世界は完璧に感じます。

脱北した母子が餓死している、その他にも栄養失調で多くの方が亡くなっている。
戦争で多くの方が、手足を無くしている。
その方々は、道具なのでしょうか?
世界の進歩とは、何でしょうか?
1000年前から、何が進歩したのでしょうか?

hatoさん
> >神が創られたのに、なぜ弱肉強食?食物連鎖?戦争が止まない?不幸が撲滅できない?という疑問が解けました。
> それは、人が成長できるために。


人の成長とは何でしょう?
なぜ、成長する必要があるのでしょう?
私もそこからスタートしましたが、分かりませんでした。

> そのために、総て勢揃いの様相です。なにか完全な世界として、人はどのように育っていけるでしょうか?完全も不完全も、あるもないも含めた、膨大無尽蔵の様相が、世界です。

何かしらの変化はあるでしょう。それを成長と呼んでもいいかもしれません。
人は、やがて死にます。そうしたら、その成長はどうなりますか?
そこでなくなれば無意味ですから、継続するのでしょうか?

> 感情的に受け入れられない・・ではありません。自分にとっては、とくに事実でないからです。

自分として、どう考えるかは人それぞれですが、事実かどうかは、分かりません。

> どちらかといえば、こうしたことは、思考した挙句のわからない、意識上でのわからない、を逸脱しているが故に、わかることが、ある。ということなのです。

そして、何が分かったのでしょうか?

No.6965 - 2019/09/23(Mon) 06:00:41

Re: 取り急ぎの書き込みです / 勘太郎
 完璧であるについて。

個々に問題がありますけれども、いま私たちが46億年の地球の歴史を経ていきているのですから。完璧だだと感じます。

 恐竜の苦しみは清算されていて、おらは何の痛みも感じません。
 おらが会社でいじめられた事は今、おらを苦しめません。想い出です。
 ペットの猫が死んでしまいましたけれども、今悲しくありません。たまに思い出しして悲しくなりますが。

感じる焦点を 自分を宇宙まで引いてみると、苦しみはありませんので、完璧だと感じます。

後日また読み返してから書き込みます。

No.6966 - 2019/09/23(Mon) 15:45:33

Re: / hato

やっと、3連休の働き蜂が終了しました。嬉しいぃ!いま、ちょっと嬉しくなる、夜の一口アイスを食べたところです。


>人の成長とは何でしょう?
>なぜ、成長する必要があるのでしょう?
>私もそこからスタートしましたが、分かりませんでした。


>そして、何が分かったのでしょうか?


自分が話してるのは、人が幼稚園から小学校、中学、高校、大学と進む。大人になったら背が伸びた。その意味での成長ではありません。人が、「絶対」、或いは、「未知」、に対峙した。その成長です。

その意味での成長のために、世界はありとあらゆる、膨大無尽蔵の様相、空をなし、人を変容させることができる、ということ。それは事実ですが、人それぞれ、・・とくに必要ということはないと思います。

愛はあり、これは未知を友として歩みます。愛がなければ、未知は厳しいと思います。

ゆらぎさんは、シミュレーション科学を以て、事実かはわからないとは思うが納得、されているので幸せである。ということですね。不完全に完全をみて生きる、それでよしということなのでしょう。

No.6967 - 2019/09/23(Mon) 23:32:45

Re: ムージーさんは良く聴いています / 勘太郎
 ムージーさんが禅師から許されるのか?疑問に思っています。

 覚醒者はいないと言われますけれども、おらは人は覚醒して、世界と成ると想像しています。

 雪担御老師は「漸近線と双曲線は全く違う」という言葉でこれを説明します。

 蜘蛛の糸が天から降りてくるのをできる限りの努力をして待つ、がおいらの姿勢です。鉄城御老師は「言葉で伝えられない感覚を判ってもらうしかない」とおっしゃいます。

 ムージーさんが言うのは言葉が無い・思考がない状態で覚醒への通り道ではあるけれども、覚醒ではないと想像しています。本当かどうかはおらのはまったく解りません。想像です。

 昨日の大雨が旱の6月頃に降って欲しかったなあと思います。予報通り雲が急に消えて、雲一つない青空になりました。コオロギに新芽を食べられてしまい、数本しか残ってないない大根が大きくなると嬉しいです。

No.6970 - 2019/09/24(Tue) 07:13:18
(No Subject) / ubik0101
>自我は真我を発現させるための執事であり、真我が現れると自我が消滅するという仕組みが開示される、つまりそれが実現することが自我の完成ということですね。

自我は虚構というのが、自我の仕組です。体験は一連のことですが、それは仕組みとは言えないです。

>真我とは、実在の直系とのことであり、自我は真我と同じことを日常こなすとのことですが、実在及び真我とは何であり、それらは何をこなしているのでしょうか?

朝シャワーを浴びまして・・・これから、馬車馬のように働きます。もう2年も経つのかとは思いますが、ゆらぎさんと、あるはあるにありきってない、と話したような気がします。

>昔、「神との対話」という本が流行りましたが、ご存知でしょうか?

その書名は、聞いたことがあります。書店で数ページ流し見したかもしれませんが、印象にないです。

繰り返しますが・・・自我、真我、愛、実在とか、それは一連の体験で、分離されませんが、ほとんど同じ体験の人、あるいは単発?で愛を感じた人、会ったことがあります。愛の体験をしたと、神道系の人でしたが、メールと電話で話してきた人もいます。

体験が起きたのは、30年以上前のことです。

No.6945 - 2019/09/16(Mon) 08:32:31

Re: / hato

さあ!頑張って働いて参ります。☺
庭の桜の木に、花が咲いてました。ちょっと、嬉しいです。

No.6946 - 2019/09/16(Mon) 08:55:34

Re: お仕事お疲れ様でございます。 / 勘太郎
 身体を使って働くのは快だと思ってます。まるで好きな森の中を荷物を担いで歩くような感じです。

 累計3匹のあづかり猫、2匹はもらわれて行きました。残るは妊娠中の1匹だけになりました。飼い猫はたくさんいますが。
 2匹ともに、すでに数匹飼っているけれども追加で飼う人に行きました。

 今キースジャレットをユーチューブで聴きながら打っています。心に引っかかりません。きれいに音が流れ行って滞りません。

 嬉しいでも快適でも愉快でも楽しいでもありませんけれども、「快」です。次の音を捜す(どんな展開かを予想する・・・仕事の段取りを考える・・先を予想する)ような焦りに近い欲求でもなく。ただ音が体を通り抜けて行くイメージです。

「 鐘の音を消せ」という公案があります。キースジャレットを聞いて思いました。独参で鐘の音を消せ」と言われたら、手拍子を打つで、もしかしたら、鈴が鳴らないかもしれないと。

No.6947 - 2019/09/16(Mon) 21:20:03

Re: / ubik0101
その公案は、鐘の音になりきる、ということでしょうか?ごぉおおおお〜ん、て言ってみるかもしれません。
No.6948 - 2019/09/16(Mon) 23:07:22

Re: / hato

えー!!??、鐘になりきる、じゃないですかぁあ?どちらでもいいのですけど。

身体って、難儀だけど凄いです。

No.6949 - 2019/09/16(Mon) 23:38:01

Re: / ゆらぎ
>「 鐘の音を消せ」という公案があります。キースジャレットを聞いて思いました。

勘太郎さんもジャズがお好きなんですか?
キースジャレット、いいですよね。
ジャズのくせに、ピュアな音って思います。
(クラシック出身というのが、影響しているのかも)

「鐘の音を消せ」ですか・・。
私だったら、自分の両耳を塞ぐかな・・。
そもそも自分と鐘はひとつであり、自分の中で鳴っているので、自分の中の音を消せばいいのかなと。
ちりんちりんですかね?

No.6950 - 2019/09/17(Tue) 05:49:37

Re: / ゆらぎ
> 自我は虚構というのが、自我の仕組です。体験は一連のことですが、それは仕組みとは言えないです。

既に述べてきましたが、「自我は虚構というのが、自我の仕組」というのは、私も同じです。
恐らく、多くの面でubik0101さんやhatoさんと共通していると思いますが、お二人は体験を元にされているのに対し、私は思考を元にしているところが違和感を生み出しているのかもしれません。

> >昔、「神との対話」という本が流行りましたが、ご存知でしょうか?

> その書名は、聞いたことがあります。書店で数ページ流し見したかもしれませんが、印象にないです。

ubik0101さんの論と似たところがあります。
実在と真我との関係と神と魂の関係がそっくりです。

No.6951 - 2019/09/17(Tue) 05:58:16

Re: / ubik0101
> ubik0101さんの論と似たところがあります。
> 実在と真我との関係と神と魂の関係がそっくりです。


ちょっと興味が湧きました。ただ、世界が目の前に展開されてる(変な言い方)ってことだけで楽しく嬉しく驚異で、そのことを探る・・・書を読むのは面倒ではあります。

No.6952 - 2019/09/17(Tue) 07:22:47

Re: / hato

> 多くの面でubik0101さんやhatoさんと共通していると思いますが、

ゆらぎさんがそのように感じられるなら、なにか近いものがあるのでしょうね。いい分かち合いが出来たら嬉しいですね。

こちら、賑やかだったつばめたちが南方に飛び立ち、寂しいですが、代わりにここ数日、庭のハンター百舌鳥や、ヒヨドリたちがやってきています。ubik0101さんは、モズを、「ブッチャーバードだ!」と呼んで喜んでます。

No.6953 - 2019/09/17(Tue) 23:34:31

Re:今日の夕方、 街を流れる川に鴨の子供が8羽いました。 / 勘太郎
 それこそハト程の大きさで母鳥が一羽見守っていました。
不思議な事に冬には全面結氷する池にも凍結ギリギリの時まで鴨が居るのです。どこにいるんだか?初冬に融けたり結氷したりを繰り返すのですけれども、融けたら現れます。ホントに凍ると春までお別れです。

 無門関三七則 庭前拍樹
拍樹が犬の散歩道に植えられています。今の場所に住んで二〇年になりますので、2m位だった木が10mの高さになりました。ヒノキの葉が縦に繁っている感じの木です。

僧問う 仏法とはなんですか?とジョウシュウ師に尋ねたら「庭前の拍樹」。僧 「御師家様、心の持ちようで答えていただいても困ります」
 ジョウシュウ「私は心境ではこたえていない」
僧、仏法とはなんですか? ジョウシュウ「庭前拍樹」

 おいらが想像すると、御師家様は自己と世界が一体だと感じるので、そのままを答えている。
 (一体とすると二体が有る事になるのでおかしな説明ですけれども)

おらは、 犬と拍樹の脇を歩くとき、何とかこの合掌しているような葉っぱの木と自分とが合体したような気分にならないものか!と思いますけれども、そうは行きません。

No.6954 - 2019/09/18(Wed) 19:27:19

Re: ジョウシュウ師は庭前拍樹です。 / 勘太郎
ubku0101師は「シャワーを浴びて、馬車馬の如く働く」と答え。hato師は「庭の桜がすこし咲いてうれしい」とお答えになります。
No.6955 - 2019/09/18(Wed) 19:35:16

Re: / ゆらぎ
>  無門関三七則 庭前拍樹
> 僧問う 仏法とはなんですか?とジョウシュウ師に尋ねたら「庭前の拍樹」。僧 「御師家様、心の持ちようで答えていただいても困ります」
>  ジョウシュウ「私は心境ではこたえていない」
> 僧、仏法とはなんですか? ジョウシュウ「庭前拍樹」


勘太郎さん、境というのは心の持ちようや心境ではなく、心の外のもの、即ち人間に備わっている感覚器官で感知出来る対象のことのようです。「庭前拍樹」はその意味で境(色境)なのですが、師は境で答えていないと言われているようです。
私は、「庭前拍樹」がそのまま仏法だと言われていると感じます。もちろん、岩でも草でも鍬でも、何でもいいのですが・・。全てがそのまま、仏法です。これは、シミュレーション仮説と見事に一致します。

> おらは、 犬と拍樹の脇を歩くとき、何とかこの合掌しているような葉っぱの木と自分とが合体したような気分にならないものか!と思いますけれども、そうは行きません。

合体した気分になるよりも、分離を感じることの方に意味があるのかもしれません。

No.6956 - 2019/09/20(Fri) 06:01:10

Re: 境は心の持ちようではない / 勘太郎
 おらの理解が間違えていました。思い込みです。

 庭前拍樹は色境でありながら、師は色で答えていない言った。これはおらにはわからない事です。

 拍樹がそのまま仏法だは解ります。しかしながら想像であって、腑に落ちてはいません。

 分離が諸悪の根源と想像していますので、合体への希望は強いです。分離と合体があったら合体はないのですけれども。


 今朝の川に鴨が9羽いました。母鳥と見分けがつかない程の大きさです。それで9羽と数えました。先日の夕方は時間があったのでゆっくり眺めていましたが、今朝は時間がないので数だけ数えて安心しました。無事に全部育つと良いなあ〜と思います。

 夜の犬の散歩の時に上空を南から北北東に宇宙ステーションが飛んで行きました。見るのは今夜で2回目。1っ等星程の明るさで飛行機より早いでしようか?あの中で人が暮らしているかと思うとそれ自体が生命を持っている様に感じました。

No.6957 - 2019/09/20(Fri) 21:01:36

Re: 境=命何でしょうか / 勘太郎
それで、ジョウシュウ師は 境で答えていない、とおっしゃったのでしょうか。
No.6958 - 2019/09/20(Fri) 21:05:23

Re: / hato

庭の柏の木も、嬉しい、哀しい、も、一所懸命に働く、も、・・・それがなにかを、人は本当に知ってるでしょうか?

桜が咲く・・・いつ、どうして、なぜ咲いてるのか、・・

人は、本当に知ってるでしょうか?

分離・・合体・・それが一体どういうことかを、知っている、でしょうか?

庭前の柏の木。

現前にある、とある事実。それは法の現れとして、

でも、それがなにかを、人は知りません。

その不可思議。不可知、ということ。

稲穂。もうすぐ刈り取りの頃です。

No.6959 - 2019/09/20(Fri) 23:33:14

Re: / ゆらぎ
>  庭前拍樹は色境でありながら、師は色で答えていない言った。これはおらにはわからない事です。

「一切衆生悉有仏性」「色心不二」「色不異空」を表現しているのかもしれないですね。

>  分離が諸悪の根源と想像していますので、合体への希望は強いです。分離と合体があったら合体はないのですけれども。

自分の身体の境界を認識出来ますので、分離感があります。しかし、それは右脳のはたらきであって、右脳が壊れれば自分と周囲が連続しているように感じるようです(ジルボルト・テイラーの奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたときから引用)。
人間の皮膚も空気も、素粒子レベルでは連続していますので、そもそも合体しているのですが、そこに分離を感じることが出来ることが奇跡です。そんなことは、自然に起こりようがなく、脳がそのようにプログラムされているからであり、同様にこの世界全体もプログラムされており、それを仏法と名付けていると私は理解しています。
ですから、「庭前拍樹」もプログラムの現れであり、仏法なのです(私にとっては)。

No.6960 - 2019/09/21(Sat) 06:06:45

Re: / ゆらぎ
上記は、左脳の間違いでした。
No.6961 - 2019/09/21(Sat) 06:52:21

Re: / ゆらぎ
Hatoさん

> 庭の柏の木も、嬉しい、哀しい、も、一所懸命に働く、も、・・・それがなにかを、人は本当に知ってるでしょうか?
> 桜が咲く・・・いつ、どうして、なぜ咲いてるのか、・・人は、本当に知ってるでしょうか?
> 分離・・合体・・それが一体どういうことかを、知っている、でしょうか?
> 庭前の柏の木。> 現前にある、とある事実。それは法の現れとして、でも、それがなにかを、人は知りません。


そうです。何も知りません。
それを知っているとするのが、宗教であり、私はどの宗教が真理なのか、長い時間をかけてその内容(教義)を吟味してきました。
結論は、「分からない」です。
そもそも、知らないものの正誤は判断できません。

はっきりしているのは、人間や動植物、この世界は偶然の産物ではないということです。この世界の現象は、数学的な記述が可能であり、例えば、台風の進路や発達する規模などの予測精度は、昔よりも大幅に向上しました。もっと多くのパラメータをインプット出来るようになれば、さらに精度は上がるでしょう。

人間や動植物、この世界は創造されたことに間違いないでしょう。その思いは中学生のときから変わりません。しかし、創造者は完全無欠な神ではないため、不足や限界、バグなどがあるということです。神が創られたのに、なぜ弱肉強食?食物連鎖?戦争が止まない?不幸が撲滅できない?という疑問が解けました。

それは、感情的に受け入れることが出来ないかもしれません。
しかし、私は何の抵抗もなく受け入れられました。
そして、人生が楽しくなりました。
自由になりました。

No.6962 - 2019/09/22(Sun) 06:04:47

Re: ゆらぎさん、分離観はありますが / 勘太郎
 どこが分岐点(線・面)かは。分りません。ubik0101さんとも話しましたけれども。私と外とがどこで分かれているかは感じ取ることができないのです。
 (座布団に座ってどこがお尻の皮でどこが布か?解らないのです。みなさん解っていると勘違いしているだけです。)

 おらが世界の中心に有る、という感覚です。身体はおらの外です。自分の手足がおらの物とは感じません。

プログラムとはどういう意味ですかね。自分を分離して感じるという仕組みになるようにインプットされているということでしょうか。

むじゅんしますけれども、自分の脳が自在に動かせる範囲が自分でそこに境目があるのではないですか?境を感じる方が自然なような気がします。


?A弱肉強食はバクではなく、完璧な仕組みでしょう。戦争・不足・見かけの不公平・正義、かたわで産まれる子供・公害・病気・隕石の衝突。考えれば考えるほど完璧なシステムに感じます。

 ゆらぎさんの考えに対立しする思考・感覚がおいらに産まれて、ぶつける。ゆらぎさんがそれに意見を書き込ぬ。弁証法でしったけ?対立して動いて行く。他人の意見のパグを見つけて、正しい見方ができるようになる。素晴らしいシステムに感じます。
 個々には不公平や問題が山積していますけれども、目を全体に広げると、戦争や原発事故も世界を進歩させる道具だと感じるのです。世界は完璧に感じます。

 hatoさんのわかっててるのか?すこし考えてみます。おらはどうしても、拍樹の事を解っている様な感じがしていまいます。色も形も葉の様子も解っている感じがしてしまいます。
 物に名前を付けたら、それで終わり、理解できた理科の試験問題には答えらえる。と思ってしまいます。

No.6963 - 2019/09/22(Sun) 20:57:33

Re: / hato

ゆらぎさん、勘太郎さん、こんばんは。今日のこちらは、朝から日中、夜半へと、爽やか。風がひんやりといい気持です。日差しは強くても、湿気がないと、こんなにも楽ですね。この連休3日間、働き蜂の2名です。ubik0101さんとご飯を食べて、ちょっと安らぐひとときです。


>神が創られたのに、なぜ弱肉強食?食物連鎖?戦争が止まない?不幸が撲滅できない?という疑問が解けました。


それは、人が成長できるために。

そのために、総て勢揃いの様相です。なにか完全な世界として、人はどのように育っていけるでしょうか?完全も不完全も、あるもないも含めた、膨大無尽蔵の様相が、世界です。

そして、見上げれば世界に、こんなにも、愛が降り注いでいます。こんなにも人生と世界は難儀だけど、注意して静かに見れば、そこここに、愛が溢れていることがわかるでしょう。


>それは、感情的に受け入れることが出来ないかもしれません。しかし、私は何の抵抗もなく受け入れられました。そして、人生が楽しくなりました。


感情的に受け入れられない・・ではありません。自分にとっては、とくに事実でないからです。

この世界は、愛を「きちんと受け取ることが出来たら、」ある意味ですが、参画していける・・・ようなものです。愛を受け取ったら、世界にしてもらう・・プログラムされてる・・・というだけでない、生きる、ということです。初めて、その生に、本来の意味での未知が加わる、ということでもあります。

とくに世界を変えようとする、必要もないけれど、人生の都度の選択で、変化したり、しなかったりする世界を見るでしょう。世界は、人が成長するための触媒、の意義です。そこで各々が意味を汲み取り、手放して、生きていく。成長する。ことができるのが、人の所以です。

それは、人が自分を狭い教義、思考形態などに閉じ込めず、「未知を友としてよく生きる」という、意志を示すことから始まります。

ここで言う未知とは、意識上に見え隠れしているあたりの、わかる、わからない、のわからないではありません。思考逡巡の余地もない、意識が吹っ飛ぶほどの、まったき未知です。ここに想像は皆無です。考えた結果の、わからない、とは言えません。

どちらかといえば、こうしたことは、思考した挙句のわからない、意識上でのわからない、を逸脱しているが故に、わかることが、ある。ということなのです。

つゆ草、咲いてると嬉しくなります。

No.6964 - 2019/09/22(Sun) 21:18:58
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