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“掲示板”

この世界は人を覚醒させるための触媒です。

ありがとうございました / ゆらぎ
ubik0101さん、hatoさん、長い間お付き合い下さり、ありがとうございました。
私もいい加減な気持ちで書き込んでいる訳ではないことをご理解戴ければ、ありがたいです。
hatoさんに叱られちゃいましたので、これで去りますが、一応ubik0101さんへのレスだけはしておきます。
勿論、返信不要です。
私にも体験が訪れましたら、報告に参ります。

たいへん、ご迷惑をおかけしました。
そして、本当にありがとうございました。
心よりお詫びとお礼を申し上げます。

> 私は、実在の解き解れ、それを実体と言ったことがあるのですか?もしかしてですが、私が実体と言ってると、ゆらぎさんが自分で空想して、それに対して、ゆらぎさんが自分で批判してるのではないですか?私は、ストレートに真面目に話しています。

質問に対して質問で返されるのも、論点のすり替えのひとつです。
ストレートに真面目に話されているなら、「因果であれば、結果としての事象であるそれらの凄惨な出来事、その原因が実在にあるということですよね?」「つまり、弱肉強食、戦争、暴力、病気、嫉妬、偽善、嘘が実在にあるということですよね?そして、それらは仮想ではなく実体だということですよね?」という質問に対して、先ずイエスかノーで答えて戴き、その後に説明して戴くことになると思います。

> なんかピカピカで完璧なことだけが、実在の解き解れかも知れないと考えていませんか。

そのようには考えていません。実在の中に凄惨な出来事の原因があり、それの解き解れが自分であり、この世界なのですね?と確認させて戴いています。

> まったく疎いのですが、粒子?に+も−も、無電荷のものもあるのでは?磁石にはSとNがあるのでは?さまざまあって、どれが実体とか、そうでないとかあるのでしょうか?

どれも実体ではありません。「真に実在するもの」が実体であり、磁石も溶かせば磁界が失われ、普通の鉄に戻ります。

> >20年前、一人しかいない弟が、スキルス性の胃癌で他界しました。その時、弟の子供は8歳と11歳でした。私の人生の中でも最大の悲しみでした。
> >これは、空想なのでしょうか?
> >それとも、事実なのでしょうか?
> ゆらぎさんに聞きます。それは空想ですか?事実ですか?最大の悲しみも、ゆらぎさんによれば、シミュレーション、仮想、幻ではないのですか?


勿論幻想です。
そうではないと、一度も言ったことは無いと思いますが?
私は、ubik0101さんに質問しているのです。

> >>まず先に思考者がいて、思考してるのではありません。思考があって、その主体をつくるのです。
> >これは、私も主張してきたことです。
> ゆらぎさんは、そう主張してないと思います。ゆらぎさんは、自我の構造を、どう言ってますか?プログラムされてるとか、現象界は幻だとか、無自性と、言ってる印象はありますが・・・それは自我だけでなく、世界は総てシミュレーションということで、とくに自我の構造をまだ聞いてないと思います。シミュレーション仮説が自我ということなら、それはそうなのでしょう。


思考や感情や本能は自然に起こるものであり、自我はそれらを自己同一化して自分という主体をつくりあげる機能であり、自我も自分も幻想であると説明しています。
「まず先に思考者がいて、思考してるのではありません。思考があって、その主体をつくるのです」と全く同じです。

> >今は、この世界は幻想であるということが、腑に落ちています。
> その幻想ということは、弟のことも幻想なんでしょう。弟は例外なんでしょうか?そして、ゆらぎさんも幻想なんでしょう?幻想が思考することは幻想なんでしょう?ゆらぎさん、そしてその思考は、幻ではない、幻の例外てことはないでしょう。あるいはシミュレーション仮説と悲しみという現実を、使い分けてる?


私は、弟のことも幻想だと思っていますし、例外なんてつくっていません。

> もしかして、ゆらぎさんの、自分て何?の定義は、生まれてこの方変わらない気づいてる意識ということでしょうか。それ、自性ですか、無自性ですか?それ、現象界でのことですか?実在ですか?それとも実在と現象界の堺ですか?いろいろこの投稿に?はついていますが、ゆらぎさん自身が応えを出せばいいと思います。

前にも同じような質問を受け、説明しています。
「気づいている意識」というのは、自我の機能によらないもの、つまり思考や感情や感覚で認識されるものではありません。自我は幻想ですので、「気づいている意識」の方を自分と定義しています。ただ、それが本当の自分なのか、自性なのか無自性なのかは分かりません。

No.7104 - 2019/10/27(Sun) 06:40:11

Re: ありがとうございました / ubik0101&hato
どこかで聞いた言葉ですが、グッドラック!です。
ubik0101

いつかきっと、楽しい話ができる〜 ! て思ってます。
hato

No.7105 - 2019/10/27(Sun) 22:45:44
続きです 3 / ゆらぎ
ubik0101さんのお答えは、論点のすり替えです。
質問にストレートにお答え戴きたいです。

因果であれば、結果としての事象であるそれらの凄惨な出来事、その原因が実在にあるということですよね?

つまり、弱肉強食、戦争、暴力、病気、嫉妬、偽善、嘘が実在にあるということですよね?
そして、それらは仮想ではなく実体だということですよね?

ubik0101さんは体験によって、例えば飢えによって死んでいく子供たちの凄惨な状況を、どう了解出来たのでしょうか?
この質問にはお答え戴いているのかもしれませんが、全く理解できていませんので、もう少し説明を加えて戴けると有り難いです。

> と、ゆらぎさんが言ってるそれは、思考なんです。ずっと前に話した、何をしても、それはそういうことができるようにできてるから出来るだけ・・・歩くも、走るも、笑うも、病気も、治療も、死ぬも・・・絶対不自由・・・それは思考の見る風景なのです。

思考の見る風景、それを私は幻想と表現しています。
思考であるということは、実体ではないということですね?

> ゆらぎさんは、その飢えて死ぬ子供ではないでしょう?実際に、どこかにそんな子供はいるでしょう。そんな映像を見た記憶はあるでしょう。ここでその事実に飛びつかずに、そこにとどまって自己観察です。思考は、空想と事実を峻別する機能がついてないな・・・です。

20年前、一人しかいない弟が、スキルス性の胃癌で他界しました。その時、弟の子供は8歳と11歳でした。私の人生の中でも最大の悲しみでした。
これは、空想なのでしょうか?
それとも、事実なのでしょうか?

>まず先に思考者がいて、思考してるのではありません。思考があって、その主体をつくるのです。これが自我は虚構ということです。実際、その思考以外、あるいはその思考の範疇以外の思考をすることは困難でしょう。

これは、私も主張してきたことです。

> 経験則ですが、なにか疑問があれば、それは必ず自分で解けます。たぶん子供の頃、誰にも降って湧いたような疑問、自分て何?なんのために生きてる?・・・私はたぶん、この疑問を捨てなかっただけだと思います。そして、その自然の公案を忘れるほど、それに没頭したのです。

私も疑問は捨てませんでした。
今は、この世界は幻想であるということが、腑に落ちています。
書棚を見て、よくこれだけの本を読んできたなと我ながら感心します。(笑)
今は、1冊の本も必要なくなりました。

No.7098 - 2019/10/26(Sat) 06:16:02

Re: 昨日の朝、散歩で、カラスに襲われている鳥を拾いました / 勘太郎
 仰向けになって、ばたばたしていました。簡単に捕まりました。ヒヨドリ程の大きさで、片目を閉じて、嘴は半開きでした。

 帰宅後、砂糖水とさいの目切リンゴを口に詰め込み小さな箱にいれて、帰宅後も生きていれば獣医さんに連れて行こう。捕まえた手はかなりの血が付きました。

 夕方生きていたので妻が獣医さんに診せたら、怪我も治って、脱水症状も無いので、今、放鳥した方が良いと言われました。
 
19時頃なので、翌朝砂糖水飲ませて、放す事にしました。
獣医さんは、捕まえた近くで放せと言いましたが、今朝も同じカラスが2羽、おらの散歩を見ていました。「よくも、私たちの大事なエサをよこどりしたね」と言っていました。
それで、車で30分走り、遠くの山中に放してきました。

 元気に飛んで行きました。

これらは、私が行った事ではなく、私の目の前に起きた出来事です。おらの心の中には鳥が起こしたバタバタした出来事が少し哀しく思い出されます。おらと私は全く繋がらず、私はいつもながらのスクリーンです。残念ながら、私はおらの分身であって、真我ではありません。

 薄く3重の虹にみえます。3重目はおらの想像かもしれません。

 放す直前の鳥です。明るい外に出ようとしています。

No.7099 - 2019/10/26(Sat) 12:23:27

Re: 休みだけれども、雨予報で畑には行きません / 勘太郎
 暇です。

 ダグラス・ハーディングという人が、世界は層(レイヤー)でできている。カオスとも云うかもしれません。と言っています。

 カラスの層で言えば、御馳走を逃して悔しい1日であったし、おらから云うと「弱肉強食を見せつけれれて哀しい」となります。
地球の層で云うと「何もなく、日常が過ぎた」となります。

 タデウスゴラスと人が「我々は塊にもなるし、スペースにもなる」と言ってます。
宇宙は一つ実体で、できています。そしてその一つ一つが命を持ち、自分の事を自分で決めています。

 おらが想像するに、地球は一つの思考を持ち、ゴリラの思考も人の思考もミミズの思考も含んでいるのではないかと思っています。
 おらはおらの視点でしかみることができません。おらの善悪はおらの身体を如何に安楽に生きるかを主題にしています。それに重なって、おらは地球なので、肉体の層である「おらの人生」にはほとんど関わりません。スペースと塊とは、このの事を言っているのではないか?と思っています。

No.7100 - 2019/10/26(Sat) 13:58:36

Re: 続きです 3 / ubik0101
私は、実在の解き解れ、それを実体と言ったことがあるのですか?もしかしてですが、私が実体と言ってると、ゆらぎさんが自分で空想して、それに対して、ゆらぎさんが自分で批判してるのではないですか?私は、ストレートに真面目に話しています。

なんかピカピカで完璧なことだけが、実在の解き解れかも知れないと考えていませんか。不完全もない、完全は、完全ではない・・・たとえば美醜、善悪、生死とかあるとして・・・たとえば世界には美という、片方だけがあるのではないでしょう?また、ほかのことは何もなくて、生死だけが、世界にあるというわけではないでしょう?実在の解き解れに、あるもないも、総てなくて、それが実在の解き解れとは言えないです。

まったく疎いのですが、粒子?に+も−も、無電荷のものもあるのでは?磁石にはSとNがあるのでは?さまざまあって、どれが実体とか、そうでないとかあるのでしょうか?

>20年前、一人しかいない弟が、スキルス性の胃癌で他界しました。その時、弟の子供は8歳と11歳でした。私の人生の中でも最大の悲しみでした。
>これは、空想なのでしょうか?
>それとも、事実なのでしょうか?


ゆらぎさんに聞きます。それは空想ですか?事実ですか?最大の悲しみも、ゆらぎさんによれば、シミュレーション、仮想、幻ではないのですか?

いま、ゆらぎさんが、死んだ弟を思考してるなら、それは空想で、思考でしょう?ゆらぎさんが思考してるなら、思考してることが事実でしょう。思考してないなら、思考してないが事実でしょう。

死んだ弟はどこにいますか?死んだ弟がここにいるなら・・・今も、子供は8歳と11歳なら・・・実体という定義は知りませんが・・・それは実体でしょう。

>>まず先に思考者がいて、思考してるのではありません。思考があって、その主体をつくるのです。

>これは、私も主張してきたことです。

ゆらぎさんは、そう主張してないと思います。ゆらぎさんは、自我の構造を、どう言ってますか?プログラムされてるとか、現象界は幻だとか、無自性と、言ってる印象はありますが・・・それは自我だけでなく、世界は総てシミュレーションということで、とくに自我の構造をまだ聞いてないと思います。シミュレーション仮説が自我ということなら、それはそうなのでしょう。

>今は、この世界は幻想であるということが、腑に落ちています。

その幻想ということは、弟のことも幻想なんでしょう。弟は例外なんでしょうか?そして、ゆらぎさんも幻想なんでしょう?幻想が思考することは幻想なんでしょう?ゆらぎさん、そしてその思考は、幻ではない、幻の例外てことはないでしょう。あるいはシミュレーション仮説と悲しみという現実を、使い分けてる?

もしかして、ゆらぎさんの、自分て何?の定義は、生まれてこの方変わらない気づいてる意識ということでしょうか。それ、自性ですか、無自性ですか?それ、現象界でのことですか?実在ですか?それとも実在と現象界の堺ですか?いろいろこの投稿に?はついていますが、ゆらぎさん自身が応えを出せばいいと思います。

私には、生まれてこの方変わらない気づいてる意識、それがないです。ついでに言いますと、スクリーンも、基底もないです。

No.7101 - 2019/10/26(Sat) 21:44:13

2重の虹。 / ubik0101
今日、私もあの虹を見た。という人がいました。見なかった、という人もいました。虹は幻なのに、いろんな人に見えるのは、変な感じでした。
No.7102 - 2019/10/26(Sat) 21:46:46

Re: 続きです 3 / hato

さてゆらぎさん。そろそろ、終わりにさせて頂いてよいでしょうか?☺
言葉は山のように費やされました。このように理解なく散財されることは、よいことではありません。

ゆらぎさんは、まったき、空虚なるご自身を生きるとご自身で決めているのですから、なにも問題ないです。悟った人を、理解する必要がありますか?。ここは正直なところ、努力したいでもない、科学的興味本位で質問されては困ります。ゆらぎさんの状態が変わらなければ、理解することは難しいことがあると思います。

先にわたしとの間でお話し頂いてることからすこし。

> 思考も体験の一つであり、全ては脳内の出来事です。それを不可思議と呼べば、不可思議です。


空虚な自我状態に、ダダ流れの如き思考を、覚醒体験と同様にみることは出来ません。実体なき自我状態に於ける思考と言葉。それは、星の数ほど溢れ出ては、ただ消えていくでしょう。一方、実在の言葉、仏陀やイエスの言葉は残り、語り継がれるでしょう。ない、自我と、ある、自己。という、そんなことが言えるでしょう。


> 思考の見る風景、それを私は幻想と表現しています。

その通り、ゆらぎさんは幻想のただ中です。そこから出たくない、と駄々をこねる人を連れ出すことは出来ません。いたずらに、思考を費やす対話は、ただのレジャーか、ちょっとした自分確認くらいなことでしょう。成長について、努力の甲斐もないと考える人は、こうしたことに係らないほうがよいと思います。中途半端に言葉を弄んでは、理解の道は遠くなるだけです。

私たちは、幻想の話をしていません。ubik0101さんは、ある意味血が滴るほどの本気度で応対しています。もうこれで十分。やめておきましょう。

疑問が湧いたら??

自己に、尋ねるのです。自己に入ってください。それ以外に決着できることはありません。なにか宗教や修行、外に出掛けていって行う、あらゆる行でも書を読むでもいいですが、ここではそれを、自己探求とはいいません。自己探求は文字通り、自問自答、「自分てなに?これはどういうこと?」それを自身に問う、道です。汝我を知れ。それ以外ではありません。こうした場所(掲示板やホームページ)は、そんな人たちがちょっと疲れたり、迷ったときのために開かれています。本当にそのことを、結果も可否もわからず、その自身に問い努力する人の為の、場所です。

ゆらぎさんが引用された、聖書の言葉から再度あげておきます。誰もが、道端に蒔かれたものになろうとは思いも寄らないでしょう。ですが残念なことに性根がわるいために、自分から、そのようになる人もいるのかも知れません。


> 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。/だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。/石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。/茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。/良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」


お元気でお過ごしください。
またいつか、新しいゆらぎさんに出会えるのを、・・楽しみにしています。

No.7103 - 2019/10/26(Sat) 22:33:01
続きです 2 / ゆらぎ
ubik0101さん

> >「分離も総ては1つもあり得ないのだから、世界に依存できない」という説明をされているとのことですが、あり得ないというところが、全く理解出来ておりません。前に書きましたが、現象界もエネルギーという観点からはひとつですが、心的エネルギーと物理的エネルギーに分離されており、物理的エネルギーも超弦や素粒子に分離されています。分離も総ては1つもありますし、依存も何も、我々はその世界で生きています。
> 完全な分離も、完全なひとつもない、ということです。たとえば心的エネルギーと物理的エネルギーに、完全に分離されているなら、現象界もエネルギーという観点からはひとつ。ということは成立しないでしょう。


エネルギーという観点からは、分離されていないのです。
そこを完全に分離しているという前提に置き換えると、話が分からなくなってしまいます。

> >原因と結果は別物です。過食は肥満の原因ですが、肥満そのものではありません。
> そいうことなら、ゆらぎさんの言うようには、総てはプロブラムされてるわけではない、ということでしょう。


これも意味が分かりません。
過食と肥満が同じなのですか?
過食しても、太らない体質の人はたくさんいます。

> ここで私が言ったのは、起こることは起こることが決まってたから起こってる、ということではないよ。多様であることで自由が醸しだされてる、と説明したのです。私が事実として言えるのは、神、実在の直系が真我、というだけです。

それは、ubik0101さんの事実であって、一般化出来ません。
ubik0101さんの脳内の処理を事実だとubik0101さんの自我が認識しているだけだと思いますが?

> 「人間は神の子である」とは、キリスト教みたいです。これはなにか体験して、わかりやすく擬人化して言われたのかもしれません。ゆらぎさんに質問された誰もが、たぶん確信がないのでしょう。成長の家の創立者とかに聞けば、そうだとか違うとか説明するような気がします。

創立者はアメリカの光明思想をベースに理論構築しているだけで、体験はありません。

> シミュレーション仮説と、縁起説との違いは、誰か設定者がいるということと、総てプログラムだ。ということ以外は違わないように思います。その違いを削除してしまえばいいのに、と思います。もちろん縁起説も、ひとつの世界観で、私の根拠にはなりません。

無から有は生じません。原因と結果を一如とするか、分けるかだけの違いだと思います。

> うーん、自分は自分を知ることはない、と知れる。です。それは自分を知ることなくては、こう言えない、逆説です。あるいは、自分を知らないということは、迷悟を失った。ご飯を食べたら茶碗を洗う、ということです。

現象界に肉体を持ったのは、「神、実在の直系が真我」ということを知るためではないのでしょうか?

> たとえば剛体を想定するから、世界が非剛体であると知れる。ゆらぎさんの考えでは、違うのですが、私の場合は、

そうです。現象界の物質は非剛体であるという認識が先です。
生まれて、母に抱かれる。母の肌は柔らかい。これが最初に認識する非剛体体験です。

> ゆらぎさんは、この世界は、非剛体、と言ってたと思います。この世界に剛体があっても見えないかもしれません。

この世界にはありません。
あるとしたら別の世界です。あっても見えないということは、別の次元にあるということです。

> >この世界では、自分だけでは生きていけません。他のすべてに依存しています。他の全ても自分ならば、全ての人が自分にしか依存していません。
> 私の言う意味を、違う意味で認識しています。きっと・・・このところ同じテーマで話していますが・・・眼はその眼を見れない・・・ということを探ると判ると思います。


最初、その話なのかと思いました。
しかし、「レンズが眼だったとして、そのレンズが見える?」という質問ではなく「片方のレンズに眼があるとして、そのレンズが見える?」という質問だったため、質問に忠実にお答えしたのです。

> たとえばですが、鏡を見れば、その眼が見えると知れる(体験)。と、いうことがあって、その鏡がなければ、眼はその眼を見れない(体験の徹底)です。もちろん体験の有無にかかわらず、鏡がなければ、その眼はその眼を見れない、です。

そこは、充分検討してきました。

> >目の前に起こってくることに対して、真摯に対応していくだけであり、結果はどうでも良くなりました。
> >このあたりは、ubik0101さんやhatoさんと共通していると思います。
> たぶん、苦悩や葛藤な誰かがいるとして、そいうことで自分を楽しんでるかもしれません。


真摯に対応していくことが、「ご飯を食べたら茶碗を洗う」ということです。

> >結果的に、ubik0101さんやhatoさんと同じように体験が起こればそれでもいいし、起こらなければそれでもいいです。
> そのように決めることもないのでは?朗報を望みます。


私は何も望みません。
起こることは起こり、起こらないことは起こらない、ただそれだけです。

No.7083 - 2019/10/22(Tue) 08:36:06

Re: 続きです 2 / ゆらぎ
hatoさん

> ゆらぎさん、こんばんは☺。今日は静かな雨模様。身体を休めて、ゆっくり過ごしています。ここまでのお話しを、勘太郎さんのも含めて、読ませて頂いてました。こちらもゆらぎさんを知ろうとし、ゆらぎさんも、ここでの考え方を理解しようとしてくださいました。改めて、訪れて下さり、ありがとうございます。

私の方こそ、ありがとうございます。
私も真剣に取り組んできたので、言葉がきつくなることもありますが、ご容赦戴きたく。
今回のhatoさんの話はよく理解できました。
ただ、どうしても納得がいかないところがあります。

> 人が、その自分を、実際はないところの幻影(世界の機能としての自我)、と腹で気付いたなら、可能性を拓く一歩と思います。そして、ここでの話は、その、本来、ない、ところの自我は、変容(成長)して、ある(自己、実在)、に進む可能性がある、というところが肝要です。そのためには先ずは人に、容赦のない自己探求は不可欠です。

ここが、先ず違うところです。
瓦は磨いても玉にはなりません。自我は変容しても自我であり、幻想だと思います。
決して真我や実在に進むことはないと思っています。
なぜなら、真我も実在も変容しないものだからです。
だから、私は自我を弄ることはやめました。

> 人(自我)は成長できること。人と世界は、決定されてるだけでもないらしい、ことを認められたら幸いと思います。

私もかなり自己探求はやってきました。
結論は、何かにならなくてもいいということです。
成長する必要もないし、目覚める必要もない。
それに決定されていたとしても、私には結果が分からないのですから、決定されていないのと同じです。
人は、何もコントロール出来ない、自由意志もない、だから自由で人生も捨てたものではないのです。

No.7084 - 2019/10/22(Tue) 08:37:23

Re: 続きです 2 / ubik0101
>エネルギーという観点からは、分離されていないのです。
>そこを完全に分離しているという前提に置き換えると、話が分からなくなってしまいます。


ここでゆらぎさん自身が、完全な分離はない、と言ってるのです。

こちらの言ってることは簡単です。完全な分離も、完全な1つもない・・・それなのに自我は分離だとか、ワンネスとか、非2元とか、総ては1つとか・・・そう見なすのは、どちらも世界に依存してる。解脱ではない、ということです。

ゆらぎさんが、その眼はその眼を見れない、ということを理解してるなら、こんなことは明白なはずです。なので、

もしかして、ゆらぎさんの質問の核心は・・・真我は初めから真我?それともあるとき突然に真我になる?ということでしょうか。

それなら、どちらの解釈も間尺にあわないです。体験は突然です。1/3だけ自我、2/3は無我とか真我はあり得ないからでしょう。初めから真我なら人が生まれる必要がないでしょう。また、初めから真我なら、悟りという体験がある必要もないでしょう。見えるは見える聞こえるは聞こえる思考するは思考する、これは変わりません。

この世界に埋没して生きる・・・勘太郎さんの師?が、言ったらしいのですが・・・言葉で言えない、とても微妙な感覚・・・真我であり、自我であり、無我であり、どれでもない・・・世界であり、呼吸であり、感情であり、どれでもない、あるでもないでもあるし、あるでもないでもない・・・たとえば雨の庭の見えることが、そうです。

ところで、ギターを弾けるのは、いいですね。私は、何も楽器ができません。そんな2人が並んで草むしりしてるとします。音楽のこと、将来のこと、過去のこと、ご飯のこと、なにも考えずに、同じことをしています。でもゆらぎさんは、ギターが弾けるのです。練習した、しないがあるから当然。そんなことなんでしょう。

それはまた道元の疑問だったと聞いたことがあります。とても希薄な記憶ですが・・・すでに人は悟ってるのに、なぜ修行しなくてはならないのか?だったと思います。そして身心脱落が起こって・・・そうは言っても体験しなければ、それは発現しないのだ・・・とのこと、らしいです。

>これも意味が分かりません。
>過食と肥満が同じなのですか?
>過食しても、太らない体質の人はたくさんいます。


ここで、ゆらぎさん自身が、起こることは起こるようになってるから起きたという解釈は、結果論、だよ。と言ってます。いろんなことが総て決められてるというのは、結果論でなくて何でしょう。

>それは、ubik0101さんの事実であって、一般化出来ません。

とくに一般化したいわけでも、されたいわけでもなく、人それぞれです。

>ubik0101さんの脳内の処理を事実だとubik0101さんの自我が認識しているだけだと思いますが?

私が、ゆらぎさんなら・・・ubik0101について、ゆらぎという自我が、脳内の処理を事実だと認識しているだけか?と自問します。自分の思考を自分に適応するという探求の一環です。

>無から有は生じません。原因と結果を一如とするか、分けるかだけの違いだと思います。

こちらの経緯では、原因と結果が同じなら、いわゆる即今で、因果の壊滅です。縁起の素敵なところは、順観と逆観があることです。無のゆらぎから、万物が生じたという主張をどこかで見たような、気がします。

>現象界に肉体を持ったのは、「神、実在の直系が真我」ということを知るためではないのでしょうか?

あらかじめ真我があって現象界に肉体を持った、のではありません。あくまで喩えですが、この世界、この宇宙は、子宮という感じでしょう。

と、書いたところで思いつき・・・たぶん半村良の小説で見た、胎蔵界という言葉を、ネット検索してみました。仏教でも、神、実在を感知した誰かがいるのでしょう。私だけの事実ではないかもしれません。

http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/kontaim.html

《胎蔵は大悲胎蔵生だいひたいぞうしょうのことで、子供が母親の胎内で育つように、大日如来の慈悲により、本来存在している悟りの本質が育ち生まれてくる、という意味です。》

イエス・キリストも、そのようかもしれません。神を父と呼び、種を蒔く例えで、大地、つまり世界を母としてる、そんな節があります。そして、なぜ種が芽生え、成長するのか誰も知らない・・・実ったら、すぐに収穫する。とあると思います。

No.7085 - 2019/10/22(Tue) 21:50:35

Re: 続きです 2 / hato

こんばんは☺

>私もかなり自己探求はやってきました。結論は、何かにならなくてもいいということです。成長する必要もないし、目覚める必要もない。それに決定されていたとしても、私には結果が分からないのですから、決定されていないのと同じです。人は、何もコントロール出来ない、自由意志もない、だから自由で人生も捨てたものではないのです。


わかってます、それでこそ、ゆらぎさん!ですね。そうでなくちゃ。人から言われて気が変わる、・・そんな柔な自我じゃ、育ちようもつまらなかろ。と思います。

・・たぶん、問題があるとしたら、その性根、と思います。(ああ、なんと失礼なんでしょう、)ですが探求は、検証できる明晰な頭脳(もとても大事だけど、)よりも、子供っぽいかも知れませんが、馬鹿みたいに、どこまでも無垢な精神のように思います。

(自己に、)これ以上ない素直。(自己に、)これ以上ない誠実。

ゆらぎさんの探求は、本当に、そのようにありましたか?

探求は、もし人が、その時点の自分が、安心できそうな行先を、予め隈なく調べ上げて目指すとしたなら、奇妙です。

簡単です!。精神世界や宗教の本や、ビデオが言うなにかそれら、・・それもこれもの知識を捨てて、今日その自分に向かうだけです。

なにか安心できる世界観や信条を抱えたまま、自己に正しく(正しくです、)入ることは出来ません。探求は、たまねぎを、剥くようなわけですから当然です。


>瓦は磨いても玉にはなりません。自我は変容しても自我であり、幻想だと思います。
>決して真我や実在に進むことはないと思っています。
>なぜなら、真我も実在も変容しないものだからです。



そんなことは、経験してみなければわかりませんよ。瓦の話じゃありませんし。ゆらぎ大丈夫か?と思いますよ。

なので、本当に不明なことは、放っておくこと。・・ではないですか?☺

機能は無論、残ります。けれどここは、人の変容です。思考で紡ぐ結論には、収まりかねますよ?。どこかのスレッドで、人は自我真我、いずれにしても不可思議、と書いたと思います。


さあ、夜も更けてきました。
人は違うので、学べたり、楽しいです。
うふふ!おせっかいに煩くして、すみませんでした。

自分はひとまずこの辺で。

初秋の頃、一連の台風が過ぎる頃、このメヒシバ、オヒシバが、一面に生え揃います。絹糸のように細い枝が、何千何万と風にゆらぎ、本当にうつくしいです。

ゆらぎさんの日常に、
ちょっと幸せが、たくさん、ありますように。

No.7086 - 2019/10/23(Wed) 00:01:26

Re: 続きです 2 / ゆらぎ
> >エネルギーという観点からは、分離されていないのです。
> >そこを完全に分離しているという前提に置き換えると、話が分からなくなってしまいます。
> ここでゆらぎさん自身が、完全な分離はない、と言ってるのです。


エネルギーという括り方では分離されていませんが、この世界では、エネルギーも位置エネルギーや運動エネルギー、熱エネルギー、物質としては素粒子・原子・分子・・というように分離されています。
エネルギーが完全なひとつというのは、剛体と同じく概念です。この世界は、完全な分離です。何故なら、分離していないと認識出来ないし、活動自体が起こらないからです。
なお、実在や真我は完全なひとつではないのでしょうか?

> こちらの言ってることは簡単です。完全な分離も、完全な1つもない・・・それなのに自我は分離だとか、ワンネスとか、非2元とか、総ては1つとか・・・そう見なすのは、どちらも世界に依存してる。解脱ではない、ということです。

そもそも解脱していると言っておりませんが?

> ゆらぎさんが、その眼はその眼を見れない、ということを理解してるなら、こんなことは明白なはずです。なので、
> もしかして、ゆらぎさんの質問の核心は・・・真我は初めから真我?それともあるとき突然に真我になる?ということでしょうか。


真我は自性と定義していますので、あるとき突然に真我になるということはありません。
真我は初めから真我というのが、私の認識している真我です。
そこが違っていれば、話が合わないのは当然ということになります。

> それなら、どちらの解釈も間尺にあわないです。体験は突然です。1/3だけ自我、2/3は無我とか真我はあり得ないからでしょう。初めから真我なら人が生まれる必要がないでしょう。また、初めから真我なら、悟りという体験がある必要もないでしょう。見えるは見える聞こえるは聞こえる思考するは思考する、これは変わりません。

同じく、半分だけ剛体とか半分だけ分離もありません。
そして、私は悟りがあるとも必要とも思っていません。

> この世界に埋没して生きる・・・勘太郎さんの師?が、言ったらしいのですが・・・言葉で言えない、とても微妙な感覚・・・真我であり、自我であり、無我であり、どれでもない・・・世界であり、呼吸であり、感情であり、どれでもない、あるでもないでもあるし、あるでもないでもない・・・たとえば雨の庭の見えることが、そうです。

脳内でリアル化が行われているだけかもしれません。
先日、紹介した濃淡の脳内処理のように。

> ところで、ギターを弾けるのは、いいですね。私は、何も楽器ができません。そんな2人が並んで草むしりしてるとします。音楽のこと、将来のこと、過去のこと、ご飯のこと、なにも考えずに、同じことをしています。でもゆらぎさんは、ギターが弾けるのです。練習した、しないがあるから当然。そんなことなんでしょう。

ギターが弾けるは、起きたこと。
そして、体験も起きたこと。

> それはまた道元の疑問だったと聞いたことがあります。とても希薄な記憶ですが・・・すでに人は悟ってるのに、なぜ修行しなくてはならないのか?だったと思います。そして身心脱落が起こって・・・そうは言っても体験しなければ、それは発現しないのだ・・・とのこと、らしいです。

発現しないというのは、認識が起こらないということですよね?
でも悟っているなら、認識の起こる起こらないに拘ることもないのでは?

> >これも意味が分かりません。
> >過食と肥満が同じなのですか?
> >過食しても、太らない体質の人はたくさんいます。
> ここで、ゆらぎさん自身が、起こることは起こるようになってるから起きたという解釈は、結果論、だよ。と言ってます。いろんなことが総て決められてるというのは、結果論でなくて何でしょう。


起きた時点から見れば、結果論です。

> >それは、ubik0101さんの事実であって、一般化出来ません。
> とくに一般化したいわけでも、されたいわけでもなく、人それぞれです。


それは、理解しています。
主張されても一般人は理解できませんということです。

> >ubik0101さんの脳内の処理を事実だとubik0101さんの自我が認識しているだけだと思いますが?
> 私が、ゆらぎさんなら・・・ubik0101について、ゆらぎという自我が、脳内の処理を事実だと認識しているだけか?と自問します。自分の思考を自分に適応するという探求の一環です。


それは自問していて、そうだと思っています。
脳内の処理を事実だと認識することが、自我の仕事です。

> >無から有は生じません。原因と結果を一如とするか、分けるかだけの違いだと思います。
> こちらの経緯では、原因と結果が同じなら、いわゆる即今で、因果の壊滅です。縁起の素敵なところは、順観と逆観があることです。無のゆらぎから、万物が生じたという主張をどこかで見たような、気がします。


引用ですが「そこに宇宙ができていないのですから、空間も、時間もない、物質も、力もない…。そのような状態を “真空”と呼びます。初期の宇宙は、そのような状態であっただろうと。“真空”とは、即ち “無”のことです。量子論によると、無といえども、これは何もない状態のことではないようです。そこには、とてつもなく大きなエネルギーが、寄せては返す波のように現れては消える、という状態を繰り返している。つまり、結果的には相殺されていてゼロであるが、ある瞬間においては、例えば無限大のエネルギーが存在しうる、ということであるのです。これは “真空のゆらぎ”、或いは、量子論(量子力学)の考え方なので“量子的ゆらぎ”と呼ばれています」

> >現象界に肉体を持ったのは、「神、実在の直系が真我」ということを知るためではないのでしょうか?
> あらかじめ真我があって現象界に肉体を持った、のではありません。あくまで喩えですが、この世界、この宇宙は、子宮という感じでしょう。
> と、書いたところで思いつき・・・たぶん半村良の小説で見た、胎蔵界という言葉を、ネット検索してみました。仏教でも、神、実在を感知した誰かがいるのでしょう。私だけの事実ではないかもしれません。


胎蔵界と金剛界、懐かしいですね。
私は真言密教も勉強していた時期があり、真冬の滝行とか真夏の護摩焚きも経験があります。今思えば、バカですねえ。(笑)

> イエス・キリストも、そのようかもしれません。神を父と呼び、種を蒔く例えで、大地、つまり世界を母としてる、そんな節があります。そして、なぜ種が芽生え、成長するのか誰も知らない・・・実ったら、すぐに収穫する。とあると思います。

種を蒔く人の喩えも、懐かしいですね。
若かりし頃、統一教会と論戦していて、聖書もかなり勉強しました。
例えの意味は以下です。
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。/だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。/石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、/自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。/茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。/良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」

No.7087 - 2019/10/23(Wed) 08:24:49

Re: 続きです 2 / ゆらぎ
hatoさん

> ・・たぶん、問題があるとしたら、その性根、と思います。(ああ、なんと失礼なんでしょう、)ですが探求は、検証できる明晰な頭脳(もとても大事だけど、)よりも、子供っぽいかも知れませんが、馬鹿みたいに、どこまでも無垢な精神のように思います。

はい、失礼です。(笑)
でも、それくらいの根性が無ければ、話になりません。

> (自己に、)これ以上ない素直。(自己に、)これ以上ない誠実。
> 簡単です!。精神世界や宗教の本や、ビデオが言うなにかそれら、・・それもこれもの知識を捨てて、今日その自分に向かうだけです。


その通りです。
ですから、探求が止み、その後はその系統の本は読んでいません。
シミュレーション仮説もそうです。
もう、かなりの時間が経過しました・・。

> >瓦は磨いても玉にはなりません。自我は変容しても自我であり、幻想だと思います。
> >決して真我や実在に進むことはないと思っています。
> >なぜなら、真我も実在も変容しないものだからです。
> そんなことは、経験してみなければわかりませんよ。瓦の話じゃありませんし。ゆらぎ大丈夫か?と思いますよ。


経験しても分かりませんよ。
その経験が、真であるとは確かめようがないですから。
私は、大丈夫です。(笑)

> なので、本当に不明なことは、放っておくこと。・・ではないですか?☺

その通りだと思います。
ですから、私は「分からない」ものは放っておいています。

> 機能は無論、残ります。けれどここは、人の変容です。思考で紡ぐ結論には、収まりかねますよ?。どこかのスレッドで、人は自我真我、いずれにしても不可思議、と書いたと思います。

思考も体験の一つであり、全ては脳内の出来事です。
それを不可思議と呼べば、不可思議です。

> 人は違うので、学べたり、楽しいです。
> うふふ!おせっかいに煩くして、すみませんでした。


いえいえ、本音でバチバチと火花を散らせば、変容もあるでしょう。

> ゆらぎさんの日常に、
> ちょっと幸せが、たくさん、ありますように。


ありがとうございます。
ubik0101さんとhatoさんのご健康とご多幸をお祈りいたします。
そして、勘太郎さんに体験が訪れんことを!

No.7088 - 2019/10/23(Wed) 12:18:07

Re: 応援ありがとうございます / 勘太郎
体験が訪れてくれると嬉しいです。

 おらは昨日より、老人と成りました。

休日で3月ぶりで小学5年生の孫が遊びに来ました。
会うなり、おらの顔をまじまじと見て「じじも老けたねえ」と言いました。この一言で、おらは老人になりました。
 一昨日までは、おらはまだ拡大の余地がある人と感じてきました。青空に投げ上げた石の、上昇スピードは落ちているけれども、頂点に達していないと感じていました。
 
 各人がどう自分を感じるか、それぞれでしょう。どの時点で自分がどう変わったと自覚するのか、面白いです。

 この次に大きく変わるのは、自分は死ぬ存在だと自覚する時と想像しています。今だに自分が死ぬと信じることができないでいます。言葉を変えれば「死ぬ覚悟ができた時」楽しみです。
 

No.7089 - 2019/10/23(Wed) 14:00:47

Re: つぶらな瞳 です / 勘太郎
 可愛いとかではなく、胸が締め付けらる感じがします。
野良猫のままで、産まれたなら、オホーツク沿岸の地ですから、もう季節は冬に近いでしょう。何かの縁でおらん家のあづかり猫となり産まれて、もらわれ先も決まっています。

 概念からくるのでしょうけれども、こんな姿を見ると生きて行く厳しさを想像してしまい、涙がこぼれそうになります。
 山の畑にキツネの子どもが現れたことがあります。この猫より少し大きい程でした。無事に育ったことか・・・・・。

 「産まれ出たのは、苦労しに世界に現れてた」とお釈迦様はおしゃいます。
爺いから申しますと「終わりに近づいてみれば、それほど大きな苦労も無かった。過ぎ去れば、産まれてくるのも悪くないかもしれません」

No.7090 - 2019/10/23(Wed) 14:46:27

Re: 続きです 2 / ubik0101
>なお、実在や真我は完全なひとつではないのでしょうか?

その眼は、その眼を見れないの、眼、です。1つだとしても比べるほかのことがないので1つだとも、認識できないのです。

その1つの外に視点を置くと仮定して、1つと、言えないことはないけど、現象界ではそのような変なこともできるそれは自我の機能です。

真我は、自分をまったく知ることができない、ということを学ぶのがこの世界ということなら、そう言えます。

真我が、自分を知ろうとして、この世界にいるということなら、それは真我でない、自我ということです。

>真我は初めから真我というのが、私の認識している真我です。

前にも同じ質問をしたと思いますが、それは、どうやって認識しましたか?これが訳の分からないことです。ここは、シミュレーション世界だから、そうでない実在があるってことでしょうか?要するに、認識できることは無自性、できないことは自性?

>発現しないというのは、認識が起こらないということですよね?
>でも悟っているなら、認識の起こる起こらないに拘ることもないのでは?


たぶん、初めから悟ってる、というのは単なる知識でしょう。真我(自性)が、この世界(無自性)に生まれるでしょうか?神(自性)が、この世界に生まれるでしょうか?

どういう寺か知りませんが、文章はよく出来ています。

《胎蔵は大悲胎蔵生だいひたいぞうしょうのことで、子供が母親の胎内で育つように、大日如来の慈悲により、本来存在している悟りの本質が育ち生まれてくる、という意味です。》

《子供が母親の胎内で育つように》、神、実在、が創ったというわけではなく、神、実在の解き解れであるこの世界で、《大日如来の慈悲により》慈悲の波動を受けて《本来存在している悟りの本質が》、悟りの本質とは不明ですが、ともあれ真我は最初から真我ではなく・・・生まれ育つと言ってるわけではなく・・・《育ち生まれてくる》その実在の解き解れである世界から生まれ出る。解脱する。

No.7091 - 2019/10/23(Wed) 21:40:24

Re: 続きです 2 / ゆらぎ
> >真我は初めから真我というのが、私の認識している真我です。
> 前にも同じ質問をしたと思いますが、それは、どうやって認識しましたか?これが訳の分からないことです。ここは、シミュレーション世界だから、そうでない実在があるってことでしょうか?要するに、認識できることは無自性、できないことは自性?


認識という言葉は幅広い意味を持ち、この場合の認識は知識に近いです。
換言すると、真我は初めから真我というのが、私が知的に理解している真我です。
シミュレーション世界はつくられた世界であり、実在はつくられたものではないため、シミュレーション世界には実在は無いと思います。

> >発現しないというのは、認識が起こらないということですよね?
> >でも悟っているなら、認識の起こる起こらないに拘ることもないのでは?
> たぶん、初めから悟ってる、というのは単なる知識でしょう。真我(自性)が、この世界(無自性)に生まれるでしょうか?神(自性)が、この世界に生まれるでしょうか?


初めから悟ってるというのは、私が主張しているのではなく、「道元の疑問だったと聞いたことがあります。とても希薄な記憶ですが・・・すでに人は悟ってるのに、なぜ修行しなくてはならないのか?」を受けての質問です。
真我も神もこの世界に生まれてくることはないでしょう。

> 《子供が母親の胎内で育つように》、神、実在、が創ったというわけではなく、神、実在の解き解れであるこの世界で、《大日如来の慈悲により》慈悲の波動を受けて《本来存在している悟りの本質が》、悟りの本質とは不明ですが、ともあれ真我は最初から真我ではなく・・・生まれ育つと言ってるわけではなく・・・《育ち生まれてくる》その実在の解き解れである世界から生まれ出る。解脱する。

ここが理解出来れば、ubik0101さんの言われていることが理解出来るのでしょうが、まだまだ、全く無理ですね・・。
解き解れであるこの世界と実在との関係を具体的に説明していただけないでしょうか?
例えば、弱肉強食、戦争、暴力などによる凄惨な状況は、実在の何の解き解れでしょうか?

No.7092 - 2019/10/24(Thu) 05:35:29

Re: 弱肉強食、戦争、暴力はそれほど不条理ではないと感じる様になりました。 / 勘太郎
 人は菌のような生命の続きであるのです。生き物は飢餓の中で世代交代し発展してきたのです。

 カラスも雀もキツネも一生のなかで、飢餓でない時間は僅かでしょう。公園や山の草木も水・光・肥料の飢餓の中で育ちます。スギの木も周りの木々との競合でやっと生きているのです。

 「人だけが全員ひとりの漏れもなく、満腹・道理に叶った生活を送ることができる」という感情はだれしもありますけれども。上記の様に生命の成り立ちと現状をおもえば、戦争もサギや泥棒も不条理ではないと、おいらは感じます。

 人の歴史を30万年、文明の歴史を5千年として、多数の人が飢えずに生活できるようになったのはまだ100年経たないでしょう。おいらの祖父母の時代には、まだ子供の間引き(子消し)があったと聞いています。

 一足飛びに、不条理は解消されず、戦争や暴力で身体も心も傷つく時代はまだまだ続くでしょう。
 1000年前の平安時代から比べれば、人は確実に不条理を減らしています。飢える人の割合が減っていますし、食べてしまう牛や豚や鶏の虐待的飼育も止めようという声も出ています。

 お寺の接心の食事では必ず、自分の粥の中からテーブルの上に少量を取り出して、生き物の食事にと提供し、「生き物皆が膨満せんことを」と祈ります。願いは必ず叶いますから。
 口笛を吹きながら行こうとは、この事も含まれる、いやこれが主題かと思っております。

No.7093 - 2019/10/24(Thu) 07:22:25

Re: 続きです 2 / ubik0101
>解き解れであるこの世界と実在との関係を具体的に説明していただけないでしょうか?
>例えば、弱肉強食、戦争、暴力などによる凄惨な状況は、実在の何の解き解れでしょうか?


その解き解れ・・・世界の活動・・・ふつうは因果と呼ぶようです。その原因・・・神、実在のどこかが、弱肉強食、というわけではなく、弱肉強食はこの目の前にある事象です。

そんな弱肉強食、戦争、暴力、病気、嫉妬、偽善、嘘、生死とか・・・それを不完全と呼ぶとします。ほかにも言い方はあるかもしれませんが・・・不完全もない完全は、完全ではない、です。

No.7094 - 2019/10/24(Thu) 19:29:36

Re: 続きです 2 / ゆらぎ
> >解き解れであるこの世界と実在との関係を具体的に説明していただけないでしょうか?
> >例えば、弱肉強食、戦争、暴力などによる凄惨な状況は、実在の何の解き解れでしょうか?


> その解き解れ・・・世界の活動・・・ふつうは因果と呼ぶようです。その原因・・・神、実在のどこかが、弱肉強食、というわけではなく、弱肉強食はこの目の前にある事象です。

因果であれば、結果としての事象であるそれらの凄惨な出来事、その原因が実在にあるということですよね?

> そんな弱肉強食、戦争、暴力、病気、嫉妬、偽善、嘘、生死とか・・・それを不完全と呼ぶとします。ほかにも言い方はあるかもしれませんが・・・不完全もない完全は、完全ではない、です。

つまり、弱肉強食、戦争、暴力、病気、嫉妬、偽善、嘘が実在にあるということですよね?
そして、それらは仮想ではなく実体だということですよね?
そこが、私の最大の疑問点でありスタートでしたが、いろいろと論議した結果、スタートに戻ってしまったようです。
私には全く了解することができないのですが、ubik0101さんは体験によって、例えば飢えによって死んでいく子供たちの凄惨な状況を、どう了解出来たのでしょうか?

No.7095 - 2019/10/25(Fri) 06:05:32

Re: 続きです 2 / ubik0101
と、ゆらぎさんが言ってるそれは、思考なんです。ずっと前に話した、何をしても、それはそういうことができるようにできてるから出来るだけ・・・歩くも、走るも、笑うも、病気も、治療も、死ぬも・・・絶対不自由・・・それは思考の見る風景なのです。

ゆらぎさんは、その飢えて死ぬ子供ではないでしょう?実際に、どこかにそんな子供はいるでしょう。そんな映像を見た記憶はあるでしょう。ここでその事実に飛びつかずに、そこにとどまって自己観察です。思考は、空想と事実を峻別する機能がついてないな・・・です。

たとえば100年前に、知らない誰かが書いた空想科学小説・・・ありもしない未来の星々の物語でも、まるで事実のように目の前に展開されるでしょう。思考は問題ではなく、そんな思考の時空を超えた特性に振り回されるのは問題。このようにして思考の特性に自ら気が付きます。

ゆらぎさんは、その飢えて死ぬ子供を今、空想で創造したのです。でも。でも、現実の世界は?これを思考する必要はないのですが、ゆらぎさんは、この飢えて死ぬ子供でなくて幸運です。どこか太古の書に、人として生まれてきたことは稀有、そして生活に余裕のあることは更に稀有。修行して悟ろう。と、あるとき聞き齧った事があります。

ああ青春は短い、だから遊ばなくっちゃ・・・こんなことを叫ぶ化粧の濃い若い女性が、実際にいましたが・・・もう老婆でしょうが・・・ああ青春は短い、だから頑張ろう・・・こんな、稀有の生まれでなくても、関係なく探求しよう・・・なんでもいのですが、そのようにしてるその人がそのようにしてるというだけなのです。

その飢えて死ぬ子供。あるいは大富豪の養子として暮らしてるかもしれません。犯罪者の子供。名も知れない小市民の子供。虐められて育った子供。愛されて育った子供。それはそれぞれの人生を、懸命にやるんです。実際にそうやってるのです。ああ、なんて世界に生まれてきたのだろう。辛い苦しい、これはなんとかならないか?

すこし繰り返ります。どこかに、飢えて死ぬ子供がいる・・・それは思考です。ここで、その思考が、その思考者をつくってるのです。まず先に思考者がいて、思考してるのではありません。思考があって、その主体をつくるのです。これが自我は虚構ということです。実際、その思考以外、あるいはその思考の範疇以外の思考をすることは困難でしょう。

その思考に反対されると反発が起きるかもしれません。それは思考が思考者の生みの親だからです。もちろん、その人の知覚も、感情も、行動も、そうなのです。それこそ、人が思考に、知覚に、行動に、世界に創ってもらってる、育ててもらってるのです。自我はこのようなこと・・・弱い植物の苗をサポートする支柱・・・ということでもあります。

私の場合は、意識と無意識の融合から始まりました。ここで人の知覚、感情、意識は完全に活動し超意識状態になります。思考も、事実も、嘘も、苦しみも、悲しみも、怠惰も、生も死も、世界は・・・たとえば善悪の両極端にも、その中間にも留まれない、これが因果の、同じことですが中道の体験です。そこで、

この世界が、自我のトリックの構造を、マジックのような子育ての手の内を明らかにしてくれるのです。人が大人になったのでしょう。もちろん知的理解もいいのですが、それは信じる信じないということに帰着するかもしれませんし、信じては、あるいは信じないということは、己事究明にならない恐れが大かもしれません。

経験則ですが、なにか疑問があれば、それは必ず自分で解けます。たぶん子供の頃、誰にも降って湧いたような疑問、自分て何?なんのために生きてる?・・・私はたぶん、この疑問を捨てなかっただけだと思います。そして、その自然の公案を忘れるほど、それに没頭したのです。

No.7096 - 2019/10/25(Fri) 20:01:35

Re: 続きです 2 / ubik0101&hato

仕事場に行くために運転して木々に囲まれた庭から出ると、空に、凄い虹が出ていました。完全なアーチ状で、両端が地面からしっかりと生え、しかも完全に2重の虹でした。まるで誰かが描いたCGのように鮮明。

赤信号になったので、仕事場のhatoさんに「見て!見て!凄い虹!」と急いで電話しました。仕事場に付いてもまだ出ていて、その後一緒に車に乗って走っていると、再び大きくくっきりと、出ていました。
子供の頃、やはり夕方、長崎で鮮やかな虹を見て、その片方の元まで行こうと、ずーと電車通りを歩いたことがありました。

ubik0101

「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。 これはわたしと大地の間に立てた約束のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、その中に虹が現れると わたしはそれを見て全ての生き物との間に立てた永遠の契約を心にとめる。」

旧約聖書のノアの箱舟で、神が言われた言葉を思い出したそうです。長崎にいたubik0101さんとメールをやり取り始めた頃、屋久島旅行の虹の写真を送った返信に、虹を追いかけた話しが書かれていました。

画像にはとても収まらず、だいぶ時間がたってからの薄くなった画像ですが、見事な虹でした。

hato

No.7097 - 2019/10/25(Fri) 21:07:37
続きです / ゆらぎ
> >ですから、「形而上の事は分からない」です。
> シミュレーション仮説では、この世界はリアルではなく、幻なんでしょう?形而上のことは分からないもなにも、ないと思います。シミュレーション仮説では、却って形而上のことが幻ではなく、リアルかもしれません。体験は形而上のことではなく、出来事です。


体験を形而上だとは言っておりませんが?
真我は「時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの」ですから形而上の事と言いました。
「形而上の事は分からない」のですから、幻ともリアルとも断定出来ません。

> >二度見とどんな関係があるのでしょう?
> なにか起きます。そしてこれはプログラムされてるから起きたのだ。と思考で判断して、その起きたことを二度見してませんか?あるいはそこから、その起きたことを証拠にしてシミュレーション仮説を正当化してませんか?ということです。二度見しなければ、どんな世界観も起きません。


最初の質問は「二度見の何が問題なのでしょうか?」です。
思考による解釈や判断が二度見だとのお答えだと思います。最初の質問に戻りますが、二度見の何が問題なのでしょうか?
それに仮説は仮設であって、正当化する必要などありません。私にとって、いろんな問題の説明が最も合理的に出来る説がシミュレーション仮説だというだけです。
私には「自我は幻想である」だけで十分です。シミュレーション仮説は、二次的なものです。

> このように主体と思考が分かれてるということが、プログラムとその製作者という、シミュレーション仮説として投影されて思考されてるのかもしれません。つまりシミュレーション仮説は、その人が分離していることを示している、ケースの一例では?

前にも書きましたが、シミュレーション仮説の対象は現象界のみです。そして、現象界は分離の世界です。というか、全てはひとつのエネルギーですが、心理的なエネルギーと物理的なエネルギーに分離され、物理的なエネルギーからなるこの世界も、超弦→素粒子→原子→分子→細胞→臓器→人間A,人間B・・というように分離されているのであり、分離を否定もしていなければ、悪いとも言っておりません。

> >前述しましたが、根拠はあります。
> まず最初にシミュレーション仮説という結論を立てて、論じて、しかも実証されてないので、根拠でもないと思います。たとえば二重スリット実験は、必ずシミュレーション仮説でないと説明できないというわけではないようです。


全く逆です。
先にシミュレーション仮説を、立てることは出来ません。
先に、ビッグバン、反物質、暗黒物質、量子トンネル、量子もつれ観察効果、速度の限界、時間の伸縮などがあり、それらの全部を説明するための一つの仮説としてシミュレーション仮説が登場したに過ぎません。それらの前にシミュレーション仮説があった訳ではありません。
それに、二重スリット実験(観察効果)をシミュレーション仮説以外で合理的に説明できるものがあれば、是非ご教示下さい。

> >どこが悪夢なのでしょうか?
> ゆらぎさんという真我(自性)は、シミュレーション世界(無自性)の外にいるユーザー、あるいは創造者なのですか?ゆらぎさんが、この世界を操作、あるいは創ってるのですか?私や、hatoさん、勘太郎さん、トランプ大統領は、ゆらぎさん操作、製作の、プログラムだとしたら、悪夢では?


私の想像を遥かに超えていました。
私(ゆらぎ)は自我であり、無自性です。ですから、つくられた側であり、つくった側ではありません。つくった側の真我なる存在があるかもしれませんが、私には分かりません。

> >この体験の何が重要なのでしょうか?
> 重要というより、起こったことを言ってるだけです。体験が起こらなかったら、生まれて・・・損した得した恋をした・・・死ぬだけの人生だった、と思います。それが起こらなければ知りもしなかった人たちに会うこともなく・・・こうして掲示板で話をしたりしています。


私には体験が起こっていませんが、こうして掲示板で話をしたりしています。

> >体験したことにより、ご自身の何がどのように変わったのでしょうか?
> それまで自我と気付かず自我として生きていました。体験は、真我の発現です。自我は死んで消えてしまうでしょう。世界の構成要素、物質、知覚、感情、意識は使いまわされ、輪廻するでしょう。ない、もなくならないと言えますが、ある、もなくならないです。私がそんな人だというだけです。


自我はCENSOREDば消えるでしょう。しかし、生きている間は、消えないと思います。
「世界の構成要素、物質、知覚、感情、意識」はデータベースのようなものですから、使いまわされるということには同意です。

> >そして、ubik1010さんは、何を目指しているのでしょうか?
> ここがシミュレーション世界でも、因果世界でも、現象界でも、ここに帰らないつもりです。そんなことを聞かれなければ考えませんが・・・行き先は、どいうわけかわかりませんが、実在に還る、そしてその向こう、です。♫口笛を吹きながら、歩いて行こう。ほかの誰かのことは知りません。


実在に還るなら、なぜ実在から出てきたのでしょうか?
「どういうわけかわかりませんが」とのことですが、分からないのになぜ行き先が実在と分かるのでしょうか?
そして、体験によると実在とは何なのでしょうか?

No.7064 - 2019/10/19(Sat) 06:20:11

Re: 続きです / ubik0101
とくに分離は問題ではないです。この世界は、完全な分離も、完全な、ひとつ、もないということです。完全に何かと何かが分離されてると、それは分離としても認識できないでしょう。逆も同じです。問題はそこにはありません。

そのことによって、人が、自他・・・自分と誰か、自分と世界、自分と知覚、自分と感情、自分と意識を分離ではないのに分離と認識して、迷うことです。なので、総てが1つ、ということも同種の迷いです。つまり、分離も、総てが1つも、この世界に依存してるってことです。それが問題です。

この世界がシミュレーションであれ、因果であれ、実在の解き解れ、夢であれ、即今、時間はない・・・総て解釈であり特に問題ではないです。ただ、それに依存する。それを自分の拠り所にする、それを主張する、それが問題だ、ということです。誰であれ、これを問題でないということなら私が、どうすることでもないです。

>私の想像を遥かに超えていました。
>私(ゆらぎ)は自我であり、無自性です。ですから、つくられた側であり、つくった側ではありません。つくった側の真我なる存在があるかもしれませんが、私には分かりません。


ゆらぎさんは、無我だと言っていますか?それを、体験ではなく、どう了解しましたか?私は、自我もなければ、無我もない、と言います。

>そして、体験によると実在とは何なのでしょうか?

私の創造主です。

No.7065 - 2019/10/19(Sat) 07:16:40

Re: 続きです / ubik0101
>実在に還るなら、なぜ実在から出てきたのでしょうか?
>「どういうわけかわかりませんが」とのことですが、分からないのになぜ行き先が実在と分かるのでしょうか?


そうですね。放蕩息子が家に帰るのです。

No.7066 - 2019/10/19(Sat) 08:34:54

Re: 続きです / ゆらぎ
> とくに分離は問題ではないです。この世界は、完全な分離も、完全な、ひとつ、もないということです。完全に何かと何かが分離されてると、それは分離としても認識できないでしょう。逆も同じです。問題はそこにはありません。

例えば、メガネが落ちて左右のレンズが外れました。
左右のレンズは完全に分離であり、分離として認識出来ますが?

> そのことによって、人が、自他・・・自分と誰か、自分と世界、自分と知覚、自分と感情、自分と意識を分離ではないのに分離と認識して、迷うことです。なので、総てが1つ、ということも同種の迷いです。つまり、分離も、総てが1つも、この世界に依存してるってことです。それが問題です。

分離と認識するのが自我の特性であり、迷っていないと思いますが?
迷いとは何でしょうか?
この世界に依存するとはどういうことでしょうか?
そして、なぜそれが問題なのでしょうか?

> この世界がシミュレーションであれ、因果であれ、実在の解き解れ、夢であれ、即今、時間はない・・・総て解釈であり特に問題ではないです。ただ、それに依存する。それを自分の拠り所にする、それを主張する、それが問題だ、ということです。誰であれ、これを問題でないということなら私が、どうすることでもないです。

私の場合は、全く依存していないと思います。
朝が来て、新しい舞台の幕が開いて、さあ今日も頑張ろう!
それだけです。
何も依存するものなどありません。
掲示板なので主張というかたちになるかもしれませんが、それが何故どのように問題なのでしょうか?

> >私の想像を遥かに超えていました。
> >私(ゆらぎ)は自我であり、無自性です。ですから、つくられた側であり、つくった側ではありません。つくった側の真我なる存在があるかもしれませんが、私には分かりません。
> ゆらぎさんは、無我だと言っていますか?それを、体験ではなく、どう了解しましたか?私は、自我もなければ、無我もない、と言います。


無我も無自性も同じですから、無我と言ってもいいのでしょう。私は、無我という言葉は紛らわしいので使いませんが。
前にも書きましたが、思考も感情も自分が起こしているものではない、したがって自我は幻想である。つまり、実体としての自我はない。それを無我と言うのでは?


> >そして、体験によると実在とは何なのでしょうか?
> 私の創造主です。


それは、どのようにして分かったのでしょうか?

> >実在に還るなら、なぜ実在から出てきたのでしょうか?
> >「どういうわけかわかりませんが」とのことですが、分からないのになぜ行き先が実在と分かるのでしょうか?
> そうですね。放蕩息子が家に帰るのです。


なぜ放蕩の旅にでたのですか?
旅の目的は何でしょう?
そして、なぜ帰るのですか?

No.7067 - 2019/10/19(Sat) 13:19:56

Re: ゆらぎさんの書き込みでおいらの服を脱がされている様です / 勘太郎
<、思考も感情も自分が起こしているものではない、したがって自我は幻想である。つまり、実体としての自我はない。それを無我と言うのでは?>

 無我であれば、行きがかりで刺されて殺されてもアハハと笑ってしねますかね?
?@死にたくない気持ちも、私が起こすのではなく、死にたくないと感じる様にできている。
?A自然に発生する死にたくないという希望が、殺されつつある現実と摩擦を起こして、自分が有るという気持ちになる。

たぶん、体験後は、死にたくないという気持ちはおこるけれども、そこに自分が有るという気持ち(殺されると云う行為があり、殺される主体は無我だからありません)が起こりません。そこで死ぬことが楽になる。勘太郎が、覚者の気持ちを想像するとそうなります。
 勘太郎は非覚醒ですから、苦しみます。

もう少しで紅葉です。この時期の色が好きです。手前の枯れた赤い葉はウルシだとおもいます。
朴の木は葉を落とし終わり、新緑の様な樹もあれば、絡みつく葛もあります。どれだけ眺めても飽きる事はありません。

No.7068 - 2019/10/19(Sat) 19:41:17

Re: ゆらぎさんの考えの全体を掴んで感想を書けるとよいのですけども。 / 勘太郎
ひがみでなく、おらは頭が悪いので、部分を取り出してしか、感想が浮かびません。

何度も書いていますけれども、中学2年の時の国語の青柳先生の言葉がいつも頭にありますけれども、全体の把握はなかなかできません。

勘太郎君、カレーライスをジャガイモと勘違いしてはいけないよ。カレーライスの中のジャガイモだけを食べれば、それはジャガイモだ。だけどカレーライスはジャガイモではないだろう」

なかなかカレーライスを味わう事ができません。

No.7069 - 2019/10/19(Sat) 19:53:20

Re: おら / 勘太郎
勘太郎さんも、とても独特と思います。こちら三度見、できないです。見てるおらだけが残るということは、部屋、猫などの対象が消えて、意識だけが残る、ということなのでしょうか。参考になるかもしれません。どこかに投稿した覚えがある、体験談です。
No.7070 - 2019/10/19(Sat) 20:22:40

Re:Re;おらの 続きです / 勘太郎
見てるおらだけが残る。は思考が奥に引っ込んで観察がズームアップされる。という事です。

あいちゃんの踊る姿があり、見てるおいらがある。好きだと云う感情・気持ち・こっち向いての希望が奥に引っ込むという事です。

「踊るあいちゃんが消える」のを覚者は世界は無い、と言うのでしょう。自分の意識だけがある。と書いてあるのを目にします。

No.7071 - 2019/10/19(Sat) 20:30:32

Re: 続きです / ubik0101
>例えば、メガネが落ちて左右のレンズが外れました。
>左右のレンズは完全に分離であり、分離として認識出来ますが?


その壊れる前のメガネも、壊れた後の左右に完全に分離したレンズそれぞれも、人からは、両方とも見えるでしょう。

それが見えるということは、レンズと私が、完全に1つでも、完全に分離されてるわけでもないということです。

その片方のレンズに眼があるとして、そのレンズが見える?あるいは、片方のレンズがここにあって、もひとつのレンズが時空を超えた違う世界にあって、見える?

>分離と認識するのが自我の特性であり、迷っていないと思いますが?

虚構である自我がどうして正しく認識できる?レンズのところで話したように、分離を認識できてません。

>迷いとは何でしょうか?

それは,愚か、ということです。ゆらぎさんとか、私とか、トランプ大統領とか・・・誰か個人ではなく、自我が愚かという意味です。無明。

>この世界に依存するとはどういうことでしょうか?

この世界を、またその起こる事象を、根拠にできないのに、自分の根拠にしようとしてるてことです。この世界は幻と言われるでしょう。移り変わるでしょう。無常でしょう。シミュレーション仮説では、シミュレーション仮説そのことも、現象界にしか適応されない、プログラムでしょう。

それをどうやって、自我でなくて、自分の根拠にすることができるのでしょう。依存とは、依存できないのに、依存しようとしてることです。執着、倒錯とも言います。真我は、どうして執着、倒錯できるでしょう?できたら変です。つまり真我が発現してないと、執着も倒錯も問題ではないです。

>そして、なぜそれが問題なのでしょうか?

とくに問題でないなら、ほかの誰かに、どうこうできることではないです。

>前にも書きましたが、思考も感情も自分が起こしているものではない、したがって自我は幻想である。つまり、実体としての自我はない。それを無我と言うのでは?

それは、そうとも言えます。たとえば自我って、単なる世界の機能です。つまり、自我は無我です。自我の中心は、ない、です。したがって、自我は無我です。これは知的理解です。

>それは、どのようにして分かったのでしょうか?

ラジオで聞いた妙好人の話・・・父親が臨終の床で、親を探せ、と息子に言います。息子は、なぜ親がそんなことを言うのかと思ったそうです。親の親そのまた親は真の親?また息子が知らないでも実は息子は養子なら誰が親?・・・そんなことではなく親とは、私の創造主です。会って親が分からない子供は、親子ではないのでしょう。

>なぜ放蕩の旅にでたのですか?
>旅の目的は何でしょう?
>そして、なぜ帰るのですか?


可愛い子には旅をさせろ、強くなれよ、賢くなれよ、ってことかもしれません。その旅を終えると、息子は故郷に帰るのです。いや、親が息子を、笛や太鼓の、お祭り騒ぎで出迎えるのです。

補足説明です。

なんであれ人が、その愚かであることを守る理由付けも正当性も、あることないこと、いくらでも見つけることができます。そんなこの世界です。それは世界が活動して、自我を育ててるとも言えます。

たとえば、二重スリット実験(観察効果)をシミュレーション仮説以外で合理的に説明できるものがあれば、是非ご教示下さい。とか・・・シミュレーション仮説は分離した人の投影では?という質問を無視するとか・・・どうあっても、自我はその自我を守るでしょう。

これは、その人がやってるのですから、自己責任でもあります・・・この世界は自治区ですから・・・その人にしか、突き崩せないのです。自我、自我と言うと悪者扱いしてるように聞こえるかもしれませんが、自我は種で、芽吹くまでは、どうしても世界あるいはその機能という硬い殻で守るのです。

ゆらぎさん。あるとして、実在と現象界の境を、なくせませんか?それだけかも知れません。

No.7072 - 2019/10/20(Sun) 07:02:32

Re: 続きです / ubik0101
>あいちゃんの踊る姿があり、見てるおいらがある。好きだと云う感情・気持ち・こっち向いての希望が奥に引っ込むという事です。

たとえば映画を見て、ぼう然自失。仕事して、思い出しても一日が10分くらいにしか感じない忘我状態。それは観察者のない観察とは似て非なることで、扉になるかは解らないです。ただ、見えてる聞こえてるということなら、近いです。真我は意識ではないです。

No.7073 - 2019/10/20(Sun) 07:06:00

Re: 続きです / ゆらぎ
> >例えば、メガネが落ちて左右のレンズが外れました。
> >左右のレンズは完全に分離であり、分離として認識出来ますが?
> その壊れる前のメガネも、壊れた後の左右に完全に分離したレンズそれぞれも、人からは、両方とも見えるでしょう。
> それが見えるということは、レンズと私が、完全に1つでも、完全に分離されてるわけでもないということです。


同時には両方見えません。壊れた後には、壊れる前の記憶があるだけです。

> その片方のレンズに眼があるとして、そのレンズが見える?あるいは、片方のレンズがここにあって、もひとつのレンズが時空を超えた違う世界にあって、見える?

これも私への質問ですか?
目は自分の肉体が見えます。肉体をレンズに置き換えれば、レンズは見えます。
もうひとつのレンズは見えないでしょう。
何が仰りたいのでしょうか?

> >分離と認識するのが自我の特性であり、迷っていないと思いますが?
> 虚構である自我がどうして正しく認識できる?レンズのところで話したように、分離を認識できてません。


虚構であるから、正しく認識出来ないのは当たり前だと思いますが?
ただ、前回は「人が、自他・・・自分と誰か、自分と世界、自分と知覚、自分と感情、自分と意識を分離ではないのに分離と認識して、迷うことです」と言われ、今回は分離を認識できませんと言われると、???です。
そして、申し訳ありませんが、レンズの話は意味が分かりません。たぶん、私の答えもubik0101さんから見たら、頓珍漢なのでしょう。
しかし、普通の人は分からないと思いますよ。
勘太郎さん、分かります?

> >迷いとは何でしょうか?
> それは,愚か、ということです。ゆらぎさんとか、私とか、トランプ大統領とか・・・誰か個人ではなく、自我が愚かという意味です。無明。


自我が愚かということには同意です。
しかし、愚かなのは迷う原因であり、迷いそのものではないと思いますが?


> >この世界に依存するとはどういうことでしょうか?
> この世界を、またその起こる事象を、根拠にできないのに、自分の根拠にしようとしてるてことです。この世界は幻と言われるでしょう。移り変わるでしょう。無常でしょう。シミュレーション仮説では、シミュレーション仮説そのことも、現象界にしか適応されない、プログラムでしょう。
> それをどうやって、自我でなくて、自分の根拠にすることができるのでしょう。依存とは、依存できないのに、依存しようとしてることです。執着、倒錯とも言います。真我は、どうして執着、倒錯できるでしょう?できたら変です。つまり真我が発現してないと、執着も倒錯も問題ではないです。


私は、シミュレーション仮説を根拠にしておりませんが?
ましてや、依存などしておりませんが?

> >それは、どのようにして分かったのでしょうか?
> ラジオで聞いた妙好人の話・・・父親が臨終の床で、親を探せ、と息子に言います。息子は、なぜ親がそんなことを言うのかと思ったそうです。親の親そのまた親は真の親?また息子が知らないでも実は息子は養子なら誰が親?・・・そんなことではなく親とは、私の創造主です。会って親が分からない子供は、親子ではないのでしょう。


実在からつくられたということでしょうか?

> >なぜ放蕩の旅にでたのですか?
> >旅の目的は何でしょう?
> >そして、なぜ帰るのですか?
> 可愛い子には旅をさせろ、強くなれよ、賢くなれよ、ってことかもしれません。その旅を終えると、息子は故郷に帰るのです。いや、親が息子を、笛や太鼓の、お祭り騒ぎで出迎えるのです。


強くならなければならない、賢くならなければならないということは、真我は不完全だということですか?なぜ、実在は不完全な真我をつくったのですか?
そして、子は成長すると親と同質になります。猫の子は、やがて猫になります。真我は、やがて実在になるのでしょうか?そして、真我をつくり旅に出すのですか?

> たとえば、二重スリット実験(観察効果)をシミュレーション仮説以外で合理的に説明できるものがあれば、是非ご教示下さい。とか・・・シミュレーション仮説は分離した人の投影では?という質問を無視するとか・・・どうあっても、自我はその自我を守るでしょう。

自我を守る機能は、自我に備わっています。気が付いていない人も多いですが。
しかし、是非ご教示下さいと言ったのは、純粋に知的な好奇心からです。また、「シミュレーション仮説は分離した人の投影では?」というのは、ubik0101さんご自身の想像であり、私への質問とは認識しておりませんでした。私への質問であればお答えしますが、分離した人の投影とは、何を投影しているのでしょうか?それが分からなければ、答えようがありません。

> これは、その人がやってるのですから、自己責任でもあります・・・この世界は自治区ですから・・・その人にしか、突き崩せないのです。自我、自我と言うと悪者扱いしてるように聞こえるかもしれませんが、自我は種で、芽吹くまでは、どうしても世界あるいはその機能という硬い殻で守るのです。

自我が芽吹いて真我に成長するのですか?

> ゆらぎさん。あるとして、実在と現象界の境を、なくせませんか?それだけかも知れません。

あるとしてというのは、何をあるとしてでしょうか?
ubik0101さんの文には主語が省略されていることが多いので、理解が難しく、間違った解釈をしてしまう可能性があります。
私は、やっと現象界についての理解が進んだだけで、実在までは理解が及んでいません。

No.7074 - 2019/10/20(Sun) 16:17:45

Re: 主語が省略されている / 勘太郎
気づきませんでした。
なにかの、意味合い、原因があるのかもしれません。

No.7075 - 2019/10/20(Sun) 17:20:24

Re: 続きです / ubik0101
いわゆる分離も総ては1つも、どっちも、この世界に依存してる。けど、分離も総ては1つもあり得ないのだから、世界に依存できないよ。という話をしてるつもりです。なんにしても、このところ同じテーマで話してるので、以下の返信でも同じことを言っています。


>自我が愚かということには同意です。
>しかし、愚かなのは迷う原因であり、迷いそのものではないと思いますが?


迷う原因があるということは、あるときには迷ってなくても、いつか迷う可能性があるということでしょう。その迷う可能性もなくなったところから見たら、迷う原因があることこそ迷いでは?

>実在からつくられたということでしょうか?

なんであれ、創られたというより、実在の解き解れの様子。というのが、順当な説明に思います。イメージするとしてですがビッグバン、第一原因の拡散です。この解き解れでないことはないという意味です。つまりこの世界の外にいて、神、実在が世界を創ったのでない、という意味です。

>強くならなければならない、賢くならなければならないということは、真我は不完全だということですか?なぜ、実在は不完全な真我をつくったのですか?

人は自我として生まれます。初めから真我としては生まれません。神はなぜ最初から完全な人や世界を作らなかったのか不満に思ったことがあるのですが、親猫からいきなり親猫は、子猫からいきなり子猫は無理というより・・・酵母は分裂して初めから酵母でしょうが・・・

多様性というか、酵母もあり、鶏と卵もあり、胎生もありでなくては、人それぞれの変化、成長というか,自由がないのかもしれません。人は変化しないでもいいのです、変化するでもいいのです。なんであれ、その人次第が可能ということです。

>そして、子は成長すると親と同質になります。猫の子は、やがて猫になります。真我は、やがて実在になるのでしょうか?そして、真我をつくり旅に出すのですか?

ここは、神は真我です。バラモン教は知りませんが、ブラフマンはアートマン、と呼ばれることと符合すると思います。この神は疑うことができません。でもあえて疑うなら、神は真我が自分を知るための自分の投影です。ここで、真我は神です。

>そして、子は成長すると親と同質になります。猫の子は、やがて猫になります。真我は、やがて実在になるのでしょうか?そして、真我をつくり旅に出すのですか?

そのように空想できます。でも、神に迎えられることが人としての限界と感じました。そこで♫どこまでも行こう、なのです。

>自我が芽吹いて真我に成長するのですか?

自我は大事です。自我なくて真我の発現は不可能なようです。自我を、世界が総力上げて守っています。その世界を超えることが、真我の発現に繋がります。世界に依存しないということです。現象界と実在の境がなくなります。

自分が自分に依存というか、自分が自分の根拠というか、世界の基底が私というか、そのことを私はない、と言います。私はあるも。あるにありきって、私はない、です。

バラモン教は主体を認めるとの話ですが、仏教はないという・・・ともに矛盾してないと思います。

>あるとしてというのは、何をあるとしてでしょうか?

これは、境があるなら、ということです。実在と現象界の境がないなら、すでに問題はなくなってるので、いま、あるとして、その境をなくせませんか?です。

No.7076 - 2019/10/20(Sun) 21:59:59

Re: 続きです / ゆらぎ
> いわゆる分離も総ては1つも、どっちも、この世界に依存してる。けど、分離も総ては1つもあり得ないのだから、世界に依存できないよ。という話をしてるつもりです。なんにしても、このところ同じテーマで話してるので、以下の返信でも同じことを言っています。

「分離も総ては1つもあり得ないのだから、世界に依存できない」という説明をされているとのことですが、あり得ないというところが、全く理解出来ておりません。前に書きましたが、現象界もエネルギーという観点からはひとつですが、心的エネルギーと物理的エネルギーに分離されており、物理的エネルギーも超弦や素粒子に分離されています。分離も総ては1つもありますし、依存も何も、我々はその世界で生きています。

> 迷う原因があるということは、あるときには迷ってなくても、いつか迷う可能性があるということでしょう。その迷う可能性もなくなったところから見たら、迷う原因があることこそ迷いでは?

原因と結果は別物です。過食は肥満の原因ですが、肥満そのものではありません。

> >実在からつくられたということでしょうか?
> なんであれ、創られたというより、実在の解き解れの様子。というのが、順当な説明に思います。イメージするとしてですがビッグバン、第一原因の拡散です。この解き解れでないことはないという意味です。つまりこの世界の外にいて、神、実在が世界を創ったのでない、という意味です。


ここから先は予想通りの内容でした。
随分前から予想しておりましたので、ニールの「神との対話」の話を出しましたが、聖書の放蕩息子の話が出てきましたので、確信に変わりました。
「神との対話」では、成長するのが目的ではなく、体験するのが目的になっていますが・・。

https://mugen3.com/hon10.htm


ご回答戴いた内容は、私もずっと考えてきたことです。
中学生の時から、母から成長の家の教義である「人間は神の子である」を聞いて育ちましたので。
私は、人生の目的は成長して神になることですか?と質問しましたが、誰も答えてくれませんでした。(笑)


> ここは、神は真我です。バラモン教は知りませんが、ブラフマンはアートマン、と呼ばれることと符合すると思います。この神は疑うことができません。でもあえて疑うなら、神は真我が自分を知るための自分の投影です。ここで、真我は神です。

いわゆる「梵我一如」ですね。
自分を知るためというのが、「神との対話」との共通点です。

> >自我が芽吹いて真我に成長するのですか?
> 自我は大事です。自我なくて真我の発現は不可能なようです。自我を、世界が総力上げて守っています。その世界を超えることが、真我の発現に繋がります。世界に依存しないということです。現象界と実在の境がなくなります。


自我は無自性であり、真我は自性です。
自性なるものが発現するとなると、それは自性ではありません。
自我という触媒が必要であれば、それは自性ではありません。
何も必要としないのが、自性です。

> 自分が自分に依存というか、自分が自分の根拠というか、世界の基底が私というか、そのことを私はない、と言います。私はあるも。あるにありきって、私はない、です。

この世界では、自分だけでは生きていけません。他のすべてに依存しています。他の全ても自分ならば、全ての人が自分にしか依存していません。

> >あるとしてというのは、何をあるとしてでしょうか?
> これは、境があるなら、ということです。実在と現象界の境がないなら、すでに問題はなくなってるので、いま、あるとして、その境をなくせませんか?です。


私は「分からない」のですから、あるとかないとかの問題ではありません。
神(実在)と自分との関係を、長い間模索してきましたが、今は必要なくなりました。
目の前に起こってくることに対して、真摯に対応していくだけであり、結果はどうでも良くなりました。
このあたりは、ubik0101さんやhatoさんと共通していると思います。

結果的に、ubik0101さんやhatoさんと同じように体験が起こればそれでもいいし、起こらなければそれでもいいです。
それが私の「どこまでも行こう♪」です。

No.7077 - 2019/10/21(Mon) 06:31:02

Re: 続きです / ubik0101
>「分離も総ては1つもあり得ないのだから、世界に依存できない」という説明をされているとのことですが、あり得ないというところが、全く理解出来ておりません。前に書きましたが、現象界もエネルギーという観点からはひとつですが、心的エネルギーと物理的エネルギーに分離されており、物理的エネルギーも超弦や素粒子に分離されています。分離も総ては1つもありますし、依存も何も、我々はその世界で生きています。

完全な分離も、完全なひとつもない、ということです。たとえば心的エネルギーと物理的エネルギーに、完全に分離されているなら、現象界もエネルギーという観点からはひとつ。ということは成立しないでしょう。

>原因と結果は別物です。過食は肥満の原因ですが、肥満そのものではありません。

そいうことなら、ゆらぎさんの言うようには、総てはプロブラムされてるわけではない、ということでしょう。

>ここから先は予想通りの内容でした。
>随分前から予想しておりましたので、ニールの「神との対話」の話を出しましたが、聖書の放蕩息子の話が出てきましたので、確信に変わりました。
>「神との対話」では、成長するのが目的ではなく、体験するのが目的になっていますが・・。


ここで私が言ったのは、起こることは起こることが決まってたから起こってる、ということではないよ。多様であることで自由が醸しだされてる、と説明したのです。私が事実として言えるのは、神、実在の直系が真我、というだけです。

https://mugen3.com/hon10.htm


人が自分を知るのは、相対世界にあっては出来ません。たとえば背が低い高い、これは人の属性を自分と言ってるので、つまり自分でないことをもって自分を知ると言ってるので、却って迷いです。自分自身を定義するのは、ただ迷いの世界から解脱して、創造主との関係にあってです。自己は作られたときから自己というわけではありません。世界の構成要素から自我は作られます。愛は実在からの波動です。個別の被造物ではないです。感謝はとくに無用です。神が世界を創ったのではありません。神の解き解れが世界です。総てはひとつとか、引き寄せとかは、最も嫌うところです。責任についての思考は、私と近いです。

ゆらぎさんが、似てると思う眼で見てるから、似てるのでは?と思いました。また、似てたとして問題ないです。

ビデオも見ましたが、ほんとは私はこうなんだ分かってくれてる、と見る人を気分よくさせてくれるのでしょう。

>ご回答戴いた内容は、私もずっと考えてきたことです。
>中学生の時から、母から成長の家の教義である「人間は神の子である」を聞いて育ちましたので。
>私は、人生の目的は成長して神になることですか?と質問しましたが、誰も答えてくれませんでした。(笑)


「人間は神の子である」とは、キリスト教みたいです。これはなにか体験して、わかりやすく擬人化して言われたのかもしれません。ゆらぎさんに質問された誰もが、たぶん確信がないのでしょう。成長の家の創立者とかに聞けば、そうだとか違うとか説明するような気がします。

シミュレーション仮説と、縁起説との違いは、誰か設定者がいるということと、総てプログラムだ。ということ以外は違わないように思います。その違いを削除してしまえばいいのに、と思います。もちろん縁起説も、ひとつの世界観で、私の根拠にはなりません。

>いわゆる「梵我一如」ですね。

ここではその認識の経緯を言っています。たとえば「梵我一如」と言ってる誰かが、そう認識した経緯を聞いたことはありません。なので、伝統的?なことと同じかは不明です。

>自分を知るためというのが、「神との対話」との共通点です。

うーん、自分は自分を知ることはない、と知れる。です。それは自分を知ることなくては、こう言えない、逆説です。あるいは、自分を知らないということは、迷悟を失った。ご飯を食べたら茶碗を洗う、ということです。

たとえば剛体を想定するから、世界が非剛体であると知れる。ゆらぎさんの考えでは、違うのですが、私の場合は、
なんであれ思考があるなら、
それに関する思考を洗いざらい微細なところまで総て・・・まだ文字が緑色のワープロでしたが・・・連日連夜、書き出していました。
すると、思考が思考の、世界観がその世界観の破綻を見つけるのです。
眼は眼だけで、耳は耳だけであるのではありません。
これはとても面白いので、お薦めです。

なにか理解するということは、得ることではなく、失うことに似ています。そして、なくなるものは何もないです。

>自我は無自性であり、真我は自性です。
>自性なるものが発現するとなると、それは自性ではありません。
>自我という触媒が必要であれば、それは自性ではありません。
>何も必要としないのが、自性です。


ゆらぎさんは、この世界は、非剛体、と言ってたと思います。この世界に剛体があっても見えないかもしれません。

>この世界では、自分だけでは生きていけません。他のすべてに依存しています。他の全ても自分ならば、全ての人が自分にしか依存していません。

私の言う意味を、違う意味で認識しています。きっと・・・このところ同じテーマで話していますが・・・眼はその眼を見れない・・・ということを探ると判ると思います。

たとえばですが、鏡を見れば、その眼が見えると知れる(体験)。と、いうことがあって、その鏡がなければ、眼はその眼を見れない(体験の徹底)です。もちろん体験の有無にかかわらず、鏡がなければ、その眼はその眼を見れない、です。

>目の前に起こってくることに対して、真摯に対応していくだけであり、結果はどうでも良くなりました。
>このあたりは、ubik0101さんやhatoさんと共通していると思います。


たぶん、苦悩や葛藤な誰かがいるとして、そいうことで自分を楽しんでるかもしれません。

>結果的に、ubik0101さんやhatoさんと同じように体験が起こればそれでもいいし、>起こらなければそれでもいいです。

そのように決めることもないのでは?朗報を望みます。

>それが私の「どこまでも行こう♪」です。

No.7078 - 2019/10/21(Mon) 17:17:51

Re: 続きです / hato

ゆらぎさん、こんばんは☺。今日は静かな雨模様。身体を休めて、ゆっくり過ごしています。ここまでのお話しを、勘太郎さんのも含めて、読ませて頂いてました。こちらもゆらぎさんを知ろうとし、ゆらぎさんも、ここでの考え方を理解しようとしてくださいました。改めて、訪れて下さり、ありがとうございます。

人が、その自分を、実際はないところの幻影(世界の機能としての自我)、と腹で気付いたなら、可能性を拓く一歩と思います。そして、ここでの話は、その、本来、ない、ところの自我は、変容(成長)して、ある(自己、実在)、に進む可能性がある、というところが肝要です。そのためには先ずは人に、容赦のない自己探求は不可欠です。

『自我はどう転んでもその自分を守る』。なぜなら自我の変容とは、言われる通り、その死でもあるからです。また、なんであれ構造されたものは維持しようと働く、そのようにできてることは恵みです。そのようにあるからこそ、人はじっくりと経験し、思考し、学び、成長していくことができるのでしょう。

本来はないのにも係らず、いったん形成された自我の空虚な中心は、他人が付き崩すことが出来ません。それは必ず、自身によって解体変容し、失われていく必要があるからです。自我はその殻を頑なに守り、殻を割るのはその自分です。

人が生まれて、生きるために、自我は芽生えます。それは生まれてこの方ある、というその意識、その自意識のことです。変容は体験です。人はその経験にて了解します。そしてここで、変容の有無よりも、人が自己を知ろうと努める、誠実に自己探求の向きにある、ことで十分とも言えます。それが、経過が結果と同様、大切という意義です。ここはしかし、寛容且つ、厳格です。

もし人が自己探求について、自身で取り組むところを、興味本位の他人や書で見聞して済ませるならば、それは欲望、狡猾、怠惰です。その無明が、変容の可能性を秘めた自我です。よって探求するのはその自分です。というよりは、どうであっても自己探求。そこにしか、「ない」自我が、・・自己として「ある」ために、歩む道はないということです。永遠の表明であろう、汝我を知れ。と言われる、これは所以です。

この世界は真善美、魑魅魍魎、嘘や意味のすり替えから、・・ありとあらゆる総て、・・または、未だ他の生物を食して生きていくという、おぞましい、光り輝く森羅万象。素晴らしくも未発達な世界かも知れません。それ故に、人が可能性をもった自我をして、チャレンジできることがある。・・・として、おぞましさも未発達の自分もその世界も、まったく責任ないと見ぬふりをしていることも許されない、それが、世界に生きるということではないでしょうか。

人が成長して、自我がそれまでの役目を終えて、人が肉体を終えて、世界が役目を終えていくというのは、人は一旦肉体を終えるのですから、当然の成り行きと思います。しかし、もし人がその自我ならば、道が開いていたとしても、そのままであろうとし続ける、・・そのようにして、ない、ままに終わる、或いは、ない、ままに巡る・・・かも知れません。

世界は、神は、或いはなにか節理は、このこと(成長や変化)を、望んでもいない人(自我)に強いることはないと思います。先ずは自分を、「なんかしょうもない自我と不毛な世界・・」と認識することから自己探求は始まり、発心し、誠実に歩むことで、自己によって開かれる扉です。

世界の機能として、機能に従って廻り巡る人がいるかも知れません。或いは、世界のどんなところのどんな状態で生まれ落ちるか知らないが、いつまでも居続けてチャレンジする、生老病死を厭わずここで生きよう、世界を変えよう、やりたいことが沢山ある、という人もいるかも知れません。人の意志に依らないことも無論あるでしょうが、世界はどうあれ、人をサポートしてくれているでしょう。

自己探求は、自身の現状を正確に、嘘偽りなく、根深いところまで怜悧に見て認められるか、にかかっています。(自己に)これ以上ない素直。(自己に)これ以上ない誠実。どうしても必要です。他人でなく、文献でなく、その自分を探求しょう、だけです。

人(自我)は成長できること。人と世界は、決定されてるだけでもないらしい、ことを認められたら幸いと思います。

No.7079 - 2019/10/21(Mon) 17:22:25

Re: 続きです / hato

うちの金魚の金ちゃんです。むかしは5金魚いましたが、いまでは2金魚。丹頂という種類で、紅白饅頭のような模様がとても可愛いのですが、最近、加齢のせいか、1金魚の模様が、U になってしまいました。びっくりです。👀👀

そのうち、もう少し増やしたら、楽しそうかもと思っています。

No.7081 - 2019/10/21(Mon) 17:30:48

Re: 続きです / hato

もとい丹頂金ちゃんです。

No.7082 - 2019/10/21(Mon) 18:13:06
(No Subject) / hato

沢山書いて下さり、ありがとうございます。スレッド繋げるの忘れました。読みづらくてすみません、こちら続きの件です。下方にはじめの部分を載せています。


> これも全く違います。自我とは、肉体と自然に起こる思考や感情を自己同一化しようとするアプリケーションです。そして、考えるより前に決断するということが起こるようになってからは、衝動もわいて来なくなりましたので、やりすごす必要もなくなりました。見守ることなどせず、どんどん進んで行きます。ですから、hatoさんの言われる問題は起こりようがありません。


ええと、ひとつ前のスレッドでは、
下記のように書いてらしたので、そういう見解になったわけですが、

>自我を守るというのは、自我がそうプログラムされているからです。自我は幻想であり、「本来の自己」とは異なります。私はそれに気が付いたので、自我に何が起きるか、見守っている状態です。ですから、感情は動きますが、悩まなくなったのです。


ゆらぎさんが先に書いてらした、「考えると利己的になる、自我」・・というところが問題であって、「だから、考えなければよい、」と自分はなかなかなりませんが、「自我はそういういうもんだから、関わらなければよい、」というのは面白いですね。処し方はいろいろであって、いいのか?👀 も知れません。


>自我の状態がどう変わると自己になるのでしょうか?

状態については、先に書いた通りですが、下記にもすこし書いてます。


>意識の向きとは何でしょうか?
>閾値とは、何の閾値でしょうか?



意識の向きとは、この場合、知覚される・・意識される・・向きです。自分、という塊があるとして、そこから世界を見るか・・・眼耳鼻舌身意を以て世界が知覚される、ことによって、自己が意識されるのか、・・あるいはまた、それが双方向に働き、・・そうとも言い難い超意識を経験されることによる状態、・・(これが自己)・・があるということです。といって、人が通常、超意識であるということではありません。

ここでの閾値とは、人が受ける刺激の最小値との感じです。この言葉が適切な感じです。その体験では、瞬時に膨大な情報?を人は受け取ります。精妙か厖大か、・・そのことを受け取るのです。それを、解体していくその感じは、前に書いたかも知れませんが、圧縮ファイルの解凍、が似ています。思い当たらなければ、やり過ごしてください。

以下説明が重複されることは省略します。


> 意識上に於いての、ある、ないの対象は何でしょうか?

ここでは自我についての話しですので、先ずは自分が、ある。自分が、ない。として、どちらか一方に、多くは物事の認識が偏るということです。知覚、思考、感情、肉体を以て確たる自我を自分として生きる、或いは、世界が起きており自我はないと決めてる、それも自我に変わりはないと思いますが、自分が、ない。に偏る人も多いようです。おそらく本来的には、自分は、ある、でも、ない、でも、どうとも言い難い、・・不可知なもの、・・です。なので、意識の上で、・・ある、ない、いずれかに偏るなら、ある意味不健全といえるのかも知れません。(※わかりづらかったのでラスト3行を修正しました。)


> なぜ、偏るのでしょうか?

なぜ偏るか?状態が偏っているからです!。ですが或いは、・・人が自我を先ずは確立し、世界との関わりのなかで変容していく、という、それはひとつの形式とも、いえるかもしれません。


> 意識が未知に根差すとは、具体的にどういうことでしょうか?


人は知らない、ということを存在として、知ること。と思います。でも、理解することはあります。その未知は、なんというか、変なことを言いますが、・・・・完璧でありたい、あろう、ということでは、・・ないのです。

ゆらぎさんのお話しからは、ときどき、なにか精神世界上、とても完璧であろう!とされる、意志のようなものを感じます。自分はすでに、完璧でなければならない、と。そんな風に感じただけかも知れませんが。。


>真実を理解する意志を持って進んでも、何が真実か分からないと思いますが?


そこに、意志を持って進む、それが結果と同様に大事であることを、その過程で知るとの感じではないでしょうか。それはすでに真実でしょう。探求することに、ただ結果を求めるでもない・・・

というより、悩まないとか、直観で物事をする、、て凄いことだけど、・・・純真な熱意が大事、て思います。


>健全に生きるということは、どう生きることでしょうか?
>私は冒険という言葉を使います。
>毎朝、目が覚めれば冒険の始まりです。

No.7036 - 2019/10/11(Fri) 02:11:46

Re: / ゆらぎ
何とか、被害も停電も無く、台風が過ぎました。
氾濫によって助けを待っておられる方が、一時も早く救出されることを願ってやみません。

hatoさん
> > これも全く違います。自我とは、肉体と自然に起こる思考や感情を自己同一化しようとするアプリケーションです。そして、考えるより前に決断するということが起こるようになってからは、衝動もわいて来なくなりましたので、やりすごす必要もなくなりました。見守ることなどせず、どんどん進んで行きます。ですから、hatoさんの言われる問題は起こりようがありません。

> ええと、ひとつ前のスレッドでは、
> 下記のように書いてらしたので、そういう見解になったわけですが、


> >自我を守るというのは、自我がそうプログラムされているからです。自我は幻想であり、「本来の自己」とは異なります。私はそれに気が付いたので、自我に何が起きるか、見守っている状態です。ですから、感情は動きますが、悩まなくなったのです。

たいへん失礼しました。
確かに「見守る」という言葉を使っていますが、私とhatoさんでは、「見守る」の意味が違います。hatoさんの「見守る」は、「見張る」に近い意味であり、私の「見守る」には恣意的なものは一切ありません。見守るということは、何もしないことなのです。

> ゆらぎさんが先に書いてらした、「考えると利己的になる、自我」・・というところが問題であって、「だから、考えなければよい、」と自分はなかなかなりませんが、「自我はそういういうもんだから、関わらなければよい、」というのは面白いですね。処し方はいろいろであって、いいのか?👀 も知れません。

これも全く違うのです。
「だから、考えなければよい」と思っても、努力逆転の法則で却って考えてしまいます。コントロールは出来ません。「考えると利己的になる」のは以前の私であり、自由意志が無いことが腑に落ちてからは、考えるより先にこうしようという意志が起こるようになりました。なので、感情は動きますが、悩まなくなったのです。

以下、読ませて戴きましたが、私は体験していないので、全く理解できません。
せっかく書いて戴いたのですが、理解しないままの論議は不毛ですので、暫くこのままにさせて下さい。お互いの書き込みを読むことを続けていれば、少しずつでも理解は進むと思います。

No.7039 - 2019/10/13(Sun) 18:32:06

Re: / ゆらぎ
ubik0101さん
亀レスで申し訳ありません。

> そこで、シミュレーション仮説で、その設定者は不在、ない、としたら、不整合でしょうか?これはこれで、どこにも拠り所がなく、面白いように感じます。

設定者は、現象界には不在だと思います。

> たとえば挨拶するだけで・・・とは、形而上なことではなく、具体的なことに思います。それで人間関係が変化し、不仲になり、また誰かの捨てたタバコの火で山火事になったりします。これも、ただ起きてると言えば、起きてることなのでしょう。人が起こしてると言えば、そうなのでしょう。どうして同じことが解釈が分かれるのでしょう。責任の所在でしょうか?

自我をあるとすれば、人が起こしており、ないとすればただ起きているということになると思います。私は自我は幻想だと思いますので、起こす主体は無いということになり、ただ起きているという立場です。

> また繰り返しますが・・・なにか起こった事実を二度見してるように思えます。そして、ああこれは、そう決定されていたから起きたのだ。と判断してるのではないでしょうか。これも繰り返しますが・・・そして、その思考も起きるように起きてるだけ・・・ということは思考を二度見してませんか?・・こちらは、その意識がなくて、思考したり働いたりしています。

二度見することもあれば、しないこともありますが、日常生活ではしない方が圧倒的に多いです。反省などは、二度見の代表的なものかもしれません。

> ところで、素粒子の振る舞いは、観察されるまで分からない・・・観察されるされないで、変わるとします。この場合、観察者は観察されるのでしょうか?観察者とは何?それが問題にされないと、なんか研究のような気がしないのです。これは物理学?ではどう考えられてるか、知っ
ていますか?

「科学における観察者効果とは、観察するという行為が観察される現象に与える変化」ですので、観察されるまで分からないということではないと思います。「観察者は観察されるのか?」という命題は、観察される対象が思考や感情であり、科学の分野ではなく哲学や思想の分野だと思います。科学の場合の対象は、物理的な現象です。

> いろんな定義がありでしょうが、自我には自性がないのに、自性があると見なすのが、独我論とも言えると思います。

私は自我に自性は無いという立場ですので、独我論ではないと思っています。

No.7042 - 2019/10/13(Sun) 19:45:36

Re: / ubik0101
>自我をあるとすれば、人が起こしており、ないとすればただ起きているということになると思います。私は自我は幻想だと思いますので、起こす主体は無いということになり、ただ起きているという立場です。

その主体がないとは・・・ゆらぎさんそのものが、ない、という意味なんでしょうか。だとしたら、それ、どのようにして、解りましたか?

そして、主体がない、がなぜ何か特定の、ただ物事は起きてるという、立場にあれるのでしょうか?

説明します。この返信としては、私がいなくても世界は勝手に動いてるでしょ。(死んでしまっても、そうかどうかは不明ですけど)。ということになるかもしれません。そのまた返信としては、世界は勝手に動いてる、そんな自我もありでしょう?あるいは、主体がないそれこそ、起こすのです。と、なるかもしれません。しかし、ここでの質問は、こんなことではなく、なんであれ、ない、が何かの特定の立場にあり得るのか?という質問です。

そして、なぜ、幻想である自我は、物事を起こせるのでしょう?

なんだかの判断ではなく、実際どうなのか?という話が有意義と思います。

その、ゆらぎさんの言う、主体がない、は自性でしょうか?無自性でしょうか?

自我は幻想(a)、ということと、起こす主体はない(b)、と言われます。この、(a)と(b)どう違いますか?同じことですか?とか・・・疑問は渦巻きます。

こちらも急ぎませんので、気が向いたらの返信で大丈夫です。

No.7047 - 2019/10/15(Tue) 06:17:12

Re: / ゆらぎ
> >自我をあるとすれば、人が起こしており、ないとすればただ起きているということになると思います。私は自我は幻想だと思いますので、起こす主体は無いということになり、ただ起きているという立場です。
> その主体がないとは・・・ゆらぎさんそのものが、ない、という意味なんでしょうか。だとしたら、それ、どのようにして、解りましたか?


ゆらぎという自我は幻想であり、実体は無いという意味です。
前にも書いたと思いますが、自分が思考を起こしているなら、思考を起こさないことも出来る筈です。しかし、どんなに思考すまいと頑張っても、30秒も持ちません、何らかの思考が必ず起こります。そしてその場合の思考の内容は自分が決めたものではありませんし、予測も出来ません。自分は思考すまいと頑張っていたのですから。

このように、思考は自分と関係なく勝手に起こってくる。感情も同じです。自分と関係なく起こるのですから、自分という主体はありません。ただ、思考や感情を起こしている自分という主体があると勘違いしているだけです。これが、自我の機能です。

> そして、主体がない、がなぜ何か特定の、ただ物事は起きてるという、立場にあれるのでしょうか?

上述した通りです。

> 説明します。この返信としては、私がいなくても世界は勝手に動いてるでしょ。(死んでしまっても、そうかどうかは不明ですけど)。ということになるかもしれません。そのまた返信としては、世界は勝手に動いてる、そんな自我もありでしょう?あるいは、主体がないそれこそ、起こすのです。と、なるかもしれません。しかし、ここでの質問は、こんなことではなく、なんであれ、ない、が何かの特定の立場にあり得るのか?という質問です。

「ない」のですから、立場にあり得ることもないと思いますが?

> そして、なぜ、幻想である自我は、物事を起こせるのでしょう?

自我は起こせません。起こしていると勘違いしているだけです。

> なんだかの判断ではなく、実際どうなのか?という話が有意義と思います。

上述した思考の話は、実際の話だと思いますが?

> その、ゆらぎさんの言う、主体がない、は自性でしょうか?無自性でしょうか?

無自性です。

> 自我は幻想(a)、ということと、起こす主体はない(b)、と言われます。この、(a)と(b)どう違いますか?同じことですか?とか・・・疑問は渦巻きます。

同じです。

> こちらも急ぎませんので、気が向いたらの返信で大丈夫です。

いつもは、この時間に出勤しますが、今日は少し時間があります。

No.7048 - 2019/10/15(Tue) 06:40:16

Re: / ubik0101
> ゆらぎという自我は幻想であり、実体は無いという意味です。
> 前にも書いたと思いますが、自分が思考を起こしているなら、思考を起こさないことも出来る筈です。しかし、どんなに思考すまいと頑張っても、30秒も持ちません、何らかの思考が必ず起こります。そしてその場合の思考の内容は自分が決めたものではありませんし、予測も出来ません。自分は思考すまいと頑張っていたのですから。


> このように、思考は自分と関係なく勝手に起こってくる。感情も同じです。自分と関係なく起こるのですから、自分という主体はありません。ただ、思考や感情を起こしている自分という主体があると勘違いしているだけです。これが、自我の機能です。

そして、世界は、眼を開けてれば見えるでしょう。知覚です。こちらは、それを・・・自分と関係なく勝手に起こってる・・・と、思考で判断することはないです。

>> その、ゆらぎさんの言う、主体がない、は自性でしょうか?無自性でしょうか?

>無自性です。

>>自我は幻想(a)、ということと、起こす主体はない(b)、と言われます。この、(a)と(b)どう違いますか?同じことですか?とか・・・疑問は渦巻きます。

>同じです。

では、真我も無自性ということでしょうか?

No.7050 - 2019/10/15(Tue) 07:02:41

Re: / ゆらぎ
> そして、世界は、眼を開けてれば見えるでしょう。知覚です。こちらは、それを・・・自分と関係なく勝手に起こってる・・・と、思考で判断することはないです。

目を開けていれば、見ようとしなくても見えます。
つまり、見ているのではなく、見ることが起こっているということです。
思考で判断してもしなくても、それが現実だと思います。

> >> その、ゆらぎさんの言う、主体がない、は自性でしょうか?無自性でしょうか?
>
> >無自性です。
>
> >>自我は幻想(a)、ということと、起こす主体はない(b)、と言われます。この、(a)と(b)どう違いますか?同じことですか?とか・・・疑問は渦巻きます。
>
> >同じです。
>
> では、真我も無自性ということでしょうか?


それは、真我の定義によるでしょう。
ubik0101さんは、真我をどのように定義しているのでしょうか?

無自性とは、空ということです。
一切皆空、現象界の一切は無自性ということです。
真我が現象界に属するなら、無自性です。
そうでないなら、定義によります。

No.7052 - 2019/10/15(Tue) 20:20:39

Re: / ubik0101
>目を開けていれば、見ようとしなくても見えます。
>つまり、見ているのではなく、見ることが起こっているということです。
>思考で判断してもしなくても、それが現実だと思います。


それは。二度見して、判断しています。見ることという知覚を意識によって、捉え直しています。でなければ、見えるは、ただ見える、です。

もしかして、時間の流れ・・・時間はないとかの議論はさておいて・・・をどう感じていますか。過去から現在そして未来ですか。

>それは、真我の定義によるでしょう。
>ubik0101さんは、真我をどのように定義しているのでしょうか?


自性とは・・・それ、の原因が、それ・・・つまり実在と同義です。真我とは、その直系です。

これだと始めに戻りますが、剛体の件で話したように、この世界が現象界だということは、実在を感知するからです。知識、あるいは空想としても、実在を設定して、ここを現象界、と言ってるのではないでしょうか。あるいはここが現象界だから、なにか実在を空想するということでも同じです。無自性は無自性だけで成立しますか?現象界は、対概念の片側です。でなければ、実在、現象界ということもないです。

この世界は、実在なんですか?虚無なんですか?空は、完全な虚無でもなく、実在でもないということでは?半分、という意味ではないですが、世界は半実在では?

No.7053 - 2019/10/15(Tue) 22:12:09

Re: / ゆらぎ
> >目を開けていれば、見ようとしなくても見えます。
> >つまり、見ているのではなく、見ることが起こっているということです。
> >思考で判断してもしなくても、それが現実だと思います。
>
> それは。二度見して、判断しています。見ることという知覚を意識によって、捉え直しています。でなければ、見えるは、ただ見える、です。


「二度見して判断する」ことが、問題でしょうか?
私の表現だと、「現象を解釈する」となりますが。

> もしかして、時間の流れ・・・時間はないとかの議論はさておいて・・・をどう感じていますか。過去から現在そして未来ですか。

時間もまた幻想です。
RPGはスタートからエンドまで時間の流れがあります。しかし、それは1枚のディスクであり、過去・現在・未来の流れはありません。時間とは、そんなもんだと思います。

> >それは、真我の定義によるでしょう。
> >ubik0101さんは、真我をどのように定義しているのでしょうか?


> 自性とは・・・それ、の原因が、それ・・・つまり実在と同義です。真我とは、その直系です。

真我が実在によってあるならば、無自性です。
実在とは無関係で独立しているならば、自性です。

> これだと始めに戻りますが、剛体の件で話したように、この世界が現象界だということは、実在を感知するからです。知識、あるいは空想としても、実在を設定して、ここを現象界、と言ってるのではないでしょうか。あるいはここが現象界だから、なにか実在を空想するということでも同じです。無自性は無自性だけで成立しますか?現象界は、対概念の片側です。でなければ、実在、現象界ということもないです。

ヒンドゥでは実在を設定していますが、仏教は設定していません。
この世は無自性ですから現象界です。現象界は、つくられた世界です。しかし、つくったものが、自性なのか無自性なのかは知る由もありません。実在を設定しようがすまいが、実在は認識できませんから、意味を持たないと思います。

> この世界は、実在なんですか?虚無なんですか?空は、完全な虚無でもなく、実在でもないということでは?半分、という意味ではないですが、世界は半実在では?

実在でも虚無でもなく幻想です。現象界では、幻想であっても「ある」と認識出来ます。

空は、そんな中途半端な定義ではないと思いますよ。
ウィキによると「仏教における空(くう、梵: śūnya [シューニャ]または梵: śūnyatā [シューニャター]、巴: suññatā [スンニャター][1])とは、一切法は因縁によって生じたものだから我体・本体・実体と称すべきものがなく空しい(むなしい)こと」、つまり無自性です。

半実在という中途半端なものとは考えにくいです。
半剛体は剛体ではないため非剛体であり、半実在は非実在、無自性だと思います。

No.7054 - 2019/10/16(Wed) 06:18:13

Re: / ubik0101
なんか煩雑になるので、質問の仕方を変えます。ゆらぎさんの投稿No.7054で、こちらの答えを望むことがあるなら、答えます。面倒でしょうが、指摘ください。

自我、と、私はない。は同じということでした。では、生まれてこの方不変の気づいてる意識は、それと同じでしょうか?違うでしょうか?

そして。生まれてこの方不変の気づいてる意識は、なにが感じるのでしょう。自我ですか?生まれてこの方不変の気づいてる意識が、それ自身を感じるのでしょうか?

No.7055 - 2019/10/16(Wed) 06:31:51

Re: / ゆらぎ
> なんか煩雑になるので、質問の仕方を変えます。ゆらぎさんの投稿No.7054で、こちらの答えを望むことがあるなら、答えます。面倒でしょうが、指摘ください。

答えを望むことはありません。
私の書き込みに対して、反論があればお願いします。無ければ結構です。

> 自我、と、私はない。は同じということでした。では、生まれてこの方不変の気づいてる意識は、それと同じでしょうか?違うでしょうか?

違います。
自我の気づきには対象が必要ですが、気づいている意識は、単に「在る」ということに気づいているのであり、何がとか、どんな形でとか、どのようにとかとは無縁です。

> そして。生まれてこの方不変の気づいてる意識は、なにが感じるのでしょう。自我ですか?生まれてこの方不変の気づいてる意識が、それ自身を感じるのでしょうか?

上述したように、「何が」とは無縁なので分かりません。
気づいているのは自我ではないと思いますが、自我は「気づいている意識が在る」と解釈していると思います。

No.7056 - 2019/10/16(Wed) 20:20:46

Re: / ubik0101
では、質問です。気づいてる意識は、真我でしょうか?違うのでしょうか?真我も設定されていますか?

ところで、反論を望むのなら、それはシミュレーション仮説が正しいかどうかを検証したいということでしょう。すでに反論してると思うのですが、そこはゆらぎさんからは反応がないのです。

たとえば・・・二度見しないと、シミュレーション仮説が成立しなのです。シミュレーション仮説は、ゆらぎさんが言ってるように、現象の解釈でしょう?現象そのことではないということでしょう。そう気がつくなら、それは自身で検証できることではないかと思います。

それで、こちらの話をしますので、ゆらぎさんと、どう違うか探ってみるといいかもしれません。もちろんどんな宗教とかの関係もないので、用語の違いとかありかもしれませんし、とくに体験主義でもありませんし、単に私はこうだよ。という話です。けっこう省きますが、長文になります。

あるとき突然、意識と無意識が融合し、超意識状態になりました。自我の仕組みが開示され、明るい世界が発現・・・そこにあってそこは・・・喜びも悲しみも、努力も怠惰も、善も悪も、美も醜も、生も死も、ありとあり得ること、ありとありえないこと、森羅万象が完全に活動してる、それが体験としての因果です。

ここでは世界の総活動とも呼んでいます。総てが活動してるのですから、たとえば善と悪の両極端ではなく、その中庸でもなく、どこにも留まれない、それでこれを中道とも呼びます。

縁起は、空っぽ、無自性という意味ではありません。因縁、因果、縁起に拠って、事象が生じてるのではありません。ウィキペディア、そのほかの言うことは間違っています。物質、知覚、感情、意識・・・事象の活動が、因果なのです。

その体験は、こちらの場合は歓喜を伴いました。何が喜んでるのかって、ありとあらゆること、ありとありえないこと、たとえば善と悪、生と死・・森羅万象の活動・・・世界は歓喜状態にあるのです。

とてつもない活動ですが、理想エンジンが音を出さないで高速回転するように、静かなのです。知覚が完全に機能して知覚の領域を超えます。

そこから愛またその因果の第一原因である、神、実在の体験に続くのです。神、実在は、あきらかに自性、それがそれの原因です。自己はその直系です。

人はこの世界で、泣いたり笑ったり滑ったり転んだり、自分を自分で創ってるのですから、自性でもありますが、無自性でもなければ、そんなことはできないでしょう。

その体験は激流ですが、日常は、緩やかな大河の流れです。これを説明しようと、因果から物事の起こり続けるさまを抽出して、自性がないと説明してるのが、空の概念と思います。無自性そのことは、ありようがないのです。ふつう、縁起と言えば・・・ものことの何かと何かの関係、それは相依性、空と言ってるでしょう。空だけではありえないということです。

ただ人の体験としては、自分は空っぽ、というのがあるので、そこから縁起に入ることもあるのです。そこからまたその原因である、神、実在の体験に続くこともあるでしょう。

そこで世界は、実在でもない、虚無でもない空だ。と言います。もし知的な理解ができるとしたらですが、空は、そこへの扉、とも言えます。

これをまとめますと、自我は虚構、ない、それから、私は、ある。という一連の体験です。文章の行き違いということもあるかもしれませんが、ゆらぎさんのいう、気づいてる意識は、こちらの経緯では自我だったのです。自己は意識ではないです。話し合いは無駄ではないですが、誰もが自身で見ることです。

ほとんど宗教とか哲学の経験、知識がなくても自己観察だけで、それが出来るのです。素直であること、誠実であること、これだけでいいのです。

No.7057 - 2019/10/16(Wed) 22:24:33

Re: / ゆらぎ
> では、質問です。気づいてる意識は、真我でしょうか?違うのでしょうか?真我も設定されていますか?

前にも述べましたが、自我をアプリケーションだとすると、気づいている意識はOSのようなものだと思っています。それを真我と呼ぶのか、OSまで含めて自我と呼ぶのか、それによって違ってくるでしょう。
真我も設定されていますか?という意味がよく分からないのですが?

> ところで、反論を望むのなら、それはシミュレーション仮説が正しいかどうかを検証したいということでしょう。すでに反論してると思うのですが、そこはゆらぎさんからは反応がないのです。

私が反応しないのは、反論だと認識できていないからだと思います。
具体的に指摘して戴けますか?

> たとえば・・・二度見しないと、シミュレーション仮説が成立しなのです。シミュレーション仮説は、ゆらぎさんが言ってるように、現象の解釈でしょう?現象そのことではないということでしょう。そう気がつくなら、それは自身で検証できることではないかと思います。

これも、反論だと認識できていません。
繰り返しになりますが、二度見の何が問題なのでしょうか?
そして、何を検証するのでしょうか?

> それで、こちらの話をしますので、ゆらぎさんと、どう違うか探ってみるといいかもしれません。もちろんどんな宗教とかの関係もないので、用語の違いとかありかもしれませんし、とくに体験主義でもありませんし、単に私はこうだよ。という話です。けっこう省きますが、長文になります。

有難うございました。
私は体験していないので、申し訳ありませんが、全く理解できません。
そこで、質問させて下さい。
どう違うか探ってみるというのは、何を探るのでしょうか?
この体験の何が重要なのでしょうか?
体験したことにより、ご自身の何がどのように変わったのでしょうか?
そして、ubik1010さんは、何を目指しているのでしょうか?

No.7058 - 2019/10/17(Thu) 05:00:10

Re: / ubik0101
>前にも述べましたが、自我をアプリケーションだとすると、気づいている意識はOSのようなものだと思っています。それを真我と呼ぶのか、OSまで含めて自我と呼ぶのか、それによって違ってくるでしょう。

アプリケーションとかOSとか、たとえ話では、どれが自我とか真我とか、こちらでは、特定できないです。

たとえばですが、一休の美しい詩があります。

本来の面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ

真我は真我だ。と了解できるのです。

ゆらぎさん自身が、気づいてる意識を、真我と見なしていますか?見なしていないのですか?という質問です。

あるいは、喩え話ではなく、この世界が、ほんとうにどこかの電算機につくられてる世界だとしたら、なにもかも、事象も知覚も自我も真我も神、実在も、ないもあるも空も・・・森羅万象が、プログラムだということで・・・そして、どこかの電算機も、また、ほかの電算機のプログラムとか・・・それが仮説ではなく、証明できる事実なら、誰も反論できないのです。

>真我も設定されていますか?という意味がよく分からないのですが?

真我も、シミュレーション、プログラムされていますか?されてないですか?真我はシミュレーション世界の埒外にありますか?特例ですか?という意味です。これも証明できますか?という話になります。

>これも、反論だと認識できていません。
>繰り返しになりますが、二度見の何が問題なのでしょうか?
>そして、何を検証するのでしょうか?


シミュレーション仮説は、現象そのことでなく、思考による解釈であることが疑問。ということです。解釈では単なる世界観でしょう?その解釈の真偽は、解釈してる、ゆらぎさんが自分で判断できるのでは?と、提案しています。

そこで、なにもかも完全にシミュレートされてるか?森羅万象を調べる。理論物理学?量子力学?がシミュレーション仮説の根拠なら、こちらは知りませんが、それが絶対に正しい理論か?とか。

あるいは、シミュレーション仮説を、ゆらぎさん自身に適応してみる。ゆらぎさん自身もプログラムなんだろうか、これが検証の手段になるかも、という提案です。真我を、シミュレーションの埒外とするのであれば、シミュレーション仮説は、悪夢のような仮説と感じるのです。

>どう違うか探ってみるというのは、何を探るのでしょうか?

ゆらぎさんも、因果とか空とかの話をしてるので、こちらの見たことと、ゆらぎさんの思うことが、どう違うか、こちらの話が参考にできるのでは、という意味で話しました。まったく理解できないなら、ペンディングが適当と思います。

No.7059 - 2019/10/17(Thu) 07:26:51

Re: この超意識がOS / 勘太郎
理解できない事ながら、具体的です。

ゆらぎさんとの対話のなかから、だんだんと核心への道が拓かれて行きます。
最後の橋は、私が渡るしかないのですけれども。

おらの段階でできるのは、二度見しないで生活する事。だと思っています。

二度見しているな、と3度見すると1度見が消えて見ているおらだけが残ります。これを真我と勘違いしていた時もありました。ここは真我の入り口になると思っています。

真我との違いは、自分の身体に留まるか、或はこの静寂が空間と精神に無限に広がり時間方向へも無限となり、世界が一つになるのではないか?と想像しています。

No.7060 - 2019/10/17(Thu) 07:30:04

Re: / ubik0101
>二度見しているな、と3度見すると1度見が消えて見ているおらだけが残ります。これを真我と勘違いしていた時もありました。ここは真我の入り口になると思っています。

勘太郎さんも、とても独特と思います。こちら三度見、できないです。見てるおらだけが残るということは、部屋、猫などの対象が消えて、意識だけが残る、ということなのでしょうか。参考になるかもしれません。どこかに投稿した覚えがある、体験談です。

そ、いえば。小学2年生、片田舎の木造教室です。音楽室みたいなところで女先生がオルガンを弾いて、オクラホマミキサーを踊る練習をしました。あんまり運動神経はよくないけど、なんか凄ーい、踊りを覚えられるんだ。と自分に驚きながら、練習していました。

とくに女の子の手をとって上に挙げて、どうやってその子を、くるっと回転させたらいいんだろう?が不安だったのですが、いざとなると、なぜか女の子は自然に魔法のように回転するんです。(もちろん女の子が自分で回転してるのですが、そいうことに意識がなかったです。)ああ、これもなんか凄い、そんな感覚でした。

それで練習が終わり、初めて隣のクラスと一緒に踊ることになりました。すると、同級の男の子たちが、きゃーきゃー言って逃げるのです。なぜ?って聞いたら、隣のクラスの女の子の一人が、凄く可愛いのだそうです。その女の子から、逃げてるのです。

ふーん。そんなの、なんだ?と思いました。というわけで、オクラホマミキサーが始まりました。あと3人でその女の子・・・緊張する自分が判りました・・・と、その女の子との視線が空中で2、3度ほど交差して・・・早くこちらを見ろともどかしい気持・・・それから初めて、ぴったり視線が合ったのです。

その瞬間、ズームのように、その女の子の顔が急激に拡大して、自分という視線の始まる面を突き抜けて(SF映画のワープのように拡散して)その女の子が見えなくなったのです。その瞬間に初恋でした。

それで、その女の子、愛ちゃんという名前でしたが、消えたんです。世界もホワイトアウトしたのです。それでも踊ったのでしょう。ほとんど感覚のない自分の足が動いてる感じが、わずかにわかりました。でも、どうしたんだろう、という気持です。

それで自分の手を上に挙げたとき、 愛ちゃんのいる辺りを、じっと眼を凝らして見たのですが、やはり見えません。ただ視線の上辺に、幽かに木造教室の天井あたりにある窓の風景が見える気がしただけです。

で、その風景は自分で幻想してるんだろうか?と思いました。と、今度はブラックアウトしてしまいました。まったく意識なしです。その後、いきなり普通の知覚できる世界が開けたのです。

ホワイトアウトは、意識はあったので、 たぶんですが、意識はアナログTVの放送終了後の砂嵐・・・液晶画面のバックライト・・・のようなこと、それがないとなにも映らないけど、そのことはただ明るさ・・・それもないと時間の感覚もない・・・ようです。

No.7061 - 2019/10/17(Thu) 20:02:52

Re: / ゆらぎ
> >前にも述べましたが、自我をアプリケーションだとすると、気づいている意識はOSのようなものだと思っています。それを真我と呼ぶのか、OSまで含めて自我と呼ぶのか、それによって違ってくるでしょう。

> アプリケーションとかOSとか、たとえ話では、どれが自我とか真我とか、こちらでは、特定できないです。

そうですか。私には一番ピンとくる例えなのですが・・。

> たとえばですが、一休の美しい詩があります。
> 本来の面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ
> 真我は真我だ。と了解できるのです。


本来の面目坊に出会ってないので、分かりません。

> ゆらぎさん自身が、気づいてる意識を、真我と見なしていますか?見なしていないのですか?という質問です。

ですから、「形而上の事は分からない」です。
真我が何かも分からないのに、見なすも見なさないもありません。
自我とは異なると思っており、その理由も説明しています。

> あるいは、喩え話ではなく、この世界が、ほんとうにどこかの電算機につくられてる世界だとしたら、なにもかも、事象も知覚も自我も真我も神、実在も、ないもあるも空も・・・森羅万象が、プログラムだということで・・・そして、どこかの電算機も、また、ほかの電算機のプログラムとか・・・それが仮説ではなく、証明できる事実なら、誰も反論できないのです。

まず、つくられている世界は、事象・知覚・自我までです。それ以降は、不明です。
証明ではありませんが、裏付ける根拠はあります。

> >真我も設定されていますか?という意味がよく分からないのですが?
> 真我も、シミュレーション、プログラムされていますか?されてないですか?真我はシミュレーション世界の埒外にありますか?特例ですか?という意味です。これも証明できますか?という話になります。


真我の定義によりますが、自性だとすればシミュレーション外です。

> >これも、反論だと認識できていません。
> >繰り返しになりますが、二度見の何が問題なのでしょうか?
> >そして、何を検証するのでしょうか?
> シミュレーション仮説は、現象そのことでなく、思考による解釈であることが疑問。ということです。解釈では単なる世界観でしょう?その解釈の真偽は、解釈してる、ゆらぎさんが自分で判断できるのでは?と、提案しています。


二度見とどんな関係があるのでしょう?
前述しましたが、根拠はあります。
https://matome.naver.jp/odai/2147223466919216601?&page=1

> そこで、なにもかも完全にシミュレートされてるか?森羅万象を調べる。理論物理学?量子力学?がシミュレーション仮説の根拠なら、こちらは知りませんが、それが絶対に正しい理論か?とか。

絶対に正しいかどうかは、分かりません。

> あるいは、シミュレーション仮説を、ゆらぎさん自身に適応してみる。ゆらぎさん自身もプログラムなんだろうか、これが検証の手段になるかも、という提案です。真我を、シミュレーションの埒外とするのであれば、シミュレーション仮説は、悪夢のような仮説と感じるのです。

どこが悪夢なのでしょうか?

> >どう違うか探ってみるというのは、何を探るのでしょうか?
> ゆらぎさんも、因果とか空とかの話をしてるので、こちらの見たことと、ゆらぎさんの思うことが、どう違うか、こちらの話が参考にできるのでは、という意味で話しました。まったく理解できないなら、ペンディングが適当と思います。


ペンディングにするしかないですね。
それより、以下の質問に答えて戴けると嬉しいです。
この体験の何が重要なのでしょうか?
体験したことにより、ご自身の何がどのように変わったのでしょうか?
そして、ubik1010さんは、何を目指しているのでしょうか?

こちらの切り口であれば、ubik1010さんとの接点が見いだせると思います。

No.7062 - 2019/10/17(Thu) 20:16:43

Re: / ubik0101
>ですから、「形而上の事は分からない」です。

シミュレーション仮説では、この世界はリアルではなく、幻なんでしょう?形而上のことは分からないもなにも、ないと思います。シミュレーション仮説では、却って形而上のことが幻ではなく、リアルかもしれません。体験は形而上のことではなく、出来事です。

>二度見とどんな関係があるのでしょう?

なにか起きます。そしてこれはプログラムされてるから起きたのだ。と思考で判断して、その起きたことを二度見してませんか?あるいはそこから、その起きたことを証拠にしてシミュレーション仮説を正当化してませんか?ということです。二度見しなければ、どんな世界観も起きません。

このように主体と思考が分かれてるということが、プログラムとその製作者という、シミュレーション仮説として投影されて思考されてるのかもしれません。つまりシミュレーション仮説は、その人が分離していることを示している、ケースの一例では?

>前述しましたが、根拠はあります。

まず最初にシミュレーション仮説という結論を立てて、論じて、しかも実証されてないので、根拠でもないと思います。たとえば二重スリット実験は、必ずシミュレーション仮説でないと説明できないというわけではないようです。

>どこが悪夢なのでしょうか?

ゆらぎさんという真我(自性)は、シミュレーション世界(無自性)の外にいるユーザー、あるいは創造者なのですか?ゆらぎさんが、この世界を操作、あるいは創ってるのですか?私や、hatoさん、勘太郎さん、トランプ大統領は、ゆらぎさん操作、製作の、プログラムだとしたら、悪夢では?

>この体験の何が重要なのでしょうか?

重要というより、起こったことを言ってるだけです。体験が起こらなかったら、生まれて・・・損した得した恋をした・・・死ぬだけの人生だった、と思います。それが起こらなければ知りもしなかった人たちに会うこともなく・・・こうして掲示板で話をしたりしています。

>体験したことにより、ご自身の何がどのように変わったのでしょうか?

それまで自我と気付かず自我として生きていました。体験は、真我の発現です。自我は死んで消えてしまうでしょう。世界の構成要素、物質、知覚、感情、意識は使いまわされ、輪廻するでしょう。ない、もなくならないと言えますが、ある、もなくならないです。私がそんな人だというだけです。

>そして、ubik1010さんは、何を目指しているのでしょうか?

ここがシミュレーション世界でも、因果世界でも、現象界でも、ここに帰らないつもりです。そんなことを聞かれなければ考えませんが・・・行き先は、どいうわけかわかりませんが、実在に還る、そしてその向こう、です。♫口笛を吹きながら、歩いて行こう。ほかの誰かのことは知りません。

No.7063 - 2019/10/18(Fri) 06:58:17
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