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“掲示板”

この世界は人を覚醒させるための触媒です。

ここで話を続けます。 / ubik0101
その・・・世界観も価値観も意志もコントロール出来ない・・・と、いうのは世界観ではなくて、事実、真理、絶対というわけでしょうか?

たとえばですが・・・この世界は平面で、その縁から海水がざあざあ流れ落ちていた世界でも(知識がないので、その時代だったかは不確かですが)、ソクラテスはソクラテス、アリストテレスはアリストテレス・・・そうでなく、(読んだことないですが)彼らの言ってることが彼らの世界観だとして、ほかにもその反対の、類似の、関係ない、いろんな世界観があるのでしょう。それは説明できますか。ほかの誰かは他の誰か、自分は自分、ということでしょうか。

ところで。この世界は、非剛体、なら、同じように、世界観も価値観も意志もコントロール出来ない・・・では思考が剛体で・・・非・世界観も価値観も意志もコントロール出来ない、ではないでしょうか。

いつかどこかで誰かの世界観も価値観も意志も変わった、とします。そこで振り返ります。ん、これは変わるようにプログラムされてるんだ。つまり、決まってたんだ。と考えれば、その通りでしかないのでしょう。でもそれは、自己確認、自己擁護という操作してるので、そ感じるのではないでしょうか。一種の二項対比矛盾による無限ループになりそうです。

このように話が展開されるというのは、初めからプログラムされてたのでしょうか?

No.6930 - 2019/09/13(Fri) 08:20:35

Re: ここで話を続けます。 / ゆらぎ
> その・・・世界観も価値観も意志もコントロール出来ない・・・と、いうのは世界観ではなくて、事実、真理、絶対というわけでしょうか?

事実、真理、絶対は、そもそもコントロール出来ません。世界観も価値観も意志もコントロール出来ない、文字通りの意味です。

>いろんな世界観があるのでしょう。それは説明できますか。ほかの誰かは他の誰か、自分は自分、ということでしょうか。

人間の数だけ、世界観があるでしょう。そして、その人の世界観はその人が自由に選んだのではないということです。それしか選べなかったということです。

>では思考が剛体で・・・非・世界観も価値観も意志もコントロール出来ない、ではないでしょうか。

そうです。何もコントロール出来ません。

>でもそれは、自己確認、自己擁護という操作してるので、そ感じるのではないでしょうか。一種の二項対比矛盾による無限ループになりそうです。

自己確認、自己擁護という操作をしているなら、それが起きたということです。

> このように話が展開されるというのは、初めからプログラムされてたのでしょうか?

このようにしか展開できなかった、ほかの展開が選択できなかったということは、初めからプログラムされていたのでしょう。プログラムされていないことは、起こらないと思います。

No.6931 - 2019/09/13(Fri) 19:25:53

Re: 世界はプログラムされていないとおもいます。 / 勘太郎
 私にはついて行けない事柄なので、単語のつまみ食いです。

 ゆらぎさん得意の量子論では、それこそ過去のゆらぎは超拡大されていますので、先々が計画通りに進むことはありません。神様でも仏様でもできません。

何もおいらが選ぶことはできません。出来事がそれ自身で変化しながら動いて行くとおもいます。

 しかしながら、どうしてこうもうまい具合に変化するのか?全く分かりません。そういう宇宙だからうまく行く。無数にある宇宙の中にはどんな宇宙も無限にある。
 宇宙に存在できる素粒子の数は限られるので、もし宇宙が本当に無限個あったら、全く同じ宇宙も無限個あるそうです。私たちの宇宙の素数は10の88乗個と読んだことがあるような記憶があります。(あやふやです)

今日は気持ちの良い1日でした。来年の大収穫を夢見てイチゴの苗を植えました。買うと高いので地元のほったらかしのイチゴ苗もらって全部で100本くらい植えました。小さいし不ぞろいですが、本当に美味しい苗です。雨が少なかったので特別美味しかったのかもしれません。
 最近雨が良く降るので。木の中には新緑の様に葉を伸ばし始めたものもあります。水分が好きなインゲン豆もぐんぐん成りだしました。

No.6932 - 2019/09/13(Fri) 20:49:11

Re: ここで話を続けます。 / ubik0101
> >では思考が剛体で・・・非・世界観も価値観も意志もコントロール出来ない、ではないでしょうか。

> そうです。何もコントロール出来ません。

ここは・・・この世界は非剛体であると、非剛体の世界にあって、認識できるのでしょう。このシュミレーション世界の中で、シュミレーション世界だと認知できたのでしょう。自性がない世界で、自性がないと言えるのでしょう?

では思考も例外ではなく、非剛体ではないでしょうか?シュミレーションではないでしょうか?自性がないのではないでしょうか?シュミレーション仮説は、なにかガチガチのようにも見えますが・・・もっと変化できる、柔かいのではないでしょうか・・・という質問です。

そこで、世界観も価値観も意志もコントロール出来ない、ではなくて、非・世界観も価値観も意志もコントロール出来ない、ではないか?と、聞いたのです。

どうやら思考は、シュミレーションでも、非・反シュミレーションでもなく。剛体でも、非剛体でもない、自性があるでもないでもない・・・そんな範疇のことではなく、ありのままを記述している。ということのようです。

それに、これはすでに同意があると思いますが、どんな世界観も不要。シュミレーション仮説が、シュミレーション仮説は不要だ。縁起説が縁起説は不要だ、実在説が実在説は不要だ。と言ってるかのようです。世界がプログラムされてても、されてなくても、無関係ということです。

それと、起こったことは起こったこととして決定してしまう。時間は不可逆。たとえ同じことを繰り返しても、それは常に、そのつど、そのつど、そのそのこと。物事は、なんであれ一度しか起きないということは、偶然はない、総て必然。なぜこうなってるかはわからない、ということです。

ときに言うのですが、私はないでも、あるでも、縁起でも、総ては1つでも、日々是好日でも、実在でも・・・これが真理だ、に気がついたら。その真理に聞いてみるのです。私はないは、なぜ、私はない・・・以下同様・・・これは、なぜ、これ?まったく知らない、ただ知らないです。

No.6933 - 2019/09/14(Sat) 00:08:22

Re: ここで話を続けます。 / hato

ゆらぎさんに感じた違和感がすこし、判明しました。

たぶん、無い、に偏重されている分、自分には奇妙に感じられたのでしょう。でもこれは、ただ、わたしが感じたことです。ゆらぎさんが、これでいいと決められたので、尊重したいと思います。

その上で、自分にとっての、をお話しします。

そのことを、実に経験、或いは心身まるごと、の意味で体験しますと、人は、あるないの、「ある、」にも、「ない、」にも多く偏れず、人の意識の器官としても、世界が起きてるから見ている自分が起こる・・または、この自分として、世界を見る・・・と、双方向の働きを生きるようになります。人はそのどちらでもあり、或いは本来どちらでもないのですが、あるないに一方的に偏ると、通常は、困難になるでしょう。

体験が起きますと、ゆっくりであっても、世界の機能を用いて、そのことを理解して、生を決着しつつ、柔軟に成長していくことができる、或いはその経験をしないでも、未知の空を仰ぎ、・・・泣いたり笑ったり、躓きながらも勇敢に、道を選び、進んでいくことができると思います。

プログラミングであるとして、その道を選べたなら幸いです。道があることすら、気付かないプログラミングに生きることも、あるかも知れません。それは自分にとっては哀しいことです。

でも人は幸い、誰でも一度は、空を見上げます。なんともいえない空に、焦がれて見つめる、「これはなんだったろう?」それは、未知への呼びかけです。決められたレールを生きる自分を、生きながらに変容(成長)していこうという、意志を示すことができます。

現前と決定されてる・・・かに見えるこの世界で生きる、ある意味息苦しい、生というところに、ぽっかりと、未知の空が広がっています。

不可-思議、というのは夢ごとでなく、逃避でなく、プログラミングされた生物の限界でもなく、未知の大事です。思考で構築する自分の正しさ、その一辺倒でない、・・そこには常に、世界にとっても、神にとっても、未知であるところの、空(虚空)があります。

自分のWindowsはIEも入れていますが、Firefoxで閲覧しても横長になりません。いろいろなんでしょうね。

No.6934 - 2019/09/14(Sat) 00:17:18

Re: ここで話を続けます。 / ゆらぎ
このあたりで、少し休憩しましょう。

https://gigazine.net/news/20150303-12-optical-illusions/

AとBが、こんなにも違って見えることに驚かれると思います。逆に、同じ濃さに見えたら、いったいこの世はどのように見えるのでしょうか?
リアリティが喪失し、仮想の世界ということがバレバレになるかもしれません。

人は、これを錯視と呼びますが、私はシュミレーション仮説のひとつの証拠と捉えています。この世の実在感、現実感を出すために、人の脳は錯視を起こすようにプログラムされていると。

この説は、今、ここで初めて紹介しました。
ネットでも見たことが無いので、今のところ私のオリジナルかもしれません。(笑)

No.6935 - 2019/09/14(Sat) 06:37:34

Re: ここで話を続けます。 / ゆらぎ
ドレスの色は「青と黒」? それとも「白と金」?

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO85079060R30C15A3000000/

私は、「白と金」に見えます。
少数派なのかな・・

No.6936 - 2019/09/14(Sat) 07:15:53

Re: ここで話を続けます。 / ubik0101
ようするに、実際ではない色が錯覚で見えるので、この世界も錯覚でもあり得る、ということですね。たしか図形でも錯視ということがあるようです。絵を見てるその状況で、錯覚が認められますが、まるごと世界総てが錯覚ということが成立するかは不明です。

つまり錯覚を見ることができるということは却って,その見ることのニュートラルさ、(スクリーンを仮定するとして、その)透明さを示してる、とも言えます。でも、あまりにリアルな予知夢とか見ると、また既視感、魔境を経験すると、この世界の怪しさを感じることはあります。

たぶんシュミレーション仮説は、実在界/現象界とした場合の、現象界だけを見ると、その解釈としては成立するのだとは思うのです。この日常。縁起のことです。その原因は神、実在であったり、原因なしだ。無始、無終だ。とか思われるのですが、シュミレーション仮説では、プログラム、に設定されてるようです。

ドレスの色は、青と褐色に見えます。

No.6937 - 2019/09/14(Sat) 08:11:12

Re: ここで話を続けます。 / ゆらぎ
>まるごと世界総てが錯覚ということが成立するかは不明です。

世界総てが錯覚ということではなくて、この世界がリアルに見えるように、脳内で処理されているということです。恐らく、そのままで処理しなければ、現実感の無い見え方になってしまうと思われます。

> たぶんシュミレーション仮説は、実在界/現象界とした場合の、現象界だけを見ると、その解釈としては成立するのだとは思うのです。

私も、シミュレーション仮説は現象界に限定しています。
仮想現実という現象界があるということは、それを創った実在界があるということです。
しかし、シミュレーションの世界から実在の世界は感知出来ないし、何かを感知したとしてもその正誤は判断できないということが腑に落ちたので、自分と実在の世界はどういう関係かなどの探求が止んだのです。

それで何かが困るかというと何も困らないし、シミュレーション世界だからバグがあって当たり前。各種の発達障害とか神経症、性同一性障害とか統合失調症などもバグのひとつかもしれません。
シミュレーション世界だから何をやってもいいという思いも起こりませんし、何も変わりません。変わったのは、全てをそのまま受け入れることが努力なしに出来るようになって、感情は動いても苦悩することが無くなったってことでしょうか。
ほんと、生きるのが楽ちんになりました。

> ドレスの色は、青と褐色に見えます。

私の母も水色と黒、家内は光の加減で両方に見えるとのことです。

No.6938 - 2019/09/14(Sat) 08:56:43

Re: 白と青に見えます。 / 勘太郎
 繰り返しです。白内障の手術をした同僚が言ってました。「今まで、事務所のホワイトボードを全く違う色に見ていた」と

 皆さんの感じる色を読むと、黄色・青・茶色と一般に云う場合、その人によりかなり違った色を青・茶色と認識しているのかもしれません。白内障でなくても・・。それは比べようがない。

 妻はあづかった保護猫に産まれる子供に喜んでその準備に忙しいです。保護猫は避妊手術をしますけれども、妊娠の疑いがあれば、産ませる方向みたいです。疑いの段階では処分しても仕方が無いように思いますけれども、そうはしないのが流れです。猫は妊娠期間65日、おっぱいがおおきくなってきました。

おいらも時間は無いと感じます、お金や名誉と同じ人の創った生活のための道具。
 よく考えたら、おらが時間がないと感じるのと覚者が時間が無いと云うのは、全く違います。

 覚者の時間が無いは、時間に平行した視点から観る。千年前は千年前に観る。常にその時の今からその時を見るので、時間は無い。

 おらの視点は自分という眼鏡の焦点から見ている。過去と未来と今はくっ付いている、今の右側が未来で、左側が過去そこに時間は在りませんし、過去・未来に奥行きは無く平面。現在と云うモノがあり距離のない左右の壁が過去未来。
 たぶん・・・・

No.6939 - 2019/09/14(Sat) 19:13:08

Re: ここで話を続けます。 / ubik0101
ところで、実在界という言い方は、かなり変です。界ではないです。実在、です。実在の、界、と言うと、この現象界のことです。

そして人が実在を感知するのではないです。こっちから認知しようとしてもそれは、事実ではない、虚偽かもしれません。

その体験は、起こすのではなく、起きることです。実在が人を感知する・・・その眼差しが・・・愛です。自我がその仕組を開示され、完成される、一般的な言い方では役割を終えて死ぬ、自己、真我の発現。それを神、実在が承認します。世界は人が感じても感じなくても、その愛にあふれています。その有無は知覚に依存しないです。意識と無意識が接合した超意識にあって、人としては、このあたりが限界だと感じました。

でもここです。ここで、♫どこまでも行こう。なんです。何度も何度も生まれ変わるかもしれない、この世界の未来にではない、実在の向こう側に。

そこで往くという感じではなく、還るという感じがするのですが、なぜかそうです。この世界がなんであろうと、とくにどでもいいです。

こっちもかなりの、とんでも話でしょうが、とくに隠し事はないので、どこかで誰かに学んだことではありませんが、どなたでも質問、疑問があれば答えます。

No.6940 - 2019/09/15(Sun) 06:23:54

Re: ここで話を続けます。 / ubik0101
勘太郎さんは、時間は横流れに感じるのでしょうか。こちらは上から下と、あるいは前から後ろと、縦流れに感じていました。

その時間がないというのは、単純に、それが知覚され得ない、というだけのことかもしれません。いわゆる思考の領域ではなく、知覚の領域?にあると、見える聞こえる・・・その見てる聞いてる自分はない・・・と言えば、この説明は明らかな二項対比ですが・・・仏陀がうまいこと言ってます。

うろ覚えですが・・・眼と耳などの知覚器官と、その対象、意識とその対象。これが一切である。そのほかにあるというのは虚偽である。と、言っています。これは無我ってことです。見えること、聞こえること、思考すること、ありとあらゆること、これは総て知覚です。これは静かなのです。

ここで人は知覚の有り様を巡りますが・・・大事なのは、あるいは思考は迷いであり、迷わないは知覚だよ。ということで、即今とか言われることもあるのでしょうが・・・知覚にあって時間は知覚できない・・・これに気が付きます。たとえば毎日が、今日。これだけのことです。

No.6941 - 2019/09/15(Sun) 07:04:37

Re: ここで話を続けます。 / ゆらぎ
> ところで、実在界という言い方は、かなり変です。界ではないです。実在、です。実在の、界、と言うと、この現象界のことです。

ubik0101さんの「シュミレーション仮説は、実在界/現象界とした場合の・・」という文を受けて、実在界という言い方をしたのですが?

> そして人が実在を感知するのではないです。こっちから認知しようとしてもそれは、事実ではない、虚偽かもしれません。

そう思います。

> その体験は、起こすのではなく、起きることです。実在が人を感知する・・・その眼差しが・・・愛です。自我がその仕組を開示され、完成される、一般的な言い方では役割を終えて死ぬ、自己、真我の発現。それを神、実在が承認します。世界は人が感じても感じなくても、その愛にあふれています。その有無は知覚に依存しないです。意識と無意識が接合した超意識にあって、人としては、このあたりが限界だと感じました。

起こすことは何もなく、全ては起きることだと思います。
自我の仕組みはどうなっているのでしょうか?
完成するとは、どうなることでしょうか?
真我とは何でしょうか?
神はなぜそれを承認するのでしょうか?
愛とは何でしょうか?

> こっちもかなりの、とんでも話でしょうが、とくに隠し事はないので、どこかで誰かに学んだことではありませんが、どなたでも質問、疑問があれば答えます。

いろいろと質問させて戴きました。

No.6942 - 2019/09/15(Sun) 07:52:12

Re: ここで話を続けます。 / ubik0101
なにかを話したり、行動したり、思考したりします。それは予め、そする主体があって、してるのではありません。笑う、歌う、怒る、走る、思考する・・・時間をさかのぼって、そする、その主体が予めあるかのように、仮定してるのです。虚構。これを自我と呼びます。

これは、主体がなければ見る聞く思考する行動することはできないだろうという、ごく当たり前の感覚が、あまりに理論的なことが、数学の公理のように証明できないけど疑えないことのように、これを見ることの障害になっています。自分にあたえられた課題です。その自我の仕組が開示されることが完成です。

たとえばジグゾーパズル、ピースをあっちこっちと動かして迷いながら完成形を探りますが、完成するとその絵は、もう不要です。あるいはテトリスです。一列そろったら消えてしまいます。そして真我が発現します。とりあえず人としての探求は終わる。ということでも自我の完成、と呼びます。

また自我とは、執事のようなことです。主人と同じことを日常、こなしますが。主人が現れると、静かに引き下がるのです。また自我とは、小さな苗が成長するための支柱です。なくてはならないものですが、苗が大きくなると、なくならなくては邪魔になるものです。あるいは自我とは、真我が現れるための扉です。

それと、たとえば自我については、さまざまな事が言われます。ひとつの理解だけでは、それにしがみつく傾向にあります。ちょっと探してみましたが・・・たとえば思考が自我をつくるから問題だ(耕月寺HP参照)。偶然、それぞれの要素が集まってるだけなのに、それを掴んでるのが自我だ(濁川/全休氏記述HP参照)。いろいろあるでしょうが、自分の発見?を掴まないこと。いろんな経緯を巡って、それだけに固執しないこと、あるいは忘れること、は大事なようです。

愛は愛でなくほかのことだったら、愛ではないでしょう。生まれて初めて経験する事態でも、それは愛とわかる、そうとしか呼べないのです。たぶん人生のというか、実在の目的、目論見が、自己を発現させることなのでしょう。この世界でも、親が子を産み、子が孫を生むように。自我とは、そのために、親が子に課す、課題、かもしれません。それが解けたら、よくやった。なのでしょう。

真我とは、実在の直系です。そのためにあるのが自我です。こちらの場合はですが、自我の仕組みが解かれることが大事でした。この世界、あんなことこんなことに溢れています。そのテストは受けないよ、もあり。そんなことと関係なく、損した得した、嬉しい、苦しい、平穏だ。嫁いだ娶った、生きた死んだ。それが総て役に立ちます。この世界は、よくできてると思うのです。

>ubik0101さんの「シュミレーション仮説は、実在界/現象界とした場合の・・」という文を受けて、実在界という言い方をしたのですが?

もしかして・・・誰かが自分のことを批判したと感じるなら・・・なぜ自分は批判されたと感じるのだろう。その、そう感じる、その理由。その見えない前提を探る。あるいはきっぱり忘れて、さまざまな思考の展開に眼を奪われない・・・こんなことが自分の道でもありました。

一応説明しますと、私が言ったのです。それを私が変な言い方だ。と、言ってるのです。それと、ubik0101さんは、現象界を実在界のように生きるってことですか?と質問されたことがあって、その区別はないよ。と返事しましたが、そんな言い方があるんだ。一般的な言い方なのかな、ということからです。

No.6943 - 2019/09/15(Sun) 19:37:53

Re: ここで話を続けます。 / ゆらぎ
ubik0101さん
丁寧な説明、ありがとうございました。
自我は真我を発現させるための執事であり、真我が現れると自我が消滅するという仕組みが開示される、つまりそれが実現することが自我の完成ということですね。
真我とは、実在の直系とのことであり、自我は真我と同じことを日常こなすとのことですが、実在及び真我とは何であり、それらは何をこなしているのでしょうか?

私は、自我とは肉体、思考、感情、本能などから「自分」というアイデンティティーをつくる機能であり、それらからの入力を処理し出力するアプリケーションと位置付けています。
ですから、「自分」というものは仮想にすぎません。hatoさんに、自分は無いと申し上げたのは、このような背景があります。
そして、自我は真我と切り離しており、真我のことは考えなくなりました。
真我だけでなく、実在も不要になり、非常にスッキリしています。

> 愛は愛でなくほかのことだったら、愛ではないでしょう。生まれて初めて経験する事態でも、それは愛とわかる、そうとしか呼べないのです。たぶん人生のというか、実在の目的、目論見が、自己を発現させることなのでしょう。

昔、「神との対話」という本が流行りましたが、ご存知でしょうか?

> >ubik0101さんの「シュミレーション仮説は、実在界/現象界とした場合の・・」という文を受けて、実在界という言い方をしたのですが?
> 一応説明しますと、私が言ったのです。それを私が変な言い方だ。と、言ってるのです。


そうだったのですね。
掲示板は対話形式なので、てっきり私に言われていると思い、???となってしまいました。

No.6944 - 2019/09/16(Mon) 05:37:07
覚えてくれていて、有難うございます / ゆらぎ
数年ぶりに覗いてみたら、hatoさんが私のことにふれておられました。すごい偶然に、びっくりしています。

hatoさん、ubik0101さん、勘太郎さん、皆様お元気そうで何よりです。
愚さんも探してみましたが、1か月くらいお休みされているようですね。鬱の傾向がおありでしたので、ちょっと心配です。癌が再発していなければいいのですが・・・。

1995年くらいからインターネットの掲示板で宗教論議を続けてきました。そのころは「宗教のるつぼ」という様々な宗教を網羅した凄い規模の掲示板がありました。禅のカテゴリーで、愚さんとはいろいろ論議してきましたが、もう、25年近く経過したとは驚きです。

>そういえば、数年前に掲示板にいらしてた、ゆらぎさん、という人が、この世界は総てプログラミングの一環で、その意味での自由はない・・・とお話しだったのを思い出しました。諦観かも知れません。でも、ちょっとつまんない。とわたしは思いました。

つまんないと感じるのが自然であり、一般的だと思います。しかし、私は嬉しかった。中学生の時の疑問である「何故、この世は弱肉強食なのか?、なぜ食物連鎖が必要なのか?」という問題が解けた!

コントロール出来るものは何もない。したがって、何かになる必要は無い。人格の向上も霊性の向上も、そんなものはどうでもいい。全ての束縛から解き放たれて、心が軽くなりました。まあ、自分の心も、実体は無いのですが・・。

それから数年経ちましたが、あの時のままです。
探求は止み、普通の日常生活に追いまくられていますが、自分にも他人にも何も求めなくなりましたので、気楽な毎日です。

こちらにお邪魔させて戴いていた時も、それを説明したかったのですが、力んでしまって、上手く伝わらなかったですね。今はもう、上手く伝えようという気持ちもありません。(笑)

私もそろそろ年金をもらう年齢になりました。
ubik0101さんの方がお若いと思っていたのですが、同じくらいかもしれないですね。
私は、12月で65歳になります。

自分から言うのも何ですが、少し丸くなったと思いますので、今後とも宜しくお願い致します。

私は神奈川の西部で、静岡に近いです。
お互い、台風が心配ですね!無事に通過してくれることを祈ります。

No.6909 - 2019/09/08(Sun) 21:28:00

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / ubik0101
たとえば弱肉強食。それがプログラムだとして、なぜ納得できるのか?そのようなプログラムに納得出来ない・・・ではないのは、どしてか。もしかして、絶対、を認めたのでしょうか。説明すれば、伝わる道もあるような気がします。

そいえば知人と飲みながら、ライオンにとっては弱肉強食だけど、ウサギにとっては自己犠牲なんだ、とかいったことを話したことがあります。なんか生き物は命がけで学んでるようにも思えます。

つい先日、ラジオで・・・なんとかという虫のメスは卵を産むとそれを見守り、幼虫が孵ると、それに食べられてしまう。そのとき柔らかい腹を差し出すように見える。という話をしていました。

チョウチンアンコウのオスはメスと一体化して、なくなってしまうのだそうです。悲しさ、おぞましさを超えて、その一生を懸けて、なんかのために必要なことを学んでるのかな。と思わなければ、遣り切れない気持ちになります。

No.6910 - 2019/09/08(Sun) 23:28:32

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / hato

ゆらぎさん、ご無沙汰してます。ちょっと失礼なお声掛けに応えて下さり、有難うございます。

ううん、つまんない、て世界が決められてる、からつまんない、ではなくて、なんでしょう、・・そのときのゆらぎさんに、ほんのすこし違和感を感じただけなんですよ。誤解かもしれませんし、

こちら気にせずubik0101さんとお話しください。お元気そうで、とても嬉しいです。

No.6912 - 2019/09/09(Mon) 00:15:17

Re:ゆらぎさんお久しぶりです。 / 勘太郎
 またお話聞かせてください。

おらは、最後の橋が渡れずにもがいています 。もがくと云っても、必死でないので渡れないのか?と思っています。意識している時間の数割は自分の探求に漬かっているつもりなのですけれも、無意識の時間がほとんどなんでしょう。

 昨日当地はフェーン現象で秋とは思えない33度でした。もっと暑い日もあったのですけれども、湿度の所為か、この夏で一番暑く感じました。

No.6914 - 2019/09/09(Mon) 07:34:26

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / ゆらぎ
今日は小田急線の復旧が遅れるため、会社は午後出社になりました。

ubik0101さん
弱肉強食の食物連鎖システムに納得できなくて、真理の探究に入ったのが15歳であり、その後何十年も納得できないままでした。まあ、弱肉強食の感情的な嫌悪感を払拭する理論など、無かったということです。
どう考えても理不尽ですから、納得できなくて当たり前であることに気が付いたのが、問題が解けたということです。

この世界は、知性の香りが高すぎて、とても偶然に出来たとは思えませんし、絶対者である神が創造されたとしたら、あまりにお粗末なところが多すぎます。
つまり、どちらでもないということです。それがシュミレーション仮説であり、私は受け入れることに抵抗が無いというだけのことです。

エネルギーから超弦をつくり、超弦から素粒子、素粒子から原子、原子から分子、分子から細胞、細胞から臓器、臓器を合わせて人間をつくっているプログラムがあるというのは、容易に想像できます。それを受け入れいることが出来ない人の方が多いと思いますが。

そう考えれば、人生に意味が無くても困りません。生き物が何かを学ぶと考える必要もありません。なんかのためも無ければ、必要なこともない。生き物は、ただ生きている。人間も、目の前に現れてくる様々な出来事に対して、真摯に取り組み、一所懸命頑張る。結果など考える必要はない。それが、ただ生きるということ。

言葉にすればこんな感じですかね・・。

hatoさん
失礼じゃないですから、気にしないで下さい。
また、お話出来て嬉しいです。

勘太郎さん
その橋ですが、私の場合は、自分が心に描いてる幻でした。。

No.6915 - 2019/09/09(Mon) 10:20:53

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / ubik0101
この世界というプログラムは、神がつくったのでも、なんとなくできたものでもない。なら、何が作った、どうしてできた?のかは、気になります。

まだ読んでなければですが、輪廻の蛇 (ハヤカワ文庫SF)に収録されてる、ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業、を、お薦めします。

https://www.amazon.co.jp/%E8%BC%AA%E5%BB%BB%E3%81%AE%E8%9B%87-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E6%96%87%E5%BA%ABSF-%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB-%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4150119899/ref=cm_cr_arp_d_pdt_img_top?ie=UTF8

こちらが初めて読んだときは高校生くらいの時で、ここ何十年も小説とか哲学とか読んでないですが、思い出して再度買ってみて、やはり印象深く感じました。

それと、大統一理論、完成されてないのではなかったかと思います。つまり、明確に、これはそれだ。とはならないこと、があります。

宇宙の果てを見ることはない、時間の始まりを見ることはない・・・なんであれ分かってるだけのことしか起こらない世界ではないようです。

なんだか・・・プログラムがプログラムを完成しようとしてると言えるかもしれませんが・・・学ぶこと、学ばないこと、成長する、しない、全てありで、悟る。がありです。

シュミレーション仮説であれ、仏教であれ、哲学であれ、科学であれ、その人が納得できればいいのですが、その事態が、これはこれだ、だけではないことを示してるように思います。

今日はhatoさんと、熱海まで行ってきました。疲れました。

No.6916 - 2019/09/09(Mon) 21:26:54

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / ゆらぎ
大統一理論、重力を除く3つの力を統一する理論だと思いますが、それが出来たとしてもこの世界のすべてが明らかになる訳ではありません。世界は、素粒子或は超弦の集合体であるというだけで、無自性であることが明白であり、私にとっては十分です。

RPGの中のキャラクターには、そのプログラムを理解することは出来ないのです。
「何が作った、どうしてできた?」は解明できません。「学ぶこと、学ばないこと、成長する、しない、全てありで、悟る。がありです」「これはこれだ、だけではないことを示してるように思います」も、結局結論は出ないと思います。

どちらにしても、何も分からないし何もコントロール出来ない、だったらそれでいいではないですか?
以前にも書きましたが、毎日、新しい朝が来て、新しい舞台が準備されていて、その中で好きなように演じる、それで十分楽しい。
そんな、日々です。

輪廻の蛇 (ハヤカワ文庫SF)に収録されてる、ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業の紹介、ありがとうございます。「プリデスティネーション」というタイトルで映画化されているようですので、そちらを見てみます。

No.6917 - 2019/09/10(Tue) 06:02:29

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / ubik0101
ネットであらすじを見ましたが、映画プリデスティネーションは・・・ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業・・・とは、違う話です。映画は見なくていいと思います。
No.6918 - 2019/09/10(Tue) 06:39:34

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / hato

熱海日帰り電車旅。

今日ははやく起きれませんでした。よくしてくれるお母さんが、「青春18きっぷ、残り2枚あるから使っといで、」と下さり、「行けるとこまで行ってみょう!」ということで、東海道線をゆっくり、上って。気が付くと、わたしのフリル付きの靴下を、かわいらしく履いて、気に入りのハンチングを被って、ubik0101さんもちょっち楽しそう。

乗り継ぎの興津(おきつ)の魚屋さんで、みつけて買ってくれた鰻のキモの串焼きと、コンビニのおにぎりを、海のそばの小さな公園で食べて、熱海まで。居合わせたバスに乗り込み、終点まで乗って、あとは歩きました。でも、とにかく日差しが強くて。帰りの歩きでは、倒れるかと思ったそうです。

海も山も、今の生活では日常で、どちらかというと、ごちゃついたビルや、昔ながらの商店街が懐かしくて。熱海のビル群、どうかと思ってましたが、・・歩いてみるとそれはそれで味わいが。
初島、電車からは大島もよく見えました。

隣の伊東は、台風で大変だったのですね、帰ってから知りました。昨年の我が家の停電、思い出しました。復旧、大変そうです。

No.6919 - 2019/09/10(Tue) 10:47:19

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / ubik0101
たとえば、学ばなくてもいい、人生に意味がなくていい、ということを、人生で学んだとは、言えるのでしょう。そしてそれは、シュミレーション仮説に拠ってる。そんな理由というか根拠があるのでしょう。もちろん、そいうことは後付の理由で、まず、弱肉強食などの問題の悩みがなくなった、ということが起きて、シュミレーション仮説が後付の理由になった、あるいは同時。なんにしても、苦節何十年かあって、なにも学ぶことはないと、学ぶことが起きた、そんな効果があったのでしょう。

それで、いわゆる覚醒とか、悟りとか、それはそれの効果があると言えます。こちらに、悟りはないとわかった。と言ってきた人がいました。それを読んだ瞬間、悟り体験をしたという気配が、ヒシヒシ伝わってきました。説明ですが、その体験には、いかなる悟りという概念も介入することも不要なので、そのように言うこともあります。

アプリケーションソフトが、OSを了解するということがあります。この世界は実在ではない、という了解は、実在を感知することから、そいうことを言います。因果はそでないことがあるから因果を言います。自我は自我でないことがあるから、自我はないとか言います。いわゆる真我とか、それ自身がそれ自身の原因である神、実在とかです。もちろん、空っぽだ、だけの一瞥も起きたりします。

そして、たとえば因果、現象と実在、分離と1つ、迷悟、とかの二項対立が煩わしいので、この世界に生きるにあたって、実在を、体験を、忘れます。この世界に埋没します。そこで見えること、たとえば私は、年齢も、性別もない・・・属性がない・・・アイデンティティがない・・・この世界は実在の解き解れる姿・・・世界は対象にならない・・・そんなことを話しています。

No.6920 - 2019/09/10(Tue) 19:11:53

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / ゆらぎ
hatoさん

熱海までのデート、楽しそうですね!
我が家は、90歳を超えた両親がいるため、留守に出来ません。そのため、デートはずっとお預けです。
私のところも台風で停電しました。真夜中から始まり、復旧は午前9時頃。蒸し暑い夜で、エアコンも効かず、勿論窓は開けられず、両親が熱中症にならないかヒヤヒヤでした。

ubik0101さん
映画プリデスティネーションのご忠告ありがとうございました。
シュミレーション仮説について知る頃には、殆どそこまで行きついており、なんだ、私のオリジナルではないんだと、少々がっかりもしました。(笑)

実在を感知するとか、忘れるとかは、実在の存在を認めていることになります。しかし、この世界が仮想であれば、この世界の中には実在はありません。外にはあるかもしれませんが、認識することは出来ません。

剛体という概念があります。どんなに力を加えても全く変形しないという物体です。この世には存在しませんが、非剛体を知っているため、剛体を想像できます。同様に、実在(自性)は非実在(無自性)から想像することしか出来ないと思います。

No.6921 - 2019/09/11(Wed) 06:23:23

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / ubik0101
その剛体は、この世界が剛体ではないと知ることができるための仮定、概念、だということですね。剛体が概念なら、それに対する世界も概念でしょう。

ところで、神、実在を疑うことは可能です。それは自己が、真我であることを知るために、真我が、自分を投影したのが、神、実在です。

これ、が、これ、を認識できないからです。ここは、ある、とか、ない、とか・・・内とか外のことではないとか・・・この世界は、あるでもありないでもあり、あるでもないでもない・・・とかの話になります。

ところで、因果、空性。こいうのをこちらでは、よこいと、と読んでいます。そしてそれだけではなく、たていと、実在と、真我の関係です。その交点が、この日常です。

No.6922 - 2019/09/11(Wed) 08:16:47

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / hato

ご両親ともに90歳を超えていらっしゃるのですね。それはお大事にしてください。ゆらぎさん、奥様もともにどうぞ、ご自愛ください、と思います。停電されたのですね、それでも無難で本当によかったです。

うちは静岡西部ですが、ここは東海とも、関東とも、・・・いえずの、微妙な位置関係なのか、天気予報は地元のを見ませんと嵌りません。今回の台風では、雨がちょっと降っただけでした。昨年10月の台風での停電では、この家は復旧に4,5日かかりました。夕方早くから部屋が暗いので、よく眠っていた。と書いて、勘太郎さんに大笑いして頂きました。そんなことがありました。

了解を体験として経験されると、それはおそらく、人の状態が変化します。それは、この世界のなにかからは測りにくい、・・・森の生活者だから、キリスト教徒だから、正しいことをしたから・・清貧だから、修行したからしないから・・・という、世界の状態から計ることはできない、ここは必ず、不可逆です。

その体験は、前にも書いたかも知れませんが、世界からごく一瞬か、逸脱するからです。人はおそらく、本来はそのようなもの、・・そうなるべくしてあるもの、・・と自分は思います。人は本来、この世界に接着だけしているものではない、ということです。

それは不可-思議であることを、実際に生きるようなことで、接着していないその感じは、独特の香りです。

No.6923 - 2019/09/11(Wed) 23:41:10

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / ゆらぎ
ubik0101さん
剛体は、概念ですがそれに対する非剛体は概念ではなく現実です。 この世界の物体は、全て入力を与えると変形します。その事実が先にあり、それをベースに生まれたのが剛体という概念であって、前後関係が逆です。

同様に、この世界での自分が完全ではないという現実から、完全なる真我や神という概念が生まれたのだと思います。
私も永らく真我や神を探求してきましたが、どうでもよくなりました。

hatoさん
今回の千葉もそうですが、4日も停電が続くのは厳しいですね。早期の復旧を願うばかりです。

思考も感情もその他の様々な感覚も、自分に備えられた器官の機能の作動範囲内の出来事だと思います。それらの器官は、自分が創ったものではありませんから、認識したものが真実なのか幻想なのかは、判断出来ないと思います。

No.6924 - 2019/09/12(Thu) 05:45:25

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / ubik0101
たぶん剛体を想定しないで、世界は剛体ではないという認識が生まれるのは困難だということです。でも、ゆらぎさんの言うとおりだとして・・・剛体だけでは、思考として半分ではないでしょうか。反剛体、つまり柔体も考えます。

すると、世界には完全な剛体も、完全な柔体もない、つまり世界は・・・半剛柔体。と、考えると・・・捉えることはできないようですが、空間そのことは柔体?白色矮星、ブラックホールは剛体を超えてる?となるかもしれません。

そして世界は、自性か、無自性かと問えば・・・半存在。たとえば神、実在が、解き解れる様子が世界。つまり実在は、世界の外にあるのでも、世界の中に塊としてあるのではない・・・繰り返しますが、世界が未完のプログラムとしても、それは完成に自ら向かってるプログラムかもしれません。

こんなことも信じてるわけではなく、世界の説明の1つです。自分としては、いろんな世界観があって、個別の世界観を無くしてしまえ、と思うのですが・・・もちろん問題は、その人の世界観でなくて、その人がどうあるのか?ということかもしれません。それはその人に全権、全責任があります。

この世界はシュミレーションだ。だからなんでもしたい放題。怠惰で傲慢でなにが悪い?ということから、それでも、出来得ることを懸命にやって行こう・・・無段階にあるんじゃないですか。人を数えるとして、人の数だけあるのじゃないですか。そしてそんな人の姿勢は、その人の世界観には関わらないのではないでしょうか。

No.6925 - 2019/09/12(Thu) 06:47:14

Re:橋を渡ったら、橋は無かった。 / 勘太郎
 門を通り抜けたら、門は無かった。こんなイメージに受け取りました。

 橋を渡らないで、「橋は無い」と思うのは概念です。ゆらぎさんが来てからのやり取りを読んで橋のイメージが少し進みました。異口同音に瞬間で完全な変換が起きると言います。先ず無字の公案を通らないと話になりません。先入観は無字の邪魔にもなるのでしょうけれども、触媒にもなります。たぶん。

 追伸
 なんだか、便せんが横長になって、おらの画面を横にはみ出してしまうので、スクロールしながら読んでいるのですけれども、私の画面設定が変わってしまったのでしょうか?

No.6926 - 2019/09/12(Thu) 15:58:52

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / ubik0101
たしかに体験としては頓悟です。1/3だけ悟った、2/3は迷ってる。というのはないと思います。自我が、半分なくなったとか、ちょっとだけ真我が現れた、とかは不可能でしょう。でも、人生の過程の総てを見ると、いろいろあったりなかったりで、暫悟と言えないことはないです。

投稿文の幅が広くなるってことは、これまで時々ありました。理由は不明です。こちらのMacでも広くなっています。hatoさんのウィンドウズは、広くなっていません。どうやらブラウザによって違う見え方をしてるようです。たぶん新しいスレッドにしたら、復帰すると思います。

No.6927 - 2019/09/12(Thu) 21:22:45

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / hato

今日はちょっと遅い時間まで仕事をしました。なにかと難儀なのは、やはり身体でしょうね。これがあるから、さまざま経験できるので仕方ないですが、疲れるって困ります。寝るのはすきです。

>認識したものが真実なのか幻想なのかは、判断出来ないと思います。

なのでよく、この経験については軽視されてしまうのでしょう。夢か幻、現実を生きてれば充分。ていわれてしまうのでしょう。

でも、本当にそのことを了解した人が、「体験しなくてもいいんだよー、」と言うことはないでしょう。経験した人は、それが唯一、この世界で自分に起きた真実。自分を、この世界の善悪という領域にない、「善い」に導く礎であることがわかる、からです。自分に備えられた器官が=自分。というだけのわけにも、いかないんだ・・と気付くからです。

ゆらぎさんはすでに、自分に備えられた器官、と言ってらっしゃいます。「その自分はなにか?」。この世界がなんのためにあるのか、より、その自分はなにか、という問こそ、突き詰められる場所と思います。

こうしたことは、信じる必要がないのです。その人がどうなのか、にかかってるだけです。

No.6928 - 2019/09/12(Thu) 23:51:38

Re: 覚えてくれていて、有難うございます / ゆらぎ
ubik0101さん
「世界は剛体ではない」というのは認識ではなく事実ですから、剛体を想定する必要はありません。輪ゴムを引っ張れば伸びる、それだけで充分です。

「つまり世界は・・・半剛柔体」それが、非剛体ということです。力を加えても変形しない「剛」、力を加えなくても変形する「柔」、それらの絶対的なものはこの世界には無く、力を加えれば変形するという相対的な「非剛体」がこの世界ということです。

>この世界はシュミレーションだ。だからなんでもしたい放題。怠惰で傲慢でなにが悪い?ということから、それでも、出来得ることを懸命にやって行こう・・・無段階にあるんじゃないですか。人を数えるとして、人の数だけあるのじゃないですか。そしてそんな人の姿勢は、その人の世界観には関わらないのではないでしょうか。

全くその通りだと思います。なぜ世界観に関わらないかというと、世界観も価値観も意志もコントロール出来ないからです。

hatoさん
「判断できない」は軽視につながりません。重視も軽視も出来ないということです。
「自分に備えられた器官が=自分」ではありません。自分が備えたのなら自分ですが・・。
「その自分はなにか?」ですが、自分は無いのです。思考、感情、身体、それらを自分だと勘違いしているだけであり、思考も感情も起こしているのではなく起こっているのです。それが腑に落ちたので、探求が止んだということです。
悟りでも真理でもいいのですが、探究の目的は探求を止めるということです。

勘太郎さん
横長にならないのは、インターネットエクスプローラーだけであり、他のブラウザーは全て横長になってしまいますね。

No.6929 - 2019/09/13(Fri) 05:59:23
松の木が自由自在に枝を伸ばしています / 勘太郎
 ソローの文より
「われわれが自発的貧乏とよぶべきである有利の地点からして以外には、何人も人間の生活の公平もしくは賢明な観察者であることはできない。」
 
 凡人には書く事ができないことばではないかと思います。このような言葉が散らばって書いてあります。人気のある本ですけれども、おいらも含めて、どれだけの人が、判らないままで言葉をなぞっているのでしょう。
 判らないまま、この言葉の奥を想像しながら読んでいます。無門の前をうろうろ歩き回ります。このウロウロもそれなりに楽しいです。すべてが徒労に終わる事ながらそれを行っている時は楽しいです。                    
近所の裕福な庭は毎年、春秋に植木屋さんが世話をしていました。皆さんお亡くなりになり、この家を老人ホームとして使っています。丹精した植木達を切り払って、明るい庭になりました。これはこれで又良いものです。
 

No.6906 - 2019/09/07(Sat) 17:37:23

Re: 松の木が自由自在に枝を伸ばしています / ubik0101
その書名は見たことはありますが・・・貧乏になろうとした。というのではなく、公平、賢明な観察者であろうとしたら、結果として貧乏になるよ、という話なんでしょうか。

たぶん世界一の金持ちも、全世界にある金額の数%も持ってる訳ではない・・・年金機構から、あなたはとても貧乏だから、月額3,500円ほど、年金を増やします。という趣旨のハガキが届きました。

No.6907 - 2019/09/08(Sun) 06:40:22

Re:お金の貧乏とは限らず、そう云うモノを超越した / 勘太郎
  無門関10則に「清税孤貧」という題があります。清税という坊さんが、師に私は貧しいですので何とかしてください。と問うたところ、師は「お前さん銘酒を腹いっぱい飲んでいるのに、なにが貧乏だ。お前さんは、天下の大富豪だ。

 自発的貧乏とは、お金はないけれども、無限の物を所有している人のことを言っていると読みました。ソローは自分でも覚醒していると書いていますからそういう自覚があったとおもいます。
覚醒なしには賢明な観察者には成れぬと言っていると思います。

 自分を飾る洋服など無駄だ。大きな屋敷を持つことは荷物をしょい込むことでしかない。1862年に死にましたので、文明の負の面はそれほどひどくなかったとおいらはおもうのですけれども、今読んでも新鮮なほど、過度の文明を批判しています。

 台風ひどそうですけれども、大きな被害が無いことを祈ります。台風の影響か?きれいなレンズ雲が今日現れました。18時の小樽の上空です。

No.6908 - 2019/09/08(Sun) 20:18:24

Re: 松の木が自由自在に枝を伸ばしています / hato

悟ったという人たちを指す貧乏のはなしは置いといて、清貧というくらいだから、欲を孕んだ物や金に偏るな、という自戒はどこの国にもあるのでしょう。イエスも、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。と言ったのでしょう。

欲にまみれることは、ほとんど不要な関係とか、煩雑なことが有象無象に増える気がして煩わしいです。意識する以前に、そういう関係のところにいられません。長居できないのです。自分にとっては、単にそういうもんなんだろと思います。

きちんと誠意が通じる、努力すればなんとか出来る、持続できる形式、を考えたら、今の仕事の形になりましたが、お金は、支払いがくるすこし前に、殆ど奇跡的に入って、入った分は速攻で出ていきます。やっぱり足りないので、銀行にもすこし借りてます。仕入もあるので、きっと皆さん笑っちゃうか、青ざめるくらいお金はないです。

でも、ubik0101さんがすきな似せビールや、ささやかですが、晩ご飯のおかずにも事欠かないので、とくにいいのです。所有していなくても、庭を楽しみます。

仕事や生活は、おそらくどの仕事や生活とも同様、とても大変です。お金があったら、・・と考えるのも楽しいものです。

思考と同じで、欲も物も、振り回される敵として、精神世界界隈では殆ど嫌われ者です。人が、そこを用いるようになればいい、と思います。

No.6911 - 2019/09/08(Sun) 23:56:40

Re: 松の木が自由自在に枝を伸ばしています / ubik0101
清税孤貧・・・グーグルって見ました。どうやら、すっからかん、てことも掴んじゃいけないよ。て、話かもしれません。たとえば、無所有、無欲、無私、空、因果・・・それはたしかにそでも、たとえば眼はその眼だけじゃありえない・・・耳は耳だけじゃありえない・・・手は手だけじゃありえない・・・じゃ、全体?いや、全体ということも掴んじゃいけないよ。

なにもないでもないよ。認識だって、たとえば貧乏だけど無限なものを所有してる人。というように貧乏、だけじゃ成立してないでしょう。二項対比だから変だ、ということでもあるけど、変だということを勘定にいれないでもいいけど・・・思うのですが、たとえば無我という言葉、認識なしに、無我であることはあるのではないでしょうか。人は何か体験します。あるいは、この日常。

それは無我とか、真我とか、縁起とか、認識しないでも、言葉にしないでも、そなのでしょう?なので、そんなことを言葉で掴んで、ほかの誰かが目標にする必要はないよね。だからそう目標にしてもいいということもあるけど、たとえばキリスト者が、森の生活者が、仏教者が何か体験したら、その経緯で自分の体験を解釈しがちかもしれないけど、たとえば貧乏に捕まって、それは自分の認識を縛ってしまうこともあるかもしれません。

こちらスーパーなどで半額シールを見つけると、ちょっと嬉しくなります。

No.6913 - 2019/09/09(Mon) 06:34:00
台風、大きな被害が無いことを祈ります / 勘太郎
 願いは皆さん同じ。

 子供の頃、台風が来ると山栗の実が落ちるので、山に栗拾いに毎年行った記憶があります。北関東です。栗がはじける時期ですから秋も押し詰まったころだったのでしょう。

 悪い事ばかりでなく、栗の実を山里の子供にプレゼントする様な働きもあるのでしょうけれども、やっぱり台風は困ります。

No.6885 - 2019/08/14(Wed) 20:27:08

Re: 台風、大きな被害が無いことを祈ります / ubik0101
いつのことか部屋にいて、外は雨が降っていました。なんか嫌だな、、でも、こう考えました。この雨で植物は成長するのだろう。農家は喜んでいるだろう。自分の都合だけではいけない。

この世界はとんでもないところで、誰かが生まれ、病気になったり、結婚したり、ある動物を可愛がり、ある動物をCENSORED食べる、そして人は死んでしまう。なぜこんなことになってるのか、理由は判らない、整合性はないように思える、理不尽、奇妙、でも・・・これは、こうでいいから、こうなんだろう。これはこれでいい、この個人としては、そうなんです。でも誰かは、こんな意見を嫌うとします。それもそれでいい。台風の進路から外れてよかった。直撃だ、困った。

その、この理由の分からない世界で人は解脱します。いつか何十年の前に読んだ詩の一節を思い出し、検索してみました。ロバート・ブラウニングの作でした。

時は春、

日は朝(あした)、

朝は七時(ななとき)、

片岡に露みちて、

揚雲雀(あげひばり)なのりいで、

蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、

神、そらに知ろしめす。

すべて世は事も無し。

No.6886 - 2019/08/15(Thu) 08:42:00

Re: 台風、大きな被害が無いことを祈ります / hato

庭に、この季節の楽しみ、高砂百合が咲き始めています。

No.6887 - 2019/08/16(Fri) 21:48:12

Re: 台風、大きな被害が無いことを祈ります / hato

緑に白く映え、うつくしいです。

No.6888 - 2019/08/16(Fri) 21:50:34

Re: 学生の頃、公害問題提起が盛んでした / 勘太郎
 公害がどんどんひどく成れば、解決も早まるから、どんどん悪くなれ!と思いました。

 問題が問題解決の最大要因。

 私自身の妄想を見ていると、何もかもスムーズに行く白昼夢(宝くじが当たって、夢が全部叶う)よりも、悪い人が現れて、問題を起こす。その問題を、私が解決するというお話の方が多いです。

 何も問題がない世界よりも、問題がある世界の方を私は選ぶようです。

薄暗い森の中に生えています。花の大きさは5センチ程でしょうか?毎年は咲きません。これを見ると生きていたか!と愛おしくなります。

No.6889 - 2019/08/17(Sat) 14:17:36

この世界は広くて私の知らないことで一杯 / ubik0101
たとえば雨が降ったら農家は喜ぶだろう。じゃ、どこかの知らない誰かは?それぞれの都合があるだろう。さらに犬は猫は蝶は蜂は蟻は?それが宇宙の運動として、どいう意味がある?

このあたりで意識は拡散して、対象を把握してることができなくなるのではないでしょうか。つまり、意識は、意識の届かないということがあること、認識できないということ、を認識できます。

どこかで・・・意識とは、その内容なのだ・・・という文を読んだことがあります。それを端的に言えば、意識することは、常に自分の都合、これを外れないということです。

でも、意識されないということがあるということ、たとえば地球は回転してる。と、思うとその内容が意識になります。それはそう意識されなくても地球は回転してたのです。

これは証明できないかもしれません。でも意識が、意識の内容が、自分都合から外れる。意識が拡散して、内容も掴まえることができなくなる。ということは起こります。

たとえば空想であれ、ありもしない現実であれ、意識の内容になると、その人にとっては、リアルに、自分都合になります。意識外のことは意識できない。これに気がつくだけで、その内容に掴まれることはないでしょう。

ありもしないことで誰かを非難したり、噂話。波瀾万丈のヒーローになるとか、白昼夢にさまざまなタイプがあるでしょう。それは単なる、意識の内容、それだけのことです。簡単なことなんですが、言うと難しくなるようです。

No.6890 - 2019/08/18(Sun) 20:15:53

Re: 意識に注目するつもりが、意識の内容の思案にすり替わってしまう / 勘太郎
 瞬間と言ってもよい程素早く、意識の内容に移ってしまいます。

 それで、息を数えたり、むーと叫ぶのでしょう。暇になると、意識を音や見える景色、自分の胸の奥に向けようとします。そうして「あ!また意識の内容にハマってる!」と我に返ります。その繰り返しです。

No.6891 - 2019/08/20(Tue) 07:07:28

対象のない意識 / ubik0101
たぶん意識が意識に注意することは、できないでしょう。もしかして無思考を試してるのでしょうか。たしかに思考は止まりますが、それも、止まった。とか考えてしまったりしてもしなくても、自然に始まってしまい、そのことに気がついてしまいます。

おそらく探るべきはここではないです。意識は対象を必要としています。レーダーの電波が発射されて何かに反射して映像になる。このレーダーの電波、ソナーの音波。それだけが、対象なしにも、ある、ということはあるでしょうか。それでなければ、見たり聞いたりできないでしょう。

なので人は、見るということは、この自分が、聞くということは、この自分が。見る聞くこと。をしている、その自分がある。と感じるのではないでしょうか。知覚だろうが思考だろうが同じです。これは単純なのですが、偏りです。対象のない意識ということを摑まえて自分都合にしてるのではないでしょうか。

それで、意識の範疇がある。意識は対象が必要だ。意識の届かない範疇がある。対象のない意識がある。まだあるかもしれませんが・・・ふつうはいつのまにかどこかに錨を降ろしてしまって気がついてないのでいるので、そでないことがあることに気がつくこと、で偏りから抜け出すこと、でないでしょうか。

うまくしたもので、なんでもいいかもしれませんが、意識は対象が必要だ。見るには意識が必要だ、と決め、脇目もふらずそれだけを探ったら、そでないことが見えるでしょう。思考が問題だ。を探ったら、そでないことも見えてくるでしょう。それはそれだけで成立しないと、それが教えてくれるのです。

No.6892 - 2019/08/20(Tue) 08:07:34

Re:すべて世は 事も無し / 勘太郎
 神 空にしろしめす、は解りませんけれども。
すべて世は事も無し、は解ります。

 今朝気が付きました。犬の散歩の遊歩道の木々が少し、緑から赤になりかけています。

 づっと疑問に思ってました。自分が苦しいのは耐えればよい。
 自分が不注意で重大交通事故を起こしてしまった。或は、3,11の地震の時の東京電力福島第一原子力発電所の所長はどうしたらよいのだろう?と

 今朝、思いました。その自分を演じる(引き受ける)。苦しいだろうけれども、原発事故の責任を感じるままに生きて行くしかない(お亡くなりになりましたが)
 交通事故はある確率で起きるから、その当事者になることはあり得る。そうなったら当事者として生きて行く。

 「西部戦線異状なし」という題の小説があります。主人公が戦死したけれども、部隊の当日の報告書には、平日の戦死者数なので、異常なし。

 「すべて世は事も無し」とは内容が異なるかとも想像しますけれども。私の段階においても、すべて世は事も無しであるような気がします。

No.6893 - 2019/08/22(Thu) 20:32:30

そいえば。 / ubik0101
どこかhatoさんと10年ほど前に行った図書館でした。なにかの書の一行目・・・世界は事象の総体である・・・という文を読んだことがあります。これ哲学?と思ったのですが、と言うのも・・・意識はその内容だ。意識内容は自分都合だ・・・と言ってるだけに思います。

グーグルってみたら、なんとかペディアに紹介されてて、なんとかシュタインの書のようです。高速ななめ読みしてみると最後に、語りえぬことは沈黙、とかなんとか書かれてあるようです。違います。言葉にできないことを言葉にするのが、学ぶ哲学ではなく、する哲学です。思考です。

神、そらに知ろしめす・・・知られ得る(意識内容)と、知られ得ないことの障壁が消え・・・ありとあらゆることと、ありとありえないことの融合・・・つまり森羅万象・・・ほかの言い方では、日々是好日・・・すべて世は事も無し、です。

ほかの言い方では、私は、神でもない、悪魔でもない、人でもない、仏陀でもない・・・ただ、それだけのことです。どこかで、無相の自己、という言葉を聞いたことがあります。そこでたとえば、私は誰、が、私は誰。であったりします。

No.6894 - 2019/08/23(Fri) 07:00:07

Re:AはAでない、故にAはAである / 勘太郎
 禅の本によく出てくる言い方です。AはAでない、故にAはAである。

 私は神でもない、人でもない、ブッダでもない。故に私は神である。
私は誰 は私だれ、でしかいないのですけれども、納得できません。困ったものです。

 隠れているいる、意識に登らないところの可能性的出来事があるという事に注目して

〈たとえば空想であれ、ありもしない現実であれ、意識の内容になると、その人にとっては、リアルに、自分都合になります。意識外のことは意識できない。これに気がつくだけで、その内容に掴まれることはないでしょう。>
このところを探ってみます。

No.6895 - 2019/08/24(Sat) 15:06:14

Re: 台風、大きな被害が無いことを祈ります / ubik0101
たぶん、見える意識内容だけでは、日々是好日。また、神、そらに知ろしめす。は納得できないでしょう。

たとえば貧乏で、病気で、友達もなく、辛い。。けど、それが、日々是好日。神は天の国にいます。この世界は大丈夫です。

これを自分に実現しようとしても、とても努力が必要。無理がある。不満を感じなくすることかな。とか空想も渦巻くかもしれません。

そんな不平不満不安で、意識内容は、満ちていませんか。たとえば自我な誰かがいるとして、その思いによって行うとして、それを他の誰かが、ものごとの都合でものごとをするんだよ。と、指摘するとして、いや私には私の都合なんかない、私は間違ってない・・・そんな様子でいることは、まま見受けられることではないでしょうか。

そしてその、私は間違ってない、ということの根拠、理由、その自我を守る理由、その意識内容に留まる理由は、実に全世界が協力するように、幾らでも見つけられるのではないでしょうか。

その思いによって行った事実は、こうだよね。間違ってる。と指摘しても、その事実さえ認めない、事実を歪ませても自分は間違ってない、そんなことも多々、見受けられるのではないでしょうか。

ありもしないことであれ、意識内容にあれば、その誰かには、あたかも事実のように機能する、そのように自他に見せかけることができるのではないでしょうか。

たしかに思考には、事実と虚偽を峻別する機能がついていません。これに振り回されるなら思考は確かに問題です。大雑把に言えば、意識内容は、そのような誤謬によって成立してるのではないでしょうか。

神、そらに知ろしめす、は、ロバート・ブラウニングの小説の一節で、それを下書きにして、芥川龍之介は小説、藪の中、を書いたとされています。映画、羅生門、の原作です。見えるところの、意識内容は、総て藪の中、自分都合です。なにか1つ、真実があるわけではありません。

これに気がつくところ、それはこちらの場合、自分の思考の、行動の、発言の隠れた前提を探ることでした。どこかで誰かに学んだりしたことがないのでなんとも言えませんが、これしか知らないです。自分を掘り下げる。これが出来ない人も、どうやらいるらしいです。

なにか判断するとして、判断は総て自分勝手、総て誤謬。判断しないという決心。こんな経緯もありました。

どこかで誰かの真実らしい話を聞きます。そして後でまた誰かの似たような話を聞きます。ああそうだ、私はそれを知ってる、解った。こんなことは、とても馬鹿馬鹿しい・・・総て打ち捨てる。

こんなことが自分にとっては一番簡単だったのです。無意識は何も知らないけど、知る必要がないのでしょう。安心である必要もなく、安らかなのかもしれません。なんだか波と海の喩えのようになりました。

No.6896 - 2019/08/24(Sat) 20:26:25

Re: 無意識の話 / 勘太郎
 何度も繰り返して、書いているので、自分でも厭きましたけれども。ラマナ・マハリシが「汽車に乗っているのに、荷物をどこかに運ぶ必要はない。汽車に任せなさい」と言っています。

 「犬と散歩に出かけようと」と意識した時には、すでに犬と散歩に出かける行動に体は動いている。意識は後追いでしかない。は脳科学者の云うところです。

 笑い話ですけれども先日叔父と話しました。
叔父の知人が「私は、大筋では間違っていないよ」とよく口にするそうです。これが大きな間違いと私と大笑いしました。
 ところがどっこい、おいら自身も心情的には「おらは、大筋では間違えていないよ」と感じているのです。理性においては、おらはやっぱりよく間違えると理解していますけれども。強いのは理性よりも心情的(感情)の方がづっと、おらを支配する力が強いです。

 今日は浜頓別(札幌から300k北のオホーツク海沿いの町)まで行ってきました。産まれて初めて行きました。保健所から、保護猫を運んで札幌の譲渡会に出す為です。
 行く途中の景色が素晴らしく美しかったです。浜頓別の手前に中頓別(なかとんべつ)という場所があり、盆地でしょうか、山に囲まれて、波打った農地が緑の桃源郷でした。
 帰宅して、この風景を思い出すと、夢だったのか?本当に行ったのか?区別がつかないような気がします。

No.6897 - 2019/08/26(Mon) 18:43:27

Re: 台風、大きな被害が無いことを祈ります / hato

なんという青さ。北海道、透き通る空気ですね。

結婚して、神奈川の小さなアパートにいた頃、あるときubik0101さんに、「あれは意識じゃなかった。」と言うと、ubik0101さんは、「うん。」と小さく頷きました。そして尚、人は意識として、意識を用いて生きていくと思います。

無意識に持ってる前提が解放されて、意識のなかで、隠し合う、隠す要素がなくなると、その見る、聴く、意識されることがらは、ありのまま素通しになり、スッキリ、明らかになることができるのでしょう。

不可-思議の場所。そこは人や物事に、ことさら判断する必要がみつからないところ。ニュートラルで、本来のやさしさに満ちた場所かも知れません。
そして尚、言葉と思考は、そこから出てくることができるのです。

好雪片々不落別處。これを味わいます。10数年前、ubik0101さんが掲示板に載せた古文で、すきな一文です。

その雪片は、ことさら意識されることも必要もなく、そこに落ちます。発生するそこ、行き着くそこ、それは素通し、ただその通りです。

近くの神社の参道脇に、1メートルくらいの背丈の山椒が数本生えています。前回、前々回来たときは、2人で探して見つからず、あったよね、と不思議でしたが、夏まで繁っていた、ほかの緑で見えなかったみたいです。

No.6898 - 2019/08/27(Tue) 10:28:14

Re: 日々これ好日=すべて事もなし / 勘太郎
 イコールがほぼ成立するのでしたら、日々好日も理解できるような気がします。おらの場合には元々において事もないのではなくて、けっかにおいて何もない。
 
 羅生門朗読を聞きました。こんな短い小説だったのかとおもいました。こんなのを高校生が解るのか?解る人は解るんでしょうけれども・・・おら全く解らなかった。話の筋を追って読了。今もそれほどは解っていません。

 聞いた後に元気がでます。どういう元気か?生きよう!ですかね。死と隣合わせ、必ず死ぬから・・・。説明はできませんけれども、励まされます。

 主人から不景気で解雇された下人が、泥棒で生きる決心がつかず、荒れ果てた朱雀門で雨宿り。門の2階で、転がっている死体の髪を抜き取り、かつらにしようとしている骸骨の様な老婆がいた。死体を愚弄するとは許せんと老婆を責める。老婆は言う「この死体のおなごも、蛇を魚なの干物として売って生きておった。死後に私が髪を抜いたとて、責めはしまい」
 下人は、老婆の来ていた着物を奪い取り、朱雀門を駆け下りて闇に消え去った。こんなあらすじで、

あらすじを聞いても元気はでないけれども、小説を読むと元気がでる。
オラも小説家になりたいと思ったことがありました。大江健三郎の「遅れて来た少年」という小説を読んで。これも元気が出ました・

 預かり猫の嫁入り先が決まった様です。最終決定は飼い主の自宅を訪れて様子を調べてからだそうです。
 

No.6899 - 2019/08/31(Sat) 14:06:54

感想文。 / ubik0101
羅生門、聞いてみました。死人の髪を抜く老婆も、その老婆の着物を剥ぎ取る下人も・・・その私が正しいという、ああでもあるこうでもあるという理由は・・・まるで世界が応援してるかのように見つけることができる。これは羅生門という世界の闇に立つ舞台で演じられ、その下人もまた闇の中に消えていく。とても馬鹿げてて、とても悲しく醜く滑稽でしょう。

このあたり、こちら事ですが、理由なく生きる・・・つまり自分を正当化するための思考だろうが、事実だろうが、それを対象にして自分の根拠として掴まない・・・これを数年だったか十年以上だったかに渡って、やってたというか、そなってたことがあります。これは結論を、決着を求めないということで、辛いものがあるのですが、役に立ったと感じます。

それと同じようなことですが、公平であろうとすること。たとえば社長であろうと新入社員であろうと、大統領も平民も、平等。傲慢も卑下もなく生きる。差をつける理由なんか、どこにもないのに・・・たとえば何だかの才能、適性があることは、金が欲しい、ポジションが欲しい、自分は正しくありたい・・・ということは、不公平でありたいという隠れた前提があるかもしれません。

これはごく当たり前のことなので、そであって、そであると認識できないで、そのようであることもあるようです。もちろんここに問題を見出さなくてもいいのですが、この訳のわからない世界で・・・理由なく生きる、公平であろうとする。特別感、優越感を嫌う・・・そんな経緯を辿るということもできる、ということです。

理由なく生きれば、老婆が死人の髪を抜くことを正当化できないでしょう。下人も老婆の着物を剥ぎ取ることを正当化することはできないでしょう。老婆も下人も、自分だけが正しいという不公平がなければ、戦うこともないでしょう。思考も行動も発言も・・・あるでもない、ないでもないこの奇妙な世界ということを口実にして・・・美しくない状況を成立させてるのかもしれません。

そのような、なんか、ああでもない、こうでもないの理由があれば、不公平があれば、差があれば・・・日々是好日。神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。ではないでしょう。理由なく生きることは、たとえば物事の都合によって物事をする。たとえば、ご飯を食べたら茶碗を洗う。あたり前のことを、当たり前に。

No.6900 - 2019/08/31(Sat) 19:24:02

もっと具体的に / ubik0101
たとえば車が追い抜かれたから、煽り運転した。たとえば女が蛇を魚と偽って人に売ったから、死んで髪を抜かれても当然だ・・・これ、原因と結果が結びつく必然は全然ないのです。つまり、理由でないことを理由にして、加害者は、その自分の言動を正当化してるわけです。そしてどんなことでも、架空の因果になりえます。交通ルールを守って、ゆっくり走ってる車が気に入らないから、煽り運転した。女が美人だったから、意地悪だったから、ただ気に入らない女だったから、死んで髪を抜かれて当然だ。このように、あることないこと総てが、理由になり得ますが、理由にしてるのは、理由にしてるその人でしかありません。もともと、ない関係なので、これに囚われる必要は最初からありません。こんな簡単なことです。またその架空の因果の範疇にあるとしても、煽り運転を見て、自分もやってみようとか、自分はしないとか、その人には、その人に全権、全責任があります。
No.6902 - 2019/09/02(Mon) 17:50:29

Re: 私が光の焦点であり光源 / 勘太郎
 想像(妄想)からです。
全世界の事柄が焦点である私に入力されます。その入力を私からの発信として全ての光源となります。

 他人に見られるから、きれいにする」と云います。他人は見ません、見ているのは他人と云う鏡にうつる自分を自分で見ています。この誤解を一般的には世間体とか言います。
 おいらは、誰がどうしようと私に直接関係しない場合は注意を払いません。

 因果は他所から来るから、私は玉つきの玉と同じで、自分では何もしないと思ってました。力のベクトルに従って動くと。

 ubik0101さんのおっしゃる通り、因果ではなくて自分で選んだ方向に進みます。ご飯を食べたら茶碗を洗うとは、限らない無限の行動を行うことができます。どうするかは私の全くの自由気ままに行動します。束縛が在ると感じるのは私の誤解です。

No.6903 - 2019/09/03(Tue) 21:13:55

Re: 赤い壁紙の部屋の中では、赤い色を認識できない。 / 勘太郎
 自分の事を解らない、のは自分に囲まれているからなのだろうと思います。
 
 古本屋で1951年初版の「ヘンリー・ソローの森の生活」を買ってきました。13版で1987年発行。
神吉三郎のys+6‐‥訳です。(猫にキーボードを打つじゃまをされて、書き進めらえれません。くだらない事を書かずに、私と遊びなさいと言っているのでしょう。)

No.6904 - 2019/09/05(Thu) 19:44:21

Re: 台風、大きな被害が無いことを祈ります / hato

>私が光の焦点であり光源

人(ひと)、というのは、ひ(光)、が、と(止、泊、留)まる、という言霊があると、聞いたことがありました。真偽はともかく、言葉は不思議です。また、人の存在というところも、どちらでもあって、どちらでもない・・・という不可-思議です。それでも、成長してく、していける、てちょっと凄いと思います。


>因果は他所から来るから、私は玉つきの玉と同じで、自分では何もしないと思ってました。

そういえば、数年前に掲示板にいらしてた、ゆらぎさん、という人が、この世界は総てプログラミングの一環で、その意味での自由はない・・・とお話しだったのを思い出しました。諦観かも知れません。でも、ちょっとつまんない。とわたしは思いました。

ご飯を食べたら茶碗を洗う・・その当たり前は、概ね現前と当たり前で、その当たり前を、人は、(あるいは不可知である誰かは、)どうにでもできる、・・・たとえば、楽しんですること、悲しんだり愚痴を言いながらすること、・・・そこに自由があるよね、・・もありかな、と思います。

それは、世界のことは世界に任せておきましょう、・・・マハリシが言われた、汽車に乗ってるのに・・の譬えごとと同様です。世界のことを、ことさらどうこうすること、(もちろんしてもいいんだけど、)というよりは、当然のなかに自由を見て進めるよ、というなら、ちょっと幸せ、な感じでしょうか。

たとえば、思考することも、理解することも問題じゃない。こうであることが問題じゃない。そこを、問題にする、なにかが問題。というのは、・・宇宙的パラドクス、・・ユーモアとも言えます。


読書好きだったんですよ。羅生門は、高校生の頃。現国の先生が、俳人の加藤楸邨の息子さんで、加藤穂高先生。楸邨の3人息子はすべて山の名前が付いてる、・・と噂されてましたが、穂高先生は、なんか任侠映画に出てきそうな、ちょい悪そうな、渋い、えらい恰好いい人で。授業も静かな人気がありました。穂高先生の羅生門。内容はすっかり忘れたけれど、凄かった。下人の面皰。短編に、人間の獣性をえぐり出した龍之介の文に衝撃を受けた。文章って凄い、と確かに思った。なので、というわけでもないけど、食傷な感じがあり、映画は見ていません。

ソローの森の生活、はじめて知りました。良心的納税拒否。うーん、凄いです。こちらは、それなりに頑張ってるのですが、拒否する以前の納税免除です。

夏が終わります。北海道はもう冷えるでしょうか。先日2人で行った、山椒の近くの境内にある、松の木。うつくしい剪定でした。

No.6905 - 2019/09/05(Thu) 21:28:19
あづかりで、短足猫が来ました。 / 勘太郎
ワンチカンという種類だそうです。裕福なおばあさんが集めた猫達、約10匹の中の1匹。経産で子猫が4匹いるそうです。子猫にみえますけれども。
 可愛いので、おいらが妻に「家で飼ったら」と言ったらダメっと却下されました。品がよく、なつくし飼いやすい猫です。

 当地の暑さも峠を越えてしまった様です。雪より暑い方が楽な年齢になりました。暑さに飽きた頃、寒くなり、寒さに飽きたら暑くなる、よい具合にできています。

ラマナ・マハリシの セルフインクワイヤリー(自分が何なんだか?調べる)のユーチューブを見ていました。この中で、私(自我)は対象が無いと、私だけでは存在できない。音も対象なので聴くものが存在してしまいます。「鐘の音を消せ」 と云う公案があります。音が消えたら、私も消える事を言うのでしょう。

No.6882 - 2019/08/09(Fri) 09:33:37

Re: あづかりで、短足猫が来ました。 / ubik0101
たしかに何だかの対象は、その人の、その状態の、その意識の依存する拠り所になります。それを掴まなければいいのに掴むのは、その人にとってはそうせざるを得ないのでしょう。

その対象を掴むことによってその自分である、その自分を確認できると思ってるからかもしれません。

一般的には、総ての対象が完全にないなら、たとえば死んだら、世界がないなら、自分を感じられない・・・なにか対象があるから自分を感じる。ということをアレンジして自我は自分は独特、自分は特別というその拠り所にするのでしょう。

たとえば何でも手放そう、まったく未練はない、もし死んだら散骨してくれればいい・・・とか思ったり言ったりする、誰かに手間かけてもらって実行してもらうとして・・・そのことを掴んでる、そんなスタイルの執着ってこともあるでしょう。

このように、その人の状態、境涯というのは言うことに行動に思考に、現実に、表れてしまうのです。なのに、そのようであることは、その人にとって見えないなら、そのままであり続けるでしょう。こんな愚かさの根は浅いのですが溺れるのでしょう。

そいえば、ここに引越してきて、木の苗とかをネットで探してる時、垣根のことを、目隠しと呼んでる文章がありました。もしかして、家や庭にいる自分の眼を隠して、通行人を見ないようにしよう、てことかな?

と思ったのですが、どうやら通行人の眼から家の中の自分を隠すということらしいと気が付きました。人は、隠れていたいのかもしれません。そすれば、不可侵で、特別で、安全で、その人はその人であるような気がするのでしょうか。

またたとえば、過去はある、未来はある、なのに今だけがないそんな人が、私は今に生きてる。と考えたり言ったりできて、それは常に、あちらこちらに気が移り、自分から目を背けることにしかなってない。ということもあるかもしれません。

そしてそんな自分の現実を見ないことによって、守っていたりするかもしれません。そいえば渡辺さんが枕叩きを推奨するので、ある人がある人に薦めたら、そんなことすると枕が可哀想、と言われたそうです。実際のところは判りませんが、

枕が可哀想と言った人は、初めから嘘を言ってるのかもしれません。そのようにしてその嘘がバレたとしても、それを言った人は、嘘なんですから、さらに心にもないことを言って、自分の本音を守ることができるからです。

こちらは、その本人ではないので空想ですが、人は、ほかの人から、また自分から隠れる、たとえば言うことが総て嘘という、メソッドを構築しやすいのです。でもこれを何とかするのは、そう難しいことではないです。

こいう愚かさは、対象を認めることによって人は自分を認めるということの上に仮定されたネットワークになっていますから、どこから始めても総て解決できます。なにより、その人が、そしようとしてしてそうである愚かさなので、その人が解決できます。その人しか解決できません。

嘘をつかないこと、真摯なこと、素直なこと、また・・・たとえ神が私のことを知らないでも、私は私を知っている・・・自己観察・・・これはその人の意思で、努力でできるからです。

と言っても、人に意識がある、生きてる。ということは、絶え間のない観察にある、ということに他なりません。

こちらは、とても暑いです。降りそそぐような蝉の声は聞こえても聞こえなくても、とくに問題ないようです。

No.6883 - 2019/08/09(Fri) 18:55:50

Re: 今昼寝して、起きて珈琲飲みました / 勘太郎
 珈琲のカフェインは頭を良くする様に感じます。気分が昂揚するのが解ります。その所為もあって書かれている事が素直に入ります。
 
 こういう愚かさは、・・から終わりまでの言葉が矛盾や抵抗物がなく、胸に浸みこみます。そのままそっくりでなく、おいらの解りやすいように咀嚼もできている様に感じます。
嘘をつかない事、真摯なこと、率直であること。

 「こちらは、とても暑いです。降り注ぐ様なセミの声は聞こえても聞こえなくても特に問題無いようです」を読み終えるまでもなく、涙が出てきます。
 涙は力の源泉です。泣くと私の力がみなぎってきます。力がみなぎると涙が出るのかもしれません。

No.6884 - 2019/08/10(Sat) 12:21:00
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