149522
“掲示板”
この世界は人を覚醒させるための触媒です。
★
おらがよく見る寝太郎さんの書き込みです。
/ 勘太郎
引用
他人と孤独について
私は、他人にも意識があると信じています。自分の意識の内部に留まらざるを得ない以上、他人に意識があることを確認することはできません。しかし、私にとって重要なのは、私が物心ついたときに既に素朴に「他人に意識がある」と信じていたという事実です。この事実は、この世界に複数の意識があるということよりも、ずっと不思議です。なんとなれば、生まれて此の方、私は私自身の意識しか直接的に観察(内観)したことはないのに、また、学校の教科書に「他人にも意識があります」と書いてあったわけではないのに、他人にも意識があると自然に考えるに至ったからです。そして、私の見聞によれば、誰もが同様に、他人に意識があると素朴に信じているようです。そういう意味で、私自身も含め、本当の意味での独我論者(この世界には自分の意識しか存在しないと信じている人)はいません。
これを読んで、おらが感じたのは「世界は私が創り出したものだ」です。
おいらは、他人に意識があるかどうかは?解り得ない。ubik0101さんもハトさんも、おらの意識にすくいあげられた現象(文字から浮かび上がったおいらの中の思考)です。おらの意識の一部です。
月も金星もおらの意識が見る景色で、おらの意識の中にあります。
独我論でしょうけれども・・・・。おらの意識の中にしか世界は展開できない様に感じます。
寝太郎さんの文を何回も読むと、おいらの気持ちの更に奥に進んでいる様にも感じます。
No.7026 - 2019/10/09(Wed) 19:35:25
☆
Re: おらがよく見る寝太郎さんの書き込みです。
/ ubik0101
引用
あー、そうですね。他人に意識があるとかないとか考えたこともないです。それは他人に意識があると信じ切ってるから、疑ったこともないのかもしれません。考えてみると、そうですね、他人は、そいうなにか反応で、自分しかないという解もありそうです。そこで自分に意識があるのでしょうか?そして意識って何?てことになると思うのです。意識は意識されないと意識ではないかもしれません。勘太郎さんに、意識はありますか?
No.7027 - 2019/10/09(Wed) 20:13:54
☆
おらの意識の中にしか世界は展開できない
/ 勘太郎
引用
と自分で書きました。
意識って何?と質問された時。
意識って、なんだ?と胸の奥を探ると・・何も出てきません。
いつもながらですけれども、意識って何?という問うと いくら力んでもドン詰まりに突き当たり、思考停止になります。
いま 絨毯を眺めながら、意識って何?と考えが無くなって時計の音を聞くことにすり替わってしまいます。
No.7028 - 2019/10/09(Wed) 21:24:24
☆
Re:意識は解らないはずですから
/ 勘太郎
引用
歯を磨く口の中の感覚として現れる。例えますと、意識が空気で、音を伝えるには空気が必要で、歯ブラシの感覚が意識の・・・・本で読んだ推測になってしまいます。
これが意識だと出せなければなりません。
No.7029 - 2019/10/09(Wed) 21:43:44
☆
Re: おらがよく見る方の書き込みです。
/ 勘太郎
引用
思想、観念、言語は、水中の気泡のようなもの。おもしろいね、これ。
全身、水自体なのに、思考だけ気泡みたいになって、水に浸かってない。思考だけね。
他は全部水自体。ワンネス。
そう言われれば、そうかなあ??なんて思います。
時間が現在から過去に向かって流れると書いた方です。
No.7031 - 2019/10/10(Thu) 07:28:47
☆
Re: おらがよく見る寝太郎さんの書き込みです。
/ ubik0101
引用
なに言ってるか解りませんが・・・単純に、思考は、メタ現実、メタ世界です。
そいえば・・・おらの意識の中にしか世界は展開できない、と何が言ってるのでしょう。これは、ずーと長い間、疑問でした。何かと、それを見てる何か、あるとして、2重しかないのです。3重を探してみたのですが、あわせ鏡も、見つからない・・・なぜ、なんだろう。でした。
もしかして・・・おらの意識の中にしか世界は展開できない、と言ってるのは、おらの意識の中にしか世界は展開できない、かもしれません。これは、A=Aです。意識はありません。そこで二度見しながら、二度見に気がついてないので、2重に思えるのかもしれません。
あるいは自分とは言葉なのだとか・・・も、ないことはないです。思考の性質とか、知覚のありさまとか、展開できると思いますが・・・なんであれ、なにかを思考したら、それをよく見ること。ありとあらゆることにその思考を適応してみる。その自分に適応してみる。それが探求でした。
No.7032 - 2019/10/10(Thu) 08:28:04
☆
んー、
/ ubik0101
引用
なんだか今日は、ずーと、歩いたり魚を焼いたり運転したりしましたが、言葉といえば言葉ですが、思考が自分でした。これはこれで特に問題無いです。これまで、ずっとそうだったのかな?と思うと、そのようです。とくに思考してる主体とかなくてもいいようです。
No.7034 - 2019/10/10(Thu) 19:26:09
☆
探ってみました。
/ ubik0101
引用
なにか見ます。思考します。これを何が見てるのだろう?と探ります。すると、見てる主体だろう。というわけで、見られてる思考が見てる主体を探る・・・主体が思考に乗り移って、その生まれ故郷である主体をさぐる・・・二重しかないと思うのです。
これは見る主体を探ってるので、二度見です。見る主体と見られることが二重なので、分離してると言えます。二度見してない、ふつうの日常では、見られる思考、つまり知覚しかないです。見る主体はないです。でもこれ以前では?
単に、見る聞く思考する、が機能してるだけです・・・不思善、不思悪、正与もの時、那箇か是れ明上座が本来の面目・・・あえて言うと、ないのです。ない、が本来の面目です。それは、私は私を自覚できない・・・です。そしてその奥。です。
数年前、どこかの掲示板で紹介されてた・・・物事はただ起こってるだけ、私はない・・・というビデオがありました。これは、物事と私のあるないを結びつける必要は、因果は、まったくないですが、結び付けてるだけです。私はないなら、私はない、だけです。
そいうことを結びつけるのは、どっかで聞いたこと教えられたことを言ってるだけかもしれません。またそんなことを認識したら、その認識は変化します。一、奪人不奪境 二、奪境不奪人 三、人境俱奪 四、人境俱不奪、です。人と、事象、世界、との関係は無関係なので、こう関係します。
私はない、は、たとえば現実が10万画素のデスプレイから何百万画素になったような鮮明な実感が伴ないますが、物事は勝手に起きてても、私が起こしていても、私はない、です。私は私が知覚できない、私はないは、私は私、ということです。
No.7037 - 2019/10/13(Sun) 06:56:11
☆
Re: 小乗と大乗との区別は解らないのですが
/ 勘太郎
引用
ゆらぎさんは小乗的かな??と
こちら側から自分を観る。
大乗は どかんとジャンプして彼岸に渡って、こっちの側を眺める。
これから小乗と大乗を調べます。順序が逆ですけれども。
以前おいらが合わせ鏡の中に多重に映る自分を見ると書きました。ubik0101さんが3重以上は無いとおっしゃるのを見て、よくよくみると本当に2度見までて、3度見は無いように思います。
時間的に3度見はできない?
おお!!、大発見です!! 大袈裟です
3度見しようとすると、何を見ようとしてしたのかな?心に何も浮かばなくなるのです。無思考になり、短い空白の後、時計の音が聞こえ始めます。
時計の音を聞いているな→2度見
その前は何していたのか?と探ろうとしても時計の音を聞いている自分しかいません。胸の中にぽっかり大きな空洞ができます。
3度見はできないです。
ディスプレー10万画素が何百万画素に瞬間で変わる。具体的な表現です。面白いです。
《私は無いは、私は私、ということです。》はおいらの段階ではどうしても、見えない何かが見ているのだから、主体を私とすれば私は私。しかしながらおらの身体ではない、と想像になってしまいます。実感がありません。困ったものです。
No.7045 - 2019/10/14(Mon) 18:48:52
☆
Re: おらがよく見る寝太郎さんの書き込みです。
/ ゆらぎ
引用
> 単に、見る聞く思考する、が機能してるだけです・・・不思善、不思悪、正与もの時、那箇か是れ明上座が本来の面目・・・あえて言うと、ないのです。ない、が本来の面目です。それは、私は私を自覚できない・・・です。そしてその奥。です。
「機能しているだけ」を換言すると「起こっている」ということになります。
> 数年前、どこかの掲示板で紹介されてた・・・物事はただ起こってるだけ、私はない・・・というビデオがありました。これは、物事と私のあるないを結びつける必要は、因果は、まったくないですが、結び付けてるだけです。私はないなら、私はない、だけです。
愚さんのところで私が紹介した大和田菜穂さんのビデオかもしれないですね。
その結びつける機能が自我だと思います。
単なる機能なので、「私(自我)はない」です。
しかし、「私(正体不明)はあると気付いている意識」はあります。
No.7046 - 2019/10/15(Tue) 05:52:58
☆
Re: おらがよく見る寝太郎さんの書き込みです。
/ ubik0101
引用
> 《私は無いは、私は私、ということです。》はおいらの段階ではどうしても、見えない何かが見ているのだから、主体を私とすれば私は私。しかしながらおらの身体ではない、と想像になってしまいます。実感がありません。困ったものです。
私はない・・・私が私を見るのですから、私はない、の。ほかにないです。説明になりますが・・・なにか私が、いかなる私のほかのもの、たとえば犬とか、赤とか、青とか、嬉しいとか悲しい、思考・・・知覚認識思考出来ること、出来る可能性があること・・・でありようがないということです。端的には、私は透明です。
それでも、ときに向こうから歩いてくる知らない誰かが、風景が、私だったりします。これはとても微妙ですが、なんか独特の感覚があります。たぶん、見られてる思考が見てるのではなく、見てる自分が見てるのです。主体が見てるのです。もしかして普段は二度見されてる自分が世界を見て、そのことに気づいてないかもしれません。
またときに思考が止まります。というより、雲散霧消、掻き消えます。また逆に。あっ、思考がなかった、ということに気がつきます。これは思考の雲が晴れ、とても鮮やかな高精細な世界が発現します。起こってる物事、因果は静止します。時間は静かに止まります。私は、ない、の実感です。見てる、こちら側、主体がないのです。
No.7049 - 2019/10/15(Tue) 06:49:36
☆
Re:揚げ足をとるのではありません。
/ 勘太郎
引用
機能するとは、主体があって、それが働く。主体は」「私」
起こっている、は起きていいる事と自分が分れている様に感じます。
覚者の感覚では、世界は私が「起こしている」という感覚があると読んだことがあります。
この感覚について。おらはいままで、「世界が私である」と聞くとおらの足がおらの物という感覚と同じ感覚なのだろうと思ってきましたが・・・この感覚の種類がどうも違うようです。
大乗と小乗はゆらぎさんのシュミレーション理論と関係なかったです。小乗は自分が治まってから他を治める。大乗は自他同時覚醒。日本仏教は全部大乗だそうです。
No.7051 - 2019/10/15(Tue) 07:25:52
★
落ち着になりましたら、短いふみを書き込んでください
/ 勘太郎
引用
ゆっくりのたよりで結構です。
No.7038 - 2019/10/13(Sun) 18:03:23
☆
Re: 落ち着になりましたら、短いふみを書き込んでください
/ ubik0101
引用
台風のことでしたら、とくに問題なしです。2,3下のスレッドに、続きの投稿しています。
新しい投稿があったら、そのスレッドが一番上になる、トップソート機能をオンにします。
No.7040 - 2019/10/13(Sun) 18:36:48
☆
Re: 落ち着になりましたら、短いふみを書き込んでください
/ hato
引用
昨日は一日、時折強い雨が降る程度、この辺りは幸い風もそれほどでもありませんでした。明けて、各地の被災に驚いています。今日は近隣どこも秋祭り、笛太鼓、電飾屋台がそこここで練り歩いています。
No.7041 - 2019/10/13(Sun) 18:57:39
☆
Re: 落ち着になりましたら、短いふみを書き込んでください
/ hato
引用
勘太郎さん、ご心配頂いてすみません、お気遣いをありがとうございました。☺
猫散歩中に、コタロウがなにかじっと見ているので、なにかと思ったら、・・オケラでした。今年は2度目です。
No.7043 - 2019/10/13(Sun) 22:45:21
☆
Re: 落ち着になりましたら、短いふみを書き込んでください
/ hato
引用
空は透き通った青でした。柿が日に日に、色付いてきます。
No.7044 - 2019/10/13(Sun) 22:48:32
★
(No Subject)
/ hato
引用
ゆらぎさんへ
お忙しそうですね。いい季節ですが、また台風だって。家には4連の窓があるのですが、雨戸がないんです。💦
スレッドが長くなりすぎるので、こちらにしますね、わかりにくかったらごめんなさい。
>理論物理学など、最近は観測できないものが主流だと思います。
数学を主とした分野ですね。数学は不思議に通じる・・感じがありますね。数式。世界を紐解く感があります。けど、ことに人、その自己については、理解の飛躍が不可欠ではないかと思いますね。
>> 人、という不可思議については、自我・真我、どちらでも。人は人。でいいと思います。
>自我と真我は全く違うのですが?
>自我は認識出来ますが、真我は認識できません。
個別にそのことを指して話す必要があるときは、自我、真我、でいいではないですか?。どちらに於いても、人の不可思議に差異はないと自分は思います。なので、人は人、と言ってます。
> 「自由意志が無い」ということは信じていますよ。自分で認識出来ますから。
自分は、自由意志、無いとも言えるし、有るとも言えます。
>何が不可逆なのでしょうか?
>どうして、破綻が明らかなのでしょうか?
世界の現象の側から、物理科学的な観点から、との意味ですが、自己(真我でも構いませんが、)の不可思議について、網羅との意味で得る、ことは不可能です。これが、ここでの不可逆です。自己は認識できない、とはゆらぎさんもお話しでしたね。既に世界でないことを、現象の様式で網羅することは不可能でしょう。ここにはどうしても、飛躍があると思います。念のため、自我であっても、自己であっても、本来、人、その不可思議は認識できません。ですが、知覚や想念、肉体に重点が置かれると、それ自体を、塊としての自分と感じるのかも知れない・・と思います。
ただ、現象世界についてならば、数学はそこに導かれる感じがします。人には言葉があり、・・世界には数式がある、?・・と思います。まあ、わかりませんが。
>不可思議であるならば、そもそも得ることなど出来ないのでは?
得る、というのは表現ですが、科学によって、知る、との意味で言いました。ここでは自己を指して言ってます。上に書いたとおり、現象世界についてならば、ある程度可能なことかも知れない、と思います。
また、得る、(表現上ですが、)ことができるとしたら、何度もすみませんが、「人が、不可思議であり、その成長。」と思います。成長でも変容でも変化でも、いいのです。
ここは、人が見る表現により、なにも起きてない、とか、総て起きた・・とか、どちらでもないけど、・・・とかさまざま言い方があるようです。ただこの意味で、どこか一方に留めることはむつかしいです。どうでもない。けど、こうである、とても、不思議です。
>なぜ、意義がないのでしょうか?
本来、人が追求する向きは、その内側です。人という、不可思議に入っていく、起きてる自体が事態を見る、という、自己探求の話です。言葉が杖であり、方法です。この探求では、なにか自分、が考えてる・・という辺りを逸脱していくのです。
ここではとりあえず、世界という膨大無辺な現象をいつまでも調べてても・・くらいなことかと思います。
No.7035 - 2019/10/11(Fri) 01:25:27
★
(No Subject)
/ hato
引用
ゆらぎさん、こんにちは。テレビなど見ていて大した夜中ですが、こんにちは。の感じです。👀
>不確定性原理をもって決定されていないとする人もいますが、観測されている時には、粒子性を示すということが確定しているのです。それが、シミュレーション仮説の根拠にもなっています。
難しいことはわかりませんが、誰であれ、人が観測して物理学は成立しているのですね。人の意図が影響しているかも知れない結果を根拠にできるのでしょうか?とりあえず、物理あたりですと、そうせざるを得ないわけですね。自分はその辺り、脳がついていかないお陰で、とり憑かれずに済んでいる状況です。
>私は、「人」を自我と定義しています。
>ここが違っていると論議にならないのですが、hatoさんの「人」の定義は何でしょうか?
人というのは、この、不可思議です。自分はこの場合、人間とはいいません。
> 絶対だと位置づけることにより、保護膜となって真実を隠してしまいます。ですから、仮説としているのです。
というよりは、たとえ仮説であれ、人がそれを信用していればそのようになりやすいとして、どちらかといえばこの場合は、仮説が真実を隠していると言えるでしょうね。
>決まっているなら、あれこれ考える必要もありません。考えると、自分の利益に目が行き、自分のやりたかったことと違う方向に行ってしまいます。
いずれにしろ、ここでゆらぎさんが言われる状態が、「考えると自分の利益に目が行くような・・」、そのために、「やりたいこととの葛藤が起きる・・」自我、であるとするなら、成長(変容)は、自然な成り行きでしょう。と思いますね。ふつうはそうです。
真偽不明な仮説を用いてまで、その自我を守ろうとされてる、それはいったいなんでしょう。ということですね。
>「何をやってもいい」と言っても、自由にできることはありません。自分の信念に従って選択することしか出来ないのですから、悩む必要が無くなりました。選択に悩む必要が無くなったので、逆に自由になったのです。
とはいえ、ゆらぎさんは、強い信念に従ってご自身を律して、お仕事やその日常を、精一杯努められていられるのでは、と思います。伝わります。ゆらぎさんのお仕事で、助けられる方が多くいらっしゃるのでしょう。
No.7013 - 2019/10/07(Mon) 01:01:40
☆
Re:
/ ゆらぎ
引用
ubik0101
> もしかして自由意志がないということは、自分の意志は自分で決められない、変えられない、という意味でしょうか?それなら、因果のままにというより、因果として生きる私。ということでしょうか?それなら、誰かと挨拶する、しないだけでも、人は世界の運行を変えています。
自由意志がないということは、そういうことです。
誰かと挨拶する、しない、確かに選択肢はいろいろありますが、選べるのはひとつだけです。
変えているのか、そうなっていたのかは、区別がつきません。
> また、この世界では、自由は不自由として現れる、です。こいうこと、あいうこと個別のことは不自由でしかない、それは、自由の現れだ、不自由が自由の証明だ。ということです。笑うこと、泣くこと、それはそれでしかないので、不自由だ、なんですが、そのことが自由の証明。ということです。
ですから、私は自由意志が無いことが腑に落ちて、自由になったと何度も申し上げています。
> ここは世界は、この瞬間に開闢したということが自性のあるないということではなく、世界と違う要素。その世界を見てる、その世界と分離した自分との関係がないと・・・その世界観に、リアリティがないという意味です。
全ては関係しており、無関係ということはないと思いますが?
> たとえ運命が決まってても、決まってなくても悩まないというのは、誰かのことを話してるのではなく、私はこうだよ。ということです。おそらく赤ちゃんは悩まないでしょう。でも悩む可能性があった・・・
それは承知していますし、私も悩まなくなりました。
一般論として、人が悩むのは、それが自我の特性だからということを言いたかったのです。
> なんにしても誰であれ、その人がいないと、変化するだろうと変化しないだろうと、そんなことは起きないでしょう。人と世界の共同作業ということです。分離と全体の共同作業とも言えます。変わる変わらないでもないその人は知覚され得ない、です。
全ては、その人の中で起きているのかもしれません。
hatoさん
> 難しいことはわかりませんが、誰であれ、人が観測して物理学は成立しているのですね。人の意図が影響しているかも知れない結果を根拠にできるのでしょうか?
人が観測して物理学が成立しているのでなく、観察効果という現象を発見したということです。RPGと同じで、人が見ている場面しかリアルに描かれていないかもしれないということです。もしかすると、触感があるところだけ粒子化されていて、見ているところは波動、つまり色だけで成り立っているのかもしれません。
> >私は、「人」を自我と定義しています。
> >ここが違っていると論議にならないのですが、hatoさんの「人」の定義は何でしょうか?
> 人というのは、この、不可思議です。自分はこの場合、人間とはいいません。
つまり、「本来の自己」ということですね。
そうなると、範囲が広すぎて話が噛み合わなくなるのも理解出来ました。
> > 絶対だと位置づけることにより、保護膜となって真実を隠してしまいます。ですから、仮説としているのです。
> というよりは、たとえ仮説であれ、人がそれを信用していればそのようになりやすいとして、どちらかといえばこの場合は、仮説が真実を隠していると言えるでしょうね。
信用していればそうでしょうが、信用なんかしていませんよ。
基本スタンスは、「形而上的なことは分からない」です。
シミュレーション仮説は、どんな哲学や宗教よりも私にとって合理的なので、そうかもしれないと思っているだけです。このように論議していて、破綻が明らかになれば、いつでも捨てます。
> いずれにしろ、ここでゆらぎさんが言われる状態が、「考えると自分の利益に目が行くような・・」、そのために、「やりたいこととの葛藤が起きる・・」自我、であるとするなら、成長(変容)は、自然な成り行きでしょう。と思いますね。ふつうはそうです。
自我は変容すると思いますよ。
> 真偽不明な仮説を用いてまで、その自我を守ろうとされてる、それはいったいなんでしょう。ということですね。
自我を守るというのは、自我がそうプログラムされているからです。
自我は幻想であり、「本来の自己」とは異なります。
私はそれに気が付いたので、自我に何が起きるか、見守っている状態です。
ですから、感情は動きますが、悩まなくなったのです。
> とはいえ、ゆらぎさんは、強い信念に従ってご自身を律して、お仕事やその日常を、精一杯努められていられるのでは、と思います。伝わります。ゆらぎさんのお仕事で、助けられる方が多くいらっしゃるのでしょう。
律するというより、家庭でも会社でも、その人がやりたいことを出来る限りサポートしようと思っています。そういうことが起こっているということです。
No.7014 - 2019/10/07(Mon) 07:22:09
☆
Re:
/ ubik0101
引用
>変えているのか、そうなっていたのかは、区別がつきません。
なら、どちらかに断定することはできないのでしょう?これまでの主張は、どうなりました?
>ですから、私は自由意志が無いことが腑に落ちて、自由になったと何度も申し上げています。
それは何も説明なしでしょう?こちらが言ってことは、こちらが、こう、であることを、こうと、そこで言い得ることは隠さず言っています。
>全ては関係しており、無関係ということはないと思いますが?
これまでのことを説明しますと・・・生まれてこの方変わらない意識があるということが、そのシミュレーション世界観との分離ではないか?特例ではないか?と言ってるのです。
つまり・・・ゆらぎさん自身が・・・総てが関係してる、無関係でないとするなら・・・世界と意識も、おなじ成り立ちでなくては、変かな?と思うのです。
つまりプログラムされて幻のように起こってる事象、それに気づいてるプログラムされてない意識。これは分離であり、これの主張はできないのでは?
一般的に、全ては関係しており、無関係ということはない。ということは言えますが、ここで話してることと違うテーマで話されて、意味のすり替えが起きてるような気がします。
>全ては、その人の中で起きているのかもしれません。
これも説明しますと・・・これは、世界が勝手に起きてるだけ、という意見に対して、人と世界の共同作業だよ、と言ったのですが、今度は、総てがその人の中で起きてるのかもしれないとなったので。
おそらく全体の印象ですが・・・ゆらぎさんは、シミュレーション仮説というより、独我論に近いのでは?
No.7015 - 2019/10/07(Mon) 08:36:16
☆
Re:
/ ゆらぎ
引用
ubik0101さん
> >変えているのか、そうなっていたのかは、区別がつきません。
> なら、どちらかに断定することはできないのでしょう?これまでの主張は、どうなりました?
ubik0101さんが「誰かと挨拶する、しないだけでも、人は世界の運行を変えています」と言われたので、何故そのように断定できるのですか?という意味で書きました。
勿論、私は変えているのではなく起こっていると思っていますが、これも断定することは出来ません。いちいち「思っています」を付けるのが面倒なので、省いているだけです。
「形而上のことは分からない」が私のスタンスです。
> >ですから、私は自由意志が無いことが腑に落ちて、自由になったと何度も申し上げています。
> それは何も説明なしでしょう?こちらが言ってことは、こちらが、こう、であることを、こうと、そこで言い得ることは隠さず言っています。
9/30にも以下の通り説明しています。
何年か前にお邪魔したときも、説明したと思うのですが・・。
「何をやってもいい」と言っても、自由にできることはありません。自分の信念に従って選択することしか出来ないのですから、悩む必要が無くなりました。選択に悩む必要が無くなったので、逆に自由になったのです。
> >全ては関係しており、無関係ということはないと思いますが?
> これまでのことを説明しますと・・・生まれてこの方変わらない意識があるということが、そのシミュレーション世界観との分離ではないか?特例ではないか?と言ってるのです。
シミュレーション世界というのはこの現象界であり、現象界は変化する世界ですから、生まれてこの方変わらない意識と分離しています。
> つまり・・・ゆらぎさん自身が・・・総てが関係してる、無関係でないとするなら・・・世界と意識も、おなじ成り立ちでなくては、変かな?と思うのです。
なぜ変なのかが分かりません。
> つまりプログラムされて幻のように起こってる事象、それに気づいてるプログラムされてない意識。これは分離であり、これの主張はできないのでは?
分離していても無関係ということは無いと思いますが?
起こっていることに気づいているということは、関係しているということです。
> 一般的に、全ては関係しており、無関係ということはない。ということは言えますが、ここで話してることと違うテーマで話されて、意味のすり替えが起きてるような気がします。
具体的にどのようなすり替えが起きているのでしょうか?
> >全ては、その人の中で起きているのかもしれません。
> これも説明しますと・・・これは、世界が勝手に起きてるだけ、という意見に対して、人と世界の共同作業だよ、と言ったのですが、今度は、総てがその人の中で起きてるのかもしれないとなったので。
人と世界と双方に自由意志があれば、共同作業と呼べるでしょう。
私は、どちらにも自由意志が無いと思っていますので、起きているという立場を取ります。人というのは自我というアプリケーションと考えており、自我である自分は世界の中に存在しているとプログラムされていますが、実は世界が自分である自我というアプリケーションの一部かもしれないということです。
> おそらく全体の印象ですが・・・ゆらぎさんは、シミュレーション仮説というより、独我論に近いのでは?
「真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎない」とする立場を独我論とするならば、違うと思います。
自我は実在ではなく幻想だと思っていますから。
しかし、現象界において、自我は恐らくそのように(独我論に似たシステムに)プログラムされているかもしれません。
No.7016 - 2019/10/07(Mon) 21:26:10
☆
Re:
/ hato
引用
秋の夜長。休みも2日目となると、夜更かしは、早起きのようなものです。ubik0101さんも、新しく買った、高枝切鋏みの袋をしょって、「これ、長い釣り竿入れに使えるな、」と喜んだりしています。
>人が観測して物理学が成立しているのでなく、観察効果という現象を発見したということです。RPGと同じで、人が見ている場面しかリアルに描かれていないかもしれないということです。もしかすると、触感があるところだけ粒子化されていて、見ているところは波動、つまり色だけで成り立っているのかもしれません。
人が観測して、物理学 は成立していますよ。いずれにしても、世界を見ることですら、人は世界に関与しています。ゆらぎさんのお話しだけでも、十分にそれがわかります。
>つまり、「本来の自己」ということですね。
>そうなると、範囲が広すぎて話が噛み合わなくなるのも理解出来ました。
人、という不可思議については、自我・真我、どちらでも。人は人。でいいと思います。
>信用していればそうでしょうが、信用なんかしていませんよ。基本スタンスは、「形而上的なことは分からない」です。シミュレーション仮説は、どんな哲学や宗教よりも私にとって合理的なので、そうかもしれないと思っているだけです。
合理的と思えるほど、信用されていたのでしょう。それを以て、自由意志がない、と腑に落ちられたのですからね。それはおいておくとして、
>このように論議していて、破綻が明らかになれば、いつでも捨てます。
いつか響くといいと思うのですが、ここは不可逆です。破たんは明らかです。人、その不可思議ということを、現象的、物理的観測の見地から、網羅するとの意味で、得ることは、不可能です。というより、そこに意義がないだけです。もちろんこれは、自己探求の上での話です。よく自己を見据えていれば、わかると思います。
>自我を守るというのは、自我がそうプログラムされているからです。自我は幻想であり、「本来の自己」とは異なります。私はそれに気が付いたので、自我に何が起きるか、見守っている状態です。ですから、感情は動きますが、悩まなくなったのです。
ゆらぎさんはおそらく、なにか利己的に働こうとする作用を、自我としてみていらっしゃるということですね。そうした衝動を、行動に起こさずやり過ごす、ということですね。として、じつはその、見守ってる状態のほうが、問題。ではないでしょうか?
まず自我は、ちょっとある、・・一部ある、・・というものではなく、その自我ならば、人が、自我です。ここで言うところの、変容の可能性を秘めてる、自我です。
その、いずれ変容するであろう自我は、現象として、と敢えて言ってみますが、変容を経て、状態が変わります。自己になるとここでは言っています。はじめの頃、書いたかも知れませんが、
人が生まれて自我が芽生えますと、通常は、「自分があって世界がある・・」という向きを主とした有り方を生きます。そこから変化を経て、「世界が起きて自分が有り、」・・また、「その双方向での有り方、」・・と、何を言ってるか不明かも知れませんが、自我の変容とは、実際はこのような、人としての意識の向きと閾値の変化を言います。とても微妙なところです。
意識のされ方が上記の、一方通行の場合(自我の場合)、意識上に於いての、ある、ない、どちらかに偏ります。これはまだ、不可知に対峙してないからと言えます。この場合はどうしても、理解の内容に、そのことが表れてきます。意識が捉えられない、未知に根差していないことが表れるのです。
また、或いは。認識されず、変容を(程度は別にしても)経験されていることがあります。これはすこし困難です。意識がそのことを学んでいないために、おかしな状態、理解になってしまう、妙な信仰に入ってしまう、人がいます。そうであれば、ここは一歩一歩、真実を理解する意志を持って進む、必要があると思います。でないととても、混乱した人生になります。
意識は、そのことを理解するまでに時間がかかります。なにか別のことに意識が捕らわれることも、多くあるかも知れません。大変に微妙で、困難なところでもあると思います。
人の状態はさまざまにあるようで、一概には言えません。それでも、もし人が、「正しい悪いはない・・・」との理解で済ませてしまうなら、もしかしたら、チャレンジしてみるのは、いいかも知れません。善悪どちらか・・・でない、善い。こんな表現もできます。そのことを経験されていても、理解されていなければ、健全に生きるのは困難です。なので、経験の有無、いずれにしても、口笛を吹いてさあ、進もう!という・・
これはチャレンジ、と思います。
No.7017 - 2019/10/08(Tue) 03:37:41
☆
Re:
/ ubik0101
引用
なんであれ、起こってる事象も、自我も、真我も、神も、ない、ということも、だだ気づいてる意識が自分、ということも、そう設定されてるのだ。ということなら、その世界観に破綻はないと思うのです。気づいてる意識も、それを自分で変えるという意味では自由にはならないのでしょう?
そこで、シミュレーション仮説で、その設定者は不在、ない、としたら、不整合でしょうか?これはこれで、どこにも拠り所がなく、面白いように感じます。また、その設定者は、実在、ある、というより、その解き解れ・・・もちろん説明概念です・・・わりと世界の現状に近いように思います。
ずーと、ずーと昔。黒幕がいて政治家を操ってるかもしれないと思い勝手に憤慨しました。でも、なんだ、そうじゃなくて・・・ただ人が愚か(失礼)なだけなんだ。それがこの混迷の現状なんだ。そう気がついて、スッキリし、思想とか主義、そんなことに興味を失いました。
たとえば挨拶するだけで・・・とは、形而上なことではなく、具体的なことに思います。それで人間関係が変化し、不仲になり、また誰かの捨てたタバコの火で山火事になったりします。これも、ただ起きてると言えば、起きてることなのでしょう。人が起こしてると言えば、そうなのでしょう。どうして同じことが解釈が分かれるのでしょう。責任の所在でしょうか?
また繰り返しますが・・・なにか起こった事実を二度見してるように思えます。そして、ああこれは、そう決定されていたから起きたのだ。と判断してるのではないでしょうか。これも繰り返しますが・・・そして、その思考も起きるように起きてるだけ・・・ということは思考を二度見してませんか?・・こちらは、その意識がなくて、思考したり働いたりしています。
というのも、二度見しないと、いかなる世界観も起きないです。この世界は現象界とします。すると、自由意志はあるでもないでもない、というのが普通と思います。プログラムされても、されてないでもない・・・なんでもありなんですが、それでもある程度の秩序はある。見える聞こえる思考できる・・・不思議です。
そいえばユーチューブで、私は悟った。だから仏陀だ。世界は1つしかない。ほかのこととの比較ができない。だから世界は空だ。とか言ってるのがありました。自性を空だ、と言ってるようにも思えますが・・・いくたの世界観があり得るというのは、なんか世界の透明性を感じます。いかなる個別の世界観がないというのが、自分にとっては簡単で美しいのです。
ところで、素粒子の振る舞いは、観察されるまで分からない・・・観察されるされないで、変わるとします。この場合、観察者は観察されるのでしょうか?観察者とは何?それが問題にされないと、なんか研究のような気がしないのです。これは物理学?ではどう考えられてるか、知っていますか?
全ては関係しており、無関係ということはない・・・と言っても、ただ気づいてる意識は、シミュレーションされてない・・・とかのテーマで話してたのですから・・・シミュレーション仮説でなくても、ふつうに事象に気づいてる意識は全ては関係しており、無関係ではない、でしょうから、シミュレーション仮説とは関係ない話を持ちだした?と感じました。
いろんな定義がありでしょうが、自我には自性がないのに、自性があると見なすのが、独我論とも言えると思います。
No.7018 - 2019/10/08(Tue) 06:30:23
☆
Re: 二度見と
/ 勘太郎
引用
思考も起きるように起きてるだけ・・・ということは思考を二度見してませんか?・・こちらは、その意識がなくて、思考したり働いたりしています。
> というのも、二度見しないと、いかなる世界観も起きないです。
二度見とは、自分の心を振り返って眺めることでしょうか。
ふむふむ・・・。おらの日常です。
これをしないで、おくと無思考になりますと書いたけれども、この無思考になると解ることは、すでに二度見しています。 ああ、さてどうしたものか・・・・。です。
無思考を探るっているのが、おら。2枚向き合った鏡の中心で鏡を眺める自分。自分の鼻先に結んだ人参を追いかける馬。
> いろんな定義がありでしょうが、自我には自性がないのに、自性があると見なすのが、独我論とも言えると思います。
自性がない=シュミレーションとも感じられます・・・
自性がないから、自由意志で動き成り行き任せ。出たとこ勝負。シュミレーションではなく、でたらめーしよん、とも思えます。
カボチャの出来が悪かったです。100個以上採れる計画が20個くらいでしょうか?それでもほくほくして美味しいです。トウモロコシは、昔の品種で8列キビ。馬に食べさせたので馬キビとも言います。いまのところ害獣にも捕られずなんとか収穫できています。それだけ美味しくないということなんでしょう。粒を剥がして煮て昔の人の生活をしのんでみたいと思っています。本来は粉にしてたべるのでしょう。
No.7019 - 2019/10/08(Tue) 15:37:21
☆
Re:
/ ubik0101
引用
そうです。二度見しなければ即今もないです。即今も説明概念です。無思考もないです。あたりまえの日常です。これが神秘です。その神秘もなくて、万歳です。どうしても合わせ鏡にはならないのですが、なるとすれば、自分の根拠が自分ではないからかもしれません。自分が自分に距離があるかもしれません。
おなじことですが、自分が自分の根拠、背景なら、自分は自分で知覚されないので、私はない、です。私がないということは、私が私であるということです。この世界の背景、基底は私です。その基底がない、です。世界が、森羅万象が虚空に浮いてる感覚です。もちろん、これもなくても、万歳。見てる聞いてる話してる普通の日常がそうです。
こんな細いトウモロコシは初めて見ます。かぼちゃ、適当な大きさに切って、鍋に重ならないように皮を下にして並べ、かぼちゃの高さの半分くらいになるように煮汁を加えて蓋をします。着火。ぐつぐつ沸騰を始めたら5分で消火・・・予熱で火を通します。冷めてる間に味がしみます。まったく煮崩れせず、ホクホク感ありです。
No.7020 - 2019/10/08(Tue) 17:53:21
☆
Re: 私は無いで、私は私である。
/ 勘太郎
引用
「私は在る」ですかね。
これもなくても、万歳。実ってる聞いてる話してる普通の日常がそうです。・・・これから逆算すると。
二度見していないで生きて行く、でしょうか。
そうなんです。おいらでも、起きている時間の多くを二度見しないで、過ごしています。あれどうだったと過去を振り返れば、過去は記憶に在りません。情景の記憶はありますけれども、その時の自分の記憶はありません。 後から情景を想像しているだけです。
自分が無いまま、安心して、暮らして行きます。
先ほど、禅のページに時間は未来から過去に流れるという方が適正なのではないか」とありました。
過去は未来(現在)により上書きされるから、未来から過去に移動する。理性においてもなっとくできます。毎度おなじみの喩です。今ある人を好きになれば過去未来全て好きになり。気移りして嫌いになれば、全時間共に嫌いになる。
カボチャ今蒸らしています。楽しみ・・・うふふ
No.7021 - 2019/10/08(Tue) 19:48:52
☆
Re: うふふ ・・・美味しく煮えました。
/ 勘太郎
引用
明日のお弁当兼おやつ。
苦しみが無くっなったら、苦しみは無くってないです。忘れてるだけです。二度見しない限り、苦しみは無いと云えないですから。ここには分離がありますから、鈴がなります。
さて、苦しみを無くすには・・・どうしたものか・・・。
眠ったら、無いのですけれども。目が覚めたらまた苦しみます。
おやすみなさい。
眠るのは楽しみです。
No.7022 - 2019/10/08(Tue) 20:49:03
☆
Re:
/ ubik0101
引用
こちらも時間は前から後ろです。過去から未来というのは思ったことさえありません。たしか歴史の教科書などでは、古代、近代、現代だったような気がします。それは積み重ねとか、進化、変化、因果の順を説明するためなのでしょうか?そんなことより、これから事実として、どうするか?だけが大事と思います。
そいえば・・・スーフィーでは、たとえば今日、昨日、一昨日、一ヶ月前、一年前、十年前・・・というように現在から順に過去に向って記憶を点検する訓練があると聞いたことがあります。
悩まないのは簡単です。愚かでなくあればいいだけです。というのも、自分が愚かだったから、悩みになるような言動をしてきたのだから、悩んでるのではないでしょうか?その原因がなくなれば、オールクリアです。悟りとか呼ばれる体験が、劇的に効果あります。過去を振り返らない強さも求められるかもしれません。
No.7023 - 2019/10/08(Tue) 23:03:44
☆
Re:
/ hato
引用
うちの2描です。
No.7024 - 2019/10/08(Tue) 23:23:34
☆
Re:
/ hato
引用
裏の小さな丘に咲くノアサガオです。夕方にはピンク色に変わります。
No.7025 - 2019/10/08(Tue) 23:25:37
☆
Re:
/ ゆらぎ
引用
hatoさん
> >人が観測して物理学が成立しているのでなく、観察効果という現象を発見したということです。RPGと同じで、人が見ている場面しかリアルに描かれていないかもしれないということです。もしかすると、触感があるところだけ粒子化されていて、見ているところは波動、つまり色だけで成り立っているのかもしれません。
> 人が観測して、物理学 は成立していますよ。いずれにしても、世界を見ることですら、人は世界に関与しています。ゆらぎさんのお話しだけでも、十分にそれがわかります。
失礼しました。「観測されている時には、粒子性を示す」という話のレスだったので、hatoさんの言われる観測とは観察効果のことだと勘違いしました。物理学が観測により確証を得てきたのは間違いないと思いますが、理論物理学など、最近は観測できないものが主流だと思います。
> 人、という不可思議については、自我・真我、どちらでも。人は人。でいいと思います。
自我と真我は全く違うのですが?
自我は認識出来ますが、真我は認識できません。
> 合理的と思えるほど、信用されていたのでしょう。それを以て、自由意志がない、と腑に落ちられたのですからね。それはおいておくとして、
申し訳ありませんが、全く信用していません。形而上の問題は、「分からない」です。そして、それを以って自由意志が無いことが腑に落ちたのではありません。自由意志が無いことが腑に落ちたのが先です。私の日常からは、問題はあっても苦しみはなくなりましたが、シミュレーション仮説に出会った時には、既にそうなっていました。「自由意志が無い」ということは信じていますよ。自分で認識出来ますから。
> >このように論議していて、破綻が明らかになれば、いつでも捨てます。
> いつか響くといいと思うのですが、ここは不可逆です。破たんは明らかです。人、その不可思議ということを、現象的、物理的観測の見地から、網羅するとの意味で、得ることは、不可能です。というより、そこに意義がないだけです。もちろんこれは、自己探求の上での話です。よく自己を見据えていれば、わかると思います。
何が不可逆なのでしょうか?
どうして、破綻が明らかなのでしょうか?
不可思議であるならば、そもそも得ることなど出来ないのでは?
なぜ、意義がないのでしょうか?
申し訳ありませんが、説明して戴かないと全く分かりません。
時間が無いので、続きは別途とさせて下さい。
No.7030 - 2019/10/10(Thu) 05:59:13
☆
Re:
/ ゆらぎ
引用
hatoさん
続きです。
> ゆらぎさんはおそらく、なにか利己的に働こうとする作用を、自我としてみていらっしゃるということですね。そうした衝動を、行動に起こさずやり過ごす、ということですね。として、じつはその、見守ってる状態のほうが、問題。ではないでしょうか?
これも全く違います。自我とは、肉体と自然に起こる思考や感情を自己同一化しようとするアプリケーションです。そして、考えるより前に決断するということが起こるようになってからは、衝動もわいて来なくなりましたので、やりすごす必要もなくなりました。見守ることなどせず、どんどん進んで行きます。ですから、hatoさんの言われる問題は起こりようがありません。
> その、いずれ変容するであろう自我は、現象として、と敢えて言ってみますが、変容を経て、状態が変わります。自己になるとここでは言っています。
自我の状態がどう変わると自己になるのでしょうか?
> 人が生まれて自我が芽生えますと、通常は、「自分があって世界がある・・」という向きを主とした有り方を生きます。そこから変化を経て、「世界が起きて自分が有り、」・・また、「その双方向での有り方、」・・と、何を言ってるか不明かも知れませんが、自我の変容とは、実際はこのような、人としての意識の向きと閾値の変化を言います。とても微妙なところです。
意識の向きとは何でしょうか?
閾値とは、何の閾値でしょうか?
> 意識のされ方が上記の、一方通行の場合(自我の場合)、意識上に於いての、ある、ない、どちらかに偏ります。これはまだ、不可知に対峙してないからと言えます。この場合はどうしても、理解の内容に、そのことが表れてきます。意識が捉えられない、未知に根差していないことが表れるのです。
上記の一方通行とは、何を指しているのでしょう?
意識上に於いての、ある、ないの対象は何でしょうか?
なぜ、偏るのでしょうか?
意識が未知に根差すとは、具体的にどういうことでしょうか?
> また、或いは。認識されず、変容を(程度は別にしても)経験されていることがあります。これはすこし困難です。意識がそのことを学んでいないために、おかしな状態、理解になってしまう、妙な信仰に入ってしまう、人がいます。そうであれば、ここは一歩一歩、真実を理解する意志を持って進む、必要があると思います。でないととても、混乱した人生になります。
意識がそのことを学んでいないの、そのこととは何でしょうか?
おかしな状態や理解とは、どんな状態や理解でしょうか?
妙な信仰とは、具体的にどのような信仰でしょうか?
真実を理解する意志を持って進んでも、何が真実か分からないと思いますが?
> 人の状態はさまざまにあるようで、一概には言えません。それでも、もし人が、「正しい悪いはない・・・」との理解で済ませてしまうなら、もしかしたら、チャレンジしてみるのは、いいかも知れません。善悪どちらか・・・でない、善い。こんな表現もできます。そのことを経験されていても、理解されていなければ、健全に生きるのは困難です。なので、経験の有無、いずれにしても、口笛を吹いてさあ、進もう!という・・
> これはチャレンジ、と思います。
健全に生きるということは、どう生きることでしょうか?
私は冒険という言葉を使います。
毎朝、目が覚めれば冒険の始まりです。
質問ばかりで申し訳ありませんが、私はhatoさんの言われることを理解したいのです。以前も書きましたが、今のままでは、全くのお手上げです。
No.7033 - 2019/10/10(Thu) 18:35:27
★
口笛を吹きながら
/ ゆらぎ
引用
>いわゆる眼が覚めていれば気絶してないという意味で意識があるという意味での意識。これは自我とは思えないのが普通かもしれません。こいう私も、その意識がある私が自我とは気がついてもいませんでした。
そうなんです。
「気づいている意識」に気づいているのも自我です。
そして、それは脳の一つの機能であり、そのようにプログラミングされているのかもしれません。
>この世界からの解脱・・・♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう。この日常に総てあります。
考え方や表現は違いますが、この日常を肯定し、全てを受け入れて、目の前の起こったことに対して真摯に一所懸命に取り組み、結果はさほど気にしないという点において、ubik0101さん、hatoさん、勘太郎さんと共通していると思います。
そして、それが「♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう」ということだと思うのです。
hatoさん
> 頭が大きくて、頭内がゆったりしており、神経にさし障ることがないとか、・・でしょうか。頭痛がないて、なんと羨ましいの☺。うちは、頭の大き目なubik0101さんも、小さめな自分も、頭痛はしょっちゅうで、この手の薬もしょっちゅう、使います。🙏
確かに、私の頭は大きいです。(笑)
家内は小さいのですが、二人とも頭痛がないのです。
>ドンマイ!三歩進んで二歩下がる。気を取り直してさあ進もう!未知なる道を、どんどん行こう!と思います。
私も全く同じ思いです。
> ubik0101さんが、「どこま〜でも、行こう〜、みちは〜・・」と嬉しそうに歌ってます。ときどき、庭でじょうろに水を汲みながら、一所懸命歌ってる・・ことが、あります。👀 👀 👀
私もギターを弾きながら、時々歌います。(笑)
No.6995 - 2019/09/29(Sun) 07:43:06
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ubik0101
引用
たぶん・・・意識のありさまは自我ではなく、世界の構成要素であり、問題なくて・・・その人が実は自我そのことで・・・たとえば、意識のありさまが自我だとしていうことにして了解し・・・自我が完成される。のかもしれません。
No.6996 - 2019/09/29(Sun) 08:54:32
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ hato
引用
虫の声がちょっといい夜です。秋、いい時期ですね。
>考え方や表現は違いますが、この日常を肯定し、全てを受け入れて、目の前の起こったことに対して真摯に一所懸命に取り組み、結果はさほど気にしないという点において、ubik0101さん、hatoさん、勘太郎さんと共通していると思います。
>そして、それが「♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう」ということだと思うのです。
ゆらぎさんは既に、世界は決定されたもの、と観念されていますね。お話しを通して、そこは頑なに死守されているように感じます。そこから世界を確認して、心の安定が生まれてる・・感じがします。
なにか人が安心できる、精神性。宗教でも、信条でも、船を漕ぐオールは、あってもいい。・・けれど、掴んだら手放し、いったん掴んで、手放し、大きく放って・・・どこまでも、行こう。果てしなくとも、・・・それが、探求の有り様です。決定されたなにかに、安堵しない・・できない・・・道はけわしくとも、口笛を吹きながら・・歩いていこう。です。
>変容が起こったということは、そうプログラムされていたということです。
人は、自分から発心、努力します。世界は起こるとして、人も、起こしていく、です。ですので、正しい発心、はとても大切です。世界に意志を発信する、そんなことです。人から閉ざしてしまったら、・・・というよりは、自己を探求しようとした人ならとしか言えませんが、残念なことではないでしょうか。そうでないなら、・・とくに。問題ないのでしょう。
蛙が鳴いてます。すこし、雨が降るのでしょう。
No.6998 - 2019/09/30(Mon) 00:46:49
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ゆらぎ
引用
ubik0101さん
> たぶん・・・意識のありさまは自我ではなく、世界の構成要素であり、問題なくて・・・その人が実は自我そのことで・・・たとえば、意識のありさまが自我だとしていうことにして了解し・・・自我が完成される。のかもしれません。
自我は、どうなれば完成されたと言えるのでしょうか?
hatoさん
> ゆらぎさんは既に、世界は決定されたもの、と観念されていますね。お話しを通して、そこは頑なに死守されているように感じます。そこから世界を確認して、心の安定が生まれてる・・感じがします。
「ある時点において特定の原子の位置と速度がわかれば、情報を分析することでその原子の未来の運動を予測することができる」、つまり世界が数学的に記述できるということは、ビッグバンの時から世界は決定していることです。決定論を私が肯定し、hatoさんが否定することが起こることが決まっていたということです。
それに、私は「すべきものは何もない」という立場であり、死守するものもなければ、死守する必要もないのです。
そういう類の重荷が、なくなって楽になったのです。
心の安定が生まれているのは、その通りです。
小説にしても映画にしても、そしてRPGにしても、決まっていないものはなにひとつありません。それらが面白く、ワクワクするのは、どう決まっているかを知らないからです。RPGの同じキャラクターを私とhatoさんが操作すると、必ず違うストーリーになるように、決まってはいても多様性はあります。
決まっているなら、あれこれ考える必要もありません。考えると、自分の利益に目が行き、自分のやりたかったことと違う方向に行ってしまいます。
「何をやってもいい」と言っても、自由にできることはありません。自分の信念に従って選択することしか出来ないのですから、悩む必要が無くなりました。選択に悩む必要が無くなったので、逆に自由になったのです。
> なにか人が安心できる、精神性。宗教でも、信条でも、船を漕ぐオールは、あってもいい。・・けれど、掴んだら手放し、いったん掴んで、手放し、大きく放って・・・どこまでも、行こう。果てしなくとも、・・・それが、探求の有り様です。決定されたなにかに、安堵しない・・できない・・・道はけわしくとも、口笛を吹きながら・・歩いていこう。です。
私には、hatoさんの方が「成長したい」「成長しなければならない」という重荷を手放していないように見えます。
> 人は、自分から発心、努力します。世界は起こるとして、人も、起こしていく、です。ですので、正しい発心、はとても大切です。
発心も自分が起こしているのではなく、起こっています。
全てのものを比較検討し、決めたのではありません。
自分の心に浮かんで来たものしか、選択出来ません。
そして、それは自分という自我の特性から選択が起こっているのであり、正しいも間違いもないのです。
No.6999 - 2019/09/30(Mon) 06:14:28
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ubik0101
引用
自我は虚構です。世界の構成要素、物質、知覚、感情、意識によって作られる、仮の自己です。その中心は、ない、です。ない、が、どうなる、こうなる。というのではないです。
そこで、たとえば。初めから、ない、のだから、そのままでいいいんだよ。という意見も成立します。それはそれで、そう言い得ることができるのですし、そうありえることができるのですから、そんな世界なので、そのことに何の問題も見いだせません。もっと簡単に言うと、いろんな人がいるね、です。
こちらも、いろんな人のひとりです。たとえばですが・・・学ぶことはない、そのままでいい、悟りはない・・・それは、自己の言うことではなく、世界の構成要素の言うことであり、自我の言うことです。と、言います。
どんな世界観、意見だって、それに突っ込むことはできるでしょうし、また逆、それが間違ってないという、理由も説明も、そうできなくても、ただ言い張ることもできるのではないでしょうか。誰と誰であれ、意見の違いで対立しても、しかたないでしょう。
ここで探ろうとしてることがあります。なにか体験が起こります。瞬間的な、突然の成長、変化に思えます。そして一方、なにも変わらない、ということも言えるかもしれません。
どっちでもない、です。どっちでも、間尺に合わない、整合性がないのです。この掲示板の表題ですが・・・世界は触媒、です。まあ、このことを上手く言えたらいい・・・ぼつぼつ探っているのです。
No.7000 - 2019/09/30(Mon) 07:08:47
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ubik0101
引用
うまく言えるかどうか、説明してみます。
あくまで喩えですが、交通事故を起こした。それは車の性能、交通状況、いろいろあるでしょう。でも一般的には、運転者が、問題です。私は車を運転しない、私の乗ってるのは自動運転だから、私には問題ない、でもいいのですが・・・順列組み合わせで、車が問題、人が問題、ともに問題。ともに完璧・・・ともに完璧、なら事故は起きないかもしれません。それ以外は事故になる可能性があるでしょう。
実際には事故が起きても心理的な問題にする必要は無いです。病気、不愉快な出来事、できるだけのことをやればいいだけです。そうなのですが、完璧な人が、この世界に生まれるでしょうか?人が自我でなくて、この世界に生まれるでしょうか?また逆に世界が不完全でないなら、なにか人が暮らす必要があるでしょうか?人/世界、ともに完璧なら、それはある意味シュミレーション世界かもしれません。
解脱とは喩えではないです。この世界から解かれて、この世界を解いて、脱することです。それには世界の総ての活動が必要、ということです。病気も健康も、貧乏も、善悪も、怠惰も努力も、総てが活動してるから、総ての光の色が重なると透明なように、世界は透明。そんな構成要素の活動で、それ事態は変わらない、けど、あれかこれかどれかではなく、総活動で・・・違うかもしれませんが、仏教では、無字、隻手と言われてることかもしれませんが・・・世界は人を覚醒させる触媒です。
No.7001 - 2019/09/30(Mon) 18:36:26
☆
Re: 僭越ではありますが、触媒をてこ
/ 勘太郎
引用
バネ・不満の圧縮・鍵の無い金庫と言い換えてみました。
、鼻先にぶら下がった人参を追いかける馬が走り廻る馬場・絵が描かれていない透明の字で書かれているレシピ本の図書館。(「「@:又猫が足で打ちました)
昨日はにんにくを植えました。食べるのはそんなにすきではありませんけれども、ニンニクを縛って干してある風景が好きです。
砂糖漬けにしたニンニクがそろそろ食べられるかもしれません。
No.7002 - 2019/09/30(Mon) 20:49:03
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ubik0101
引用
こちら、にんにくは不可欠です。とくにパスタ・・・フライパンを使って、サラダオイルで刻みニンニクを軽く焦がして、そこに固めに茹でたパスタを投入します。さらに、おたま一杯(二人分なら、おたま二杯)の茹で汁を加えて、昆布茶(コンソメなどでも可)、サラダオイルまたはオリーブオイルを回し掛け加熱しながら・・・菜箸などで素早く掻き混ぜ、とろとろに乳化させます。これだけで美味。アラビアータ、イカスミソース、トマトレモンソースなどで供します。
ニンニクは水に浸けると皮が剥きやすいことを発見しました。ニンニクの砂糖漬け、それは初めて聞きました。
No.7003 - 2019/09/30(Mon) 22:20:30
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ hato
引用
さあ!相容れないことがあるとしても、なぜかここで出会って分かち合う、それがいい、て思います。
変化、変容、成長、は自分には、既に必然で害もない、・・どちらかといえば、世界でそれを生きるための、ある種体力作りのような、人生そのものが負荷であり、ちょっと楽しみ、との感じです。
自分は、世界は起こり、・・人は起こす、・・という、その未知を生きる、です。
涼しい秋の夜長。仕事をしたり、お茶を飲み、2人ともゆっくり過ごしてます。こちら、うちの2描です。
No.7004 - 2019/10/01(Tue) 01:21:44
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ 勘太郎
引用
おいらの段階でも、心探しは、どんどん進むように感じられます。加速度的に深まっている様に感じます。ベルトコンベアの上で走っている様なもので進んでいないのかもしれません。
ではあっても、どこまでも行こうです。
ニンニクの砂糖漬け
本当ははちみつ漬けです。はちみつと称して売っている水飴に浸けて66666666666666みました。はじめ浮かんでいたニンニクが沈んできましたので、そろそろ食べてみます。
No.7005 - 2019/10/01(Tue) 15:19:06
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ hato
引用
66666666666666・・・も猫っちの仕業なのでしょうか。勘太郎さんのそばにいるのが、嬉しいんでしょうね。
ニンニクの蜂蜜漬け、贅沢な漬物ですね、とっても美味しそうです。ニンニク、なかなかいい値段ですが、よく使います。黒ニンニクを、使わなくなった炊飯器で(一カ月くらい保温するらしいですね、、)、見た目も臭いも凄いけど、美味しくて身体にいいといって、この辺りの人たちは自分で作るという話をよく聞きます。
爽やかな季節に入って、庭に曼珠沙華が咲き乱れてます。スズメバチがまだ多く、猫の庭散歩は注意してます。
No.7006 - 2019/10/01(Tue) 21:01:33
☆
Re: ゆらぎさんの感じ方は運命決定論
/ 勘太郎
引用
の様におもえるのです。違いはありますか?
猫に子供が産まれました。
2匹。あづかりねこ、獣医さんで保護後の健康診断で妊娠が疑われたので、経過観察の結果。お腹が膨らみ。ご懐妊!!!!
おとつい2匹産まれて、最初は親猫があまり授乳行為をしなかったので、おいらが、昨日乳首に子猫の口をあてがい、親猫が動かない様に撫で続けた結果授乳の仕方が解かったようで、落ち着いて子育てしているという感じです。
子猫の1匹の貰い手は決まっています。クリスマスころまで家で育てて、引き渡し。
今は猫がぶーむですから、貰い手はすぐに見つかるでしょう。
No.7007 - 2019/10/04(Fri) 13:22:41
☆
ほかの誰かのことを考えても空想ですが、
/ ubik0101
引用
ああでもないこうでもない、あああればいいこうあればいいという、いわゆる心理的思考は、空想の因果関係ではないでしょうか。
そこで、運命が決まってるなら、ほかの道筋はないのですから、もともと悩みようがないでしょう。
シミュレーション仮説を方便として、空想の因果関係を打ち消した、脱した。ということかもしれません。
たとえば・・・塩の味がなぜ塩の味なのか?そもそも味がなぜ味なのか?見えるということは、考えるということは?それはなぜそれ?感情が、意識が、素粒子が、重力が、自我が、自己が、神が、なぜそれなのか?・・・知らない・・・答えは簡単、そう設定されてるからだ。あるいは、世界はこの瞬間に開闢した。とかも、それだけなら、なにも破綻はないと思います。でも、それだけだとリアリティがないかもしれません。
しかし。気づいてる意識、自分は、設定されてないと特例にすると、その世界観が分裂し真実味を帯びるけど、複雑になるようです。
ところで。運命が決まってなければ悩む?と言えば、まったく悩まないです。決まってても、悩む必要がないです。たとえば人間関係と、なにか不快なことと、悩みが、因果関係にある必然はないのです。たぶん因果には、物事が決まってるも、決まってないも、共に問題外でしょう。
ところで貧乏、病気、過去の出来事、未来の出来事とか・・・状況は変わらなくてもその同じことに悩んだり悩まなくなることもあるでしょう。ということは問題は、状況、出来事、世界にあるのではなく、その人の変化・・・それは透明で見えないけど・・・ということも考えられます。
しかし、ここで、自分が変わった、変わらない、どちらを掴むのも、NGと思います。悩まないことに理由は不要です。
No.7008 - 2019/10/05(Sat) 18:53:26
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ hato
引用
運命決定論、初めて少しだけ調べました。自然科学者の間でも、論議が分かれているのですね。
そうとして、既に仮である仮説を以て、空想の因果を脱する?、・・・ことが、本来的に可能かはわからないと思います。起きてくる、思考や想念、感覚、現象、それをその人、足ることにしているその「人」がいての世界として、その世界(感覚、思考、・・現象・・)も、その人がそうある故にそのような世界とも言えるかも知れません。
また、そうでない、そもそも「人」などない、・・にただ偏向、であれば、なにか脱する必要もないでしょうが、実際人は、そのようなものではないと思います。
なにか絶対的な安心を与える信念、この意味での科学、宗教、信条・・・は、なにか保護膜のような・・感じになるのかな・・と思いました。
ご懐妊で2描増えてる!?可愛いでしょうが、大変ですね。勘太郎さんご家族の情の深さに、脱帽です。
No.7009 - 2019/10/05(Sat) 21:53:34
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ゆらぎ
引用
仕事が忙しくて、暫くお休みしておりました。
勘太郎さん
> ゆらぎさんの感じ方は運命決定論の様におもえるのです。違いはありますか?
運命論と決定論は定義に若干の違いはありますが、同じようなものですね。
シミュレーション仮説もシミュレーションされているのですから、決定論と同じでしょう。
しかし、決定論も非決定論も、どちらも、未来を知ることが出来ないのですから、生きることにおいては同じです。決まっているなんて面白くないと思っても、予測不能ですから、日々はドキドキ・ワクワクの冒険の連続であり、結構面白いです。
また、決まっているということは自由意志が無いということだから、自分に責任はない。だったら、悪いことでも何でもやってやる!と息巻いてみても、悲しいかなそんな思いは浮かんできません。これまでのように、真面目に生きるだけです。(笑)
ubik0101さん
> シミュレーション仮説を方便として、空想の因果関係を打ち消した、脱した。ということかもしれません。
確かにそうですね。あーだ、こーだ考えなくなりました。
今は、直感に従って素直に行動するだけです。
私の場合は、シミュレーション仮説を方便としてというより、自由意志が無いことが腑に落ちたから考えなくなったということです。
> 答えは簡単、そう設定されてるからだ。あるいは、世界はこの瞬間に開闢した。とかも、それだけなら、なにも破綻はないと思います。でも、それだけだとリアリティがないかもしれません。
自性が無いとした時点で、リアリティはありません。
> ところで。運命が決まってなければ悩む?と言えば、まったく悩まないです。決まってても、悩む必要がないです。
自分の意志で運命が決まるのであれば、悩む人もいるでしょう。
逆に、決定論を支持する人でも、悩む人はいるでしょう。
> ところで貧乏、病気、過去の出来事、未来の出来事とか・・・状況は変わらなくてもその同じことに悩んだり悩まなくなることもあるでしょう。ということは問題は、状況、出来事、世界にあるのではなく、その人の変化・・・それは透明で見えないけど・・・ということも考えられます。
その人の変化は、その人に何かがインプットされて内部処理が行われ、変化したのだと思います。そして、そのインプットは、状況、出来事によってもたらされたのだと思います。
hatoさん
> 運命決定論、初めて少しだけ調べました。自然科学者の間でも、論議が分かれているのですね。
不確定性原理をもって決定されていないとする人もいますが、観測されている時には、粒子性を示すということが確定しているのです。それが、シミュレーション仮説の根拠にもなっています。
> また、そうでない、そもそも「人」などない、・・にただ偏向、であれば、なにか脱する必要もないでしょうが、実際人は、そのようなものではないと思います。
それは、偏向ではないです。
自我は仮想であるとしていますが、真我を否定している訳ではありません。
私は、「人」を自我と定義しています。
ここが違っていると論議にならないのですが、hatoさんの「人」の定義は何でしょうか?
> なにか絶対的な安心を与える信念、この意味での科学、宗教、信条・・・は、なにか保護膜のような・・感じになるのかな・・と思いました。
絶対だと位置づけることにより、保護膜となって真実を隠してしまいます。
ですから、仮説としているのです。
No.7010 - 2019/10/06(Sun) 06:23:09
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ 勘太郎
引用
スマホから初めての投稿です。
自由意志とは、今のありように載って、不満が無いこと。
自由意志があると言っても、無いと言っても同じ結果
時間が無いと、そうなるのでしょうが、おらには解りません。
世界は、べた.のっぺらぼうで、同時にすべての体験がある。その中をブラウン運動、花粉が電子に押し飛ばされて勝手に動く、のように自由に動いているのかなあ?
No.7011 - 2019/10/06(Sun) 18:54:27
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ubik0101
引用
>確かにそうですね。あーだ、こーだ考えなくなりました。
>今は、直感に従って素直に行動するだけです。
>私の場合は、シミュレーション仮説を方便としてというより、自由意志が無いことが>腑に落ちたから考えなくなったということです。
もしかして自由意志がないということは、自分の意志は自分で決められない、変えられない、という意味でしょうか?それなら、因果のままにというより、因果として生きる私。ということでしょうか?それなら、誰かと挨拶する、しないだけでも、人は世界の運行を変えています。
また、この世界では、自由は不自由として現れる、です。こいうこと、あいうこと個別のことは不自由でしかない、それは、自由の現れだ、不自由が自由の証明だ。ということです。笑うこと、泣くこと、それはそれでしかないので、不自由だ、なんですが、そのことが自由の証明。ということです。
>自性が無いとした時点で、リアリティはありません。
ここは世界は、この瞬間に開闢したということが自性のあるないということではなく、世界と違う要素。その世界を見てる、その世界と分離した自分との関係がないと・・・その世界観に、リアリティがないという意味です。
> 自分の意志で運命が決まるのであれば、悩む人もいるでしょう。
> 逆に、決定論を支持する人でも、悩む人はいるでしょう。
たとえ運命が決まってても、決まってなくても悩まないというのは、誰かのことを話してるのではなく、私はこうだよ。ということです。おそらく赤ちゃんは悩まないでしょう。でも悩む可能性があった・・・
・・・そして悩まなくなった。悩む可能性もなくなった。架空の因果関係は、架空の人間関係です。その人が1人あれば、そもそも葛藤になる思考とかは知覚されないです。人が変わったと言っては違うし、変わらないとしても違うでしょう。
> その人の変化は、その人に何かがインプットされて内部処理が行われ、変化したのだと思います。そして、そのインプットは、状況、出来事によってもたらされたのだと思います。
なんにしても誰であれ、その人がいないと、変化するだろうと変化しないだろうと、そんなことは起きないでしょう。人と世界の共同作業ということです。分離と全体の共同作業とも言えます。変わる変わらないでもないその人は知覚され得ない、です。
No.7012 - 2019/10/06(Sun) 20:45:40
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