150828
“掲示板”
この世界は人を覚醒させるための触媒です。
★
(No Subject)
/ hato
引用
ゆらぎさんへ
お忙しそうですね。いい季節ですが、また台風だって。家には4連の窓があるのですが、雨戸がないんです。💦
スレッドが長くなりすぎるので、こちらにしますね、わかりにくかったらごめんなさい。
>理論物理学など、最近は観測できないものが主流だと思います。
数学を主とした分野ですね。数学は不思議に通じる・・感じがありますね。数式。世界を紐解く感があります。けど、ことに人、その自己については、理解の飛躍が不可欠ではないかと思いますね。
>> 人、という不可思議については、自我・真我、どちらでも。人は人。でいいと思います。
>自我と真我は全く違うのですが?
>自我は認識出来ますが、真我は認識できません。
個別にそのことを指して話す必要があるときは、自我、真我、でいいではないですか?。どちらに於いても、人の不可思議に差異はないと自分は思います。なので、人は人、と言ってます。
> 「自由意志が無い」ということは信じていますよ。自分で認識出来ますから。
自分は、自由意志、無いとも言えるし、有るとも言えます。
>何が不可逆なのでしょうか?
>どうして、破綻が明らかなのでしょうか?
世界の現象の側から、物理科学的な観点から、との意味ですが、自己(真我でも構いませんが、)の不可思議について、網羅との意味で得る、ことは不可能です。これが、ここでの不可逆です。自己は認識できない、とはゆらぎさんもお話しでしたね。既に世界でないことを、現象の様式で網羅することは不可能でしょう。ここにはどうしても、飛躍があると思います。念のため、自我であっても、自己であっても、本来、人、その不可思議は認識できません。ですが、知覚や想念、肉体に重点が置かれると、それ自体を、塊としての自分と感じるのかも知れない・・と思います。
ただ、現象世界についてならば、数学はそこに導かれる感じがします。人には言葉があり、・・世界には数式がある、?・・と思います。まあ、わかりませんが。
>不可思議であるならば、そもそも得ることなど出来ないのでは?
得る、というのは表現ですが、科学によって、知る、との意味で言いました。ここでは自己を指して言ってます。上に書いたとおり、現象世界についてならば、ある程度可能なことかも知れない、と思います。
また、得る、(表現上ですが、)ことができるとしたら、何度もすみませんが、「人が、不可思議であり、その成長。」と思います。成長でも変容でも変化でも、いいのです。
ここは、人が見る表現により、なにも起きてない、とか、総て起きた・・とか、どちらでもないけど、・・・とかさまざま言い方があるようです。ただこの意味で、どこか一方に留めることはむつかしいです。どうでもない。けど、こうである、とても、不思議です。
>なぜ、意義がないのでしょうか?
本来、人が追求する向きは、その内側です。人という、不可思議に入っていく、起きてる自体が事態を見る、という、自己探求の話です。言葉が杖であり、方法です。この探求では、なにか自分、が考えてる・・という辺りを逸脱していくのです。
ここではとりあえず、世界という膨大無辺な現象をいつまでも調べてても・・くらいなことかと思います。
No.7035 - 2019/10/11(Fri) 01:25:27
★
(No Subject)
/ hato
引用
ゆらぎさん、こんにちは。テレビなど見ていて大した夜中ですが、こんにちは。の感じです。👀
>不確定性原理をもって決定されていないとする人もいますが、観測されている時には、粒子性を示すということが確定しているのです。それが、シミュレーション仮説の根拠にもなっています。
難しいことはわかりませんが、誰であれ、人が観測して物理学は成立しているのですね。人の意図が影響しているかも知れない結果を根拠にできるのでしょうか?とりあえず、物理あたりですと、そうせざるを得ないわけですね。自分はその辺り、脳がついていかないお陰で、とり憑かれずに済んでいる状況です。
>私は、「人」を自我と定義しています。
>ここが違っていると論議にならないのですが、hatoさんの「人」の定義は何でしょうか?
人というのは、この、不可思議です。自分はこの場合、人間とはいいません。
> 絶対だと位置づけることにより、保護膜となって真実を隠してしまいます。ですから、仮説としているのです。
というよりは、たとえ仮説であれ、人がそれを信用していればそのようになりやすいとして、どちらかといえばこの場合は、仮説が真実を隠していると言えるでしょうね。
>決まっているなら、あれこれ考える必要もありません。考えると、自分の利益に目が行き、自分のやりたかったことと違う方向に行ってしまいます。
いずれにしろ、ここでゆらぎさんが言われる状態が、「考えると自分の利益に目が行くような・・」、そのために、「やりたいこととの葛藤が起きる・・」自我、であるとするなら、成長(変容)は、自然な成り行きでしょう。と思いますね。ふつうはそうです。
真偽不明な仮説を用いてまで、その自我を守ろうとされてる、それはいったいなんでしょう。ということですね。
>「何をやってもいい」と言っても、自由にできることはありません。自分の信念に従って選択することしか出来ないのですから、悩む必要が無くなりました。選択に悩む必要が無くなったので、逆に自由になったのです。
とはいえ、ゆらぎさんは、強い信念に従ってご自身を律して、お仕事やその日常を、精一杯努められていられるのでは、と思います。伝わります。ゆらぎさんのお仕事で、助けられる方が多くいらっしゃるのでしょう。
No.7013 - 2019/10/07(Mon) 01:01:40
☆
Re:
/ ゆらぎ
引用
ubik0101
> もしかして自由意志がないということは、自分の意志は自分で決められない、変えられない、という意味でしょうか?それなら、因果のままにというより、因果として生きる私。ということでしょうか?それなら、誰かと挨拶する、しないだけでも、人は世界の運行を変えています。
自由意志がないということは、そういうことです。
誰かと挨拶する、しない、確かに選択肢はいろいろありますが、選べるのはひとつだけです。
変えているのか、そうなっていたのかは、区別がつきません。
> また、この世界では、自由は不自由として現れる、です。こいうこと、あいうこと個別のことは不自由でしかない、それは、自由の現れだ、不自由が自由の証明だ。ということです。笑うこと、泣くこと、それはそれでしかないので、不自由だ、なんですが、そのことが自由の証明。ということです。
ですから、私は自由意志が無いことが腑に落ちて、自由になったと何度も申し上げています。
> ここは世界は、この瞬間に開闢したということが自性のあるないということではなく、世界と違う要素。その世界を見てる、その世界と分離した自分との関係がないと・・・その世界観に、リアリティがないという意味です。
全ては関係しており、無関係ということはないと思いますが?
> たとえ運命が決まってても、決まってなくても悩まないというのは、誰かのことを話してるのではなく、私はこうだよ。ということです。おそらく赤ちゃんは悩まないでしょう。でも悩む可能性があった・・・
それは承知していますし、私も悩まなくなりました。
一般論として、人が悩むのは、それが自我の特性だからということを言いたかったのです。
> なんにしても誰であれ、その人がいないと、変化するだろうと変化しないだろうと、そんなことは起きないでしょう。人と世界の共同作業ということです。分離と全体の共同作業とも言えます。変わる変わらないでもないその人は知覚され得ない、です。
全ては、その人の中で起きているのかもしれません。
hatoさん
> 難しいことはわかりませんが、誰であれ、人が観測して物理学は成立しているのですね。人の意図が影響しているかも知れない結果を根拠にできるのでしょうか?
人が観測して物理学が成立しているのでなく、観察効果という現象を発見したということです。RPGと同じで、人が見ている場面しかリアルに描かれていないかもしれないということです。もしかすると、触感があるところだけ粒子化されていて、見ているところは波動、つまり色だけで成り立っているのかもしれません。
> >私は、「人」を自我と定義しています。
> >ここが違っていると論議にならないのですが、hatoさんの「人」の定義は何でしょうか?
> 人というのは、この、不可思議です。自分はこの場合、人間とはいいません。
つまり、「本来の自己」ということですね。
そうなると、範囲が広すぎて話が噛み合わなくなるのも理解出来ました。
> > 絶対だと位置づけることにより、保護膜となって真実を隠してしまいます。ですから、仮説としているのです。
> というよりは、たとえ仮説であれ、人がそれを信用していればそのようになりやすいとして、どちらかといえばこの場合は、仮説が真実を隠していると言えるでしょうね。
信用していればそうでしょうが、信用なんかしていませんよ。
基本スタンスは、「形而上的なことは分からない」です。
シミュレーション仮説は、どんな哲学や宗教よりも私にとって合理的なので、そうかもしれないと思っているだけです。このように論議していて、破綻が明らかになれば、いつでも捨てます。
> いずれにしろ、ここでゆらぎさんが言われる状態が、「考えると自分の利益に目が行くような・・」、そのために、「やりたいこととの葛藤が起きる・・」自我、であるとするなら、成長(変容)は、自然な成り行きでしょう。と思いますね。ふつうはそうです。
自我は変容すると思いますよ。
> 真偽不明な仮説を用いてまで、その自我を守ろうとされてる、それはいったいなんでしょう。ということですね。
自我を守るというのは、自我がそうプログラムされているからです。
自我は幻想であり、「本来の自己」とは異なります。
私はそれに気が付いたので、自我に何が起きるか、見守っている状態です。
ですから、感情は動きますが、悩まなくなったのです。
> とはいえ、ゆらぎさんは、強い信念に従ってご自身を律して、お仕事やその日常を、精一杯努められていられるのでは、と思います。伝わります。ゆらぎさんのお仕事で、助けられる方が多くいらっしゃるのでしょう。
律するというより、家庭でも会社でも、その人がやりたいことを出来る限りサポートしようと思っています。そういうことが起こっているということです。
No.7014 - 2019/10/07(Mon) 07:22:09
☆
Re:
/ ubik0101
引用
>変えているのか、そうなっていたのかは、区別がつきません。
なら、どちらかに断定することはできないのでしょう?これまでの主張は、どうなりました?
>ですから、私は自由意志が無いことが腑に落ちて、自由になったと何度も申し上げています。
それは何も説明なしでしょう?こちらが言ってことは、こちらが、こう、であることを、こうと、そこで言い得ることは隠さず言っています。
>全ては関係しており、無関係ということはないと思いますが?
これまでのことを説明しますと・・・生まれてこの方変わらない意識があるということが、そのシミュレーション世界観との分離ではないか?特例ではないか?と言ってるのです。
つまり・・・ゆらぎさん自身が・・・総てが関係してる、無関係でないとするなら・・・世界と意識も、おなじ成り立ちでなくては、変かな?と思うのです。
つまりプログラムされて幻のように起こってる事象、それに気づいてるプログラムされてない意識。これは分離であり、これの主張はできないのでは?
一般的に、全ては関係しており、無関係ということはない。ということは言えますが、ここで話してることと違うテーマで話されて、意味のすり替えが起きてるような気がします。
>全ては、その人の中で起きているのかもしれません。
これも説明しますと・・・これは、世界が勝手に起きてるだけ、という意見に対して、人と世界の共同作業だよ、と言ったのですが、今度は、総てがその人の中で起きてるのかもしれないとなったので。
おそらく全体の印象ですが・・・ゆらぎさんは、シミュレーション仮説というより、独我論に近いのでは?
No.7015 - 2019/10/07(Mon) 08:36:16
☆
Re:
/ ゆらぎ
引用
ubik0101さん
> >変えているのか、そうなっていたのかは、区別がつきません。
> なら、どちらかに断定することはできないのでしょう?これまでの主張は、どうなりました?
ubik0101さんが「誰かと挨拶する、しないだけでも、人は世界の運行を変えています」と言われたので、何故そのように断定できるのですか?という意味で書きました。
勿論、私は変えているのではなく起こっていると思っていますが、これも断定することは出来ません。いちいち「思っています」を付けるのが面倒なので、省いているだけです。
「形而上のことは分からない」が私のスタンスです。
> >ですから、私は自由意志が無いことが腑に落ちて、自由になったと何度も申し上げています。
> それは何も説明なしでしょう?こちらが言ってことは、こちらが、こう、であることを、こうと、そこで言い得ることは隠さず言っています。
9/30にも以下の通り説明しています。
何年か前にお邪魔したときも、説明したと思うのですが・・。
「何をやってもいい」と言っても、自由にできることはありません。自分の信念に従って選択することしか出来ないのですから、悩む必要が無くなりました。選択に悩む必要が無くなったので、逆に自由になったのです。
> >全ては関係しており、無関係ということはないと思いますが?
> これまでのことを説明しますと・・・生まれてこの方変わらない意識があるということが、そのシミュレーション世界観との分離ではないか?特例ではないか?と言ってるのです。
シミュレーション世界というのはこの現象界であり、現象界は変化する世界ですから、生まれてこの方変わらない意識と分離しています。
> つまり・・・ゆらぎさん自身が・・・総てが関係してる、無関係でないとするなら・・・世界と意識も、おなじ成り立ちでなくては、変かな?と思うのです。
なぜ変なのかが分かりません。
> つまりプログラムされて幻のように起こってる事象、それに気づいてるプログラムされてない意識。これは分離であり、これの主張はできないのでは?
分離していても無関係ということは無いと思いますが?
起こっていることに気づいているということは、関係しているということです。
> 一般的に、全ては関係しており、無関係ということはない。ということは言えますが、ここで話してることと違うテーマで話されて、意味のすり替えが起きてるような気がします。
具体的にどのようなすり替えが起きているのでしょうか?
> >全ては、その人の中で起きているのかもしれません。
> これも説明しますと・・・これは、世界が勝手に起きてるだけ、という意見に対して、人と世界の共同作業だよ、と言ったのですが、今度は、総てがその人の中で起きてるのかもしれないとなったので。
人と世界と双方に自由意志があれば、共同作業と呼べるでしょう。
私は、どちらにも自由意志が無いと思っていますので、起きているという立場を取ります。人というのは自我というアプリケーションと考えており、自我である自分は世界の中に存在しているとプログラムされていますが、実は世界が自分である自我というアプリケーションの一部かもしれないということです。
> おそらく全体の印象ですが・・・ゆらぎさんは、シミュレーション仮説というより、独我論に近いのでは?
「真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎない」とする立場を独我論とするならば、違うと思います。
自我は実在ではなく幻想だと思っていますから。
しかし、現象界において、自我は恐らくそのように(独我論に似たシステムに)プログラムされているかもしれません。
No.7016 - 2019/10/07(Mon) 21:26:10
☆
Re:
/ hato
引用
秋の夜長。休みも2日目となると、夜更かしは、早起きのようなものです。ubik0101さんも、新しく買った、高枝切鋏みの袋をしょって、「これ、長い釣り竿入れに使えるな、」と喜んだりしています。
>人が観測して物理学が成立しているのでなく、観察効果という現象を発見したということです。RPGと同じで、人が見ている場面しかリアルに描かれていないかもしれないということです。もしかすると、触感があるところだけ粒子化されていて、見ているところは波動、つまり色だけで成り立っているのかもしれません。
人が観測して、物理学 は成立していますよ。いずれにしても、世界を見ることですら、人は世界に関与しています。ゆらぎさんのお話しだけでも、十分にそれがわかります。
>つまり、「本来の自己」ということですね。
>そうなると、範囲が広すぎて話が噛み合わなくなるのも理解出来ました。
人、という不可思議については、自我・真我、どちらでも。人は人。でいいと思います。
>信用していればそうでしょうが、信用なんかしていませんよ。基本スタンスは、「形而上的なことは分からない」です。シミュレーション仮説は、どんな哲学や宗教よりも私にとって合理的なので、そうかもしれないと思っているだけです。
合理的と思えるほど、信用されていたのでしょう。それを以て、自由意志がない、と腑に落ちられたのですからね。それはおいておくとして、
>このように論議していて、破綻が明らかになれば、いつでも捨てます。
いつか響くといいと思うのですが、ここは不可逆です。破たんは明らかです。人、その不可思議ということを、現象的、物理的観測の見地から、網羅するとの意味で、得ることは、不可能です。というより、そこに意義がないだけです。もちろんこれは、自己探求の上での話です。よく自己を見据えていれば、わかると思います。
>自我を守るというのは、自我がそうプログラムされているからです。自我は幻想であり、「本来の自己」とは異なります。私はそれに気が付いたので、自我に何が起きるか、見守っている状態です。ですから、感情は動きますが、悩まなくなったのです。
ゆらぎさんはおそらく、なにか利己的に働こうとする作用を、自我としてみていらっしゃるということですね。そうした衝動を、行動に起こさずやり過ごす、ということですね。として、じつはその、見守ってる状態のほうが、問題。ではないでしょうか?
まず自我は、ちょっとある、・・一部ある、・・というものではなく、その自我ならば、人が、自我です。ここで言うところの、変容の可能性を秘めてる、自我です。
その、いずれ変容するであろう自我は、現象として、と敢えて言ってみますが、変容を経て、状態が変わります。自己になるとここでは言っています。はじめの頃、書いたかも知れませんが、
人が生まれて自我が芽生えますと、通常は、「自分があって世界がある・・」という向きを主とした有り方を生きます。そこから変化を経て、「世界が起きて自分が有り、」・・また、「その双方向での有り方、」・・と、何を言ってるか不明かも知れませんが、自我の変容とは、実際はこのような、人としての意識の向きと閾値の変化を言います。とても微妙なところです。
意識のされ方が上記の、一方通行の場合(自我の場合)、意識上に於いての、ある、ない、どちらかに偏ります。これはまだ、不可知に対峙してないからと言えます。この場合はどうしても、理解の内容に、そのことが表れてきます。意識が捉えられない、未知に根差していないことが表れるのです。
また、或いは。認識されず、変容を(程度は別にしても)経験されていることがあります。これはすこし困難です。意識がそのことを学んでいないために、おかしな状態、理解になってしまう、妙な信仰に入ってしまう、人がいます。そうであれば、ここは一歩一歩、真実を理解する意志を持って進む、必要があると思います。でないととても、混乱した人生になります。
意識は、そのことを理解するまでに時間がかかります。なにか別のことに意識が捕らわれることも、多くあるかも知れません。大変に微妙で、困難なところでもあると思います。
人の状態はさまざまにあるようで、一概には言えません。それでも、もし人が、「正しい悪いはない・・・」との理解で済ませてしまうなら、もしかしたら、チャレンジしてみるのは、いいかも知れません。善悪どちらか・・・でない、善い。こんな表現もできます。そのことを経験されていても、理解されていなければ、健全に生きるのは困難です。なので、経験の有無、いずれにしても、口笛を吹いてさあ、進もう!という・・
これはチャレンジ、と思います。
No.7017 - 2019/10/08(Tue) 03:37:41
☆
Re:
/ ubik0101
引用
なんであれ、起こってる事象も、自我も、真我も、神も、ない、ということも、だだ気づいてる意識が自分、ということも、そう設定されてるのだ。ということなら、その世界観に破綻はないと思うのです。気づいてる意識も、それを自分で変えるという意味では自由にはならないのでしょう?
そこで、シミュレーション仮説で、その設定者は不在、ない、としたら、不整合でしょうか?これはこれで、どこにも拠り所がなく、面白いように感じます。また、その設定者は、実在、ある、というより、その解き解れ・・・もちろん説明概念です・・・わりと世界の現状に近いように思います。
ずーと、ずーと昔。黒幕がいて政治家を操ってるかもしれないと思い勝手に憤慨しました。でも、なんだ、そうじゃなくて・・・ただ人が愚か(失礼)なだけなんだ。それがこの混迷の現状なんだ。そう気がついて、スッキリし、思想とか主義、そんなことに興味を失いました。
たとえば挨拶するだけで・・・とは、形而上なことではなく、具体的なことに思います。それで人間関係が変化し、不仲になり、また誰かの捨てたタバコの火で山火事になったりします。これも、ただ起きてると言えば、起きてることなのでしょう。人が起こしてると言えば、そうなのでしょう。どうして同じことが解釈が分かれるのでしょう。責任の所在でしょうか?
また繰り返しますが・・・なにか起こった事実を二度見してるように思えます。そして、ああこれは、そう決定されていたから起きたのだ。と判断してるのではないでしょうか。これも繰り返しますが・・・そして、その思考も起きるように起きてるだけ・・・ということは思考を二度見してませんか?・・こちらは、その意識がなくて、思考したり働いたりしています。
というのも、二度見しないと、いかなる世界観も起きないです。この世界は現象界とします。すると、自由意志はあるでもないでもない、というのが普通と思います。プログラムされても、されてないでもない・・・なんでもありなんですが、それでもある程度の秩序はある。見える聞こえる思考できる・・・不思議です。
そいえばユーチューブで、私は悟った。だから仏陀だ。世界は1つしかない。ほかのこととの比較ができない。だから世界は空だ。とか言ってるのがありました。自性を空だ、と言ってるようにも思えますが・・・いくたの世界観があり得るというのは、なんか世界の透明性を感じます。いかなる個別の世界観がないというのが、自分にとっては簡単で美しいのです。
ところで、素粒子の振る舞いは、観察されるまで分からない・・・観察されるされないで、変わるとします。この場合、観察者は観察されるのでしょうか?観察者とは何?それが問題にされないと、なんか研究のような気がしないのです。これは物理学?ではどう考えられてるか、知っていますか?
全ては関係しており、無関係ということはない・・・と言っても、ただ気づいてる意識は、シミュレーションされてない・・・とかのテーマで話してたのですから・・・シミュレーション仮説でなくても、ふつうに事象に気づいてる意識は全ては関係しており、無関係ではない、でしょうから、シミュレーション仮説とは関係ない話を持ちだした?と感じました。
いろんな定義がありでしょうが、自我には自性がないのに、自性があると見なすのが、独我論とも言えると思います。
No.7018 - 2019/10/08(Tue) 06:30:23
☆
Re: 二度見と
/ 勘太郎
引用
思考も起きるように起きてるだけ・・・ということは思考を二度見してませんか?・・こちらは、その意識がなくて、思考したり働いたりしています。
> というのも、二度見しないと、いかなる世界観も起きないです。
二度見とは、自分の心を振り返って眺めることでしょうか。
ふむふむ・・・。おらの日常です。
これをしないで、おくと無思考になりますと書いたけれども、この無思考になると解ることは、すでに二度見しています。 ああ、さてどうしたものか・・・・。です。
無思考を探るっているのが、おら。2枚向き合った鏡の中心で鏡を眺める自分。自分の鼻先に結んだ人参を追いかける馬。
> いろんな定義がありでしょうが、自我には自性がないのに、自性があると見なすのが、独我論とも言えると思います。
自性がない=シュミレーションとも感じられます・・・
自性がないから、自由意志で動き成り行き任せ。出たとこ勝負。シュミレーションではなく、でたらめーしよん、とも思えます。
カボチャの出来が悪かったです。100個以上採れる計画が20個くらいでしょうか?それでもほくほくして美味しいです。トウモロコシは、昔の品種で8列キビ。馬に食べさせたので馬キビとも言います。いまのところ害獣にも捕られずなんとか収穫できています。それだけ美味しくないということなんでしょう。粒を剥がして煮て昔の人の生活をしのんでみたいと思っています。本来は粉にしてたべるのでしょう。
No.7019 - 2019/10/08(Tue) 15:37:21
☆
Re:
/ ubik0101
引用
そうです。二度見しなければ即今もないです。即今も説明概念です。無思考もないです。あたりまえの日常です。これが神秘です。その神秘もなくて、万歳です。どうしても合わせ鏡にはならないのですが、なるとすれば、自分の根拠が自分ではないからかもしれません。自分が自分に距離があるかもしれません。
おなじことですが、自分が自分の根拠、背景なら、自分は自分で知覚されないので、私はない、です。私がないということは、私が私であるということです。この世界の背景、基底は私です。その基底がない、です。世界が、森羅万象が虚空に浮いてる感覚です。もちろん、これもなくても、万歳。見てる聞いてる話してる普通の日常がそうです。
こんな細いトウモロコシは初めて見ます。かぼちゃ、適当な大きさに切って、鍋に重ならないように皮を下にして並べ、かぼちゃの高さの半分くらいになるように煮汁を加えて蓋をします。着火。ぐつぐつ沸騰を始めたら5分で消火・・・予熱で火を通します。冷めてる間に味がしみます。まったく煮崩れせず、ホクホク感ありです。
No.7020 - 2019/10/08(Tue) 17:53:21
☆
Re: 私は無いで、私は私である。
/ 勘太郎
引用
「私は在る」ですかね。
これもなくても、万歳。実ってる聞いてる話してる普通の日常がそうです。・・・これから逆算すると。
二度見していないで生きて行く、でしょうか。
そうなんです。おいらでも、起きている時間の多くを二度見しないで、過ごしています。あれどうだったと過去を振り返れば、過去は記憶に在りません。情景の記憶はありますけれども、その時の自分の記憶はありません。 後から情景を想像しているだけです。
自分が無いまま、安心して、暮らして行きます。
先ほど、禅のページに時間は未来から過去に流れるという方が適正なのではないか」とありました。
過去は未来(現在)により上書きされるから、未来から過去に移動する。理性においてもなっとくできます。毎度おなじみの喩です。今ある人を好きになれば過去未来全て好きになり。気移りして嫌いになれば、全時間共に嫌いになる。
カボチャ今蒸らしています。楽しみ・・・うふふ
No.7021 - 2019/10/08(Tue) 19:48:52
☆
Re: うふふ ・・・美味しく煮えました。
/ 勘太郎
引用
明日のお弁当兼おやつ。
苦しみが無くっなったら、苦しみは無くってないです。忘れてるだけです。二度見しない限り、苦しみは無いと云えないですから。ここには分離がありますから、鈴がなります。
さて、苦しみを無くすには・・・どうしたものか・・・。
眠ったら、無いのですけれども。目が覚めたらまた苦しみます。
おやすみなさい。
眠るのは楽しみです。
No.7022 - 2019/10/08(Tue) 20:49:03
☆
Re:
/ ubik0101
引用
こちらも時間は前から後ろです。過去から未来というのは思ったことさえありません。たしか歴史の教科書などでは、古代、近代、現代だったような気がします。それは積み重ねとか、進化、変化、因果の順を説明するためなのでしょうか?そんなことより、これから事実として、どうするか?だけが大事と思います。
そいえば・・・スーフィーでは、たとえば今日、昨日、一昨日、一ヶ月前、一年前、十年前・・・というように現在から順に過去に向って記憶を点検する訓練があると聞いたことがあります。
悩まないのは簡単です。愚かでなくあればいいだけです。というのも、自分が愚かだったから、悩みになるような言動をしてきたのだから、悩んでるのではないでしょうか?その原因がなくなれば、オールクリアです。悟りとか呼ばれる体験が、劇的に効果あります。過去を振り返らない強さも求められるかもしれません。
No.7023 - 2019/10/08(Tue) 23:03:44
☆
Re:
/ hato
引用
うちの2描です。
No.7024 - 2019/10/08(Tue) 23:23:34
☆
Re:
/ hato
引用
裏の小さな丘に咲くノアサガオです。夕方にはピンク色に変わります。
No.7025 - 2019/10/08(Tue) 23:25:37
☆
Re:
/ ゆらぎ
引用
hatoさん
> >人が観測して物理学が成立しているのでなく、観察効果という現象を発見したということです。RPGと同じで、人が見ている場面しかリアルに描かれていないかもしれないということです。もしかすると、触感があるところだけ粒子化されていて、見ているところは波動、つまり色だけで成り立っているのかもしれません。
> 人が観測して、物理学 は成立していますよ。いずれにしても、世界を見ることですら、人は世界に関与しています。ゆらぎさんのお話しだけでも、十分にそれがわかります。
失礼しました。「観測されている時には、粒子性を示す」という話のレスだったので、hatoさんの言われる観測とは観察効果のことだと勘違いしました。物理学が観測により確証を得てきたのは間違いないと思いますが、理論物理学など、最近は観測できないものが主流だと思います。
> 人、という不可思議については、自我・真我、どちらでも。人は人。でいいと思います。
自我と真我は全く違うのですが?
自我は認識出来ますが、真我は認識できません。
> 合理的と思えるほど、信用されていたのでしょう。それを以て、自由意志がない、と腑に落ちられたのですからね。それはおいておくとして、
申し訳ありませんが、全く信用していません。形而上の問題は、「分からない」です。そして、それを以って自由意志が無いことが腑に落ちたのではありません。自由意志が無いことが腑に落ちたのが先です。私の日常からは、問題はあっても苦しみはなくなりましたが、シミュレーション仮説に出会った時には、既にそうなっていました。「自由意志が無い」ということは信じていますよ。自分で認識出来ますから。
> >このように論議していて、破綻が明らかになれば、いつでも捨てます。
> いつか響くといいと思うのですが、ここは不可逆です。破たんは明らかです。人、その不可思議ということを、現象的、物理的観測の見地から、網羅するとの意味で、得ることは、不可能です。というより、そこに意義がないだけです。もちろんこれは、自己探求の上での話です。よく自己を見据えていれば、わかると思います。
何が不可逆なのでしょうか?
どうして、破綻が明らかなのでしょうか?
不可思議であるならば、そもそも得ることなど出来ないのでは?
なぜ、意義がないのでしょうか?
申し訳ありませんが、説明して戴かないと全く分かりません。
時間が無いので、続きは別途とさせて下さい。
No.7030 - 2019/10/10(Thu) 05:59:13
☆
Re:
/ ゆらぎ
引用
hatoさん
続きです。
> ゆらぎさんはおそらく、なにか利己的に働こうとする作用を、自我としてみていらっしゃるということですね。そうした衝動を、行動に起こさずやり過ごす、ということですね。として、じつはその、見守ってる状態のほうが、問題。ではないでしょうか?
これも全く違います。自我とは、肉体と自然に起こる思考や感情を自己同一化しようとするアプリケーションです。そして、考えるより前に決断するということが起こるようになってからは、衝動もわいて来なくなりましたので、やりすごす必要もなくなりました。見守ることなどせず、どんどん進んで行きます。ですから、hatoさんの言われる問題は起こりようがありません。
> その、いずれ変容するであろう自我は、現象として、と敢えて言ってみますが、変容を経て、状態が変わります。自己になるとここでは言っています。
自我の状態がどう変わると自己になるのでしょうか?
> 人が生まれて自我が芽生えますと、通常は、「自分があって世界がある・・」という向きを主とした有り方を生きます。そこから変化を経て、「世界が起きて自分が有り、」・・また、「その双方向での有り方、」・・と、何を言ってるか不明かも知れませんが、自我の変容とは、実際はこのような、人としての意識の向きと閾値の変化を言います。とても微妙なところです。
意識の向きとは何でしょうか?
閾値とは、何の閾値でしょうか?
> 意識のされ方が上記の、一方通行の場合(自我の場合)、意識上に於いての、ある、ない、どちらかに偏ります。これはまだ、不可知に対峙してないからと言えます。この場合はどうしても、理解の内容に、そのことが表れてきます。意識が捉えられない、未知に根差していないことが表れるのです。
上記の一方通行とは、何を指しているのでしょう?
意識上に於いての、ある、ないの対象は何でしょうか?
なぜ、偏るのでしょうか?
意識が未知に根差すとは、具体的にどういうことでしょうか?
> また、或いは。認識されず、変容を(程度は別にしても)経験されていることがあります。これはすこし困難です。意識がそのことを学んでいないために、おかしな状態、理解になってしまう、妙な信仰に入ってしまう、人がいます。そうであれば、ここは一歩一歩、真実を理解する意志を持って進む、必要があると思います。でないととても、混乱した人生になります。
意識がそのことを学んでいないの、そのこととは何でしょうか?
おかしな状態や理解とは、どんな状態や理解でしょうか?
妙な信仰とは、具体的にどのような信仰でしょうか?
真実を理解する意志を持って進んでも、何が真実か分からないと思いますが?
> 人の状態はさまざまにあるようで、一概には言えません。それでも、もし人が、「正しい悪いはない・・・」との理解で済ませてしまうなら、もしかしたら、チャレンジしてみるのは、いいかも知れません。善悪どちらか・・・でない、善い。こんな表現もできます。そのことを経験されていても、理解されていなければ、健全に生きるのは困難です。なので、経験の有無、いずれにしても、口笛を吹いてさあ、進もう!という・・
> これはチャレンジ、と思います。
健全に生きるということは、どう生きることでしょうか?
私は冒険という言葉を使います。
毎朝、目が覚めれば冒険の始まりです。
質問ばかりで申し訳ありませんが、私はhatoさんの言われることを理解したいのです。以前も書きましたが、今のままでは、全くのお手上げです。
No.7033 - 2019/10/10(Thu) 18:35:27
★
口笛を吹きながら
/ ゆらぎ
引用
>いわゆる眼が覚めていれば気絶してないという意味で意識があるという意味での意識。これは自我とは思えないのが普通かもしれません。こいう私も、その意識がある私が自我とは気がついてもいませんでした。
そうなんです。
「気づいている意識」に気づいているのも自我です。
そして、それは脳の一つの機能であり、そのようにプログラミングされているのかもしれません。
>この世界からの解脱・・・♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう。この日常に総てあります。
考え方や表現は違いますが、この日常を肯定し、全てを受け入れて、目の前の起こったことに対して真摯に一所懸命に取り組み、結果はさほど気にしないという点において、ubik0101さん、hatoさん、勘太郎さんと共通していると思います。
そして、それが「♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう」ということだと思うのです。
hatoさん
> 頭が大きくて、頭内がゆったりしており、神経にさし障ることがないとか、・・でしょうか。頭痛がないて、なんと羨ましいの☺。うちは、頭の大き目なubik0101さんも、小さめな自分も、頭痛はしょっちゅうで、この手の薬もしょっちゅう、使います。🙏
確かに、私の頭は大きいです。(笑)
家内は小さいのですが、二人とも頭痛がないのです。
>ドンマイ!三歩進んで二歩下がる。気を取り直してさあ進もう!未知なる道を、どんどん行こう!と思います。
私も全く同じ思いです。
> ubik0101さんが、「どこま〜でも、行こう〜、みちは〜・・」と嬉しそうに歌ってます。ときどき、庭でじょうろに水を汲みながら、一所懸命歌ってる・・ことが、あります。👀 👀 👀
私もギターを弾きながら、時々歌います。(笑)
No.6995 - 2019/09/29(Sun) 07:43:06
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ubik0101
引用
たぶん・・・意識のありさまは自我ではなく、世界の構成要素であり、問題なくて・・・その人が実は自我そのことで・・・たとえば、意識のありさまが自我だとしていうことにして了解し・・・自我が完成される。のかもしれません。
No.6996 - 2019/09/29(Sun) 08:54:32
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ hato
引用
虫の声がちょっといい夜です。秋、いい時期ですね。
>考え方や表現は違いますが、この日常を肯定し、全てを受け入れて、目の前の起こったことに対して真摯に一所懸命に取り組み、結果はさほど気にしないという点において、ubik0101さん、hatoさん、勘太郎さんと共通していると思います。
>そして、それが「♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう」ということだと思うのです。
ゆらぎさんは既に、世界は決定されたもの、と観念されていますね。お話しを通して、そこは頑なに死守されているように感じます。そこから世界を確認して、心の安定が生まれてる・・感じがします。
なにか人が安心できる、精神性。宗教でも、信条でも、船を漕ぐオールは、あってもいい。・・けれど、掴んだら手放し、いったん掴んで、手放し、大きく放って・・・どこまでも、行こう。果てしなくとも、・・・それが、探求の有り様です。決定されたなにかに、安堵しない・・できない・・・道はけわしくとも、口笛を吹きながら・・歩いていこう。です。
>変容が起こったということは、そうプログラムされていたということです。
人は、自分から発心、努力します。世界は起こるとして、人も、起こしていく、です。ですので、正しい発心、はとても大切です。世界に意志を発信する、そんなことです。人から閉ざしてしまったら、・・・というよりは、自己を探求しようとした人ならとしか言えませんが、残念なことではないでしょうか。そうでないなら、・・とくに。問題ないのでしょう。
蛙が鳴いてます。すこし、雨が降るのでしょう。
No.6998 - 2019/09/30(Mon) 00:46:49
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ゆらぎ
引用
ubik0101さん
> たぶん・・・意識のありさまは自我ではなく、世界の構成要素であり、問題なくて・・・その人が実は自我そのことで・・・たとえば、意識のありさまが自我だとしていうことにして了解し・・・自我が完成される。のかもしれません。
自我は、どうなれば完成されたと言えるのでしょうか?
hatoさん
> ゆらぎさんは既に、世界は決定されたもの、と観念されていますね。お話しを通して、そこは頑なに死守されているように感じます。そこから世界を確認して、心の安定が生まれてる・・感じがします。
「ある時点において特定の原子の位置と速度がわかれば、情報を分析することでその原子の未来の運動を予測することができる」、つまり世界が数学的に記述できるということは、ビッグバンの時から世界は決定していることです。決定論を私が肯定し、hatoさんが否定することが起こることが決まっていたということです。
それに、私は「すべきものは何もない」という立場であり、死守するものもなければ、死守する必要もないのです。
そういう類の重荷が、なくなって楽になったのです。
心の安定が生まれているのは、その通りです。
小説にしても映画にしても、そしてRPGにしても、決まっていないものはなにひとつありません。それらが面白く、ワクワクするのは、どう決まっているかを知らないからです。RPGの同じキャラクターを私とhatoさんが操作すると、必ず違うストーリーになるように、決まってはいても多様性はあります。
決まっているなら、あれこれ考える必要もありません。考えると、自分の利益に目が行き、自分のやりたかったことと違う方向に行ってしまいます。
「何をやってもいい」と言っても、自由にできることはありません。自分の信念に従って選択することしか出来ないのですから、悩む必要が無くなりました。選択に悩む必要が無くなったので、逆に自由になったのです。
> なにか人が安心できる、精神性。宗教でも、信条でも、船を漕ぐオールは、あってもいい。・・けれど、掴んだら手放し、いったん掴んで、手放し、大きく放って・・・どこまでも、行こう。果てしなくとも、・・・それが、探求の有り様です。決定されたなにかに、安堵しない・・できない・・・道はけわしくとも、口笛を吹きながら・・歩いていこう。です。
私には、hatoさんの方が「成長したい」「成長しなければならない」という重荷を手放していないように見えます。
> 人は、自分から発心、努力します。世界は起こるとして、人も、起こしていく、です。ですので、正しい発心、はとても大切です。
発心も自分が起こしているのではなく、起こっています。
全てのものを比較検討し、決めたのではありません。
自分の心に浮かんで来たものしか、選択出来ません。
そして、それは自分という自我の特性から選択が起こっているのであり、正しいも間違いもないのです。
No.6999 - 2019/09/30(Mon) 06:14:28
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ubik0101
引用
自我は虚構です。世界の構成要素、物質、知覚、感情、意識によって作られる、仮の自己です。その中心は、ない、です。ない、が、どうなる、こうなる。というのではないです。
そこで、たとえば。初めから、ない、のだから、そのままでいいいんだよ。という意見も成立します。それはそれで、そう言い得ることができるのですし、そうありえることができるのですから、そんな世界なので、そのことに何の問題も見いだせません。もっと簡単に言うと、いろんな人がいるね、です。
こちらも、いろんな人のひとりです。たとえばですが・・・学ぶことはない、そのままでいい、悟りはない・・・それは、自己の言うことではなく、世界の構成要素の言うことであり、自我の言うことです。と、言います。
どんな世界観、意見だって、それに突っ込むことはできるでしょうし、また逆、それが間違ってないという、理由も説明も、そうできなくても、ただ言い張ることもできるのではないでしょうか。誰と誰であれ、意見の違いで対立しても、しかたないでしょう。
ここで探ろうとしてることがあります。なにか体験が起こります。瞬間的な、突然の成長、変化に思えます。そして一方、なにも変わらない、ということも言えるかもしれません。
どっちでもない、です。どっちでも、間尺に合わない、整合性がないのです。この掲示板の表題ですが・・・世界は触媒、です。まあ、このことを上手く言えたらいい・・・ぼつぼつ探っているのです。
No.7000 - 2019/09/30(Mon) 07:08:47
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ubik0101
引用
うまく言えるかどうか、説明してみます。
あくまで喩えですが、交通事故を起こした。それは車の性能、交通状況、いろいろあるでしょう。でも一般的には、運転者が、問題です。私は車を運転しない、私の乗ってるのは自動運転だから、私には問題ない、でもいいのですが・・・順列組み合わせで、車が問題、人が問題、ともに問題。ともに完璧・・・ともに完璧、なら事故は起きないかもしれません。それ以外は事故になる可能性があるでしょう。
実際には事故が起きても心理的な問題にする必要は無いです。病気、不愉快な出来事、できるだけのことをやればいいだけです。そうなのですが、完璧な人が、この世界に生まれるでしょうか?人が自我でなくて、この世界に生まれるでしょうか?また逆に世界が不完全でないなら、なにか人が暮らす必要があるでしょうか?人/世界、ともに完璧なら、それはある意味シュミレーション世界かもしれません。
解脱とは喩えではないです。この世界から解かれて、この世界を解いて、脱することです。それには世界の総ての活動が必要、ということです。病気も健康も、貧乏も、善悪も、怠惰も努力も、総てが活動してるから、総ての光の色が重なると透明なように、世界は透明。そんな構成要素の活動で、それ事態は変わらない、けど、あれかこれかどれかではなく、総活動で・・・違うかもしれませんが、仏教では、無字、隻手と言われてることかもしれませんが・・・世界は人を覚醒させる触媒です。
No.7001 - 2019/09/30(Mon) 18:36:26
☆
Re: 僭越ではありますが、触媒をてこ
/ 勘太郎
引用
バネ・不満の圧縮・鍵の無い金庫と言い換えてみました。
、鼻先にぶら下がった人参を追いかける馬が走り廻る馬場・絵が描かれていない透明の字で書かれているレシピ本の図書館。(「「@:又猫が足で打ちました)
昨日はにんにくを植えました。食べるのはそんなにすきではありませんけれども、ニンニクを縛って干してある風景が好きです。
砂糖漬けにしたニンニクがそろそろ食べられるかもしれません。
No.7002 - 2019/09/30(Mon) 20:49:03
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ubik0101
引用
こちら、にんにくは不可欠です。とくにパスタ・・・フライパンを使って、サラダオイルで刻みニンニクを軽く焦がして、そこに固めに茹でたパスタを投入します。さらに、おたま一杯(二人分なら、おたま二杯)の茹で汁を加えて、昆布茶(コンソメなどでも可)、サラダオイルまたはオリーブオイルを回し掛け加熱しながら・・・菜箸などで素早く掻き混ぜ、とろとろに乳化させます。これだけで美味。アラビアータ、イカスミソース、トマトレモンソースなどで供します。
ニンニクは水に浸けると皮が剥きやすいことを発見しました。ニンニクの砂糖漬け、それは初めて聞きました。
No.7003 - 2019/09/30(Mon) 22:20:30
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ hato
引用
さあ!相容れないことがあるとしても、なぜかここで出会って分かち合う、それがいい、て思います。
変化、変容、成長、は自分には、既に必然で害もない、・・どちらかといえば、世界でそれを生きるための、ある種体力作りのような、人生そのものが負荷であり、ちょっと楽しみ、との感じです。
自分は、世界は起こり、・・人は起こす、・・という、その未知を生きる、です。
涼しい秋の夜長。仕事をしたり、お茶を飲み、2人ともゆっくり過ごしてます。こちら、うちの2描です。
No.7004 - 2019/10/01(Tue) 01:21:44
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ 勘太郎
引用
おいらの段階でも、心探しは、どんどん進むように感じられます。加速度的に深まっている様に感じます。ベルトコンベアの上で走っている様なもので進んでいないのかもしれません。
ではあっても、どこまでも行こうです。
ニンニクの砂糖漬け
本当ははちみつ漬けです。はちみつと称して売っている水飴に浸けて66666666666666みました。はじめ浮かんでいたニンニクが沈んできましたので、そろそろ食べてみます。
No.7005 - 2019/10/01(Tue) 15:19:06
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ hato
引用
66666666666666・・・も猫っちの仕業なのでしょうか。勘太郎さんのそばにいるのが、嬉しいんでしょうね。
ニンニクの蜂蜜漬け、贅沢な漬物ですね、とっても美味しそうです。ニンニク、なかなかいい値段ですが、よく使います。黒ニンニクを、使わなくなった炊飯器で(一カ月くらい保温するらしいですね、、)、見た目も臭いも凄いけど、美味しくて身体にいいといって、この辺りの人たちは自分で作るという話をよく聞きます。
爽やかな季節に入って、庭に曼珠沙華が咲き乱れてます。スズメバチがまだ多く、猫の庭散歩は注意してます。
No.7006 - 2019/10/01(Tue) 21:01:33
☆
Re: ゆらぎさんの感じ方は運命決定論
/ 勘太郎
引用
の様におもえるのです。違いはありますか?
猫に子供が産まれました。
2匹。あづかりねこ、獣医さんで保護後の健康診断で妊娠が疑われたので、経過観察の結果。お腹が膨らみ。ご懐妊!!!!
おとつい2匹産まれて、最初は親猫があまり授乳行為をしなかったので、おいらが、昨日乳首に子猫の口をあてがい、親猫が動かない様に撫で続けた結果授乳の仕方が解かったようで、落ち着いて子育てしているという感じです。
子猫の1匹の貰い手は決まっています。クリスマスころまで家で育てて、引き渡し。
今は猫がぶーむですから、貰い手はすぐに見つかるでしょう。
No.7007 - 2019/10/04(Fri) 13:22:41
☆
ほかの誰かのことを考えても空想ですが、
/ ubik0101
引用
ああでもないこうでもない、あああればいいこうあればいいという、いわゆる心理的思考は、空想の因果関係ではないでしょうか。
そこで、運命が決まってるなら、ほかの道筋はないのですから、もともと悩みようがないでしょう。
シミュレーション仮説を方便として、空想の因果関係を打ち消した、脱した。ということかもしれません。
たとえば・・・塩の味がなぜ塩の味なのか?そもそも味がなぜ味なのか?見えるということは、考えるということは?それはなぜそれ?感情が、意識が、素粒子が、重力が、自我が、自己が、神が、なぜそれなのか?・・・知らない・・・答えは簡単、そう設定されてるからだ。あるいは、世界はこの瞬間に開闢した。とかも、それだけなら、なにも破綻はないと思います。でも、それだけだとリアリティがないかもしれません。
しかし。気づいてる意識、自分は、設定されてないと特例にすると、その世界観が分裂し真実味を帯びるけど、複雑になるようです。
ところで。運命が決まってなければ悩む?と言えば、まったく悩まないです。決まってても、悩む必要がないです。たとえば人間関係と、なにか不快なことと、悩みが、因果関係にある必然はないのです。たぶん因果には、物事が決まってるも、決まってないも、共に問題外でしょう。
ところで貧乏、病気、過去の出来事、未来の出来事とか・・・状況は変わらなくてもその同じことに悩んだり悩まなくなることもあるでしょう。ということは問題は、状況、出来事、世界にあるのではなく、その人の変化・・・それは透明で見えないけど・・・ということも考えられます。
しかし、ここで、自分が変わった、変わらない、どちらを掴むのも、NGと思います。悩まないことに理由は不要です。
No.7008 - 2019/10/05(Sat) 18:53:26
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ hato
引用
運命決定論、初めて少しだけ調べました。自然科学者の間でも、論議が分かれているのですね。
そうとして、既に仮である仮説を以て、空想の因果を脱する?、・・・ことが、本来的に可能かはわからないと思います。起きてくる、思考や想念、感覚、現象、それをその人、足ることにしているその「人」がいての世界として、その世界(感覚、思考、・・現象・・)も、その人がそうある故にそのような世界とも言えるかも知れません。
また、そうでない、そもそも「人」などない、・・にただ偏向、であれば、なにか脱する必要もないでしょうが、実際人は、そのようなものではないと思います。
なにか絶対的な安心を与える信念、この意味での科学、宗教、信条・・・は、なにか保護膜のような・・感じになるのかな・・と思いました。
ご懐妊で2描増えてる!?可愛いでしょうが、大変ですね。勘太郎さんご家族の情の深さに、脱帽です。
No.7009 - 2019/10/05(Sat) 21:53:34
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ゆらぎ
引用
仕事が忙しくて、暫くお休みしておりました。
勘太郎さん
> ゆらぎさんの感じ方は運命決定論の様におもえるのです。違いはありますか?
運命論と決定論は定義に若干の違いはありますが、同じようなものですね。
シミュレーション仮説もシミュレーションされているのですから、決定論と同じでしょう。
しかし、決定論も非決定論も、どちらも、未来を知ることが出来ないのですから、生きることにおいては同じです。決まっているなんて面白くないと思っても、予測不能ですから、日々はドキドキ・ワクワクの冒険の連続であり、結構面白いです。
また、決まっているということは自由意志が無いということだから、自分に責任はない。だったら、悪いことでも何でもやってやる!と息巻いてみても、悲しいかなそんな思いは浮かんできません。これまでのように、真面目に生きるだけです。(笑)
ubik0101さん
> シミュレーション仮説を方便として、空想の因果関係を打ち消した、脱した。ということかもしれません。
確かにそうですね。あーだ、こーだ考えなくなりました。
今は、直感に従って素直に行動するだけです。
私の場合は、シミュレーション仮説を方便としてというより、自由意志が無いことが腑に落ちたから考えなくなったということです。
> 答えは簡単、そう設定されてるからだ。あるいは、世界はこの瞬間に開闢した。とかも、それだけなら、なにも破綻はないと思います。でも、それだけだとリアリティがないかもしれません。
自性が無いとした時点で、リアリティはありません。
> ところで。運命が決まってなければ悩む?と言えば、まったく悩まないです。決まってても、悩む必要がないです。
自分の意志で運命が決まるのであれば、悩む人もいるでしょう。
逆に、決定論を支持する人でも、悩む人はいるでしょう。
> ところで貧乏、病気、過去の出来事、未来の出来事とか・・・状況は変わらなくてもその同じことに悩んだり悩まなくなることもあるでしょう。ということは問題は、状況、出来事、世界にあるのではなく、その人の変化・・・それは透明で見えないけど・・・ということも考えられます。
その人の変化は、その人に何かがインプットされて内部処理が行われ、変化したのだと思います。そして、そのインプットは、状況、出来事によってもたらされたのだと思います。
hatoさん
> 運命決定論、初めて少しだけ調べました。自然科学者の間でも、論議が分かれているのですね。
不確定性原理をもって決定されていないとする人もいますが、観測されている時には、粒子性を示すということが確定しているのです。それが、シミュレーション仮説の根拠にもなっています。
> また、そうでない、そもそも「人」などない、・・にただ偏向、であれば、なにか脱する必要もないでしょうが、実際人は、そのようなものではないと思います。
それは、偏向ではないです。
自我は仮想であるとしていますが、真我を否定している訳ではありません。
私は、「人」を自我と定義しています。
ここが違っていると論議にならないのですが、hatoさんの「人」の定義は何でしょうか?
> なにか絶対的な安心を与える信念、この意味での科学、宗教、信条・・・は、なにか保護膜のような・・感じになるのかな・・と思いました。
絶対だと位置づけることにより、保護膜となって真実を隠してしまいます。
ですから、仮説としているのです。
No.7010 - 2019/10/06(Sun) 06:23:09
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ 勘太郎
引用
スマホから初めての投稿です。
自由意志とは、今のありように載って、不満が無いこと。
自由意志があると言っても、無いと言っても同じ結果
時間が無いと、そうなるのでしょうが、おらには解りません。
世界は、べた.のっぺらぼうで、同時にすべての体験がある。その中をブラウン運動、花粉が電子に押し飛ばされて勝手に動く、のように自由に動いているのかなあ?
No.7011 - 2019/10/06(Sun) 18:54:27
☆
Re: 口笛を吹きながら
/ ubik0101
引用
>確かにそうですね。あーだ、こーだ考えなくなりました。
>今は、直感に従って素直に行動するだけです。
>私の場合は、シミュレーション仮説を方便としてというより、自由意志が無いことが>腑に落ちたから考えなくなったということです。
もしかして自由意志がないということは、自分の意志は自分で決められない、変えられない、という意味でしょうか?それなら、因果のままにというより、因果として生きる私。ということでしょうか?それなら、誰かと挨拶する、しないだけでも、人は世界の運行を変えています。
また、この世界では、自由は不自由として現れる、です。こいうこと、あいうこと個別のことは不自由でしかない、それは、自由の現れだ、不自由が自由の証明だ。ということです。笑うこと、泣くこと、それはそれでしかないので、不自由だ、なんですが、そのことが自由の証明。ということです。
>自性が無いとした時点で、リアリティはありません。
ここは世界は、この瞬間に開闢したということが自性のあるないということではなく、世界と違う要素。その世界を見てる、その世界と分離した自分との関係がないと・・・その世界観に、リアリティがないという意味です。
> 自分の意志で運命が決まるのであれば、悩む人もいるでしょう。
> 逆に、決定論を支持する人でも、悩む人はいるでしょう。
たとえ運命が決まってても、決まってなくても悩まないというのは、誰かのことを話してるのではなく、私はこうだよ。ということです。おそらく赤ちゃんは悩まないでしょう。でも悩む可能性があった・・・
・・・そして悩まなくなった。悩む可能性もなくなった。架空の因果関係は、架空の人間関係です。その人が1人あれば、そもそも葛藤になる思考とかは知覚されないです。人が変わったと言っては違うし、変わらないとしても違うでしょう。
> その人の変化は、その人に何かがインプットされて内部処理が行われ、変化したのだと思います。そして、そのインプットは、状況、出来事によってもたらされたのだと思います。
なんにしても誰であれ、その人がいないと、変化するだろうと変化しないだろうと、そんなことは起きないでしょう。人と世界の共同作業ということです。分離と全体の共同作業とも言えます。変わる変わらないでもないその人は知覚され得ない、です。
No.7012 - 2019/10/06(Sun) 20:45:40
★
(No Subject)
/ hato
引用
ゆらぎさん、こんばんは。待望の休日が終わるって、はやいです。
>「成長した人」になろうとしているのではないですか?hatoさんご自身が、「成長していない今の自分」はわるいと思っているからではないですか?
体験は、数十年前です。変化については既に書きました。意識は、そのことをあとから学びます。人は人生ある限り学び、理解が整備される、深まることができる、というのはなかなかよくできてる、て思います。自分にとって、頑張って生きるというのは、この意味です。出来る限り、ここを深めたいのです。人からどう思われようが、これにとっては一大事です。
さまざまな喧騒のなかにも、日常ひとりあって静かに、しあわせです。生ある限り、喧騒も混乱も、世界と人との難も喜びも、頑張って生きると決めています。
人は、生まれたそのままでは未熟、というのは自然なことでしょう。それは、この段では、わるい、という範疇にないでしょう。また実際、このことが分離、という範疇にもありません。ただ人がもし、なるべくする変化を拒むとしたら、・・わるいのかも知れません。または、なるべくしない人も、・・あるかも知れません。
>そうでないならば、なぜ成長する必要があるのですか?
そして、成長とはどうなることですか?
終わりがあるのですか?
ひとつには、人は、そうでなければ、迷う可能性、を秘めているからです。
世界は膨大無尽蔵の様相、なんでもありです。なんでもあり、の様相を生きる必要がなくなる、ためです。ゆらぎさんは、もしこれからの人生に組まれてるプログラムに、ゆらぎさんが思うところの、悪、を為す展開が訪れたとして、喜んで行うのでしょうか?たとえば、自分を守るために嘘をつく、とか、・・そんなことです。プログラムは選べないのでしたね。人は、そこに従うだけ、というのがゆらぎさんのこれまでの言説です。
念のため、このスレッドで、ゆらぎさんは、
> 人はプログラムされておりません。プログラムされているのは、思考や感情や本能や感覚であり、それは人ではありません。プログラムされているから、起こすのではなく起きるのです。そして、勝手に起こって消えていくのです。
とお話しですが、すこし前のお話しで、ゆらぎさんは、
> このように話が展開されるというのは、初めからプログラムされてたのでしょうか?
との問いに、
> このようにしか展開できなかった、ほかの展開が選択できなかったということは、初めからプログラムされていたのでしょう。プログラムされていないことは、起こらないと思います。
こうして、人の対話の展開にまで、プログラムが関与している、とお話しです。人はプログラムされてないと言われますが、人はプログラムを生きるのですね。なら、プログラムされてないという、人に、なぜ変化、変容が不可能なのでしょうか?決まって起きてくる本能や感情や思考を生きるためだけの人なら、プログラムされているのと同じことです。ある意味、動物がそうではありませんか。この場合、人ならば、この意味での成長が必要では、と考えるのは自然なことです。
いま一度、今回の対話の、初めから、こちらで書いてることも含めて、じっくり、再読してみて頂くといいと思います。ゆらぎさんのお話しは、以前もすこし感じたかも知れませんが、微妙に、少しずつ、すり替わっていくところがありますよ。一貫性というのは、成長の果実です。
死んでなくなるのに努力してどうなんだ、という、生きてもいないところの結果が欲しいでしょうか?自分はとくに、気になりません。
そしてどうなるのか?
それは自身で生きてみないといけません。そうではありませんか。
No.6979 - 2019/09/25(Wed) 23:33:53
☆
Re:
/ ubik0101
引用
> > ムージは、思考の領域ではなく、知覚の領域にあれ。と話してるのでしょうか。
> 違うと思います。思考も知覚も幻想であり、勝手に起こって消えていくとしています。自分というのは、それらに気づいている意識であるとしか言っていないのでは?
>> ムージは、自我も世界もある。と言ってるようにも聞こえます。
> それらは幻想であると言っているのでは?
そのように言ってるようには聞こえませんが、そのように言ってるのだとして、もしかして気づいてる意識は、幻想ではない、ということですか?
ところで、思考や知覚だけではなく、人の行動、も勝手に起こって消えていくのでしょうか?
ゆらぎさんは、この世界は、出来そこないの神のつくったプログラムで、それに気が付かないのは、バカみたいに騙されてるのは、問題だ。と言ってるのでしょうか?
No.6981 - 2019/09/25(Wed) 23:42:18
☆
Re:
/ ゆらぎ
引用
hatoさん
> 人は、生まれたそのままでは未熟、というのは自然なことでしょう。それは、この段では、わるい、という範疇にないでしょう。また実際、このことが分離、という範疇にもありません。ただ人がもし、なるべくする変化を拒むとしたら、・・わるいのかも知れません。または、なるべくしない人も、・・あるかも知れません。
生まれる、つまり思考や感情を自己同一化し、他と分けることが分離です。
しかし、何度も言うように、分離は悪いことではありません。
> >そうでないならば、なぜ成長する必要があるのですか?
> >そして、成長とはどうなることですか?
> >終わりがあるのですか?
> ひとつには、人は、そうでなければ、迷う可能性、を秘めているからです。
迷うべくして迷うのであり、悪いこととは思えませんが?
> 世界は膨大無尽蔵の様相、なんでもありです。なんでもあり、の様相を生きる必要がなくなる、ためです。ゆらぎさんは、もしこれからの人生に組まれてるプログラムに、ゆらぎさんが思うところの、悪、を為す展開が訪れたとして、喜んで行うのでしょうか?たとえば、自分を守るために嘘をつく、とか、・・そんなことです。プログラムは選べないのでしたね。人は、そこに従うだけ、というのがゆらぎさんのこれまでの言説です。
思考や感情や行動は起こることであって、行うことではないと言ってるのですが?
> > 人はプログラムされておりません。プログラムされているのは、思考や感情や本能や感覚であり、それは人ではありません。プログラムされているから、起こすのではなく起きるのです。そして、勝手に起こって消えていくのです。
> とお話しですが、すこし前のお話しで、ゆらぎさんは、
>
> > このように話が展開されるというのは、初めからプログラムされてたのでしょうか?
> との問いに、
> > このようにしか展開できなかった、ほかの展開が選択できなかったということは、初めからプログラムされていたのでしょう。プログラムされていないことは、起こらないと思います。
> こうして、人の対話の展開にまで、プログラムが関与している、とお話しです。人はプログラムされてないと言われますが、人はプログラムを生きるのですね。なら、プログラムされてないという、人に、なぜ変化、変容が不可能なのでしょうか?決まって起きてくる本能や感情や思考を生きるためだけの人なら、プログラムされているのと同じことです。ある意味、動物がそうではありませんか。この場合、人ならば、この意味での成長が必要では、と考えるのは自然なことです。
変容が起こることが不可能とは言っていないと思いますが?
変容が起こったということは、そうプログラムされていたということです。
それに、「プログラムされているのは、思考や感情や本能や感覚であり、それは人ではありません」と書いています。
hatoさんが言われている成長が、変容のことであれば、理解できます。
しかし、変容するのは自分ではありません。
「人」の定義を使い分けてしまった私が悪いのですが、このスレッドの「人」とは自分のことであり、起こることは変容しても自分は変容しません。
> いま一度、今回の対話の、初めから、こちらで書いてることも含めて、じっくり、再読してみて頂くといいと思います。ゆらぎさんのお話しは、以前もすこし感じたかも知れませんが、微妙に、少しずつ、すり替わっていくところがありますよ。一貫性というのは、成長の果実です。
上記の通り一貫していると思いますが?
言葉というのは、いろんな意味を持つと共に、人によって言葉から受けるイメージが異なるため、丁寧な説明が必要だったと思います。
そこのところは、申し訳ございません。
> 死んでなくなるのに努力してどうなんだ、という、生きてもいないところの結果が欲しいでしょうか?自分はとくに、気になりません。
> そしてどうなるのか?
> それは自身で生きてみないといけません。そうではありませんか。
別に結果が欲しいとは思いません。
hatoさんは結局どうなりたいのかな?と思った次第です。
ubik0101さん
>そのように言ってるようには聞こえませんが、そのように言ってるのだとして、もしかして気づいてる意識は、幻想ではない、ということですか?
> ところで、思考や知覚だけではなく、人の行動、も勝手に起こって消えていくのでしょうか?
そうです。
思考や知覚だけではなく、人の行動、も勝手に起こって消えていきますが、気づいてる意識は、生まれてこのかた不変です。
> ゆらぎさんは、この世界は、出来そこないの神のつくったプログラムで、それに気が付かないのは、バカみたいに騙されてるのは、問題だ。と言ってるのでしょうか?
問題だとは言っていません。
どんな悲惨な内容の小説でも、だれも問題だとは言はないでしょう。
何故なら、フィクションだからです。
No.6982 - 2019/09/26(Thu) 06:28:11
☆
Re: おいらの書くことは、皆でたらめです
/ 勘太郎
引用
おいらは何にでもくっ付いてしまいますから、なんの信頼もできません。自分でも信頼していません。
世間が右と云えば、やや左、左と云えばやや右のへそ曲がり。
お金が一番だと言われたら、欲しいけれど、本当はお金というモノは存在していないよ。
14歳の少女が国連で気候変動の演説をすれば、本心は気候変動反対キャンペーンに大賛成なのに、豪華ヨットで移動したら、その実飛行機よりもエネルギー使うんでないの?という風ですこしばかりのへそ曲がりで、何にでもくっ付いてしまいますので、おいらの何ものも信頼できません。
<<ムージが言ってるのは、「自分とは気づいている意識である」たったこれだけです。その他のものは、みんな幻想である。勝手に起こって消えていく。禅の無字の解説よりもシンプルです。>>
気づいている意識は意識なので、おいらの延長です。独参において意識を出しては、鈴がなります。
この意識は広大で、何ものにも接着しません。死の恐怖にも、肉体・精神の痛みにも不感症です。
繰り返しです。これは覚醒への道であって覚醒ではありません。ただの思考の不在。そんな風に思っています
No.6983 - 2019/09/26(Thu) 07:17:24
☆
Re: おくじょうからの風景です。
/ 勘太郎
引用
向うの山はスキー場のある手稲山。おらの山のはたけは、山の向うの山の向うの向うで自宅から片道65kmです。
今朝も快晴。
No.6984 - 2019/09/26(Thu) 07:21:20
☆
Re: 出勤にまだ早いので、完璧について
/ 勘太郎
引用
精神・肉体障害者は自分に産まれてきたくなかったと感じないと想像しています。彼らは不具で良かったとはおもわないでしょうけれども、自分であることで良いと思っていると想像します。
作家の三浦綾子は「私は神にひいきされている」と言っています。難病に苦しみながら。
100歳で老衰で死んでも、0歳で間引きで殺されても死ぬ事になんの違いもありませんと感じます。
ゆらぎさん書き込みから私(おいら)の思考が明確になって行くように感じます。
No.6985 - 2019/09/26(Thu) 07:41:51
☆
Re:
/ ubik0101
引用
気づいてる意識は生まれてこのかた不変・・・それは自我だと、こちらは言います。これに反論すると、それは自我だという思考も幻想で、気づいてる意識は、ただ気づいてる意識だということになるかもしれません。
それで、気づいてる意識は生まれてこのかた不変というのが、気づいてる意識は生まれてこのかた不変に気がついたということなのでしょう。そう気が付かなくても気づいてる意識は生まれてこのかた不変なのでしょうか?そう気づこうとしてそう気づいてるのでは?
No.6986 - 2019/09/26(Thu) 08:36:48
☆
Re:
/ ubik0101
引用
> > ゆらぎさんは、この世界は、出来そこないの神のつくったプログラムで、それに気が付かないのは、バカみたいに騙されてるのは、問題だ。と言ってるのでしょうか?
> 問題だとは言っていません。
> どんな悲惨な内容の小説でも、だれも問題だとは言はないでしょう。
> 何故なら、フィクションだからです。
フィクションの内容ではなく、その仕組に騙されてる。ということを話したのです。
No.6987 - 2019/09/26(Thu) 08:45:31
☆
Re:
/ hato
引用
お仕事や家内作業、きっとさまざまおありかと思います。時間を割いて頂いて、ありがとうございます。昨日は朝から、頭の左の表面がよくある片頭痛で、薬を沢山飲んで、帰ってきてから転がってたので、今頃、目が冴えてしまっててて。👀 どうしょう。というところです。
>生まれる、つまり思考や感情を自己同一化し、他と分けることが分離です。
>しかし、何度も言うように、分離は悪いことではありません。
そうなのでしょう。ただ、生まれて、その仕組みを生きることは、とくに分離ということではないと思います。お話しは、とてもわかりました。
>迷うべくして迷うのであり、悪いこととは思えませんが?
そうかな?
ゆらぎさんは、世界の不具合のことを、熱心に非難していらっしゃいました。人という位置から見るなら、多くの悲劇は、これは言い方ですが、迷う意識が、迷う行動を起こして成るとも言えます。迷う人の意識です。それのどこが、わるくないのでしょう?。プログラムされてるから、人がそれに則り行動する。なら、わるくない、世界は起きてるから、・・・という、総てをあるがままに見る見方
があるとして、
そもそも、人が行う(起こす)、世界は起こる、それはどちらも言える、と思います。
物事を認識する、見方は、見る位置、或いは閾値に依るとして、人が世界で生きている、水平線上の見方を一方的に逸脱してしまうと、ちょっと変です。
神がいるならそうかも、・・・と人が想像できるような、意識の位置に偏るということです。実際そこは、想像、できません。ここはただ意識、とはいえないようです。表現上ですが、人の意識の縦(神)横(人の生)、の交差点、そこは、未知です。そこは意識上の、あるない、一方に、偏ることができません。そんな言い方もできると思います。
人はこの意味で、変化、変容、成長できます。と言えます。人がしても、いいです。自分がする、といって無問題です。自ずと分かれた自分でしょう。変容して、その過程は消える・・・起きてもない・・・という不可思議、て思います。
ゆらぎさんの今の意識の座は、本当に平和で安らぐ場だから、・・それが一番いいことだから・・そうであろう。と考えられたのかな、と想像します。ゆらぎさんは、とても優しい人、と思います。
No.6988 - 2019/09/27(Fri) 01:15:41
☆
Re:
/ ゆらぎ
引用
勘太郎さん
> 気づいている意識は意識なので、おいらの延長です。独参において意識を出しては、鈴がなります。
> この意識は広大で、何ものにも接着しません。死の恐怖にも、肉体・精神の痛みにも不感症です。
勘太郎さんが言われている延長は、自我ではないでしょうか?
何ものにも接着しない意識を丸出しにすれば、鈴は鳴らないと想像します。
> 100歳で老衰で死んでも、0歳で間引きで殺されても死ぬ事になんの違いもありませんと感じます。
私も同じ思いです。
ubik0101さん
> 気づいてる意識は生まれてこのかた不変・・・それは自我だと、こちらは言います。これに反論すると、それは自我だという思考も幻想で、気づいてる意識は、ただ気づいてる意識だということになるかもしれません。
そうです。気づいてる意識は、ただ「自分がある」ことに気づいている意識です。
> それで、気づいてる意識は生まれてこのかた不変というのが、気づいてる意識は生まれてこのかた不変に気がついたということなのでしょう。そう気が付かなくても気づいてる意識は生まれてこのかた不変なのでしょうか?そう気づこうとしてそう気づいてるのでは?
「気づいてる意識は生まれてこのかた不変に気がついた」のは、自我です。
そう気が付かなくても気づいてる意識は生まれてこのかた不変だと思います。
ただ「自分がある」ことに気づいている意識ですから。
> > > ゆらぎさんは、この世界は、出来そこないの神のつくったプログラムで、それに気が付かないのは、バカみたいに騙されてるのは、問題だ。と言ってるのでしょうか?
> > 問題だとは言っていません。
> > どんな悲惨な内容の小説でも、だれも問題だとは言はないでしょう。
> > 何故なら、フィクションだからです。
> フィクションの内容ではなく、その仕組に騙されてる。ということを話したのです。
この世界はフィクション(仮想現実)という仕組みであり、自我はそれに気が付いていないので、騙されているとも言えるでしょう。しかし、それは問題ではありません。そういう仕組みなのですから。
hatoさん
> お仕事や家内作業、きっとさまざまおありかと思います。時間を割いて頂いて、ありがとうございます。昨日は朝から、頭の左の表面がよくある片頭痛で、薬を沢山飲んで、帰ってきてから転がってたので、今頃、目が冴えてしまっててて。👀 どうしょう。というところです。
hatoさんの素敵な前書きをいつも楽しみにしています。
私は、その時間的な余裕がなく、申し訳ありません。
文才も感性も無いことの言い訳ですが。(笑)
片頭痛、早く治まるといいですね。
> そうなのでしょう。ただ、生まれて、その仕組みを生きることは、とくに分離ということではないと思います。お話しは、とてもわかりました。
生まれて生きるこの世界が、分離の世界であることは、必然だと思うのです。
hatoさんと私が分離しているので対話が生まれる、あそことここが分離しているので、空間的広がりが生まれる、現在と過去や未来が分離しているので時間的な広がりが生まれる。
それらは幻想だとは思いますが・・。
> ゆらぎさんは、世界の不具合のことを、熱心に非難していらっしゃいました。人という位置から見るなら、多くの悲劇は、これは言い方ですが、迷う意識が、迷う行動を起こして成るとも言えます。迷う人の意識です。それのどこが、わるくないのでしょう?
言われている通り、まさに、プログラムされていることが、起こるべくして起こっているからです。
> そもそも、人が行う(起こす)、世界は起こる、それはどちらも言える、と思います。
起こすと起こるは全く違うと思います。
主体があるか、無いかです。
何かを起こす自分という主体は、私には見つけられませんでした。
> 物事を認識する、見方は、見る位置、或いは閾値に依るとして、人が世界で生きている、水平線上の見方を一方的に逸脱してしまうと、ちょっと変です。
> 神がいるならそうかも、・・・(以下略)
申し訳ないのですが、ここのところは、全く理解できませんでした。
> ゆらぎさんの今の意識の座は、本当に平和で安らぐ場だから、・・それが一番いいことだから・・そうであろう。と考えられたのかな、と想像します。ゆらぎさんは、とても優しい人、と思います。
平和で安らぐ場であることは間違いなにのですが、気が付いたらそうなっていたということです。
優しくないことは自覚していますが、しょうがないと思っています。(笑)
No.6989 - 2019/09/27(Fri) 06:02:25
☆
Re:
/ ubik0101
引用
シュミレーション仮説は、なぜだか悪夢のような世界観に感じるのです。いまいち、その仕組みが解らないからかもしれません。復習を兼ねて、探ってみます。
その、たとえば錯視とか病気とか苦痛とかで、リアリティを演出、この世界がシュミレーション世界であることに気が付かないように操作してるとして、
その不完全な神は、それでも気づいてる意識の創造主なのでしょうか?あるいは贋の神で、真の神が創ったこの世界への侵入者?あるいはその変な神は、気づいてる意識と、同一?気づいてる意識は、その神と無関係?
あるいは気づいてる意識が、真の実在?基底?スクリーン?だとすると、世界はシュミレーションでも、なくてもなんでもいいけど、世界によって自分を確認できる、それが仕組み?世界がなくても、自分はある、とかは不問?
あるいは、虚構である自我・・・気づいてる意識・・・が世界に自分を投影して、世界はシュミレーション、知覚も思考も行動も、起きては消える幻だ?自分も世界も総て虚構という見方も成立する?
あるいは、対象化できることは総て幻想で、対象化できないことは幻想ではない?気づいてる意識は、言葉では対象化できるけど、実際には対象にできない、それはある。たったこれだけ、ということ?
あるいは、シュミレーションであれ、リアル?であれ、夢であれ、なんであれ、知覚、思考、感情、行動を見て、常に常に、その背後に回りこんで、気づいてる意識に、気づく。という見方は成立する?
それで・・・あるないの話は面倒ですが・・・こちらは、気づいてる意識は、それに気づいても、気づかなくても、ありようがない、ない、透明です。
No.6990 - 2019/09/27(Fri) 08:01:06
☆
Re:
/ hato
引用
片頭痛は、イブを2錠ずつ3回飲んで効かず、今朝やっと、ロキソニンを一錠飲んでみたら、半日かかって痛みはなくなりました。痛いって、なにもまともにできなくなって、困るです。
> そうなのでしょう。ただ、生まれて、その仕組みを生きることは、とくに分離ということではないと思います。お話しは、とてもわかりました。
>生まれて生きるこの世界が、分離の世界であることは、必然だと思うのです。
これはよく言われる、総てはひとつ、から推察されるのでしょうが、・・科学的にも皮膚から外と境目がないと、疑似的な現象を見ることができるといいますが、なので一応、わかるのですが、自分としては、世界は分離・・、合一・・・、どちらとも、言えません。
> そもそも、人が行う(起こす)、世界は起こる、それはどちらも言える、と思います。
> 起こすと起こるは全く違うと思います。
> 主体があるか、無いかです。
> 何かを起こす自分という主体は、私には見つけられませんでした。
起こす主体は、確認できません。それは、自我であっても、自己(真我)であっても。ですが、知覚できない自我(変容する可能性を秘めた状態の我)と、自己(真我)であるが故の無。ただ違います。変容し、その過程は消失し、なにも起きてはいない・・・と思います。
なのでこの意味でも実に、起こす、・・とも、起こる、・・とも、言えるのです。
総てが起こり、起きていないその空(くう)は、世界の側からそのことを確認しょうとすると、さまざまな仮説、似た現象として見てしまえることがあると思います。シミュレーション仮説も、そのようなことではないでしょうか。
造られた世界の側から、確認することは不可能です。不可逆です。想像されると現象として表れることもある、・・・もちろんそれだけでもなさそうな・・この世界は、膨大無尽蔵、なんでもありの様相で・・・人は愉しみながら、迷路に嵌ってしまうことがある・・・ではないでしょうか。
真実を求めた人にとっては、それは哀しい、
でも、人ゆえに、迷路に嵌ることもある。
生きてるゆえに、別の選択もできます。
だから、世界って困難ながら、ちょっと素敵。って思うのです。
勘太郎さんの、畑。片道65キロ。車をすっとばして、1時間くらい?でしょうか。おらの山の畑、山の向うの山の向うの向う・・かっこいいです。☺
No.6991 - 2019/09/28(Sat) 00:05:28
☆
Re:
/ ゆらぎ
引用
ubik0101さん
> シュミレーション仮説は、なぜだか悪夢のような世界観に感じるのです。
分かります。ですので、感情的に受け入れられないかもしれませんと書いたのです。
> その不完全な神は、それでも気づいてる意識の創造主なのでしょうか?あるいは贋の神で、真の神が創ったこの世界への侵入者?あるいはその変な神は、気づいてる意識と、同一?気づいてる意識は、その神と無関係?
何が真かは分かりません。
どう説明しても、眉唾っぽくなるのは理解していますが、挑戦してみます。
シミュレーション仮説とすると、この世はパソコンで創造されています。
自我はひとつのアプリケーションであり、人の数だけあります。メモリーは様々なことが起こる場であり、ハードディスクには、ストーリーや思考、感情、感覚、本能などが蓄えられています。自我は、ストーリーの中で様々な環境や他の自我と出会い、その刺激に応じてハードディスクにアクセスし、思考、感情、感覚から相応しいものを選択し、それに応じた行動を起こします。そして自分(自我)は、肉体とそれらを自己同一化し、自分というアイデンティティをつくり上げます。
これらは、自我というアプリケーションが起こしているように見えますが、プログラムによって起こっているだけです。そして、「気づいている意識」というのは、OSのようなものかもしれません。自我というアプリケーションの動きやメモリーの中で起こっていることに気が付いており、OS自体は最初から変化しません。
気づいている意識は、操作している人に繋がっていると想像することも可能ですが・・。
> それで・・・あるないの話は面倒ですが・・・こちらは、気づいてる意識は、それに気づいても、気づかなくても、ありようがない、ない、透明です。
OSは透明だと思います。
hatoさん
> 片頭痛は、イブを2錠ずつ3回飲んで効かず、今朝やっと、ロキソニンを一錠飲んでみたら、半日かかって痛みはなくなりました。痛いって、なにもまともにできなくなって、困るです。
ロキソニン、私は解熱剤として数年に一度服用します。
頭痛の経験が無く、辛さを分かっていないのですが、痛みがなくなって良かったです。
> なのでこの意味でも実に、起こす、・・とも、起こる、・・とも、言えるのです。
Ubik0101さんへの返信に書いたように、私の理解は「自我というアプリケーションが起こしているように見えますが、プログラムによって起こっているだけ」ということです。
それぞれの理解があっていいと思いますし、それぞれが、自分(自我)にとっての真実です。
しかし、経験や学びによって理解は変わっていきます。それが、変容であり成長と名付けたものなのでしょう。
> 真実を求めた人にとっては、それは哀しい、
> でも、人ゆえに、迷路に嵌ることもある。
> 生きてるゆえに、別の選択もできます。
私も長い間迷路を彷徨いましたが、視界は開けてきました。
それが真なのかどうかは確かめるすべがありませんが・・。
> だから、世界って困難ながら、ちょっと素敵。って思うのです。
私もそう思います。
生きるって、素晴らしいことだと、やっと実感できるようになりました。
No.6992 - 2019/09/28(Sat) 06:43:09
☆
百億の昼と千億の夜
/ ubik0101
引用
およそ、見る聞く触ることがあるということは、その対象/主体、が機能してるということです。もし完全に対象がなければ,たとえば死んでしまえば、世界が消えれば、それを見てる何かが、あるとかないとかもないでしょう。その主体と対象という関係は世界が総力を挙げてつくります。なんであれ、青い空が、飛ぶ鳥が、犬の糞が、見てる主体をつくってるでしょう。あるいはそれは世界と人が協力しているのです。いわゆる眼が覚めていれば気絶してないという意味で意識があるという意味での意識。これは自我とは思えないのが普通かもしれません。こいう私も、その意識がある私が自我とは気がついてもいませんでした。世界は美しく透明で、貧乏だった。困ったことはあるけど、心配したことはない、幸せであったのですが、社会的には、底辺に生き、人生を棒に振っても、探求が楽しくてしかたなかったのです。そんな東京の片隅で一人あって、私の師は・・・言葉・・・でした。とくに誰かの言ったこと書いたことではなく、言葉から学びました。もし思考をネグってしまえば、そいう経緯も失うかもしれません。なので人は、思考の領域、たとえそれが悩みであっても、それを大事にするのかもしれません。そしてもう思考は見尽くしてなくなってしまった。これからは無意識を探ろう。世界になんの特質もなくなってしまった、意味を失ってしまった木造アパートの一室で、そう思いました。誰から学んだこともないので、なんか修行をするとかは考えることもなく、こいうことしかできることがなかったのです。探求。それは、言葉で見ること・・・思考です。ずっとずっと子供のころは、死んでもなくならない、自分の中心を求めようと思ったのです。けど、それも忘れて、すでに何かを求めていたのではありません。なにかが起こるということも知りませんでした。精神の探検。ただそんな日常でも、世界と素通しになる体験、思考の裏の自分は、ない、クンダリニーの上昇、が起こったりしました。それを努力と呼ぶとして、その努力に関係なく、関係なくもなく、体験、それが起こったのです。その普通の意識、それが自我だったのです。世界は人の探求に報いてくれるのです。そして去っていくのです。この世界からの解脱・・・♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう。この日常に総てあります。
No.6993 - 2019/09/28(Sat) 08:28:23
☆
Re:
/ hato
引用
> 頭痛の経験が無く、辛さを分かっていないのですが、痛みがなくなって良かったです。
頭が大きくて、頭内がゆったりしており、神経にさし障ることがないとか、・・でしょうか。頭痛がないて、なんと羨ましいの☺。うちは、頭の大き目なubik0101さんも、小さめな自分も、頭痛はしょっちゅうで、この手の薬もしょっちゅう、使います。🙏
> しかし、経験や学びによって理解は変わっていきます。それが、変容であり成長と名付けたものなのでしょう。
> 私も長い間迷路を彷徨いましたが、視界は開けてきました。
>それが真なのかどうかは確かめるすべがありませんが・・。
視界が開ける・・て、いいですね!
体験としての経験は、人とその意識の座を、空、中道、・・未知、に据えることが起きます。それは了解であり、必ず、わかります。世界が自動的に起こしていた、(ここで言われるところの、プログラムされてる)人に、空、中道、・・未知とその理解が訪れます。理解は、圧縮された膨大なデータが、解凍される感じに似ているようです。
不可知から外れ、意識されることに偏重すると、人は頑なになり、理解することが困難になるかも知れません。けど、ドンマイ!三歩進んで二歩下がる。気を取り直してさあ進もう!未知なる道を、どんどん行こう!と思います。
>私もそう思います。
>生きるって、素晴らしいことだと、やっと実感できるようになりました。
ubik0101さんが、「どこま〜でも、行こう〜、みちは〜・・」と嬉しそうに歌ってます。ときどき、庭でじょうろに水を汲みながら、一所懸命歌ってる・・ことが、あります。👀 👀 👀
No.6994 - 2019/09/28(Sat) 23:57:43
★
自分とは気づいている意識
/ ゆらぎ
引用
話の方向を変えましょう。
シミュレーション仮説という言葉の先入観が、障壁になっているようです。
全ては起こっているのであり、自ら何かになろう、何かをしようとすることが、分離を生み出していると思うのです。
以下は、ムージの動画ですが、全く同じ思いです。(字幕も出ます)
No.6969 - 2019/09/24(Tue) 06:41:01
☆
Re: 自分とは気づいている意識
/ hato
引用
ゆらぎさん、勘太郎さんこんにちは。心地いい風が吹いて、空が高くなり、トンボが百も飛び交っています。
>シミュレーション仮説という言葉の先入観が、障壁になっているようです。
ううん、言葉や先入観ではなくて、その内容。・・というより、ゆらぎさんがそれら仮説を手放さない感じ・・・が、障壁、て思います。
>全ては起こっているのであり、自ら何かになろう、何かをしようとすることが、分離を生み出していると思うのです。
この掲示板やHPでは、よく取り上げられることですが、(ここは大事)総てはひとつ・・でも、ふたつ・・でもないです。もっと言えば、総てはひとつ、が善で、分離が悪・・というのは幻想です。なにか世界に照らし合わせて見たときに、不注意から理解の齟齬、誤解があり、そのように考えられるのかと思います。ひとつ、というと、なにか完全な気がすることもあるでしょうが、実際、世界はそのような意味で凝り固まっていません。それでは成立しかねます。
なので、自身が持っている前提として、ひとつ、分離への過剰な思い入れ、「当然それがいいに違いない、」としている観念を探る、ことは役立ちます。ひとつ、ということに過剰な希望、憐憫を投入してしまっている、・・てことも、あるものかも知れません。
その道筋は、成長の糧です。仮説に依存せざるを得ない、それはまだ、無意識に持っている観念が理解されていないからといえます。ある意味、こうしたことは、理解されていく過程で、経験せざるを得ないこと、とも言えるのです。
人が成長していくことを、なにか人を傷める、人の卑しさを掻き立てるような競合と見過っているかも知れません。傷つけたり、傷めたり、余計なことをしないよう静かにしており、それが無、と見誤られていることも多くあると思います。生来思いやりが深い、優しい人たちが、そのように考えてしまうこともあるのでは、と思います。
けれどubik0101さんが言ったように、本来の、無、ない、に至るためには、とことん「有り切って、無い。」です。それがここで言うところの、成長の過程です。もし人が、本当に世界をよくしたい、と思うなら、自分の偏りから、さらっていかなければなりません。もちろん、世界に携わりながら、できることです。
総ては起きてる・・・その通り、と思います。
そしてまた、人は、自己を起こしてもいくのです。
No.6971 - 2019/09/24(Tue) 10:39:09
☆
Re: 嗚呼、哀しい。妻にイチゴの苗を2本捨てられてしまいました。
/ 勘太郎
引用
妻は緑など無くても良い派。
自宅の猫の額の車置き場の隅に、会社敷地に雑草と一緒にあった古〜いイチゴの苗を持ち帰って、鉢植えしたら、青々と繁ってきました。
妻はそれが邪魔だとゴミ箱に捨ててしまいました。イチゴの古い苗は実を着けない様です。それでも狭いアスファルトの車置き場に緑が有ると嬉しい気分がします。
つまと私は殿さまと奴隷ですから、捨てられても逆らえません。
No.6972 - 2019/09/24(Tue) 19:42:14
☆
Re: 自分とは気づいている意識
/ ゆらぎ
引用
hatoさん
> >シミュレーション仮説という言葉の先入観が、障壁になっているようです。
> ううん、言葉や先入観ではなくて、その内容。・・というより、ゆらぎさんがそれら仮説を手放さない感じ・・・が、障壁、て思います。
それが先入観です。
シミュレーション仮説というのは、単なる言葉に過ぎません。
ましてや、依存するものでもありません。
> >全ては起こっているのであり、自ら何かになろう、何かをしようとすることが、分離を生み出していると思うのです。
> この掲示板やHPでは、よく取り上げられることですが、(ここは大事)総てはひとつ・・でも、ふたつ・・でもないです。もっと言えば、総てはひとつ、が善で、分離が悪・・というのは幻想です。
「分離に意味がある」とか「分離を感じることが奇跡」と書いたように、私は分離を悪とは見なしていません。
むしろ、分離を問題にされているのは、hatoさんの方だと思いますよ。
「今の自分」と「成長後の自分」を分離されています。「成長後の自分」になろう、そのために成長しようとされています。
自分とは気づいている意識です。そこには、成長という概念の入り込む余地は、ありません。
座って目を閉じれば、春の陽射しに包まれているような、あたたかな感じに包まれます。思わず微笑んでしまいます。何も必要としないし、何になる必要もありません。
自己を起こしていく必要もありません。既に「ある」のですから。
勘太郎さん
> ムージーさんが禅師から許されるのか?疑問に思っています。
ムージーさんより禅師が上と思っておられるようですが、その理由を教えて下さい。
No.6973 - 2019/09/25(Wed) 05:29:44
☆
Re: ムージーさんは今でもよく見ます
/ 勘太郎
引用
おお! 今始めて気が付きました。ムージーさんは無字からとった名前なのですかねえ。それとも現地の本名、面白く感じました。
ムージーさんの画面に、女性が抱きつくものがありました。数分間。個人崇拝なのか?無視して話を続けていました。現地人でしたからかの地の習慣なのか? まあこれは余計なことです。
おいらの印象だけで判断しています、なんの理由もありません。
おらは、あまり説明しすぎる話は、眉唾と感じてしまうのです。
さて、本日も快晴です。ボイラーマンですから職場は地下室。1時間に1回巡回で屋上から回ります。屋上で5分ほど陽を浴びます。気持ちが良いです。60坪の6階建てのとても小さいビルです。古いので私たちが手動で暖めたり冷やしたり、風をいれたりします。
No.6974 - 2019/09/25(Wed) 06:42:46
☆
Re: 自分とは気づいている意識
/ hato
引用
母が、パソコンを買い替えなくちゃ、とか、家では、庭作業に電動チェーンソーいる、とか、2メートルくらいの脚立もいるんじゃない、とか、ゴミ捨てに行ったら、隣のお母さんが係で、うちのゴミのプラスティックパックのシールを剥がしてた・・とか、ああ、さまざま騒がしい世の中です。
>今の自分」と「成長後の自分」を分離されています。「成長後の自分」になろう、そのために成長しようとされています。
そうだとしたら、それでいいのではないですか?その分離の、なにがわるいのですか?
分離、その過程を見ることがあっても構わないと思います。これについての話なら、なにかになろう、としていません。
成長する、この意味での変化する、とはある線では、確実に、変化前と後は、違うのです。そして尚、変容する、とは確実に、成長している過程が消え去るのです。どちらも当然です。どちらか一方だけの理解をとると、奇妙です。なので成長があっても、努力しても、構いません。
頑張っていこう!
この生を生きる上では、自分は、これです。
人がプログラムされてる、ことに偏重しているとしたら、自分ならつまらない、という話でしたね。
「もう決まってるから。」に固執することはできない、とのことです。何度も言ってますが、ゆらぎさんはそれが楽しいとのことで、いいのでしょうね。
分離、ひとつ、のことについては、書いた内容でとくに問題ないと思います。
ボイラーマンかっこいい〜です。私たちの今日は、なにしょうかねマンです。爽やかな朝、ちょっと喜び、・・ちょっとなんでもない、・・ちょっと苦痛なゴミ出しと買い出し・・・等等が、いつもの、ちょっと、幸せです。
No.6975 - 2019/09/25(Wed) 10:10:09
☆
Re: 自分とは気づいている意識
/ ubik0101
引用
ビデオの印象。
ムージは、思考の領域ではなく、知覚の領域にあれ。と話してるのでしょうか。見えないものが見えたらどうしよう、見えるものが見えなければどうしよう、なんて眼や耳や手は思考しないし、悩んだりしないでしょう。知覚の領域は、学ぶことも、悟ることもないでしょう。見える聞こえる思考する、その場を意識と読んでるだけではないでしょうか。知覚の領域にあって、安らいで静かで幸せで、そこからが探求なのですが、人それぞれなので、
それと、どこかの掲示板で見ましたが、臨済の四料揀の・・・四、人境俱不奪・・・真我も世界もある・・・という提唱があります。ムージは、自我も世界もある。と言ってるようにも聞こえます。だとしても、自我と真我、とくに区別の必要もないので、人それぞれなので、
No.6976 - 2019/09/25(Wed) 11:21:54
☆
Re: 自分とは気づいている意識
/ ubik0101
引用
ついでに、庭前拍樹
ひとりの僧、趙州に問う「如何なるかな是れ祖師西来意」
《仏教の真意は何?》
州曰く、「庭前の柏樹子」
《私はいない》
僧曰く、「境をもって人に示すことなかれ」
州曰く、「吾、境をもって人に示さず」
僧曰く、「如何なるかな是れ祖師西来意」
州曰く、「庭前の柏樹子」
《柏樹子は私だ》
趙州は実感を話してて、この通り、の話です。世界と一体ということでもなく、山でも川でも、犬の糞でもいいという話でもありません。そうするならそれは、いわゆる思考の領域です。
No.6977 - 2019/09/25(Wed) 11:23:15
☆
Re: 自分とは気づいている意識
/ ゆらぎ
引用
勘太郎さん
> おらは、あまり説明しすぎる話は、眉唾と感じてしまうのです。
ムージが言ってるのは、「自分とは気づいている意識である」たったこれだけです。その他のものは、みんな幻想である。勝手に起こって消えていく。禅の無字の解説よりもシンプルです。
hatoさん
> >今の自分」と「成長後の自分」を分離されています。「成長後の自分」になろう、そのために成長しようとされています。
> そうだとしたら、それでいいのではないですか?その分離の、なにがわるいのですか?
「私は分離を悪とは見なしていません」と書いておりますが?
> 分離、その過程を見ることがあっても構わないと思います。これについての話なら、なにかになろう、としていません。
「成長した人」になろうとしているのではないですか?
hatoさんご自身が、「成長していない今の自分」はわるいと思っているからではないですか?
そうでないならば、なぜ成長する必要があるのですか?
そして、成長とはどうなることですか?
終わりがあるのですか?
> 頑張っていこう!
> この生を生きる上では、自分は、これです。
それは、私も同じです。
目の前のことを一所懸命やる!
ただ、これだけです。
> 人がプログラムされてる、ことに偏重しているとしたら、自分ならつまらない、という話でしたね。
偏重も先入観から来ていませんか?
人はプログラムされておりません。プログラムされているのは、思考や感情や本能や感覚であり、それは人ではありません。プログラムされているから、起こすのではなく起きるのです。
そして、勝手に起こって消えていくのです。
ubik0101さん
> ムージは、思考の領域ではなく、知覚の領域にあれ。と話してるのでしょうか。
違うと思います。思考も知覚も幻想であり、勝手に起こって消えていくとしています。自分というのは、それらに気づいている意識であるとしか言っていないのでは?
>ムージは、自我も世界もある。と言ってるようにも聞こえます。
それらは幻想であると言っているのでは?
No.6978 - 2019/09/25(Wed) 19:48:11
以下のフォームに記事No.と投稿時のパスワードを入力すれば
投稿後に記事の編集や削除が行えます。
記事No.
パスワード
記事編集
記事削除
画像削除
100/100件 [ ページ :
<<
1
...
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
>>
|
過去ログ
|
画像リスト
]