150828
“掲示板”
この世界は人を覚醒させるための触媒です。
★
理解できたのか?
/ 勘太郎
引用
心理学的言葉では超個的目撃者、英語ではユングでしょうか?トランスパーソナル、キリスト教では絶対的他者。自分はもちろん、他者・他物からなんの繋がりを持たない感覚。勘太郎はこれを理解しています。自分の意志でそこに居続けることができます(すぐに思考がこれを覆い隠してしまいますから、そう長くは続きません)
上記の超個的目撃者の勘太郎の理解は誤っていないようです、いろんな本の説明と矛盾しません。
次は悟り=統一意識。すべてのものは私である。勘太郎はここには至っていません。
この前段階ではないか?と思う事。
勘太郎は今の勘太郎である以外にはなれない。当たり前の事ながら、今は今の勘太郎である以外のものになれないから、これを感じて生きてゆくしかない。という諦め。
これを、今は今で完璧。誰もが悟っている。悟りも悟っていないもない、とかいうのではないか?
なんの矛盾がなく生きてゆけます。
このままではだめだと思いつつ、そう生きている勘太郎にダメなところはありません。
そうして、世界の動きのなかで動きながら生きてゆきます。汽車に乗っていながら、何かを運ぶ必要はない(ラマナマハリシ)
孫悟空が一日をかけて、飛行してもお釈迦様の手平の中。
No.7727 - 2022/01/29(Sat) 09:53:21
☆
Re: 理解できたのか?
/ ubik0101
引用
すべての世界観は、誤りです。
貫太郎さんの言う超個的目撃者、絶対的他者。が、判らなかったので検索してみましたが、どうも不明でした。もしかして、自分のことは誰も判らない、人のことは自分は判らない?そうだとして、疎通ができてるのは、誰もが同じような空想をしてるので、判ってるような気がする、ということでしょうか。
そうなら、それだけのことで、そんなの打ち捨てればいいです。また個別のこと、あるいは分離したことは問題があって、それは全体の前段階で、全体なら問題ない、それは悟りということ。とか、そんなことを言う人がいるのでしょうか。なんであれ、それで納得なら、それでいいのです。
私の知ったことではないです。全体、とは何でしょう。なんのことを言ってるのでしょう。地球、宇宙、世界・・・現象界、実在?その総て?だとして、それ、知覚、認識、理解、できますか。それは、部分、分離と、なにも相反しないのではないですすすすすか?部分は問題で、全体は無問題?あるいは悟り、なぜそうなりますか?
あるいはどうにも知覚できない自分と、どうにも知覚できない全体・・・思考の届かない知覚できない、認識できない繋がりで、繋がるといういうことでしょうか?世界は自分?あるいは、全体とは、ここで言う縁起、あるいは世界の総活動のことでしょうか?あるいは誰かが知覚してるその誰かにとって、総ては統一されてるってこと?
その部分が問題なら、全体も問題ではないですか?なんか問題があることを、たとえば軋轢とか、葛藤とか、苦悩とか、困ったことを、ただ分離とか、部分とか、呼んでるような気がします。繰り返しますが、それでいいなら、それでいいのです。誰にも、何の問題はありません。不完全のない完全は、完全ではないでしょう。
ここで言えることは、部分にも、全体にもないということです。知覚にも、感情にも、思考にも、地球にも、宇宙にも、世界にも(それがそのことにも)、自分の根っこは、ないのです。それを自分の根っこは自分にあると言っても、空虚だと、虚無だと言ってもいいのですが、そんなことも経緯するだけとととと、
No.7728 - 2022/01/30(Sun) 20:48:26
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Re: 調べてっくだすったり、ありがとうございます
/ 勘太郎
引用
何にもないのでしょうけれども、どうしてもなにかあるのではないか?と想像してしまいます。
No.7729 - 2022/02/01(Tue) 15:51:28
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Re: 理解できたのか?
/ hato
引用
誰かが100ぺん訪れてはなにか問わず語り、いつもさまざまな文献を眺めてきて、眺めるその自分で選り好みをし、その自分と照らし合わせてなにか判断し、理解したという、見たいものしか見ないその自分が問題と、どんなに言われても、無言で伝えられても、たとえ千度言われても、千度素通りしてしまえるということのいったいは。 然り、「その、そんな、自分、を手放さない限り、その自体を問うことすらできないのだ。」 と毎度よく納得されるものです。
No.7730 - 2022/02/10(Thu) 23:36:52
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Re: 理解できたのか?
/ hato
引用
まったき善とはなんだ。それを生きよう。とくに難しいことではないはず。トライしょう。
先ず、生きるってそういうことではないでしょうか。
No.7731 - 2022/02/10(Thu) 23:37:34
☆
Re: おしりの筋肉が痛い
/ 勘太郎
引用
連日の雪で雪投げで、おしりの筋肉が痛いです。
解けてしまえば水の雪は、とても邪魔!今年は大雪ですから、そこここで普通の道路で車が雪の轍につかまって、動かなくなっています。軽い車だと人が2人ほどで押すと抜けられる場合も多いです。
車を押したり、スノーダンプ(ママさんダンプと呼ばれる塵取りの大きな奴)を押したり、普段使わない筋肉を使うので、おしりが痛いです。
雪投げは好きです。ぜんぜんはかどらないのですけれども、やっているうちに片付きます。一昨日は休日でしたので、8時から12時まで。1回運んでは、スコップに寄りかかって一休みの繰り返しで、玄関前の雪だまりをかたずけました。昨晩の吹雪でまたもや雪だまり。賽の河原の現実版。
しかしながら、週末にはあったかくなる予報ですから、カーポートの脇に積み上げて、陽気で解けるまで放置です。雪はいやでもありますけれども、なんだか皆さんがハイテンションになるようでもあります。物質と別に気持ちがあるわけではないようなので、雪を楽しむようにいたします。
とは言い聞かせても、おしりが痛いです。
No.7732 - 2022/02/22(Tue) 19:12:06
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心の変化
/ 勘太郎
引用
今朝の散歩
朝5時の散歩道はいつものメンバーに会います。メンバーとは云っても見知らぬ方です。御老人。私もその一人。
我が身の行く末を案じています。
昨日までこう思っていました。老人施設でぼけた人たちとボール投げで運動している、まだぼけていない老人は、どうしてぼけた人達とボール投げをすることができるのだろうか?
今朝の散歩で閃きました!そうだ老人になったら、諦めがつくんだ!ぼけた人とボール投げをする様に私がなった、と諦めがつく。
なんでもかんでも、諦めがつくようになるんだなあ〜と思いました。なされるがまま。まあよくできているなあと感心します、我が事ながら。
No.7717 - 2022/01/09(Sun) 08:15:37
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Re: 心の変化
/ ubik0101
引用
それは、自分の認識、判断と、事実の違いということでしょうか。これは結構大事なことです。
まず、なんか自分では見えない固定観念とかがあって、自分の判断で人や自分、世界を認識してしまう。勝手な意味をつけてそれを事実と見做してしまう。
これは(探求者でないという意味で)プリミティブな有りかたで、自分の空想の中で生きて嫁いだり娶ったりで死んでしまう、仏教用語に詳しくないけど、欲界。と言えるかもしれません。
これに反して、客観的な事実にもとずく認識。たとえば(そんな気がするだけでしょうが)物理、科学的な認識。が目指すような、ありのままの判断、それは色界の状態かもしれません。
これらは相反しませんが、また境もないのですが、
自分の都合で物事を考えたりしたりする人が、ものごとの都合でものごとをすることは・・・ここで言う欲界と色界・・・なんかバリアがあるかのように困難なようです。
つぎの岩に続く、
No.7718 - 2022/01/10(Mon) 19:40:22
☆
Re: 心の変化
/ ubik0101
引用
また自分の判断、自分で勝手につけた意味を自分で否定し、世界には意味がないと見做すと、そのことに補足され・・・わりとこの辺りに引っ掛かる人もいるようです。
ここで様々な通り抜け方があるでしょうが、こちらの場合は・・・自分が出来ると思うことと自分が出来ることは違う、という思考でした。こう認識するだけです。ほかに何もすることも、あれこれ考えることも、必要ないです。
また主観と客観を定義してみるといいかもしれません。これは、あれこれ探求はできても、定義できないのです。それを知ればいいです。あれこれ何か対象に、思考をくっつけない、
つぎの岩に続く、
No.7719 - 2022/01/10(Mon) 19:43:03
☆
Re: 心の変化
/ ubik0101
引用
まず自分の認識、判断で人や世界を認識してしまうということは、いわゆる先入観とか、固定観念に捕らわれてることで、そのことに気がついたら、そこでほかの意見とか結論に飛びつかない、諦めがつくとか。決着しないが大事です。
自分の判断、リアル認識。ともに打っちゃるのです。
なんか悟ったようなことを言う人が、心理的な思考と、現実の実用思考を分けたりするようですが、問題はそんなところにはありません。
とあることの反対のことも、類似のことも、関係ないことも、その対もあるでしょうし、
いくらでも話せますが、なにか行動して、思考して、発言して、その自分を晦まさない・・・これだけです。心なんてないのです。どうして心の変化があり得るでしょうか、
なんか知りませんが、諦めがつく?よくできてると感心する?我がことながら?・・・人は自分で、そんな自分を作ってるのです。
No.7720 - 2022/01/10(Mon) 19:51:30
☆
Re: 自分を作るスイッチ
/ 勘太郎
引用
一番わかりやすい経験。
小学校の運動会で走る前はドキドキして心臓が飛び出しそうです。番になっていざ走り出すとドキドキもなく、走るだけ。といっても、途中で、ドキドキが止まったな、と感じてしまうから極短時間です。
眠りのときや、楽しいおしゃべり、お風呂に入った瞬間の気持ち良い時、自分のスイッチが切れます。考えているときは自分を有利に立つようにはどうするか?中心に思案します。
なるべく自分を意識の端に押しやって、見る聴くに注意することを心がけています。
追伸
私もレンズマンになるかもしれません、右が利き目なのですが、左寄り落ちて、2重に見えます。職場で「目が悪くなった」と言ったら先輩が「片目づつ見てみろ!」
利き目が2重に見えます、眼医者へ行けと言われて気が付きました。視力の低下は3月ほど前からです。
No.7721 - 2022/01/13(Thu) 08:38:04
☆
Re: 心の変化
/ ubik0101
引用
こちらの話しをしてみます。
もし走って転んだとして、痛いは、なぜ痛い?なんでもいいのですが、美味しいは、なぜ美味しい?思考は、なぜ思考?嬉しいは、なぜ嬉しい?
そいえば、渡辺さんに、うどんを奢ってもらって、うどんはの味は、なぜ、うどんの味?と質問したのですが・・・そうなってんだよー・・・とのことでした。
そうなんですが、問題は、その質問の出どころです。なぜそれがそうなってるか、わたしは何も解らない、なにも知らない・・・そもそも意識って何?そうじゃないですか?
たとえば勘太郎さんのルーツはなんでしょう。親、その親のルーツは?またその親・・・親。アダムとイブ?神武天皇?ピテカントロプス?猿?なんか原生動物?どれかと言っては、すべて違うでしょう?
ここで言ってるのは、自分が自分である理由は、どこに何に、求められるか?という疑問です。それはどことも何とも不明。たとえば自分である証明が、免許証や保険証でできるなんて、とんでもなく奇妙で滑稽。
私は、なにも解らない・・・いろんな経緯はあるのでしょうが、そこで心理的思考も、知覚からの直接行動も、ともに打ち捨てられてるるるるるのです。
なにもない。意味があるも意味もないもない、ただ風景があると言ってしまってはもう説明・・・眼は見ようとしなくても見え、耳は聞こうとしなくても、聞こえてる。見ようとして見ても、聞こうとして聞いても、なんも問題ない・・・なにも知らないも、それにありきって、消えてるところ。自己証明が不要なところ、
さて、勘太郎さんは、老人なんですか?ほんとうに年齢とか、性別とか、名前なんですか、それで現わされるのでしょうかかかかかか、
No.7723 - 2022/01/14(Fri) 20:09:00
☆
Re: レンズマンはもう少し後になりました
/ 勘太郎
引用
お医者さんの見解は、どちらかと言えば、眼鏡でしばらく過ごしたらいかがですか、でした。
勘太郎の本体は体の後ろに有る空間です。探っても答えは返ってきません。勘太郎は皮膚の表面にだけあります。外見と言えます、地球の表面に人の形をした膨らみができて、それを勘太郎と呼んでいます。(ここらが理屈っぽく、地がでてしましますけれど、理解においてはそうなります)
地球が人型に膨らむのを産まれると呼び、しぼんで元の〇に戻るのを死と言います、
年齢性別性格など他と比べて勘太郎をあぶりだすことはできません。何かを取り出してみることもできません。どこにあるかも、なにがそうなのかも解りません、戸籍上の勘太郎として見える触れる特定できる者として表れています、
新しい思考実験です。雪投げで疲れた脚をさするとよい気持ちです。同じくテーブルをさすってもよい気持ちがします。くつの上からかゆいところを掻いてもかゆみは止らない、ということわざもありますけれども。テーブルの板の下の足のだるさが癒されるように感じます。
それとも、さする行為がだるい足だけでなく、手のひらでも気持ちよさをかんじるからかもしれません。気持ちが良いのには変わりません。
No.7724 - 2022/01/15(Sat) 13:11:29
☆
Re: 心の変化
/ ubik0101
引用
それは私にとって危険思想です。
No.7725 - 2022/01/15(Sat) 20:23:06
☆
Re: 危険思想、注意していきます
/ 勘太郎
引用
ホームで電車を待っているとホームが動いて電車が止まっているように感じる時があります。ホームに立っていても電車が止まるときは体が揺れます。このようになぜると気持ち良いが体にしみこんでいてなでると気持ちが良くなるのか?とも思いました。
No.7726 - 2022/01/16(Sun) 17:28:38
★
謹賀新年
/ ubik0101&hato
引用
新年明けましてあめでとうございます。
幸せな一年でありますように。
今年もよろしくお願いいたします。
No.7716 - 2022/01/01(Sat) 21:41:35
★
(No Subject)
/ ubik0101
引用
ちょっと考えてみよう。と言っても考えては駄目ですが・・・まったく私が知らない誰か、生まれたのも死んだことも知らない誰か・・・同じように私が生まれたのも死んだのも完全に知らない誰か・・・考えては総てが思考の紡ぎになるので、考えてはいけませんが、そんな。知ってることではなく、考えることではなく、空想することでもなく、世界
No.7712 - 2021/12/08(Wed) 20:08:43
☆
木の葉と人間の違いは導管や篩管と箸と茶碗
/ 勘太郎
引用
葉は木が伸びます。木と離れていません。葉は木と明確に解ります。
人は母親のおなかから生まれ出ます。へその尾が切れたら全体である地球から分離したように感じられます。ところが実際は木の葉の導管篩管が栄養を運ぶのと同じく、箸と茶碗で地球と栄養のやりとりをしています。地球と離れていません。
独立した葉、木無しに育つ葉が無い様に、人も地球の1部分ですといか、地球です。
過去に書き移したものです
9月7日 ubik0101師
ところで、真我とは、何でしょう?それは私です。ほかの事ではないです。世界でも、神でも、空虚でも、そのよな、どこかに、あれこれ捜せる、対象にできることではないです。
9月7日 ubik0101&hato師
何でもいいですが、本当の自分、真我、と聞くと、どこかにあるなにかを探してしまうかもしれません。たとえば自分の奥の空間に気をめぐらせて探すかもしれません。たとえば世界の内外、あるいは実在だ、無だ・・・どうでしょう。すると、それを捜している あるいはそう思考している自分は、どうやっても常に、それとは違うことになってしまうかもしれません。それなら、そのように捜している自分はいったい何でしょう。この普通の日常の自分、それだけを見ると、それは、いったいなんでしょう。偽の自分でしょうか?そうだとしても、 それは意識、知覚、身体でしょうか?これは何々であると、特定できるでしょうか?そこで、探している自分・・・もちろん捜さなくても、普通の日常・・・・これこそ真我だ。とします・・・ここで自然に変位します・・・たとえば、猫や鳥が見えること、この部屋の空間、歩いていること、
スピーカーから流れる音楽・・・これ・・・ここは見えてること聞こえてることのほかのことは何も無いのです。これまで、こっちの側に、また、どこかにあるような気がしていた、何か本当の自分、真我、普通の自分が空っぽの家のように、無いです。そして見えてる風景、ここに自分のほかには、 なにもないのです。なんでもかんでも自分です。たとえば、ここに展開している風景が自分なので、そのほかに自分というなにか個別の特定のことはありません。自分は意識でも知覚でも身体でもありません。此処で・・・風景が見えてる其れは自分が見えてる、と再認識します。すると、見えてるもの例えば、そらの雲が自分です。世界が自分です。それだけです。
いろんな経緯があるでしょうから、なんともいえないのですが、こういう、なにかの風景とかにありきろうというのは、悟りの扉になるかもしれません。それはそれとして、たとえば悟りを求めている自分・・・これは何故、求める?なんであれ、自分の行動、発言、思考を、正当化しているその見えない理由を探る。思考して思考して思考し尽すのです。
この普通の生活そのことが、それをするようにしかできていないではないですか。この野郎、ああ儚い人生、子孫の平安、悟りたい、どんな気持ちであれ、その奥を、裏を探る。これだけでです。それをネグって悟りを求めることは、服を着たまま風呂に入るよな変なことで、なかなか難しいかもしれません。
9月11日 hato師
ネグるて、ぐれるっ、みたいでおもしろいですね。今日は1日、かぜが涼やかでした。網戸の張替え、デッキの清掃一所懸命、ちょい草取り・・・こんな休日もいいです。
これは私がいつも持ち歩いているUSBに書き移した言葉です。今日は暇な職場で読み返しまた。書き移した時よりも理解度が上がっているように思えます。
No.7713 - 2021/12/09(Thu) 15:23:20
☆
Re: 考えないで味わう、感じでしょうか
/ 勘太郎
引用
味わう、感じる、見るなどが混じったような感覚でいる時間を増やす。
試験勉強で何千時間勉強したら合格とか。何事かに1万時間費やすとプロに成れるとか言います。一朝一夕には、味わう感覚は身につかないと思います。
気長に味わって行こうとおもいます。
No.7714 - 2021/12/17(Fri) 07:37:21
☆
Re: 何もしないクリスマスですけれども
/ 勘太郎
引用
石油ストーブの燃える音(実際は空気を送るモーターと羽のの回る音)を聞き入って。、ごはんでいっぱいのお腹をさすっています。
勤務先では、水道の質が悪くて(消毒用の残留塩素濃度が低くい)来年2月開店予定のテナントの営業許可が保健所から降りないかもしれない事態になり、急遽私が先頭になって、水道工事の発注。今日の午前中やっとこ工事完了。大騒ぎでした。
なんとか危機を乗り越えました。
水道局の担当者で許可できるはずという方。別の担当者はそんな工事は許可できない!何という会社名だ?と詰められ、あたふた。
それで何にもないクリスマスですけれども、ストーブの音がとても心地よいです。
No.7715 - 2021/12/24(Fri) 18:30:36
★
思考調査しました。
/ 勘太郎
引用
争いについて。
私はいつも、想像の中でドラマを演じています。そしてそのドラマの中で常に争っているのです。
テレビドラマも同じです。常に争っているのです。昔から争いが生活なのです。
この争っている現実を、人は正面から見ません。学校では仲良く暮らせると教えます。
戦争や喧嘩はいけない行為だと教えます。
ところが、テレビを点ければ、争う姿がいつも映されています。信長秀吉家康・ナポレオンたち殺人者がヒイローであり漫画の鉄腕アトムも戦うのです。
戦う・争うは悪いことなのか?
見方を変えると、争い、競いは世界を進歩させる普通の運動なのだと考えました。
信長が多くの人を殺した過程は苦しみではなく生の普通の営みである。
人は最期は必ず死ぬ。例えて言うと、今70億人の人間は、大きな生命活動のブースターロケットなのではないか・大きい小さい長く燃える短く燃えるの種々雑多なロケットブースター。
こう考えると、有情無情ことごとく、大きな生命活動の一端を担う運動なのだ。と考えます。
と言って、私の生活の何が変わるわけではありませんけれども。
視点を変えると争いで勝つも人も負ける人も最期は消えてなくなり、元の元素に戻ります。戦争で殺し合いをしてもよいのではないか?と思いました。
変化のない世界であれば、殺人もないでしょうけれども、無常であれば争いが起こるとおもいます。争いは私が感じているように、わるいことなのか?判りません。
No.7709 - 2021/12/06(Mon) 19:51:26
☆
Re: 思考調査しました。
/ ubik0101
引用
どうしてなのか?人は毎日でも争い競い苦痛を起こし、自分のためにならないことを続けるようです。自分のためになることをすればいいのに、と思います。
この世界にあって、どんな人の営みも、ただそれぞれに消えていきます、久遠の宇宙の感覚。それだけで、もう思考を紡がない、展開しない・・・悪い気分ではないです。
No.7710 - 2021/12/07(Tue) 07:53:35
☆
Re: 思考調査しました。
/ hato
引用
聖書の時代より、爭いは生の営みの一環で、そして尚、イエスは人に向って、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言われた。それは挑戦であり、イエスはそのように生きられたのでしょう。
世界に答えを探しても果てしない、人生は総てを含んで尚素晴らしく、苦痛であり。人の究極の希求ごとは、成熟度ともいえるのでしょう。人は何を願い、生きるのか。その自分とは、なんだろうと。
No.7711 - 2021/12/07(Tue) 10:24:52
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