149522
“掲示板”
この世界は人を覚醒させるための触媒です。
★
(No Subject)
/ ubik0101
引用
ちょっと考えてみよう。と言っても考えては駄目ですが・・・まったく私が知らない誰か、生まれたのも死んだことも知らない誰か・・・同じように私が生まれたのも死んだのも完全に知らない誰か・・・考えては総てが思考の紡ぎになるので、考えてはいけませんが、そんな。知ってることではなく、考えることではなく、空想することでもなく、世界
No.7712 - 2021/12/08(Wed) 20:08:43
☆
木の葉と人間の違いは導管や篩管と箸と茶碗
/ 勘太郎
引用
葉は木が伸びます。木と離れていません。葉は木と明確に解ります。
人は母親のおなかから生まれ出ます。へその尾が切れたら全体である地球から分離したように感じられます。ところが実際は木の葉の導管篩管が栄養を運ぶのと同じく、箸と茶碗で地球と栄養のやりとりをしています。地球と離れていません。
独立した葉、木無しに育つ葉が無い様に、人も地球の1部分ですといか、地球です。
過去に書き移したものです
9月7日 ubik0101師
ところで、真我とは、何でしょう?それは私です。ほかの事ではないです。世界でも、神でも、空虚でも、そのよな、どこかに、あれこれ捜せる、対象にできることではないです。
9月7日 ubik0101&hato師
何でもいいですが、本当の自分、真我、と聞くと、どこかにあるなにかを探してしまうかもしれません。たとえば自分の奥の空間に気をめぐらせて探すかもしれません。たとえば世界の内外、あるいは実在だ、無だ・・・どうでしょう。すると、それを捜している あるいはそう思考している自分は、どうやっても常に、それとは違うことになってしまうかもしれません。それなら、そのように捜している自分はいったい何でしょう。この普通の日常の自分、それだけを見ると、それは、いったいなんでしょう。偽の自分でしょうか?そうだとしても、 それは意識、知覚、身体でしょうか?これは何々であると、特定できるでしょうか?そこで、探している自分・・・もちろん捜さなくても、普通の日常・・・・これこそ真我だ。とします・・・ここで自然に変位します・・・たとえば、猫や鳥が見えること、この部屋の空間、歩いていること、
スピーカーから流れる音楽・・・これ・・・ここは見えてること聞こえてることのほかのことは何も無いのです。これまで、こっちの側に、また、どこかにあるような気がしていた、何か本当の自分、真我、普通の自分が空っぽの家のように、無いです。そして見えてる風景、ここに自分のほかには、 なにもないのです。なんでもかんでも自分です。たとえば、ここに展開している風景が自分なので、そのほかに自分というなにか個別の特定のことはありません。自分は意識でも知覚でも身体でもありません。此処で・・・風景が見えてる其れは自分が見えてる、と再認識します。すると、見えてるもの例えば、そらの雲が自分です。世界が自分です。それだけです。
いろんな経緯があるでしょうから、なんともいえないのですが、こういう、なにかの風景とかにありきろうというのは、悟りの扉になるかもしれません。それはそれとして、たとえば悟りを求めている自分・・・これは何故、求める?なんであれ、自分の行動、発言、思考を、正当化しているその見えない理由を探る。思考して思考して思考し尽すのです。
この普通の生活そのことが、それをするようにしかできていないではないですか。この野郎、ああ儚い人生、子孫の平安、悟りたい、どんな気持ちであれ、その奥を、裏を探る。これだけでです。それをネグって悟りを求めることは、服を着たまま風呂に入るよな変なことで、なかなか難しいかもしれません。
9月11日 hato師
ネグるて、ぐれるっ、みたいでおもしろいですね。今日は1日、かぜが涼やかでした。網戸の張替え、デッキの清掃一所懸命、ちょい草取り・・・こんな休日もいいです。
これは私がいつも持ち歩いているUSBに書き移した言葉です。今日は暇な職場で読み返しまた。書き移した時よりも理解度が上がっているように思えます。
No.7713 - 2021/12/09(Thu) 15:23:20
☆
Re: 考えないで味わう、感じでしょうか
/ 勘太郎
引用
味わう、感じる、見るなどが混じったような感覚でいる時間を増やす。
試験勉強で何千時間勉強したら合格とか。何事かに1万時間費やすとプロに成れるとか言います。一朝一夕には、味わう感覚は身につかないと思います。
気長に味わって行こうとおもいます。
No.7714 - 2021/12/17(Fri) 07:37:21
☆
Re: 何もしないクリスマスですけれども
/ 勘太郎
引用
石油ストーブの燃える音(実際は空気を送るモーターと羽のの回る音)を聞き入って。、ごはんでいっぱいのお腹をさすっています。
勤務先では、水道の質が悪くて(消毒用の残留塩素濃度が低くい)来年2月開店予定のテナントの営業許可が保健所から降りないかもしれない事態になり、急遽私が先頭になって、水道工事の発注。今日の午前中やっとこ工事完了。大騒ぎでした。
なんとか危機を乗り越えました。
水道局の担当者で許可できるはずという方。別の担当者はそんな工事は許可できない!何という会社名だ?と詰められ、あたふた。
それで何にもないクリスマスですけれども、ストーブの音がとても心地よいです。
No.7715 - 2021/12/24(Fri) 18:30:36
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思考調査しました。
/ 勘太郎
引用
争いについて。
私はいつも、想像の中でドラマを演じています。そしてそのドラマの中で常に争っているのです。
テレビドラマも同じです。常に争っているのです。昔から争いが生活なのです。
この争っている現実を、人は正面から見ません。学校では仲良く暮らせると教えます。
戦争や喧嘩はいけない行為だと教えます。
ところが、テレビを点ければ、争う姿がいつも映されています。信長秀吉家康・ナポレオンたち殺人者がヒイローであり漫画の鉄腕アトムも戦うのです。
戦う・争うは悪いことなのか?
見方を変えると、争い、競いは世界を進歩させる普通の運動なのだと考えました。
信長が多くの人を殺した過程は苦しみではなく生の普通の営みである。
人は最期は必ず死ぬ。例えて言うと、今70億人の人間は、大きな生命活動のブースターロケットなのではないか・大きい小さい長く燃える短く燃えるの種々雑多なロケットブースター。
こう考えると、有情無情ことごとく、大きな生命活動の一端を担う運動なのだ。と考えます。
と言って、私の生活の何が変わるわけではありませんけれども。
視点を変えると争いで勝つも人も負ける人も最期は消えてなくなり、元の元素に戻ります。戦争で殺し合いをしてもよいのではないか?と思いました。
変化のない世界であれば、殺人もないでしょうけれども、無常であれば争いが起こるとおもいます。争いは私が感じているように、わるいことなのか?判りません。
No.7709 - 2021/12/06(Mon) 19:51:26
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Re: 思考調査しました。
/ ubik0101
引用
どうしてなのか?人は毎日でも争い競い苦痛を起こし、自分のためにならないことを続けるようです。自分のためになることをすればいいのに、と思います。
この世界にあって、どんな人の営みも、ただそれぞれに消えていきます、久遠の宇宙の感覚。それだけで、もう思考を紡がない、展開しない・・・悪い気分ではないです。
No.7710 - 2021/12/07(Tue) 07:53:35
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Re: 思考調査しました。
/ hato
引用
聖書の時代より、爭いは生の営みの一環で、そして尚、イエスは人に向って、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言われた。それは挑戦であり、イエスはそのように生きられたのでしょう。
世界に答えを探しても果てしない、人生は総てを含んで尚素晴らしく、苦痛であり。人の究極の希求ごとは、成熟度ともいえるのでしょう。人は何を願い、生きるのか。その自分とは、なんだろうと。
No.7711 - 2021/12/07(Tue) 10:24:52
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ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
3/28
人が学ぶためには、それが理解できないようになっている。たとえば人が自己を学ぼうとするのは、それが理解できないし、そういうふうにしくまれてあるからだ、といえる。人は学ぶようにしくまれてある。人が人生を理解できないのは、人が人生を学ぶようにしくまれてあるからである。だが、これは本当だろうか。あえていってしまえば、それはそのもの概念(つまり、ものそれ自体を問うようなこと)が理解しがたい由に起こるのかもしれない。ものそのものが理解できないために、この世界および自己をそのようなものとして印象するのかも知れない。
No.7702 - 2021/11/15(Mon) 23:10:29
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
では、言葉で表される ものそのもの はどんなものであるかを調べてみよう。
古代インドの父と子の対話:「この陶器がもともと土であるように、ものそのものを示せ。」「わかりません」
まったくものそのものにしても、自己そのもの、愛そのもの、依存関係などは理解しがたい。けれど人が理解できるそのものが在るのではないか。
(すると、理解できるものと理解できぬものがあるためになにかを考える時にかなり障害になることもある。つまりそこからはそのもの概念を認めるべきである。)
つまり自己そのもの、愛そのもの、依存関係を理解しがたいのは、そのものを問うことがそこで望まれているからだ、ということだ。
No.7703 - 2021/11/15(Mon) 23:11:29
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
しかしこれらは考えて理解することがなされるものではないともいえる。くらしの中で愛し、自己をし、依存関係をするものであるとも考えられる。それは思考ではなく実践であるといえなくもない。もし、そういうものとして理解できるものなら、それは理解できた そのもの といえる。
No.7704 - 2021/11/15(Mon) 23:13:35
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
さて、とりあえず理解できたとしてみよう。すると、人が学ぶのは、それが理解できないからであるということは、どうなるか。
人が学ぶようにしくまれてあるのは、人が学ぶようにしくまれてあると知るまでのことである。人には学ぶことが必要であり、それは人が学ぶようにしくまれてあるためである。
No.7705 - 2021/11/15(Mon) 23:18:41
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
恋とは不思議なものです。人は誰しも人を恋そうと決意して恋しているにもかかわらず、人は誰しもそうしようとしてでなく恋に落ちてしまったものとして考えている間のみ、人は恋をすることができる。
愛とは、それを決意してのみ行えるものなのに(人はそれを感情だとか性向だとか雰囲気だだとかとしてあるものとして考える。)
この2つの場合のそのものを考えてみましょう。つまり恋そのもの、愛そのものを。もちろん両者ともそのものであるから理解しがたい。しかし学ぶのはその時。
この学ぶという意味が、両者の間では大いに差がある。つまりそれらを思考によって理解できるもの、つまり前提として見ている間は、それを理解し解消できるものとして両者ともにそれが理解できないゆえに学ぶように自己は、それは、しくまれてあると感じられる。しかも特ちょー的なことには、そこでは両者はくっきりとは見つめられてない。(それゆえに考えることが可能となっている)
しかし共に両者は理解しがたい。ほとんどできない。だからそれが理解できないから学ぶようにしくまれてあると見える。
恋を理解できないのは、それから学ぶようにつくられていあるからだ。(思考によって)
愛を理解できないのは、それから学ぶようにつくられていあるからだ。(思考によらずして)
No.7706 - 2021/11/18(Thu) 23:19:08
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
思考によらずに理解する
学ぶということは意識的に行われるけれど、それが解消されてはじめて学ぶことが可能になるのです。学ぶということが思考されなくなって、実に学ぶということが行われる。
あまりに鮮やかに学ぶということが現れる。その必要性が考えられてある時は、真に学んでいない。しかし学ぶということが現れるのはその時である。
たしかに理解できないことから学ぶようにしくまれてある、けれど思考から見ると、たしかにしくまれてあることがケンザイ化するけれど、実にそれは、思考しないで見ることから見れば、ケンザイ化しているということは、まだそれがなされてないからであるというように見える。
No.7707 - 2021/11/18(Thu) 23:21:06
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
たしかに愛は理解できない。そこで人はそこから学ぶようにしくまれてある。思考によっても、思考によらないでも。
つまり人はしくまれてあるけれど、それは人としての努力というか、レベルというか、世間というか、時代というか、そういうものとしても、あの人は、世間が前提であって、それがルールであって、それを知るようになければならないようにしくまれているのにねー。などということは、まだまだ甘い思考だ。
人がしくまれてあるのは、そういう考えられてあること以上に、まったくしくまれてある。
僕はこの世界の誰もが愛そのものを理解できないといいと思う。
ところで、「自分自身を愛すように、隣人を愛せ」の、自分自身そのもの、愛そのもの、隣人そのものをさて、誰が理解できるだろう。
No.7708 - 2021/11/30(Tue) 22:55:16
★
みどりの庭から
/ hato
引用
急に秋らしくなりました。秋といえばコスモス。一斉にパッと咲くのがすき、と言ってた人がいました。ほんとにそんな感じですね。
静岡の、とあるコスモス畑の風景から。
No.7696 - 2021/10/19(Tue) 23:39:18
☆
Re: みどりの庭から
/ hato
引用
幸せ感満載な光景です。
No.7697 - 2021/10/19(Tue) 23:41:02
☆
Re: みどりの庭から
/ hato
引用
風に揺られてさざめくコスモスたちでした。
No.7698 - 2021/10/19(Tue) 23:44:26
☆
Re: 猫が元気になりました。
/ 勘太郎
引用
黒猫が猫エイズを発症したのかもしれませんが、元気がなくなりエサもたべなくなり、しんぱいしましたが、元気がなくなってから10日ほどでほぼ回復したようです。
エイズの猫は寿命が短いようです。このまま回復して長生きしてほしいです。
当地ではしばらく雨が続きました。昨日から抜けるような青空で持ちがよいです。まだ手袋無しに、朝の散歩しています。晴れていれば夕方は4時半までは明るいです。
勤務先のテナントさんの営業も24時までにもどりましたが、納入業者さんの話ですと、ススキノの飲食街の納品量はなかなか戻らないと言ってました。ホテルは戻っているそうです。
景気が良ければ全て良しではありませんけれども、そろり、そろりと様子見してから、ススキノにくりだすのでしょうか・・・
No.7699 - 2021/10/25(Mon) 08:41:52
☆
Re: 猫は回復したようです。
/ 勘太郎
引用
原因不明で元気がなくなり、原因不明ながら元気さがかいふくしました。
No.7700 - 2021/11/06(Sat) 19:58:01
☆
Re: みどりの庭から
/ hato
引用
黒猫、とてもよかったです。
原因はこの世界に。不可思議ですね。
うちの黒猫。牙が3本ないので、ときどき舌が出てます。
No.7701 - 2021/11/07(Sun) 18:41:29
★
(No Subject)
/ ubik0101
引用
ひとり言。
なんでもいいですが、猫、庭、窓、遠くの山・・・時計の音、鳥の声・・・キッチンの流し台、水、コップ、水を飲む感覚、手、腕、足・・・それは見え聞こえ知覚されます。対象になってることです。
それは自分ではない・・・自分の年齢、性別、名前・・・それは自分ではない・・・これは思考実験ではなく、事実そうです。
ここで、まったく自分は、対象にならない、どこにも見つからない自分で自分を感じられない・・・その探してる自分も探されてる自分も、ないということ・・・は、その人が完全に、その人だ、ということです。
No.7675 - 2021/10/03(Sun) 19:31:16
☆
Re:
/ ubik0101
引用
つまり自分で自分を感じられないということは、対象にならないということで、その人がその人だ、です。
たとえばですが、人を変えようとしてもできない、自分を変えればいい。そんなことを言う人がいます。でも、その人は、まったく自分を変えることがない、私、私、私・・・ありもしない自分の権利を主張する。
その人の思考はその人ではない・・・そんなことはあるでしょう。
まあ、どうでもいいですが、虐められて育った子供と自分で決める子供は、自分を守るようになる。ない、自分を守るようになる。自分を守るために、嘘をつき、傲慢で、被害妄想で、知ったかぶりで、卑下する人で・・・人を変えることはできない、自分を変えればいい、ということその言葉が、嘘。
No.7676 - 2021/10/03(Sun) 19:41:00
☆
Re:
/ ubik0101
引用
どこかで聞いた言葉で・・・自分が変わればいいということも、自分のことではない・・・こんなことはいくらでもあるでしょう。それは、虐められてそだった、という自己認識の範疇を一歩もでてない・・・それだけの人生。
そんな私、私、私・・・であれば、対象になるどんなことも自分そのことではない・・・そのことに気がついてないから、対象が、思考とか感情とか記憶とか身体が、自分と勘違いできます。いろんな対象に飛びついて、眼くらましをし、飛びついてる中心を誤魔化す。そんな人は、たとえ真実のことをキリスト教や仏教の聖典のことを言っても、すべて嘘。
そこでその人が、嘘つきだ、自己満だ、現実逃避だ。ということに自分で気がつけば、道の始まりです。というのは自我はそれだけの、技を作って、世界の機能の一端をその人に提示してて、それを学べばいいだけなのです。
No.7677 - 2021/10/03(Sun) 19:47:36
☆
Re:
/ ubik0101
引用
さて、心理的な話は好みではなく、話を戻します。見える聞こえる触れる考えられることは対象になってることだから、自分ではない。それはそうなんですが、この状況、自分はないという、ない、自分があるのです。
んーその前に、自分はないということはどいうことか?まずは、自我の中心はない、ということです。ない、というのは自我の中心のことです。さっきの例えでは、自己満、自己中な人のその中心が、ないということです。
そして本来の面目、自己。真我。アートマン、それが発現したので、自我の中心は、ない、と自覚された、のです。ない、が自覚されるには、自己が、ある、が必要だったのです。
No.7678 - 2021/10/03(Sun) 19:53:41
☆
Re:
/ ubik0101
引用
一般的には、なんであれ、ない、と解るには、世界、森羅万象を調べつくしてなければ、不可能です。それを体験としては、縁起とか呼びます。(自我の仕組みは何回も言ってるので省きます)。自我、世界の写し絵、世界の総活動。そのどこかにいるわけでもないために、ありとあらゆることの極端でもなく、その中間にいるわけでもないために、中道とも呼びます。
No.7679 - 2021/10/03(Sun) 20:05:32
☆
Re:
/ ubik0101
引用
しかし、このアートマン、真我、自己は、それを捕まえると、けっこう辛いことがあります。それを対象にしてるからです。ということは、対象になってる真我は、対象にしてる自分とは違うということです。
これから、自己を対象にしてる、この苦痛ゆえに、起こった体験を理解するのです。理解して失う、(けれど無くなることはなにもない)。それで楽になっていきます。自己、真我を実感することから、この日常、自己、真我を忘れた日常にあって、ある、ない、の理解が進みます。
その日常、普通の生活。自分は自分で見えない、自己、真我は自己、真我に見えない・・・この日常、自我もなく、無我もない・・・あたり前の日常です。自分は自分の対象でないですから、自分がないも、あるも、ない、の当然のことです。
No.7680 - 2021/10/03(Sun) 20:11:08
☆
Re:
/ ubik0101
引用
ここでA=Aの思考が可能になります。
No.7681 - 2021/10/03(Sun) 20:11:51
☆
Re:
/ ubik0101
引用
すこし振り返りますと、知覚できる総ては自分ではない、つまりA=Aではないということです。これではA=Aの思考は困難です。言うことが、総て嘘という状態です。これは、知覚対象と、あろうとなかろうと、自分、ということとが同一でないのです。こんなことを理解することによって、
ここで自分があるとかないとかもなく、ふつうの日常で、世界の総てが働き、これ、は、これ。A=Aの思考になります。
もちろん、たとえば、自分が変わればいいと言ったから、実際、自分が変わるといった、不言実行、とかいうことではないです。
そんなことではなく、そう、であることを、そう、と認識する。A=Aです。これは、世界の総てが機能しています。嘘も真実も、偽善も傲慢も、排除されるのではなく、機能してるから、あるもないも、それで、A=Aが可能です。
No.7682 - 2021/10/03(Sun) 20:20:09
☆
Re:
/ ubik0101
引用
ところで、どこかの掲示板で、たぶん久しぶりに見た渡辺充さんの掲示板だったか、
自分は世界のどのようなことでもない・・・自分はどのようなことでも、ないでもない・・・自分は世界だ。
というのを見ましたが。これはたとえば紙の裏表、現象と実在、空と色、あるとない・・・二項目がすでに前提にされてる範疇での思考です。そうでなく、
自分は世界のどのようなことでもない・・・自分はどのようなことでもないでもない・・・ということは、元に戻るわけではなく、さらに自分は、まったく自分は、どのようなことではない、です。自分は対象にならない・・・では、自分は、あるでもないでもない、です。
こんなところで、見るは見るである必要はないのに、見る。聞くは、聞くである必要はないのに、聞く・・・思考は思考である必要はないのに、思考・・・これ、は、これ、でなくていいのに、これ。
No.7683 - 2021/10/03(Sun) 20:27:26
☆
Re:
/ hato
引用
そして、いまとここ。
それは、言葉で規定してしまうなら、人がちゃんと生きるための、。自己探求に入るための、。プレパレーションのようなものです。一度くらいは言葉に置き換えて・・・みたなら、もう不要。いつまでも準備に拘泥せず、さあ進もう!ではありませんか?
帰り道の、初秋の夕空の、うつくしかったこと。
No.7684 - 2021/10/03(Sun) 21:48:34
☆
Re:
/ ubik0101
引用
ところで、のりさん(どうしてるでしょう)から、この掲示板で何か質問があったとき、世界は対象にならない、この日常です。と答えたことがあります。
見えはします。聞こえています。でも、それぞれとしては、猫、窓、遠くの山、キッチン、水・・・世界は、対象ではないです。
こちらの人が、あるとかないとかでない、見えてる世界は、とくに対象ではないです。
たぶん、こちらの人がある限定なら、その、ある、ではないことと別の、ある、猫、遠くの山、世界は対象なのかもしれません。
あえて項目を立てて言うと、自我と真我、あるとない、人と世界・・・入れ子構造のようです。螺旋階段でもいいです。
No.7685 - 2021/10/04(Mon) 09:40:45
☆
Re:
/ ubik0101
引用
ひとり言、ですけど、どなたでも鋭い突っ込み、また疑問、質問。を期待しています。
No.7686 - 2021/10/04(Mon) 09:41:22
☆
Re:
/ hato
引用
懐かしい、のりさん。お元気だといいです。
ここのところ、ページがよく閲覧されているので、ubik0101さんも楽しみにしてます。
なんともいえぬいい日和が続いてます。先日からもう一枚。
No.7687 - 2021/10/04(Mon) 23:57:28
☆
Re: ここが理解できないです。ワープに感じます。
/ 勘太郎
引用
〉つまり自分で自分を感じられないということは、対象にならないということで、その人がその人だ、〈
ここが常人(無明の人)が理解できない、飛び越えられない。(AはAでない、故にAはAである。と同じ理解できません。以前解ったような気がした時もあったのすけれども、いまは理解できません。)
自分を5感で感じることはできない。対象は自分ではない。
その人がその人とは、自分を感じることのできないその人が、自分である」というこでしょう。
感じることができない自分が自分。
頭がぐるぐる回って思考力が過回転して白くなります。白くなったこの無思考のところが即今だと思っています。過去未来のない五感だけの世界。ここで、五感の主体を探します(思考が発生してしまいますが弱い思考なので無視)五感の主体は無い様に感じます。思考実験です。
思考実験を止めれば、頭が疲れて眠くなりました。繰り返しになります。自分を探すと胸の辺りなどに、広い無限の空間が感じられます。こいつが自我です、たぶん。島の自然農さんも、これを勘違いしているとわたしは見ています。無門関の前庭だと思います。
この無限の空間のさらに外側に、私の感じることのできない、真我があるのだろうと思っています。探しても無駄。この自我の空間もなかなか良い気分です。最終着地点ではありませんので注意します。
今日は終日予定がないので、ぶりの照り焼きをつくろうと思います。いままで上手にできたことがありません。
No.7688 - 2021/10/06(Wed) 10:05:45
☆
Re:
/ ubik0101
引用
もし仮に例えば・・・一度も嘘をついたことがない、怒ったことがない、悩んだことがない・・・幸せに生まれ幸せに死んだ・・・なんだか知りませんが、そんな人がいるとします。
その人は、自我ではないのでしょうか?
あるいは、ある時は自我、ある時は真我、ある時は無我。人って、そうなんでしょうか?
たとえば雲が消えると青空になるように、自我が消えると青空。そのように邪魔な自我は削除されれば、オーケーなんでしょうか?
それなら、自分の中?から自我を避けて、真我を見つければいいでしょう。それは最初から真我は真我ということかもしれません。それでいいなら、それで、なにも反対はできません。
まあ普通は自分のことが見えないということは自我もそうです。自我も自我を自我と認識できないです。眼が眼を見えないというのは、その意味もないことはないでしょう。真我は真我を見えない。あくまで譬えですが、オクターブの違いがあるのではないですか。
ふつうは、このあたりの理解は自我の死とか、そんな体験がなければ、超困難でしょう。
いつか渡辺さんが公案の体系はよくできてる。でも見性しなければ、、導きようがない、と言っていましたが、そうなのでしょう。
あんまり脂が乗ってない鰤なら、醬油に漬けて、バターで照り焼きにしています。それと弱火で長時間というのが、効果あると思います。
No.7689 - 2021/10/06(Wed) 20:20:44
☆
Re:
/ hato
引用
いつまでも、ここで気持ちよく腰を下ろしていても始まらない・・ではないでしょうか?。
いま問答しても、おそらく、埒は明かないでしょう。言葉から理解されるためには、さまざまな準備が整う必要があります。また、言葉から理解されるとしたら、すでに理解されているはずです。
時間も必要です。人とのやり取りで、なんとかなる、だけのものではありません。
掲示板と本編を読むことは、わかろうとわかるまいと、とにかく読むのは、わるくないと思います。疑問は放りおきます。だれか尋ねません。何回となく、いつまでとなく、これも修行ではないでしょうか。
あるいは、まったく捨て去る。日常はそれだけで、学びの宝庫であると思います。
金木犀がむせるように香ります。
No.7690 - 2021/10/06(Wed) 22:07:49
☆
Re:
/ ubik0101
引用
>自分を探すと胸の辺りなどに、広い無限の空間が感じられます。
その無限の空間を、あるいは真我と、あるいは偽の真我と、あるいは自我と・・・どう呼ぼうと、それを胸のあたりに探してる、その(見えない)主体、それが・・・とんだ盲点ですが・・・自我なのでしょう。
No.7691 - 2021/10/08(Fri) 19:29:17
☆
Re:安住することなく、精進します。
/ 勘太郎
引用
照り焼き、弱火でじっくりですね。次回はこれに注意して作ってみます。今回は今まででは一番よく焼けましたが、身が固くなってしまいました。それにしょっぱすぎました。レシピみると醤油・みりん・酒、各大匙1一つとありましたので、そのとおりにした。醤油は半分でよいと思います。
安楽に安住しないように注意します。
暇を見つけて、とっかえひっかえ眺めます。
きんもくせいの香りは解るようなわからないような。子供のころ北関東ですから庭にあったような気がします。
大きな植木鉢にバジルを植えています。毎朝シャツの胸ポケットにちぎって入れて、コロナでないかの匂い判定機に使っています。バジルがにおわないかった、重篤に区分されるとおもいますが。
No.7692 - 2021/10/08(Fri) 19:36:08
☆
Re:
/ ubik0101&hato
引用
いつか、よい便りを期待してます。
No.7693 - 2021/10/09(Sat) 00:36:48
☆
Re:最近やっとこれが自我だとわかりました。
/ 勘太郎
引用
> >自分を探すと胸の辺りなどに、広い無限の空間が感じられます。
>
> その無限の空間を、あるいは真我と、あるいは偽の真我と、あるいは自我と・・・どう呼ぼうと、それを胸のあたりに探してる、その(見えない)主体、それが・・・とんだ盲点ですが・・・自我なのでしょう。
自我をきりりと見つめています。自我が自我を見つめてどうなるの!??が本当のところでしょう。自我で自我を引っこ抜こうとしても、できるはずがありません。
よそ見をする、あるいは無視しようとしても、こんどは自我がこちらに居座ってしまいます。
ラウンドアップ(除草剤)でこの自我を根こそぎ退治できるとよいのですが、自我退治用のラウンドアップは無いようです。
No.7694 - 2021/10/09(Sat) 19:39:51
☆
Re:
/ ubik0101&hato
引用
それまで思いだにしなかったけど、自分は自我なんだ。これに気づいても特に、することはありません。すぐに忘れて、絵とか日記とかの自分の探求を続けただけです。
ubik0101
自我は除去するものではなく、成長するものです。生を受ける誰もが、よく生きようとするなら、成長するしかないのでしょう。
御託はいらないです。本当にそれしか、ないと思います。
hato
No.7695 - 2021/10/09(Sat) 20:34:21
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