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“掲示板”

この世界は人を覚醒させるための触媒です。

全てが明るみに有ったら、退屈です。 / 勘太郎
返信は最初の投稿から30日で締め切られてしまうので、新たな書き出しです。

 その昔、神様が居る居ないの論議で「神様が居れば人はこんなに苦労はしないよ」と言った人がいました。おっしゃる通り、すべてが理解できたなら、退屈で生きるのを辞めてしまうでしょう。苦労があるから生きられる事に、人は気づきません。

 本日の同僚との会話。彼氏曰く(78歳)「振り返ると80%望みは叶っているな」
こう感じさせる仕組みが人には有るようです。本当は望みのほとんどは叶わないまま死んで行きます。その昔、叔父が50代の頃「人の希望なんか1割も実現しない」世間的には少しうらやましい豊かさの人でした。

 若い時には望みに立ち向かうために、目標は高く保ち。老人は希望はほぼ叶ったと感じる。なんだか仕組まれて、最後は自己満足の飴玉を神様がくれるんでしょうか?
 希望は現在の120%であり、常に現在の先に有るものだから、決して手には入らないのに、手を伸ばせば取れると勘違いしている。
  これも。理解できないモノで生きる糧なのでしょう。

No.7607 - 2021/05/23(Sun) 20:32:41

Re: 全てが明るみに有ったら、退屈です。 / ubik0101
とくに希望とか考えることがないので、探ってみました。

それは、人が自ら望んで、世界あるいは社会に一部として組みこまれ、そこで、快不快の快、好き嫌いの好き、苦楽の楽、損得の得とかを実現したいということでしょうか?

ならば希望は、その人の現状と希望されることのギャップ、また快や楽など、部分を望むという偏りが必要で、そのギャップがその人をつくり、それを守り、世界や社会に、人を縛り付け組み込ませるのでしょう。しかもそうであることをその人が自ら望んでそうしてるのに気が付かないのでしょう。

自分で騙されてるというか、自分で自分を騙してる。あるいは世界にその人なりの、ほかの誰かと違う意味をつけてる、判断してる、あるいはその人が現状と、世界、社会、ほかの誰かと、なにより自分と分離してるともいえるのでしょう。

ほかの誰かのことはどう考えても空想ですが、希望の80%が叶った、というのは、年齢を重ねて残り時間も考えて希望することも少なくならざるをえず、また、たくさんの希望を忘れてしまって、叶った希望だけが意識に残ってるということかもしれません。ここでも自分で自分を騙してるのか、これでは、なにも解決されてないかもしれません。

それで、世界あるいは社会とのギャップがなければ、希望とか絶望、現状との分離とか、は成立しないでしょう。時間的には、即今。あるいは原因と結果が同じ、因果関係の壊滅、世界空間的には、社会、誰かとの分離がなければ、いいとなるのでしょうが・・・さて、それで?

No.7608 - 2021/05/24(Mon) 10:50:08

Re: さて、それで? / 勘太郎
ギャップを不快に感じています。この不快さをなんとかしなくてはなりません。

 希望の実現ではだめ。あるがままであってもダメ。

さてどうしたものか・・と頭を抱えますと、ワープします。私の目鼻耳舌身意の5感がただの感覚器官になります。そこに不快はありません。

 思考で行けるところは、思考の無い処です。此処が思考の終着点のように思えます。この先は道がありません。

No.7609 - 2021/05/24(Mon) 20:18:49

Re: 思考がないとは言いながら、無いのを見ている私がいます / 勘太郎
 無我夢中にはなれません。
しかしながら、ラマナマハリシは「そのうちに、火を搔きまわす棒が燃え尽きる様に、見る自分も消える」といっています。

No.7610 - 2021/05/24(Mon) 21:25:06

ほかの人のことは知りませんが、 / ubik0101
なにか理解するということは、得ることより、失うことに似ています。おなじことですが、なにかを理解することは、失うという仕方で、得るとも言えます。

たとえばなにか仕事が山積みだとして、その完成を見ることは、その仕事を失うことです。また、それで稼いだ、お金を使って何かを買うということは、そのお金を失うということです。

希望を実現する。ということは、その希望を失うことで・・・自転車が欲しい。恋人がほしい、裕福になりたい・・・その望み、夢、希望、欲望は、その目的が得られたら、失われます。

つまり、希望などをなくすためには・・・有名人に現実になればいいのだ、裕福になればいいのだ、ドンファンになればいいのだ。権力者になればいいのだ。と。思考は思うかもしれません。

No.7611 - 2021/05/30(Sun) 19:49:45

ほかの人のことは知りませんが、 / ubik0101
そいうことが、希望、絶望の、満足、不満の仕掛けです。おおむねですが、なにかを実現したら、さらにもっと。を求めるかもしれません。実際そいう人はいませんが、世界一の有名人になっても、権力者になっても、さらにもっとを、また違うことを求めたりするのでしょう。

そして逆に、辛い仕事、薄給、だとしても、希望とか絶望に関係なく生きることも可能です。100年とか、1000年前、どっかの国の大金持ちも、現代の技術の生活をしてたと思えませんが、それでも彼らは、それなりに不満と満足に縛られ生きて死んだのでしょう。時に応じて、さまざま考えられるでしょう。世界の総てのお金を手にしたら、それはお金として機能しないのです。

つまり希望とか絶望とか不満とか・・・現実の状況と、思考の状況は・・・関係なくも、関係あるもないのですが、その人が、関係あることに依存してる。ということが問題です。勝手に捏造した因果、ともいえるかもしれません。

それで問題は、希望とか、欲望とか、絶望だとか・・・不満、満足そんな思考。というより、それに執着させられてる、依存させられてる、それを理解するのです。それで理解したら、どうなる、こうなるとか考える必要はなく、自分の状態を見るというだけです。

No.7612 - 2021/05/30(Sun) 19:55:39

ほかの人のことは知りませんが、 / ubik0101
たとえば、ある人は、誰かのことを批判したり非難したりしていました。そすることで、自分が優位に立ちたいということでした。けど、だれかを小馬鹿にしたりすることで、自分が優位にあるわけではないことを、気が付くだけです。それだけで、人生が変わるのです。気が付かないと、それだけの人生かもしれません。

いろんな人がいるものですが言ってみれば、素直だということ。これが総てです。マハリシのことは、マハリシに任せておけばいいです。誰にも、何物にも、自分ということにも依存しないこと。これだけが探求です。

なにかを理解するということは、得ることより、失うことに似ています。そして、無くなることは、なにもありません。

No.7613 - 2021/05/30(Sun) 20:02:09

一瞥。 / ubik0101
たしかに意図して思考は止まります。それはただそれだけです。それは自分が残ります。そして自然に起こる思考停止に気が付く事態は、自分も残りません。静かです。くっきり明るい鮮明な世界が現れます。何が違うのでしょう。

それは思考の有無の違いではないです。この思考してる自分の不在に気がつくということです。それで、思考がなかった、その自分がなかった。と、気がつく体験です。また見てる自分はなかった、聞いてる自分はなかった、体験としての現れがあります。

No.7614 - 2021/06/03(Thu) 06:55:14

Re: 本日の出来事。自分はどこへ行った? / 勘太郎
 勘違い体験なので、30分で元にもどって自分がいますけれど。

 職場で今は一人離れて発電機室に籠って昼飯を食べます。お茶のカフェインが効いたのか?発電機を眺めている自分が見当たりません。見ている自分を自分で観察しているのですから、見えないのは当たり前なのですけれども。

 感覚的には自分はどこに消えた??と感じました。これが自分が無い」という感覚なのか?とおもいました。30分もすれば、自分がいつもの定位置にいます。

 暇が有れば、自分がどんな状態で何をしているのか?観察する様に心掛けています。

時間は横に有って、自分の外に有るのではなく、自分の身体の中に過去の記憶となって折りたたまれて有ると解りました。
 時間がないとは、自分の外に時間というモノが在るのではないということだと思います。

やっと初夏になりました。今日の最高気温が25度くらいでしょうか。緑が濃くなって、部屋の植木鉢から小さな虫が湧いてきました。

No.7615 - 2021/06/03(Thu) 20:08:29

それで大丈夫です。 / ubik0101&hato
一瞥です。永続しませんが、悟りではないですが、それを悟りと勘違いしなければ、これでは駄目だと決めることもありません。カフェインとかの理由をつける必要もないです。

そして、それ、が起きたら、必ず、それとわかります。

時間がないとは、単にそれは知覚できない、認識できない、意識できない・・・人が知覚にあって、意識、思考の、判断、記憶、過去、未来の時間の、自我の煩わしさにないということだと睨んでいます。

ubik0101

数年ぶりかに、庭の下草を復活させようと草取りに励んでます。3匹の猫たちの猫散歩が至福の草取時間です。梅雨どきの、それでも風はまだ爽やかで涼なり、です。

hato

No.7616 - 2021/06/04(Fri) 06:28:06

もちょっと説明 / ubik0101
まったく時間は認識でき得ません。なぜ認識でき得ないと認識できるのか?それは、朝が来て昼を過ぎ夜になった。風が吹いて月が出た。とかいうことが認識できると知れるだけだからです。

また、なにかをするには時間がかかる。そのなにか、たとえばご飯を食べる。身体が子供から大人になる。腹が減る。だけが認識でき得るということです。

つまり認識でき得ることのメディアであろう純粋な時間そのことは認識でき得ない、です。部屋の中に時計と扇風機がある。その空間がなければ、ならないのですが、純粋な空間そのことは認識できないのではないでしょうか?

このように、純粋な時空は認識でき得ないということは・・・あたかも認識できると見做される架空の過去、未来の時間によって仕組まれる仮設された自我の煩わしい領域が静まり、知覚の領域に人があるということです。

今そのことは、過去そのことは、未来そのことは認識できない。そこで起こったことは認識できる。それでもしかして、時間は自分の中に折りたたまれてる。と感じるのでしょうか?

そこで、自分の身体と世界の境界は不明だということなら、折りたたまれた時間と、時間は自分の外にはないの境界は、どなってる?と思います。

たとえば自分の死は自分で認識できないから死はない、というのは、それは知覚の領域ではなく、思考の領域で考える、知覚の領域ではないでしょうか。

No.7617 - 2021/06/07(Mon) 16:22:01

Re: 過去が自分の身体の中に有る。 / 勘太郎
今そのことは、過去そのことは、未来そのことは認識できない。そこで起こったことは認識できる。それでもしかして、時間は自分の中に折りたたまれてる。と感じるのでしょうか?

そこで、自分の身体と世界の境界は不明だということなら、折りたたまれた時間と、時間は自分の外にはないの境界は、どなってる?と思います。

つい先ほどまで、暇で困る職場で考えていた問題です。 出た答えは自分の身体の中に有る」と思えるのは、自分の身体が有ると感じているからだ。身体の境目が消えれば過去の記憶も広がり散って、必要な時に姿を現すようになるのかな?

葦を結べば庵になり、庵を解けば葦になる」こんな諺もあります。これを想像するとどうしても、私の身体の中で庵が河原に建っています。


死はオイラの中では、思考の問題です。
最近のオイラは死ぬ瞬間は全てを諦めて(養老孟子さん流に言うと死ぬ覚悟が自動でできる)死ぬことが出来ると解ったので、死の恐れを感じなくなりました。時間が変われば気分もかわるでしょうけれども、今は恐れがありません。

これからWワークの別の職場に遅番の勤務にでかけます。働きづめで大変と感じる方もあるかもしれませんけれども、私は閑が無い方が好きですのでありがたいです。こっちも暇ですから、居眠りしながら過去問題と自分の境目を考えます。

考えるても解かる問題ではないので、考えている自分を感じる作業と言った方が合っている様なきがします。

No.7618 - 2021/06/08(Tue) 15:19:44

Re: 全てが明るみに有ったら、退屈です。 / hato

探求を文芸にしないというのは、人の嗜好が係るが故に、わりとむつかしいことなのかも知れません。実際はそのようにないことでも、自分が使う言葉、或いは、好みの思考形態と言葉に、人は騙されてしまう、自分で自分が騙されることがあると思います。

楽しい草取り。
そろそろ、熱中症に注意せねばなりません。

No.7619 - 2021/06/08(Tue) 22:38:50

どうも勘太郎さんは独特なようで、 / ubik0101
それで、時空は認識でき得ない、ということは納得でしょうか?それは、過去は過去でなく、今は今でなく、未来は未来ではなく、右は右でなく、左は左ではなく、中は中ではなく、時空は時空でなく、です。

ここで起こる事象。たとえば、朝昼夜、、見える聞こえる、喜怒哀楽、思考。それをアイテムと呼んでいますが、人は、その知覚、認識、対象に、接触し、接着する仕様になってる、癖があるようです。

それを拠り所にする、自分の根拠にする傾向があるということです。そこでです。知覚、認識、思考でき得ない、時空、に自分を同化できますか?なんの頼りもなく、未来なく、過去なく、それを自分の中心にできませんか?

No.7620 - 2021/06/09(Wed) 19:13:51

Re:私は恰好つけたがりやです。 / 勘太郎
 この性格がいやです。素直になりたいです。ここでも、すでに恰好を取り繕おうとしています。(私はそこを判っているんです)
 嫌な性格であっても、私の行動様式なので直りません。中学生の頃から今でも、自分を観察して直そうとしています。

 接心で「坐禅は人に見せるモノではない!」と注意されたこともあります。たぶんハトさんと同じことを指摘しているとおもいます。


ubik0101様(御師家様とお呼びするべきと思っています)
私の中心はと云うよりも私は時間もないし思考もないし、恥ずかしさも空腹も怒りも焦りも、死の恐怖も、光も何も無いモノだと感じています。蛇が自分の穴に戻る時の様に、後づさりして自分の中にもどります。蛇はゆっくりバックしてもどりますけれども、私は時間的に瞬間で自分に戻ります。「今ここ」とか云う所だと思います。思考や感情はそこに影響を与える事はできません。またここから思考や感情が影響を与えることはありません。

音も感情も思考も底なし沼に嵌まった様に消えますが、気張ってこの、の底なし沼に居ないとすぐに思考などで私が一杯になってしまって、私がヒーローになる白昼夢の中にいる私を見ます。

繰り返しですけれども、これは私の思考が学習した結果の底なし沼であって、ホンモノではないとおもっています。そのうちに体験がやってきて、ホンモノの底なし沼になるとよいです。

寄り道ではあっても、なんとか進んでいるとおもっています。

No.7621 - 2021/06/09(Wed) 20:37:43

Re:時空は認識できないのは判るか? / 勘太郎
時空はそれ自体を認識することはできないと感じます。
時空はそれの「単体」で姿を現すことはできません。テレビとなって、植木となって姿を現します。自分と似ています。自分もそれ「単体」では姿を現わせません。勘太郎とか、自分の鉛筆とかでしか自分を現わすことができません。

時空の意味が違うかもしれません。

No.7622 - 2021/06/09(Wed) 20:46:10

Re: 全てが明るみに有ったら、退屈です。 / hato

>接心で「坐禅は人に見せるモノではない!」と注意されたこともあります。たぶんハトさんと同じことを指摘しているとおもいます。

そうなんですね。それもいいのですが、ここでは単純に、言葉の扱いが重要では、と言いたかったのです。


>この性格がいやです。素直になりたいです。ここでも、すでに恰好を取り繕おうとしています。(私はそこを判っているんです)
>嫌な性格であっても、私の行動様式なので直りません。中学生の頃から今でも、自分を観察して直そうとしています。



話は違いますが、そういえば勘太郎さんはなぜ、これを ハトさん と呼ぶのですか?自分は一度も、これを ハト と表示したことがないのです。

No.7623 - 2021/06/09(Wed) 22:23:12

Re: 気が付きませんでした。hatoさんの表しか見えていませんでした。 / 勘太郎
書き手の主体を知りません、でした。

これが書いているのか、人がかいているのか、勘太郎には区別ができません。
書き手を仮想したら、外れてしまいます。言葉の扱いに注意しなさい、とは書く人に気を配ってはならぬ、言葉からこれに入りなさい、です。

「これ」そのものに注意することはできません。自分の身体に意識を向けて、意識が入り込むと、意識の注意を向けた身体の部分がじんじんします。じんじんするのは、「これ」が自分の身体に注意しているからだろうと思います。

No.7624 - 2021/06/10(Thu) 18:47:00

Re: 全てが明るみに有ったら、退屈です。 / hato

勘太郎さんは、一体何を言ってるのですか?

>言葉の扱いに注意しなさい、とは書く人に気を配ってはならぬ、言葉からこれに入りなさい、です。


違います。言葉を扱うのは、その、人です。

なぜ、その自分を誤魔化しているのですか?

No.7625 - 2021/06/10(Thu) 20:46:45

Re: 理解できていません / 勘太郎
考えます。
この自分は、捨て去るべきものだと思ってきました。捨て去って見聞覚知だけがのこるのだとおもってきました。

No.7626 - 2021/06/11(Fri) 20:50:50

Re: 全てが明るみに有ったら、退屈です。 / hato

意味不明です。

自分を捨て去って、なぜこれは ハト なのですか?ただ見れば、hato と書いてあるだけです。あなたは、なにを意図して、そのようにしてきたのですか?自分を誤魔化してはならないです。

No.7627 - 2021/06/11(Fri) 21:56:52

Re: 書き込む内容が浮かびません / 勘太郎
 なんとか反応したいとおもいますけれども、ドン詰まって動きません。
No.7628 - 2021/06/15(Tue) 19:24:20

Re: 全てが明るみに有ったら、退屈です。 / hato

>これが書いているのか、人がかいているのか、勘太郎には区別ができません。

成長の果実は、語られたことの一貫性で見ることができると思います。

これが、人、というとき、人は、総ての可能性を秘めた、まったき人、とします。自分はこの人生で、自我無我真我、区別する必要がないところで生きる、と決めてチャレンジしています。

名前ついでに。かつてこの、覚醒のホームページを開いて、初めて投稿しょうとしたとき、ふいに胸に響いてきたのは、HATOでも、はとでも、ハトでもない、hato だったのです。これ自身は、目に見えません。そして、言葉はまったくそれ自身でもない。からこそ、可能な限り相応に、それを指し示すことができる不思議、と思います。
ま、どーでもいいけど、どうでもよくない、・・そんな感じです。

No.7629 - 2021/06/16(Wed) 21:20:09

Re: 私は解ったかもしれません? / 勘太郎
 と言っても理解の段階です。
これが勘太郎として姿を現しました。これを自分と呼んでも真我でもなんでもよいです。これはそれ自体だけでは姿を現すことができません。

現れている全てがそれであって、形としては、太陽・ペットボトルとなって具現化しています。。

借り物の物語ですけれども、それをそうと信じることができます。
今まで、パパジという聖者の云う言葉がどうしても理解できませんでした。今は腑におちます。
質問者  精神は身体に依存しますか?
答え   意識が無かったら、自分の身体を意識  
     することが出来ません。

勘太郎はそう産まれてきました。だれかに指示されることなく進むことはできません。導かれるという表現が適当かもしれません。 手を引かれてとかレールの上をすすむのではありません。荒野に放りだされているのですけれども、。産まれながらに進む方向が決められているのです。

今はそんな気持ちです。何が有っても受け入れる事ができそうな気がします。精進します。
一時の誤解かもしれません。

No.7630 - 2021/06/17(Thu) 17:13:14

Re: hatoさんの言葉を大切にする / 勘太郎
 その精神を理解できたとおもいます。
それが現れるのは形だけでなく、言葉にも具現化して現れる。

具現化した言葉を大切にする。こう理解しました。

No.7631 - 2021/06/17(Thu) 19:47:32

Re: 慎重に言葉を意識することは / hato

これを学び、生きようという決意かも知れません。

不注意も誤り、意味を与えすぎても誤り、言葉で表現することは、注意深くならざるを得ませんが、言葉は、自己を学ぶ上で大事な杖と思います。

頑張って一歩一歩いきましょう、と思います。

No.7632 - 2021/06/17(Thu) 21:45:10
ubik0101の探求ノートから / hato
1984.3.20

人は努力なしに得られることに対して努力してはいけません。
お金持ちになることも有名人になることも、ふつうの人のあこがれの対象となるすべてのことも、グーゼンにその運によって実現されることがあります。そのようなことについて決して努力してはいけません。それを自己の目的や支えとすることは誤っています。努力ということがらについてはそうでなくてはならなことをのみ望み努めるべきです。それは私にとってやはりこの世のしくみを知ること、自己であること、仏陀であることであろうと思います。もしある人がただ運によってそうであるということが、あるでしょうか。ないとは言い切れないのが、この世界です。けれど僕は人がこの世のしくみを知らされず、それについて思うことをなかなか良いことと思います。

No.7587 - 2021/04/20(Tue) 20:27:47

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

ふつうひとは何だかの前提のなかでものを考え日常生活しています。けれど考えることをするならば、人は、かえって考えることによって得るのではなく、自己の前提を知ることはそれを失うこととして(自己をそういうふうにしくんでいるのですけれども)体験します。これはどうにもなんという自己ギマンを実験的につくっているのではないかと思われるほどですが、それがまた、苦しいレクリエーションでないとはいえません。実にそうなのですけれど。人はなぜ生き死に自分が自分であるかと考えることも、僕にとって、人生のハイライト的に良いことのようでもあります。会社に向かって歩きながら有楽町のガード下を歩く時、また酒を飲みながらああ、こんなことをしていていいのだろうかと、そういうことがあんまり嫌いではありません。

No.7588 - 2021/04/20(Tue) 20:29:02

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

努力については、仏陀からそれを学ぶことができます。もし自分が仏陀になれるまで、私はこの木の下を動かない。はたして仏陀でない人でこのような決心をした人はないでしょう。努力とはそのようなことをいうのであって、決して運によってもなされることを(まるで自己の存在理由がそうであるように)そうしてはいけません。こういうことを言うのは僕が確かに努力を必要としているからです。この努力が解消されるまでは必要なことだと、ままいえます。

No.7589 - 2021/04/20(Tue) 20:30:25

Re: 札幌の桜が開花宣言されました。 / 勘太郎
平年より10日位早いそうです。ゴールデンウイークには桜が開花しない年もあります。

 私が無いばあい(私というモノがあってこの勘太郎の私が無い、とかり想像してきました。そもそもの私がないと想像できるようになりました)何が起こっても他人事。
生死というコトがあって、生死が無いのではなくて、生死という出来事・概念・が何だか解らないで生死の決着が着くと言うのでしょう。

繰り返しです。池田晶子という方が「私は葬式で笑いが出てしまうのを堪えるのが大変だ。死んだ者は何もの?なのか解らないのに、参加者が泣いたり吠えたりする」と

No.7590 - 2021/04/22(Thu) 19:28:23

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

>私が無いばあい(私というモノがあってこの勘太郎の私が無い、とかり想像してきました。そもそもの私がないと想像できるようになりました)何が起こっても他人事。
>生死というコトがあって、生死が無いのではなくて、生死という出来事・概念・が何だか解らないで生死の決着が着くと言うのでしょう。



勘太郎さんの行き着いた考えならば、そうなのでしょう。

そして事実は、人は、人として生きて死ぬ。です。そうではありませんか?

まったき人が、その限定された「わたくし、」を生き抜かない、有り切らないで、どうしてそれでなくあれるでしょう。それは確かに、想像、ではありません。もう少し言いますと、不可知、とは、なんだか解らない、というだけのものでも確かに、ないようです。

死んだものは何者か不明じゃないか、・・たしかにそうでしょう。けど、人は人として限定された数十年を、そのいつか、慈しみをもって共にした誰かが逝った。共に慈しみ合った時々を愛しむ。もう二度と、同様には会えないのです。切なくて泣くでしょう。もう一度会いたいと吠えるでしょう。人が生きることの切実さは、失えるものではないと思います。

池田晶子さんが逝って10年近くなるのでしょうか。20年か前に、一度セミナーでお見かけしました。著作も気に入って読みました。明確な物言い、自己を込めて詰めて考え抜いた、けれども確かに、哲学者だと思います。

No.7591 - 2021/04/23(Fri) 23:41:57

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
>繰り返しです。池田晶子という方が「私は葬式で笑いが出てしまうのを堪えるのが大変だ。死んだ者は何もの?なのか解らないのに、参加者が泣いたり吠えたりする」と

これだけの文章では解りませんが・・・死んだ者は何者?なのか分からないって?うーん、生きてる者が何者か分かる、分かってる、ってことなのでしょうか?そうだとしたら、かなり変だと思います。

でも、とりあえず死んだ者は何者?なのか分からないってことが変でないとして、その事実と、それと葬式で笑いが出てしまうのを耐えるのが大変、という事実と、どう結び着くのだろう。なんの因果関係があるのだろう。

ここで池田晶子が探求すべきは・・・自分が、そのように感じる原因ではないだろうか。そいうことが哲学でしょう、その始まりでは、と思いました。生きてる者が何者か分からなくても、日常、泣いたり吠えたりではないでしょうか。

No.7592 - 2021/05/05(Wed) 17:57:49

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
もしかしてですが、池田晶子は、ここで。葬式で泣いたり叫んだりしてる人のことを、無知だね、馬鹿だね。と言ってるのかもしれません。まあ日常、いろんなことがあるものです。誰かを馬鹿にすることもあるでしょうし、尊敬することもあるでしょうし、自分を騙すこともあるでしょうし、

そのことの奥には、万能感とか、自己責任の放棄とか、自分の判断に固執するとか・・・または責任感、誠実さの発現とか、それによる軋轢とか様々かもしれません・・・また自分はないとか、人は死なないとか、悟りとか迷いとか・・・そいうのを、人生、世界、縁起とか、呼ぶとして、それは、人の死によって可能なんだと思います。

No.7593 - 2021/05/05(Wed) 19:09:38

Re: 書き方が悪かったです。 / 勘太郎
池田晶子は「人は死なない」と言いたかったのです。人は死なない、そうではあっても、死はかなしいのですけれども、死なない自分を理解しなさい」との彼女の思いを「葬儀で笑いをこらえるのに苦労する」と文筆家として表現したと思います。
 オイラは人が死なないとはおもえませんけれども、理解としては、個別の、世界から切り離された個別の私がないですから、何処までが私であるか?分らないのに、私が死ぬと感じてしまうのも、これまたおかしなものです。

こちらは蕗が食べ頃です。蕗の香りはまだ足りないようなきもしますけれども、シーチキンと鰹節とみりんと醤油でお弁当のおかずです。どうでもよい性格ですじが残って蕗にからまってますけれどもこれも愛嬌です。こどものころは蕗はきらいでしたが、だんだん好きになりました。ubik0101さんハトさんのお宅には蕗がありそうな雰囲気です。

No.7594 - 2021/05/05(Wed) 21:10:17

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
川の土手で掘り起こした苗や、100円ショップで買った苗が増えて、庭の西側にフキが群生しています。

人は死なないとは、この世界と分離できない構成要素だからではなく、個人だからです。

No.7595 - 2021/05/05(Wed) 21:23:38

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

ヘラクレイトスの、彼のものがこれになり、・・、池田晶子さんは、万物流転の言をよく引用されていました。言葉でもって、宇宙に飛翔し、切開していくという探求は、そもなにか世界(宇宙)を前提にされていたかも知れません。もし、世界から切り離された個別の自己がないとしたら、もしも宇宙(世界)がなくなったら、その自分もなくなる・・ではないでしょうか。

庭の蕗は、まだこれから、増えたら嬉しいです。今年は、知人の「森のお母さん」から、手製のきゃら蕗を頂きました。

No.7596 - 2021/05/05(Wed) 21:56:59

Re: 下記の意味が解りませんでした。 / 勘太郎
人は死なないとは、この世界と分離できない構成要素だからではなく、個人だからです。

 たまたま見た養老猛(たけし)のユーチューブで自分は死ぬ前に意識不明になってしまうから、死ぬ事はない」と言ってました。
 個人である私の意識は死ぬ体験をすることはできない。

 個人とは、個別のモノではなく、普遍的なモノなので死なない」のかと思ってました。

コロナが身近になってきました。勤務先も24時或は26時まで営業して居酒屋さんも8時には閉店。しゃぶしゃぶ屋さんは5月いっぱい休業しています。誰が悪い、国が悪いではなく、こういう事も起きます。しかたがないので我慢です。

No.7597 - 2021/05/12(Wed) 21:06:43

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
うーん。青は藍より出でて藍より青し、です。おなじことですが、♪どこまでも行こう。です。死を経験できないから死がないではないです。

ところで、それ、を認識できないと、それ、がないと、養老猛は言ってるのでしょうか?自分の中では自分は、全知全能なのでしょう。

No.7598 - 2021/05/12(Wed) 23:15:31

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

青は藍より出でて藍より青し。

人は、世界に出でて、世界そのものであって尚、世界を修了していく、・・・世界を超えていく、・・可能性がある、ということです。

あるない、の言葉遊びにならない、・・人はあるから死なない・・ではない、その死の意義とは、その人自身に任されていると言える、と思います。

No.7599 - 2021/05/15(Sat) 21:01:40

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
青は藍より出でて藍より青し・・・中学か高校?のとき教室で、教師が私たち生徒に向かって言いました。ん、青より藍が濃いし深いのに、なぜ青のほうがいいのだろう?と思いました。教師は、生徒が教師を超えてほしいという一般的な意味で言ったのかもしれませんが、その言葉そのことには、そんな意味はない、こじつけだと思います。教師とは世界のことです。生徒とは、それぞれ人のことです。青は藍の、つまり世界の、エッセンスです。恒常とか、普遍とか、刹那とかの特定の意味もありません。ついでに言いますが、縁起とは、神羅万象のエッセンス、精髄です。

ほかの言い方では、世界を脱皮するのです。そうであって、個別もなく、全体もなく、自我もなく、無我もなく、実在も現象もなく、です。それが、たとえば春の夜の風が気持ちいいな、です。

時に応じてさまざま言えるでしょうけど。たとえば、どんなに好きな人とも、嫌いな人とも別れねばなりません。けど、自分とは絶対に分かれることはできない、、、だからその自分のために、なることをする。でも、誤解する人は必ず誤解するのでしょう。

No.7600 - 2021/05/15(Sat) 21:23:49

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
3/26

たとえばあるジョークが面白いのは、それを知らないでいる時である。ふつうには人は面白がるために自己を無知のなかに置く。これが前提ということである。
多くの場合、それは自己の性格だとか、肉体的条件だとか社会的置位だとか、目標だとか、進歩だとかとして現れる。
それは遊びにルールが必要なように、この世界をあきてしまわず面白がるための、自らつくったルールである。
さて、そんなものはどうでもいいと僕は考える。
さて、ルールは、この世に(あらかじめ)しくまれたものであるか?

No.7601 - 2021/05/20(Thu) 18:44:43

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

個人的に無意識に構成されたものであるか?また、別のものであるか?混線したものであるか?
自己ケンジ欲が理解できないうちは、それがルールである。依存関係が理解できないうちは、それがルールである。客観が理解できないうちは、それがルールである。

しかし人は考え、それを得ることではなく解消すること、つまり考えることができる。
そういうふうにしくまれてあるのは、おもしろい。

No.7602 - 2021/05/20(Thu) 18:46:03

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

前提が理解できないうちは、それがルールである。

自己が理解できないうちは、それがルールである。

 なぜ人は何だかのルールに捉われてしまうのか?

もし何も得に考えることなく人をやっていっていいるにしても、日常が理解できないうちは、それがルールである。

人はルールにつまり罠に落ちるようにできている。

つまり学ぶことができるようにしくまれている。

この世のことから学ぶことができるようにできている。これが経験といわれるものである。

No.7603 - 2021/05/20(Thu) 18:46:52

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
さて、これまでの例題−自己ケンジ欲、依存関係、客観、前提、自己、日常などは、ほとんどが、反価値なことである。

 ところで理解されてしまったルールはどうなるのだろうか?

では、価値のあることとされていることを例にとってみよう。

愛を理解できないうちは、それがルールである。

ここでは愛と恋は厳密に区別されねばならない。
恋は反価値である。

愛ならば、それに捉われた方が良いと思われる。だから愛は理解されない方がよい。

愛ならばそれに捉われた方がよい。だから人は愛を理解できない方がよい。ということになる。けれどこれは誤っている。

No.7604 - 2021/05/20(Thu) 18:49:13

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

つまり、自己は理解されないうちはそれがルールである。

 そして理解は罠の解消である。とすること自体が

No.7605 - 2021/05/20(Thu) 18:49:52

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

しかし理解したからといって、対象が解消するわけではない。しかし、そうであるほどでなければ理解とはいえない。

では、そのもの概念が理解できないのは、人がそれに捉われるためなのだろうか?

人は愛を理解できない。
人は神を理解できない。

人は理解できないものに捉われる。
ある人は自己に。ある人は世間に。ある人は愛に。
ある人は神に。ある人は依存関係に。ある人は日常に・・・。

すべての「そのもの」は理解できない。人がそれに捉われるためである。

No.7606 - 2021/05/20(Thu) 18:51:55
(No Subject) / hato

仕事場の近隣の小山に、数年前から日本カモシカが見られるようになりました。近くに住んでいると思うと嬉しいものです。増えると、山や畑を食い潰すと聞くと、切なくなります。ともかく、元気ならとてもよかった。

じっとこちらを見て、微動だにしない、静かな佇まいが美しいです。

No.7584 - 2021/04/05(Mon) 00:19:06

Re: ハトさんの「私がはなしているのではありません」 / 勘太郎
この言葉が頭に浮かぶことがあります。鉄城御老師の「無字ってなんだ?」と同じ様に公案です。
浄土真宗では「阿弥陀様が話している」と云われます。誰が口にしても出どころは一つと云こと、実感は伴わないながら、そうなんでしょう。

 いつも話で、ダグラースハーディングと言うひとの中に、「距離は無い」と言います。おいらはどうしても、まず距離というものが有って、それが無いと考えてしまうのですけれども、彼が言っているのは、見ている私と対象である遠くの鉄塔が一つで分かれていないといっているのだなあ〜とやっと解りました。距離とか、幅とか時間もそうなのでしょう。これまた実感が伴いません。仏陀の「明けの明星を見て、歓喜した」もこれです。生死の解決は生死無しというか、生死が無い。です。

No.7585 - 2021/04/05(Mon) 09:39:34

Re: / hato

何度か話題になっていたのかも知れませんが、ダグラスハーディングという人をよく知りませんでしたので、すこし読みました。哲学者、神秘家という通りの文章、との印象でしたが、その、ダイレクトに見るというのか、そうしたものの見方の練習で、自分という中心がないことを言われてるのか、と思います。実際のところ、人はどこに導かれてるのでしょう。

自分としては人として、対象との物理的距離はあるとして、認識する事柄に距離はないこととその物理的距離、どちらを落としても拡大しても、事実の認識との意味では、奇妙なことになるのではないでしょうか。と思います。

或いは、世界はひとつ、自己は世界、自分は見ているパソコンであり壁であり、他人なのだ、というのは、その総てを自己として愛するという、覚悟かも知れません。

として、本当に、?。自己とは本当に、? とは問わなかった。
不可思議、という事実を見ず、世界であること、ひとつである意識、という解釈に落ち着いたのかも知れません。

頭がない、の意味が違うかもしれませんが、そのように頭で解釈したところ、ありきたりの、詰まらない、本当には落ち着けないところに、人は押し込められるでしょうか?


今年は早くて、もう散ってしまいましたが、桜が今年も咲いてくれました。ナナが見えます。

No.7586 - 2021/04/06(Tue) 00:56:37
ubik0101の探求ノートから / hato

9/25

ほとんどなにごとも考えずこのところ暮らしている。とくに大きな不満はない。けれど、この世は本当に見えただけのものでいいのか、なんていうようなことがフト思われてしまう。そこでこれを読み返してみた。

No.7565 - 2021/03/15(Mon) 22:41:15

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

人が自己を知ろうとする時、それが強度なものであるなど、この世界のとあるものに根拠を置かない。(いいかえれば自分をとくに知りたくない時に人はこの世のとあるものに自己の根拠を置く)けれどこの世界のものごとを通じてしか自己を知ることができないのに、(そうすると根拠がないわけだから)にもかかわらず、世界は自己を知らせるようにできてない、ということになる。それはなぜか。

No.7566 - 2021/03/15(Mon) 22:43:54

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

それは実に、僕そして対象としての世界の2つのものの対立関係としてそれが考えられているからである。(それは思考形式だとか、感覚器官のありようだとかのためであるし、僕と世界というこの関係のどちらもに根拠を置かないのであれば、それは支点のないてんびんと同じで何も測定できないのは当然であるからだ。だから、そうではなくって、客観性ということを考えてみよう。と。さて、実はこれ以前のところでかくされて問題が実はある。依存関係にしても自己は・・・すべてのものを依存関係によって理解しても自己自身は理解できないでいるという僕の問題未解決がある。

No.7567 - 2021/03/15(Mon) 22:47:43

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

てんびんの支点、たとえば、ある人が、あることをなしとげて、だからその人はあることをなしとげた人である、とこう考えるのは、いっこうにかまわない。けれど僕はそれに価値を置けない。
すべてのものを依存関係と見る。これはたやすいことだと思う。けれど自己をも依存関係によったものであると思うことはむづかしい。

No.7568 - 2021/03/15(Mon) 22:49:37

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

10/6

それにしてもいつも好調とは限らない。というよりいつも故障している機械のようなもので生きるに当たっていつも問題が起きてしまう。それはすべて自分自身に深くかかわっている。それがあるだけで人のありがたさというのは世界に対してなんだかの有り方を現している。
人は生きている暮らしのために仕事をしたり、なんだかの日常生活のためにどうしても自分自身の在り方が自分に明らかにされてくる。なにかをするとそのなにかによって、どうしても自分の心が自分にあらわにされてしまう。ただあまりに熱心に世界のものごとを追い求める生き方は、僕には誤っているように見える。

No.7569 - 2021/03/16(Tue) 21:51:43

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

いわゆる自己主張の強い人とか依存関係を理解しない人とか、それで僕自身はあまりにこの世のものごとが嫌いなわけなのだけれど。この世のものごとを通じて自己を知るそのこの世のものごとは俗にいってしまえば、目的でなく手段なのだ。

自己を知る方法の1つのいわば手段であるもの、いい生活をしたいとか、女が欲しいとか、楽したいとか、それが目的となっている人生は馬鹿げて見える。

No.7570 - 2021/03/16(Tue) 21:52:28

Re: 生命の外側は千差万別に見えますが / 勘太郎
本人の内側としては、皆おなじだろうと想像しています。給料100万円のAさんと、10万円のBさんで給料日の嬉しさに違いはないでしょう、たぶん。それをどう思うかは金額では無くて本人の性格に依るでしょう。
 100歳まで生きても、0歳で死んでも特別な何かが違うとは思えません。その人なりに、死ぬまで一生懸命に生きるだけです。

 どう生きても、ここから別れることはできません。

No.7571 - 2021/03/17(Wed) 14:05:18

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
>本人の内側としては、皆おなじだろうと想像しています。給料100万円のAさんと、10万円のBさんで給料日の嬉しさに違いはないでしょう、たぶん。それをどう思うかは金額では無くて本人の性格に依るでしょう。
> 100歳まで生きても、0歳で死んでも特別な何かが違うとは思えません。その人なりに、死ぬまで一生懸命に生きるだけです。


と、そう思考するとそう思考してることしか見えないので、そう思考しなければいいのです。24時間ずーとそう思考してるわけではないでしょうから、あるいは、そう思考してない無思考に気が付けばいいのです。それを思考してないとき、世界は狭くなく、重くなく、暗くないのではないでしょうか。それを思考してると、世界は狭く、重く、暗いのでは?そ、いえば

かなりうろ覚えですが昔、テレビで見た南太平洋とかいう映画で、ヒロインが野蛮な孤島から大都会に連れてこられて、世界は広くて、私の知らないことで一杯!と言ったと思うのですが、そうだ。孤島だって大都会だって、世界は知らないことで満ちてる。なんか知ってるということから離れることは幸せ感、開放感に満ちてる。と感じたものです。

あるいは・・・私が、誰かがどう考えてるかを、考えてみます。その誰かが私のことをどう考えてるか考えてみます。その誰かが誰かのことを、どう考えてると考えてみます。私としては、それは総て空想で、全然当たらない、と思っています。勘太郎さんも<皆おなじだろうと想像しています>と、まず言ってるでしょう。あらかじめ思考の前提を言って、想像していますと、念を押しても、その前提は度外視も正当化もできないでしょう。

まず、そんな誰かの考えを探ることをするのは何か理由があるのでしょう?誰かの考えを考える、その必要はありますか?あるいは私の考えは空想だと知って承知の上の空想。つまり空想と事実は違う。という認識が役に立つこともあるでしょう。探求は、誰とか彼とか自分とかの枠のないことが、あるとしてそのフィールドです。

あるいは、なにかを思考することによって、その思考してる主体が仮の主体が作られる。それで、その主体は、その思考を否定できにくい・・・ということではなく、実際に、人は似たり寄ったりで内側はみな同じでは?という指摘でしょうか。

そうだとして、それが探求の障害になるということでしょうか?説明すればですが、思考で探ればですが、たとえば光の三原色だけで、インクの4色だけで、たぶん何千万色の表現ができます。単なる水蒸気だとしてもその動き雲の千変万化。素材から結果は予測できるのですか?大理石の塊から、ダビデも、ビーナスも、削りカスも、できるのです。

あるいは人って、なにかしても、その基本は、隠れてる前提は大したことなくて、似たり寄ったりだよね、問題は自己責任から逃げること?ということでしょうか?それならば、探求は、それほど難しくはないということです。

> どう生きても、ここから別れることはできません。

そんな固定観念?に行き詰ってるということでしょうか。総てはひとつととか、ほんとうの自分は意識とか、わたしはいないとか・・・そんなことでは、難しいでしょう。ついでですが、たとえば即今、縁起、わたしはある。どのような真理と思われることも説明、解釈にすぎません。

No.7572 - 2021/03/18(Thu) 06:30:15

Re: ここから別れることはできません。 / 勘太郎
言い訳ながら、体験がないので本当の事はわかりません。
自分を探って心の奥に入り込もうとします。するとそこは背中の後の無限の空間にいます。

勘太郎の思考、感覚は勘太郎の身体からではなく、この空間から来ている様な感じがします。

お金が欲しい・称賛、将来に渡る安全安心・精神身体の快楽(楽しい暮らし)・優越感などが実現した妄想をしますけれども。そう長い時間は続かず、思考は目先の事々に戻ります。戻った時に、ふっと人生そのものが、長い妄想時間なのではないか?と感じる時もあります。

 勘太郎って何?っとかんがえても、それが霧散してストーブが静かに燃える音を聞きながら居眠りしています。良い気持ちです。
 この良い気分の人は居眠りをしていません。今感じるのに、この良い気分を感じる人は勘太郎の頭の中には有りません。頭の外側に有るようなきがします。

No.7573 - 2021/03/19(Fri) 09:04:46

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
勘太郎さんの投稿を読んで、今日、自分がどこにあるか探ってみました。これを意図的にやってると、どうも猫を見てたら猫、庭に出ると空気、その風光、その辺にありそうなのですが時々に、見る視点が変位するようで、その視点自体は見えませんが、一定しないです。

もっと意図的、意識的になると、見てるのは自分の身体、目?考えてるのは、頭?でもその場所は特定できないですという感じです。なにか見えてる聞こえてる思考してるというそのことを自分、と思うのかな?

ノンノン、チュリルと遊びながら、ヘンデルのフルートソナタを聞いていましたが、聞こえてるってことが自分なのかな?そしてスーパーに行って普通に買いものしたり、見てる聞いてる中心は、どうも掴みようがない、知り合いの店員さんがいる、コインをポケットから出して感覚だけある、って感じです。

たぶんなにか対象になりうる、見える聞こえる対象であり、それが見る視点であり、なんか意識かなにかが、そこを目印、拠り所にして、そこを自分とするようです。たとえば身体の目の奥に、世界を見てる自分がいるって、空想であれ事実であれ、目の奥が目印になるようです。

ところで、自分がどこにあるとか、自分を見てる視点、があるというわけでもないですが、自分で探れるって、面白いですよね。自分がないと、ほんとに自分がないと、分かるのです。そのとき思考がなかったら、そのとき思考がなかった、と分かるのです。なにか思考しててその主体はないなら、主体はない、て感じられるのです。なので、わざわざ探らなくても、大丈夫に思います。

とくに勘太郎さんのことではないですが・・・このころ思ったこと、素直であること、真摯であること、それはその自分の一存でできるし、もしかしたら世界で一番簡単なことかもしれない。それをその人が、難しくするのは、どうしてだろう。

No.7574 - 2021/03/19(Fri) 20:41:06

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
ところで、

> 100歳まで生きても、0歳で死んでも特別な何かが違うとは思えません。その人なりに、死ぬまで一生懸命に生きるだけです。

では、生まれても、生まれなくても、同じなのでしょうか?

No.7575 - 2021/03/20(Sat) 00:06:03

Re: 一番大事な文字をする―していました / 勘太郎
と、そう思考するとそう思考してることしか見えないので、そう思考しなければいいのです。

自分でもこの「そう思考しなければよいのです」は理解しているつもりなのですけれども

午後3時半になって、陽の光が室内の植物の葉に射して葉が黄緑色でとてもきれいです。とこのままで止めておけばよいと思うのですけれども、止めておけばよいとか、眺めているのはだれだ?とか思考してしまいます。だた眺める事ができるようにと努力してしまうのです。

 具体的には葉の色に注目して思考が湧かないようにする。そして猫の甘える声がしますので抱き上げます。短い時間だけど思考が無かったなと思考します。
 思考を頭の隅に寄せて、葉を眺める状態を中心に持ってくる、という感覚です。

話題を変えて産まれても産まれなくてもおなじか?
 私の経験として残るものはありません。現実に世界にオイラも参加していますので変化の一端を担っています。オイラは変化の一端ですから、・・これらはオイラの屁理屈です。

おなじなのでしょうか?の問いには、葉が陽を浴びてきれいだなあ と答えます。

No.7576 - 2021/03/22(Mon) 15:51:00

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
そうです、努力しないでも、そう思考しない。ということです。ここは、まずは思考内容を言葉にする前に瞬間的に了解する・・・瞬間思考とか、気配思考、無思考思考と言えば通じるでしょうか・・・で解決するかもしれません。ついでですけど、問題があるとしてそれは、その人の状態が問題であり、思考が問題だというわけではないです。

もしかして、0歳で死んでも、100歳で死んでも、という思考があり得るためには、何も変わらないということが、見えない前提としてないですか?貫太郎さんは自分でそのように自分を決めてないですか?と思ってたのですけど。私の経験として残るものはないというのは、私それそのことは、変化しないということですか?ただ波は静まれば海になるだけなんですか?

あくまで譬えですが、芋虫が蝶になっても、その私は、その私で・・・その私は対象にできないので、ありとあらゆること、森羅万象との区別も、同一もしようがない・・・その私。まったく変化ないも変化したも判断できないということはないですか?自我と真我、まるっきり違うけど、まるっきり同じとか、言いたくなります。

まったく私が私でありきって、私が私の対象にならない・・・私がない・・・で、見知らぬこの世界/物質、知覚、感情、思考に埋没しきって自由なく、不自由なく、善なく、悪なく、ないこともない・・・どうして苦悩が生じ得るでしょう。自分で自分が見えないのが諸悪の根源。また自分で自分を見るのが諸悪の根源。日常としては自己責任。このへん探ると面白いかもしれません。

>おなじなのでしょうか?の問いには、葉が陽を浴びてきれいだなあ と答えます。

もしかして、現象=実在って意味ですか?わたしなら、♪口笛を吹きながら、どこまでも行こう。です。

No.7577 - 2021/03/23(Tue) 06:54:41

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

透き通しで見える風景。森羅万象、摂理、ただ凄いです。そして尚、命は、人は、生ある限り挑戦し続けます。誰かが、またほかの誰かが旗でも、終着点でも完成でもない、日々生きる、ただ、自身というところを問う意味での真摯と努力が、発祥であり、旗であり、進むところ、と思います。

冬のいちじくです。

No.7578 - 2021/03/23(Tue) 11:55:33

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

その先の、ユスラウメ(梅桃)です。

No.7579 - 2021/03/23(Tue) 11:57:34

Re: だんだん 世の中が楽しいです。 / 勘太郎
おなじなのでしょうか?の問いには、葉が陽を浴びてきれいだなあ と答えます。

もしかして、現象=実在って意味ですか

実存とか実在は関係ない様に感じます。「私は在る」との題名の覚者の本がありますけれども、オイラは、私・自分の自覚や意味あいが薄れてきています。私が在る」とは感じません。そう言われたらそうかもしれない?と感じます。陽に照らされた葉を見ている今の気分がこの部屋に浮かんでいるような感じです。その感覚はオイラの身体の中にあるのですけれども。かっこっつけ過ぎた表現ですが。



この頃、流行の言葉で云うと「今に在ると今が楽しい」という感じがします。自己責任はあるのでしょうけれども、オイラがCENSOREDば無くなります。月から見た地球はビー玉の様で、地球が無くなっても、温暖化で住めなくなっても仕方がない・どうでもよいやあ〜です。
そうではあっても、猫の一生君もゴムの木も散歩道の松もとっても愛おしいです。
<<それを思考してないとき、世界は狭くなく、重くなく、暗くないのではないでしょうか。それを思考してると、世界は狭く、重く、暗いのでは?>>ここに書いていただいた気分がすこし解るようなきがします。

No.7580 - 2021/03/23(Tue) 19:48:03

Re: 口笛を吹きながら行こう。 / 勘太郎
真摯と努力で押し進む。

その人なりの進み方が指定されているようです。15年程まえの人にオイラが「神様はいます」と云ったら、彼は「もし神様がいたら、人をこんなに苦しめることはしない。」と言いました。

釘を板に打ち付けて家を作る。釘は頭を玄翁で打ち付けられるし、板は釘を打ち込まれる。丸太は切り刻まれて柱や壁になる。釘や板や丸太にとっては苦しみかもしれません。家ができて、楽しい会話が家の中で行われる。

変化を見ているのは、哀しいときもあり、楽しい時も孤独のときもありますけれども、その実どんな時も充実感でいっぱいなのではないか?と思います。怒っている時や孤独感に打ちひしがれている時も充実感で一杯だとおもいます。

No.7581 - 2021/03/28(Sun) 09:05:21

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

勘太郎さんの文章を読むと、日常の現場が伝わるというか、なにかの比喩も、勘太郎さんの生活に裏付けされたものであることが伝わってきます。

>変化を見ているのは、哀しいときもあり、楽しい時も孤独のときもありますけれども、その実どんな時も充実感でいっぱいなのではないか?と思います。怒っている時や孤独感に打ちひしがれている時も充実感で一杯だとおもいます。

怒りは怒りでいっぱい。孤独は孤独でいっぱい。それそのもの、てことでしょうか。怒りがあって、その人。孤独があって、その人。そのことである充溢、ならそのようです。或いはまた、充実感、というとき、変化を見ているというなにかが、充実感を得ている、・・偏ることもなければ、ただ人、て思います。

誰もが、その人なりの道、そして尚、ただ言葉が導いてくれることが、確かにありますね。たとえば、イエスの言葉によって表現されたことは、道を行くとき、通らざるを得ない門のようなこと、と思います。

どこもかしこも、新芽が物凄い勢いですね。

No.7582 - 2021/03/29(Mon) 01:15:49
自我・世界/真我・実在 / ubik0101
まず自我の仕組み、形式は・・・なにか話します。行動します。思考します。そのことによって、そうしてる主体、中心、が予め初めからあったかのように時間を遡って設定される。です。

つまり考えることによって考える私が設定されるのに、まったく逆に、まず予めある、この私が、こう考えた。私が言った。行動した。私が感覚した。となるということです。

これはごく当然のこと、どうして考える主体なくして、考えることができるか?という、ほとんど疑問にも思えないことが前提になってて、その前提なしには、成立しない有様です。

すこし話が寄り道しますが・・・ちょっとだけ思考がないことによって、静かで平穏で、世界が明るく感じる、といったことも起こったりします。そんな一瞥はたしかに、無思考が切っ掛けになったりします。が、それは思考が問題だということではありません。おおむね思考はその人の状態を正確に表しているだけで、なにか問題があるとしたら、その人の状態が問題なのです。

No.7557 - 2021/03/02(Tue) 12:57:04

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
と、いうだけのことです。なんであれ、ついでだから言うということですが、自己責任なのです。たとえば世界には責任なんかないかもしれません。そこで人が車を運転するとしたら、事故を起こさないように注意する、料理するなら中毒を起こさないように注意する、もちろん何かしないことによっても自己責任は生じます。これから逃げないこと、誠実なことは大事かもしれません。

ところで、この仮に作られてる物事の中心、主体は、自我は・・・仕組み、形式・・・たとえば建物の骨組みだけでしかなく、中身は空虚です。そしてその骨組みだけの空虚は、ないのですから、なんでも知覚でき得ることは、それが思考であれ、感情であれ、行為であれ、宗教であれ、無宗教であれ、取り込まれます。このような骨組みが作られるには、時間、そして空間、の距離を必要とします。

つまり、骨組みだけでその中身は、ないのですが、そのないを世界が埋めるのです。もちろんありもしない空想であれ、その中身になりえます。繰り返します。思考であれ、いわゆる心理的思考であれ、技術的思考であれ、数学の、物理の思考であれ、未知であれ既知であれ、部分であれ、いわゆる全体であれ、そこに差異はありません。ありとあらゆること、世界が、そうであり、自我は世界の映し絵なのです。

No.7558 - 2021/03/02(Tue) 13:17:21

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
そこでおおくの場合、その自分の言ったこと、したこと行動したこと・・・しなかったこと、で、その人が自分と思われる自分が作られるので、結果がその原因を否定するのは困難で、その自我はその自我の言動を否定することは困難です。たとえ現実にそぐわないとしても、間違ってない、正しいとして、疑うことが困難・・・それほど世界は人の空虚に食い込みます。そのようにして愚かな、空虚な自分を守る、ということです。

それでも、その自分のしたこと、話したこと、思考したことは、その自分に、そのまま分かるのです。

とくに自分を見る自分とか、自分を見る世間を、自分を見る神仏を想定する必要はないです・・・たとえば自己責任から、つまりはその自分から逃げるというだけで、嫁いだり娶ったりの、いったい何の人生だったんだ。という、そんな人がいるとして、それもその人がそうしたくてそうしてるほかには何も誰も、そうでき得ないのです。いくらそれを誰かのせい、世の中のせい、生まれのせいとしても、それはそうしてるのはその人であり、それを理解でき得るのも、その人でしかありません。

自分のことを自分で隠しても騙しても隠しても、それが自分の行動、発言、思考に現れているでしょう。その理を見ればいいのです。その人のことはその人に全権があるので、そんなことを他の誰かが指摘しても無駄だし、それができるのは、その自分です。探求は、それか最も簡単なことだし、自己観察、で十分です。

その段階があるとしての説明ですが、誰かの言動を見て、それを非難、批判する。次に誰かの言動を見て、自分をただす。そして自分の言動を見て自分を正す、ならばもう人は戻ることのない道を歩いています。これも繰り返しますが、自分を見る自分、自分を見る世間、自分を見る神仏を設定することなく、そうだということです。自分の言ったことは自分に聞こえ、したことはわかり、思ったこともそのまま分かります。

ほんとうに、自分のために生きるのです。自己主義とか個人主義とかいうことではなく、これば簡単な真っすぐな道です。ふだん人は、さまざまなことをしたり、しなかったりします。たとえば恨み、妬み、主導権争い、あまたの葛藤・・・なんであれ、自分のためにしてるのでしょう?ならば、ほんとうにほんとうに、自分のためにするのです。もちろん、自分のためにするということを掲げて、自分のためにする、ではありません。一人あって、です。理由なく、です。

No.7559 - 2021/03/02(Tue) 22:32:01

Re: 自我・世界/真我・実在 / 勘太郎
励みになります。
No.7560 - 2021/03/04(Thu) 22:42:45

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
その骨組みだけの自我の空虚を埋めるのは世界です。それはその中心、主体、自我を作ってるのは世界、ということです。自分は世界に作ってもらってるのです。なにか話す、行動する、思考する、ことによって、自分が作られるのに、自分が話す、行動する、思考すると見做すのは傲慢とか、無知とかの要素があるかもしれません。

それでもそうならば、世界が作る自我なら、悪いことをせず、善いことをすればいという面もあります。それが良い自分をつくるからです。功徳を積むという言い方もあるようです。ほんとうには、善悪は自我にはわからないでも、素直であること、誠実、真摯であること、自分を騙さないこと、それが探求の灯りになってくれます。

ついでですが、自我にあって、それは世界に作られてるのですから、仮の中心ですから、人としての主体ではないのですから、そもそも自由意志があるはずもないです。というより、自我が自由意志はないと、それがそれを感じると。自由意志についてそれでも考え得るということです。ところでここでわりと大事なのは、どっかで聞いたような結論に飛びつかない、そんなことより、どこまでも自分で素直に探るということです。ところで、

No.7561 - 2021/03/09(Tue) 17:19:16

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
おおむね自我は悪者、とされてるようです。それを撲滅しようと頑張るかもしれません。しかし自我はとてつもない大事です。自我は世界の写し絵であり、たとえば自我、世界が、すべて活動して、自我の中心がない、その仕組み、形式は虚構と開示され、変な言い方ですが、真我が現れます。

自我はそのくらい大事なので、実際、隠したりごまかしたりできるだけで・・・それもまた自我の機能ですが・・・削除は不可能になってるようです。自我は完成されなくてはなりません。その世界は完成されなくてはなりません。人為的にできることは、探求とか、悪いことをせず善いことをする、つまり誠実ということです。

No.7562 - 2021/03/09(Tue) 17:27:38

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
あっちこっち、寄り道しながら話してますが、ここはどうも難しいです。おなじ説明、言葉、思考にしても、逆転、再逆転で、たとえば、ある、ない。も意味は変移するし、一定した視点は実情に付いていかず問題ということもあるからです。

ここでの話は単純には、自我は真我の発現に必要。これだけなんですが、自分があると感じられてても、その自我の中心は、ないで・・・そしてその真我<ある>も、真我にありきって・・・ない・・・となる。のですが、これだけでまた終わるわけでもないからです。

さて、なんでも、たとえば善と悪、優劣、現れると隠す、あるとない・・・その反対のことと、無関係なこと・・・世界の総てが、機能しなければ、真我の発現は不可能なのでしょう。そこで、そのどこにも依拠できないから、中道とも、世界の総ての活動ですから、縁起とも呼ばれます。

No.7563 - 2021/03/09(Tue) 17:57:05

Re: 自我・世界/真我・実在 / hato

こちら元気です。
静岡にきて11年目になりました。

そういえば聖書に、モーセが神に名を問うたとき、主は、「わたしはある、」と言ったと書かれていました。

早春の庭に、小さなスモモ(秋姫)の花が咲きました。待望の実は3年後、・・ubik0101さんと楽しみにしています。研究ノートは、ゆっくり続きます。

No.7564 - 2021/03/12(Fri) 22:51:43
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