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“掲示板”

この世界は人を覚醒させるための触媒です。

ubik0101の探求ノートから / hato
1983/6/27

私はこの世界の基準を知らない。この世界は意味なく存在している。私はこの世界に基準をもたない・・・・。
このことは真実であろうか?

No.7552 - 2021/02/23(Tue) 23:37:21

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

これは私が単に世界を理解できてないからにすぎないのではないだろうか?そして理解できない理由は、私⇔世界という理解のしかたそのものに問題がある、ということではないか。私は感覚や感情や思考を通じて世界を知り、それを知っただけ自己自身を知る。
これでは、たしかにお互いに根拠なく存在するように思えてもしかたない。

No.7553 - 2021/02/23(Tue) 23:38:01

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

これはあまりに自己中心に理解しようとするからである。もし、そうでない見方があるとして、それはどんなものだろう。

No.7554 - 2021/02/23(Tue) 23:38:41

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

ここで思い当たることは、客観的、という言葉です。

もし2つの物事のなかで問題が起こり、基準を決め得ない時、客観的に言えば・・・であるといえるとよく言われます。

これはある種の基準をまま与えることです。ある関係を、ちがう立場から見ること、それだけですでに客観的なのです。それはだから他人から見れば、とか世間の常識から見れば、とか、この思想から見れば、とか。くだんの関係に入ってはいないけれど、関わりはあるものからその関係を見ることです。

No.7555 - 2021/02/23(Tue) 23:39:38

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

けれど、この世界に客観があるはずもないでしょう。どうしたら自己⇔世界を客観できるでしょう。そうできたとして、そうすることはむろん基準を持つことなのですが、その基準が正しいなどということは、どのようにして知れるでしょうか。

この世のなにごとにも基準をおかずに自己を理解しようとする時、自己には根拠がないのを知る。しかし、客観ということはこのようなことを客観するのであり、それは、君は自己中心にものを考えすぎているよ、と言うのです。

しかし、この世のものごとを基準にして自己を知ろうとすることも、彼がいくら客観的だと信じていても、それはまるで客観的ではありません。それは単に主観の変形にすぎないことが多いでしょう。

No.7556 - 2021/02/23(Tue) 23:40:41
ubik0101の探求ノートから / hato

1982/11/17

そのもの概念。

僕は、なぜ自己が自己であるのか知りたい。すこし前まで僕はこの罠、(言い換えれば、遊び、性格、保護    )におちていた。その前提というか、要はなんだったのだろう。それは死んでも自分でありますように。しっかりと自己というものを認識してはっきりとしたものとして示せますように、という心理が働いていたものと思われる。

No.7537 - 2021/02/08(Mon) 22:11:34

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

ところがまず自己というものがあるとして、それは世界のどのようなものごととしても表され得ないということが明らかにされた。(しかし言葉による意味内容というか関係づけによって示されるところものもの形式は?)

そして(経験上ではそれ以前に)人はただ人であるだけでは決して自己ではない 決して人として生まれただけでははじめから自己ではないことを知った。それは他の人を愛すことによって人は始めて自己になるということであった。(むろんこれは僕の経歴によるものだから、これの形式が問われなければならないのかも知れないが)けれど、僕にとって副次的な思考、愛そのものとか自由意志そのものということがらから、自己そのものということを考えることに今、なっている。知性そのもの、惰性そのもの、感情そのもの、感覚そのもの。このそのものというのは、それ自身がそれ自身においてそれ自身として語りだすものとしてしか示されないと、ばくぜんと思われる。

No.7538 - 2021/02/08(Mon) 22:13:23

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

ところが、これらそのものは、実にそれが認知されるのは、それがこの世界、現実と接触して働きとなったその働きと分離して考えることはむつかしい。
(一般に知性といわれる場合、知性そのものと、知の内容つまり知識とその有り方とは分離されて考えられていないように見える)

No.7539 - 2021/02/08(Mon) 22:14:11

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

つまりそのものとは、何かよくわからないけど、とにかく何かであって、内容(つまり対象との運命のなかの現実とか)を含まないでもなんだか有りそうで、でもなんとなく証明できそうではないななんて感じにもさせるものに感じられている。

もし、このそのものということがないとしよう。するとそれは自己がないということとおなじです。けれど、僕はこの自己を感じている。感じていることが誇りであるかも知れない、にしても、それを知りたい。

No.7540 - 2021/02/08(Mon) 22:15:11

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
この前提はなんであろうか?僕はふだんけっこう幸せにくらしていて、生きてる楽しみを味わうにかけてはかなりの達人なのだけれど、その日々のなかでふと、やはり、まだ不足のものを感じることがあって、それが僕に努力を強いる。いま死んだら、おまえは最高に励んだわけじゃない、と。ブッダにならなくて、よいのかと。
No.7541 - 2021/02/08(Mon) 22:15:45

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
12/5

僕が生きている限り、僕は物に執着しないでいられる。いいかえれば、生きている限り、僕は僕自身である。人はだれでもと思うけれど、いつも、すること、考えていること、そのものごと自体に自我を感じるのではなく、常に、その背後に、なにごとか行っている、その、背後に自分を感じている。人はそうでない有り方は死んでなきゃできないから、なにごとか行うことによって、それの背後に自分を感じる、といってもいいかな。この背後というのも変な言い方かも知れない。こちら側に、とか、目の奥に、とか、そんな感じ。体のこちら側に、感覚のこちら側に、意識のこちら側に。この何かよくわからないけれど、とんかくこちら側にある(らしい)自己に自己は執着する。自己であろうとする努力が誤って対象や感情や心やらを自己と誤らない限り、それらを明らかに自己でないと知れる、ところが僕にしてみれば、只今僕が僕であるしかないにしても、このとらわれないことは僕が僕であることのアイデンティティなのである。
(これは多分に物事ごとを考えようとする時だけかも知れないにしても)
僕は僕自身に、自己は自己に強く執着する。ゆえに対象や経験にはあまりとらわれない。まさにまったく自己であろうとする時、自分がお金持ちであることや、有名人であることや、仕事ができることや、なんやかんやで満足できるだろうか。しかしそういうこととしてしか自己を確かめ得なかったことに僕の苦痛はあったのだなと思いかえしつつある自己。

No.7542 - 2021/02/15(Mon) 11:03:56

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

さて、このような自己そのものであろうとする自己。それさえも依存関係によって生じたもの、と仏教ではいいます。すべてのものごとの背後にあり、あまりに明確に感じられるこのものについても。依存関係を見ている、その背後にあるものさえ、依存関係による
と仏教ではいいます。これは確かに理解しがたいことです。けれど

No.7543 - 2021/02/15(Mon) 11:04:49

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

12/15

それを通じて自己を主張できるものほどのものなどこの世界に存在しない。とらわれのない規制されてない、十全の自己であろうとする時、自己はこの世のなにものにもよりどころを見い出さない。
このように自己自身であろうとする時、この世のものごとによりどころを見いださないということが生じるとしたら、よりどこを見いださなく努めるということは、つまり、自己自身であろうとする努力である。
すべてこの世界のものごとは自己でないと考える時、このものごとのこちらがわにある自己である感じは強まる。
このこちらがわにあると感じられる自己があまりに明確に感じられるのが問題であった。
この世界は依存関係に支配され、その本質は知られざるもの(それを通じて自己を認識しようとしてもできないようにしくまれている)ことはダ当なことです。しかし問題は自己。依存関係のこちら側に感じられる自己も依存関係に支配されているのではないか?

No.7544 - 2021/02/15(Mon) 23:27:11

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

たしかに自己自身だって人間としての運命のただなかに在るということはそのことを示している。いや示していないとはいえない、というところである。
感覚対象は燃えている。感覚は燃えている。感情は燃えている。心は燃えている。そして無明に燃えている。

これあるゆえにこれあり
これなきゆえにこれなきなり

仏陀の場合、その根底には無明がおかれる。無明=無知、つまり知られざるものという認識だとしたらその式は成立する。けれど自己はここでは全然限られていない。

自己は全然語られていない。

この世のものを通じてそれを現すすべは全くないけれど、あまりにはっきりとしているもの、自己。

これについて語られていない。


「自分自身を愛すようにあなたの隣人を愛せ」

No.7545 - 2021/02/15(Mon) 23:28:14

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

あなたが良いこと悪いことをしてもいつも神さまが見ていますよ。こう教える親というのは自己がないのであろうか?教師の資格がない。
行いは神が見ている。神が見てなくても自己が見ている。これが当たり前だと思う。

No.7546 - 2021/02/15(Mon) 23:36:10

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
12/21

たとえば、人がとある人に対しての愛情表現として、何か贈物をするとか、何かしてあげるとか、そういうことしかできない。それは単に自己はこの世界のものを通じては表現できない、ということを示すのではない。上のような事実があるということは、人と人との関係がまずそのようであるということは、そのようにしくまれているわけで、そこには確かな理由があるはずである。

No.7547 - 2021/02/19(Fri) 23:32:55

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

ほんのちょっとした心づかい。まったく行動的には人のために行うそのようなこと、まったく人のために行うこと、それも実は自分がそうしたくてするのだ。道にツバを吐かない、床がぬれていたらすべらないようにふく、ほとんどの人のために行うことは、自分がそうしたいからなのだ。この自分がそうしたいといことに気付くということ。人の心のうちにはみずからすすんで人のために行いたいということがあるのです。「すべての恋愛は自己愛です」これは雑多な愛を見て、そこから帰着して言っている。けれど、実際にはそうではなくて、自らすすんで人のために行いたいということが自らのうちから発せられるのです。ここでようやくこの僕という身体のなかに発動する自己を見ることができる。つまり他人の近くにいることができる。

No.7548 - 2021/02/19(Fri) 23:34:17

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

自己自身であろうと努力することが激しければ、この世界のどのようなものにも自己のよりどころをおかない。そして他人との関係を完全なものであろうとすれば、感覚や心の動きで満足しない。

No.7549 - 2021/02/19(Fri) 23:34:47

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

1983/1/2

人はこの世のものごとを通じてしか自己を知ることができない。けれど自己はこの世のものごとを通じては知ることはできない。これは理不尽なことである。そうならば、これには理由があるということだ。

No.7550 - 2021/02/20(Sat) 23:00:20

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

3/25

神は悪魔よりも悪い。

ひとは根拠なくこの世界に生きている。だからどうしてこの世界のものごとに執着して自己を知ることができるだろう。はっきりいって、知ることができないのが当たり前である、ということだ。しかしならばなぜ、この世界が存在するのだろう。

No.7551 - 2021/02/20(Sat) 23:02:06
ubik0101の探求ノートから / hato

1982.9.2

この世が現実であるかどうか、決して誰にも分かりはしない。(この現実という言葉が何を示すにしても。)なぜって、夢の中で、僕ら、これは現実だと何度も確信したことがある、それでそれがリアルな夢であると分かったのは、覚めて後、それを思い出したからである。では、夢だって現実なのだ、見てごらん。夢を見ている人は、眠ってそこにあるではないか?と、こう考えられもしましょう。けれど、僕は現実感というものは、(単に)見る対象、見る感覚、見る自我がはっきりしていることに由来するものではない。それは(単に)この世に、自分の知らぬことが在ることに存すると思います。

No.7515 - 2021/01/02(Sat) 23:50:40

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

つまり僕たちは、考えるにしても、覚じるにしても、生きている間中、自我中心に、見られたもの、考えられたこと、覚じられたものの対象⇔自我のこの関係のなかにつかってそれらの中でそれらについての考えを引き出すということをいつもやっています。(それは単純に、例えるなら相対する2つのものごとしかない場合、それぞれの是非、良悪などは決して判定がつかないということが示しますように)それは全く何の確実性もありません。おぞましい人生です。しかし知らぬものがこの世にあると思うこと、それは自己中心から外れ、(それは特に外に積極的に働きかける考えではありません)この生きることを補正する働きをします。おなじように唯我論は論破できないとも言われます。これも自我の知らぬことをあることを示せばよろしい。この世界をつくった者にどうして、自己の知らぬことがありましょう。(むろんそういうことは、考える者の間には、あるということは、知られているでしょう。けれど、それはその自己が単なる無知の下にあるということです)ま、唯我論にしても、自己と世界との関係から出発する考えのすべての論者に対しても、それを論破しようとすることは、僕にとっても、どうでもいいことです。でも、なんて、苦しいおぞましい、生き方を彼らはしているのでしょう。(自由落下状態にあるロープを上に向かってよじのぼっているようなものです)
何かについて考え、結論を欲す時、(自己とは何?、愛とは何?)多くの場合、正しい前提から出発しなければいけません。でなくては、それが誤っているのは、誤った前提から出発したからであり、さらにそれは誤った心から出発したからだ、ということを示されてしまいます。

No.7516 - 2021/01/02(Sat) 23:52:40

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

しかしこの世についての観サツから得られるものは、決してそれが正しい前提であるか否かのそもそもの始まりからして不明です。あきらかに無知です。けれど考えることはこのような無知から出発するにしても、多方においては、問題の解消に到るによって、むくわれます。つまり現実のまっただなかから人は現実と対とうな立場にまで、考えることによって、自己のその無知からぬけ出ることができます。(これが、この世を自分自身でつくっておいてもこの世に知らぬこともある、ということの有り方です。)だって、そうではありませんか。唯我論は正しくもあるのです。
人はこの世をつくっているのでなくて、なんで、人であるでしょう。また、自己ケンジ欲、知識欲のあることは何故か、ここからみてみると。それは、自分の知っていることから世界をながめたいということは、現実とは何かという問いかけをしたくない、つまり無知の中で暮らしたい、つまり唯我論者でいたいということを示しています。この世界を理解
すれば、つまり世界⇔自己の関係の中でのみ考え得ればしかし実際には、世界⇔自己の関係を意識し、知っていること、そもそもそれはほとんどないに等しい微細な0。世界は知らぬことで満ちているのです。
この知らぬことで満ちている世界
世界⇔自己の関係は無知から始まります。それに対する知らぬものを、その名の通り、知らぬものです。
どちらにしても、世界は知られざるものです。
知られぬものは計ることができません。
すると、自己も世界も知られざるものであると、
言ってよろしいでしょうか?

No.7517 - 2021/01/02(Sat) 23:54:59

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

9/3

知られないものは、測られないものであり、その本性からに永遠のものです。また永遠のものは、知られないものです。逆に知られたものは限られたもので、限られたものしか知ることはできません。けれど、知るといっても、それはそのようにしてであって、本質的
に知る、ということはこの世にはありません。

No.7518 - 2021/01/04(Mon) 23:36:50

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

この世に意味のないものがあるかどうか考えてみましょう。
するともちろん、意味の生じるのは、そこに依存関係のあるからであって、この世に意味のないものは、ないということになります。
けれど依存関係とは、その根本が知られざるものです。いつまでもどこまでも連なっていく関係ですが、その有り方そのものこそ、無知を示しています。つまり意味の意味は知られないものなのです。しかも意味のことを考えることはもともと自己⇔世界のなかにひたって考えてあるのです。知ろうとすることの原因がもともと、依存関係のなかでしか保てないような、なんだかのショードウに在るからです。
人は、もちろん意味のないものを知っていることもあります。世界は、そこから人が意味を汲みだそうとしない限り意味なくそこにあります。ある人が青森という土地を知っている。これは青森には意味がありません。つまり意味のないことを知っているのです。
これは依存関係のなかに入られる意味が生じないことと、意味のない依存関係もあるということです。

僕は自己が何であるか知らない。

No.7519 - 2021/01/04(Mon) 23:39:06

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

すると依存関係といっても、いろいろあることになる。あるいは依存関係の形式であるものがすべてそうだとは限らない。

あるいは具体的な宇宙は無限であり知られない。
そして自己も知られない。この知られないことにおいてこの両者は関係があるか?

あることを知らない、ということに意味があることもある。

ここで意味が

No.7520 - 2021/01/04(Mon) 23:41:03

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
9/8

いつも人は肉体的にも自分の目というものを中心に世界をながめ、自分の頭というもの中心に世界を考えている。
けれど、知られざるものがここに登場し、かえって、(自己⇔世界)の考え方もその根本は無知(いまだ知られてない)という、右を向いても左を見ても知られざるものの(なか?)に自己は(在る?)(といってもそれさえ無知)という非常に気分のよい状態になったのであった。
けれど、それも少し分析してみると、依存関係にもいろいろあって、(というより、)そもそもそれは何なのかまだ僕には知られていないことに気付かされた。

No.7521 - 2021/01/15(Fri) 11:30:02

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

因果関係、依存関係、名称と形態と呼ばれているものは、それは何であろう?という問が立てられた。

時間的なそれ−因果関係

(自己⇔世界)の関係のなかにある時、人は、あるものごとについてもそれについて判定することができない。するためには、とにかく、何か判断してしまって、判断してしまったことによって世界から規制されて自分を判断されること、時間というか人の運命の変化によって結果的にその時点での白黒をつける方法などがある。このような状態では、「すえべてのものごとには結果と原因がある」と聞いたところで、単純に時間に関する因果関係−(そういうものが何か考えられるかい?)と、自己に関する依存関係が区別つきがたい。(自己⇔世界)のなかで自己であろうとする不純な動機のただなかで、時の流れに応じて自己を知ろうとする空しい努力こそ依存関係と呼ばれるものである。

No.7522 - 2021/01/15(Fri) 11:31:00

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

そこでは、自己はこの世界を対象にし、その対象にしたもの(のなんだか)を自己自身のごとく思い込みたいという欲求が見られる。けれどこれでは、自己は何?の問に決して答えられない。本質的に自己を明らかにされない仕方でそれはある。
そのような依存関係のまっただなかで、(さらに)考えられた依存関係というのがある。それは他人を多くはモデルにする。それは人と人との関係による依存関係を見ているのである。そして自己と(空間的)対象との依存関係。
つまり、世界→感覚→意識→自己、(対象性が不可解なのは、すでにサーチライトで対象を照らしていることによる)である。けれどどちらも自己を明らかにしない。
ここで注意すべきは、単なる時間的な依存関係、そして空間的依存関係というものは、それが依存関係のスタイルであろうと、依存関係とは呼ばれないことである。あるいは時そして、空間のなんだかの分析ができそうなところに今ある。

他人を観察して得られる依存関係
自己を観察して得られる依存関係

No.7523 - 2021/01/15(Fri) 11:32:18

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
9/12

自己であろうとする(深まった)努力によって依存関係は生じます。この世のまっただなかで生きているかぎり人には明確な基準というものがない、従って、とにかくわけもわからず何かを決めつけることによって(自己を反って規定してしまうこと)、運命という時間的ケイカを利用した判断などによって、無理やりに自己を知ろうとすることがよく行われます。

No.7524 - 2021/01/19(Tue) 14:11:58

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

これは常に誤ります。(たしかに伝わっていくものというこの世の在り方のひとつを利用して、しかも自己というものが存在しないかぎり、そんなこともできませんが)(それは自己をそのような形式のなかに閉じ込めることであり、それを依存関係と呼びます。これから逃れることはかなりむずかしいのです。自己は知られないようにできているのを知るのは、(多分私がそうであったように多くの場合)、以上のようなことを知ることによってです。知りつくすことによって、自己は知られないようにして在るものだと知ります。そして世界も知られざるものです。ふり返ってみれば、自己とは何?の問が立てられるのは、人が死を意識するからに他なりません。たとえ死んでも自己であろうと欲すことが自己とは何?と問わせるのです。死ぬ者が、この世のものごとによって自己を知ろうとすることは、かなりコッケイです。死ぬ者が、知られざるものであるということは(そもそもこの世と関係なくあることを示さないでしょうか)死ぬことによってこの世と関係なく在り、それ故にこの世では知られざる者であると?

自己とはこの世では知られることのないものとして在ります。

No.7525 - 2021/01/19(Tue) 14:14:20

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

で、もうひとつの考え方があります。対象→感覚器→感覚→意識→  この→印は文字上でのみ一方通行として示される。特定の対象が考えられており、目などの感覚器を通じてあらかじめ←がある。と考えられるけれど、思いがけない出来事においては・・・

けれど、この→印をずーと探追しても、自己には至らないのではないか。例。きれいな女の子がいて、(対象)それを目(感覚器)で見て、きれいと思う(意識)それで恋心を(感情)を持つ

No.7526 - 2021/01/19(Tue) 14:15:51

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
9/13

さて、意識→この後にくるものは何であろうか?
もちろん自我と言いたいけれど、そうではない。(対象⇔意識)総動員で自己を知ろうとする努力、つまり依存関係によっても自我を知ることができないように、これは、すぐに→自己とはならない。(自己とは常にそれらの背後にあるものとしてばくぜんと感じられている。)けれどこの意識→を意識する時、(人のことは知らんけど)僕は、常に現時点を意識する。依存関係を考えている時のように、あの時、この時を思っているのではない。つねに現在に身を置いてあり、かえって、→(意識→感覚→対象)という感じで在る→(意識)の  の部分がどうやら自己という感じのするものであることは、ふだんの生活からしてみんなそうなんだろう。このリアルな時としての、あの時とこの時の自己

No.7527 - 2021/01/19(Tue) 14:17:35

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
11/16

なぜ人が自我でもない、この世のとあるものに捉われ、執着でき得るか?これは不思議です。自分自身によって罠に落ち、また、そうでなくては何かを自己であるかのように思ったり主張したりすることはできませんが、仏教では、それは見解といい嫌います。僕もその通りだと思います。

自己も世界も知られざるようになっている。このことを更に検討しなくてはなりません。

No.7528 - 2021/01/24(Sun) 22:48:43

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

これによって自己がはっきりとしたわけでもないからです。というのは、これが物事の形式(たとえば遠近法)のようなもの、であるかも知れず。
依存関係の分析によってもそれを分析している自分たとえば「知られなくあります」とこういっている僕、それが、わりとしっかりと感じられ、それが問題でもあるからです。
知られなく有っても、有るのでありますから。「知られなくある」というのは認識の形式、つまり概念であり、それはとある罠からの脱出を示しているだけかも知れないと疑うからであります。罠を理解するには、それにかからねばなりません。その痛みのなかで罠そのものの構造を分析すること。そして罠の外でそれを見ることなどの方法があります。

No.7529 - 2021/01/24(Sun) 22:49:46

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

前提という考え方は、罠にかかってる人にとっては重視している言葉です。どんなに正当で理論的でちづぢょ正しい言動と思われても、前提が誤っていればすべて誤りです。そしてふつう人は前提になっているものを意識はしていますが、全然見てはいません。それが罠なのですが、そのなかでこそ多くの場合自己が主張されたりも我が張られたりします。
(そして仏教によればすべての前提は誤っているのです)その論拠になったりするものがこの世の有り方や、何かがかつてあったからとか、他の人の言動、つまり単なるこの世界のなかのとあるものです。これだけを見ても、自我でないものを自我のように主張するのはなぜか、不思議なのです。

No.7530 - 2021/01/24(Sun) 22:50:59

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

僕個人でいいますと、世界のどのようなものも主張する自我たり得ません。それははっきりとしています。けれど僕はまだブッダではありません。罠にとらわれている者を見ることができます。そして罠から脱出する方法を示すこともできそうです。でもどうしたら罠にかかることができるかまだ知りません。たぶん子供のころからか生まれつきか個人としてはいつのまにか罠にかかっていたのかな?と思うていどです。おざなりの説明ではいけません。それと、知られざるにしても自我は在る、このことが僕の多分罠であれば、その痛みのなかで脱出せねばなりません。なぜなら行手には 生と死 ブッダになりたいという願いがあるからです。

No.7531 - 2021/01/24(Sun) 22:52:21

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

たとえば、「神の存在を問う」。これはもし神が在れば自分は悪いことをしてはいけない、というより、神なければどんなことをしてもいいのではないか?それを確かめたい、ということです。というのは実は誤りです。問うことは(今僕は問いませんが)その者の問であり、僕はブッダになりたいというそのようなことがらとして行われるのです。
けれど上記のようなユーワクのなかに落ちやすいこともあります。あるいは、あきらめて問わないかが多いのです。問わないから罠に落ちるのです(ここでは)問うから罠に落ちるのではないく、罠に落ちていることに気付くのです。

No.7532 - 2021/01/25(Mon) 23:47:45

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

愛について。ひとは愛を感情だと(つまり強度の恋、あるいは、そこはかとない恋)のように、また、愛という感情のように思います。また逆に厳しいものであるとしたり、また理性やら誠意やらとします。けれど、それはすべて誤りです。というより、それであってよいもの、でもあるというものです。愛は感情ではありませんが、そうであってもよい。行為ではありませんが、そうであってもよいもの、理性でありませんが、そうであってよものです。では、愛そのものとは何か?当然この問はなされます。それが確かでなければ、それは、そうは呼べないこと。

No.7533 - 2021/01/25(Mon) 23:48:26

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

僕は「そのもの」を問うくせがありすぎるのかも知れません。しかしその前に少し、「自由意志」について考えてみましょう。3,4年前、この言葉を聞いた時、その言葉があるということだけで僕は驚きました。
自我はすべてこの世の有り様に従っていて、自我を世界と分離できず、「自由意志は幸福を求める」などとありますと、とある働く機能のことのように見えてしまいますが、実は、動機に近いものであり、(決断でき得る)ということにほとんど近似なのです。こう書くと自由意志はものではないように見えます。けれど、自由意志そのものも問われてしかるべきものです。

No.7534 - 2021/01/25(Mon) 23:49:12

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

では不思議です。愛そのもの、自由意志そのものを問うとは。そのものが多数あると思うのは不思議です。そのものと、そのものとの関係を問わねばなりませんでしょう。

No.7535 - 2021/01/25(Mon) 23:51:38

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

「知られざる有る」ということが形式であれば、つまり自己の違う認識法があるということになるかも知れないからです。
いかし、それを認識したとて、それもまた形式でしかない?と今から思うのは?です。(それは今の判断でしかないのです)

No.7536 - 2021/02/01(Mon) 23:10:45
謹賀新年 / ubik0101&hato

新年明けましておめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします

2021年が皆様に
素晴らしい一年でありますように。

No.7513 - 2021/01/01(Fri) 21:01:25
ubik0101の探求ノートから / hato
9/9

(学校から)歩いてる時間くらいのところを通ってくる女の子がいる。
その子を送って家までいく。その子の部屋は丸くて石板敷きの床で、まるいテーブルを置いている。家人が帰らないあいだにキスしたりして、外に散歩に出かける。僕はそんなにかわいい子だとは思ってないけれど、口では、そういう。女の子は付き合っているようすを見せる。と、突然息もつけぬくらいの大風が吹く。それで僕は女の子をかかえて歩こうとするのだけれども、全然前に進めない。しかたなく風をさけて土手の下にかくれる。と、遠くの方で教会のような大きな建物がかたむき、倒れるのが見える。宇宙人か何かが攻めてきたらしくて戦争が始まる。僕は女の子をかかえながら、彼女の前髪を手で上げて、おもったよりかわいいのを知って、「うん、かわいい」と言う。彼女は喜ぶ。そして
この(戦争に関係のある秘密を「言っちゃおうかな」なんていう。僕はジェット戦闘機のそうしゃをさけながら一緒に屋根のある建物までにげる。まったくその低空飛行の戦闘機の迫力。あちらこちら逃げる。と、男が出てきて「ここがどこか知っているのかね」という。なんとミグのかくれ基地である。2人でここから歩って逃げたら助けてやろう、なん
てみんなで武装の用意をしている。そこに事故があってミグが次々としょうとつ大炎上をする。目を耳を手をおさえてと、女の子にいって、かべのすみにうずくまる。すごい迫力がみんなをおそう。と、真赤に焼けたミグが部屋に侵入してくる。とっさに僕と女の子の間に机を置いて防ぐと、まるでスローモーションのようにそれが近づき、僕らを圧迫する。男がひとりたおれこみそのミグにうまのりになって言う。「オレはまにあう(大丈夫)だろうか?」ゆっくりミグは後退する。「ああ、助かった」などという男はじゅうじゅうと焼けている。またおなじようにそれから脱出すると戸口には巨大な戦車がいて、僕を狙う。女の子は僕に〇〇人の数字が合わさると〇〇になるようなもの、としてのカギ(それはほんとうにブロック錠なのであきれてしまう)をいまわのきわに僕にわたして「また会いましょう」なんてことを言う。数々の戦闘場面。そして数字を持った人たちが集まり、最後の、その組み合わせのあるところにむかう。そこを守る者たちとのオノとトゲつき鉄球での闘い。そこから命からがら逃げ出す。くぐり戸とかかくし戸とかで保護された世界とは区別されたところにみちびかれる。と、そこには、あの女の子が待っている。

No.7489 - 2020/12/15(Tue) 00:39:19

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

10/12

たとえば誰か好きな人がいて、その人のためには、ほかの人のためよりおいしいお茶を入れてあげたいとか、きれいな服を着せてあげたいとか、いうことが、誰にもあると思います。ならば、そういう人に対してばかりでなく、他の人に対してもそう(なくてはならない)あってもいいのではないでしょうか。そうすれば私は他人にとって、他人なのですし
、私が他人を見てそう思うような、サラリーマンであるとか、喜ぶ人とか、悲しむ人とか、悪い人とか、そういったものです。これは具体的に実行するには恐怖があることもあるし、勇気が必要なこともあります。

No.7490 - 2020/12/15(Tue) 20:36:53

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

もしはじめから罪なく生まれたイエスが人の罪をかぶって死んだということを考えないなら、そうすることができれば人は、イエスより優れた人になるでしょう。(イエスはキセキを起こせましたし、神の子でもあったのです。)。

けれど人は、そうして神の子になれるのです。私が好きな人に対するように他の人にもあろうと努力するとき、きっと、それは愛の感情でも道徳でもありません。ごまかして言うなら性格であり、しかたないことなのです。それははじめから自己保存、つまり自己主張や道徳やらの範囲に入りません。つまり、そういう場合も、そうでない場合もあります。
そういう人々は決していないかも実際には知れませんが、いわゆる普通の人々のけんそうに満ちた生活人情にしばられた常にびくびくした生き方というのは、こういう目からは守られ保ゴされています。まだまどろんでいる子供のようなものであり、それ故許されているのです。

もしかしたら人は、好きな人に対すようにそうでない人にも対することができてはじめて自己になるのではないでしょうか。人は、はじめから自己であるのではないかも知れません。この世界のどのような経験も自己を示しはしません、しかし自己は在ると感じられます。自己の目覚めのまどろみ。

No.7491 - 2020/12/15(Tue) 20:39:25

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

この世のどのような経験も自己を示しません。そしてどのようなことも経験です。これは実に美しい考え方です。けれど(人を愛すなら)この世のどのような経験も自己です。

No.7492 - 2020/12/15(Tue) 20:39:59

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
10/21

けっして人間の力でなし得る(可能性のあるもの)を神に祈ってはなりません。思いわずらってはいけません。そうすると祈るべきことは決して多くありません。キリスト教では復活を望むようですが、それは確かに、そうです。恋も身の上もなし得れば人の力でなし得るものであり、それゆえ思い悩むべきものではありません。しかし人は自分の髪の毛一
本自分では左右できないのです。ほんとにそういうことはほんとにごくささいなことかも知れません。人がみな死ぬということも、そのようなことの部類に入ると同じように考えなくてはならないのだとしたら、復活を望むことが正しいことであるとしたら、そういえます。ラザロは人のうちではじめて復活させられたものであり、イエスは肉体的な死は人
を死に至らしめないというよーなことを言いました。ラザロは再び死んだ始めての人にもなったでしょう。従って人のうちで初めて復活したのはイエスであるといえます。

No.7493 - 2020/12/27(Sun) 23:52:23

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

では望むべき唯一のものは復活でしょうか。それはこの世にはささいなことしか在らぬということで人を安心させはします。もしこの世このままのこの世に永遠に生きるとして、それはただしを逃れているだけのことで、そうだとしたら、さほど魅力あるものではないでしょう。

あるいはさほど死はおそるべきものであるのにかかわらずまた、ささいなことのようです。もし人が復活してそこが楽園でないとしたら、決してそれは望ましいことではありません。

No.7494 - 2020/12/27(Sun) 23:54:13

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

もし復活した人が見出すのは自由意志の存在であり、それがありえる世界でしょう。

神はなぜ自由意志の可能性、つまり人、をつくったのでしょう。なぜ自身に似せてつくったのでしょう。なぜ自身とおなじものをつくらなかったのでしょう。もし神が万能であり無知でもないとしたら、他に何か理由があるものと思われます。たぶん「汝自身を愛すように隣人を愛せ」。人が愛すことを学ぶのでなければ、もしそれが、あらかじめプログラムされているものであったら、自由意志そのものの存在がありえません。人は他の人を愛すことによって自己になるのであり、それは最も重要なことです。それは愛の自覚なしにはあり得ません。

No.7495 - 2020/12/27(Sun) 23:56:18

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

10/27

ですから、「隣人を愛せよ」というのは至上の命令なのです。なぜなら、それによって人は自己になるからです。だれが、自分自身であろうとする努力によって自分自身であり得るでしょうか。だれが単に他の人への思いやりや献身によって自己になり得るでしょうか
。これはまったく正しいこととしか思えません。

No.7496 - 2020/12/28(Mon) 00:00:10

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

11/4

けれど「自分自身を愛すように、隣人を愛せ」です。この自分自身を愛すことと隣人を愛すことのあいだには、深い深いへだたりがあります。そう言われねば、そうしなくてはならない理由など、そこにはないようにみえます。

No.7497 - 2020/12/28(Mon) 22:00:08

Re: ubik0101の探求ノートから / hato


けれど誰も自分自身の快さのためには、努力を惜しみません。小汚い自己ケンジ欲やら、自己ギセイやら、超人的忍タイやら。それとおなじ情熱もって他人に接しなさい、ということならそれは確かにそうしている人にとっては「  」は大切なことです。

No.7498 - 2020/12/28(Mon) 22:00:35

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

そうでないなら、もし、自分自身を愛さない人がいるとしたら、「  」は、馬鹿者に対する命令です。

あるいはまた、自分自身であろうとすること(それはこの世の経験にはすべて関わりませんが)が自己愛であるとするなら、そのように隣人を愛せ、というのは、どういう意味なんでしょう。

およそそこから愛などというものは思いつきされません。そのような自己愛、ほとんどの自己愛は、隣人愛と対立します。

No.7499 - 2020/12/28(Mon) 22:01:46

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

ぼくはいま「  」という言葉は人を愛に導くか?ということを考えているのですが、

No.7500 - 2020/12/28(Mon) 22:02:07

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

「こころ貧しき者は神を見るであろう」この貧しき者とは、求める者のことと解されている。けれどここに2人の兄弟があって、親が「自分のためにすることは、(兄、弟)のためにもしなさい」というとして、それは、豊かな者に対する言葉である。貧しき者に対してそれを言うとしたら、自分自身をあまり愛さない人に言うとしたら、貧富の差がない場合それを言うとしたら、

No.7501 - 2020/12/28(Mon) 22:10:10

Re: 元々、他を愛おしく感じるように / 勘太郎
できている様に感じます。

子供の頃、3歳か5歳?子供用のプラスチックのお椀を買ってもらいました。使い始めて2,3日で底に穴を開けてしまいました。安物で弱く、うどんを食べている時に、子供の力でも突いているうちに壊れてしまった。

 子供ながら困った。親がせっかく買ってくれたものを壊した思いと。お椀がもったいなく思った。せっかく形あるものが使えなくなる。二つの思いで泣きたかった。母親の「おっこわれたんか、しょうがねえな」の事務的な言葉でお椀はゴミ箱に捨てられました。

このお椀への思いは、愛とは違うのでしょうか。
親子・男女部下同僚上司、国。家、自動車。私の周りのモノすべてを自分の一部として取り込み。愛おしく感じます。会社にいた時はノルマで締め付けられて、感謝の気持ちより恨みが強かったのですが、退職して20年も経つといじめられた上司にも多少の愛を感じます。
 オラの中心には何もありませんけれども、囲ってくれている全てのものが愛おしいです。画家の静物画は愛のカタチなのではないか、とおもいます。

No.7502 - 2020/12/29(Tue) 18:37:00

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
11/11

どうして人は自分自身でありたがるのでしょう。

人は生きている限り、この世の生活において状況設定されており、そこからおのずといろいろな意味を与えられています。人が人という種族の一員であること。いま20世紀であること、男で女であること、年令のこと、お金持ちか貧乏であること、才能があることないこと、のなかで生きています。そうするうちに心に苦痛を持つ人は、少しなりとも改善された状況のなかに身を置きたいと考えるでしょう。借家住まいの人は持家が欲しいと、恋人のいない人は欲しいと、知らぬ人は知ろうと、自己のない人はあろうと、他人を制してない人は制したいと思うでしょう。各人いろいろな欲望がありますが、なぜにその人がその欲望を最重要視するかということを別にしても、ひるがえって考えてみて、この世界で僕にとって何が最高の幸福だと考えられるでしょう。どうしたら最も自分が満たされることができるでしょう。日常的にみるかぎり、この日常のなかで与えられてある意味を出ることはなく、そのていどのものなら、どんなことでも人は満足できません。人は世界一の有名人に、お金持ちに、征服者になろうと満足できるようには決してつくられておりま
せん。

No.7503 - 2020/12/30(Wed) 00:10:22

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

いってみればささいなことでしかありません。たとえば人が神になれるのであれば、どうでしょう。この世の意味をこえたものになれるのでなければ、人は、なんにせよ満足できないでしょう。イエスは人の子と自らを呼びます。その意味は、マリアの子であり、物を食べ、眠り、話し、夢を見、つまり、この世に状況設定され、そこで意味を与えられ、そこで生きている者ということです。神に認められた神の子も人とおなじくそうであるということです。根をおなじくする者ということです。もし自ら彼が神の子といったとしたら、この世はつまらぬものであり、全然意味のないものになります。イエスの願いは人が人を愛し、神を愛するようになることでした。僕自身は愛を考えても、自分が他人を愛し、神を愛するように自分がなりたいことです。ほかの人が人を愛すようになってほしいと願うことは、僕には今まで考えたことがなかった。そうである限り、どんな愛も自己愛(でしか)ないのです。どんなに人を愛し、そのためにすべての力をつくしても、自分の欲望でしかないのです。

No.7504 - 2020/12/30(Wed) 00:11:46

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

で、「あなた自身を愛すように、隣人を愛しなさい」ということは、まず他人を愛すことは自己愛ですから、隣人を愛しなさいということは、他人がほかの他人を愛すようになるような仕方で他人を愛しなさい、ということです。それでこれに続く言葉、おなじことだが、あなたの神をおもいをこめて愛しなさい」ということがすこしは見えてきます。「あなた自身を愛すように隣人を愛す」ことと「神を愛す」ことが「おなじこと」といわれています。この場合「おなじこと」とは大切です。たんに自己と隣人を愛すことが神を愛すことになるということではありません。ともにどちらも具体的なことであり、必要なことであるように思えます。

No.7505 - 2020/12/30(Wed) 00:14:39

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
>このお椀への思いは、愛とは違うのでしょうか。

違うとは言えませんが・・・生まれて初めて感じて、それは愛としか呼べない・・・たとえばどんな純粋な高貴な男女間の感情も、恋としか呼べない・・・愛の源は神、実在であり、神、実在と、真我との関係、神、実在からの人を自己として承認する証、その眼差し、愛、

この世界のことではないですが、それでも、それを感じようと感じまいと、つまり知覚を超えて、それは、この世界に溢れてる。こちらが感じたのは、そのような愛でした。

このことが慈悲の源ですが、愛と慈悲は、また違います。また思考で説明すれば、どのような喜怒哀楽も愛が源ですが、、、このことを一言で言うと、

あなた自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。です。

ひるがえって探ってみて、どのようなことをしたら、そもそも人は自分自身を愛せるでしょう。美味しいものを頂く?幸福な家庭?裕福?清く貧しく美しく?・・・このような世界でなし得ることは総て、そうと認識されないでも欲望であり、どんなことであれ、これが自分自身を愛すことかと自問して、そうだ、と答える人はいないでしょう。こちらは、ここに留まった、そのように経緯したということです。

No.7506 - 2020/12/30(Wed) 09:10:46

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

12/22

人は生き、そして死ぬ。なぜこうなっているのかを知りたい。知り得ぬ問ではないと思う。

もし人が死ぬことに何も意味のないことなら、人が生きていることにも何の意味もない。このことを根拠立てようとする思いはたしかにあって、ほとんど確実に思える。この世界のつまらなさ、この世界の無根拠さ、意味の相対的であることにおいて。

No.7507 - 2020/12/30(Wed) 23:20:40

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
ふつう、自己の根拠のなさを知る人は、どんな世間の根拠やケンイに対しても、それに勝る自己の存在を知っている。人の成長というか有り様としては、それは相対的というか対立的なものの考えの時期であるといえるだろう。もっとふつうに考えるなら、この世界で意味が与えられるのは、なにかの関係のなかにおいてであり、相対的なことで意味が与えられる、と解されていいだろう。けれど人の有り様として対立を必要としなくなった時、ふつうにいって、相対的意味は無意味であることをふつうに知った時、自己の根拠のなさは、まさに自己の根拠のなさである。ただ自己は有り、有るといっても生きているからであり、この世の有り様に従っており、それだけのものとしていずれ死に、それだけのものとして無意味のまま生きている。無意味のまま生き、そして無意味のまま死ぬであろう。
No.7508 - 2020/12/30(Wed) 23:22:34

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

ただ思えば、この無(意味)といえど、あのような対立からいって意味といっているのだから、それで当然、まったくちがう系のことだから、そう考えるのは正しくなく、あるいは正しく、ちがう(意味)で考えねばならぬ。とも思えば、思える。あんまり自分のそれは感じ方や意識の主体性=客体性を信じないことだ、とそれはいう。しかしそうであるか?否か?それを必要なら確かめねばならないかも知れない。

No.7509 - 2020/12/30(Wed) 23:23:20

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
なぜこれは赤なのか?と、印刷物を指して問う。ただ(意味もなく)赤であると答える。なぜ甘いのかと、食物を指して問う。ただ(意味もなく)甘いのだと答える。ではなぜ色なのか、食物なのかと問う。ただ(意味もなく)そうであると答える。では(意味もなく)人は生きている。人の生きることに意味はなく、そうすると死ぬことにも意味がない。
No.7510 - 2020/12/30(Wed) 23:25:29

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

これじゃあんまり悲しすぎる。せめて、なんだかの意味を持ちたい、と考えてしまう。けれど、それは絶対にない。もしモージャでないなら、ここで言われている意味とは、すべてささいな相対的な小さな意味であり、それに根拠を求めることは、もうできないからである。けれど、この世界のすべての意味は、この世界から与えられるかぎり、そのようなものである、ということでもある。

No.7511 - 2020/12/30(Wed) 23:26:24

Re: 今年もよろしくお願い申し上げます / 勘太郎
 仕切り直して、さあ歩こう。です。
No.7512 - 2021/01/01(Fri) 07:50:40

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101&hato


ん。

今年もよろしくです。☺☺

No.7514 - 2021/01/02(Sat) 08:45:55
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