150828
“掲示板”
この世界は人を覚醒させるための触媒です。
★
ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
3/28
人が学ぶためには、それが理解できないようになっている。たとえば人が自己を学ぼうとするのは、それが理解できないし、そういうふうにしくまれてあるからだ、といえる。人は学ぶようにしくまれてある。人が人生を理解できないのは、人が人生を学ぶようにしくまれてあるからである。だが、これは本当だろうか。あえていってしまえば、それはそのもの概念(つまり、ものそれ自体を問うようなこと)が理解しがたい由に起こるのかもしれない。ものそのものが理解できないために、この世界および自己をそのようなものとして印象するのかも知れない。
No.7702 - 2021/11/15(Mon) 23:10:29
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
では、言葉で表される ものそのもの はどんなものであるかを調べてみよう。
古代インドの父と子の対話:「この陶器がもともと土であるように、ものそのものを示せ。」「わかりません」
まったくものそのものにしても、自己そのもの、愛そのもの、依存関係などは理解しがたい。けれど人が理解できるそのものが在るのではないか。
(すると、理解できるものと理解できぬものがあるためになにかを考える時にかなり障害になることもある。つまりそこからはそのもの概念を認めるべきである。)
つまり自己そのもの、愛そのもの、依存関係を理解しがたいのは、そのものを問うことがそこで望まれているからだ、ということだ。
No.7703 - 2021/11/15(Mon) 23:11:29
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
しかしこれらは考えて理解することがなされるものではないともいえる。くらしの中で愛し、自己をし、依存関係をするものであるとも考えられる。それは思考ではなく実践であるといえなくもない。もし、そういうものとして理解できるものなら、それは理解できた そのもの といえる。
No.7704 - 2021/11/15(Mon) 23:13:35
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
さて、とりあえず理解できたとしてみよう。すると、人が学ぶのは、それが理解できないからであるということは、どうなるか。
人が学ぶようにしくまれてあるのは、人が学ぶようにしくまれてあると知るまでのことである。人には学ぶことが必要であり、それは人が学ぶようにしくまれてあるためである。
No.7705 - 2021/11/15(Mon) 23:18:41
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
恋とは不思議なものです。人は誰しも人を恋そうと決意して恋しているにもかかわらず、人は誰しもそうしようとしてでなく恋に落ちてしまったものとして考えている間のみ、人は恋をすることができる。
愛とは、それを決意してのみ行えるものなのに(人はそれを感情だとか性向だとか雰囲気だだとかとしてあるものとして考える。)
この2つの場合のそのものを考えてみましょう。つまり恋そのもの、愛そのものを。もちろん両者ともそのものであるから理解しがたい。しかし学ぶのはその時。
この学ぶという意味が、両者の間では大いに差がある。つまりそれらを思考によって理解できるもの、つまり前提として見ている間は、それを理解し解消できるものとして両者ともにそれが理解できないゆえに学ぶように自己は、それは、しくまれてあると感じられる。しかも特ちょー的なことには、そこでは両者はくっきりとは見つめられてない。(それゆえに考えることが可能となっている)
しかし共に両者は理解しがたい。ほとんどできない。だからそれが理解できないから学ぶようにしくまれてあると見える。
恋を理解できないのは、それから学ぶようにつくられていあるからだ。(思考によって)
愛を理解できないのは、それから学ぶようにつくられていあるからだ。(思考によらずして)
No.7706 - 2021/11/18(Thu) 23:19:08
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
思考によらずに理解する
学ぶということは意識的に行われるけれど、それが解消されてはじめて学ぶことが可能になるのです。学ぶということが思考されなくなって、実に学ぶということが行われる。
あまりに鮮やかに学ぶということが現れる。その必要性が考えられてある時は、真に学んでいない。しかし学ぶということが現れるのはその時である。
たしかに理解できないことから学ぶようにしくまれてある、けれど思考から見ると、たしかにしくまれてあることがケンザイ化するけれど、実にそれは、思考しないで見ることから見れば、ケンザイ化しているということは、まだそれがなされてないからであるというように見える。
No.7707 - 2021/11/18(Thu) 23:21:06
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
たしかに愛は理解できない。そこで人はそこから学ぶようにしくまれてある。思考によっても、思考によらないでも。
つまり人はしくまれてあるけれど、それは人としての努力というか、レベルというか、世間というか、時代というか、そういうものとしても、あの人は、世間が前提であって、それがルールであって、それを知るようになければならないようにしくまれているのにねー。などということは、まだまだ甘い思考だ。
人がしくまれてあるのは、そういう考えられてあること以上に、まったくしくまれてある。
僕はこの世界の誰もが愛そのものを理解できないといいと思う。
ところで、「自分自身を愛すように、隣人を愛せ」の、自分自身そのもの、愛そのもの、隣人そのものをさて、誰が理解できるだろう。
No.7708 - 2021/11/30(Tue) 22:55:16
★
みどりの庭から
/ hato
引用
急に秋らしくなりました。秋といえばコスモス。一斉にパッと咲くのがすき、と言ってた人がいました。ほんとにそんな感じですね。
静岡の、とあるコスモス畑の風景から。
No.7696 - 2021/10/19(Tue) 23:39:18
☆
Re: みどりの庭から
/ hato
引用
幸せ感満載な光景です。
No.7697 - 2021/10/19(Tue) 23:41:02
☆
Re: みどりの庭から
/ hato
引用
風に揺られてさざめくコスモスたちでした。
No.7698 - 2021/10/19(Tue) 23:44:26
☆
Re: 猫が元気になりました。
/ 勘太郎
引用
黒猫が猫エイズを発症したのかもしれませんが、元気がなくなりエサもたべなくなり、しんぱいしましたが、元気がなくなってから10日ほどでほぼ回復したようです。
エイズの猫は寿命が短いようです。このまま回復して長生きしてほしいです。
当地ではしばらく雨が続きました。昨日から抜けるような青空で持ちがよいです。まだ手袋無しに、朝の散歩しています。晴れていれば夕方は4時半までは明るいです。
勤務先のテナントさんの営業も24時までにもどりましたが、納入業者さんの話ですと、ススキノの飲食街の納品量はなかなか戻らないと言ってました。ホテルは戻っているそうです。
景気が良ければ全て良しではありませんけれども、そろり、そろりと様子見してから、ススキノにくりだすのでしょうか・・・
No.7699 - 2021/10/25(Mon) 08:41:52
☆
Re: 猫は回復したようです。
/ 勘太郎
引用
原因不明で元気がなくなり、原因不明ながら元気さがかいふくしました。
No.7700 - 2021/11/06(Sat) 19:58:01
☆
Re: みどりの庭から
/ hato
引用
黒猫、とてもよかったです。
原因はこの世界に。不可思議ですね。
うちの黒猫。牙が3本ないので、ときどき舌が出てます。
No.7701 - 2021/11/07(Sun) 18:41:29
★
(No Subject)
/ ubik0101
引用
ひとり言。
なんでもいいですが、猫、庭、窓、遠くの山・・・時計の音、鳥の声・・・キッチンの流し台、水、コップ、水を飲む感覚、手、腕、足・・・それは見え聞こえ知覚されます。対象になってることです。
それは自分ではない・・・自分の年齢、性別、名前・・・それは自分ではない・・・これは思考実験ではなく、事実そうです。
ここで、まったく自分は、対象にならない、どこにも見つからない自分で自分を感じられない・・・その探してる自分も探されてる自分も、ないということ・・・は、その人が完全に、その人だ、ということです。
No.7675 - 2021/10/03(Sun) 19:31:16
☆
Re:
/ ubik0101
引用
つまり自分で自分を感じられないということは、対象にならないということで、その人がその人だ、です。
たとえばですが、人を変えようとしてもできない、自分を変えればいい。そんなことを言う人がいます。でも、その人は、まったく自分を変えることがない、私、私、私・・・ありもしない自分の権利を主張する。
その人の思考はその人ではない・・・そんなことはあるでしょう。
まあ、どうでもいいですが、虐められて育った子供と自分で決める子供は、自分を守るようになる。ない、自分を守るようになる。自分を守るために、嘘をつき、傲慢で、被害妄想で、知ったかぶりで、卑下する人で・・・人を変えることはできない、自分を変えればいい、ということその言葉が、嘘。
No.7676 - 2021/10/03(Sun) 19:41:00
☆
Re:
/ ubik0101
引用
どこかで聞いた言葉で・・・自分が変わればいいということも、自分のことではない・・・こんなことはいくらでもあるでしょう。それは、虐められてそだった、という自己認識の範疇を一歩もでてない・・・それだけの人生。
そんな私、私、私・・・であれば、対象になるどんなことも自分そのことではない・・・そのことに気がついてないから、対象が、思考とか感情とか記憶とか身体が、自分と勘違いできます。いろんな対象に飛びついて、眼くらましをし、飛びついてる中心を誤魔化す。そんな人は、たとえ真実のことをキリスト教や仏教の聖典のことを言っても、すべて嘘。
そこでその人が、嘘つきだ、自己満だ、現実逃避だ。ということに自分で気がつけば、道の始まりです。というのは自我はそれだけの、技を作って、世界の機能の一端をその人に提示してて、それを学べばいいだけなのです。
No.7677 - 2021/10/03(Sun) 19:47:36
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Re:
/ ubik0101
引用
さて、心理的な話は好みではなく、話を戻します。見える聞こえる触れる考えられることは対象になってることだから、自分ではない。それはそうなんですが、この状況、自分はないという、ない、自分があるのです。
んーその前に、自分はないということはどいうことか?まずは、自我の中心はない、ということです。ない、というのは自我の中心のことです。さっきの例えでは、自己満、自己中な人のその中心が、ないということです。
そして本来の面目、自己。真我。アートマン、それが発現したので、自我の中心は、ない、と自覚された、のです。ない、が自覚されるには、自己が、ある、が必要だったのです。
No.7678 - 2021/10/03(Sun) 19:53:41
☆
Re:
/ ubik0101
引用
一般的には、なんであれ、ない、と解るには、世界、森羅万象を調べつくしてなければ、不可能です。それを体験としては、縁起とか呼びます。(自我の仕組みは何回も言ってるので省きます)。自我、世界の写し絵、世界の総活動。そのどこかにいるわけでもないために、ありとあらゆることの極端でもなく、その中間にいるわけでもないために、中道とも呼びます。
No.7679 - 2021/10/03(Sun) 20:05:32
☆
Re:
/ ubik0101
引用
しかし、このアートマン、真我、自己は、それを捕まえると、けっこう辛いことがあります。それを対象にしてるからです。ということは、対象になってる真我は、対象にしてる自分とは違うということです。
これから、自己を対象にしてる、この苦痛ゆえに、起こった体験を理解するのです。理解して失う、(けれど無くなることはなにもない)。それで楽になっていきます。自己、真我を実感することから、この日常、自己、真我を忘れた日常にあって、ある、ない、の理解が進みます。
その日常、普通の生活。自分は自分で見えない、自己、真我は自己、真我に見えない・・・この日常、自我もなく、無我もない・・・あたり前の日常です。自分は自分の対象でないですから、自分がないも、あるも、ない、の当然のことです。
No.7680 - 2021/10/03(Sun) 20:11:08
☆
Re:
/ ubik0101
引用
ここでA=Aの思考が可能になります。
No.7681 - 2021/10/03(Sun) 20:11:51
☆
Re:
/ ubik0101
引用
すこし振り返りますと、知覚できる総ては自分ではない、つまりA=Aではないということです。これではA=Aの思考は困難です。言うことが、総て嘘という状態です。これは、知覚対象と、あろうとなかろうと、自分、ということとが同一でないのです。こんなことを理解することによって、
ここで自分があるとかないとかもなく、ふつうの日常で、世界の総てが働き、これ、は、これ。A=Aの思考になります。
もちろん、たとえば、自分が変わればいいと言ったから、実際、自分が変わるといった、不言実行、とかいうことではないです。
そんなことではなく、そう、であることを、そう、と認識する。A=Aです。これは、世界の総てが機能しています。嘘も真実も、偽善も傲慢も、排除されるのではなく、機能してるから、あるもないも、それで、A=Aが可能です。
No.7682 - 2021/10/03(Sun) 20:20:09
☆
Re:
/ ubik0101
引用
ところで、どこかの掲示板で、たぶん久しぶりに見た渡辺充さんの掲示板だったか、
自分は世界のどのようなことでもない・・・自分はどのようなことでも、ないでもない・・・自分は世界だ。
というのを見ましたが。これはたとえば紙の裏表、現象と実在、空と色、あるとない・・・二項目がすでに前提にされてる範疇での思考です。そうでなく、
自分は世界のどのようなことでもない・・・自分はどのようなことでもないでもない・・・ということは、元に戻るわけではなく、さらに自分は、まったく自分は、どのようなことではない、です。自分は対象にならない・・・では、自分は、あるでもないでもない、です。
こんなところで、見るは見るである必要はないのに、見る。聞くは、聞くである必要はないのに、聞く・・・思考は思考である必要はないのに、思考・・・これ、は、これ、でなくていいのに、これ。
No.7683 - 2021/10/03(Sun) 20:27:26
☆
Re:
/ hato
引用
そして、いまとここ。
それは、言葉で規定してしまうなら、人がちゃんと生きるための、。自己探求に入るための、。プレパレーションのようなものです。一度くらいは言葉に置き換えて・・・みたなら、もう不要。いつまでも準備に拘泥せず、さあ進もう!ではありませんか?
帰り道の、初秋の夕空の、うつくしかったこと。
No.7684 - 2021/10/03(Sun) 21:48:34
☆
Re:
/ ubik0101
引用
ところで、のりさん(どうしてるでしょう)から、この掲示板で何か質問があったとき、世界は対象にならない、この日常です。と答えたことがあります。
見えはします。聞こえています。でも、それぞれとしては、猫、窓、遠くの山、キッチン、水・・・世界は、対象ではないです。
こちらの人が、あるとかないとかでない、見えてる世界は、とくに対象ではないです。
たぶん、こちらの人がある限定なら、その、ある、ではないことと別の、ある、猫、遠くの山、世界は対象なのかもしれません。
あえて項目を立てて言うと、自我と真我、あるとない、人と世界・・・入れ子構造のようです。螺旋階段でもいいです。
No.7685 - 2021/10/04(Mon) 09:40:45
☆
Re:
/ ubik0101
引用
ひとり言、ですけど、どなたでも鋭い突っ込み、また疑問、質問。を期待しています。
No.7686 - 2021/10/04(Mon) 09:41:22
☆
Re:
/ hato
引用
懐かしい、のりさん。お元気だといいです。
ここのところ、ページがよく閲覧されているので、ubik0101さんも楽しみにしてます。
なんともいえぬいい日和が続いてます。先日からもう一枚。
No.7687 - 2021/10/04(Mon) 23:57:28
☆
Re: ここが理解できないです。ワープに感じます。
/ 勘太郎
引用
〉つまり自分で自分を感じられないということは、対象にならないということで、その人がその人だ、〈
ここが常人(無明の人)が理解できない、飛び越えられない。(AはAでない、故にAはAである。と同じ理解できません。以前解ったような気がした時もあったのすけれども、いまは理解できません。)
自分を5感で感じることはできない。対象は自分ではない。
その人がその人とは、自分を感じることのできないその人が、自分である」というこでしょう。
感じることができない自分が自分。
頭がぐるぐる回って思考力が過回転して白くなります。白くなったこの無思考のところが即今だと思っています。過去未来のない五感だけの世界。ここで、五感の主体を探します(思考が発生してしまいますが弱い思考なので無視)五感の主体は無い様に感じます。思考実験です。
思考実験を止めれば、頭が疲れて眠くなりました。繰り返しになります。自分を探すと胸の辺りなどに、広い無限の空間が感じられます。こいつが自我です、たぶん。島の自然農さんも、これを勘違いしているとわたしは見ています。無門関の前庭だと思います。
この無限の空間のさらに外側に、私の感じることのできない、真我があるのだろうと思っています。探しても無駄。この自我の空間もなかなか良い気分です。最終着地点ではありませんので注意します。
今日は終日予定がないので、ぶりの照り焼きをつくろうと思います。いままで上手にできたことがありません。
No.7688 - 2021/10/06(Wed) 10:05:45
☆
Re:
/ ubik0101
引用
もし仮に例えば・・・一度も嘘をついたことがない、怒ったことがない、悩んだことがない・・・幸せに生まれ幸せに死んだ・・・なんだか知りませんが、そんな人がいるとします。
その人は、自我ではないのでしょうか?
あるいは、ある時は自我、ある時は真我、ある時は無我。人って、そうなんでしょうか?
たとえば雲が消えると青空になるように、自我が消えると青空。そのように邪魔な自我は削除されれば、オーケーなんでしょうか?
それなら、自分の中?から自我を避けて、真我を見つければいいでしょう。それは最初から真我は真我ということかもしれません。それでいいなら、それで、なにも反対はできません。
まあ普通は自分のことが見えないということは自我もそうです。自我も自我を自我と認識できないです。眼が眼を見えないというのは、その意味もないことはないでしょう。真我は真我を見えない。あくまで譬えですが、オクターブの違いがあるのではないですか。
ふつうは、このあたりの理解は自我の死とか、そんな体験がなければ、超困難でしょう。
いつか渡辺さんが公案の体系はよくできてる。でも見性しなければ、、導きようがない、と言っていましたが、そうなのでしょう。
あんまり脂が乗ってない鰤なら、醬油に漬けて、バターで照り焼きにしています。それと弱火で長時間というのが、効果あると思います。
No.7689 - 2021/10/06(Wed) 20:20:44
☆
Re:
/ hato
引用
いつまでも、ここで気持ちよく腰を下ろしていても始まらない・・ではないでしょうか?。
いま問答しても、おそらく、埒は明かないでしょう。言葉から理解されるためには、さまざまな準備が整う必要があります。また、言葉から理解されるとしたら、すでに理解されているはずです。
時間も必要です。人とのやり取りで、なんとかなる、だけのものではありません。
掲示板と本編を読むことは、わかろうとわかるまいと、とにかく読むのは、わるくないと思います。疑問は放りおきます。だれか尋ねません。何回となく、いつまでとなく、これも修行ではないでしょうか。
あるいは、まったく捨て去る。日常はそれだけで、学びの宝庫であると思います。
金木犀がむせるように香ります。
No.7690 - 2021/10/06(Wed) 22:07:49
☆
Re:
/ ubik0101
引用
>自分を探すと胸の辺りなどに、広い無限の空間が感じられます。
その無限の空間を、あるいは真我と、あるいは偽の真我と、あるいは自我と・・・どう呼ぼうと、それを胸のあたりに探してる、その(見えない)主体、それが・・・とんだ盲点ですが・・・自我なのでしょう。
No.7691 - 2021/10/08(Fri) 19:29:17
☆
Re:安住することなく、精進します。
/ 勘太郎
引用
照り焼き、弱火でじっくりですね。次回はこれに注意して作ってみます。今回は今まででは一番よく焼けましたが、身が固くなってしまいました。それにしょっぱすぎました。レシピみると醤油・みりん・酒、各大匙1一つとありましたので、そのとおりにした。醤油は半分でよいと思います。
安楽に安住しないように注意します。
暇を見つけて、とっかえひっかえ眺めます。
きんもくせいの香りは解るようなわからないような。子供のころ北関東ですから庭にあったような気がします。
大きな植木鉢にバジルを植えています。毎朝シャツの胸ポケットにちぎって入れて、コロナでないかの匂い判定機に使っています。バジルがにおわないかった、重篤に区分されるとおもいますが。
No.7692 - 2021/10/08(Fri) 19:36:08
☆
Re:
/ ubik0101&hato
引用
いつか、よい便りを期待してます。
No.7693 - 2021/10/09(Sat) 00:36:48
☆
Re:最近やっとこれが自我だとわかりました。
/ 勘太郎
引用
> >自分を探すと胸の辺りなどに、広い無限の空間が感じられます。
>
> その無限の空間を、あるいは真我と、あるいは偽の真我と、あるいは自我と・・・どう呼ぼうと、それを胸のあたりに探してる、その(見えない)主体、それが・・・とんだ盲点ですが・・・自我なのでしょう。
自我をきりりと見つめています。自我が自我を見つめてどうなるの!??が本当のところでしょう。自我で自我を引っこ抜こうとしても、できるはずがありません。
よそ見をする、あるいは無視しようとしても、こんどは自我がこちらに居座ってしまいます。
ラウンドアップ(除草剤)でこの自我を根こそぎ退治できるとよいのですが、自我退治用のラウンドアップは無いようです。
No.7694 - 2021/10/09(Sat) 19:39:51
☆
Re:
/ ubik0101&hato
引用
それまで思いだにしなかったけど、自分は自我なんだ。これに気づいても特に、することはありません。すぐに忘れて、絵とか日記とかの自分の探求を続けただけです。
ubik0101
自我は除去するものではなく、成長するものです。生を受ける誰もが、よく生きようとするなら、成長するしかないのでしょう。
御託はいらないです。本当にそれしか、ないと思います。
hato
No.7695 - 2021/10/09(Sat) 20:34:21
★
言わずもがなですが。
/ ubik0101
引用
ここに至るには道がない・・・開示されてる始源の風光・・・もとより自分があるとかないとかもなく、明るい青空、緑の庭も、あるとかないとかでなく、初めからここにいるもなく、行き着いたもなく・・・ここには至る道がないです。しかし自我を学んできたのです。
たとえばテレビだけでしか知らない、政治家、タレント、あるいは隣人、上司、部下、掲示板の投稿者・・・その人のことを考えることがあるでしょう。あの人は人格者に見えるけど、偽善者だ。自己顕示欲の強い人だ、いい人に見られたい人だ。自我な人だ・・・そう考えることがあるかもしれません。
そのように考えてる自分は何だ?たった、これだけです。ここで、たとえば誰かを自我な人だと思考するならば・・・その思考をそっくり自分に向けるのです。誰かに向けてる判断の剣・・・その返す剣で自分で自分を切るのです。言葉は両刃の剣とするのです。
No.7656 - 2021/09/13(Mon) 18:26:42
☆
Re: 言わずもがなですが。
/ ubik0101
引用
そして、自我って、自分は言ってるけど、自我って、その意味を知ってるのだろうか?自分の意見を強く主張すること?違います。自我というその意味を解ったら、事実。人間卒業です。なのに、その意味も解ったつもりで無知のまま、誰かを批判した。この自分は何だ?
言わずもがなでしょうが、内省とか、反省とかさえ出来る人はすくないかもしれません。考えるべきことを考えず、考えなくていいことを考え、苦悩や、葛藤、逆にそんなことを切り捨てているだけの人生、これらもすべて、その人がそうしたくてしてる、自己責任です。
そんな人を誰も助けられる人はいません。その理由は簡単です。人は自分を助けられるからです。その人がつまらない人になろうと、情けない人になろうと、その人だけの責任です。それは、その人のことは、その人に、完全に任されてるからです。
たしか宮沢賢治だったでしょうか、みんなが幸せにならなければ、自分は幸せにならないとか、言ったそうです。いいえ。自分が幸せになればいいのです。津波てんでんこ、です。みんなが、みんな、それぞれ幸せになるのが、最短、最速、最善・・・直行です。
No.7657 - 2021/09/13(Mon) 18:38:38
☆
Re: 言わずもがなですが。
/ ubik0101
引用
すこし纏めます。誰かを判断したら、その返す剣で、自分を切り返す。効能としては、投影を破るということもあるでしょう。言葉の意味を・・・偽善であれ、判断であれ、悪であれ、善であれ、神であれ、欲望であれ、無であれ、仏であれ、世界であれ・・・考え抜いて、
さらに考え抜いて、これで完全だというところまで定義します。定義したら、一つの事例だけではなく、ありとあらゆる事例に、世界中にそれを適応してみます。そのくらい考え抜いたら、やっと言葉の、思考の破綻が、不整合が見えてきます。
そこで、この完全に用意された言葉、思考に使われるのではなく、使うことになります。あとはどうなるとか考える必要はないです。探求が探求を導いてくれます、そんな言葉、思考は、絶妙というか、それは辞書など見なくても、その意味を教えてくれるのです。師は言葉でした。
No.7658 - 2021/09/13(Mon) 20:02:47
☆
Re: 言わずもがなですが。
/ hato
引用
近くの山道で、発芽したばかりの山椒の芽を見付けて、持ち帰ってプランターに植えて2ヶ月余り。当初は茎がすこし折れていて心配でしたが、元気で嬉しくなります。ubik0101さんと出会った頃から、そういえばいつも、山椒の小木が近くにいます。なんともいえず絶妙、崇高な葉の香り。散歩していて、見つけるのが小さな楽しみです。
No.7659 - 2021/09/13(Mon) 21:04:59
☆
Re: 言わずもがなですが。
/ ubik0101
引用
さらに言わずもがなですが、自分がこのような人なのは、生まれのせいだ。親のせいだ。時代のせいだ。貧乏なせいだ。恋人がいないせいだ。世界のせいだ。裕福なせいだ。恋人がいるせいだ。と、決めてるのは、その自分です。自分で自分のことを決めてるのです。
あの人は自我な人だ、意地悪な人だ・・・そう決めてるのは、自分でしかないのです。ほかの誰もそうでき得ません。(誰かが馬鹿と決めつけたとしても、馬鹿になるのではないです)。そのようであって、そんなとき、人は、その自分は、自分に見えるでしょうか。
たぶん自分で自分の中身、奥は、見えないのではないでしょうか。ここでの自分で自分が見えない・・・それは諸悪の根源です。それは、いわゆる外と内にバリアがあるのに気がつくと・・・それを何とかしようとする気持ち、これを突破しようという決心。
まったく忘れていましたが、そんなことが起こりました。もしかして、ほかの誰かには、自分の中身が見えないだろうと空想してるので、自分でも自分の中身が見えないと設定されてるのかもしれません。(人と人の間に紛れ隠れてるということです)。
ありとあらゆる人に、この自分の中身、心、思考が、素透しだとしたら、自分は自分に自分を隠しておけるでしょうか?自分に嘘をつけるでしょうか。騙せるでしょうか。探求とは、適時適時に、たとえばバリアを突破する、うまい方法?が(そのことが学ぶということ)が見つかるのです。
No.7660 - 2021/09/16(Thu) 21:34:03
☆
Re: 言わずもがなですが。
/ hato
引用
数日前に、賑やかな燕たちが南国に旅立ったようで、たわわに実って揺れる、穂波の上は少々寂しくなりました。庭は露草が美しい頃です。
No.7661 - 2021/09/17(Fri) 23:04:24
☆
Re: 言わずもがなですが。
/ ubik0101
引用
もっと・・・言わずもがなですが、自分が嫌で嫌でしょうがない人でも、違う誰かは、その人を好きかもしれません。つまり、その人を嫌いということは、自分の勝手な判断です。万人?世界?にあって絶対の事実ではないということでしょう。
また貧乏のせいだ、裕福のせいだと、自分の状態の理由をつくるとしても、もしかしたら、理由は理由にしてるだけで、理由にならないことを理由にしてるのかもしれません。なにか仏教かキリスト教かの聖典でみた気がしますが、
空に石を投げたら自分に落ちてくる。誰かを嘲るとそれはその人に戻ってくる。そんな考えもあるでしょうが、その人は嘲らなくても、つまり対象を設定されてなくても、その嘲る人なのかもしれません。
そこで思考や、感情は、その裏打ち、理由として仮に支えてるだけかもしれません。と、気がつくそこで、そのように判断、認識する自分が・・・ここ(a=aの思考ができない、ここでは)ですが・・・そのように判断する自分であるということができるでしょうか。
この自分はこう考えてるけど、思考は事実なのか?では事実とはなにか?主観とは、客観とは?嘘の理由と、事実の理由。思考とは何か、言葉とは何か?あまりに当然ですが、思考と現実を区別できない状態もあるようです。
この自分の言葉、行動、思考を見るほか、なにかでき得るでしょうか?ここは考え抜いて、考え抜いて、結論に飛びつかないこと、不可知とも、言葉では言えないとかも言わないこと、そんなことが、とても大事だということがあります。
じんわりと、なにも判断してない自分、その日常に生きることになります。なにか探求は特別なことではなく困難なことでもなく、日常なんです。この日常・・・たとえば、嫉妬することがあったら、それから嫉妬の構造、仕組みを学べばいいのです。
嫌うことがあったら、憎むことがあったら、それからその仕組みを学べばいいのです。思考するなら、思考から思考を学ぶのです。自分から自分を学ぶ、それ以外になにか方法があるのでしょうか?すると世界はその時々に手助け?してくれます。
No.7662 - 2021/09/20(Mon) 20:05:14
☆
Re: 言わずもがなですが。
/ hato
引用
・・いまここ・・総てはひとつ・・・それはこの腑に、落ちかねます。それは本当に、自己を探求した言葉だったでしょうか。
稲穂がたわわになりました。
No.7663 - 2021/09/21(Tue) 23:11:24
☆
Re: 島の自然農という方の動画で26分から
/ 勘太郎
引用
幸せを求める方法は自分とは何か?と問うことで実現する。自分とは何か?と問うと個々別々の生命ではなしに、一つの生命である自分に行き着く。野菜も虫も強いては、無生物も無言のコミュニケーションをとつことができる。こんな主張だと受け取りました。
私には。一つの生命だと言われてもそうなんかなあ??全体で結果として調和のとれているのが地球だかあと思います。
この方は生命は一つを繰り返し説いています。話の中の川口さんは自然農の指導者です。自然農って100年前は自然農しかなかったので、懐古趣味的に感じられて、私には100%賛成とは思えません
No.7664 - 2021/09/25(Sat) 21:25:51
☆
Re: 言わずもがなですが。
/ ubik0101
引用
それで誰かを判断してる自分・・・判断は勝手な判断・・・これはもしかして、傲慢なのではないだろうか?そして完全に自分が傲慢でないなら、微かも傲慢とか疑い考えることもしないだろう。自分で気がつかなくても、傲慢なんだろう。このように考えました。
こんな思考が総てに適応されるわけでないでしょうが、その時にはこれが適切な思考だったのです。(なにかを判断するそんな移ろう消えていく思考、傲慢との関係でそれがそのとき意味になる。ほかのことも固定されたことでないのですが)
くり返しますが・・・何かを判断する前提である、傲慢、それはまったく当然なゆえに隠れてて、見えてなかったことに気がついた。そこで起こったことはこれだけですが、隠れた無意識と見える顕在意識の区別をする必要がなくなりました。たぶん正確には、小さな窓が開き、
ここは透明なジグゾーパズルを組み立てるような、これだから次に繋がるには、あれに決まってるというわけでなく、じんわりと発見が発見に繋がっていく展開です。たぶんどこから始まっても、少しずつですが、理解は意識、無意識の全部に繋がっていきます。
たとえば判断なく生きる。理由なく生きる。理由なく生きるもなく生きる・・・それは理由あって生きるではなく、まったく理由があろうがなかろうが、それに依存せず生きるということです。それまでも明確ではなく、潜在的にあるのですが、
また公平であろうとすることが、意識化されたのでしょう。新入社員にも社長にも同等に対応する。傲慢でもなく、卑下もせず、そのように生きる。そう考えるだけでなく実際、それを体当たりで生きるのです。こんなことは自分でそうしようと意図してしたことでないです。
No.7665 - 2021/09/27(Mon) 12:41:57
☆
Re: 言わずもがなですが。
/ ubik0101
引用
ところで、
いい仕事やパートナーに恵まれることの幸せと、自分とは何か?での幸せは違うということでしょう。どう違うのでしょう。
それにしても、どのようにして自分とは何か?を探求したのでしょう。それが話されてるビデオとかあるのでしょうか。
自分とは何か?それはサラリーマンでも、トラック運転手でも、誰でも同等ですが・・・なぜ自然農なのか?とも思います。
一つというのは、虫、人、植物など見えることでの範疇のような、見えないことが度外視されてる印象です。
No.7666 - 2021/09/27(Mon) 16:13:55
☆
Re: 言わずもがなですが。
/ hato
引用
自然農。 電脳社会で電波電磁波が席巻すれば、自然回帰の思想を実演しょうとする向きもあり、たしかに森羅万象、その節理は人智を超え、そこに寄り添いたいというのは、肉体として生きる人の本来的希求でもあるのではないでしょうか。として、世界のあらゆる物事を眺めて、
すべては個別である、
すべて個々は繋がってる、
すべては一つ、
と見るとすれば、それは人が支点として世界を水平方向に眺めて、折々に見たものを繋げ、纏めて思考するために、そのように帰着できる・・こともあるかも知れません。
もし人が、言葉と共に、自らを掘り起こす垂直の向きの探求にあったなら、その自己探求にはまた、別の表現があるかも、知れません。
自分とはなにか、を思考探求するとき、意識の進行方向、その前提となる形式は、意外と大事なことであります。
No.7667 - 2021/09/27(Mon) 16:45:51
☆
Re: どうしても言葉尻を掴んでの話
/ 勘太郎
引用
になってしまうのは、私の今の力しかないとお許しいただきたいです。
なにの目的もなしに生きる、ことができるようになるこれが、今の私の目標!(おかしな言い方です)これで、結果何不自由なくいきることができます。災難には遭うがよきそうろう、死ぬときは死ぬがよし候。
次の瞬間には、hatoさんの意識の進行方向ってどっちだ?意識を自分に向けると意識の方向がぐるぐる自分の中を回転して半径が小さくなって、いまここになるけれど、すぐにどこかにむかっちゃうな。とかおもいます。
現実には、死んだらゼロですから何があってももとの黙阿弥。墓場に持っていけるものはなにもありません。何を書いても最後は消えてしまうインクで書かれた物語です。気が楽です。
とおる君です。散歩の後はマットの上でなく広いところが好きなようです。同じ部屋に暮らしてもうすぐ2年になりますけれども、私に気を許す気配はありません。散歩に出かけるときに首輪をするときだけは近づいても嫌がりません、
No.7668 - 2021/09/28(Tue) 20:01:46
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Re: 言わずもがなですが。
/ hato
引用
目的があってもなくても、しあわせにいこ!て思います。
うちのハイちゃん。我が家にやってきて、もうすぐ1年になります。はじめは気性の荒い、小さいのに、猫パンチが結構痛いと驚いたものです。おこりんぼは変わりませんが、なんかそれなりに、かわいくなってきました。
No.7669 - 2021/09/28(Tue) 21:37:53
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Re: 言わずもがなですが。
/ hato
引用
おでこっぱちの横顔と、甘えるときの鳴き声がチャームポイントです。
No.7670 - 2021/09/28(Tue) 21:41:15
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Re: 無目的の実現
/ 勘太郎
引用
無目的な生き方はできません。カラスも一生懸命に、何も入っていないゴミのカップラーメンの容器をつついています。
いまやっていることに集中が無目的です。当たり前の「今に在れ」です。
今日は夕方の散歩はおいらの担当です。3時ころ出かけて4時ころ終わって、すぐに今夜の遅番勤務に出勤です。ご苦労様ですが、、この16時までの待機時間は束縛されていると云えば束縛だし。考え事をするにはよい時間です。22時には終わるので、負担にはなりません。
No.7671 - 2021/09/29(Wed) 13:56:04
☆
Re: 言わずもがなですが。
/ hato
引用
目的があってもなくても、しあわせに行こう!です。
今年は、ちょっと贅沢。栗三昧の初秋です。
No.7672 - 2021/09/29(Wed) 23:10:20
☆
Re: はっきりわかりました
/ 勘太郎
引用
島の自然農さんがおしゃっている主体が自我です。勘違いされているようです。
あっちこちとさがしまわってばかりです。行き着くまでは止らないでしょうけれど、
気持ちだけは何が何でも一生懸命。です。
おいしそうです。小ぶりですがかぼちゃがほくほくおいしいです。食べ過ぎると胸がわるくなります
No.7673 - 2021/09/30(Thu) 07:46:18
☆
Re: 言わずもがなですが。
/ ubik0101
引用
まったく、 言わずもがなですが。
> いまやっていることに集中が無目的です。当たり前の「今に在れ」です。
それはそうですが、それを目標にしたり標榜したりの見えること、思考されることの範疇ではなくて。探求にあって人は意図しないでも、そう、認識しなくても、そう、なのです。
>なにの目的もなしに生きる、ことができるようになるこれが、今の私の目標!(おかしな言い方です)これで、結果何不自由なくいきることができます。災難には遭うがよきそうろう、死ぬときは死ぬがよし候。
どうして、おかしな言い方、だと自分でも思う?目標にすることでないことを目標にしてるってことでは?誰かの言った・・・災難とか死ぬとか・・・すでに心ここにあらず、では?
たとえば理由なく生きる、とすれば、それに捕まってしまいます。それで、理由なく生きるもなく生きる。となるのですが・・・くり返しますが・・・それは理由あって生きるではなく、理由あってもなくても、それに依存せず、ということです。
No.7674 - 2021/09/30(Thu) 08:00:20
★
言い訳です。
/ 勘太郎
引用
パソコンを変えたので(再生品)住所の移行ができないでいます。
今日は迷子にならないように、ブックマークに住所を記憶しました。
その人とは。勘太郎の後ろにいて、勘太郎の感覚から世界を見ています。勘太郎もその人から見たら外側に属します。
勘太郎は死んだら、その人になります。その人は意識も時間もありませんので、勘太郎には想像のしようもありません。仏教で空とか無とか云うのはこの人の事をいっているのかな?ともおもいます。この人の中には、何にもないも含まれます。ですから、宇宙がないのもその人に含まれるような気がします。想像の世界なのでこれにおぼれてしまうと困ります。仏教では魔境と呼ばれる状態です。
暇な職場がコロナで更に暇です。昨年の6月にコロナでお客が少なくて止めた喫茶店の跡に、また別の喫茶店の入居が決まりそうです。といっても開店は来年の予定でそれまではテナント料金は取らないらしいです。
こんなごご時勢でも、テナント募集していると内覧希望がぽつぽつあります。韓国料理店さんもかなり真剣に考えたようですが、改装費用はテナントさん持ちの契約で、初期費用がネックになってボツになったようです。
しゃぶしゃぶやさんはづっとお休みしています。けっこう盛っていたんですが、残念です。今まではビル自体は12時頃も明かりがついていましたが、コロナ後は10時には全員退館してしまう日も多いです。それで暇がますます増えました。
No.7646 - 2021/08/29(Sun) 17:37:00
☆
Re: 言い訳です。
/ hato
引用
「言い訳です」・・と言われてるということは、あまり腑に落ちなかったようです?。むむー。前のスレッドのubik0101さんの内容は、実際とってもツボたよ!? と思ってしまいましたが、人さまは本当に皆、身体として、意識として、その持てるところの感覚というのが違うのでしょう。真理といって、指し示されるなにかが元来、ちがうこともあるのかも、と思います。勘太郎さんの見ているところは、勘太郎さんの、なにかよい場所なのでしょうね。
さてこちら、
仕事は臨時休業中。お金がないのは困るだろうけど、やっぱり、家でじっくり作業(書いたり、読んだり、見たり、掃除したり、深呼吸したり、眠ったり、食べたり、・・・)できる、休日はいいなあぁ。これぞ夏!を、たっぷり味わいました。家と庭にだけいる生活です。
ubik0101さんは、この時期ちょい簡単な目の手術(でも入院、)を2度受けて、目がまっこと良く見えるようになったですと。なんと幸いなんでしょう。👀
でもコロナ、大変ですね。仕事も自分たちも、出来る限りの注意をしょうというところです。イチジクがたくさん、出来てきているので、画像を載せようと言ってます。
No.7647 - 2021/08/29(Sun) 23:34:54
☆
Re: 言い訳です。
/ ubik0101
引用
ふつうは勘太郎さんの言う、その人、がいないのが、無心とか無我とか、呼ばれることでしょう。うまく言えませんが、その無我と世界のかかわりを空・・・人空、色空・・・と言うのでしょう。
たとえば、私私私と、誰かに自分を認めてもらいたい人がいるとします。そんな人は、その人が、その人自身ではないから、誰かに認められて、仮にでも自己満したいということかもしれません。
そのような誰かに認められたい人は、まず立派な?優れた?自分であってそれを認められたいということなんでしょうけど、誰かに認められるから優れた人だと自分に納得させられる。という誤魔化しをしてることに気づかない愚かさに満たされてるかもしれません。
でなくて、その人がその人なら、それで満たされてるので・・・満たされてないことを埋めるために誰かに認められることは・・・とくに必要がないでしょう。
おなじように自分が自分であれば、自分のほかに、本当の自分とか、仮の自分とか、必要はないです。
もしかして、勘太郎さんのいうその人は、24時間いるような気がするかもしれませんが、それを感じよう、それから感じられようとするから、それがいるのではないですか。なんだか自我がつくった偽の真我かもしれません。
そうだとして、どうすればいい?それは、まったく何の役に立たない・・・これが納得できるかどうかは、かなりの分岐点ですが・・・それで、それは消えてしまいます。ひとりあること、唯我独尊の第一歩です。
それでも、勘太郎さんには、勘太郎さんの道があるのかもしれません、
イチジクは、ロードス。ギリシャ産です。美味しい実ができると、スズメバチが沢山やってきます。
No.7648 - 2021/09/06(Mon) 11:01:32
☆
Re: 言い訳です。
/ hato
引用
もう一枚。
No.7649 - 2021/09/06(Mon) 11:06:44
☆
Re: 私にできることは一つ
/ 勘太郎
引用
気が付いたら、自分の中に意識を向ける。
眠いなあ、疲れたなあ、おなかいっぱいだあ・・・猫をなでると気持ちがいいなあ。
そう感じている自分を見つめる。なんともならないかもしれませんけれども、そこから白紙の自分を眺める。
昨日はのんびり小樽の港で船を眺めたり、穏やかな海をながめたりして、一時を過ごしました。日曜日は港も静かでした。
イチジクはおいしそうです。かたつむりを思い出します。梅雨時には葉にたくさんいました。蜂もいました。あしながバチだたような気がします。
No.7650 - 2021/09/06(Mon) 19:46:45
☆
Re: 言い訳です。
/ ubik0101
引用
いつか言ったかもですが、自我がつくった偽の真我を囮、人質にして、自我は生き延びる・・・それが自分は子供から大人になっても、
結婚しても、老人になっても自分は変わらずにあるその感覚、簡単に言うと自分という感覚・・・もしそれが作られた偽の真我、実際、
それは永遠の命とか天の国を保証してるように見せかけてるだけで、なにもできない・・・ことを見破られたら、それを作ってる、
自我の安全は保証されない・・・眼くらまし、隠れ蓑としての、偽の真我を失うから、、、こちらはこんな経緯がありました。
たぶん幸運なのでしょう。もちろん、おなじ経緯をなぞってもなにも保証できないし、違う経緯があるとかないとかを問題にできることでもないです。
No.7651 - 2021/09/07(Tue) 06:42:09
☆
Re: ぐさりと突き刺されます。
/ 勘太郎
引用
おいら自身のことは解りませんが、他人が真我を語るとき、ubik0101さんの言う事が解ります。偽宗教でも悪意のない真我ごっこは楽しいのです。
偽物はいつか偽物と自覚できて破壊できないものか!と願ってしまいます。
偽物というよりも、こいつは自我だ!と解っているのですが消えません。すぐに出てきます。
えぐり出して、捕まえようと思っている主体が自我ですから。自分の体を自分の腕で天に持ち上げようと願っています。おかしな話です。
ご指摘、ありがとうございます。
No.7652 - 2021/09/07(Tue) 20:21:36
☆
Re: 読み落としていました。
/ 勘太郎
引用
なにもできない、偽物真我。
触れないし、おいらに接触もしてこないし、傷つきもしない。これが偽の真我の具体的な姿です。
No.7653 - 2021/09/07(Tue) 20:25:46
☆
Re: 言い訳です。
/ ubik0101
引用
ときに・・・ここに至るには道がない、と言われることがあります。そうです。たしかに至ったら、道がありません、しかし、道を通ってきたのです。それが自我です。自我を学んできたのです。
おそらく勘太郎さんは、知識があり、結論を急ぎすぎでしょう。おいらとか、私とか、の中心を、まず見えないことを、見ようとして探ると固着してる?それを探る必要はないと思います。事態は、もっと簡単です。
ああこれは、こういう働きをしてるのかと、自我から、自我が、自我の振る舞い特性、を学べばいいだけです。(自我は神羅万象の写し絵です)、見えることを大雑把でなく、敏感に正確に見ればいいのです。
たとえば、タカビーな人は自分がタカビーと気がつくことが、卑下する人はそうと気がつくことが、自己責任を引き受けない人はそうと、狡ければ、知ったかぶりなら・・・そうと認識することが、その一歩です。それはたぶん誰にも、すでに用意されてるでしょう。
それだけで、発見が発見を、いわば奥へ奥へと導いてくれます。それが、どんなことより面白くて、血と汗と涙の楽しさだったのです。それを探求とか、道とか、経緯とか、日常とか、呼んでるだけです。メソッドとか何も知らず、これしか出来なかった、
No.7654 - 2021/09/08(Wed) 06:28:13
☆
Re: 言い訳です。
/ hato
引用
>私にできることは一つ
>気が付いたら、自分の中に意識を向ける。
>眠いなあ、疲れたなあ、おなかいっぱいだなあ・・・猫をなでると気持ちがいいなあ。
>そう感じている自分を見つめる。
自分を見るというのは、もし誰かが、自己探求をするとき、勘太郎さんのように、自分の行動、動向を感覚、視覚的に見る、・・・ことから、実際は一歩踏み込み、たとえばなにか、駆られるようにした行動が自分でも不明だとして、であったとして、その自分を、
「なぜ、そうなのか。なぜ、そう考えたのか。その考え、思考の前提とされるところはなにか。その根本原理として自分が当然としているところはなにか。」
と、言葉、思考を駆使して見る、ことが本来的探求の形式と言えます。言葉で見る、との所以です。
物理的な身体、肉体の動向に焦点を置くよりは、見えないけれども、思考されてる、思考してる、であるところの、その 人 が、どうであるのか?、を言葉で、見ることです。
肉体、または感覚を、「自分」として瞑想などすれば、その物体的質感や、皮膚感覚等が重要になってきます。そのあたりに意識を置きますと、ともすれば、勘太郎さんがよく話されてる、オカルト方面に進みやすいです。意識はとめどなく浮遊し、解消されていない希望欲望戯言、怖れに、人は幻惑されてしまうかも知れません。そうしたことは、試しに一度体験すれば、もう結構です。正しいことがあるとして、正しい方法でないから、いつまでも、不明な幻惑のままなのではないでしょうか。
もし、本当に、ここで言われる探求に進むとしたなら、そのような瞑想はひとまず置いておき、改めて、言葉で見る、探求に向かい直すことも、できると思います。望んだことは、なにも起きないかも知れません。進むことによってだけ、道があるとしたら、それですら、進んでいけるでしょうか?
すこし前までこちらに載せてた、ubik0101さんの研究書を読まれていたでしょうか。もう40年くらいか昔という、青年ubik0101さんの探求の、ほんの一端です。よく見れば、思考を駆使して、自分というところの都度の概念を、言葉で見ている、のがわかると思います。想定されたなにか自分というところの、動向をながめてる・・ではないことが、わかると思います。
No.7655 - 2021/09/08(Wed) 22:17:09
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