149522
“掲示板”
この世界は人を覚醒させるための触媒です。
★
ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
1984.3.20
人は努力なしに得られることに対して努力してはいけません。
お金持ちになることも有名人になることも、ふつうの人のあこがれの対象となるすべてのことも、グーゼンにその運によって実現されることがあります。そのようなことについて決して努力してはいけません。それを自己の目的や支えとすることは誤っています。努力ということがらについてはそうでなくてはならなことをのみ望み努めるべきです。それは私にとってやはりこの世のしくみを知ること、自己であること、仏陀であることであろうと思います。もしある人がただ運によってそうであるということが、あるでしょうか。ないとは言い切れないのが、この世界です。けれど僕は人がこの世のしくみを知らされず、それについて思うことをなかなか良いことと思います。
No.7587 - 2021/04/20(Tue) 20:27:47
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
ふつうひとは何だかの前提のなかでものを考え日常生活しています。けれど考えることをするならば、人は、かえって考えることによって得るのではなく、自己の前提を知ることはそれを失うこととして(自己をそういうふうにしくんでいるのですけれども)体験します。これはどうにもなんという自己ギマンを実験的につくっているのではないかと思われるほどですが、それがまた、苦しいレクリエーションでないとはいえません。実にそうなのですけれど。人はなぜ生き死に自分が自分であるかと考えることも、僕にとって、人生のハイライト的に良いことのようでもあります。会社に向かって歩きながら有楽町のガード下を歩く時、また酒を飲みながらああ、こんなことをしていていいのだろうかと、そういうことがあんまり嫌いではありません。
No.7588 - 2021/04/20(Tue) 20:29:02
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
努力については、仏陀からそれを学ぶことができます。もし自分が仏陀になれるまで、私はこの木の下を動かない。はたして仏陀でない人でこのような決心をした人はないでしょう。努力とはそのようなことをいうのであって、決して運によってもなされることを(まるで自己の存在理由がそうであるように)そうしてはいけません。こういうことを言うのは僕が確かに努力を必要としているからです。この努力が解消されるまでは必要なことだと、ままいえます。
No.7589 - 2021/04/20(Tue) 20:30:25
☆
Re: 札幌の桜が開花宣言されました。
/ 勘太郎
引用
平年より10日位早いそうです。ゴールデンウイークには桜が開花しない年もあります。
私が無いばあい(私というモノがあってこの勘太郎の私が無い、とかり想像してきました。そもそもの私がないと想像できるようになりました)何が起こっても他人事。
生死というコトがあって、生死が無いのではなくて、生死という出来事・概念・が何だか解らないで生死の決着が着くと言うのでしょう。
繰り返しです。池田晶子という方が「私は葬式で笑いが出てしまうのを堪えるのが大変だ。死んだ者は何もの?なのか解らないのに、参加者が泣いたり吠えたりする」と
No.7590 - 2021/04/22(Thu) 19:28:23
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
>私が無いばあい(私というモノがあってこの勘太郎の私が無い、とかり想像してきました。そもそもの私がないと想像できるようになりました)何が起こっても他人事。
>生死というコトがあって、生死が無いのではなくて、生死という出来事・概念・が何だか解らないで生死の決着が着くと言うのでしょう。
勘太郎さんの行き着いた考えならば、そうなのでしょう。
そして事実は、人は、人として生きて死ぬ。です。そうではありませんか?
まったき人が、その限定された「わたくし、」を生き抜かない、有り切らないで、どうしてそれでなくあれるでしょう。それは確かに、想像、ではありません。もう少し言いますと、不可知、とは、なんだか解らない、というだけのものでも確かに、ないようです。
死んだものは何者か不明じゃないか、・・たしかにそうでしょう。けど、人は人として限定された数十年を、そのいつか、慈しみをもって共にした誰かが逝った。共に慈しみ合った時々を愛しむ。もう二度と、同様には会えないのです。切なくて泣くでしょう。もう一度会いたいと吠えるでしょう。人が生きることの切実さは、失えるものではないと思います。
池田晶子さんが逝って10年近くなるのでしょうか。20年か前に、一度セミナーでお見かけしました。著作も気に入って読みました。明確な物言い、自己を込めて詰めて考え抜いた、けれども確かに、哲学者だと思います。
No.7591 - 2021/04/23(Fri) 23:41:57
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
>繰り返しです。池田晶子という方が「私は葬式で笑いが出てしまうのを堪えるのが大変だ。死んだ者は何もの?なのか解らないのに、参加者が泣いたり吠えたりする」と
これだけの文章では解りませんが・・・死んだ者は何者?なのか分からないって?うーん、生きてる者が何者か分かる、分かってる、ってことなのでしょうか?そうだとしたら、かなり変だと思います。
でも、とりあえず死んだ者は何者?なのか分からないってことが変でないとして、その事実と、それと葬式で笑いが出てしまうのを耐えるのが大変、という事実と、どう結び着くのだろう。なんの因果関係があるのだろう。
ここで池田晶子が探求すべきは・・・自分が、そのように感じる原因ではないだろうか。そいうことが哲学でしょう、その始まりでは、と思いました。生きてる者が何者か分からなくても、日常、泣いたり吠えたりではないでしょうか。
No.7592 - 2021/05/05(Wed) 17:57:49
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
もしかしてですが、池田晶子は、ここで。葬式で泣いたり叫んだりしてる人のことを、無知だね、馬鹿だね。と言ってるのかもしれません。まあ日常、いろんなことがあるものです。誰かを馬鹿にすることもあるでしょうし、尊敬することもあるでしょうし、自分を騙すこともあるでしょうし、
そのことの奥には、万能感とか、自己責任の放棄とか、自分の判断に固執するとか・・・または責任感、誠実さの発現とか、それによる軋轢とか様々かもしれません・・・また自分はないとか、人は死なないとか、悟りとか迷いとか・・・そいうのを、人生、世界、縁起とか、呼ぶとして、それは、人の死によって可能なんだと思います。
No.7593 - 2021/05/05(Wed) 19:09:38
☆
Re: 書き方が悪かったです。
/ 勘太郎
引用
池田晶子は「人は死なない」と言いたかったのです。人は死なない、そうではあっても、死はかなしいのですけれども、死なない自分を理解しなさい」との彼女の思いを「葬儀で笑いをこらえるのに苦労する」と文筆家として表現したと思います。
オイラは人が死なないとはおもえませんけれども、理解としては、個別の、世界から切り離された個別の私がないですから、何処までが私であるか?分らないのに、私が死ぬと感じてしまうのも、これまたおかしなものです。
こちらは蕗が食べ頃です。蕗の香りはまだ足りないようなきもしますけれども、シーチキンと鰹節とみりんと醤油でお弁当のおかずです。どうでもよい性格ですじが残って蕗にからまってますけれどもこれも愛嬌です。こどものころは蕗はきらいでしたが、だんだん好きになりました。ubik0101さんハトさんのお宅には蕗がありそうな雰囲気です。
No.7594 - 2021/05/05(Wed) 21:10:17
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
川の土手で掘り起こした苗や、100円ショップで買った苗が増えて、庭の西側にフキが群生しています。
人は死なないとは、この世界と分離できない構成要素だからではなく、個人だからです。
No.7595 - 2021/05/05(Wed) 21:23:38
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
ヘラクレイトスの、彼のものがこれになり、・・、池田晶子さんは、万物流転の言をよく引用されていました。言葉でもって、宇宙に飛翔し、切開していくという探求は、そもなにか世界(宇宙)を前提にされていたかも知れません。もし、世界から切り離された個別の自己がないとしたら、もしも宇宙(世界)がなくなったら、その自分もなくなる・・ではないでしょうか。
庭の蕗は、まだこれから、増えたら嬉しいです。今年は、知人の「森のお母さん」から、手製のきゃら蕗を頂きました。
No.7596 - 2021/05/05(Wed) 21:56:59
☆
Re: 下記の意味が解りませんでした。
/ 勘太郎
引用
人は死なないとは、この世界と分離できない構成要素だからではなく、個人だからです。
たまたま見た養老猛(たけし)のユーチューブで自分は死ぬ前に意識不明になってしまうから、死ぬ事はない」と言ってました。
個人である私の意識は死ぬ体験をすることはできない。
個人とは、個別のモノではなく、普遍的なモノなので死なない」のかと思ってました。
コロナが身近になってきました。勤務先も24時或は26時まで営業して居酒屋さんも8時には閉店。しゃぶしゃぶ屋さんは5月いっぱい休業しています。誰が悪い、国が悪いではなく、こういう事も起きます。しかたがないので我慢です。
No.7597 - 2021/05/12(Wed) 21:06:43
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
うーん。青は藍より出でて藍より青し、です。おなじことですが、♪どこまでも行こう。です。死を経験できないから死がないではないです。
ところで、それ、を認識できないと、それ、がないと、養老猛は言ってるのでしょうか?自分の中では自分は、全知全能なのでしょう。
No.7598 - 2021/05/12(Wed) 23:15:31
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
青は藍より出でて藍より青し。
人は、世界に出でて、世界そのものであって尚、世界を修了していく、・・・世界を超えていく、・・可能性がある、ということです。
あるない、の言葉遊びにならない、・・人はあるから死なない・・ではない、その死の意義とは、その人自身に任されていると言える、と思います。
No.7599 - 2021/05/15(Sat) 21:01:40
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
青は藍より出でて藍より青し・・・中学か高校?のとき教室で、教師が私たち生徒に向かって言いました。ん、青より藍が濃いし深いのに、なぜ青のほうがいいのだろう?と思いました。教師は、生徒が教師を超えてほしいという一般的な意味で言ったのかもしれませんが、その言葉そのことには、そんな意味はない、こじつけだと思います。教師とは世界のことです。生徒とは、それぞれ人のことです。青は藍の、つまり世界の、エッセンスです。恒常とか、普遍とか、刹那とかの特定の意味もありません。ついでに言いますが、縁起とは、神羅万象のエッセンス、精髄です。
ほかの言い方では、世界を脱皮するのです。そうであって、個別もなく、全体もなく、自我もなく、無我もなく、実在も現象もなく、です。それが、たとえば春の夜の風が気持ちいいな、です。
時に応じてさまざま言えるでしょうけど。たとえば、どんなに好きな人とも、嫌いな人とも別れねばなりません。けど、自分とは絶対に分かれることはできない、、、だからその自分のために、なることをする。でも、誤解する人は必ず誤解するのでしょう。
No.7600 - 2021/05/15(Sat) 21:23:49
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
3/26
たとえばあるジョークが面白いのは、それを知らないでいる時である。ふつうには人は面白がるために自己を無知のなかに置く。これが前提ということである。
多くの場合、それは自己の性格だとか、肉体的条件だとか社会的置位だとか、目標だとか、進歩だとかとして現れる。
それは遊びにルールが必要なように、この世界をあきてしまわず面白がるための、自らつくったルールである。
さて、そんなものはどうでもいいと僕は考える。
さて、ルールは、この世に(あらかじめ)しくまれたものであるか?
No.7601 - 2021/05/20(Thu) 18:44:43
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
個人的に無意識に構成されたものであるか?また、別のものであるか?混線したものであるか?
自己ケンジ欲が理解できないうちは、それがルールである。依存関係が理解できないうちは、それがルールである。客観が理解できないうちは、それがルールである。
しかし人は考え、それを得ることではなく解消すること、つまり考えることができる。
そういうふうにしくまれてあるのは、おもしろい。
No.7602 - 2021/05/20(Thu) 18:46:03
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
前提が理解できないうちは、それがルールである。
自己が理解できないうちは、それがルールである。
なぜ人は何だかのルールに捉われてしまうのか?
もし何も得に考えることなく人をやっていっていいるにしても、日常が理解できないうちは、それがルールである。
人はルールにつまり罠に落ちるようにできている。
つまり学ぶことができるようにしくまれている。
この世のことから学ぶことができるようにできている。これが経験といわれるものである。
No.7603 - 2021/05/20(Thu) 18:46:52
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
さて、これまでの例題−自己ケンジ欲、依存関係、客観、前提、自己、日常などは、ほとんどが、反価値なことである。
ところで理解されてしまったルールはどうなるのだろうか?
では、価値のあることとされていることを例にとってみよう。
愛を理解できないうちは、それがルールである。
ここでは愛と恋は厳密に区別されねばならない。
恋は反価値である。
愛ならば、それに捉われた方が良いと思われる。だから愛は理解されない方がよい。
愛ならばそれに捉われた方がよい。だから人は愛を理解できない方がよい。ということになる。けれどこれは誤っている。
No.7604 - 2021/05/20(Thu) 18:49:13
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
つまり、自己は理解されないうちはそれがルールである。
そして理解は罠の解消である。とすること自体が
No.7605 - 2021/05/20(Thu) 18:49:52
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
しかし理解したからといって、対象が解消するわけではない。しかし、そうであるほどでなければ理解とはいえない。
では、そのもの概念が理解できないのは、人がそれに捉われるためなのだろうか?
人は愛を理解できない。
人は神を理解できない。
人は理解できないものに捉われる。
ある人は自己に。ある人は世間に。ある人は愛に。
ある人は神に。ある人は依存関係に。ある人は日常に・・・。
すべての「そのもの」は理解できない。人がそれに捉われるためである。
No.7606 - 2021/05/20(Thu) 18:51:55
★
(No Subject)
/ hato
引用
仕事場の近隣の小山に、数年前から日本カモシカが見られるようになりました。近くに住んでいると思うと嬉しいものです。増えると、山や畑を食い潰すと聞くと、切なくなります。ともかく、元気ならとてもよかった。
じっとこちらを見て、微動だにしない、静かな佇まいが美しいです。
No.7584 - 2021/04/05(Mon) 00:19:06
☆
Re: ハトさんの「私がはなしているのではありません」
/ 勘太郎
引用
この言葉が頭に浮かぶことがあります。鉄城御老師の「無字ってなんだ?」と同じ様に公案です。
浄土真宗では「阿弥陀様が話している」と云われます。誰が口にしても出どころは一つと云こと、実感は伴わないながら、そうなんでしょう。
いつも話で、ダグラースハーディングと言うひとの中に、「距離は無い」と言います。おいらはどうしても、まず距離というものが有って、それが無いと考えてしまうのですけれども、彼が言っているのは、見ている私と対象である遠くの鉄塔が一つで分かれていないといっているのだなあ〜とやっと解りました。距離とか、幅とか時間もそうなのでしょう。これまた実感が伴いません。仏陀の「明けの明星を見て、歓喜した」もこれです。生死の解決は生死無しというか、生死が無い。です。
No.7585 - 2021/04/05(Mon) 09:39:34
☆
Re:
/ hato
引用
何度か話題になっていたのかも知れませんが、ダグラスハーディングという人をよく知りませんでしたので、すこし読みました。哲学者、神秘家という通りの文章、との印象でしたが、その、ダイレクトに見るというのか、そうしたものの見方の練習で、自分という中心がないことを言われてるのか、と思います。実際のところ、人はどこに導かれてるのでしょう。
自分としては人として、対象との物理的距離はあるとして、認識する事柄に距離はないこととその物理的距離、どちらを落としても拡大しても、事実の認識との意味では、奇妙なことになるのではないでしょうか。と思います。
或いは、世界はひとつ、自己は世界、自分は見ているパソコンであり壁であり、他人なのだ、というのは、その総てを自己として愛するという、覚悟かも知れません。
として、本当に、?。自己とは本当に、? とは問わなかった。
不可思議、という事実を見ず、世界であること、ひとつである意識、という解釈に落ち着いたのかも知れません。
頭がない、の意味が違うかもしれませんが、そのように頭で解釈したところ、ありきたりの、詰まらない、本当には落ち着けないところに、人は押し込められるでしょうか?
今年は早くて、もう散ってしまいましたが、桜が今年も咲いてくれました。ナナが見えます。
No.7586 - 2021/04/06(Tue) 00:56:37
★
ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
9/25
ほとんどなにごとも考えずこのところ暮らしている。とくに大きな不満はない。けれど、この世は本当に見えただけのものでいいのか、なんていうようなことがフト思われてしまう。そこでこれを読み返してみた。
No.7565 - 2021/03/15(Mon) 22:41:15
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
人が自己を知ろうとする時、それが強度なものであるなど、この世界のとあるものに根拠を置かない。(いいかえれば自分をとくに知りたくない時に人はこの世のとあるものに自己の根拠を置く)けれどこの世界のものごとを通じてしか自己を知ることができないのに、(そうすると根拠がないわけだから)にもかかわらず、世界は自己を知らせるようにできてない、ということになる。それはなぜか。
No.7566 - 2021/03/15(Mon) 22:43:54
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
それは実に、僕そして対象としての世界の2つのものの対立関係としてそれが考えられているからである。(それは思考形式だとか、感覚器官のありようだとかのためであるし、僕と世界というこの関係のどちらもに根拠を置かないのであれば、それは支点のないてんびんと同じで何も測定できないのは当然であるからだ。だから、そうではなくって、客観性ということを考えてみよう。と。さて、実はこれ以前のところでかくされて問題が実はある。依存関係にしても自己は・・・すべてのものを依存関係によって理解しても自己自身は理解できないでいるという僕の問題未解決がある。
No.7567 - 2021/03/15(Mon) 22:47:43
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
てんびんの支点、たとえば、ある人が、あることをなしとげて、だからその人はあることをなしとげた人である、とこう考えるのは、いっこうにかまわない。けれど僕はそれに価値を置けない。
すべてのものを依存関係と見る。これはたやすいことだと思う。けれど自己をも依存関係によったものであると思うことはむづかしい。
No.7568 - 2021/03/15(Mon) 22:49:37
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
10/6
それにしてもいつも好調とは限らない。というよりいつも故障している機械のようなもので生きるに当たっていつも問題が起きてしまう。それはすべて自分自身に深くかかわっている。それがあるだけで人のありがたさというのは世界に対してなんだかの有り方を現している。
人は生きている暮らしのために仕事をしたり、なんだかの日常生活のためにどうしても自分自身の在り方が自分に明らかにされてくる。なにかをするとそのなにかによって、どうしても自分の心が自分にあらわにされてしまう。ただあまりに熱心に世界のものごとを追い求める生き方は、僕には誤っているように見える。
No.7569 - 2021/03/16(Tue) 21:51:43
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
いわゆる自己主張の強い人とか依存関係を理解しない人とか、それで僕自身はあまりにこの世のものごとが嫌いなわけなのだけれど。この世のものごとを通じて自己を知るそのこの世のものごとは俗にいってしまえば、目的でなく手段なのだ。
自己を知る方法の1つのいわば手段であるもの、いい生活をしたいとか、女が欲しいとか、楽したいとか、それが目的となっている人生は馬鹿げて見える。
No.7570 - 2021/03/16(Tue) 21:52:28
☆
Re: 生命の外側は千差万別に見えますが
/ 勘太郎
引用
本人の内側としては、皆おなじだろうと想像しています。給料100万円のAさんと、10万円のBさんで給料日の嬉しさに違いはないでしょう、たぶん。それをどう思うかは金額では無くて本人の性格に依るでしょう。
100歳まで生きても、0歳で死んでも特別な何かが違うとは思えません。その人なりに、死ぬまで一生懸命に生きるだけです。
どう生きても、ここから別れることはできません。
No.7571 - 2021/03/17(Wed) 14:05:18
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
>本人の内側としては、皆おなじだろうと想像しています。給料100万円のAさんと、10万円のBさんで給料日の嬉しさに違いはないでしょう、たぶん。それをどう思うかは金額では無くて本人の性格に依るでしょう。
> 100歳まで生きても、0歳で死んでも特別な何かが違うとは思えません。その人なりに、死ぬまで一生懸命に生きるだけです。
と、そう思考するとそう思考してることしか見えないので、そう思考しなければいいのです。24時間ずーとそう思考してるわけではないでしょうから、あるいは、そう思考してない無思考に気が付けばいいのです。それを思考してないとき、世界は狭くなく、重くなく、暗くないのではないでしょうか。それを思考してると、世界は狭く、重く、暗いのでは?そ、いえば
かなりうろ覚えですが昔、テレビで見た南太平洋とかいう映画で、ヒロインが野蛮な孤島から大都会に連れてこられて、世界は広くて、私の知らないことで一杯!と言ったと思うのですが、そうだ。孤島だって大都会だって、世界は知らないことで満ちてる。なんか知ってるということから離れることは幸せ感、開放感に満ちてる。と感じたものです。
あるいは・・・私が、誰かがどう考えてるかを、考えてみます。その誰かが私のことをどう考えてるか考えてみます。その誰かが誰かのことを、どう考えてると考えてみます。私としては、それは総て空想で、全然当たらない、と思っています。勘太郎さんも<皆おなじだろうと想像しています>と、まず言ってるでしょう。あらかじめ思考の前提を言って、想像していますと、念を押しても、その前提は度外視も正当化もできないでしょう。
まず、そんな誰かの考えを探ることをするのは何か理由があるのでしょう?誰かの考えを考える、その必要はありますか?あるいは私の考えは空想だと知って承知の上の空想。つまり空想と事実は違う。という認識が役に立つこともあるでしょう。探求は、誰とか彼とか自分とかの枠のないことが、あるとしてそのフィールドです。
あるいは、なにかを思考することによって、その思考してる主体が仮の主体が作られる。それで、その主体は、その思考を否定できにくい・・・ということではなく、実際に、人は似たり寄ったりで内側はみな同じでは?という指摘でしょうか。
そうだとして、それが探求の障害になるということでしょうか?説明すればですが、思考で探ればですが、たとえば光の三原色だけで、インクの4色だけで、たぶん何千万色の表現ができます。単なる水蒸気だとしてもその動き雲の千変万化。素材から結果は予測できるのですか?大理石の塊から、ダビデも、ビーナスも、削りカスも、できるのです。
あるいは人って、なにかしても、その基本は、隠れてる前提は大したことなくて、似たり寄ったりだよね、問題は自己責任から逃げること?ということでしょうか?それならば、探求は、それほど難しくはないということです。
> どう生きても、ここから別れることはできません。
そんな固定観念?に行き詰ってるということでしょうか。総てはひとつととか、ほんとうの自分は意識とか、わたしはいないとか・・・そんなことでは、難しいでしょう。ついでですが、たとえば即今、縁起、わたしはある。どのような真理と思われることも説明、解釈にすぎません。
No.7572 - 2021/03/18(Thu) 06:30:15
☆
Re: ここから別れることはできません。
/ 勘太郎
引用
言い訳ながら、体験がないので本当の事はわかりません。
自分を探って心の奥に入り込もうとします。するとそこは背中の後の無限の空間にいます。
勘太郎の思考、感覚は勘太郎の身体からではなく、この空間から来ている様な感じがします。
お金が欲しい・称賛、将来に渡る安全安心・精神身体の快楽(楽しい暮らし)・優越感などが実現した妄想をしますけれども。そう長い時間は続かず、思考は目先の事々に戻ります。戻った時に、ふっと人生そのものが、長い妄想時間なのではないか?と感じる時もあります。
勘太郎って何?っとかんがえても、それが霧散してストーブが静かに燃える音を聞きながら居眠りしています。良い気持ちです。
この良い気分の人は居眠りをしていません。今感じるのに、この良い気分を感じる人は勘太郎の頭の中には有りません。頭の外側に有るようなきがします。
No.7573 - 2021/03/19(Fri) 09:04:46
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
勘太郎さんの投稿を読んで、今日、自分がどこにあるか探ってみました。これを意図的にやってると、どうも猫を見てたら猫、庭に出ると空気、その風光、その辺にありそうなのですが時々に、見る視点が変位するようで、その視点自体は見えませんが、一定しないです。
もっと意図的、意識的になると、見てるのは自分の身体、目?考えてるのは、頭?でもその場所は特定できないですという感じです。なにか見えてる聞こえてる思考してるというそのことを自分、と思うのかな?
ノンノン、チュリルと遊びながら、ヘンデルのフルートソナタを聞いていましたが、聞こえてるってことが自分なのかな?そしてスーパーに行って普通に買いものしたり、見てる聞いてる中心は、どうも掴みようがない、知り合いの店員さんがいる、コインをポケットから出して感覚だけある、って感じです。
たぶんなにか対象になりうる、見える聞こえる対象であり、それが見る視点であり、なんか意識かなにかが、そこを目印、拠り所にして、そこを自分とするようです。たとえば身体の目の奥に、世界を見てる自分がいるって、空想であれ事実であれ、目の奥が目印になるようです。
ところで、自分がどこにあるとか、自分を見てる視点、があるというわけでもないですが、自分で探れるって、面白いですよね。自分がないと、ほんとに自分がないと、分かるのです。そのとき思考がなかったら、そのとき思考がなかった、と分かるのです。なにか思考しててその主体はないなら、主体はない、て感じられるのです。なので、わざわざ探らなくても、大丈夫に思います。
とくに勘太郎さんのことではないですが・・・このころ思ったこと、素直であること、真摯であること、それはその自分の一存でできるし、もしかしたら世界で一番簡単なことかもしれない。それをその人が、難しくするのは、どうしてだろう。
No.7574 - 2021/03/19(Fri) 20:41:06
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
ところで、
> 100歳まで生きても、0歳で死んでも特別な何かが違うとは思えません。その人なりに、死ぬまで一生懸命に生きるだけです。
では、生まれても、生まれなくても、同じなのでしょうか?
No.7575 - 2021/03/20(Sat) 00:06:03
☆
Re: 一番大事な文字をする―していました
/ 勘太郎
引用
と、そう思考するとそう思考してることしか見えないので、そう思考しなければいいのです。
自分でもこの「そう思考しなければよいのです」は理解しているつもりなのですけれども
午後3時半になって、陽の光が室内の植物の葉に射して葉が黄緑色でとてもきれいです。とこのままで止めておけばよいと思うのですけれども、止めておけばよいとか、眺めているのはだれだ?とか思考してしまいます。だた眺める事ができるようにと努力してしまうのです。
具体的には葉の色に注目して思考が湧かないようにする。そして猫の甘える声がしますので抱き上げます。短い時間だけど思考が無かったなと思考します。
思考を頭の隅に寄せて、葉を眺める状態を中心に持ってくる、という感覚です。
話題を変えて産まれても産まれなくてもおなじか?
私の経験として残るものはありません。現実に世界にオイラも参加していますので変化の一端を担っています。オイラは変化の一端ですから、・・これらはオイラの屁理屈です。
おなじなのでしょうか?の問いには、葉が陽を浴びてきれいだなあ と答えます。
No.7576 - 2021/03/22(Mon) 15:51:00
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
そうです、努力しないでも、そう思考しない。ということです。ここは、まずは思考内容を言葉にする前に瞬間的に了解する・・・瞬間思考とか、気配思考、無思考思考と言えば通じるでしょうか・・・で解決するかもしれません。ついでですけど、問題があるとしてそれは、その人の状態が問題であり、思考が問題だというわけではないです。
もしかして、0歳で死んでも、100歳で死んでも、という思考があり得るためには、何も変わらないということが、見えない前提としてないですか?貫太郎さんは自分でそのように自分を決めてないですか?と思ってたのですけど。私の経験として残るものはないというのは、私それそのことは、変化しないということですか?ただ波は静まれば海になるだけなんですか?
あくまで譬えですが、芋虫が蝶になっても、その私は、その私で・・・その私は対象にできないので、ありとあらゆること、森羅万象との区別も、同一もしようがない・・・その私。まったく変化ないも変化したも判断できないということはないですか?自我と真我、まるっきり違うけど、まるっきり同じとか、言いたくなります。
まったく私が私でありきって、私が私の対象にならない・・・私がない・・・で、見知らぬこの世界/物質、知覚、感情、思考に埋没しきって自由なく、不自由なく、善なく、悪なく、ないこともない・・・どうして苦悩が生じ得るでしょう。自分で自分が見えないのが諸悪の根源。また自分で自分を見るのが諸悪の根源。日常としては自己責任。このへん探ると面白いかもしれません。
>おなじなのでしょうか?の問いには、葉が陽を浴びてきれいだなあ と答えます。
もしかして、現象=実在って意味ですか?わたしなら、♪口笛を吹きながら、どこまでも行こう。です。
No.7577 - 2021/03/23(Tue) 06:54:41
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
透き通しで見える風景。森羅万象、摂理、ただ凄いです。そして尚、命は、人は、生ある限り挑戦し続けます。誰かが、またほかの誰かが旗でも、終着点でも完成でもない、日々生きる、ただ、自身というところを問う意味での真摯と努力が、発祥であり、旗であり、進むところ、と思います。
冬のいちじくです。
No.7578 - 2021/03/23(Tue) 11:55:33
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
その先の、ユスラウメ(梅桃)です。
No.7579 - 2021/03/23(Tue) 11:57:34
☆
Re: だんだん 世の中が楽しいです。
/ 勘太郎
引用
おなじなのでしょうか?の問いには、葉が陽を浴びてきれいだなあ と答えます。
もしかして、現象=実在って意味ですか
実存とか実在は関係ない様に感じます。「私は在る」との題名の覚者の本がありますけれども、オイラは、私・自分の自覚や意味あいが薄れてきています。私が在る」とは感じません。そう言われたらそうかもしれない?と感じます。陽に照らされた葉を見ている今の気分がこの部屋に浮かんでいるような感じです。その感覚はオイラの身体の中にあるのですけれども。かっこっつけ過ぎた表現ですが。
この頃、流行の言葉で云うと「今に在ると今が楽しい」という感じがします。自己責任はあるのでしょうけれども、オイラが
CENSORED
ば無くなります。月から見た地球はビー玉の様で、地球が無くなっても、温暖化で住めなくなっても仕方がない・どうでもよいやあ〜です。
そうではあっても、猫の一生君もゴムの木も散歩道の松もとっても愛おしいです。
<<それを思考してないとき、世界は狭くなく、重くなく、暗くないのではないでしょうか。それを思考してると、世界は狭く、重く、暗いのでは?>>ここに書いていただいた気分がすこし解るようなきがします。
No.7580 - 2021/03/23(Tue) 19:48:03
☆
Re: 口笛を吹きながら行こう。
/ 勘太郎
引用
真摯と努力で押し進む。
その人なりの進み方が指定されているようです。15年程まえの人にオイラが「神様はいます」と云ったら、彼は「もし神様がいたら、人をこんなに苦しめることはしない。」と言いました。
釘を板に打ち付けて家を作る。釘は頭を玄翁で打ち付けられるし、板は釘を打ち込まれる。丸太は切り刻まれて柱や壁になる。釘や板や丸太にとっては苦しみかもしれません。家ができて、楽しい会話が家の中で行われる。
変化を見ているのは、哀しいときもあり、楽しい時も孤独のときもありますけれども、その実どんな時も充実感でいっぱいなのではないか?と思います。怒っている時や孤独感に打ちひしがれている時も充実感で一杯だとおもいます。
No.7581 - 2021/03/28(Sun) 09:05:21
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
勘太郎さんの文章を読むと、日常の現場が伝わるというか、なにかの比喩も、勘太郎さんの生活に裏付けされたものであることが伝わってきます。
>変化を見ているのは、哀しいときもあり、楽しい時も孤独のときもありますけれども、その実どんな時も充実感でいっぱいなのではないか?と思います。怒っている時や孤独感に打ちひしがれている時も充実感で一杯だとおもいます。
怒りは怒りでいっぱい。孤独は孤独でいっぱい。それそのもの、てことでしょうか。怒りがあって、その人。孤独があって、その人。そのことである充溢、ならそのようです。或いはまた、充実感、というとき、変化を見ているというなにかが、充実感を得ている、・・偏ることもなければ、ただ人、て思います。
誰もが、その人なりの道、そして尚、ただ言葉が導いてくれることが、確かにありますね。たとえば、イエスの言葉によって表現されたことは、道を行くとき、通らざるを得ない門のようなこと、と思います。
どこもかしこも、新芽が物凄い勢いですね。
No.7582 - 2021/03/29(Mon) 01:15:49
★
自我・世界/真我・実在
/ ubik0101
引用
まず自我の仕組み、形式は・・・なにか話します。行動します。思考します。そのことによって、そうしてる主体、中心、が予め初めからあったかのように時間を遡って設定される。です。
つまり考えることによって考える私が設定されるのに、まったく逆に、まず予めある、この私が、こう考えた。私が言った。行動した。私が感覚した。となるということです。
これはごく当然のこと、どうして考える主体なくして、考えることができるか?という、ほとんど疑問にも思えないことが前提になってて、その前提なしには、成立しない有様です。
すこし話が寄り道しますが・・・ちょっとだけ思考がないことによって、静かで平穏で、世界が明るく感じる、といったことも起こったりします。そんな一瞥はたしかに、無思考が切っ掛けになったりします。が、それは思考が問題だということではありません。おおむね思考はその人の状態を正確に表しているだけで、なにか問題があるとしたら、その人の状態が問題なのです。
No.7557 - 2021/03/02(Tue) 12:57:04
☆
Re: 自我・世界/真我・実在
/ ubik0101
引用
と、いうだけのことです。なんであれ、ついでだから言うということですが、自己責任なのです。たとえば世界には責任なんかないかもしれません。そこで人が車を運転するとしたら、事故を起こさないように注意する、料理するなら中毒を起こさないように注意する、もちろん何かしないことによっても自己責任は生じます。これから逃げないこと、誠実なことは大事かもしれません。
ところで、この仮に作られてる物事の中心、主体は、自我は・・・仕組み、形式・・・たとえば建物の骨組みだけでしかなく、中身は空虚です。そしてその骨組みだけの空虚は、ないのですから、なんでも知覚でき得ることは、それが思考であれ、感情であれ、行為であれ、宗教であれ、無宗教であれ、取り込まれます。このような骨組みが作られるには、時間、そして空間、の距離を必要とします。
つまり、骨組みだけでその中身は、ないのですが、そのないを世界が埋めるのです。もちろんありもしない空想であれ、その中身になりえます。繰り返します。思考であれ、いわゆる心理的思考であれ、技術的思考であれ、数学の、物理の思考であれ、未知であれ既知であれ、部分であれ、いわゆる全体であれ、そこに差異はありません。ありとあらゆること、世界が、そうであり、自我は世界の映し絵なのです。
No.7558 - 2021/03/02(Tue) 13:17:21
☆
Re: 自我・世界/真我・実在
/ ubik0101
引用
そこでおおくの場合、その自分の言ったこと、したこと行動したこと・・・しなかったこと、で、その人が自分と思われる自分が作られるので、結果がその原因を否定するのは困難で、その自我はその自我の言動を否定することは困難です。たとえ現実にそぐわないとしても、間違ってない、正しいとして、疑うことが困難・・・それほど世界は人の空虚に食い込みます。そのようにして愚かな、空虚な自分を守る、ということです。
それでも、その自分のしたこと、話したこと、思考したことは、その自分に、そのまま分かるのです。
とくに自分を見る自分とか、自分を見る世間を、自分を見る神仏を想定する必要はないです・・・たとえば自己責任から、つまりはその自分から逃げるというだけで、嫁いだり娶ったりの、いったい何の人生だったんだ。という、そんな人がいるとして、それもその人がそうしたくてそうしてるほかには何も誰も、そうでき得ないのです。いくらそれを誰かのせい、世の中のせい、生まれのせいとしても、それはそうしてるのはその人であり、それを理解でき得るのも、その人でしかありません。
自分のことを自分で隠しても騙しても隠しても、それが自分の行動、発言、思考に現れているでしょう。その理を見ればいいのです。その人のことはその人に全権があるので、そんなことを他の誰かが指摘しても無駄だし、それができるのは、その自分です。探求は、それか最も簡単なことだし、自己観察、で十分です。
その段階があるとしての説明ですが、誰かの言動を見て、それを非難、批判する。次に誰かの言動を見て、自分をただす。そして自分の言動を見て自分を正す、ならばもう人は戻ることのない道を歩いています。これも繰り返しますが、自分を見る自分、自分を見る世間、自分を見る神仏を設定することなく、そうだということです。自分の言ったことは自分に聞こえ、したことはわかり、思ったこともそのまま分かります。
ほんとうに、自分のために生きるのです。自己主義とか個人主義とかいうことではなく、これば簡単な真っすぐな道です。ふだん人は、さまざまなことをしたり、しなかったりします。たとえば恨み、妬み、主導権争い、あまたの葛藤・・・なんであれ、自分のためにしてるのでしょう?ならば、ほんとうにほんとうに、自分のためにするのです。もちろん、自分のためにするということを掲げて、自分のためにする、ではありません。一人あって、です。理由なく、です。
No.7559 - 2021/03/02(Tue) 22:32:01
☆
Re: 自我・世界/真我・実在
/ 勘太郎
引用
励みになります。
No.7560 - 2021/03/04(Thu) 22:42:45
☆
Re: 自我・世界/真我・実在
/ ubik0101
引用
その骨組みだけの自我の空虚を埋めるのは世界です。それはその中心、主体、自我を作ってるのは世界、ということです。自分は世界に作ってもらってるのです。なにか話す、行動する、思考する、ことによって、自分が作られるのに、自分が話す、行動する、思考すると見做すのは傲慢とか、無知とかの要素があるかもしれません。
それでもそうならば、世界が作る自我なら、悪いことをせず、善いことをすればいという面もあります。それが良い自分をつくるからです。功徳を積むという言い方もあるようです。ほんとうには、善悪は自我にはわからないでも、素直であること、誠実、真摯であること、自分を騙さないこと、それが探求の灯りになってくれます。
ついでですが、自我にあって、それは世界に作られてるのですから、仮の中心ですから、人としての主体ではないのですから、そもそも自由意志があるはずもないです。というより、自我が自由意志はないと、それがそれを感じると。自由意志についてそれでも考え得るということです。ところでここでわりと大事なのは、どっかで聞いたような結論に飛びつかない、そんなことより、どこまでも自分で素直に探るということです。ところで、
No.7561 - 2021/03/09(Tue) 17:19:16
☆
Re: 自我・世界/真我・実在
/ ubik0101
引用
おおむね自我は悪者、とされてるようです。それを撲滅しようと頑張るかもしれません。しかし自我はとてつもない大事です。自我は世界の写し絵であり、たとえば自我、世界が、すべて活動して、自我の中心がない、その仕組み、形式は虚構と開示され、変な言い方ですが、真我が現れます。
自我はそのくらい大事なので、実際、隠したりごまかしたりできるだけで・・・それもまた自我の機能ですが・・・削除は不可能になってるようです。自我は完成されなくてはなりません。その世界は完成されなくてはなりません。人為的にできることは、探求とか、悪いことをせず善いことをする、つまり誠実ということです。
No.7562 - 2021/03/09(Tue) 17:27:38
☆
Re: 自我・世界/真我・実在
/ ubik0101
引用
あっちこっち、寄り道しながら話してますが、ここはどうも難しいです。おなじ説明、言葉、思考にしても、逆転、再逆転で、たとえば、ある、ない。も意味は変移するし、一定した視点は実情に付いていかず問題ということもあるからです。
ここでの話は単純には、自我は真我の発現に必要。これだけなんですが、自分があると感じられてても、その自我の中心は、ないで・・・そしてその真我<ある>も、真我にありきって・・・ない・・・となる。のですが、これだけでまた終わるわけでもないからです。
さて、なんでも、たとえば善と悪、優劣、現れると隠す、あるとない・・・その反対のことと、無関係なこと・・・世界の総てが、機能しなければ、真我の発現は不可能なのでしょう。そこで、そのどこにも依拠できないから、中道とも、世界の総ての活動ですから、縁起とも呼ばれます。
No.7563 - 2021/03/09(Tue) 17:57:05
☆
Re: 自我・世界/真我・実在
/ hato
引用
こちら元気です。
静岡にきて11年目になりました。
そういえば聖書に、モーセが神に名を問うたとき、主は、「わたしはある、」と言ったと書かれていました。
早春の庭に、小さなスモモ(秋姫)の花が咲きました。待望の実は3年後、・・ubik0101さんと楽しみにしています。研究ノートは、ゆっくり続きます。
No.7564 - 2021/03/12(Fri) 22:51:43
★
ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
1983/6/27
私はこの世界の基準を知らない。この世界は意味なく存在している。私はこの世界に基準をもたない・・・・。
このことは真実であろうか?
No.7552 - 2021/02/23(Tue) 23:37:21
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
これは私が単に世界を理解できてないからにすぎないのではないだろうか?そして理解できない理由は、私⇔世界という理解のしかたそのものに問題がある、ということではないか。私は感覚や感情や思考を通じて世界を知り、それを知っただけ自己自身を知る。
これでは、たしかにお互いに根拠なく存在するように思えてもしかたない。
No.7553 - 2021/02/23(Tue) 23:38:01
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
これはあまりに自己中心に理解しようとするからである。もし、そうでない見方があるとして、それはどんなものだろう。
No.7554 - 2021/02/23(Tue) 23:38:41
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
ここで思い当たることは、客観的、という言葉です。
もし2つの物事のなかで問題が起こり、基準を決め得ない時、客観的に言えば・・・であるといえるとよく言われます。
これはある種の基準をまま与えることです。ある関係を、ちがう立場から見ること、それだけですでに客観的なのです。それはだから他人から見れば、とか世間の常識から見れば、とか、この思想から見れば、とか。くだんの関係に入ってはいないけれど、関わりはあるものからその関係を見ることです。
No.7555 - 2021/02/23(Tue) 23:39:38
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
けれど、この世界に客観があるはずもないでしょう。どうしたら自己⇔世界を客観できるでしょう。そうできたとして、そうすることはむろん基準を持つことなのですが、その基準が正しいなどということは、どのようにして知れるでしょうか。
この世のなにごとにも基準をおかずに自己を理解しようとする時、自己には根拠がないのを知る。しかし、客観ということはこのようなことを客観するのであり、それは、君は自己中心にものを考えすぎているよ、と言うのです。
しかし、この世のものごとを基準にして自己を知ろうとすることも、彼がいくら客観的だと信じていても、それはまるで客観的ではありません。それは単に主観の変形にすぎないことが多いでしょう。
No.7556 - 2021/02/23(Tue) 23:40:41
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