150828
“掲示板”
この世界は人を覚醒させるための触媒です。
★
ところで、
/ ubik0101&hato
引用
ここ数週間、昼も夜も、訪問者が増えています。どなたでも、疑問、質問、四方山話とか、お気軽にどうぞ。
No.7638 - 2021/07/28(Wed) 08:19:15
☆
Re: ところで、
/ 勘太郎
引用
天気のはなしで暑い!はなしです
乾燥には強いはずのスイカも萎れたので水やり。サツマイモも尋常ではない萎れようです。
野菜が高くなるだろうから、いっぱい作ろう!と思っても、カラカラで種を播いても芽が出ません。近くの小川からえっちらおっちら水を運んでも焼け石に水です。その小川の水も涸れそうです。宮沢賢治の「旱の時にはオロオロ歩き」そのものです。近年では最もひどい旱です。
札幌でも7月16日から連続最高気温が30度を超える夏日。例年夏を通して10日以下が例年です。
異常気象が毎年の事で、例年通りの天気という年が珍しいのが、づっと昔からのことなんでしょうけれども。
身体と空気との境があいまいになってきて、頭の思考が空中に浮かんでいる様な気分のときがあります。身体に扇風機の風が当たる感覚は有るのですけれども、それが面でなくてぼやっとした塊で風邪と皮膚の堺が解らない。
こんな考えや推測を通り越したら、無字に突き当たるだろうとおもいます。私にも突き当たることが、私の身の上に起こるのではないか?と思います。覚者は最悪の状態だ!と言うでしょうけれど。
No.7639 - 2021/07/30(Fri) 20:50:32
☆
Re: ところで、
/ ubik0101&hato
引用
もしかしてですが・・・見えてる思考だけ見て、思考から逆算して、思考してる中心、主体、何かが、あると、設定しない、ということでしょうか?
ならば、たとえば痒い頭を掻くその感覚、はだしで絨毯の上を歩く足の裏のその感覚、水を飲むその感覚・・・見えてる風景、聞こえてる誰かの声、から自分を割り出さない、逆引きしない・・・も試せるかもしれません。
とくに皮膚と世界との境目が曖昧だということに拘るわけではなく、(それだと、すでに知覚してる自分と世界を想定してるかもしれません)、ただ観察。
そこで、たとえば歩いてて足の裏の感覚、絨毯の感覚だけが、ぼやっとしてではなく、扇風機の風の感覚は明瞭で、はっきり。それだけが知覚されてる。(暗黙に、ほかのことは何も知覚されない)。
それは痒いとか、熱いとか、甘いとか、バラバラなのですが、まとまってないわけでもなく・・・その中心、主体を探っても、部分でも世界全体でもなく、どこにあるここにあるというわけでもなく、
No.7640 - 2021/07/31(Sat) 08:29:09
☆
Re:どこにあるここにあるでなく
/ 勘太郎
引用
そう教えて頂くと、おっしゃられるように焦点のない感覚とか思考とかであるように思えます。
ただ観察からすぐに外れて、妄想がはじまってしまいますので、意思を奮ってまた観察。
「見えてる風景、聞こえてる誰かの声、から自分を割り出さない。逆引きしない・・・」
雪担御老師の見えっぱなし・聞きっぱなしの意味がやっと解りました。
No.7641 - 2021/08/01(Sun) 21:23:02
☆
Re: 暑さから普通の気候になりました
/ 勘太郎
引用
犬の散歩のときにゴミ拾いしています。
今まで20年やらなかったに、マスクが散歩道に落ちていると不快だろうと拾ったのがはじまりです。犬のうんこは拾いますがおしっこは垂れ流しなので、その罪滅ぼしなんでしょうか?
拾っているところを他人に認めてほしくて、大げさに拾う自分に、がっかりしながら。ごみを拾う人はたくさんいるのですけれども、ごみがなくなることはありません。功名心なく拾えたら良いと思っています。
本当に、チリの様に小さな善行を私の中では、千倍万倍に拡大して感じてしまいます。自分にしがみついてしまいます。
No.7642 - 2021/08/24(Tue) 20:12:30
☆
Re: ところで、
/ ubik0101
引用
おなじゴミ拾いでも、aさんbさん・・・zさん、それぞれの理由があるでしょう。それで、どうして勘太郎さんはそう感じるのか、(それにはabzさんではない勘太郎さんの状態、有様が現れてるのですから)、その隠れた原因、前提を、自分で探るのが、探求者です。
その隠れた原因は隠れてなければ、そう感じる原因としては、機能しないので、それを露にすることで、そう感じる原因も、そう感じる結果も自動的にクリアになります。
こちらの場合は・・・ずっとずっと昔・・・なぜ街中でゴミを拾うのが恥ずかしいのだろう?と探ってみて。そうだ、誰かが捨てた、また自分が捨てた価値のないものを拾うことは、(誰かから見て)詰まらないもの(に価値を見出して)拾う詰まらない惨めな人だと見られるのが嫌だからだ。と思いました。
それだけでゴミを拾うことになんの抵抗もなくなりました。人前で泣くことも、怒ることも、
ほかの誰かの中の自分、この自分の中の誰か、(それは本人は気がつかなくても、とある特定の固定観念のようなことになっているようですが)そんなことは必要ないのです。問題は、この自分なのです。
No.7643 - 2021/08/26(Thu) 12:15:15
☆
Re: ところで、
/ ubik0101
引用
ここで逆にですが、ゴミを拾うということについて、そのような気がつかない特定なパターンではなく、友人からは、母親からは、娘からは、乞食からは、大富豪からは、イエス・キリストからは、仏陀からは、どう見えるのだろう?
とか考えられるだけ考えて、特定の気がつかないパターンに囚われないとかもありですが、問題は、この自分なのです。
もちろんゴミ拾いは承認要求だとしても、世界中のゴミを永遠に拾い続けてもゴミはなくならないし、ゴミの定義も明確ではないでしょうし、承認要求も満たされることはないでしょう。この世界って、凄くよくできていませんか。
ご飯、誰かと話すこと、自動車の運転、買い物、掲示板の文章・・・日常・・・それを通じて、どんなことでも自分に気がつけ、自分に気がつけと言われてる。自分。いろんな人は、それぞれ様々な状態でしょうが、問題は、状態ではないです。その人の世界観ではないです。その人です。
No.7644 - 2021/08/26(Thu) 12:18:23
☆
Re: ところで、
/ ubik0101
引用
またたとえばゴミを拾うのは恥ずかしいこと・・・善いことをすることが恥ずかしいという気持ちもあるかもしれません。それは、ひっそりと隠れていたい、人と人の間に紛れて隠れていたいということかもしれません。
これはゴミ拾いで目立ちたい、承認要求とは逆ですが、することなすことで、それぞれのその人の思いを優先してるということは、なにか判断しようとしてるてことでは、誰かを頼りにし、自己責任を引き受けてないということでは同じかもしれません。
また自分で自分の言動思考の傾向の前提を探っても、実際とは違う前提を差し出して、自分に噓をついて、つまり自分で自分を騙して、ごまかしてしまうということもあります。
それは多くの人が生きるにあたっていつのまにか身に着けてしまってるかもしれません。なので、それは事実か?見つけた隠れた前提を検証しなければなりません。隠れた前提の奥に、さらに隠れた前提があるかもしれません。
たとえば世間様ということはどういうことか?そいうのは、ほんとうにあるのか?常識とはどいうことか?倫理とは、道徳とは?まずはこんなことを探る必要がある場合もあるでしょう。
なんであれ大事なのは、その人の日常です。生活です。正直であること、真摯であること、公平であること、自己責任から逃げないこと、悪いことをぜず善いことをする、発心を貫くこと・・・人そのことがです大事です。
No.7645 - 2021/08/27(Fri) 07:56:46
★
こんにちは
/ サオリン
引用
こんにちは。
10年ぶりにお邪魔させていただきます。
10年の間に状況が様変わりしお邪魔することもなくなってしまったのですが、それでも時折懐かしくなり訪れたくなり検索するのですがこちらへたどり着けませんでした。
ですが、昨夜猛烈に懐かしく思い出し執念でたどり着けました(嬉)
以前と変わりなくあたたかい日だまりのように在ることにとても驚き懐かしく嬉しく思います。
またゆっくり時折お邪魔させていただけたら幸いです。
よろしくお願いします。
No.7633 - 2021/07/15(Thu) 13:20:21
☆
Re: こんにちは
/ ubik0101&hato
引用
サオリンさん、お久しぶりです。思い出して下さり、嬉しくなります。お元気そうで、とてもよかった。
こちら、今も静岡はみどりの庭に住み、2017年の春から2人で仕事を始め、陽だまりも水たまりも吹っ飛ぶ勢いで、なんとかやっております。ラブバードのノンノン、チュリルに加え、猫はナナちゃん2代目に、白い八割れのコタロウに、雌の黒猫ハイジで3匹、金魚3尾と藻エビにメダカ。とにかくのバタバタで、昨年から、神奈川の母が来てくれてます。
サオリンさんの当時の問いを、2人で遡りました。過去ログの2011年9〜10月、ホントに10年たつのですね。どうぞまた、いつでも、書き込んでください。
こちらこそ、よろしくお願いします。
No.7634 - 2021/07/15(Thu) 21:14:21
☆
Re: こんにちは
/ 勘太郎
引用
昨日は気温が33度までありまして、暑さ本番です。厚い毛皮を着た犬たちは、日陰でもハアハアしています。
叔父の家の外壁の一部(風呂場の辺り)が外れ落ちまして個人的なちょっとした出来事でした。築46年で湯気で柱・間柱が半分腐って無くなっていました。
それでも叔父は「おれは大工の弟で、門前の小僧経を読むで、修理できるから俺が治す」と言いだして困りました。87歳の爺さんに治せる力と知識経験があるわけもないのに。上には二階部分が載っていて他者から見たら、できないのは明らか。加齢は根拠の無い自信を植え付ける様です。
本論
何回かの会話の中で叔父は「俺は解っているから」と言います。勘太郎は今まで「解る」というコトに何の注意することなく生活してきました。しかしながら、「解かる」を考えてみたら、私は何も解っていない、と気が付きました。見分したものの中から適当らしいものを当てはめて思考を繋げているだけです。
家の壁の構造を解かっているのではなくて、昔読んだ本の図とか、ユーチューブの映像を想い出して、それれしいものをはめ込んているだけです。私には、なんの知識もありません。
20年前までスーパーの肉屋でしたから、肉の切り方は解ります。触ったら和牛・ホルスタイン・輸入牛の区別が自動的に解ります。
No.7635 - 2021/07/17(Sat) 09:51:47
☆
Re: こんにちは
/ ubik0101
引用
うーん、知ってることが何か知らず、知らないということが、何かを知りません。
たぶんほんとうには。無知なのに、あれとかこれとかを結びつけて、つまり
何か架空の因果なのに事実の因果のような気がして、それは解ってると見做してしまう。ことに気がついた、そして
また経験した肉の種類とかの実際の因果にあることは、解ると見做してしまいます。
これって、架空のことと、実際のことと対になって、解らない、解るという二項目が成立していませんか。このように思考して自分に切り込む・・・で、
ここから、いろいろな経緯はあるでしょうけど架空の因果も、実際の因果も、それが、そうであるのはなぜ?と探ってみることもできます。
なんでもいいですが・・・砂糖が甘いのはなぜ?甘いということは、なぜ甘い?もう今朝から蝉が鳴いてますが、聞こえるということは、なぜ、聞こえるということ?
No.7636 - 2021/07/18(Sun) 08:38:06
☆
Re: こんにちは
/ ubik0101
引用
もちろんですが、見えるということは、なぜ、見えるということ?思考するということは、なぜ、思考するということ?なのですけど、
もしかして、その前に、解決する必要があることがあるかもしれません。たとえば、知ったかぶりのあれこれ関係と、そうでない実践、実際、事実との不均衡。知識と知恵の不均衡。あるいは不公平。こんなことの奥には、
また、ほかの誰かと自分との重要性の不公平。こいうことがあって、もしかして解る解らないの対立の隠れた原因になってるかもしれません。
この自分と誰かの不公平、これはなかなか気がつかないのですが、その気がつかなさが、その人を愚かさに繋ぎとめるようです。ヒーローになりたい、有名になりたい、裕福でありたい・・・とかは、不公平でありたい、ということかもしれません。
どうすればいい?それは簡単です。乞食にも大富豪にも、パートのおばさんにも、社長にも、恩になった人にも、敵にも、同じ対応をする。たった、これだけなんです。
それと、どうやら愚かな人は、自分の一番愚かなところ、たとえば不公平を自分には見えないということを理由として、守ろうとする。なので、自分で自分の言動を見て、それに切り込むのは役に立つと思います。
もちろん、いろんな経緯はあるのでしょう。
No.7637 - 2021/07/18(Sun) 19:51:53
★
全てが明るみに有ったら、退屈です。
/ 勘太郎
引用
返信は最初の投稿から30日で締め切られてしまうので、新たな書き出しです。
その昔、神様が居る居ないの論議で「神様が居れば人はこんなに苦労はしないよ」と言った人がいました。おっしゃる通り、すべてが理解できたなら、退屈で生きるのを辞めてしまうでしょう。苦労があるから生きられる事に、人は気づきません。
本日の同僚との会話。彼氏曰く(78歳)「振り返ると80%望みは叶っているな」
こう感じさせる仕組みが人には有るようです。本当は望みのほとんどは叶わないまま死んで行きます。その昔、叔父が50代の頃「人の希望なんか1割も実現しない」世間的には少しうらやましい豊かさの人でした。
若い時には望みに立ち向かうために、目標は高く保ち。老人は希望はほぼ叶ったと感じる。なんだか仕組まれて、最後は自己満足の飴玉を神様がくれるんでしょうか?
希望は現在の120%であり、常に現在の先に有るものだから、決して手には入らないのに、手を伸ばせば取れると勘違いしている。
これも。理解できないモノで生きる糧なのでしょう。
No.7607 - 2021/05/23(Sun) 20:32:41
☆
Re: 全てが明るみに有ったら、退屈です。
/ ubik0101
引用
とくに希望とか考えることがないので、探ってみました。
それは、人が自ら望んで、世界あるいは社会に一部として組みこまれ、そこで、快不快の快、好き嫌いの好き、苦楽の楽、損得の得とかを実現したいということでしょうか?
ならば希望は、その人の現状と希望されることのギャップ、また快や楽など、部分を望むという偏りが必要で、そのギャップがその人をつくり、それを守り、世界や社会に、人を縛り付け組み込ませるのでしょう。しかもそうであることをその人が自ら望んでそうしてるのに気が付かないのでしょう。
自分で騙されてるというか、自分で自分を騙してる。あるいは世界にその人なりの、ほかの誰かと違う意味をつけてる、判断してる、あるいはその人が現状と、世界、社会、ほかの誰かと、なにより自分と分離してるともいえるのでしょう。
ほかの誰かのことはどう考えても空想ですが、希望の80%が叶った、というのは、年齢を重ねて残り時間も考えて希望することも少なくならざるをえず、また、たくさんの希望を忘れてしまって、叶った希望だけが意識に残ってるということかもしれません。ここでも自分で自分を騙してるのか、これでは、なにも解決されてないかもしれません。
それで、世界あるいは社会とのギャップがなければ、希望とか絶望、現状との分離とか、は成立しないでしょう。時間的には、即今。あるいは原因と結果が同じ、因果関係の壊滅、世界空間的には、社会、誰かとの分離がなければ、いいとなるのでしょうが・・・さて、それで?
No.7608 - 2021/05/24(Mon) 10:50:08
☆
Re: さて、それで?
/ 勘太郎
引用
ギャップを不快に感じています。この不快さをなんとかしなくてはなりません。
希望の実現ではだめ。あるがままであってもダメ。
さてどうしたものか・・と頭を抱えますと、ワープします。私の目鼻耳舌身意の5感がただの感覚器官になります。そこに不快はありません。
思考で行けるところは、思考の無い処です。此処が思考の終着点のように思えます。この先は道がありません。
No.7609 - 2021/05/24(Mon) 20:18:49
☆
Re: 思考がないとは言いながら、無いのを見ている私がいます
/ 勘太郎
引用
無我夢中にはなれません。
しかしながら、ラマナマハリシは「そのうちに、火を搔きまわす棒が燃え尽きる様に、見る自分も消える」といっています。
No.7610 - 2021/05/24(Mon) 21:25:06
☆
ほかの人のことは知りませんが、
/ ubik0101
引用
なにか理解するということは、得ることより、失うことに似ています。おなじことですが、なにかを理解することは、失うという仕方で、得るとも言えます。
たとえばなにか仕事が山積みだとして、その完成を見ることは、その仕事を失うことです。また、それで稼いだ、お金を使って何かを買うということは、そのお金を失うということです。
希望を実現する。ということは、その希望を失うことで・・・自転車が欲しい。恋人がほしい、裕福になりたい・・・その望み、夢、希望、欲望は、その目的が得られたら、失われます。
つまり、希望などをなくすためには・・・有名人に現実になればいいのだ、裕福になればいいのだ、ドンファンになればいいのだ。権力者になればいいのだ。と。思考は思うかもしれません。
No.7611 - 2021/05/30(Sun) 19:49:45
☆
ほかの人のことは知りませんが、
/ ubik0101
引用
そいうことが、希望、絶望の、満足、不満の仕掛けです。おおむねですが、なにかを実現したら、さらにもっと。を求めるかもしれません。実際そいう人はいませんが、世界一の有名人になっても、権力者になっても、さらにもっとを、また違うことを求めたりするのでしょう。
そして逆に、辛い仕事、薄給、だとしても、希望とか絶望に関係なく生きることも可能です。100年とか、1000年前、どっかの国の大金持ちも、現代の技術の生活をしてたと思えませんが、それでも彼らは、それなりに不満と満足に縛られ生きて死んだのでしょう。時に応じて、さまざま考えられるでしょう。世界の総てのお金を手にしたら、それはお金として機能しないのです。
つまり希望とか絶望とか不満とか・・・現実の状況と、思考の状況は・・・関係なくも、関係あるもないのですが、その人が、関係あることに依存してる。ということが問題です。勝手に捏造した因果、ともいえるかもしれません。
それで問題は、希望とか、欲望とか、絶望だとか・・・不満、満足そんな思考。というより、それに執着させられてる、依存させられてる、それを理解するのです。それで理解したら、どうなる、こうなるとか考える必要はなく、自分の状態を見るというだけです。
No.7612 - 2021/05/30(Sun) 19:55:39
☆
ほかの人のことは知りませんが、
/ ubik0101
引用
たとえば、ある人は、誰かのことを批判したり非難したりしていました。そすることで、自分が優位に立ちたいということでした。けど、だれかを小馬鹿にしたりすることで、自分が優位にあるわけではないことを、気が付くだけです。それだけで、人生が変わるのです。気が付かないと、それだけの人生かもしれません。
いろんな人がいるものですが言ってみれば、素直だということ。これが総てです。マハリシのことは、マハリシに任せておけばいいです。誰にも、何物にも、自分ということにも依存しないこと。これだけが探求です。
なにかを理解するということは、得ることより、失うことに似ています。そして、無くなることは、なにもありません。
No.7613 - 2021/05/30(Sun) 20:02:09
☆
一瞥。
/ ubik0101
引用
たしかに意図して思考は止まります。それはただそれだけです。それは自分が残ります。そして自然に起こる思考停止に気が付く事態は、自分も残りません。静かです。くっきり明るい鮮明な世界が現れます。何が違うのでしょう。
それは思考の有無の違いではないです。この思考してる自分の不在に気がつくということです。それで、思考がなかった、その自分がなかった。と、気がつく体験です。また見てる自分はなかった、聞いてる自分はなかった、体験としての現れがあります。
No.7614 - 2021/06/03(Thu) 06:55:14
☆
Re: 本日の出来事。自分はどこへ行った?
/ 勘太郎
引用
勘違い体験なので、30分で元にもどって自分がいますけれど。
職場で今は一人離れて発電機室に籠って昼飯を食べます。お茶のカフェインが効いたのか?発電機を眺めている自分が見当たりません。見ている自分を自分で観察しているのですから、見えないのは当たり前なのですけれども。
感覚的には自分はどこに消えた??と感じました。これが自分が無い」という感覚なのか?とおもいました。30分もすれば、自分がいつもの定位置にいます。
暇が有れば、自分がどんな状態で何をしているのか?観察する様に心掛けています。
時間は横に有って、自分の外に有るのではなく、自分の身体の中に過去の記憶となって折りたたまれて有ると解りました。
時間がないとは、自分の外に時間というモノが在るのではないということだと思います。
やっと初夏になりました。今日の最高気温が25度くらいでしょうか。緑が濃くなって、部屋の植木鉢から小さな虫が湧いてきました。
No.7615 - 2021/06/03(Thu) 20:08:29
☆
それで大丈夫です。
/ ubik0101&hato
引用
一瞥です。永続しませんが、悟りではないですが、それを悟りと勘違いしなければ、これでは駄目だと決めることもありません。カフェインとかの理由をつける必要もないです。
そして、それ、が起きたら、必ず、それとわかります。
時間がないとは、単にそれは知覚できない、認識できない、意識できない・・・人が知覚にあって、意識、思考の、判断、記憶、過去、未来の時間の、自我の煩わしさにないということだと睨んでいます。
ubik0101
数年ぶりかに、庭の下草を復活させようと草取りに励んでます。3匹の猫たちの猫散歩が至福の草取時間です。梅雨どきの、それでも風はまだ爽やかで涼なり、です。
hato
No.7616 - 2021/06/04(Fri) 06:28:06
☆
もちょっと説明
/ ubik0101
引用
まったく時間は認識でき得ません。なぜ認識でき得ないと認識できるのか?それは、朝が来て昼を過ぎ夜になった。風が吹いて月が出た。とかいうことが認識できると知れるだけだからです。
また、なにかをするには時間がかかる。そのなにか、たとえばご飯を食べる。身体が子供から大人になる。腹が減る。だけが認識でき得るということです。
つまり認識でき得ることのメディアであろう純粋な時間そのことは認識でき得ない、です。部屋の中に時計と扇風機がある。その空間がなければ、ならないのですが、純粋な空間そのことは認識できないのではないでしょうか?
このように、純粋な時空は認識でき得ないということは・・・あたかも認識できると見做される架空の過去、未来の時間によって仕組まれる仮設された自我の煩わしい領域が静まり、知覚の領域に人があるということです。
今そのことは、過去そのことは、未来そのことは認識できない。そこで起こったことは認識できる。それでもしかして、時間は自分の中に折りたたまれてる。と感じるのでしょうか?
そこで、自分の身体と世界の境界は不明だということなら、折りたたまれた時間と、時間は自分の外にはないの境界は、どなってる?と思います。
たとえば自分の死は自分で認識できないから死はない、というのは、それは知覚の領域ではなく、思考の領域で考える、知覚の領域ではないでしょうか。
No.7617 - 2021/06/07(Mon) 16:22:01
☆
Re: 過去が自分の身体の中に有る。
/ 勘太郎
引用
今そのことは、過去そのことは、未来そのことは認識できない。そこで起こったことは認識できる。それでもしかして、時間は自分の中に折りたたまれてる。と感じるのでしょうか?
そこで、自分の身体と世界の境界は不明だということなら、折りたたまれた時間と、時間は自分の外にはないの境界は、どなってる?と思います。
つい先ほどまで、暇で困る職場で考えていた問題です。 出た答えは自分の身体の中に有る」と思えるのは、自分の身体が有ると感じているからだ。身体の境目が消えれば過去の記憶も広がり散って、必要な時に姿を現すようになるのかな?
葦を結べば庵になり、庵を解けば葦になる」こんな諺もあります。これを想像するとどうしても、私の身体の中で庵が河原に建っています。
死はオイラの中では、思考の問題です。
最近のオイラは死ぬ瞬間は全てを諦めて(養老孟子さん流に言うと死ぬ覚悟が自動でできる)死ぬことが出来ると解ったので、死の恐れを感じなくなりました。時間が変われば気分もかわるでしょうけれども、今は恐れがありません。
これからWワークの別の職場に遅番の勤務にでかけます。働きづめで大変と感じる方もあるかもしれませんけれども、私は閑が無い方が好きですのでありがたいです。こっちも暇ですから、居眠りしながら過去問題と自分の境目を考えます。
考えるても解かる問題ではないので、考えている自分を感じる作業と言った方が合っている様なきがします。
No.7618 - 2021/06/08(Tue) 15:19:44
☆
Re: 全てが明るみに有ったら、退屈です。
/ hato
引用
探求を文芸にしないというのは、人の嗜好が係るが故に、わりとむつかしいことなのかも知れません。実際はそのようにないことでも、自分が使う言葉、或いは、好みの思考形態と言葉に、人は騙されてしまう、自分で自分が騙されることがあると思います。
楽しい草取り。
そろそろ、熱中症に注意せねばなりません。
No.7619 - 2021/06/08(Tue) 22:38:50
☆
どうも勘太郎さんは独特なようで、
/ ubik0101
引用
それで、時空は認識でき得ない、ということは納得でしょうか?それは、過去は過去でなく、今は今でなく、未来は未来ではなく、右は右でなく、左は左ではなく、中は中ではなく、時空は時空でなく、です。
ここで起こる事象。たとえば、朝昼夜、、見える聞こえる、喜怒哀楽、思考。それをアイテムと呼んでいますが、人は、その知覚、認識、対象に、接触し、接着する仕様になってる、癖があるようです。
それを拠り所にする、自分の根拠にする傾向があるということです。そこでです。知覚、認識、思考でき得ない、時空、に自分を同化できますか?なんの頼りもなく、未来なく、過去なく、それを自分の中心にできませんか?
No.7620 - 2021/06/09(Wed) 19:13:51
☆
Re:私は恰好つけたがりやです。
/ 勘太郎
引用
この性格がいやです。素直になりたいです。ここでも、すでに恰好を取り繕おうとしています。(私はそこを判っているんです)
嫌な性格であっても、私の行動様式なので直りません。中学生の頃から今でも、自分を観察して直そうとしています。
接心で「坐禅は人に見せるモノではない!」と注意されたこともあります。たぶんハトさんと同じことを指摘しているとおもいます。
ubik0101様(御師家様とお呼びするべきと思っています)
私の中心はと云うよりも私は時間もないし思考もないし、恥ずかしさも空腹も怒りも焦りも、死の恐怖も、光も何も無いモノだと感じています。蛇が自分の穴に戻る時の様に、後づさりして自分の中にもどります。蛇はゆっくりバックしてもどりますけれども、私は時間的に瞬間で自分に戻ります。「今ここ」とか云う所だと思います。思考や感情はそこに影響を与える事はできません。またここから思考や感情が影響を与えることはありません。
音も感情も思考も底なし沼に嵌まった様に消えますが、気張ってこの、の底なし沼に居ないとすぐに思考などで私が一杯になってしまって、私がヒーローになる白昼夢の中にいる私を見ます。
繰り返しですけれども、これは私の思考が学習した結果の底なし沼であって、ホンモノではないとおもっています。そのうちに体験がやってきて、ホンモノの底なし沼になるとよいです。
寄り道ではあっても、なんとか進んでいるとおもっています。
No.7621 - 2021/06/09(Wed) 20:37:43
☆
Re:時空は認識できないのは判るか?
/ 勘太郎
引用
時空はそれ自体を認識することはできないと感じます。
時空はそれの「単体」で姿を現すことはできません。テレビとなって、植木となって姿を現します。自分と似ています。自分もそれ「単体」では姿を現わせません。勘太郎とか、自分の鉛筆とかでしか自分を現わすことができません。
時空の意味が違うかもしれません。
No.7622 - 2021/06/09(Wed) 20:46:10
☆
Re: 全てが明るみに有ったら、退屈です。
/ hato
引用
>接心で「坐禅は人に見せるモノではない!」と注意されたこともあります。たぶんハトさんと同じことを指摘しているとおもいます。
そうなんですね。それもいいのですが、ここでは単純に、言葉の扱いが重要では、と言いたかったのです。
>この性格がいやです。素直になりたいです。ここでも、すでに恰好を取り繕おうとしています。(私はそこを判っているんです)
>嫌な性格であっても、私の行動様式なので直りません。中学生の頃から今でも、自分を観察して直そうとしています。
話は違いますが、そういえば勘太郎さんはなぜ、これを ハトさん と呼ぶのですか?自分は一度も、これを ハト と表示したことがないのです。
No.7623 - 2021/06/09(Wed) 22:23:12
☆
Re: 気が付きませんでした。hatoさんの表しか見えていませんでした。
/ 勘太郎
引用
書き手の主体を知りません、でした。
これが書いているのか、人がかいているのか、勘太郎には区別ができません。
書き手を仮想したら、外れてしまいます。言葉の扱いに注意しなさい、とは書く人に気を配ってはならぬ、言葉からこれに入りなさい、です。
「これ」そのものに注意することはできません。自分の身体に意識を向けて、意識が入り込むと、意識の注意を向けた身体の部分がじんじんします。じんじんするのは、「これ」が自分の身体に注意しているからだろうと思います。
No.7624 - 2021/06/10(Thu) 18:47:00
☆
Re: 全てが明るみに有ったら、退屈です。
/ hato
引用
勘太郎さんは、一体何を言ってるのですか?
>言葉の扱いに注意しなさい、とは書く人に気を配ってはならぬ、言葉からこれに入りなさい、です。
違います。言葉を扱うのは、その、人です。
なぜ、その自分を誤魔化しているのですか?
No.7625 - 2021/06/10(Thu) 20:46:45
☆
Re: 理解できていません
/ 勘太郎
引用
考えます。
この自分は、捨て去るべきものだと思ってきました。捨て去って見聞覚知だけがのこるのだとおもってきました。
No.7626 - 2021/06/11(Fri) 20:50:50
☆
Re: 全てが明るみに有ったら、退屈です。
/ hato
引用
意味不明です。
自分を捨て去って、なぜこれは ハト なのですか?ただ見れば、hato と書いてあるだけです。あなたは、なにを意図して、そのようにしてきたのですか?自分を誤魔化してはならないです。
No.7627 - 2021/06/11(Fri) 21:56:52
☆
Re: 書き込む内容が浮かびません
/ 勘太郎
引用
なんとか反応したいとおもいますけれども、ドン詰まって動きません。
No.7628 - 2021/06/15(Tue) 19:24:20
☆
Re: 全てが明るみに有ったら、退屈です。
/ hato
引用
>これが書いているのか、人がかいているのか、勘太郎には区別ができません。
成長の果実は、語られたことの一貫性で見ることができると思います。
これが、人、というとき、人は、総ての可能性を秘めた、まったき人、とします。自分はこの人生で、自我無我真我、区別する必要がないところで生きる、と決めてチャレンジしています。
名前ついでに。かつてこの、覚醒のホームページを開いて、初めて投稿しょうとしたとき、ふいに胸に響いてきたのは、HATOでも、はとでも、ハトでもない、hato だったのです。これ自身は、目に見えません。そして、言葉はまったくそれ自身でもない。からこそ、可能な限り相応に、それを指し示すことができる不思議、と思います。
ま、どーでもいいけど、どうでもよくない、・・そんな感じです。
No.7629 - 2021/06/16(Wed) 21:20:09
☆
Re: 私は解ったかもしれません?
/ 勘太郎
引用
と言っても理解の段階です。
これが勘太郎として姿を現しました。これを自分と呼んでも真我でもなんでもよいです。これはそれ自体だけでは姿を現すことができません。
現れている全てがそれであって、形としては、太陽・ペットボトルとなって具現化しています。。
借り物の物語ですけれども、それをそうと信じることができます。
今まで、パパジという聖者の云う言葉がどうしても理解できませんでした。今は腑におちます。
質問者 精神は身体に依存しますか?
答え 意識が無かったら、自分の身体を意識
することが出来ません。
勘太郎はそう産まれてきました。だれかに指示されることなく進むことはできません。導かれるという表現が適当かもしれません。 手を引かれてとかレールの上をすすむのではありません。荒野に放りだされているのですけれども、。産まれながらに進む方向が決められているのです。
今はそんな気持ちです。何が有っても受け入れる事ができそうな気がします。精進します。
一時の誤解かもしれません。
No.7630 - 2021/06/17(Thu) 17:13:14
☆
Re: hatoさんの言葉を大切にする
/ 勘太郎
引用
その精神を理解できたとおもいます。
それが現れるのは形だけでなく、言葉にも具現化して現れる。
具現化した言葉を大切にする。こう理解しました。
No.7631 - 2021/06/17(Thu) 19:47:32
☆
Re: 慎重に言葉を意識することは
/ hato
引用
これを学び、生きようという決意かも知れません。
不注意も誤り、意味を与えすぎても誤り、言葉で表現することは、注意深くならざるを得ませんが、言葉は、自己を学ぶ上で大事な杖と思います。
頑張って一歩一歩いきましょう、と思います。
No.7632 - 2021/06/17(Thu) 21:45:10
★
ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
1984.3.20
人は努力なしに得られることに対して努力してはいけません。
お金持ちになることも有名人になることも、ふつうの人のあこがれの対象となるすべてのことも、グーゼンにその運によって実現されることがあります。そのようなことについて決して努力してはいけません。それを自己の目的や支えとすることは誤っています。努力ということがらについてはそうでなくてはならなことをのみ望み努めるべきです。それは私にとってやはりこの世のしくみを知ること、自己であること、仏陀であることであろうと思います。もしある人がただ運によってそうであるということが、あるでしょうか。ないとは言い切れないのが、この世界です。けれど僕は人がこの世のしくみを知らされず、それについて思うことをなかなか良いことと思います。
No.7587 - 2021/04/20(Tue) 20:27:47
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
ふつうひとは何だかの前提のなかでものを考え日常生活しています。けれど考えることをするならば、人は、かえって考えることによって得るのではなく、自己の前提を知ることはそれを失うこととして(自己をそういうふうにしくんでいるのですけれども)体験します。これはどうにもなんという自己ギマンを実験的につくっているのではないかと思われるほどですが、それがまた、苦しいレクリエーションでないとはいえません。実にそうなのですけれど。人はなぜ生き死に自分が自分であるかと考えることも、僕にとって、人生のハイライト的に良いことのようでもあります。会社に向かって歩きながら有楽町のガード下を歩く時、また酒を飲みながらああ、こんなことをしていていいのだろうかと、そういうことがあんまり嫌いではありません。
No.7588 - 2021/04/20(Tue) 20:29:02
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
努力については、仏陀からそれを学ぶことができます。もし自分が仏陀になれるまで、私はこの木の下を動かない。はたして仏陀でない人でこのような決心をした人はないでしょう。努力とはそのようなことをいうのであって、決して運によってもなされることを(まるで自己の存在理由がそうであるように)そうしてはいけません。こういうことを言うのは僕が確かに努力を必要としているからです。この努力が解消されるまでは必要なことだと、ままいえます。
No.7589 - 2021/04/20(Tue) 20:30:25
☆
Re: 札幌の桜が開花宣言されました。
/ 勘太郎
引用
平年より10日位早いそうです。ゴールデンウイークには桜が開花しない年もあります。
私が無いばあい(私というモノがあってこの勘太郎の私が無い、とかり想像してきました。そもそもの私がないと想像できるようになりました)何が起こっても他人事。
生死というコトがあって、生死が無いのではなくて、生死という出来事・概念・が何だか解らないで生死の決着が着くと言うのでしょう。
繰り返しです。池田晶子という方が「私は葬式で笑いが出てしまうのを堪えるのが大変だ。死んだ者は何もの?なのか解らないのに、参加者が泣いたり吠えたりする」と
No.7590 - 2021/04/22(Thu) 19:28:23
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
>私が無いばあい(私というモノがあってこの勘太郎の私が無い、とかり想像してきました。そもそもの私がないと想像できるようになりました)何が起こっても他人事。
>生死というコトがあって、生死が無いのではなくて、生死という出来事・概念・が何だか解らないで生死の決着が着くと言うのでしょう。
勘太郎さんの行き着いた考えならば、そうなのでしょう。
そして事実は、人は、人として生きて死ぬ。です。そうではありませんか?
まったき人が、その限定された「わたくし、」を生き抜かない、有り切らないで、どうしてそれでなくあれるでしょう。それは確かに、想像、ではありません。もう少し言いますと、不可知、とは、なんだか解らない、というだけのものでも確かに、ないようです。
死んだものは何者か不明じゃないか、・・たしかにそうでしょう。けど、人は人として限定された数十年を、そのいつか、慈しみをもって共にした誰かが逝った。共に慈しみ合った時々を愛しむ。もう二度と、同様には会えないのです。切なくて泣くでしょう。もう一度会いたいと吠えるでしょう。人が生きることの切実さは、失えるものではないと思います。
池田晶子さんが逝って10年近くなるのでしょうか。20年か前に、一度セミナーでお見かけしました。著作も気に入って読みました。明確な物言い、自己を込めて詰めて考え抜いた、けれども確かに、哲学者だと思います。
No.7591 - 2021/04/23(Fri) 23:41:57
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
>繰り返しです。池田晶子という方が「私は葬式で笑いが出てしまうのを堪えるのが大変だ。死んだ者は何もの?なのか解らないのに、参加者が泣いたり吠えたりする」と
これだけの文章では解りませんが・・・死んだ者は何者?なのか分からないって?うーん、生きてる者が何者か分かる、分かってる、ってことなのでしょうか?そうだとしたら、かなり変だと思います。
でも、とりあえず死んだ者は何者?なのか分からないってことが変でないとして、その事実と、それと葬式で笑いが出てしまうのを耐えるのが大変、という事実と、どう結び着くのだろう。なんの因果関係があるのだろう。
ここで池田晶子が探求すべきは・・・自分が、そのように感じる原因ではないだろうか。そいうことが哲学でしょう、その始まりでは、と思いました。生きてる者が何者か分からなくても、日常、泣いたり吠えたりではないでしょうか。
No.7592 - 2021/05/05(Wed) 17:57:49
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
もしかしてですが、池田晶子は、ここで。葬式で泣いたり叫んだりしてる人のことを、無知だね、馬鹿だね。と言ってるのかもしれません。まあ日常、いろんなことがあるものです。誰かを馬鹿にすることもあるでしょうし、尊敬することもあるでしょうし、自分を騙すこともあるでしょうし、
そのことの奥には、万能感とか、自己責任の放棄とか、自分の判断に固執するとか・・・または責任感、誠実さの発現とか、それによる軋轢とか様々かもしれません・・・また自分はないとか、人は死なないとか、悟りとか迷いとか・・・そいうのを、人生、世界、縁起とか、呼ぶとして、それは、人の死によって可能なんだと思います。
No.7593 - 2021/05/05(Wed) 19:09:38
☆
Re: 書き方が悪かったです。
/ 勘太郎
引用
池田晶子は「人は死なない」と言いたかったのです。人は死なない、そうではあっても、死はかなしいのですけれども、死なない自分を理解しなさい」との彼女の思いを「葬儀で笑いをこらえるのに苦労する」と文筆家として表現したと思います。
オイラは人が死なないとはおもえませんけれども、理解としては、個別の、世界から切り離された個別の私がないですから、何処までが私であるか?分らないのに、私が死ぬと感じてしまうのも、これまたおかしなものです。
こちらは蕗が食べ頃です。蕗の香りはまだ足りないようなきもしますけれども、シーチキンと鰹節とみりんと醤油でお弁当のおかずです。どうでもよい性格ですじが残って蕗にからまってますけれどもこれも愛嬌です。こどものころは蕗はきらいでしたが、だんだん好きになりました。ubik0101さんハトさんのお宅には蕗がありそうな雰囲気です。
No.7594 - 2021/05/05(Wed) 21:10:17
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
川の土手で掘り起こした苗や、100円ショップで買った苗が増えて、庭の西側にフキが群生しています。
人は死なないとは、この世界と分離できない構成要素だからではなく、個人だからです。
No.7595 - 2021/05/05(Wed) 21:23:38
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
ヘラクレイトスの、彼のものがこれになり、・・、池田晶子さんは、万物流転の言をよく引用されていました。言葉でもって、宇宙に飛翔し、切開していくという探求は、そもなにか世界(宇宙)を前提にされていたかも知れません。もし、世界から切り離された個別の自己がないとしたら、もしも宇宙(世界)がなくなったら、その自分もなくなる・・ではないでしょうか。
庭の蕗は、まだこれから、増えたら嬉しいです。今年は、知人の「森のお母さん」から、手製のきゃら蕗を頂きました。
No.7596 - 2021/05/05(Wed) 21:56:59
☆
Re: 下記の意味が解りませんでした。
/ 勘太郎
引用
人は死なないとは、この世界と分離できない構成要素だからではなく、個人だからです。
たまたま見た養老猛(たけし)のユーチューブで自分は死ぬ前に意識不明になってしまうから、死ぬ事はない」と言ってました。
個人である私の意識は死ぬ体験をすることはできない。
個人とは、個別のモノではなく、普遍的なモノなので死なない」のかと思ってました。
コロナが身近になってきました。勤務先も24時或は26時まで営業して居酒屋さんも8時には閉店。しゃぶしゃぶ屋さんは5月いっぱい休業しています。誰が悪い、国が悪いではなく、こういう事も起きます。しかたがないので我慢です。
No.7597 - 2021/05/12(Wed) 21:06:43
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
うーん。青は藍より出でて藍より青し、です。おなじことですが、♪どこまでも行こう。です。死を経験できないから死がないではないです。
ところで、それ、を認識できないと、それ、がないと、養老猛は言ってるのでしょうか?自分の中では自分は、全知全能なのでしょう。
No.7598 - 2021/05/12(Wed) 23:15:31
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
青は藍より出でて藍より青し。
人は、世界に出でて、世界そのものであって尚、世界を修了していく、・・・世界を超えていく、・・可能性がある、ということです。
あるない、の言葉遊びにならない、・・人はあるから死なない・・ではない、その死の意義とは、その人自身に任されていると言える、と思います。
No.7599 - 2021/05/15(Sat) 21:01:40
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
青は藍より出でて藍より青し・・・中学か高校?のとき教室で、教師が私たち生徒に向かって言いました。ん、青より藍が濃いし深いのに、なぜ青のほうがいいのだろう?と思いました。教師は、生徒が教師を超えてほしいという一般的な意味で言ったのかもしれませんが、その言葉そのことには、そんな意味はない、こじつけだと思います。教師とは世界のことです。生徒とは、それぞれ人のことです。青は藍の、つまり世界の、エッセンスです。恒常とか、普遍とか、刹那とかの特定の意味もありません。ついでに言いますが、縁起とは、神羅万象のエッセンス、精髄です。
ほかの言い方では、世界を脱皮するのです。そうであって、個別もなく、全体もなく、自我もなく、無我もなく、実在も現象もなく、です。それが、たとえば春の夜の風が気持ちいいな、です。
時に応じてさまざま言えるでしょうけど。たとえば、どんなに好きな人とも、嫌いな人とも別れねばなりません。けど、自分とは絶対に分かれることはできない、、、だからその自分のために、なることをする。でも、誤解する人は必ず誤解するのでしょう。
No.7600 - 2021/05/15(Sat) 21:23:49
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
3/26
たとえばあるジョークが面白いのは、それを知らないでいる時である。ふつうには人は面白がるために自己を無知のなかに置く。これが前提ということである。
多くの場合、それは自己の性格だとか、肉体的条件だとか社会的置位だとか、目標だとか、進歩だとかとして現れる。
それは遊びにルールが必要なように、この世界をあきてしまわず面白がるための、自らつくったルールである。
さて、そんなものはどうでもいいと僕は考える。
さて、ルールは、この世に(あらかじめ)しくまれたものであるか?
No.7601 - 2021/05/20(Thu) 18:44:43
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
個人的に無意識に構成されたものであるか?また、別のものであるか?混線したものであるか?
自己ケンジ欲が理解できないうちは、それがルールである。依存関係が理解できないうちは、それがルールである。客観が理解できないうちは、それがルールである。
しかし人は考え、それを得ることではなく解消すること、つまり考えることができる。
そういうふうにしくまれてあるのは、おもしろい。
No.7602 - 2021/05/20(Thu) 18:46:03
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
前提が理解できないうちは、それがルールである。
自己が理解できないうちは、それがルールである。
なぜ人は何だかのルールに捉われてしまうのか?
もし何も得に考えることなく人をやっていっていいるにしても、日常が理解できないうちは、それがルールである。
人はルールにつまり罠に落ちるようにできている。
つまり学ぶことができるようにしくまれている。
この世のことから学ぶことができるようにできている。これが経験といわれるものである。
No.7603 - 2021/05/20(Thu) 18:46:52
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
さて、これまでの例題−自己ケンジ欲、依存関係、客観、前提、自己、日常などは、ほとんどが、反価値なことである。
ところで理解されてしまったルールはどうなるのだろうか?
では、価値のあることとされていることを例にとってみよう。
愛を理解できないうちは、それがルールである。
ここでは愛と恋は厳密に区別されねばならない。
恋は反価値である。
愛ならば、それに捉われた方が良いと思われる。だから愛は理解されない方がよい。
愛ならばそれに捉われた方がよい。だから人は愛を理解できない方がよい。ということになる。けれどこれは誤っている。
No.7604 - 2021/05/20(Thu) 18:49:13
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
つまり、自己は理解されないうちはそれがルールである。
そして理解は罠の解消である。とすること自体が
No.7605 - 2021/05/20(Thu) 18:49:52
☆
Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
しかし理解したからといって、対象が解消するわけではない。しかし、そうであるほどでなければ理解とはいえない。
では、そのもの概念が理解できないのは、人がそれに捉われるためなのだろうか?
人は愛を理解できない。
人は神を理解できない。
人は理解できないものに捉われる。
ある人は自己に。ある人は世間に。ある人は愛に。
ある人は神に。ある人は依存関係に。ある人は日常に・・・。
すべての「そのもの」は理解できない。人がそれに捉われるためである。
No.7606 - 2021/05/20(Thu) 18:51:55
★
(No Subject)
/ hato
引用
仕事場の近隣の小山に、数年前から日本カモシカが見られるようになりました。近くに住んでいると思うと嬉しいものです。増えると、山や畑を食い潰すと聞くと、切なくなります。ともかく、元気ならとてもよかった。
じっとこちらを見て、微動だにしない、静かな佇まいが美しいです。
No.7584 - 2021/04/05(Mon) 00:19:06
☆
Re: ハトさんの「私がはなしているのではありません」
/ 勘太郎
引用
この言葉が頭に浮かぶことがあります。鉄城御老師の「無字ってなんだ?」と同じ様に公案です。
浄土真宗では「阿弥陀様が話している」と云われます。誰が口にしても出どころは一つと云こと、実感は伴わないながら、そうなんでしょう。
いつも話で、ダグラースハーディングと言うひとの中に、「距離は無い」と言います。おいらはどうしても、まず距離というものが有って、それが無いと考えてしまうのですけれども、彼が言っているのは、見ている私と対象である遠くの鉄塔が一つで分かれていないといっているのだなあ〜とやっと解りました。距離とか、幅とか時間もそうなのでしょう。これまた実感が伴いません。仏陀の「明けの明星を見て、歓喜した」もこれです。生死の解決は生死無しというか、生死が無い。です。
No.7585 - 2021/04/05(Mon) 09:39:34
☆
Re:
/ hato
引用
何度か話題になっていたのかも知れませんが、ダグラスハーディングという人をよく知りませんでしたので、すこし読みました。哲学者、神秘家という通りの文章、との印象でしたが、その、ダイレクトに見るというのか、そうしたものの見方の練習で、自分という中心がないことを言われてるのか、と思います。実際のところ、人はどこに導かれてるのでしょう。
自分としては人として、対象との物理的距離はあるとして、認識する事柄に距離はないこととその物理的距離、どちらを落としても拡大しても、事実の認識との意味では、奇妙なことになるのではないでしょうか。と思います。
或いは、世界はひとつ、自己は世界、自分は見ているパソコンであり壁であり、他人なのだ、というのは、その総てを自己として愛するという、覚悟かも知れません。
として、本当に、?。自己とは本当に、? とは問わなかった。
不可思議、という事実を見ず、世界であること、ひとつである意識、という解釈に落ち着いたのかも知れません。
頭がない、の意味が違うかもしれませんが、そのように頭で解釈したところ、ありきたりの、詰まらない、本当には落ち着けないところに、人は押し込められるでしょうか?
今年は早くて、もう散ってしまいましたが、桜が今年も咲いてくれました。ナナが見えます。
No.7586 - 2021/04/06(Tue) 00:56:37
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