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“掲示板”

この世界は人を覚醒させるための触媒です。

ubik0101の探求ノートから / hato
1/21

この世のものによって自己が自己であるところのものを与えられる。つまり、いわば後天的に自己は与えられるのだとしたら、そう考えている私そのものは、そうなってしまうということをほとんど認めざるを得ません。つまりそう考えてしまえば自己はそうなってしまっているともいえるのです。

あるいは自己が自己であるのは、この世の何物何事によっても確証できない、となると逆にそれは自己の存在をこの世よりも明らかに確証することができます。

つまり、感情も、感覚も自己ではない、と感じながら、自己の存在証明を求めるのです。いわばこれはより深くへと自己の内部に向かって自己を探すのです。(多くの場合、そこには自由(意志))とい何ものにも捉えられないあらかじめ不定形のものを見付けることになります。)

これに反して前者のように考えますなら、それは自己を失うキケンがあるのです。なんとなく自己は自己であるとして、それは後天的に与えられるものです。これは世界から自己を見ているのです。

で、このように考える僕自身は、と申しますと。

No.7462 - 2020/11/25(Wed) 22:58:04

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

1/31

価値という言葉があります。それについて考えること、はまずその言葉自体の意です。「価値って何?」という場合の多くが、価値そのものを問うているのです。けれど、価値とは、それが何かについてのこと、であるとするならば、そんな問題は立てる必要がないように思われます。つまり(世界にあって)(人が)何かに対してそれが価値のあるか否かと、思うものだとしたら。よくは分かりませんがこの関係はなんだかの系のなかに収められてあるものとして、価値というのは本来的に、それ自身の意味を問うものでない、と感じられるのです。このことは自由とか心理とかいう言葉についてもいえます。さらに自己という言葉についてもおなじです。で、そうしますと、このようなことは、

No.7463 - 2020/11/25(Wed) 23:00:03

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

2/19

すこし動物について。人間はわりとなぜ、生きているのか?なんて考えてしまう。そして考えなくなったとしても、それは何も答を得たかというわけでは、多分、ない。それはなにがなんだか分からないで生きていることなんだ。で、ね、人は世界の中にでも世の中の中にでも人の中にでも生きたりするわけだよ、。で、自分のまわりのものを感覚して、さ
て、そこから自分はなんだろーか、なんて考えてみたりするわけなんだけど、ま、それは全然情報不足である。ということは別の話。

たとえば、ほとんど何がなんだかわからないで生きているものというと、やっぱり動物だな。これが、ま、それ自身はどーいう感じなものか知らんけど、わけがわからず生きているわけだ。ここんところは全く人間もおんなじだ。人間にも目の不自由な人とか体の不自由な人とかがいるんだけど、ま、人間を基準にしてみれば形態が不自由なのだな。

ということは別として、彼らは、なにがなんだかわからずに生きているのだから、もし神が創造したものであれば、あれは、生かされている、といってもいい。それは人間もおんなじだ。で、世の中には、自分が生かされてあります、なんて、さも得意そうにしている人がいる。どーいうわけなんだろう。たとえば昔コーウンキもなくクワだけで熱い重労働にたえて汗をながし赤貧で、そんな純直な人がそういうのであれば、非迫害者であることを受け入れながらも、という感じで分かるは分かる。けれど、わたしは生かされてあります、などとたとえ六畳一間のアパートの住人だったとしても夕食の心配がないならば、いうべきじゃない。

No.7464 - 2020/11/28(Sat) 23:06:18

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
2/21

いつかノートに書くことにしよう。たとえば冷たい風を呼吸しながらセーターを透して感じる寒さだとか、どこからどこかへ向かって歩いている感じ、天気が良いとか、それが楽しくないなんてことはない。だもんだからこの世界はぼくを楽しませるためにあるといってもいいくらいなのだ、と。

もし完全なキリスト者であった人がいて、死んで、復活もなくイエスと会うこともないとしたら、その人の生きていたことキリスト者であったことは、その人にとって何だったのだろう。というのも、世には明らかにインチキぽい宗教があって、その人達の人生は何なのだろうとも考えるからだ。だけでは決してない。ただ世の中を生きるフォームとしてキリスト者であることを、その人が選んだだけのことであれば、それはむろんキリスト者とはいえない。しかしイエス自身について考えてみれば、明らかに彼は復活し神の右に座るであろう。と、するとキリスト者であれば神の御国に、仏教徒であれば極楽に、イスラム教であれば・・・・と、非常に個人的なものであると考えてそれが事実そうなると考えてよいのだろうか。

No.7465 - 2020/12/01(Tue) 21:18:48

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

たしかにもしぼくがこの考えを正しいとし、ぼくのものにしたとしたら、ぼくにとってはこうなのだ。だからこの世の有り様をみて何か解釈したとしたら、ぼくは、そんなぼくなのだ。なら、こうであることは、どういうことなのだろう。それはぼくは単に主観であるためのしくみの一つなのだろうか。バッハはもう飽きた、マイルスが良いとぼくの主観がある得るための、そして他の人があいつはどういう男だ、とわかるためのものだろうか。

これは世界のしくみみたいなものでもあり、また、ぼくの存在のしくみの深いところまで浸透している在り方だ。たんに主観というものがあり得るためのこと、たとえば、僕は------であると思うそのことによって僕は-------であると規定されることだけのために、この世界の中にあって、僕は僕の心はそのことに強くしばられている。この主観があり得るためのしくみ、それがぼくの精神をも満たし、従って、ぼくが見ていることとしての世界をも満たしている。ぼくが見ていることとしての世界の中に他の人も存在し、自然はあたかも自然のただなかにぼくがあるようにぼくを配列する。しかし一方には、自己のどうにもならんものとしての天候とか他人とか自分の体や心などが在る。

No.7466 - 2020/12/01(Tue) 21:20:24

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

もしぼくが積極的であればまず心を、体をコントロールし、他人を動かし、天候をかえることができる。心のためには哲学が、体のためにはスポーツが、他人のためには社会が、天候のことには物理学があるのだ。

もしぼくが消極的であれば、天候に左右され、他人に動かされ身体や心に支配される。天候からは物理が、他人からは社会が、体からはスポーツが、心からは哲学た導きだされるのだ。多分。

ぼくが主観であり得るためのしくみ

No.7467 - 2020/12/01(Tue) 21:21:27

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
3/8

生まれることも、生きることも、死ぬこともすべてこの世界に(おいて)原因があることです。

No.7468 - 2020/12/01(Tue) 21:22:13

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

3/11

ぼくは常にこの世から学ぶ者です。

No.7469 - 2020/12/01(Tue) 21:22:38

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

3/24

ただこの世に生きることは、この世で経験されるどのようなことより面白い。あるいは苦しい、というべきか。もし、この世界がすべて(神の)創造物であれば、楽しい、とか、苦しい、とかいうことさへ創られたものです。

No.7470 - 2020/12/01(Tue) 21:23:09

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

記憶がない自我。

No.7471 - 2020/12/01(Tue) 21:23:28

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

自我主張することは、なんと消極的だ。なぜなら、それはそうする理由を(自己でななく)他人に持っている。

No.7472 - 2020/12/01(Tue) 21:23:53

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
1981

8/19

たとえば、男であること女であること、お金持ちであること、恋をしていること。それは自分にとって何か意味のあることです。つまり他の人にとっては全然どうでもよいことです。たとえば田中という人がどこかにいて、いま散歩しているとか、口論しているとか、悲しみを味わっているとかしているとして、僕には、どうでもよいことです。

それとおなじで僕がなにであろうとほとんど僕にとってもどうでもいいことのように思えてしまいます。というのもどんな心や体の状態にしても、それは決して僕という自己(つまり全存在としての自己)を表さないからです。という考えが暗にあるからです。そりゃそうで、たとえば悲しみが僕であるはずはなく、喜びが僕だということはなく散歩が僕だということはなく、視覚が僕だということはなく、あるからです。

ところが他の人に関しましては大方の場合、悲しんでいるのは、彼や彼女である、散歩しているのは彼は彼女であり、なのです。かんたんにいってしまえば自己というのはここでは何か創造的なものとして言われているから、部分からはそれは決して導かれないとか、他人としてみれば人はかたよりがあって、それをとらえて他の人のことを考えているのだ、といえるかも知れません。
けれど問題はそうではありません。自己とは不思議です。

No.7473 - 2020/12/01(Tue) 21:26:28

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

悲しみやら喜びやら、そういう(つまらないものに)捉われてしまうし、それでいて、そういうものは自己でないと思うにしても、そういうものしか自己感覚を味わえないのです。お金持ちであるとか貧乏人であるとか、そういうものとしてしか、人は自己を確かめる方法がないのです。つまり、この世界によって人は自己の有り様を知るのです。(まったくそれ以外のものはありません)けれどそれは単なる手段であり、ぜーんぜん「自己とは何か?」を知らしめません。言いかえればぜーんぜん知らしめないようにできているといってもいいようなものです。この世界は人に自己を知らせないようにしてあります。

No.7474 - 2020/12/01(Tue) 21:27:45

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

けれど、それでも自己。この不思議なものが世界を見、歩き、思い悩むのです。それは当然で、もし自己がこの世界のどんなものであろうと、もしいいあてることができるほどのものだとしたら、それは全然自己なんてものではありません。つまりこの世界のどのようなものでもないもの、として在らしめ(られて)いるのが自己といってもいいほどです。

というよりそのようなものがすべて自己ではないですから、そういう形式である、という方がより正確です。(どうして、そうなっているのでしょう?)

No.7475 - 2020/12/01(Tue) 21:28:46

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

さて、すべての人がそのようであるとしてみましょう。すると、他の人がただ単に物のように、つまりなんとかという性格だとか社会的地位であるとかの人である見られるのは、単に他の人は僕の(対象として)カンサツされるかれであるとしか言えません。単にそれだけの理由で、他人は他人なのです。
かえって、それでは自己は、僕は、この肉体(のなか?)から、これを基準点としてみている、ということだけで僕であるというようにも思えます。まったく自己とは不思議です。これはこの考えがたんに対概念であって、一つの手がかりでしかないことをそれ自らが示しています。自己=この僕ということは、そこから出て来ません。もちろん経験が僕をつくったのだ、ともいえます。つまりこの世界は自己を知るために(ある)のですけれど、決して自己はそのようなあのようなものではありません。

No.7476 - 2020/12/01(Tue) 21:29:42

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

この前公園で木もれ日を見ながら、空間というのは物と物との間であると知った。では時間は?出来事と出来事の間であるとしたら、それは探知不可能である。つねに経験やら何かやに変調された時をひとは味わうわけなのです。で、そこから純粋時間を取り出してみるというのは大変むずかしい。たんにそうしている時もそうしていることに時間が変調されているということ(だけ)が手がかりに見えるけれど。出来事と出来事の間というと、それが時間だとして、それが有るか無いかさえ分からない。

時間と空間は似ているから類推してみよう、なんて馬鹿げたことに思えるけれど。物と物との間が空間として、なぜ空間があると分かるかといえば、そこに何もないからである。実サイには、光とか風とか、ナントカがあるわけだけれど。時間は、その場合、そこにないから分かる、となぜ言えないのだろう。

単純には空間に対する光のようなものが、時間のなかにはあるように知覚できない。あるいは物と物というようなものでなく、ずっと連続して(均一な)ものであれば間ということはあり得ない。(もし人がリンネするとしたら、生きていることと生きていることの間というのはあるだろう)あるいは、もともとそれだけでは在らぬものは存在しない。
あるいは、

No.7477 - 2020/12/01(Tue) 21:33:04

Re: 自分を動かす事はじぶんにしかできません。 / 勘太郎
これは解り易くて、明快です。

ubik0101の探求ノートから / hato 引用

自我主張することは、なんと消極的だ。なぜなら、それはそうする理由を(自己でななく)他人に持っている。

No.7478 - 2020/12/03(Thu) 17:31:33

Re: と言っても、私はできていません / 勘太郎
言行不一致。理解に留まっていて、実現されていません。
No.7479 - 2020/12/03(Thu) 20:27:29

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
そうなら、そのようである理由は、自分にあるのでしょう。こちらにとっては、まずはその理由を探ることが、始まりでした。

ところで、

そのノートを最後のページまで書き終わると、なんとなく、辛いノートだったとか、なんかいい内容のノートだったな、とかの印象が残ったりしたのです。そして次の夜、新しい何も書かれてないノートを開きます。するとそこで、それに向かってる自分も、まったく白紙なんです。なにもない自分なのです。そこから自然に始まる言葉、思考が、探求でした。

No.7480 - 2020/12/04(Fri) 06:57:46

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

9/3

たとえば、「生じるものは滅す」ということについて。この世にはすべて原因がある。従って、そういうものは感じない。(なぜなら原因なくして生じたものはこの世の中にはないから)。原因があって生じたものは、また滅しもしない。・・・などとある日は思い、またある日は「野の花のように生きる」と思い、またある日は・・・・これはなにか自己が自己を確かめる手段としてのこの世のすべてのものが変わること。

もし、どのようなことがらでもそれが僕というものであれば、‶自己″というものの存在は不可解です。

No.7481 - 2020/12/05(Sat) 23:11:14

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

(ごく普通のこととして)人は思うこと、行うこと、そうであること、において自己がそのようなものだと知るのだけれど。
(ごく当然のことだけれど)そのように経験されることは変化する。あるいは、ある日はお金持ちであっても、ある日は貧乏であって、それをよりどころとして自己を認識する。この世界のどのようなことも、そのように変化するものなのです。

(だけれども、ある朝目覚めてみると有名になっていたりすることはあっても、大きな毒虫になっていたり、僕がほかの誰か、彼か彼女そのものになっていたりすることはあまりない。と、いうようなことがあるのは、実はその示すところは)自分自身にとって、(たとえば)過去の自己(それもその時々の経験によって認識、覚感されたもの)と今の自己
とを比べることもできないのが普通で、(それはこの世のどのようなことも自己を示さない)それはなぜなんだろう、と思うところに現れる。

No.7482 - 2020/12/05(Sat) 23:12:52

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

・・・は自我でない・・・は自我でない。この世界のどのようなことも自己自身ではない。というのは、自我はそのようなどのようなものでもない、ということだけれど、逆に。

・・・は自我である・・・は自我である。この世界の経験対象、覚感作用すべて自我である。と思ってもわるいわけは決してない。もし人が過去の自己、現在の自己の、この(不思議な)有り様を観サツ思念するのであれば、それは、どちらもおなじ働きをするから。

No.7483 - 2020/12/05(Sat) 23:14:24

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
>言行不一致。理解に留まっていて、実現されていません。

もしかしたらですが、言行不一致と考えることは、何か考えてることと、その考えてる自分とを結びつけてる、その状態。あるいは思考と思考してる自分が分離してる、ので、それを結びつけようともする、

それは架空の因果。そうしてる原因の自分がいるかもしれません。

そでなく、思考の展開を見るだけで、自分の状態と関係づけない。つまり何かの思考と、思考してることによって、たとえば言行不一致。と認識されるような(ほかの何を考えても)、自分はこんな自分だとかの認識のない、掴めない何か、それでも自分としか呼びようがない、

そこでそのことを立てる、掴むのではなく、思考と自分、分離するのでもなく、一致するのでもない・・・つかず離れずで・・・それは思考だけではなく、見る聞くにしても、行動するにしても、話すにしても、日常はそのようで、

なぜか、自分の思考したことは自分でわかり、話したことは自分でわかる、行動したことは自分でそのままわかる。この絶妙な不思議。その自分も、あるでもないでもない・・・世界もあるでもないでもない・・・思考と思考者を個別に立てたり一緒にしたり、世界と自分を別にしたり一体にしたり、自分の観察者を立てたりする必要はないかもしれません。

No.7484 - 2020/12/07(Mon) 10:13:17

Re:しらんぷりをする / 勘太郎
雪担御老師が「覚醒はしらんぷりの事である」と言っています・

こちらを見ないで、向こうに注意を向ける」ことなのかと思いました。

こちらを探れば必ず何かの自分が出来てしまいます。注意の方向の→の根元と先が分かれて、見る対象は先にあり、根元には全く解らない自分が居ると感じてしまいます。
そうしたら、対象だけで自分が消えるかもしれません。

 と書いている時に頭をポリポリ掻くと、見る対象が段々自分に近づきます。自分は玉ねぎらしいです。

No.7485 - 2020/12/07(Mon) 20:09:56

Re: 自分は日本の大きさにもなります / 勘太郎
ハヤブサ2が小惑星から岩石を持ち帰った」と聞くと自分の事と喜びます。

自分の乗っている車が傷ついたら自分が悲しくなります。破れた服を着ていると恥ずかしいです。
身体と身体の外との境があいまいとの話をbik0101さんとしたことがあります。自分の心も堺があいまいです。

 自分を米粒大の塊にして、道路わきの草むらに投げ捨てたいです。

No.7486 - 2020/12/07(Mon) 20:26:52

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
>雪担御老師が「覚醒はしらんぷりの事である」と言っています。

どんな文脈で言われたのかわかりませんが、真理にある人は、知らないことに自ら気が付きます。

たとえば仏陀に、縁起の法は、なぜ、縁起の法なのですか?と聞いたとします。達磨に、無功徳と言ってる、あなたそのことは、何ですか?と聞いたとします。

なんか知ったかぶりなら、その言ってることの理由や根拠を言うかもしれません。しかし真理にあって、人は何も、まったく、知らないのです。これを知らんぷり、といえないことはないです。知ってるのに知らないという人為的なことではないです。即今は、なぜ、即今?

たとえば見えるは、なぜ、見える?聞こえるはなぜ、聞こえる?思考は、なぜ、思考?うどんの味は、なぜ、うどんの味?日常は、なぜ、日常?無知の知とか、どいう意味かしりませんが、そいうことではなく、ただ知らないに気が付くのです。

>身体と身体の外との境があいまいとの話をbik0101さんとしたことがあります。自分の心も堺があいまいです。

それは、なぜ、それ?

No.7487 - 2020/12/08(Tue) 08:20:56

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

冬空が透き通ってます。

見た、感じた、考えた・・

その不可思議にさっと渡し、さあ!進もう。

No.7488 - 2020/12/08(Tue) 08:39:29
(No Subject) / hato
11/19

いいんだもん。僕でなくても彼が幸福になれば、幸福というものについては、それが存在することは確かだし、何もそれが僕でなくてもいいのだから。というふうに恋人を誰かにとられた男は思うことがあろう。いいんだもん、その幸福は僕が感じるものでなく、幸福自体が存在するなら、それを感じるのは僕でなくてもいいはずだ、と。

この際個人というものは、そういうもに一切関係ないとして考えられている。けれどこの個人であるということは。

No.7449 - 2020/10/27(Tue) 21:50:16

Re: / hato
12/27

いったい何をして人が、その人であるのだろう。

たとえば、誰だって恋をします。そして誰だって自分の恋の熱中度、純性さを感じることができます。そして、ほんとうにそれ自身が正しく純粋であったとして、その恋自体はまぎれもない本物だったとします。たとえばの話、それがポールとグイルジニーだったり、ロメオとジュリエットだったりすることもあるでしょう。そしてまた、妻子持ちの男と夫
子持ちの女というか、そんな場合もあるでしょう。と、すると、どんなに真実なものとして、よりどころになりそうなものさえ、それは特になんてことないものになります。
それは単にそれが純愛にみえるとか不倫にみえるとかそんなことから、それは世間の、というか、人の置かれた状況によって、やっぱり人はその人であることが定められている、と、考えるからだけではありません。というより、自己が自己であること、それと、そのように世間体というか、まわりから見られるものというより、そのようなものとして認識
できるように自我に働きかけるもの、それの関係は、ふつう思う以上に深くしみいっています。

たとえば妻があり、夫がある男と女がいて、愛し合っていたとして・・・たとえば憎しみあっていたとしても、それはそれぞれにどっちにしても、その人自身であることには違いないでしょう。ならば、感じること思うことは、その人がその人である根拠ではないでしょう。だから、まず自己なのであり、それから感じたり思ったりするのだ。といえば簡単
です。けれど、世界をみわたせば人々がいますし、なぜ自己が自己であり他人というものがあるのか?やはり問題です。けれど、全然問題なんかなくって、こういう世界がこういう世界としてまずあるのだ、としたら。ではやはりなぜ、そうなっているのか?と考えてしまいます

No.7450 - 2020/10/27(Tue) 21:52:44

Re: / hato

1/18

なぜ自己が自己であるのか?これは僕の心を悩まします。それを、僕を中心に置いて世界をながめるという、人の習性から考えるとなると、どうしても自己と、それと、どうしても対象から自己が規定されるということの2面性に捉えられ、さてそこで、頭がいっぱいになってしまいます。

No.7451 - 2020/11/10(Tue) 22:44:09

Re: / hato

たとえばというか、特に自己に関わる問題でないにせよ、私たちが物を見る時、物を見るのか光を見るのか?と考えたとします。もちろん物は光なしで、光は物なしで見ることはできません。(光そのものを見るなんてことがあるのでしょうか)そして、これを分析してみようとすると、たちどころに何も考えられんようになってしまいます。ところで、これは最初いったように、自己それから世界の関係の中で思われていることです。これ以外の見方があるかって?あります。僕はこの世界に組み込まれている、ということです。

No.7452 - 2020/11/10(Tue) 22:45:01

Re: / hato

こう考えますと、自己が自己であるのは、この世界を一枚の絵にたとえますと、僕というものは、ある点に置かれた赤とか青でありまして、それはまったく全体により(赤とか青とかいうことの意味さえ)意味を与えられるのであり、また世界全体も個々の点により(ずい分楽観的に見るならば)絵となるのです。

No.7453 - 2020/11/10(Tue) 22:45:33

Re: / hato

実際に世界に組み込まれたものとして自己を見てしまいますと、自己がさて世界に組み込まれてあるものとして感じますが、さて、それ自身、何の意味があろうかなかろうか、ということさえ、さほど大切なものに思えなくなってきます。まったく、自己から出発して、自己とは何か、と問うことは、客観的に(これは奇妙な言葉だ)言って、それ自身のあやうさをあらわにしてしまいます。

No.7454 - 2020/11/10(Tue) 22:46:14

Re: / hato

誰でも自己が自己であることは、まず大前提であり、それ自身をうたがわないのがふつうです。とにかくまず、自己なのです。(で、ここで自己が自己であるのはなにによるか?と考えますと、与えられているデータはそれだけということからしても、まず自己と自己の見たもの聞いたものそして考えたものとの関係を見ることになってしまい勝ちです。)ところが客観的に(変な言葉です)見てみますと、人がその人であるところの重要なものは、ぐーぜんというか(主観的には)運命というか、そんなもので決まっているのです。

No.7455 - 2020/11/10(Tue) 22:47:08

Re: / hato

たとえば人が生まれるということも、その人の意志によるかよらずか、ということも(この世界に来て考えることなのです)成長し、考え(自己と、自己の考えたこととの関係は?)また死ぬことも、この世界に来て与えられることなのです。確固たる自我は、まずあり得ないように思えるのです。でも、なにをして自己は自己であるのか?を問う時人は、それを前提にしますし、そうできるならば・・・とも思えましょうけれど。僕は僕自身を活花のように感じます。切られこの世界に差され。感情として、このような考えが誤りであることを僕は切に願います。

No.7456 - 2020/11/10(Tue) 22:47:45

活花の言葉から思い出します / 勘太郎
 雪担御老師がテレビで放映された内容を、苦さしていました。
「水墨画の中を俳優が周りの景色を見ながら進んで行くなんていう、放送がされたけれども、あんなの反吐が出るようだ」
 
おらはこの放映は見ていませんので、想像です。
雪担御老師は雪舟が好きで、よく提唱の中で話されます。その雪舟の絵の中をバーチャルリアリティー画像で俳優が絵の中を歩きながら絵の解説をしたのではないでしょうか?

 雪舟は覚醒しているそうですから、その絵を凡人が踏み汚している様で不快だったのか?と思います。

自分を活花の様に感じるを読んで、おらも絵の中を歩いている俳優の様に想像してしまいます。

無量大数の因果で動いているこの絵の中に居ながら、自分の周りだけは、好みに描けると感じているおいらです。

No.7457 - 2020/11/11(Wed) 19:49:20

Re: / ubik0101&hato
その番組とか知りませんが、その俳優、紙に描かれた絵の風景の中で、自分だけ生きて動いてる特別な者という感じがして、それを雪担和尚が嫌ったのかな?と空想してしまいますが、もちろん空想です。

ubik0101

この夏、仕事場の玄関先に、ほとんど力の失せた雌の黒猫が倒れこんでいて、かなり悩みましたが面倒をみることに決めました。

hato

No.7458 - 2020/11/11(Wed) 22:36:15

Re: / hato

牙が3本抜けており、雄とケンカのためか、加齢のためか、硬いものを齧ったためか。病院では、万が一を考えて避妊手術は控えましょうと言われました。

No.7459 - 2020/11/11(Wed) 22:44:00

Re: 雪担御老師が嫌ったであろう / 勘太郎
自分だけが世界で生きていて、他は生き物ではないように感じるのオラです。

コロナが他人事ではない、と感じる様になりました。3日前に微熱があり、のどが痛いので市の相談センターに電話しました(24時間受付しています)。
体温・症状・痛み・匂い・味・行動履歴を聞かれて「それでは検査対象に該当しません。不安でしたら病院を紹介します」と言われました。

 不安だったので、紹介された病院に電話予約して出かけたところ、医者も症状を聞いて、風邪でしょうと2種類の風邪薬5日分を処方して終わり。
昨日から微熱も喉も治って一安心しています。

 病院も大変です。患者はガラガラですし、一人の患者にマンツーマンで対応するので人手は掛かる。電話の受付から、医者への案内まで同一の看護婦さんが対応していました。
 看護婦さんは、素手でフェイガードも無し、半そでの上着! プロがこうなのだから、本当はコロナって移りにくい病気なのかな?って思ってしまいました。

 やることをやって罹ったら仕方がありませんので諦めます。手洗い・間隔・マスク。勤務先のしゃぶしゃぶ屋さんは少ないながらもおきゃさんは来てくれています。居酒屋さんも6割???
 自分が罹ってもよいのですけれども、罹りたくない人もいるので、勝手な行動はとれません。普通の病気であるような気がするのですけれども死ぬ人は罹って死ぬ。普通の人は治る。

No.7460 - 2020/11/12(Thu) 13:37:33

Re: / ubik0101
ふつうのインフルエンザ、日本では年間1千万人が罹って、3千人ほど犠牲になるそうです。もし新型コロナに1千万人が罹ると、日本人にはすでに抗体があると?の噂もありますが、1%が死ぬとしても、10万人です。ここは蔓延させて欲しくないです。

なのに恐るべきことを恐れない、注意すべきことを注意しない、そんな現実感のない人、現実逃避の人、ありもしないことに希望を抱く人が、新型コロナなんか大したことない、と思ったり言ったりするの聞いたことがあります。などと言ってる注意する人が、罹ったりして、どいうわけか注意しない人にとっては、その注意しない自分の正当性があるとみなすこともあるかもしれません。変な考え、姿勢でも、それを助長する機能も世界にあるのです。そうであっても、

この世界が、どのようであっても、自分が、そのようである必要はないんじゃないでしょうか。世界は舞台、だけど僕は役者じゃない。40年ほど前の日記を見て、その頃、こう思ったことを思い出しました。

たとえばとてもタカビーな人が、時折、素直な表情を見せる時があります。それは、あることと、その反対のことは同じことだ。という考えもありますが、傲慢と素直、両方そろって、そこに居続けるようにその自分を騙してるということもあります。なにかに注意深くてもなにかに不注意とかも。自分を騙して生きてて、なんになるのだろう。

こんなこと言ってもしょうもないのですが、世界はそういう人の有り様も守る機能があるのです。徹底的に、その人はその人に任されてあって、完全に自己責任です。こんな私に誰がした?は、ないんです。

まあ勝手なことを言いますが、おおむね人は、子供の頃に。特別感、万能感があるようです。そんな特別感とが感じられると、それを煩わしく思ったり、また。それを増長させようとする方向になるかもしれません。増長させよう、つまり、もっと特別感を実現しようとすると、なんか失敗したり成功したりして、そのループに囚われて、特別感だけの人生だった、もあるかもしれません。そして、特別感、万能感、を感じることもなく、それに支配され、ほんとうに何のために生きてるんだ。という人もいるようです。それもその人の自己責任。

その都度その都度、なにか考えることや、出来事があって、それにどう対応するか?どうやっても、なんにも役にたたないのだけど、その都度、その都度のことで、原因と結果ではない、また、たとえば総ては一つとか、非2元とか、なんだか、これが事実だ。真実だ。ということではなく、大事があるようです。そして考えるなら、ほんとうに徹底的に、正確に考えること。たとえば、因果について、

>無量大数の因果で動いているこの絵の中に居ながら、自分の周りだけは、好みに描けると感じているおいらです。

ほんとうにそう感じてますか?どっか掲示板で見たのですが、因果って複雑な、絢爛豪華なタペストリーとか。そんなことではないです

> やることをやって罹ったら仕方がありませんので諦めます。手洗い・間隔・マスク。勤務先のしゃぶしゃぶ屋さんは少ないながらもおきゃさんは来てくれています。居酒屋さんも6割???
> 自分が罹ってもよいのですけれども、罹りたくない人もいるので、勝手な行動はとれません。普通の病気であるような気がするのですけれども死ぬ人は罹って死ぬ。普通の人は治る。


こんなことを考えちゃ駄目。ああしちゃ駄目、そうしちゃ駄目ってことはないけど。ほんとうに駄目。自分にとっての大事、こんなところにあるでしょうか。

No.7461 - 2020/11/12(Thu) 20:48:00
ubik0101探求ノートから / hato
1980年

11/2

『時とは、物の変化の量である」ということがよく聞かれる。これは変化が量であるという不思議な考え方に、何か僕の知らない数式か概念かあるのだろう、ということによって是認されてしまいそうになる。なぜなら変化とは質の変化でなければならぬのが普通だか
らだ。変化を量ではかる考え方、それはなんじゃ。

No.7441 - 2020/10/12(Mon) 23:34:17

Re: ubik0101探求ノートから / hato

たとえば、全然変化しない物があったとして、それは時が流れたのか?あるいは半分がナマリになったウラニウム、結局そんなものはなんてことない時計と同じだ。時計が時を計るのはたしかに不思議だ。なぜ時が流れているとして、時計が動き得るだろう。時計についてはただ、時が一定分すぎる間に、分針などが動く、として考えればすむ。つまり、物の変化によって時の流れを知る、ということになる。で、これでは何の意味も言ったことにならん。

No.7442 - 2020/10/12(Mon) 23:35:35

Re: ubik0101探求ノートから / hato

僕は時々、時の速度というのを考える。時の速さは光速より速くなくてはならん。なぜなら時のなかを光はすすむから。また逆に、時の速さは、普通日常感覚で時というのは、何かをするのにかかる時間から逆算されたものに近い。しかし人は時そのものが動いているように感じる。時そのものが動いている感じ、これは考えてみれば奇妙なことなのだ。ひとつの系のなかではそれ自体がどう動いているか分からないのがふつうであるのに。

No.7443 - 2020/10/12(Mon) 23:36:54

Re: ubik0101探求ノートから / hato

「時とは物の変化の量である」いわんとするところはただ、物の変化によって時が分かるということで、時と物との組み合わせがあるということだけなのだ。時そのものは、知るということはできないとも言いたいようだ。けれどなんとでも言うがよい。「時とは物の
変化の量である」くそくらえ。

No.7444 - 2020/10/12(Mon) 23:37:48

Re: ubik0101探求ノートから / hato

じゃ物とは何でしょうか。物とは時の変化の質である、とでも言ってみるかい。基本的に基本的なことなのだが2つの物や事を比べて言うとき、それ自体何の結論も出せないのだ。それぞれが互いに根拠になるか他のものがそれらの根拠になるかしない限り、何かについて判断することはできない。

No.7445 - 2020/10/12(Mon) 23:41:23

Re: ubik0101探求ノートから / hato

僕は8時10分にクオーツ目覚まし時計をセットした。ところが3時に目を覚ましてしまった。まだだいぶ時がある、のだ。時が来るまで、時は待たねばならぬ。時そのものが質感のあるゼリー状のものなのだ。3時では、いまだベルは鳴っていない。鳴るためには時自身がまだそこまで行かねばならない。僕自身がそれまで眠っていようがビールを飲んでいようが、地球がどのくらい動こうが時計が5時間10分動こうが全然関係ない。時自身がそこまで動かねばならない。この時自身が動いている感じ、これが日常感覚としての時感覚だ。

No.7446 - 2020/10/12(Mon) 23:42:45

Re: ubik0101探求ノートから / hato

大宇宙のなかに銀河があって、太陽系があって、地球がある。そこで1mの高さから鉄球を落とすと、目もくらむような軌道を描いて地面に落ちるはずなのだけれど、観測者には、ただ直線に落ちるようにしか見えない。で、ひとつの系は、観測者がその内部にいる限
り、他の系との区別はつかない、と言われている。

No.7447 - 2020/10/12(Mon) 23:43:34

Re: ありがとうございました。 / 勘太郎
 世の中は私にとりまして、どうも思い通りにはいきません。目の前の課題が解決したら、バラ色の生活が待っている様に感じてしまいますけれども、すぐに次の課題が目の前にぶら下がってきます。

 これは入学試験に合格すれば私の未来は開けるから始まり、入社試験が現れ、昇進試験が始まり延々と死ぬまで続きます。
 この頃は諦めがついて、課題から解放される希望を持たなくなりました。それでも目の前の課題には取り組まなくてはなりません。

 ネット料金が乗り換えたら安くなりますよとの勧誘に乗って、乗り換えたら勧誘者の想定外の違約金が発生してしまいました。何回か交渉したけれども」「その違約金は勘太郎様負担です」で終わり。ネット料金も安くなったのか?どうか?解りません。違約金は諦めたモノのの、契約の明細をいまさらですが、調べているところです。課題と云えば課題です。

 この課題は、人が生きる為の愛の鞭と感じる様になりました。人は怠け者ですから、脅かされないと動きません。

  ボイラマンですから、作業場にはバルブがいくつかあります。なんだかこのバルブの取っ手が妙に愛おしく感じます。世界は愛おしいのもので溢れています。というか全部が愛おしいです。ただ人の全てが愛おしいか?となるとそうはいきません。肝心なところで愛おしさが消えてしまいます。

No.7448 - 2020/10/14(Wed) 18:17:31
透明詩集から / hato
1970 5/28


ぼくは大きくなったら
でんきれいぞうこになります

大きくて白い2ドア ノーフリーズの
きれいなでんきれいぞうこになります
ぼくの大すきなバナナや
みつまめのかんづめをたくさんいれて
お母さんや弟が
扉を開けてくれます
ぼくはいつもコードから
でんきを食べて
台所に立っています

おとなりには
流し台とかトースターとか
電子レンジなんかがいて
朝になったら
おはようございますって
お母さんに 教わったとおりに
ご挨拶をします

そうしてお母さんに
タマゴを出してあげたり
小さくなったハムを又 うけとります
おひるになったら
お母さんが 買ってくる
シャーベットや
おにくなどをうけとります
夜は遠くの
テレビの声をききながら
みんなの笑い声を聞いています
夜の間には
お父さんのウイスキーに入れる
氷をつくったりします

そおして時間がたって
ぼくもだんだん
古くなって
こしょうしてしまいます
そうしたら お母さんがぼくを
ちりがみこうかんしてしまうのです

No.7435 - 2020/10/06(Tue) 10:19:23

Re: 透明詩集から / hato

1970 7月


わたしの胸に鳥が落ちた

わたしはとって
本にはさんだ
本は少し厚くなった
のを忘れていた

開いた本から
鳥が降って来た
おし花の様に
ひらたくなってたけど
重かった
私はひろって
パリパリ食べた
のを思い出した

開いたノートから
樹の花が降って来た
花吹雪だった
やがて 花びらいっぱいの 私の上に
雨が降り出した

No.7436 - 2020/10/06(Tue) 11:14:19

Re: 透明詩集から / hato

1970.12.10


午前1時になると
夜の道路が
音を立てづに
燃え始める
導火線の様に
町をかけめぐり
空気をオーラの様に
輝き渡らせる
一日の昼を燃やし
つくさせる
その時 夜の町を
歩く者は
炎に身をつつまれ
灰となってくづれ落ち
空虚の内に閉じる
時間を失う

その
ことに依って
炎は自分自身を閉じ
ふたたび
夜の星は開く
さわやかな風が吹き始めると
町には、おでんやが
再び現れ
深夜営業の
スナックが
ジュースボックスの流れ
に依って
さざめきと笑いと
活気をただよわせる
ラジオの電波が
しみわたって行く。

No.7438 - 2020/10/06(Tue) 11:32:03

Re: 透明詩集から / hato

10月に入って、漸く涼しい・・というかもう、朝晩には冷えを感じます。季節の移り変わりは切なくも、これがなんともいえず、。数年ぶりに、御前崎の漁港に行きました。

No.7439 - 2020/10/07(Wed) 20:23:32

Re: 透明詩集から / hato

ubik0101さんの釣果は、手のひらサイズのシマダイ。白黒くっきり模様に、つぶらな瞳がチャーミング。こんにちは!して、すぐに海に戻しました。

こんな漁港のひとっとき、ちょっといいのです。

No.7440 - 2020/10/07(Wed) 20:30:15
ubik0101探求ノートから / hato

日付のない、「否定の研究」と題された、二十歳頃かと思われる頃のノートから。


否定されたといえることは、その否定でありつづいていることである。


.

No.7427 - 2020/09/15(Tue) 23:19:10

Re: ubik0101探求ノートから / hato

その者が否定続けるのは、その者がどの様にでもなくありたいのであるから、その者は規定性を否定せねばならない。その者はあの者の様に規定されていたり規定したり何としてもしたくない。この様であればどおして否定するものを対象にしているだけで拒否してい
るといえよう。

No.7428 - 2020/09/15(Tue) 23:20:00

Re: ubik0101探求ノートから / hato

その者は否定の根拠がないのであるが、それはどの様にでもなくありたいからである。而も規定性を否定してそおでありたいのである。

というのもそれが否定されたあかつきにはそれが否定でなければならないのだから。否定の根拠がないというのは、そおすることに依って否定が否定でなくなるからであり、否定のあかつきには規定性は否定されていなければならない。

だから規定されてあるあの者の様にも規定しようとするあの者の様にもありたくないのであり、そのために根拠を持たないのであり、それは規定性の拒否である。

No.7429 - 2020/09/15(Tue) 23:27:11

Re: ubik0101探求ノートから / hato
(序)

この否定の研究という恐ろしく論理的な問題を、それにも拘らず、理論的に取り扱うといったことは不可解である、というより今のところはと言った方がいいだろうが、その様に思える。

というのもこの研究は、多くのことがそおであるようにそのことの内で行われるか、そおでないかであり、前項の場合、そのことがまさに混乱である混乱であり、それが理論的であるとしたら、全然別のものの研究となり、後者の場合は、理論的にしようとするためには混乱を生じてしまうことになり、結局はどおしようもないということである。

No.7430 - 2020/09/15(Tue) 23:29:02

Re: ubik0101探求ノートから / hato

あるいはこの研究は研究の始まりのためのものであり、どおしてもそおしておかないことには後々混乱が、激しくなるばかりものになると予想されるものに対して、多少の確実性を現させる様ににしておきたいためである。

No.7431 - 2020/09/15(Tue) 23:30:54

Re: ubik0101探求ノートから / hato

情緒的否定性

他人からの規定性を、対立している時、自己は無として意識され得るがそのことは、その者がそれほどいじらしいということである。ハイデガーにあっては無とは可能性である。併しそれはその無を無のまま確立させようと、あるいはそれが対立したものに依ってそれを見るなら。その通りである。

No.7432 - 2020/09/28(Mon) 23:37:56

Re: ubik0101探求ノートから / hato

第一章 否定

他性の否定とは、否定が他性の否定であり、何かを否定しようとすることも他性であるとして、そのことは、自己が、そのようなものとして自己を自己の考えたものとして表明するということにあった。そして自己が自己であるための研究として、常にこの私がそおであるもの


思考とは関係であり、思考があるとはすでに何かの関係である。

No.7433 - 2020/09/28(Mon) 23:52:47

Re: ubik0101探求ノートから / hato

否定の否定が肯定であるというのは何だかの規定性をそれに見出しているのである。例えば、否定性とは現実の否定であり、その否定の否定に依って現実性は肯定されたと、併しこのことは私が現実性を意識し得るということである。否定性と対立していた現実性を考え得ることである。実サイに他性的であることと否定での意識での他性



自分の感じというものをすごく嫌がるものなのだ
全ては物をかくそうとする



全てはものをかくそうとする


そー
そー
そーとする


全てはものをかくそうとする

No.7434 - 2020/09/28(Mon) 23:54:28
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