144597
“掲示板”
この世界は人を覚醒させるための触媒です。
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ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
9月に入りました。
日中はまだ蒸しており、蝉が頑張って鳴り響いてます。
No.7420 - 2020/09/08(Tue) 10:50:06
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
ubik0101探求ノート、その時々の文字の大きさでびっしり埋め尽くされたなか、イラストや挿絵が、青年らしい情感で描かれてました。
No.7421 - 2020/09/08(Tue) 10:54:50
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
モノトーンに赤。
No.7422 - 2020/09/08(Tue) 10:56:34
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Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
すこし色付いた、
No.7424 - 2020/09/08(Tue) 10:59:39
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Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
色を塗られたものも多くあります。
No.7425 - 2020/09/08(Tue) 11:01:23
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
赤や青、さまざまに塗られていました。
No.7426 - 2020/09/08(Tue) 11:03:22
★
ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
我々はこの現実と交信状態にあります。
1978.5.16
感情も思考も、自己の根拠になりません。なら、どうして生きていけばよいのでしょうか。聖書にはあります。人はその果実を見て知るべし、と。ということは、行為によって、ということのようです。しかし行為は何によって根拠を得たらいいのでしょう。感情でしょうか、理性でしょうか。行為することができません。しかし、できないという根拠もまたありません。空に飛ぶ鳥のように明日のことは思い悩むことあらず。僕は、百合の花のように、それは、美しいということでしょうか。僕は美しいでしょうか。
No.7388 - 2020/08/17(Mon) 21:51:42
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
5.20
理性によって愛すなら、その理性対象を愛すのであり、感情によって愛すなら、やはりその対象を愛すのです。
眠ってて分かったこと。もし人が生まれる以前のことを覚えていたら、この世界で生きてる意味がない。
感情によって愛すなら、相手の感情を求め、体によって愛すなら、相手の体を求めます。
そして命によって愛すなら、命を求めます。
計算による愛は、感情など、どうでもいいといいます。
感情による愛は、計算など、どうでもいいといいます。
命による愛は、命以外のものは、どうでもいいといいます。
では、何によって、それを確かめるでしょう。
No.7389 - 2020/08/17(Mon) 21:52:35
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
5.24
神は僕を愛しているけど、特別に他と比べて気にしているわけではない。現実的な意味に於いて。もしそうだったら僕は現実的な出来事などを我と思うだろう。考えてみよう。
世界には、まだ、物ごころもつかぬ間に死ぬ者がいる、体や心が不自由な者がいる。それら当事者にとっては正にそのことが現実である。もしそのような人が神に祈り治されたら、その人は、現実的なそのことを我と思うだろう。神は人間の祈りを聞いても、その愛ゆえに叶えることはできない。
ここに男がいて、女を欲しているとする。女が欲しいと祈ることによって与えられる女は、アンドロイドでしかない。男は女の心も欲しいのだから。神が与えないそのことに於いて神を信じる。しかし、これは昔の信である。本能的にそう感じるだけだ。神は個人を分けへだてて愛さないし、そうであることが許されるような愛し方はしない。
No.7390 - 2020/08/17(Mon) 21:54:53
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
5.26
なぜなら世界は僕が創造しているのだから、幻にすぎない。説明をする。
世界が有らぬとすれば
自己は有り、
自己が有らぬとすれば
世界がある。
No.7391 - 2020/08/17(Mon) 21:55:46
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
僕は幻である。3年前、僕が彼女を受け入れていたら、僕はこの僕でなく、現在彼女が受け入れている男と同じだろう。心も体も目に見えるものはすべてそのような代用品としてあり得る。なぜなら、もし今、彼女が僕を受け入れたとしたら、僕はあの男の代用でしかない。そして僕は、どうすることもできる。目に見えるものとしては、 いや、 人間としてその全て、思考 感情 意識、認識 生きているという感覚
僕が3年前、彼女を受けていたら、僕は生きているという感覚のある一人の人間として、くらしている。つまり人間として生きているだろう。それを僕は想像できる。眼前に。そして、それ、僕は、この僕と何だ変わりない。もし、そうなら。世界は思いのままに変わる。現実さえその思いのまま、とったコースにある。
僕は僕の決心で現実を変えられる。
人は子供の頃、世界は思いのままにならないということから世界の存在を信じるようになる。そう、自分の思いのままになるとしたら、世界は自己は存在しないのに、人は思いのままに世界をすることが自己のあることと思うとは。シーザーやナポレオンが世界を動かすだけ、自身と世界を無にする。
No.7392 - 2020/08/17(Mon) 21:57:07
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
?@人間は自己の考えたり感じたりすることさえ、自分で決めることはできない。
あるいは、
?A人間は、自己自身を変えることができる
この(相反する)ことは同じことを示している
?@は、変えられぬ現実が厳として存在する。そして人間はそれを根拠にしない。
?Aは、世界は変えられる。世界も自己も幻である。
これは、あるひとつのものの2面生である。つまり、それはあるものの概念である。といっても、?@、?Aは現実である。だから現実は、あるものの概念そして、そのあるものとは、存在の本質である。世界がかく在るその在り方である。
No.7393 - 2020/08/17(Mon) 21:58:35
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
僕は髪の一筋さえ変えられない
しかし世界を変えることができる
といっても、世界そのものをひとまとめに
僕は髪の色を変えることはできない
命を伸ばすことはできない
人の心を変えることはできない
物理法則を変えることはできない
しかし世界を変えることができる
このどちらともが を示している
を示しているということは、
このことを概念的有り方として人に知らしめていることである。
ということは、そのもの自体の存在を知り得るということだ。
なぜ世界はかく在るか
目に見えるように、感覚されるものとして
No.7394 - 2020/08/17(Mon) 22:01:10
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
6.4
仏が六年苦行して得たものは
一杯のミルク粥でした。
人間の、自己とは、現実のことです。人間とは、自分自身と、まわりの現実、そのものです。ある人間とは、その人間そのものであるという意味に於いて、現実そのものです。これが幻でなくてなんなんでしょう。このことは、人間の自己が対象性を持っているときには理解できません。なぜなら対象化は限られた現実なのですから。その自己もまた
限られたものであるからです。
No.7395 - 2020/08/18(Tue) 20:30:31
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
?@だれも時間の流れを止めたりできません
ということは、時間は自己ではありません
?Aだれも運命は自分で変えられます
ということは、それは自己ではありません
No.7396 - 2020/08/18(Tue) 20:31:10
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
そのどちらからも自己は幻であることが示されます。しかしこのどちらからも、というこの有り方は、実に概念的です。つまりこの世界そのものが何だかの概念として在る、ということです。
あるとは?@、?Aとも逆に考えてみると、自己とは時間です。自己とは世界です。ということになります。
人間とは世界です。
No.7397 - 2020/08/18(Tue) 20:32:00
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
6.6
人間は世界です。そうでなかったら、誰がものを対象にし、それに捉われ世界の内で自己自身を発見することができるでしょう。
No.7398 - 2020/08/18(Tue) 20:32:38
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
人間そのものがアートマンです。なぜなら、世界とは純粋な抽象性そのものだからです。
ごらんなさい。世界は美しく、とあるものとしての対象性を受け入れません。とあるものの対象性は常に、とあるもの以外のすべてのとあるものに根拠を得ていますが、それは想定された根拠、つまり、ここにないものとして、どこかにあるだろうものとしてあるだけです。この対象性を理解し、それに捉われることなく世界を見るなら、人間そのものは抽象性そのものであると、どうしていえないでしょうか。
ごらんなさい。
世界はそれだけで美しく在ります。
あっ、そのように感じている時の人間、て何なんだろうと、思ったことはないでしょうか。
No.7399 - 2020/08/18(Tue) 20:34:49
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
お元気ですか。あなたは僕により多くのものを与えてくれています。そのために僕の前から姿を消しました。今では、なつかしく思います。僕自身の根拠をあなたに、ではなく、僕自身に置かれました。あまりに全てのものが僕のものになりましたので、まだ、それについて話すことが上手にできません。僕の存在の根拠が僕自身にある、なんと恐ろしく不安なことでしょう。
No.7400 - 2020/08/18(Tue) 20:35:29
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
6.7
どんなに美しい恋も、それがモラル的にも、かくあるべきものとしてある恋、理想的な、1人の男が1人の女と1生恋し続けたという恋も、隣人愛の足元にも及びません。恋はそれが美しいものであるためには、ただ1人を恋すのです。しかし隣人愛は、すべて、です。
あー、人間は、自己自身を愛すようにつくられています。恋は、いかに激しく美しくとも、自己愛でしかありません。しかし、隣人愛が自己愛に勝るとき、隣人を愛してやまないとき、自己への愛を常に彼自身が呼び起こさないとしたら・・・・。
すべての人に対して、自己を捧げるのです。あー、恋の、君のために
CENSORED
る、なんて、なんてこっけいなんでしょう。愛と呼べるものは、隣人愛しかありません。そして、それを行った人、それはイエス キリストです。
No.7401 - 2020/08/19(Wed) 23:30:22
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
6.10
あなたがあなたの隣人を愛すように、あなた自身を愛せ。これが必要な、という人はイエスだけです。恋する人に言ってみましょう。あなたが恋すように、あなた自身を恋せ。むろんそうです。恋をしている。相手を得ている自身を恋してなかったら、どうして、人を
恋すことなどできるでしょう。
No.7402 - 2020/08/19(Wed) 23:31:13
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
6.15
イエスは僕に無限に近づく。仏は僕に無限に遠ざかる。
つまんない。僕が僕そのものであることは、ただそれだけのものであり、ただそれだけのものであることは、これだけのものであり、これだけのものであることは。世界がただ、これだけのものとしてある、ただこれだけ、とは、その根拠を自己に持つ、ということだ。つまり、これは、これ。そのものである。
そして、そのような有り方としては、世界と僕を区別できない。世界がかくあるからという認識によって、僕はそういうものではない、という暗黙の、が、ない。世界は、それ自体が世界の根拠である。としたら、それは、それだけのものであり、根拠などというのは、ないも同じだ。僕は、僕自身に根拠があるとしたら、それはそれだけのものであり、根拠がないと同じだ。
No.7403 - 2020/08/19(Wed) 23:33:41
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
普通、世界は幻のように現れ、と考えるとき、その根拠たる別のものが見える。それは実在である。
普通、自己は幻であると考えるとき、その根拠たる別のものが現れる。それは実存である。
たとえば因果関係によっては、生起も消メツもない。というとき、やはり根拠が否定されてはいるものの、ないものとして想定されている。自分自身も幻であるというとき、それを感じている自分がある。
No.7404 - 2020/08/19(Wed) 23:34:26
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
むろんそうだ、世界が幻であれば、それは無限であり、命は永遠である。けれどすべてが実在であれば、世界は有限である、命は限られている。それだけのものでしかないというとき後者である、ということだ。
世界が生成変化しないとしたら、それは在ることができない。
No.7405 - 2020/08/19(Wed) 23:35:44
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
つまり木はその果実で知られる。果実を見るとき人はそれが木から成ったものであることを知る。しかし、果実そのものを、そのものが成ったと思うとき、つまり、その果実の根拠を果実に置くとき、それは、それだけのものとなる。それはそれだけのものとなるとき
、それはもう生成しない。
つまり世界が在るためには、それは幻でなければならぬ。
No.7406 - 2020/08/19(Wed) 23:36:32
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
世界が在るためには
それは幻でなくてはならない。
人間があるためには運命がなくてはならぬ。つまり、幻でなくてはならない。
くだらない人間でもよくやるじゃないか。自分の行為の根拠が他のどこかにあるように、人に思わせることを。Aの根拠がBであり、Bの根拠はCであり、Cの・・・と永遠にあらねば在ることができない。僕としてはこれが嫌であった。
でも現実がそうであっても、それを人間が真似することは少しもない。
No.7407 - 2020/08/19(Wed) 23:37:42
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
6/18
世界が在るためには、それは幻でなくてはならぬ。幻であるとは生成、変化するものであることである。生成変化するからこそ、世界は幻である。なぜなら、存在の根拠が常にそれ自体でなく他のものに借定しているからであり、それは永遠にたどっていっても常にそうである。
そのようなものとして存在の根拠は借定されたものとしてある。(むろんナーガジュルナの言うことは、ここから、因果関係によっては生起も消滅もないということがいえる。)しかしこれは世界の、とあるものを見て、つまり対象を持って考えた抽象である。そう見ないとしたら。「世界」は、そのものを根拠として存在する、としたら。それはそれ自体で存在する。
No.7408 - 2020/08/24(Mon) 20:46:32
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
つまり存在がそれ自体にその根拠であるとしたら、それはそれだけのものである。それだけのものであるとは、まったく、有限なものである、ということである。なぜなら幻である世界は永遠であり無限である、それは、存在の根拠が永遠に無限に借定されるからである。
世界がそれだけで存在するとすれば、それは有限なものである。世界が幻である人間はまた幻である。それは根拠なく無限であり永遠である。それが、どうして幸福でないことはないだろう。しかし、しかし。
事実は、世界は、それ自体存在である。生成も変化もない、つまり、有限なものである。世界は幻のように現れているのではない。幻のような世界は虹に例えられる。それは美しく見える。それを追いかけてそれが在った所に行ってもまた虹はあそこで輝くばかりである。
しかし世界は有限である。これが苦痛でなくてなんだろう。僕自身も有限であるということだから。
No.7409 - 2020/08/24(Mon) 20:49:26
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
人間は自分の根拠を自分に見るとき有限である。これは僕にとって苦痛である。自分自身を救わねばならぬ。しかし世の中は永遠である。世界も人も。根拠を他のものに持つ限り。あー、人は永遠でありたいために自分自身を限定したものとして考える。そうすればとにかく他のものに自分の根拠をまかせておける。
それが他人であれ運命であれ性格であれ、前提であれ。そうしてさえいれば命は永遠である。
これらはただ、とあるものを対象にしている。世界の内に自己を発見する限り、そのようにしてある。僕は自分が永遠でないことを知っている。
幻である、永遠なもの、根拠を自らにもたないものは逆に、自らも他のものの根拠になり得る。だから実体は空である。在るのでも、無いのでもない。
(有限なもの、その根拠を自らにもつものは、他のものの根拠にならない。)
自己主張なんてものも存在のこの有り様から来ている。決して、とある人が、その人自身がそのようにしようとして、その意味を知って、そうしようとしているものではない。自己主張さえ、個人としての存在から生まれるのではないし、それが返って個性のなさを示してしまう理由もここにある。
No.7410 - 2020/08/24(Mon) 20:52:27
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
続6/18
もし神がその存在の根拠を自己に持つなら、それは有限なものである。神はむろん存在の根拠を自己に持つものである。とするとそれは限られたものである。なぜなら、それは他のものと並存しないからだ。並存するものは実体が空である。
自ら存在するものは有限なものである。神はともかく人間はそのようなものだ。これが苦痛だ。人間が神にその根拠を見い出すなら、人間の命は永遠である。しかし自分自身にその根拠を置くなら人間は限られたものでしかない。
No.7411 - 2020/08/24(Mon) 21:43:45
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
依存関係の認識によって世界は幻であると知るとき、明らかに自我も幻であると知る。しかし深いところでは人間の永遠の命を感じる。自分自身が幻であると知るとき、人は永遠の命を知る。世界が幻であると知るとき、人間はそれに依存しないものとして、明らかに世界があらぬものなら人の命は永遠なものとして知る。
次に自己自身が幻であると知るときには明らかに自己の命は永遠であることを知る。それは自己そのものが依存関係そのものと知るからであり、依存関係そのものは永遠なものだからである。
No.7412 - 2020/08/24(Mon) 21:45:08
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
しかし疑問が生じる。なぜ、そうであるのかと。なぜ、現実はそのようであるのかと。なぜ世界は幻であり自己も幻であるのか。
No.7413 - 2020/08/24(Mon) 21:46:07
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
実体が空であると認識するとき人間は、空である自己を見て喜びに満ちる。なぜなら空である自己は消滅も生起もないから。そしてなおかつ自己は消滅も生起もないものとして、
つまり幻として在り、そうであることは永遠に在ることだから。
No.7414 - 2020/08/24(Mon) 21:47:14
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
幻としてでなければ世界は在ることができない。世界は幻のように現れる、というよりも正確にいえば、依存関係でなしに世界は在ることはできない。なぜなら、それによらぬものは有限なものだからである。実体として生起したものは有限なものである。それはそれ自体に根拠を持ち生成変化しない。実体としてあるものは依存関係によらない。
No.7415 - 2020/08/24(Mon) 21:48:15
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
さて少し考えてみよう。依存関係を見るとき人はどうしても時間を観ている。ということは幻である、とは時間の特質を示しているのではないか。なぜなら依存関係によって生じるものは、 のものは、 限定されてないから。
というよりそれは、木や石やそんなもの、そのものとして考えられているものではない。
No.7416 - 2020/08/24(Mon) 21:50:52
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
そこで問題が生じる。なぜなら時間関係を見ることによって永遠を知るからである。依存関係は時間の解釈である、もし、そうでなければ。
時間による変化、つまり依存関係を見ることによって永遠を知る、のはむずかしい。
時によって変化しないものは、実体として生起したものであり、それゆえ限られたものである。
No.7417 - 2020/08/25(Tue) 23:32:03
☆
久々の海
/ hato
引用
海に行きました。今年は2度目。なかなか行けませんが、暫し憩い、愉しみました。
No.7418 - 2020/08/31(Mon) 23:51:16
☆
久々の海
/ hato
引用
本日のubik0101さんの釣果は4尾。すべて待望、クロダイです。初捕りの魚は45センチ。中潮の夕刻。満潮は遠い台風の影響か、波が激しくうねっており、いい海でした。
No.7419 - 2020/09/01(Tue) 00:01:12
★
ubik0101 透明詩集
/ hato
引用
白く透明な小鳥が
人間の胸に
頭のつむじを通って
降りて
心臓を
水晶のくちばしで
つつくと
血はみえないほんりゅう
となって外にふき出し
言葉となって
語られる
それで語る者の
胸の左には
赤いはん点が
認められるであろう
白い透明の小鳥は
赤い鳥となって
どこか知らない遠くへ
飛び去って行く朝
人は夢をみたという
年不明:12/23 (朝霧)
No.7387 - 2020/08/10(Mon) 23:04:36
★
ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
6.24
名称と形態
僕はビールを飲むのが好きです。で、考えます。食べたり飲んだりすることは自身の中の楽しみである。(他人には関係なくあります。)
つまり、自分を超えて、せめて他人と出会うというようなことにはならないか、と考えます。多くの場合、ほとんどの場合、どのようなことも、ただ自分の見知らぬ自分の感情や感覚やらで、世界や他人を感じているだけであり、そうであるなら自我とは何の関わりもなくあるのであり、そんなものは(たとえ自分がどー思おうと、)どーでもいいものであるということを誤りだとすることがみつかるでしょうか。
No.7373 - 2020/07/31(Fri) 23:28:25
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
たとえば、他人のために何かいいことをしてあげることの方が、他人からされることより楽しいということがあったとします。ま、これは大体そうでしょう。それでもその相手からそれが受け取られないことがあります。
とすると、他人のためになることをすることが楽しいという感情は、単に、他人に向かう向かい方が正しいものでなくてはならない、ということを示すもので、(その感情が正当なものだということではないのですし、)単にこのように問題を見るようになるまでそれを忘れないようにしておかせるための快さ、ということになります。
そしてなおそれ以上に私たちは、私たちの感情や感覚が私たちだけのものであるだけでないようにしなくては、ということを指示します。
No.7374 - 2020/07/31(Fri) 23:29:20
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
他人のために何かよいことをしてあげたとして、それが受け取られたとすると、そこでその件については終わりです。そうなると、それは幸せでしょうが、受け取られない場合の不幸ほど多くのものを人に与えません。人に物によらず体によらず、何かしてあげることができるか?という問題を起こさせません。
もちろん世間でも受け取られた場合の幸せも決して満足いくものでないことを表しています。ギフトはより数多くしたいでしょうし、愛しているといく度も訴えたいでしょうから。
たとえば誰でもお金めあてに結婚した男や女を(しっとしているのでしょうが、)ケイベツします。それはもちろん相手の心や体の美しさや、自分の感情や感覚を根拠にして結婚することも同じです。
前者はただ意味も知らず、何だ重要なことでないものにとらわれて、と人をケイベツしているのです。そして後者の場合も同じです。
No.7375 - 2020/07/31(Fri) 23:30:37
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
人は名称と形態を超えてなお個別者でありましょうか。
感情や感覚は体に根ざしたものであり、体に根ざしたものは自我のあずかり知らぬものです。この体と自我(心)を区別できることは、ま、大したものです。
けれど、このようにして体と心の対立として身体と心が意識されますけれど、決してまだ心とは何か、の答えがここにあるわけではありません。この心と体との対立はただ、何か依存関係の側面を定着するための主題として現れているのです。
感情や感覚は身体に根差すもので、自分自身の知らぬものです。体に根ざしたものでなく、他人と関係することはできないか、と探す場合のみこの主題が奏でられます。
これはしかし、どうしても、人間が不幸である場合です。幸福な場合、どうしてもこれは考えにくいものです。つまり、感情や感覚は受け身の場合は(食物の例のように)不幸です。いや不幸のあり方が感情や感覚を受け身のあり方にするのです。不幸はだから、このような考えのしゅご者です。
もちろん幸福の場合も、もっと相手を幸せにしたいと努力するならば同じです。多くの場合のように単に感情や感覚が積極的になっているだけでないならば、同じです。
No.7376 - 2020/07/31(Fri) 23:32:02
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
1978.6.30
名称と形態
この世界のしくみについての解答のひとつとして「名称と形態」ということが考えられています。それは僕の思うところかなりの高得点をあげられていそうです。ただし及第点では多分ないかも知れません。この世界の有り様を観て「名称と形態」を理解することは、しかし人間が個別者であるがどーか?他の人が生きていることは付ということをまだ知らしめません。
なぜなら名称と形態をよー認することは、絶対の絶望を認めるということだ。
そりゃ、自分自身の有り方が名称と形態によることは全然かまわない。
しかし、人に愛や恋のあるとき、それは理不尽なものになる。
No.7377 - 2020/08/01(Sat) 23:39:36
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
7.3
名称と形態
僕はイエスキリストではありません。と、すると人間というのは根本的に個別者ということになるでしょう(か)。では僕が僕であることの原因となっているものは何でしょう。僕が他の誰かでないということは何によるのでしょう。(もちろん鉄ゴーシの中には、自称イエスがたくさんいるでしょうが)
では簡単にいって、体は僕の感覚は僕の感情は僕である、ということになるでしょうか?
とすると体や感覚や感情はその根拠もなにも自分自身に知らされてないのに、それが個別的なもの、ということになります。
とすると、体や感覚や感情の根拠を知らないというだけで、それは自我でない、とするのは早計ということになります。
もし人が個別者であるとすると、それ自体がまったくの不思議です。とある在るものがなくなる、つまり死ぬことがあるはずはありませんから。
あるいは人が、もし個別者でないとしたら、これはまた不思議です。
では、人は個別者であるからこそ、体によらず感覚によらず感情によらず在る、のかも知れません。では人は根本的に個別者なわけです。
人が個別者であるとするなら、個別者が個別者を生むこと、つまり誕生と、個別者が無くなること、つまり死は、不思議です。
人が個別者でないとするなら、人が生きていることが不思議です。
No.7378 - 2020/08/01(Sat) 23:40:46
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
7.5
とすると人は、他の人に対しては個別者であり、自分に対しては個別者でない、ことになりましょう。
No.7379 - 2020/08/01(Sat) 23:43:07
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
7.6
考えよーによっては、この有り方は非情に素直であります。どこまでも人をケンキョにします。
まわりのどのようなものも自我であるはずがありません。感覚(対象)も感情(対象)も、それの根拠は自我にありません。感情や感情の根拠を知らずあることは、その対象を我としないための有り方でしょう。
もし感覚、感情、対象が我であれば、つまり自己のまわりのものが我であれば、自我の個別性は失われてしまいます。ですから自我は、どのようなものでもなくあるものです。
感情や感覚は無根拠です。このことは自我は自我のまわりにあるものでは、対象ではない、ことを保ゴします。
僕は僕にとって個別者ではありません。しかしおなじよーに、個別者でないところのあなたがいます。これは何を意味するか。そうです、世界の有り様がこそ個別化であります。いや個別性こそ世界の有り業です。だから僕はあなたにとって個別者です。と、こういう考えは採らないことにしましょう。なぜならこれは何も理解したことになりませんから。
僕とあなたが在るそこの所を示せ。僕とあなたが違う存在であるそこのところを示せ。
自分が自分にとって個別的なものであるという根拠は何ひとつありません。というより個別者でないことを証拠だてています。感覚対象は個別的なものにみえます。
そして感覚ということ、というもの、は自己を示しません。
あなたがあなたであるところのものは何ですか?
→ すでに記載済の 7.14 名称と形態 → 7.25に続きます。
No.7380 - 2020/08/01(Sat) 23:45:35
☆
Re: 真我ではない、自我が自我を探っても
/ 勘太郎
引用
自我が消えてしまうので、第3の自分が居る様にかんじることがあります。
自我(感情・欲望)を探ろうとすると感情・欲望も見えなくなってしまいますので困ります。
本日は 札幌市豊平区にある「カフェコロボックル」でワンコインの中華丼ぶりを食べました。みんなが無言で食べているので、不気味なきぶんでした。12時だったので満席、と言っても6席。本来は20席くらいなのでしょうけれど。不気味と言ってもそれに馴れてしまうのかもしれませんけれども、無言の食堂にラジオの音だけ。ゆっくり食事を楽しむという雰囲気ではなかったです。中には待ち合わせの人や本を読む人もいました。多くが常連さんみたいな感じでした。
https://sapporo-list.info/shop/koropokkuru/
No.7381 - 2020/08/03(Mon) 19:25:47
☆
ところで、
/ ubik0101
引用
・・・石原慎太郎が、死んだら、虚無だ。と言ったそうです。そか?私なら、生きてても虚無なんだよ。死ななければ虚無てことはなかろう。どう違うのだ。と聞くでしょう。
・・・生きてて小説を書いても、どっかの海岸に弟の記念碑を建てても・・・俺が俺がとやってるときも、その自分はない、のです。とくに、死んでなくなるわけではありません。
またhatoさんが、覚者は寝てるときも意識がなくちゃと、誰かが言ったそうで、ちょっち変。とのことです。そんな人には、私なら、起きてても意識はない。と答えるよ、と答えました。
なにを勘太郎さんが言ってるのか解りませんが・・・自我が消えたとして、無我も消えた?そして第三の自分がいると、第三の自分が感じる?それは何?消えても自我は、このようだった。ということは認識できませんか?とくに感情、欲望が自我というわけでもないでしょう。
No.7382 - 2020/08/04(Tue) 00:08:34
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
自我を見るとは、たとえばubik0101さんの探求や文書を見ていても、ことさら欲望や感情を抽出して見る、との感じより、どちらかといえば、表出してくるその事態を言葉で見てる、ような、言い方がむつかしいですが、主体に重点のない無機質な感じです。
欲望や感情を対象にして、それを見る自分に、ことさら重点がいくのでなく、思考という、そこに起こる事実を見る感じです。そうしょうとしてするものでないでしょうが、大事なところです。
探求ノートはゆっくり続きます。飛び飛びでもいいよ、とのことで、そうなったり、日を順次追うこともあると思います。
画像はいつかの古家から。なんてきれいだったんでしょう。
No.7383 - 2020/08/05(Wed) 00:24:28
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ ubik0101
引用
たぶん、(たとえ自分のことでも)自分に知らないことがある、それを探ろう。という(そうとは意識されないけど)素直な有り様。
そでなく、知ってることしか知らないなら、知らないことなど(気がつかない)ので、ない。それだけで(意識されなくても)傲慢な有り様。
そうだと見えること見えることに飛びついて、勝手な因果をつくっては、自分でその傲慢な因果に捕われてしまう。こんなことに気がつくことはないだろうか。
No.7384 - 2020/08/05(Wed) 06:44:00
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ 勘太郎
引用
またhatoさんが、覚者は寝てるときも意識がなくちゃと、誰かが言ったそうで、ちょっち変。とのことです。そんな人には、私なら、起きてても意識はない。と答えるよ、と答えました。
私も、覚者は眠っている時も意識がある、と読んだことがありますのでそうなんだろうか?と思ってきました。この場合の意識とは記憶を遡ることが出来る(眠っていない)。
それなので、ubik0101さんの書き込みで疑問が少し解けたような気がします。
ゆっくり続きます。が楽しみです。
No.7385 - 2020/08/05(Wed) 07:58:53
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
>私も、覚者は眠っている時も意識がある、と読んだことが
体験してからのことより、今のことが大事ではないでしょうか。
ubik0101さんの探求ノートは、体験した人も、そうでない人にも、読む人に訴える光があると思います。先ずどこまでも、ubik0101さんの探求です。まったき個的である故に、超個的な探求です。
No.7386 - 2020/08/05(Wed) 23:01:34
★
ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
1978.7.25
まず自分自身を信じましょう。そうでなくて、どうして他の人を信じることができるでしょうか。
むかし神はアダムやアブラハムに語りかけ、試みを与えました。しかし今はそんなことはないようです、。この神の語りかけがないことは、我が子を捧げようとすることよりも、全人類のために命を投げることよりも、大きな試みです。
まずこの世の中の見えるものによっては、私たちどの人間も、聖書に出ている驚くべき信仰者よりも、預言者よりも、激しく高く試みられています。もしかして神が存在しないのではと。
いや、もし神の語りかけがある場合は、神の存在があり、その命令は神によって保障されていますが、ない場合は、それを越えて人は試みられています。
この生きている一瞬に次ぐ一瞬が試みられています。それはまったく人がその運命を負って、自己が自己であるそのあり方が試みられています。
No.7345 - 2020/07/27(Mon) 18:32:02
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
あなた自身を愛するように
あなたの隣人を愛しなさい。
ほんとうに私たちは、私たち自身を愛しているでしょうか。
自己保存の本能と呼ばれている、身体に対する、メンティナンスとかなんとか、が、愛であるとも思えません。
一瞬に次ぐ一瞬、試みられています。自分の有り方を大切にしていることが愛ならば。私の隣人の試み、というより、あなたの隣人もまた神に最高の試みを受けているということ、ということ、を示していることになります。
あなたも、あなたの隣人も
神の最高の試みを受けています。
No.7346 - 2020/07/27(Mon) 18:33:09
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
7.30
私は試みられてあり、それゆえに個別者として私自身なのです。
名称と形態にとらわれてある時人は、その思いもその行動の根拠も自分にとって明らかでなく絶対の不自由のなかで、完全な自由と思いちがいして、何かを思い、何かを行っています。
人を完全な自由に思わせ自由に行わせるためのしくみが、そのようなものを自己とするその根拠を無におく。名称と形態です。もし人がその思いのその行いの根拠を何かはっきりとしたものにもつとしたら、どうしてそれが見かけ上でさえ自由といえるでしょう。
その根拠のなさこそ不自由であり、また人の根拠が不自由であるからこそ、その思いも行いも自由なのです。これが名称と形態です。
No.7347 - 2020/07/27(Mon) 18:35:07
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
人が名称と形態にとらわれてあるとき、決して人は自己ではありません。コレ、と認められる根拠なくあるために見かけ上、人は自由なのであり、それがまたまったくの不自由であるということなのですから。
しかし神の試みのある場合のみ、この見かけ上の自由は存在意ギを持つのです。
私の生きてある有り方が正しいかどうか、それが試みされていある場合のみ、見かけ上にしても、この世での思い行うことの自由が正当性を有すのです。
まったくこの世の仕組みに従った自由なくしては、どのようにして私を、誰を試すことができるのでしょうか。
No.7348 - 2020/07/27(Mon) 18:36:20
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
8.3
試みられてある故に私であるのです。
では、なぜ、そうなのかを知らなければなりません。
No.7349 - 2020/07/27(Mon) 18:36:56
☆
Re: 40年前の思索を拝見して
/ 勘太郎
引用
私はがんじがらめでなんの自由もありません。
今のところは、死に依らない限りはこの拘禁は解けないかもしれません。
死ぬ前になんとか、片手くらいは自由に成りたいと願っています。解放されるときには、すべての縛り紐から一気に解き放たれるのでしょう。
愛とは、「すべては私」の別の呼び方と想像しています。
No.7350 - 2020/07/28(Tue) 15:47:14
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ ubik0101&hato
引用
んー40年前とは・・・なんとか見えないところ、つまり自己とか、神とか、名称と形態の源を探ろうとしてたのでしょう。
hatoさんが言うには、もっと面白い文章があるそうなんで、楽しみにしてます。
まだ自己と神/実在との距離があるから、その関係で感じる愛・・・総てが私なら知覚されないけど・・知覚とは差の認識。これはどこまで有効?とは思います。
ubik0101
大丈夫!張り切って、生きましょう。
hato
No.7351 - 2020/07/28(Tue) 19:50:58
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
我々はこの現実と交信状態にあります
1978.4.4
心なんか風に吹かれて飛んでけ。
僕は思います。人は、その考えることも感覚することも感情することも、自分で決めるものではありません。ただわずかにそうする可能性があるだけです。自分の命だって決められません。
No.7352 - 2020/07/28(Tue) 22:53:38
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
むろん人は自ら
CENSORED
ます。けど、死ぬ?死ぬ以外のものがありますか。つまり、自ら
CENSORED
ます、が、死ということは確定事実で、変えられません。生、死、そしてAとかBとかとかCとかないのです。
それでも人間は生きています。何のために?それは決して、自分で決められない自分のことを感じるためではありません。いいえ、そうであってはなりません。心なんて、精神なんて、心理なんて感情なんて、そんなものは確定事実、世界の性格でしかありません。
No.7353 - 2020/07/28(Tue) 22:55:34
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
しかし、こういうように考えることはできるのです。つまり、あのような確定事実は自我を決定しません。あのようなものとは世界の全てです。つまり自我は、あれらを自我の根拠にしていません。だから僕はいいます。心なんて風に吹かれて飛んでけ。
No.7354 - 2020/07/28(Tue) 22:57:02
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
少し冷静になってみましょう。僕たちは、この現実とトランス状態に入っています。どのようにしてこうなっているかを考えてみましょう。
あなたは、朝、目覚めるとき、どのようにして、覚醒しますか。僕は、パチッ、つまりスイッチをひねるように切り替わります。徐々に目覚めることなんてあるのでしょうか。むろんあります。体は目覚めて、精神がじんわりと手足に沁み込んでいくあの感覚。あれをまた味わいたいものです。
しかし、これとは逆のことが多い。つまり精神は目覚めても身体が動かないというあれです。あれは、眠っている現実を夢見ているのでしょうか。夢判断にこのことはでてるのでしょうか。僕は一夜に、それから覚めては又、覚めては又、まったくくるしいものです。
No.7355 - 2020/07/28(Tue) 22:58:44
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
あとは、物心がつく、という人生に於いてのそれです。ま、これも放っておきましょ。とにかくこういうことになっています。さっき僕は可能性を言いました。いや、それより本当に、人は自己を決められないかそれを調べてみましょう。
倒産して
CENSORED
する人がいます。倒産したという事実なくして倒産したという知覚はありません。その知覚をしようとして決心したわけでもないし、その知覚が事実を生むわけではありません。しかし、しかし、知覚しているそのこと自体に於いて。
そのただなかに於いて。
No.7356 - 2020/07/28(Tue) 23:00:00
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
4.6
僕が僕であるのが嬉しい。
自由は、それがなんであるか知って自由であるべきです。そして愛も、それが何であるか知って、なお、愛するものであります。
あなたの人生が波瀾に満ちたものでありますように。
No.7357 - 2020/07/28(Tue) 23:26:07
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
8.23
大切なことについて。
まず、なぜ私が私であるか?それは単純にただ、私が人ではなく神の基準によって生きることによってです。ふつう人はなにを自我とするでしょう。誰にでもたずねてごらんなさい。自我とは何でしょうと。
No.7358 - 2020/07/29(Wed) 22:47:48
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
それはたしかに言葉として、あるいは現にされたものとして示すことは困難です。
しかし、暗黙のうちに理解していることを言うならば、それはその人がその人の根拠に置いてあるところのもの、例えば仕事で自分の思いついた意見などを主張するその有り様、人との関係の有り方、自分のしようとしていることなど、など、そんなものです。
そんなものが自我ではないことは明らかなのですが、とにかく、なんとなく、そのあたりに自我はありそうだ、と思われてあります。世界に対する固有な有り方が、そうじゃないかなと、これも闇の中で思われてあります。そうじゃないかな、と思われるものも、それなりの理由があります。
誰も、自分が自分であることは、いや、そういうものは、ただ神の基準によって生きることの前段カイというか、カリカチュアである故に、そういうこともあり得ているのです。
No.7359 - 2020/07/29(Wed) 22:50:34
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
ところであなた、あなたにとっての大切なこと、それは何でしょう。あなたの基調、あなたの主なセンリツは何でしょう。それは誰にとってもその人の杭であります。十字架であります。
No.7360 - 2020/07/29(Wed) 22:51:30
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
なーにもこの世に大切なものはないさ、という者の有り様さえ、単に不満な者から虚無的なものから絶望者まで、その有り方さえ、その者の基調なのです。
客観的に性格といわれているものが客観的に自我といわれているものです。主観的には、生きてあること、これが自我なのです。
この生きてあること、この不思議なキセキについて誰が何と言えるでしょう。そして、それが世界に向かって人に向かってあり強調されるとき、そのようなこと一般を、人は自我と呼びます。そして、それ、つまり強調される媒体、それが人にとって大切なこと、なのです。そして、それが人に与えられた十字架であります。
ふつう、それは恋や愛やお金や社会的地位やらです。この世のありとあらゆるものや事がらが、そのようになります。
No.7361 - 2020/07/29(Wed) 22:53:13
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
8.24
この世界のありとあらゆるもの、空に輝く星、小さな生物、お金、人々が、自我の増幅器になり、また媒体になります。
No.7362 - 2020/07/29(Wed) 22:53:57
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
8.26
自我、とは生きてあること、です。このことをはっきりとさせましょう。
つまり、生きてあること、は内から世界を展望しているのです。
この世のすべてが自我の媒体であり、ブースターになります。物質的有からそれ、自我について考えたことまで が、そうなります。そしてそうなった場合のみ、他の人間にとって、それが自我として認められます。
逆に私がほかの人間を見て、その人間の自我を見るのも、このように活性化、あるいは捉われた、あるいは媒介された、あるいはブーストされた自我を認めるからです。
No.7363 - 2020/07/29(Wed) 22:55:07
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
8.3(※9.3)
自我は命の別名です。自我はしかし、この世の仕組みに命が対立してあり、対立との関係に捉われて自己を見い出してあること、をそう呼びます。それは人にあって、その人の基調となるものです。それは、出世欲であったり、すねて生きることであったり、真実に生きることであったり、恋であったり愛であったり、ほうしであったりします。それが人にあって、大切なこと、なのです。それが杭であります。
No.7364 - 2020/07/30(Thu) 23:42:28
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
誰でも自分の杭を取って、わたしの杭を背負いなさい。わたしの杭は軽いのです。それはあなたを爽やかにします。とイエスは言います。
人にあって大切なこと、そのことはすべて個人的なものであり、それは食物の味覚が、ただその当人にとって意味があるだけであり、それを少しも出てない、と示されています。
ではイエスの杭を負ったとして、それはどういうことか考えてみましょう。
No.7365 - 2020/07/30(Thu) 23:43:26
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
僕は子供の頃、ガリレオの話を読んで、なんてヒキョーな人なんだ、けれど、それは許されると人々が認める範囲内にあるのだな、と感じました。
その理由は分かりませんでしたが、なんとなく、そう思ったのです。
それが許される範囲にあるというのは、ガリレオが、それでも地球はまわる、と言っても言わなくても、つまり人がどー思おうと思わないでも、宇宙のしくみには全然関係がない、ということにおいてです。
それが許されないのは、公的に太陽がまわることを認めることは、この人々への責任があるからです。
それでも太陽は動かない、と公的な場で行ったのなら、彼は英雄です。それでも地球はまわると、つぶやいたなら彼は道化です。
No.7366 - 2020/07/30(Thu) 23:44:32
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
ガリレオにとって、自分の杭は後者です。イエスの杭は前者です。前者はなんと(食物の味のように)自分を離れていることでしょう。しかしなんと、自己主張に満ちていると人々から思われることでしょう。
公的に大地が不動であることを認めるのは、自分の杭にしばりつけられています。消極的ですが、なんて自己保存なのでしょう。
もし事実として彼が地動説をあきらめたのなら、人間がどう思おうが宇宙のしくみは変わらないと考えたにしても、後悔が負い目が、彼をとりこにしたでしょう。そして、それは当然です。そうならば彼は彼の杭に縛られていることが、よくないことなのですから。
しかし勇気が必要です。
No.7367 - 2020/07/30(Thu) 23:45:50
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
イエスの杭は軽いのです。人が自分の杭を抜いてイエスの杭を負うと、それは人を上に連れていってくれるのです。
けれど勇気が必要です。
しかし誰でも自分の命を守ろうとする者はそれを失い、イエスの名の下にそれを失うものはそれを得るのです。と記されています。
おそらく、命を大切にすること、それこそ杭です。恋の場合でえも、コッケイながら、「君のために
CENSORED
る」か、どうか試されます。どんなことでも「命の次に大切なこと」なのでしょう。お金も、地位も名前も命の次に大切なのです。そして、それらのために命を投げ得るか?と試されないことはありません。
そしてふつうには命より大切なものはないからです。
もし、イエスの言葉がないのなら、命より大切なものはありません。
No.7368 - 2020/07/30(Thu) 23:47:14
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
しかし、ここで、イエスの杭が真実であるかを考えてみなければなりません。恋に例をとってみましょうか。恋し恋されることも、恋し恋されず恋し続けることも、おそらく、どのような状況を考えても、そこには自分の杭しかありません。
お金に例をとってみましょうか?名誉に例をとってみましょうか?この世のありとあらゆるものに例をとっても、そこには自分の杭しかありません。つまり、自分の命か?それとも命から2番目に大切なものか?と。
もし現代たとえば誰かが、「それでも太陽は動かない」と言ったとして、それがイエスの杭を負ったことになりましょうか?
イエスの杭が示されるとは、どういう時でしょう。
命をマトに頑張るとき、それはイエスの杭を負うことになるでしょうか?いいえ。
No.7369 - 2020/07/30(Thu) 23:48:47
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
8.4(※9.4)
この世界に深くささったトゲのような自我、それが自分の杭なのです。そしてそれを取りあげて、イエスの杭を負わねばなりません。
もし人が永遠に生きるとしたら、誰が人を憎んだり嫌ったりできるでしょうか?そうです。人が人を嫌うことができるというのも、人が死すべき身であるからです。
この憎しみも消えてしまう、ということなしに憎しめるはずはありません。このくつじょくも、みじめさも、ヒキョーな態度も、不誠実も、嘘も。それが(死とともに)なくなってしまう、ということがないかぎり、そんなものを味わってはいられません。もし人が永遠に生きるならば、
あなた自身を愛すように、
あなたの隣人を愛さねばならないのです。
No.7370 - 2020/07/30(Thu) 23:49:46
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
9.7
この世界に深くささった痛ましいトゲのような自我を引き抜くこと。それはイエスの杭を負うこと以外にはなし得ません。
No.7371 - 2020/07/30(Thu) 23:50:35
☆
Re: ubik0101探求ノートから
/ hato
引用
9.9
なぜなら、この世のどのような対象も自我の杭たり得るのですから。
さて、自我とは、世の中のものに対して深く関わっていることをいいます。
No.7372 - 2020/07/30(Thu) 23:51:02
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