151099

“掲示板”

この世界は人を覚醒させるための触媒です。

ubik0101の探求ノートから / hato

9/25

ほとんどなにごとも考えずこのところ暮らしている。とくに大きな不満はない。けれど、この世は本当に見えただけのものでいいのか、なんていうようなことがフト思われてしまう。そこでこれを読み返してみた。

No.7565 - 2021/03/15(Mon) 22:41:15

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

人が自己を知ろうとする時、それが強度なものであるなど、この世界のとあるものに根拠を置かない。(いいかえれば自分をとくに知りたくない時に人はこの世のとあるものに自己の根拠を置く)けれどこの世界のものごとを通じてしか自己を知ることができないのに、(そうすると根拠がないわけだから)にもかかわらず、世界は自己を知らせるようにできてない、ということになる。それはなぜか。

No.7566 - 2021/03/15(Mon) 22:43:54

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

それは実に、僕そして対象としての世界の2つのものの対立関係としてそれが考えられているからである。(それは思考形式だとか、感覚器官のありようだとかのためであるし、僕と世界というこの関係のどちらもに根拠を置かないのであれば、それは支点のないてんびんと同じで何も測定できないのは当然であるからだ。だから、そうではなくって、客観性ということを考えてみよう。と。さて、実はこれ以前のところでかくされて問題が実はある。依存関係にしても自己は・・・すべてのものを依存関係によって理解しても自己自身は理解できないでいるという僕の問題未解決がある。

No.7567 - 2021/03/15(Mon) 22:47:43

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

てんびんの支点、たとえば、ある人が、あることをなしとげて、だからその人はあることをなしとげた人である、とこう考えるのは、いっこうにかまわない。けれど僕はそれに価値を置けない。
すべてのものを依存関係と見る。これはたやすいことだと思う。けれど自己をも依存関係によったものであると思うことはむづかしい。

No.7568 - 2021/03/15(Mon) 22:49:37

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

10/6

それにしてもいつも好調とは限らない。というよりいつも故障している機械のようなもので生きるに当たっていつも問題が起きてしまう。それはすべて自分自身に深くかかわっている。それがあるだけで人のありがたさというのは世界に対してなんだかの有り方を現している。
人は生きている暮らしのために仕事をしたり、なんだかの日常生活のためにどうしても自分自身の在り方が自分に明らかにされてくる。なにかをするとそのなにかによって、どうしても自分の心が自分にあらわにされてしまう。ただあまりに熱心に世界のものごとを追い求める生き方は、僕には誤っているように見える。

No.7569 - 2021/03/16(Tue) 21:51:43

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

いわゆる自己主張の強い人とか依存関係を理解しない人とか、それで僕自身はあまりにこの世のものごとが嫌いなわけなのだけれど。この世のものごとを通じて自己を知るそのこの世のものごとは俗にいってしまえば、目的でなく手段なのだ。

自己を知る方法の1つのいわば手段であるもの、いい生活をしたいとか、女が欲しいとか、楽したいとか、それが目的となっている人生は馬鹿げて見える。

No.7570 - 2021/03/16(Tue) 21:52:28

Re: 生命の外側は千差万別に見えますが / 勘太郎
本人の内側としては、皆おなじだろうと想像しています。給料100万円のAさんと、10万円のBさんで給料日の嬉しさに違いはないでしょう、たぶん。それをどう思うかは金額では無くて本人の性格に依るでしょう。
 100歳まで生きても、0歳で死んでも特別な何かが違うとは思えません。その人なりに、死ぬまで一生懸命に生きるだけです。

 どう生きても、ここから別れることはできません。

No.7571 - 2021/03/17(Wed) 14:05:18

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
>本人の内側としては、皆おなじだろうと想像しています。給料100万円のAさんと、10万円のBさんで給料日の嬉しさに違いはないでしょう、たぶん。それをどう思うかは金額では無くて本人の性格に依るでしょう。
> 100歳まで生きても、0歳で死んでも特別な何かが違うとは思えません。その人なりに、死ぬまで一生懸命に生きるだけです。


と、そう思考するとそう思考してることしか見えないので、そう思考しなければいいのです。24時間ずーとそう思考してるわけではないでしょうから、あるいは、そう思考してない無思考に気が付けばいいのです。それを思考してないとき、世界は狭くなく、重くなく、暗くないのではないでしょうか。それを思考してると、世界は狭く、重く、暗いのでは?そ、いえば

かなりうろ覚えですが昔、テレビで見た南太平洋とかいう映画で、ヒロインが野蛮な孤島から大都会に連れてこられて、世界は広くて、私の知らないことで一杯!と言ったと思うのですが、そうだ。孤島だって大都会だって、世界は知らないことで満ちてる。なんか知ってるということから離れることは幸せ感、開放感に満ちてる。と感じたものです。

あるいは・・・私が、誰かがどう考えてるかを、考えてみます。その誰かが私のことをどう考えてるか考えてみます。その誰かが誰かのことを、どう考えてると考えてみます。私としては、それは総て空想で、全然当たらない、と思っています。勘太郎さんも<皆おなじだろうと想像しています>と、まず言ってるでしょう。あらかじめ思考の前提を言って、想像していますと、念を押しても、その前提は度外視も正当化もできないでしょう。

まず、そんな誰かの考えを探ることをするのは何か理由があるのでしょう?誰かの考えを考える、その必要はありますか?あるいは私の考えは空想だと知って承知の上の空想。つまり空想と事実は違う。という認識が役に立つこともあるでしょう。探求は、誰とか彼とか自分とかの枠のないことが、あるとしてそのフィールドです。

あるいは、なにかを思考することによって、その思考してる主体が仮の主体が作られる。それで、その主体は、その思考を否定できにくい・・・ということではなく、実際に、人は似たり寄ったりで内側はみな同じでは?という指摘でしょうか。

そうだとして、それが探求の障害になるということでしょうか?説明すればですが、思考で探ればですが、たとえば光の三原色だけで、インクの4色だけで、たぶん何千万色の表現ができます。単なる水蒸気だとしてもその動き雲の千変万化。素材から結果は予測できるのですか?大理石の塊から、ダビデも、ビーナスも、削りカスも、できるのです。

あるいは人って、なにかしても、その基本は、隠れてる前提は大したことなくて、似たり寄ったりだよね、問題は自己責任から逃げること?ということでしょうか?それならば、探求は、それほど難しくはないということです。

> どう生きても、ここから別れることはできません。

そんな固定観念?に行き詰ってるということでしょうか。総てはひとつととか、ほんとうの自分は意識とか、わたしはいないとか・・・そんなことでは、難しいでしょう。ついでですが、たとえば即今、縁起、わたしはある。どのような真理と思われることも説明、解釈にすぎません。

No.7572 - 2021/03/18(Thu) 06:30:15

Re: ここから別れることはできません。 / 勘太郎
言い訳ながら、体験がないので本当の事はわかりません。
自分を探って心の奥に入り込もうとします。するとそこは背中の後の無限の空間にいます。

勘太郎の思考、感覚は勘太郎の身体からではなく、この空間から来ている様な感じがします。

お金が欲しい・称賛、将来に渡る安全安心・精神身体の快楽(楽しい暮らし)・優越感などが実現した妄想をしますけれども。そう長い時間は続かず、思考は目先の事々に戻ります。戻った時に、ふっと人生そのものが、長い妄想時間なのではないか?と感じる時もあります。

 勘太郎って何?っとかんがえても、それが霧散してストーブが静かに燃える音を聞きながら居眠りしています。良い気持ちです。
 この良い気分の人は居眠りをしていません。今感じるのに、この良い気分を感じる人は勘太郎の頭の中には有りません。頭の外側に有るようなきがします。

No.7573 - 2021/03/19(Fri) 09:04:46

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
勘太郎さんの投稿を読んで、今日、自分がどこにあるか探ってみました。これを意図的にやってると、どうも猫を見てたら猫、庭に出ると空気、その風光、その辺にありそうなのですが時々に、見る視点が変位するようで、その視点自体は見えませんが、一定しないです。

もっと意図的、意識的になると、見てるのは自分の身体、目?考えてるのは、頭?でもその場所は特定できないですという感じです。なにか見えてる聞こえてる思考してるというそのことを自分、と思うのかな?

ノンノン、チュリルと遊びながら、ヘンデルのフルートソナタを聞いていましたが、聞こえてるってことが自分なのかな?そしてスーパーに行って普通に買いものしたり、見てる聞いてる中心は、どうも掴みようがない、知り合いの店員さんがいる、コインをポケットから出して感覚だけある、って感じです。

たぶんなにか対象になりうる、見える聞こえる対象であり、それが見る視点であり、なんか意識かなにかが、そこを目印、拠り所にして、そこを自分とするようです。たとえば身体の目の奥に、世界を見てる自分がいるって、空想であれ事実であれ、目の奥が目印になるようです。

ところで、自分がどこにあるとか、自分を見てる視点、があるというわけでもないですが、自分で探れるって、面白いですよね。自分がないと、ほんとに自分がないと、分かるのです。そのとき思考がなかったら、そのとき思考がなかった、と分かるのです。なにか思考しててその主体はないなら、主体はない、て感じられるのです。なので、わざわざ探らなくても、大丈夫に思います。

とくに勘太郎さんのことではないですが・・・このころ思ったこと、素直であること、真摯であること、それはその自分の一存でできるし、もしかしたら世界で一番簡単なことかもしれない。それをその人が、難しくするのは、どうしてだろう。

No.7574 - 2021/03/19(Fri) 20:41:06

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
ところで、

> 100歳まで生きても、0歳で死んでも特別な何かが違うとは思えません。その人なりに、死ぬまで一生懸命に生きるだけです。

では、生まれても、生まれなくても、同じなのでしょうか?

No.7575 - 2021/03/20(Sat) 00:06:03

Re: 一番大事な文字をする―していました / 勘太郎
と、そう思考するとそう思考してることしか見えないので、そう思考しなければいいのです。

自分でもこの「そう思考しなければよいのです」は理解しているつもりなのですけれども

午後3時半になって、陽の光が室内の植物の葉に射して葉が黄緑色でとてもきれいです。とこのままで止めておけばよいと思うのですけれども、止めておけばよいとか、眺めているのはだれだ?とか思考してしまいます。だた眺める事ができるようにと努力してしまうのです。

 具体的には葉の色に注目して思考が湧かないようにする。そして猫の甘える声がしますので抱き上げます。短い時間だけど思考が無かったなと思考します。
 思考を頭の隅に寄せて、葉を眺める状態を中心に持ってくる、という感覚です。

話題を変えて産まれても産まれなくてもおなじか?
 私の経験として残るものはありません。現実に世界にオイラも参加していますので変化の一端を担っています。オイラは変化の一端ですから、・・これらはオイラの屁理屈です。

おなじなのでしょうか?の問いには、葉が陽を浴びてきれいだなあ と答えます。

No.7576 - 2021/03/22(Mon) 15:51:00

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
そうです、努力しないでも、そう思考しない。ということです。ここは、まずは思考内容を言葉にする前に瞬間的に了解する・・・瞬間思考とか、気配思考、無思考思考と言えば通じるでしょうか・・・で解決するかもしれません。ついでですけど、問題があるとしてそれは、その人の状態が問題であり、思考が問題だというわけではないです。

もしかして、0歳で死んでも、100歳で死んでも、という思考があり得るためには、何も変わらないということが、見えない前提としてないですか?貫太郎さんは自分でそのように自分を決めてないですか?と思ってたのですけど。私の経験として残るものはないというのは、私それそのことは、変化しないということですか?ただ波は静まれば海になるだけなんですか?

あくまで譬えですが、芋虫が蝶になっても、その私は、その私で・・・その私は対象にできないので、ありとあらゆること、森羅万象との区別も、同一もしようがない・・・その私。まったく変化ないも変化したも判断できないということはないですか?自我と真我、まるっきり違うけど、まるっきり同じとか、言いたくなります。

まったく私が私でありきって、私が私の対象にならない・・・私がない・・・で、見知らぬこの世界/物質、知覚、感情、思考に埋没しきって自由なく、不自由なく、善なく、悪なく、ないこともない・・・どうして苦悩が生じ得るでしょう。自分で自分が見えないのが諸悪の根源。また自分で自分を見るのが諸悪の根源。日常としては自己責任。このへん探ると面白いかもしれません。

>おなじなのでしょうか?の問いには、葉が陽を浴びてきれいだなあ と答えます。

もしかして、現象=実在って意味ですか?わたしなら、♪口笛を吹きながら、どこまでも行こう。です。

No.7577 - 2021/03/23(Tue) 06:54:41

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

透き通しで見える風景。森羅万象、摂理、ただ凄いです。そして尚、命は、人は、生ある限り挑戦し続けます。誰かが、またほかの誰かが旗でも、終着点でも完成でもない、日々生きる、ただ、自身というところを問う意味での真摯と努力が、発祥であり、旗であり、進むところ、と思います。

冬のいちじくです。

No.7578 - 2021/03/23(Tue) 11:55:33

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

その先の、ユスラウメ(梅桃)です。

No.7579 - 2021/03/23(Tue) 11:57:34

Re: だんだん 世の中が楽しいです。 / 勘太郎
おなじなのでしょうか?の問いには、葉が陽を浴びてきれいだなあ と答えます。

もしかして、現象=実在って意味ですか

実存とか実在は関係ない様に感じます。「私は在る」との題名の覚者の本がありますけれども、オイラは、私・自分の自覚や意味あいが薄れてきています。私が在る」とは感じません。そう言われたらそうかもしれない?と感じます。陽に照らされた葉を見ている今の気分がこの部屋に浮かんでいるような感じです。その感覚はオイラの身体の中にあるのですけれども。かっこっつけ過ぎた表現ですが。



この頃、流行の言葉で云うと「今に在ると今が楽しい」という感じがします。自己責任はあるのでしょうけれども、オイラがCENSOREDば無くなります。月から見た地球はビー玉の様で、地球が無くなっても、温暖化で住めなくなっても仕方がない・どうでもよいやあ〜です。
そうではあっても、猫の一生君もゴムの木も散歩道の松もとっても愛おしいです。
<<それを思考してないとき、世界は狭くなく、重くなく、暗くないのではないでしょうか。それを思考してると、世界は狭く、重く、暗いのでは?>>ここに書いていただいた気分がすこし解るようなきがします。

No.7580 - 2021/03/23(Tue) 19:48:03

Re: 口笛を吹きながら行こう。 / 勘太郎
真摯と努力で押し進む。

その人なりの進み方が指定されているようです。15年程まえの人にオイラが「神様はいます」と云ったら、彼は「もし神様がいたら、人をこんなに苦しめることはしない。」と言いました。

釘を板に打ち付けて家を作る。釘は頭を玄翁で打ち付けられるし、板は釘を打ち込まれる。丸太は切り刻まれて柱や壁になる。釘や板や丸太にとっては苦しみかもしれません。家ができて、楽しい会話が家の中で行われる。

変化を見ているのは、哀しいときもあり、楽しい時も孤独のときもありますけれども、その実どんな時も充実感でいっぱいなのではないか?と思います。怒っている時や孤独感に打ちひしがれている時も充実感で一杯だとおもいます。

No.7581 - 2021/03/28(Sun) 09:05:21

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

勘太郎さんの文章を読むと、日常の現場が伝わるというか、なにかの比喩も、勘太郎さんの生活に裏付けされたものであることが伝わってきます。

>変化を見ているのは、哀しいときもあり、楽しい時も孤独のときもありますけれども、その実どんな時も充実感でいっぱいなのではないか?と思います。怒っている時や孤独感に打ちひしがれている時も充実感で一杯だとおもいます。

怒りは怒りでいっぱい。孤独は孤独でいっぱい。それそのもの、てことでしょうか。怒りがあって、その人。孤独があって、その人。そのことである充溢、ならそのようです。或いはまた、充実感、というとき、変化を見ているというなにかが、充実感を得ている、・・偏ることもなければ、ただ人、て思います。

誰もが、その人なりの道、そして尚、ただ言葉が導いてくれることが、確かにありますね。たとえば、イエスの言葉によって表現されたことは、道を行くとき、通らざるを得ない門のようなこと、と思います。

どこもかしこも、新芽が物凄い勢いですね。

No.7582 - 2021/03/29(Mon) 01:15:49
自我・世界/真我・実在 / ubik0101
まず自我の仕組み、形式は・・・なにか話します。行動します。思考します。そのことによって、そうしてる主体、中心、が予め初めからあったかのように時間を遡って設定される。です。

つまり考えることによって考える私が設定されるのに、まったく逆に、まず予めある、この私が、こう考えた。私が言った。行動した。私が感覚した。となるということです。

これはごく当然のこと、どうして考える主体なくして、考えることができるか?という、ほとんど疑問にも思えないことが前提になってて、その前提なしには、成立しない有様です。

すこし話が寄り道しますが・・・ちょっとだけ思考がないことによって、静かで平穏で、世界が明るく感じる、といったことも起こったりします。そんな一瞥はたしかに、無思考が切っ掛けになったりします。が、それは思考が問題だということではありません。おおむね思考はその人の状態を正確に表しているだけで、なにか問題があるとしたら、その人の状態が問題なのです。

No.7557 - 2021/03/02(Tue) 12:57:04

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
と、いうだけのことです。なんであれ、ついでだから言うということですが、自己責任なのです。たとえば世界には責任なんかないかもしれません。そこで人が車を運転するとしたら、事故を起こさないように注意する、料理するなら中毒を起こさないように注意する、もちろん何かしないことによっても自己責任は生じます。これから逃げないこと、誠実なことは大事かもしれません。

ところで、この仮に作られてる物事の中心、主体は、自我は・・・仕組み、形式・・・たとえば建物の骨組みだけでしかなく、中身は空虚です。そしてその骨組みだけの空虚は、ないのですから、なんでも知覚でき得ることは、それが思考であれ、感情であれ、行為であれ、宗教であれ、無宗教であれ、取り込まれます。このような骨組みが作られるには、時間、そして空間、の距離を必要とします。

つまり、骨組みだけでその中身は、ないのですが、そのないを世界が埋めるのです。もちろんありもしない空想であれ、その中身になりえます。繰り返します。思考であれ、いわゆる心理的思考であれ、技術的思考であれ、数学の、物理の思考であれ、未知であれ既知であれ、部分であれ、いわゆる全体であれ、そこに差異はありません。ありとあらゆること、世界が、そうであり、自我は世界の映し絵なのです。

No.7558 - 2021/03/02(Tue) 13:17:21

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
そこでおおくの場合、その自分の言ったこと、したこと行動したこと・・・しなかったこと、で、その人が自分と思われる自分が作られるので、結果がその原因を否定するのは困難で、その自我はその自我の言動を否定することは困難です。たとえ現実にそぐわないとしても、間違ってない、正しいとして、疑うことが困難・・・それほど世界は人の空虚に食い込みます。そのようにして愚かな、空虚な自分を守る、ということです。

それでも、その自分のしたこと、話したこと、思考したことは、その自分に、そのまま分かるのです。

とくに自分を見る自分とか、自分を見る世間を、自分を見る神仏を想定する必要はないです・・・たとえば自己責任から、つまりはその自分から逃げるというだけで、嫁いだり娶ったりの、いったい何の人生だったんだ。という、そんな人がいるとして、それもその人がそうしたくてそうしてるほかには何も誰も、そうでき得ないのです。いくらそれを誰かのせい、世の中のせい、生まれのせいとしても、それはそうしてるのはその人であり、それを理解でき得るのも、その人でしかありません。

自分のことを自分で隠しても騙しても隠しても、それが自分の行動、発言、思考に現れているでしょう。その理を見ればいいのです。その人のことはその人に全権があるので、そんなことを他の誰かが指摘しても無駄だし、それができるのは、その自分です。探求は、それか最も簡単なことだし、自己観察、で十分です。

その段階があるとしての説明ですが、誰かの言動を見て、それを非難、批判する。次に誰かの言動を見て、自分をただす。そして自分の言動を見て自分を正す、ならばもう人は戻ることのない道を歩いています。これも繰り返しますが、自分を見る自分、自分を見る世間、自分を見る神仏を設定することなく、そうだということです。自分の言ったことは自分に聞こえ、したことはわかり、思ったこともそのまま分かります。

ほんとうに、自分のために生きるのです。自己主義とか個人主義とかいうことではなく、これば簡単な真っすぐな道です。ふだん人は、さまざまなことをしたり、しなかったりします。たとえば恨み、妬み、主導権争い、あまたの葛藤・・・なんであれ、自分のためにしてるのでしょう?ならば、ほんとうにほんとうに、自分のためにするのです。もちろん、自分のためにするということを掲げて、自分のためにする、ではありません。一人あって、です。理由なく、です。

No.7559 - 2021/03/02(Tue) 22:32:01

Re: 自我・世界/真我・実在 / 勘太郎
励みになります。
No.7560 - 2021/03/04(Thu) 22:42:45

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
その骨組みだけの自我の空虚を埋めるのは世界です。それはその中心、主体、自我を作ってるのは世界、ということです。自分は世界に作ってもらってるのです。なにか話す、行動する、思考する、ことによって、自分が作られるのに、自分が話す、行動する、思考すると見做すのは傲慢とか、無知とかの要素があるかもしれません。

それでもそうならば、世界が作る自我なら、悪いことをせず、善いことをすればいという面もあります。それが良い自分をつくるからです。功徳を積むという言い方もあるようです。ほんとうには、善悪は自我にはわからないでも、素直であること、誠実、真摯であること、自分を騙さないこと、それが探求の灯りになってくれます。

ついでですが、自我にあって、それは世界に作られてるのですから、仮の中心ですから、人としての主体ではないのですから、そもそも自由意志があるはずもないです。というより、自我が自由意志はないと、それがそれを感じると。自由意志についてそれでも考え得るということです。ところでここでわりと大事なのは、どっかで聞いたような結論に飛びつかない、そんなことより、どこまでも自分で素直に探るということです。ところで、

No.7561 - 2021/03/09(Tue) 17:19:16

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
おおむね自我は悪者、とされてるようです。それを撲滅しようと頑張るかもしれません。しかし自我はとてつもない大事です。自我は世界の写し絵であり、たとえば自我、世界が、すべて活動して、自我の中心がない、その仕組み、形式は虚構と開示され、変な言い方ですが、真我が現れます。

自我はそのくらい大事なので、実際、隠したりごまかしたりできるだけで・・・それもまた自我の機能ですが・・・削除は不可能になってるようです。自我は完成されなくてはなりません。その世界は完成されなくてはなりません。人為的にできることは、探求とか、悪いことをせず善いことをする、つまり誠実ということです。

No.7562 - 2021/03/09(Tue) 17:27:38

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
あっちこっち、寄り道しながら話してますが、ここはどうも難しいです。おなじ説明、言葉、思考にしても、逆転、再逆転で、たとえば、ある、ない。も意味は変移するし、一定した視点は実情に付いていかず問題ということもあるからです。

ここでの話は単純には、自我は真我の発現に必要。これだけなんですが、自分があると感じられてても、その自我の中心は、ないで・・・そしてその真我<ある>も、真我にありきって・・・ない・・・となる。のですが、これだけでまた終わるわけでもないからです。

さて、なんでも、たとえば善と悪、優劣、現れると隠す、あるとない・・・その反対のことと、無関係なこと・・・世界の総てが、機能しなければ、真我の発現は不可能なのでしょう。そこで、そのどこにも依拠できないから、中道とも、世界の総ての活動ですから、縁起とも呼ばれます。

No.7563 - 2021/03/09(Tue) 17:57:05

Re: 自我・世界/真我・実在 / hato

こちら元気です。
静岡にきて11年目になりました。

そういえば聖書に、モーセが神に名を問うたとき、主は、「わたしはある、」と言ったと書かれていました。

早春の庭に、小さなスモモ(秋姫)の花が咲きました。待望の実は3年後、・・ubik0101さんと楽しみにしています。研究ノートは、ゆっくり続きます。

No.7564 - 2021/03/12(Fri) 22:51:43
ubik0101の探求ノートから / hato
1983/6/27

私はこの世界の基準を知らない。この世界は意味なく存在している。私はこの世界に基準をもたない・・・・。
このことは真実であろうか?

No.7552 - 2021/02/23(Tue) 23:37:21

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

これは私が単に世界を理解できてないからにすぎないのではないだろうか?そして理解できない理由は、私⇔世界という理解のしかたそのものに問題がある、ということではないか。私は感覚や感情や思考を通じて世界を知り、それを知っただけ自己自身を知る。
これでは、たしかにお互いに根拠なく存在するように思えてもしかたない。

No.7553 - 2021/02/23(Tue) 23:38:01

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

これはあまりに自己中心に理解しようとするからである。もし、そうでない見方があるとして、それはどんなものだろう。

No.7554 - 2021/02/23(Tue) 23:38:41

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

ここで思い当たることは、客観的、という言葉です。

もし2つの物事のなかで問題が起こり、基準を決め得ない時、客観的に言えば・・・であるといえるとよく言われます。

これはある種の基準をまま与えることです。ある関係を、ちがう立場から見ること、それだけですでに客観的なのです。それはだから他人から見れば、とか世間の常識から見れば、とか、この思想から見れば、とか。くだんの関係に入ってはいないけれど、関わりはあるものからその関係を見ることです。

No.7555 - 2021/02/23(Tue) 23:39:38

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

けれど、この世界に客観があるはずもないでしょう。どうしたら自己⇔世界を客観できるでしょう。そうできたとして、そうすることはむろん基準を持つことなのですが、その基準が正しいなどということは、どのようにして知れるでしょうか。

この世のなにごとにも基準をおかずに自己を理解しようとする時、自己には根拠がないのを知る。しかし、客観ということはこのようなことを客観するのであり、それは、君は自己中心にものを考えすぎているよ、と言うのです。

しかし、この世のものごとを基準にして自己を知ろうとすることも、彼がいくら客観的だと信じていても、それはまるで客観的ではありません。それは単に主観の変形にすぎないことが多いでしょう。

No.7556 - 2021/02/23(Tue) 23:40:41
ubik0101の探求ノートから / hato

1982/11/17

そのもの概念。

僕は、なぜ自己が自己であるのか知りたい。すこし前まで僕はこの罠、(言い換えれば、遊び、性格、保護    )におちていた。その前提というか、要はなんだったのだろう。それは死んでも自分でありますように。しっかりと自己というものを認識してはっきりとしたものとして示せますように、という心理が働いていたものと思われる。

No.7537 - 2021/02/08(Mon) 22:11:34

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

ところがまず自己というものがあるとして、それは世界のどのようなものごととしても表され得ないということが明らかにされた。(しかし言葉による意味内容というか関係づけによって示されるところものもの形式は?)

そして(経験上ではそれ以前に)人はただ人であるだけでは決して自己ではない 決して人として生まれただけでははじめから自己ではないことを知った。それは他の人を愛すことによって人は始めて自己になるということであった。(むろんこれは僕の経歴によるものだから、これの形式が問われなければならないのかも知れないが)けれど、僕にとって副次的な思考、愛そのものとか自由意志そのものということがらから、自己そのものということを考えることに今、なっている。知性そのもの、惰性そのもの、感情そのもの、感覚そのもの。このそのものというのは、それ自身がそれ自身においてそれ自身として語りだすものとしてしか示されないと、ばくぜんと思われる。

No.7538 - 2021/02/08(Mon) 22:13:23

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

ところが、これらそのものは、実にそれが認知されるのは、それがこの世界、現実と接触して働きとなったその働きと分離して考えることはむつかしい。
(一般に知性といわれる場合、知性そのものと、知の内容つまり知識とその有り方とは分離されて考えられていないように見える)

No.7539 - 2021/02/08(Mon) 22:14:11

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

つまりそのものとは、何かよくわからないけど、とにかく何かであって、内容(つまり対象との運命のなかの現実とか)を含まないでもなんだか有りそうで、でもなんとなく証明できそうではないななんて感じにもさせるものに感じられている。

もし、このそのものということがないとしよう。するとそれは自己がないということとおなじです。けれど、僕はこの自己を感じている。感じていることが誇りであるかも知れない、にしても、それを知りたい。

No.7540 - 2021/02/08(Mon) 22:15:11

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
この前提はなんであろうか?僕はふだんけっこう幸せにくらしていて、生きてる楽しみを味わうにかけてはかなりの達人なのだけれど、その日々のなかでふと、やはり、まだ不足のものを感じることがあって、それが僕に努力を強いる。いま死んだら、おまえは最高に励んだわけじゃない、と。ブッダにならなくて、よいのかと。
No.7541 - 2021/02/08(Mon) 22:15:45

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
12/5

僕が生きている限り、僕は物に執着しないでいられる。いいかえれば、生きている限り、僕は僕自身である。人はだれでもと思うけれど、いつも、すること、考えていること、そのものごと自体に自我を感じるのではなく、常に、その背後に、なにごとか行っている、その、背後に自分を感じている。人はそうでない有り方は死んでなきゃできないから、なにごとか行うことによって、それの背後に自分を感じる、といってもいいかな。この背後というのも変な言い方かも知れない。こちら側に、とか、目の奥に、とか、そんな感じ。体のこちら側に、感覚のこちら側に、意識のこちら側に。この何かよくわからないけれど、とんかくこちら側にある(らしい)自己に自己は執着する。自己であろうとする努力が誤って対象や感情や心やらを自己と誤らない限り、それらを明らかに自己でないと知れる、ところが僕にしてみれば、只今僕が僕であるしかないにしても、このとらわれないことは僕が僕であることのアイデンティティなのである。
(これは多分に物事ごとを考えようとする時だけかも知れないにしても)
僕は僕自身に、自己は自己に強く執着する。ゆえに対象や経験にはあまりとらわれない。まさにまったく自己であろうとする時、自分がお金持ちであることや、有名人であることや、仕事ができることや、なんやかんやで満足できるだろうか。しかしそういうこととしてしか自己を確かめ得なかったことに僕の苦痛はあったのだなと思いかえしつつある自己。

No.7542 - 2021/02/15(Mon) 11:03:56

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

さて、このような自己そのものであろうとする自己。それさえも依存関係によって生じたもの、と仏教ではいいます。すべてのものごとの背後にあり、あまりに明確に感じられるこのものについても。依存関係を見ている、その背後にあるものさえ、依存関係による
と仏教ではいいます。これは確かに理解しがたいことです。けれど

No.7543 - 2021/02/15(Mon) 11:04:49

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

12/15

それを通じて自己を主張できるものほどのものなどこの世界に存在しない。とらわれのない規制されてない、十全の自己であろうとする時、自己はこの世のなにものにもよりどころを見い出さない。
このように自己自身であろうとする時、この世のものごとによりどころを見いださないということが生じるとしたら、よりどこを見いださなく努めるということは、つまり、自己自身であろうとする努力である。
すべてこの世界のものごとは自己でないと考える時、このものごとのこちらがわにある自己である感じは強まる。
このこちらがわにあると感じられる自己があまりに明確に感じられるのが問題であった。
この世界は依存関係に支配され、その本質は知られざるもの(それを通じて自己を認識しようとしてもできないようにしくまれている)ことはダ当なことです。しかし問題は自己。依存関係のこちら側に感じられる自己も依存関係に支配されているのではないか?

No.7544 - 2021/02/15(Mon) 23:27:11

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

たしかに自己自身だって人間としての運命のただなかに在るということはそのことを示している。いや示していないとはいえない、というところである。
感覚対象は燃えている。感覚は燃えている。感情は燃えている。心は燃えている。そして無明に燃えている。

これあるゆえにこれあり
これなきゆえにこれなきなり

仏陀の場合、その根底には無明がおかれる。無明=無知、つまり知られざるものという認識だとしたらその式は成立する。けれど自己はここでは全然限られていない。

自己は全然語られていない。

この世のものを通じてそれを現すすべは全くないけれど、あまりにはっきりとしているもの、自己。

これについて語られていない。


「自分自身を愛すようにあなたの隣人を愛せ」

No.7545 - 2021/02/15(Mon) 23:28:14

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

あなたが良いこと悪いことをしてもいつも神さまが見ていますよ。こう教える親というのは自己がないのであろうか?教師の資格がない。
行いは神が見ている。神が見てなくても自己が見ている。これが当たり前だと思う。

No.7546 - 2021/02/15(Mon) 23:36:10

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
12/21

たとえば、人がとある人に対しての愛情表現として、何か贈物をするとか、何かしてあげるとか、そういうことしかできない。それは単に自己はこの世界のものを通じては表現できない、ということを示すのではない。上のような事実があるということは、人と人との関係がまずそのようであるということは、そのようにしくまれているわけで、そこには確かな理由があるはずである。

No.7547 - 2021/02/19(Fri) 23:32:55

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

ほんのちょっとした心づかい。まったく行動的には人のために行うそのようなこと、まったく人のために行うこと、それも実は自分がそうしたくてするのだ。道にツバを吐かない、床がぬれていたらすべらないようにふく、ほとんどの人のために行うことは、自分がそうしたいからなのだ。この自分がそうしたいといことに気付くということ。人の心のうちにはみずからすすんで人のために行いたいということがあるのです。「すべての恋愛は自己愛です」これは雑多な愛を見て、そこから帰着して言っている。けれど、実際にはそうではなくて、自らすすんで人のために行いたいということが自らのうちから発せられるのです。ここでようやくこの僕という身体のなかに発動する自己を見ることができる。つまり他人の近くにいることができる。

No.7548 - 2021/02/19(Fri) 23:34:17

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

自己自身であろうと努力することが激しければ、この世界のどのようなものにも自己のよりどころをおかない。そして他人との関係を完全なものであろうとすれば、感覚や心の動きで満足しない。

No.7549 - 2021/02/19(Fri) 23:34:47

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

1983/1/2

人はこの世のものごとを通じてしか自己を知ることができない。けれど自己はこの世のものごとを通じては知ることはできない。これは理不尽なことである。そうならば、これには理由があるということだ。

No.7550 - 2021/02/20(Sat) 23:00:20

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

3/25

神は悪魔よりも悪い。

ひとは根拠なくこの世界に生きている。だからどうしてこの世界のものごとに執着して自己を知ることができるだろう。はっきりいって、知ることができないのが当たり前である、ということだ。しかしならばなぜ、この世界が存在するのだろう。

No.7551 - 2021/02/20(Sat) 23:02:06
ubik0101の探求ノートから / hato

1982.9.2

この世が現実であるかどうか、決して誰にも分かりはしない。(この現実という言葉が何を示すにしても。)なぜって、夢の中で、僕ら、これは現実だと何度も確信したことがある、それでそれがリアルな夢であると分かったのは、覚めて後、それを思い出したからである。では、夢だって現実なのだ、見てごらん。夢を見ている人は、眠ってそこにあるではないか?と、こう考えられもしましょう。けれど、僕は現実感というものは、(単に)見る対象、見る感覚、見る自我がはっきりしていることに由来するものではない。それは(単に)この世に、自分の知らぬことが在ることに存すると思います。

No.7515 - 2021/01/02(Sat) 23:50:40

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

つまり僕たちは、考えるにしても、覚じるにしても、生きている間中、自我中心に、見られたもの、考えられたこと、覚じられたものの対象⇔自我のこの関係のなかにつかってそれらの中でそれらについての考えを引き出すということをいつもやっています。(それは単純に、例えるなら相対する2つのものごとしかない場合、それぞれの是非、良悪などは決して判定がつかないということが示しますように)それは全く何の確実性もありません。おぞましい人生です。しかし知らぬものがこの世にあると思うこと、それは自己中心から外れ、(それは特に外に積極的に働きかける考えではありません)この生きることを補正する働きをします。おなじように唯我論は論破できないとも言われます。これも自我の知らぬことをあることを示せばよろしい。この世界をつくった者にどうして、自己の知らぬことがありましょう。(むろんそういうことは、考える者の間には、あるということは、知られているでしょう。けれど、それはその自己が単なる無知の下にあるということです)ま、唯我論にしても、自己と世界との関係から出発する考えのすべての論者に対しても、それを論破しようとすることは、僕にとっても、どうでもいいことです。でも、なんて、苦しいおぞましい、生き方を彼らはしているのでしょう。(自由落下状態にあるロープを上に向かってよじのぼっているようなものです)
何かについて考え、結論を欲す時、(自己とは何?、愛とは何?)多くの場合、正しい前提から出発しなければいけません。でなくては、それが誤っているのは、誤った前提から出発したからであり、さらにそれは誤った心から出発したからだ、ということを示されてしまいます。

No.7516 - 2021/01/02(Sat) 23:52:40

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

しかしこの世についての観サツから得られるものは、決してそれが正しい前提であるか否かのそもそもの始まりからして不明です。あきらかに無知です。けれど考えることはこのような無知から出発するにしても、多方においては、問題の解消に到るによって、むくわれます。つまり現実のまっただなかから人は現実と対とうな立場にまで、考えることによって、自己のその無知からぬけ出ることができます。(これが、この世を自分自身でつくっておいてもこの世に知らぬこともある、ということの有り方です。)だって、そうではありませんか。唯我論は正しくもあるのです。
人はこの世をつくっているのでなくて、なんで、人であるでしょう。また、自己ケンジ欲、知識欲のあることは何故か、ここからみてみると。それは、自分の知っていることから世界をながめたいということは、現実とは何かという問いかけをしたくない、つまり無知の中で暮らしたい、つまり唯我論者でいたいということを示しています。この世界を理解
すれば、つまり世界⇔自己の関係の中でのみ考え得ればしかし実際には、世界⇔自己の関係を意識し、知っていること、そもそもそれはほとんどないに等しい微細な0。世界は知らぬことで満ちているのです。
この知らぬことで満ちている世界
世界⇔自己の関係は無知から始まります。それに対する知らぬものを、その名の通り、知らぬものです。
どちらにしても、世界は知られざるものです。
知られぬものは計ることができません。
すると、自己も世界も知られざるものであると、
言ってよろしいでしょうか?

No.7517 - 2021/01/02(Sat) 23:54:59

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

9/3

知られないものは、測られないものであり、その本性からに永遠のものです。また永遠のものは、知られないものです。逆に知られたものは限られたもので、限られたものしか知ることはできません。けれど、知るといっても、それはそのようにしてであって、本質的
に知る、ということはこの世にはありません。

No.7518 - 2021/01/04(Mon) 23:36:50

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

この世に意味のないものがあるかどうか考えてみましょう。
するともちろん、意味の生じるのは、そこに依存関係のあるからであって、この世に意味のないものは、ないということになります。
けれど依存関係とは、その根本が知られざるものです。いつまでもどこまでも連なっていく関係ですが、その有り方そのものこそ、無知を示しています。つまり意味の意味は知られないものなのです。しかも意味のことを考えることはもともと自己⇔世界のなかにひたって考えてあるのです。知ろうとすることの原因がもともと、依存関係のなかでしか保てないような、なんだかのショードウに在るからです。
人は、もちろん意味のないものを知っていることもあります。世界は、そこから人が意味を汲みだそうとしない限り意味なくそこにあります。ある人が青森という土地を知っている。これは青森には意味がありません。つまり意味のないことを知っているのです。
これは依存関係のなかに入られる意味が生じないことと、意味のない依存関係もあるということです。

僕は自己が何であるか知らない。

No.7519 - 2021/01/04(Mon) 23:39:06

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

すると依存関係といっても、いろいろあることになる。あるいは依存関係の形式であるものがすべてそうだとは限らない。

あるいは具体的な宇宙は無限であり知られない。
そして自己も知られない。この知られないことにおいてこの両者は関係があるか?

あることを知らない、ということに意味があることもある。

ここで意味が

No.7520 - 2021/01/04(Mon) 23:41:03

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
9/8

いつも人は肉体的にも自分の目というものを中心に世界をながめ、自分の頭というもの中心に世界を考えている。
けれど、知られざるものがここに登場し、かえって、(自己⇔世界)の考え方もその根本は無知(いまだ知られてない)という、右を向いても左を見ても知られざるものの(なか?)に自己は(在る?)(といってもそれさえ無知)という非常に気分のよい状態になったのであった。
けれど、それも少し分析してみると、依存関係にもいろいろあって、(というより、)そもそもそれは何なのかまだ僕には知られていないことに気付かされた。

No.7521 - 2021/01/15(Fri) 11:30:02

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

因果関係、依存関係、名称と形態と呼ばれているものは、それは何であろう?という問が立てられた。

時間的なそれ−因果関係

(自己⇔世界)の関係のなかにある時、人は、あるものごとについてもそれについて判定することができない。するためには、とにかく、何か判断してしまって、判断してしまったことによって世界から規制されて自分を判断されること、時間というか人の運命の変化によって結果的にその時点での白黒をつける方法などがある。このような状態では、「すえべてのものごとには結果と原因がある」と聞いたところで、単純に時間に関する因果関係−(そういうものが何か考えられるかい?)と、自己に関する依存関係が区別つきがたい。(自己⇔世界)のなかで自己であろうとする不純な動機のただなかで、時の流れに応じて自己を知ろうとする空しい努力こそ依存関係と呼ばれるものである。

No.7522 - 2021/01/15(Fri) 11:31:00

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

そこでは、自己はこの世界を対象にし、その対象にしたもの(のなんだか)を自己自身のごとく思い込みたいという欲求が見られる。けれどこれでは、自己は何?の問に決して答えられない。本質的に自己を明らかにされない仕方でそれはある。
そのような依存関係のまっただなかで、(さらに)考えられた依存関係というのがある。それは他人を多くはモデルにする。それは人と人との関係による依存関係を見ているのである。そして自己と(空間的)対象との依存関係。
つまり、世界→感覚→意識→自己、(対象性が不可解なのは、すでにサーチライトで対象を照らしていることによる)である。けれどどちらも自己を明らかにしない。
ここで注意すべきは、単なる時間的な依存関係、そして空間的依存関係というものは、それが依存関係のスタイルであろうと、依存関係とは呼ばれないことである。あるいは時そして、空間のなんだかの分析ができそうなところに今ある。

他人を観察して得られる依存関係
自己を観察して得られる依存関係

No.7523 - 2021/01/15(Fri) 11:32:18

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
9/12

自己であろうとする(深まった)努力によって依存関係は生じます。この世のまっただなかで生きているかぎり人には明確な基準というものがない、従って、とにかくわけもわからず何かを決めつけることによって(自己を反って規定してしまうこと)、運命という時間的ケイカを利用した判断などによって、無理やりに自己を知ろうとすることがよく行われます。

No.7524 - 2021/01/19(Tue) 14:11:58

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

これは常に誤ります。(たしかに伝わっていくものというこの世の在り方のひとつを利用して、しかも自己というものが存在しないかぎり、そんなこともできませんが)(それは自己をそのような形式のなかに閉じ込めることであり、それを依存関係と呼びます。これから逃れることはかなりむずかしいのです。自己は知られないようにできているのを知るのは、(多分私がそうであったように多くの場合)、以上のようなことを知ることによってです。知りつくすことによって、自己は知られないようにして在るものだと知ります。そして世界も知られざるものです。ふり返ってみれば、自己とは何?の問が立てられるのは、人が死を意識するからに他なりません。たとえ死んでも自己であろうと欲すことが自己とは何?と問わせるのです。死ぬ者が、この世のものごとによって自己を知ろうとすることは、かなりコッケイです。死ぬ者が、知られざるものであるということは(そもそもこの世と関係なくあることを示さないでしょうか)死ぬことによってこの世と関係なく在り、それ故にこの世では知られざる者であると?

自己とはこの世では知られることのないものとして在ります。

No.7525 - 2021/01/19(Tue) 14:14:20

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

で、もうひとつの考え方があります。対象→感覚器→感覚→意識→  この→印は文字上でのみ一方通行として示される。特定の対象が考えられており、目などの感覚器を通じてあらかじめ←がある。と考えられるけれど、思いがけない出来事においては・・・

けれど、この→印をずーと探追しても、自己には至らないのではないか。例。きれいな女の子がいて、(対象)それを目(感覚器)で見て、きれいと思う(意識)それで恋心を(感情)を持つ

No.7526 - 2021/01/19(Tue) 14:15:51

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
9/13

さて、意識→この後にくるものは何であろうか?
もちろん自我と言いたいけれど、そうではない。(対象⇔意識)総動員で自己を知ろうとする努力、つまり依存関係によっても自我を知ることができないように、これは、すぐに→自己とはならない。(自己とは常にそれらの背後にあるものとしてばくぜんと感じられている。)けれどこの意識→を意識する時、(人のことは知らんけど)僕は、常に現時点を意識する。依存関係を考えている時のように、あの時、この時を思っているのではない。つねに現在に身を置いてあり、かえって、→(意識→感覚→対象)という感じで在る→(意識)の  の部分がどうやら自己という感じのするものであることは、ふだんの生活からしてみんなそうなんだろう。このリアルな時としての、あの時とこの時の自己

No.7527 - 2021/01/19(Tue) 14:17:35

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
11/16

なぜ人が自我でもない、この世のとあるものに捉われ、執着でき得るか?これは不思議です。自分自身によって罠に落ち、また、そうでなくては何かを自己であるかのように思ったり主張したりすることはできませんが、仏教では、それは見解といい嫌います。僕もその通りだと思います。

自己も世界も知られざるようになっている。このことを更に検討しなくてはなりません。

No.7528 - 2021/01/24(Sun) 22:48:43

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

これによって自己がはっきりとしたわけでもないからです。というのは、これが物事の形式(たとえば遠近法)のようなもの、であるかも知れず。
依存関係の分析によってもそれを分析している自分たとえば「知られなくあります」とこういっている僕、それが、わりとしっかりと感じられ、それが問題でもあるからです。
知られなく有っても、有るのでありますから。「知られなくある」というのは認識の形式、つまり概念であり、それはとある罠からの脱出を示しているだけかも知れないと疑うからであります。罠を理解するには、それにかからねばなりません。その痛みのなかで罠そのものの構造を分析すること。そして罠の外でそれを見ることなどの方法があります。

No.7529 - 2021/01/24(Sun) 22:49:46

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

前提という考え方は、罠にかかってる人にとっては重視している言葉です。どんなに正当で理論的でちづぢょ正しい言動と思われても、前提が誤っていればすべて誤りです。そしてふつう人は前提になっているものを意識はしていますが、全然見てはいません。それが罠なのですが、そのなかでこそ多くの場合自己が主張されたりも我が張られたりします。
(そして仏教によればすべての前提は誤っているのです)その論拠になったりするものがこの世の有り方や、何かがかつてあったからとか、他の人の言動、つまり単なるこの世界のなかのとあるものです。これだけを見ても、自我でないものを自我のように主張するのはなぜか、不思議なのです。

No.7530 - 2021/01/24(Sun) 22:50:59

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

僕個人でいいますと、世界のどのようなものも主張する自我たり得ません。それははっきりとしています。けれど僕はまだブッダではありません。罠にとらわれている者を見ることができます。そして罠から脱出する方法を示すこともできそうです。でもどうしたら罠にかかることができるかまだ知りません。たぶん子供のころからか生まれつきか個人としてはいつのまにか罠にかかっていたのかな?と思うていどです。おざなりの説明ではいけません。それと、知られざるにしても自我は在る、このことが僕の多分罠であれば、その痛みのなかで脱出せねばなりません。なぜなら行手には 生と死 ブッダになりたいという願いがあるからです。

No.7531 - 2021/01/24(Sun) 22:52:21

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

たとえば、「神の存在を問う」。これはもし神が在れば自分は悪いことをしてはいけない、というより、神なければどんなことをしてもいいのではないか?それを確かめたい、ということです。というのは実は誤りです。問うことは(今僕は問いませんが)その者の問であり、僕はブッダになりたいというそのようなことがらとして行われるのです。
けれど上記のようなユーワクのなかに落ちやすいこともあります。あるいは、あきらめて問わないかが多いのです。問わないから罠に落ちるのです(ここでは)問うから罠に落ちるのではないく、罠に落ちていることに気付くのです。

No.7532 - 2021/01/25(Mon) 23:47:45

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

愛について。ひとは愛を感情だと(つまり強度の恋、あるいは、そこはかとない恋)のように、また、愛という感情のように思います。また逆に厳しいものであるとしたり、また理性やら誠意やらとします。けれど、それはすべて誤りです。というより、それであってよいもの、でもあるというものです。愛は感情ではありませんが、そうであってもよい。行為ではありませんが、そうであってもよいもの、理性でありませんが、そうであってよものです。では、愛そのものとは何か?当然この問はなされます。それが確かでなければ、それは、そうは呼べないこと。

No.7533 - 2021/01/25(Mon) 23:48:26

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

僕は「そのもの」を問うくせがありすぎるのかも知れません。しかしその前に少し、「自由意志」について考えてみましょう。3,4年前、この言葉を聞いた時、その言葉があるということだけで僕は驚きました。
自我はすべてこの世の有り様に従っていて、自我を世界と分離できず、「自由意志は幸福を求める」などとありますと、とある働く機能のことのように見えてしまいますが、実は、動機に近いものであり、(決断でき得る)ということにほとんど近似なのです。こう書くと自由意志はものではないように見えます。けれど、自由意志そのものも問われてしかるべきものです。

No.7534 - 2021/01/25(Mon) 23:49:12

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

では不思議です。愛そのもの、自由意志そのものを問うとは。そのものが多数あると思うのは不思議です。そのものと、そのものとの関係を問わねばなりませんでしょう。

No.7535 - 2021/01/25(Mon) 23:51:38

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

「知られざる有る」ということが形式であれば、つまり自己の違う認識法があるということになるかも知れないからです。
いかし、それを認識したとて、それもまた形式でしかない?と今から思うのは?です。(それは今の判断でしかないのです)

No.7536 - 2021/02/01(Mon) 23:10:45
以下のフォームに記事No.と投稿時のパスワードを入力すれば
投稿後に記事の編集や削除が行えます。
100/100件 [ ページ : << 1 ... 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 ... 20 >> | 過去ログ | 画像リスト ]